快速電車が止まった駅には、名前なんて無かった。改札も無かったし、なんならホームも、券売機どころか、ベンチの一つさえ無かった。
つまるとこ、なんにもなかった。
俺達は刷り込まれた経験により、電車が止まるなら、そこは駅だと認識する。
駅だから、止まる――という条件文が、いつの間にやら脳内で逆転してしまうのだ。
それゆえ、俺は電車から降りた際に真っ先にあるはずもない、駅名の記された看板を探してしまった。
どこまで来たのか、来られたのか。それを確認したかった。
だが、俺が目にしたのは一面に青々と広がる、のどかな田園風景だった。
ぽつぽつと点在する農家の和風住宅の合間に、清流のせせらぎ。ずっと遠くに敷かれた幹線道路を走る車のライトは、まるで祭りで見かける提灯の列のようだ。
秋の夕暮れは暗闇に近づきつつある。太陽の落ち行く山間は、黒の濃淡で表された。
いったい今は何時ごろだろうか?
充電する余裕など無かった携帯端末は、いつの間に電源すらつかなくなっていた。
こんなことなら、いつか秋葉に言われたように、自分の腕時計くらい買っておけば良かったと、どうでもいい後悔が湧く。
「うーん……。やっと、降りられた」
ずっとシートに座りっぱなしだったせいか、身体が凝ったらしい。ノエル先生はしきりに足腰を曲げ伸ばしている。
なにせ、十四時頃に乗り込んだ電車だというのに、日が暮れるまでノンストップだったのだ。快速にしても急ぎ過ぎである。あまつさえ終着駅がこの何も無いド田舎ときた。
日本広しといえども、こんな乗り継ぎの悪い電車には微塵も需要は無いだろう。
これからどうしたものか、決めあぐねて、ノエル先生と二人、ぼうっと立っていると、背後で電車が動き出す気配がした。
ごぅん、と腹に響く重低音を立てて、車輪が駆動する。
振り返った時にはもう遅く、まさしく取り付く島もない速度で、それは線路をがたごと鳴らして行ってしまった。
その去りゆく後ろ姿。淡い夕日に照らされて、虫食い状に崩壊した車体が、やけに真白く輝いて見えた。きっと、窓ガラスや車体を構成していた鉄鋼の名残だ。
「スクラップ行きかしら?」
ノエル先生が、心にもないことを口にする。「可哀そうに」
「でしょうね。……行きましょう」
歩き出したものの、行く当てなんて特に無かった。
先生なんだから、先導してくれるかとも思った彼女は、しかし俺の隣から離れなかった。
俺が転んだ時に、すぐに支えられるように、という理由に気づいたのは、だいぶ経ってからだった。
「痛くない?」
先生はしきりに俺に声を掛けた。
「休みたくなったら、遠慮せずに言ってね。君はただでさえ、頑張り過ぎちゃうんだから」
「大丈夫ですよ」
俺は決まって同じ答えを返した。
「まだまだ行けます。日が完全に落ちる前に、もう少し距離を稼がないと」
先生の反応も、また同一のパターンだった。「そう、分かった」少し寂しそうに、微笑む。
道中、あまり会話は無かった。
雑談のネタが尽きたわけじゃない。ノエル先生と話したいことは、たくさんたくさん……どれだけの時間があっても足りないくらい、山のようにあった。
実際、電車に乗り込んで、はじめのうちくらいは周りの乗客が眉をひそめるくらいに、二人して大はしゃぎしていた。
「ねぇ……痛くない?」
また、先生が俺を気に掛けている。「大丈夫ですよ」同じ答え。
「本当? それならいいんだけど……」
いったん矛先を収める。
そして十歩ほど進むと、また「痛くない?」この調子である。
悪気があるわけじゃない。むしろその逆であることは俺も重々承知の上だ。
でも答えるたびに、こっちの心にしんしんと黒い物が降り積もっていく。
「ほんとに……痛くない?」
「大丈夫だって言ってるじゃないですか」
自然と、言い方がきつくなった。「ごめんね」 即座に謝られる。
気に病んでいることは、うすうす察しがついていた。
たぶん今になって――もしくはずっと前の段階からそうであったが、ついに誤魔化しの限界を迎えたから。
自分の死出の旅に、俺を伴っているという罪悪感。それが彼女を急かしている。
「ごめんね……」
「謝らないでくださいよ。先生は何も悪くないって、あれだけ言ったでしょう。
俺が怪我したのも、ここへ来たのも、全部俺の勝手で、俺の責任です」
「でも……でもやっぱり」
話を換えよう、と思った。この問答は結局、答えが出ない。
真実、どっちが悪いなんて、神様でもなければ分かるはずない。個人的にはそもそもどっちも悪くない。
しかしそれでは、ノエル先生は納得できないだろうから、便宜上、俺が悪者ということにしておいた。
にもかかわらず、贅沢な彼女は罪悪感すら払拭したい、と言うのだから困った人だ。
まぁそういうところが可愛いのだが、これは恋人である俺にしか理解し得ぬ、いわば高尚な精神の賜物である。あるいは高度な訓練の成果。
有彦あたりに相談したら、きっと「ソッコー別れろそんな女」と一喝されるに違いない。
「先生、あっちに休憩所が見えます。とりあえずあそこまで行きましょう。自販機もあるみたいですよ」
「うん。あ、私、小銭たくさん持ってるよ。何にするか、今のうちに決めといて」
――なんて、さも健気な彼女を演出しようとしてくる。正直、辛抱堪らなくなって、少し脚がもつれた振りをして、身を寄せた。
「わ」
「すみません、その前にちょっとだけ、休ませてください。すぐに歩き出しますから」
地平線が陰る。もうすぐ日は落ちる。宵闇が来る。
休憩所と俺は表現したが、近づいてみれば、案の定、そんな御大層な代物じゃなかった。
ささくれの目立つ木製のベンチに、これまたペンキの剥げたトタン板の屋根が備わっているだけ。
すぐ傍にバス停……と思しき、赤錆びに覆われた金属棒が立っていることから、元は待合所だったらしい。
廃線となって久しいのか、周囲には人影どころか民家の一軒さえろくに見当たらない。
もうすぐそこまで来ている夜の気配が、道路沿いをびっしり埋める木立を、一面の黒に変えている。
その浸食に、弱々しい抵抗を示しているのが、屋根についた黄色の蛍光灯だった。
今時、実に珍しい旧式電球で、季節外れの虫の軍勢が果敢に特攻しては、ばちばちと盛んな音を鳴らした。
「俺は紅茶で。先生は?」
「私は……何にしよっかな? 志貴クンが決めて?」
そう言う自分は決めていなかったのか、と少し呆れる。
待合所の自販機も、これまた一昔前のデザインセンスとラインナップで、真っ白な光に照らされた商品群は、どれも一癖も二癖もあるものばかりだった。
「どろり濃厚桃味ジュースってなんだよ……。聞いたことも無い」
「じゃあそれにしよっかな」
よせばいいのに、先生は俺が興味本位で指さしたジュースを押した。
取り出したそいつはアルミ缶ではなく、紙パックの容器で、ストローが横に糊付けされている。
……そのストローのサイズが大人の人差し指ほど太いのだが、本当にいったいどういう飲み物なんだ?
それはさておき、二人でベンチに腰を落ち着けた。
俺の懸念をよそに、先生は美味しそうにジュースを飲みほした。朝食の際のプリンの一幕もそうだったけれど、この人、結構な甘党なのかもしれない。
「志貴クン、身体は……どう?」
俺が紅茶のペットボトルを半分ほど飲んだあたりで、先生がまた攻勢を再開した。仕方なく応戦する。
大丈夫、と返したところでエンドレスリピートに入ることは確定事項なので、変化球にしてみた。
「すごくヤバいです」
「どこが!? 見せなさい!」
言うが早いが、俺に掴みかかろうとしてくる先生。その彼女をすんでのところで押し留めつつ、言葉を足した。
「朝からずっと頑張ってきたんですよ? そろそろご褒美があってもいいんじゃないですか? だいたい昨日のカラオケの時から、ずっとお預け喰らってるようなものですし」
軽い冗談のつもりだった。
真っ赤になった先生が「もう!」とか何とか言って、座り直す。それでもう一時間ほどの時間を稼ごう、そういった企みである。
実際、アパートに二人でいた時の彼女は、終始そんな調子で、俺をいなしていた。だからこれで上手く流せる――そのはずだった。
「いいよ」
先生の突進を止めようと、伸ばしていた右腕を逆に握り返され、そのまま胸元へと誘導される。
「ちょっと――」 反論する間も与えられず、素肌の体温を感じられる場所まで、すっぽり包まれる。
「しよ」
「い、今ここで? 外ですよ」
「君がしたいって言ったのに」
「そうは言ってません。我慢できないと言っただけです」
「どこが違うの」 「全部です」
一進一退の舌戦をしつつも、腕の脱出を試みる俺だが、力の差は歴然としていた。むしろ、より深く、より熱い地点へと更に引き込まれていく。
「まだやるべき事があるんでしょう? 全部終わってからって、そう言いましたよね?」
「ごめんあれ嘘。やるべき事があるのは本当だけど、いつ終わるかなんて分からないし。そもそも終わった後に、私と君が終わってない保証がまず無いし。
ならその前にやりたい事、やっといた方が良くない?」
「そうやって、事あるごとに自分の発言をひるがえしてたら、その内、誰からも信用されなくなりますよ」
「君は信じてくれるんでしょ? 縛って溶かして、刺しても好きだって言ってくれたんだもの。今更よね?」
「斬新な開き直り方ですね」 「残念ながら君ほどじゃないわ」
――にしても弱った。過去の自分の行いに論破された。どう取り繕ったものか、俺が悩んでいる間に、先生は着々と準備を進めていく。
とうとう夜風に素肌を晒した辺りで、先生は停止した。そうまでしておいて、最後の一線は俺から越えさせたいらしい。
どこまでいっても臆病というか、強欲な人だ。どっちつかずで、どっちも欲しがる。
「どうして」 潤んだ瞳で訊かれる。早くしろとせがまれている。
俺だって無論、嫌ではない。男としてはぜひそうしたい。
だが、理性の切れ端が警鐘を鳴らしている。結局、彼女のそれら全てはただの破滅願望だ。
落ちて、砕けて、壊れて消えたい。そうなる前に、愛し合いたい。
「ダメです。……俺はもっと先生を大切にしたいんです」
この否定は良く効いた。先生はやっと、俺の腕を解放してくれる。
乱れた自分の服装も整えた。何事も無かったように、正面――暗闇となった歩道の向こうに、視線を戻す。
「ごめん。どうかしてた」
「俺こそすみません。変な冗談言ったせいです」
「ううん。分かってたのに、無理やり乗っかったから。
……ちょっと頭冷やしてくる。待ってて」
先生は空になった紙パックをゴミ箱へ放ると、その足でとことこと脇道へと逃げて行った。
呼び止めた方がいいかと思ったが、止めにした。そうはいっても、ノエル先生は俺より年上だ。あまり下手に気に掛けては、プライドに障りがあるだろう。
「はぁ。なんだかな」
正しい判断をした……自信は無い。逆に、傷つけた自覚はある。
態度はともかく、先生の言葉は一部正しい面もあった。
俺も先生も、残された時間は数少ない。かりにも恋人ならば、最後に触れ合うくらいしても良かったのでは?
堂々巡りの思考が続く。先生はなかなか帰って来ない。
視線を彷徨わせていると、休憩所の一角に埃を被った時計を見つける。時刻、午後七時半を指していた。
―――――――――――
注)視点変更
バスの元、停留所から、かなり歩いた。蛍光灯のか細い明かりが、もう十分離れた――彼の視線が万が一にも届かない地点にまで来た。
何度も振り返って、絶対に決して自分の姿が、その視界に入らないことを確認したのち、その場にうずくまった。
声を押し殺して泣いた。そういった音さえ届かなくなるような距離にまでは、離れたくなかったから。
この頃、泣いてばかりだな……ふと思う。昨夜もそうだったし、朝もそうだったし、ここへ来る道中も半泣きだった気がする。いつからこんなになったのか。
もう一生分泣いたんじゃないか?
故郷の街で地獄の責め苦を受けた時も、修道院で精神の擦り切れるような苛めに遭った時も、再会したシエルに凄まじい体罰指導を食らった時だって、こんなにめそめそはしていなかった。
自分で言うのもなんだが、逆境に強い人間なんだと思う。……いや、それは言い過ぎか。だって強敵からは真っ先に逃げるタイプだし。
苦しみを上手くやり過ごせる人間……と直せば、それっぽい? うん、それが正しい。逃げるなり、諦めるなり。様々な方法で、艱難辛苦を遠ざけてきた。
その適当な誤魔化しが、効かない人に巡り合った。正面からぶつかり合って、横や後ろに躱させてくれない。
結果、これまで逃げ隠れしてきた脆い情動が、玉突き事故でボロボロにされる。
「こんなはずじゃあ、無かったんだけどな……」
悪夢から覚めた瞬間は、彼を本気で守りたいと決めていた。何があっても退かない、命尽きるまでやりきってみせるなんて、その気になってた。
でも、アレはない。いくらなんでも、ない。
車内から見えた、恐ろしき真祖の戦う姿。
自分よりもずうっと強く、経験の長い代行者数十名を子ども扱い。司祭代行の妙手もまるで通用せず、彼らは燃えるゴミのように掃き散らされた。
アレを、どうにかするだって? バカじゃない?
気合でどうにかできるのなら、シスター・ノエルはとっくにこの世の救世主として君臨している。生意気な年下の上司なんて、指先一本で僻地に左遷だ。
劣等感はすぐさま罪悪感となり、募った申し訳なさがこねくり回されて、いつの間に性欲になってた。その顛末が、停留所での一幕である。我ながら頭がイカれていると思う。
初めてが外でなんて、一般的な感性を持っているなら唾棄すべき行為だ。
「ほんっと……心の底から、ダメ人間だなぁ、私」
少しの勇気を得たと思ったのに、それを自ら捨ててしまう。
力が無いから。この身に、もっと力があれば。
シエルほど圧倒的じゃなくてもいい。せめて、ほんの少しでも。彼に降りかかる火の粉を払う、力があったなら。
「悔しい……。悔しい、悔しい! 悔しいぃいい!」
泣いてた声はいつしか怨嗟になった。どうして、どうして、どうして……。いつものように回り始める問いかけ。
――どうしていつも、こうなるの。
何を掴みとろうとしても、力が無いために取りこぼす。
「もしかしてそれ、ツッコミ待ち?」
地面を殴りつけようと振り上げた腕を――誰かに握られた。「え?」 振り返る。あの女が、そこにいた。
「お嬢ちゃん、ちょっとそれは無いんじゃない? そんなにたくさん持って来といて、力が欲しいはワガママが過ぎるでしょ。いくら温厚なアタシでも逆鱗撫でられちゃたんだけど」
「あ……あああ」 怖くて恐ろしくて、声が震える。まともに喋れない。
「あーもう、泣かないの。男を引き寄せるにはいいけど、それ同性には完全逆効果よ? あなた、クラスとか職場でだいぶ浮く系の女でしょ」
「はな、離して……。止めて」
頑張って振りほどこうとすればするほど、かえって絡み付いてくる。まさしく蜘蛛の糸。さながら今の自分は、巣に囚われたか弱い蝶々といったところか。
「いや自分を蝶々って……ねぇ。御年二十七歳でそのセンスは……。
志貴チャンの苦労がしのばれるわぁ……。あ、驚かないでね? 友達に読心とか得意な奴がいて、大抵のことはびびっと受信しちゃうの。
だ・か・らぁ、お姉さんに隠し事とか、不意打ちとかは基本一切通用しないと思って、ね?」
「しんっ……死んだんじゃ……!」
「き・か・ないって言ったでしょ。黒鍵一本でどうにかなるほどヤワな身体作ってないから。
あでも? 扉開けた瞬間いきなりばぁん! は意表突かれたのはホントよ? あの一投だけは褒めてあげていいわ。
もしあれが火葬式典だったら、復活に一週間くらいは掛かったかもしれないわね。むしろなんで使わなかったの? 手加減?」
あの時点では、鉄甲作用を行うのが限界ぎりぎりだった、というだけのことだ。遠野志貴の応急処置に、魔力体力の大半を注いでしまっていた。
「あ、そうだったんだ~。納得。
お嬢ちゃんを地下で放し飼いにしてたのだって、雑魚が何匹歩いてようとも構いはしないって発想だったものねぇ。
けどさすがに自分でも反省はしたから。今度、もし同じようなことがあったら、ちゃあんと四肢を全部ピン止めしておくわ。こんなふうに」
闇夜のとばりに佇んでいた女は、ぬらりと姿を現した。
奇抜な編み方をした長髪に、だらしなく着こなした白衣。遠野志貴から、後で名前を聞いていた。
阿良句寧子。遠野家に仕える、一種の何でも屋のような存在らしいが……。まぁ、あからさまに嘘で塗り固められたプロフィールだ。
その彼女の右手には宣言通り、長細い針が握られていた。裁縫で使うもの全く一緒。ただしサイズが、黒鍵の刃とほとんど同じという、スケール感の違いを除けば。
それを女は何の予備動作も無しに、すとん、と右肩に刺した。全くなんの躊躇いも、抵抗も無く。貫通しきって、反対側から現れた先端部は、ぬらりと赤い粘液で濡れていた。
無論、それは私の血だ。
「ぎ、ああああ」
「あんまり騒ぐと、志貴チャンに聞こえちゃうわよ? 最愛の彼をあんまり心配させたくないんでしょう?
アタシ、実験体としてはともかく、同性としてお嬢ちゃんのことあんまり好きじゃないのよね。感性があまりにも一般人寄り過ぎるって言うか、ありきたりの二束三文でつまらないの。
だから今、あなたを生かす価値があるとしたら、それはもう前者の理由でしかない。
強くなりたいなら、そいつを使いなさい」
「やだ、やだやだやだ! 吸血鬼になるなんて、死んでもやだ!」
「まだ迷ってるわけ? もういいでしょ。仮に使わなかったとしても、どうせ死ぬわよ」
「死んでいい! でも吸血鬼だけは嫌なの! 絶対に!」
「憎いから、よね。
驚くかもしれないけど、アタシ意外とお嬢ちゃんの過去とか、詳しいのよねぇ。フランスであれこれあった時、ちっとばかしお邪魔してたから。
あ、そういう意味ではアタシってば、にっくき仇の一人だったりする? やぁん怖い、復讐されちゃう。もうされてたか」
「ふーっ! ふーっ!」
恐怖と焦りで頭が狂いそうだ。天地がぐるぐる回って視界の焦点が定まらない。朝からほとんど物を口にしていないのに、吐き気が収まらない。先ほど飲んだ甘ったるいジュースが、喉元まで込み上げてくる。
「でもご心配なく。なってしまえば、怒りだなんて、しょうもない感傷はすぐ忘れるわ。
それに吸血鬼を狩る真祖だっているくらいだもの。別に憎いからって、それそのものになっちゃいけない理由にはならない、でしょ?」
「違う……違う、の」
「ん?」
――違う。吸血鬼になりたくないのは、奴らを憎んでいるから、じゃない。
そうなったら終わりだ。二度と、彼に会えなくなる。もう愛してもらえなくなる。
彼に好きって言ってもらえない。私がノエル先生であるからこそ、彼はこんな私を愛してくれたのに。
身体も変わって、生き方も変わって、敵味方の立場さえ変わったら。もうそれは彼が夢中になってくれた私じゃ、ない。
「ぶっ……あはは! すごい! たった一日でこれ!? ヤバいわねぇ……志貴チャン。元々、目は付けてたけど凄まじい才能だわ。あー……ダメダメ、面白すぎ。これだけで向こう一年オカズに困らない。
さて……で、話を戻して肝心かなめのあなたの方だけど」
ちゃき、と聞き覚えのある嫌な音がした。あの注射器が、暗がりにあってキラリと歪な輝きを放つ。
「同じ女として――もっと言うと、ちょびっと長く生きてて経験豊富なお姉さんとしての忠告ね。
年下の男を引き留めておく秘訣は、
相手の行動に一喜一憂し、常にお顔を窺って過ごすようじゃ、とても余裕ある大人の女性だなんて言えないわ?
逆よ逆。あなたが相手を動かし、支配するの。その方がずっと楽だし、愉しいし、なにより……気持ちがいいから」
それができたら苦労はしない。彼のことを考えているだけで、頭も胸もいっぱいになって、普通に呼吸するのだって難しいくらいなのに、何をどうすれば主導権が回ってくるかなど、分かる訳が無い。
「――だったらなおさら、強くあらねば。アタシの言ってること、間違ってる?
ていうか、むしろあなたに質問したいのだけど、人間のままでいたところで、今後も愛される保障って何かあるわけ?
言っておくけど、志貴チャンの周りって結構な激戦区よ? おっかない代行者に、血の繋がらない妹って美味しいポジの当主チャンもいるし、多芸な双子メイドもいるし……。
あとこれは現在進行形で接近中の喫緊の危険だけど、白いアンチクショウとかね。
まーこれだけ大勢いると、アタシとしてはぶっちゃけ不思議なわけよ。なんでお嬢ちゃんなの?」
その理由は、既に何度も本人に尋ねた。それこそ殺しちゃうような勢いで、拷問も交えつつ徹底的に問い詰めた。
「で、満足のいく答えはもらえた?」
いまだ恐怖に震える身体で、頷き返す。これだけは決して譲れない。そこにはちゃんと大きな根拠が――。
「わた、私が……。死にかけだったから。一人で死ぬのは、可哀そうだろうって」
「へっ?」
巨大な虫ピンを握った蜘蛛女は、なんとも気の抜けた声を出した。その小馬鹿にしたような驚き方が癪に触って、もう一度言い直す。
「優しい、真面目な子なの。弱った人を見捨てられない、どうしようもない善人で……」
「いやそれあなたが好きになった方の理由でしょ。
……ごめんなさい、なんだか思ってたのと違ってきたかも。
さすがのアタシもちょっと聞いてらんないわ。いやね? さんざん人の事を実験材料だとか、弄って遊べる玩具扱いしてきたけど、これは……ねぇ……。ドン引きだわ」
勝手なことを捲し立てながらため息を吐くと、蜘蛛女は唐突にピンに力を引き抜いた。
深々と刺さっていたはずのそれは、いとも容易く肩から取り除かれ、代わりに凄まじい痛みを残した。
そして出血。奔流となって噴き上がる、私の残り少ない命。
肩に口を近づけてきた蜘蛛女は、遠慮なくその雫を一口舐めて……すぐにペッと行儀悪く吐いた。
「まっず! 鮮度が足りねぇんだわ。ゴミね、何の価値も無い。
もういい、用事終わったから死ぬかどっか行っていいわよ。
つーか、アンタみたいなの見てるとムカムカするの。アタシさぁ、弱者は基本的に好きなんだけど、頭の悪い奴は生理的に無理。
だって、どんな力を持たせたって、そいつが使い方も理解できないバカだと実験にならないジャン」
反論の余地すら与えてもらえなかった。
蜘蛛女はそこまで一息に言い終えると、くるりと私から踵を返し、夜道の向こうへと歩きだしてしまう。
何ら後方を警戒する姿勢も無く、とことこ無頓着に。
瞬間的に猛烈な怒りが湧いて、最後に一本隠し持っていた黒鍵を抜刀した。すぐさま投擲する。
残存魔力の関係上、またもや火葬式典は不発、しかし最低限の鉄甲作用は成功した。
闇に閃く白刃、空気を切り裂き、音より素早く飛来する。
空駆ける鳥すら容易く撃ち抜く、師匠直伝の一投を、蜘蛛女は回避できなかった。
ずぶり、と肉に刃が沈み込む。
「やっ……た」 ――溜飲が下がったのは、ほんのひと時の間だけだった。確かに後頭部に刺さったように見えた刀身が、ゆらりと暗闇に持ち上がったから。
あたかも羽でも生えたかのように、そのままゆらゆらと宙に泳ぐ、私の投げた黒鍵。
それはつまり、蜘蛛女の発した触手的な何かに捕捉されたのだ――と遅れて察する。
「いいわね。……今ので怒らなかったら、いよいよ、どうしようもない女確定だったわ。
時間はまだまだ、たっぷりあるでしょう? 薬は預けておくから、もう少し真剣に、己の行先について考えたらどう?」
女は声だけを残し、闇に溶けて消えた。
からん、と空しい音を立てて黒鍵が地に落ちる。真ん中でぽっきり折れていた。
『――上から目線で何様のつもり、お前に言われるまでもない、私の生き方は私が決める』去り行く背中に、そう言い放てたら、どれほど胸がすいたか。
もちろん現実は違って、私は黒鍵の投擲姿勢のまま、残心も取らずボケっと固まっているだけだった。
えらそぶった蜘蛛女に指摘されたことが、ぐるぐる頭に渦巻いてる。
何が、おかしい? 私の何がいけないの。志貴クンはすごくいい子で、親切で、かっこよくて、だから可哀そうな私に……。
「あー」 いや、まぁ気づいては、いる。……いた。それは違うかも……と。
そいつは好きになった理由としては底辺も底辺だ。三角形も台形も作れないくらいの。
求めるイニシアティブ、支配、より易きに流れる自然の欲求。
「あはは!」
笑う。こだまする。木々が揺らめく。風を受けて、黒のシルエットがざわめく。
「はは……はっ……えぐっ」
笑ってはないかもしれない。響きは広がる。水面が揺らぐ。水色、赤色。肩の痛みが引かない。あの蜘蛛女もとい、クソ女、開けたんならちゃんと閉めてから行けよ。
このまま死んでもいいとは思う。でも戻ってみるのも一興かとも思う。
停留所で律儀に待っている彼をぶち殺して血を吸って同族にしたあと、もう一度手足をバラバラにして殺し直してもいい気もする。
けどやっぱり、草むらに押し倒して、もう止めてくださいと彼に懇願されるまでぐちゃぐちゃにしたりされたりする方が良いかもしれない。そういった欲望は私の中でも、まだ主流だ。
思案は様々浮かんでくるものの、最終的に行き着くところはみな同じ。
二人とも死ぬのは、ずっと前から決まってる。だから、何をやってもあまり変わらない。結果が出るのが遅いか、早いか。
かつ今更、何をしたって、彼の心情に変容はもたらせない。そういう少年だ。見ていたら分かる。彼は私と違って、何があっても揺らがないタイプだ。
奪い返せないイニシアティブ、支配下、より辛きに流れる自然の欲望。
それでいい。私はやっぱりここでいい。
惨めで、無様で、憐れんでもらう方が、私は楽だったし、愉しかったし、気持ちよかった。だって上に乗ると疲れるもの。下の面倒を見てあげるとか、責任とか義務とか、普通にダルいし。
それより優しい誰かの慈悲に縋る方が、ずっと楽。
「ふっ……ふふふ」
ずっと、どうして自分は強くなれないのか不思議だった。
すっごく簡単だったその答えが、今にしてやっと解明された。
手が固い何かに触れる。拾い上げれば、それは注射器。やたらに太いシリンダー、どう見たって医療用ではない。
『魔法のお注射。一本で一階梯は約束するわ。ただし、何事にも代償はつきもの。魂を焼く痛みに、お嬢ちゃんは何本まで耐えられる?」
地下施設で聞かされた初回説明がリピートされる。
私は絶対に強くなれない。力とか、魔力とかそういう具体的な次元の話ではなく、どんな姿を得ようとも、本質的に強くない。
こんな薬だって無意味だ。打たずとも分かる。何本重ねようが効きやしない。挙句にクソムシになるという絶大なデメリットまで負わされるのだ、たまったもんじゃない。
『一緒に――』 声が聞こえる。
『一緒に死のう?』 記憶の彼方でわたしが言う。
『一緒に死にましょう、お兄さん。どうせ勝てない逃げられない』 その通りだ。非の打ち所の無い正論。
「でも違うよ、わたし。弱いからって、悪くはない。
だいたい人生、勝ち負けが全てじゃないわ。
そういうガキみたいな理屈から、いい加減卒業しましょ?」
注射器の代わりに、自分の胸をぎゅっと掴む。今、大事なのはこっちの方だ。