チャペルの鐘が打ち鳴らされた。
ちょうど午後三時を知らせる鐘だ。
広場に集められていた子供たちが、わぁっと歓声を上げて、それぞれ家へと帰っていく。毎週、教会が執り行う恒例の行事。まだ遊び盛りの彼らにとって、ボランティア活動は、さぞや退屈だったのだろう。
よっぽど家が待ち遠しかったのだろう、それとも見たいアニメがあったのか、急ぎ過ぎた子供が、私の左腕にぶつかった。
子供――まだ十歳ほどの少年だった――は、つんのめって転びそうになる。危ないところで、右腕が間に合った。
彼の肩を掴んで支え、「大丈夫かい?」顔を覗き込む。
「う、うん。おじさん、ごめんなさい」
「いいんだよ。でも次からは前をちゃんと見て走るようにね」
ゆっくり言い聞かせると、彼は「うん!」とまた元気よく頷いて、走り去っていった。
その小さな背中を、右腕を小さく振って見送った。一方、彼のぶつかった左腕は所在無さげに、ぶらぶら揺れるだけだった。
私の左腕は動かない。きちんと、私の肩に繋がっているものの、それだけだ。握ったり、開いたりはもちろん、上げたり下げたりもできない。
完全に、ただぶら下がっているだけの、肉の塊である。
こうなった原因は十年ほど前に遭った事故である。数台の車両を巻き込んだ大きなもので、私の他にも多数の人間が被害にあった。その中には悲しくも、命を落とした者もいる。
左腕という犠牲は大きかったが、決して致命的なものではない。しかし当時の私はまだ十七歳の高校生で、その幸運を喜べるような度量が無かった。
ずいぶんと塞ぎこみ、家の者たちにはさんざん気苦労を掛けた。
とりわけ、妹には申し訳ないことをしたと思っている。なにせ、後遺症をタテに家のことを全て押し付け、半ば逃げるように県外の大学へ進学した。それきりろくに連絡も取っていない。
こうして振り返ってみると我ながら、長兄失格も甚だしい逃げっぷりだ。にもかかわらず、あの気性の激しかった妹が、特に何の強硬手段も執らなかったのは一つ喜ぶべきことかもしれない。
あるいは愛想も何も尽き果てて、そうした実務手続きすら、面倒になっただけかもしれないが。
ともかくこんな兄でも、私はまだ家名を名乗ることを許されている。
「
流暢な日本語で、教え子の一人が声を掛けてきた。日差しに輝くようなブロンドの髪が特徴的な、出張先の大学の学生である。
彼女はこの広場まで駆けてきたのか、額にじんわりと汗をかいていた。
「いや、約束の三時ぴったりだ。ほら、まだ鐘が鳴り終わってないだろう?」
かぁん、かぁんという余韻が、まだ辺りに残っていた。彼女は微笑み、「そう言っていただけると助かります」と恥じらった。
「さて、立ち話もなんだし、行こうか。今日はどこの店を予約しているんだい?」
「少し行ったところにある、レストランです。とても美味しいカフェオレを出すので、地元でも有名なんですよ」
「それは楽しみだ。前に行ったパン屋で出てきた抹茶には、酷い目に遭わされたからね。今度は無事に済むよう、祈ってるよ」
「もう、先生ったら。あれは製作中のお試しメニューだって言ってるのに、無理して飲むからですよ」
雑談を交わしているうちに、学生の言うレストランが見えてくる。オープンテラスのある、いかにも明るい雰囲気の店だ。ちょうど昼過ぎということもあって、店外のテーブルでは何人もの客が、カップ片手にくつろいでいた。
そのうちの何人かの顔に、見覚えがあった。
「あら、奇遇ね」
隣を歩いていた彼女も同様だったらしく、我先にと駆けていく。彼らはテーブルを囲んで合流すると、挨拶もそこそこに、早口で雑談を始めた。
『やぁ、こんな昼間からもう一杯始めてるの?』 『違うって、これはあくまで学術的な議論の場。みんなでよりあって形而上文学の体系的類似性について話し合っているんだ』
『嘘おっしゃい、昨日読んだコミックの先の展開予想してただけなのに』 『へぇ、じゃあ私も参戦していい? 最近気になっている連載があるの』
川面に浮かぶ泡のように、彼らの話題は現れては、すぐ移り変わる。よくもまぁ、あれだけ複雑な発音の連続体を、一つも噛まずに話せるものだ。
そう思うのは、私が全く別の言語の話者に過ぎないからだろうが、あらためて人間という種族の不思議さを思い知らされる。
私が交換留学生の一人として、フランスに初めて渡ったのはもう七年も前の話になる。
その頃の私は、フランス語といえば『オールボワール』の一つしか知らない浅学の身で、電子辞書と端末だけを頼りに、無謀な旅に挑戦した。
初めの頃は、それはもう悲惨なものだった。
ホームステイ先の家族には、手洗いに行くと説明するだけで、やれ救急車を呼ぶだのといった大騒ぎになる始末。なんとか作れた友人と飲み会に行った際は、あわや別のテーブルの連中と乱闘騒ぎになるところだった。
後で分かったことだが、あれは私が左腕を客の一人にぶつけ、謝罪の一つもしなかったのが、原因だったらしい。
『気にすることは無い』と、友人は言ってくれたが、異国の地でたった一人、身体に不自由のある者が生活することに、非常な不安を覚えた事件だった。
しかし人間、何事も過ぎてしまえば熱さを忘れる。一年、二年と悪戦苦闘の毎日を送るうちに、下手なりに私にも知識の層が積み上がっていった。
最初は拙く、話すたびに相手に無意味な緊張を走らせるようだった発音も、やがては自然なそれに近づいた。
特にヒアリングの方は元々、光るものがあったようで、先ほどの学生の冗談ではないが、形而上学問の、例えば哲学的議論でも一定のレベルまではついていける。
ちょっとした才能と、多大な努力が実を結び、今ではフランスおよび日本文学の両分野に跨る研究者として、あちこちの大学で活動させてもらっている。
教授――とまでは、しかし残念ながらまだ遠く、あくまで会話の通訳、文書翻訳といったサポーターとしての役割が主だ。それでも、生きる上での日銭くらいは稼げるようになった。これは大きな進歩である。
『先生、なにぼうっと立ってるの。ほらこっちこっち、一緒に呑みましょ?』
『こらこら、昼間から酒はいかんぞ。カフェが美味しいんじゃなかったのか?』――と軽く応えつつ、言語を日本語に切り替えて。
「あと、君もこっちで話しなさい。今日は、スピーキングのレッスンだろう? 授業料だって払ってもらってるんだから、私をちゃんと使わなきゃ、損じゃないか?」
ブロンドの髪の女学生は、コホンと咳払いすると、態度を改めた。
「ごめんなさい、友達のせいでテンションが上がってしまいました。先生、どうぞこちらの席に。彼らとは早く別れましょう」
「それがベストだね。外野には――ああ、外野というのは全くの部外者という意味だ、少し静かにしていてもらおう」
冗談めかして、私は騒いでいた学生たちに向かって、しっしっと追い払う仕草をした。
アハハと甲高い声で笑いながら、年若い学生たちは軽い足取りで去っていく。
どうせ、一杯のコーヒーで長時間粘っていたのだろう。
店員がこれ見よがしに、私にウィンクを送ってきた。
「まったく、若い奴は元気でいいね」
「お言葉ですが、先生もまだそう年老いてはいないと思います。確か、今年で二十八歳でしたか?」
「よく覚えていたね。その通りだが、言うなればアラサーのおじさんだよ。アラウンド、サーティーの略だね」
「へぇ。それはある種の揶揄というものですか? いつ聞いても、日本語はクレイジーな造語が多いですね。聞いただけでは、全く意味が分かりません」
「安心しろ。私もだ。日本語は日本語でも、若者語だから」
ここまで言うと、一連のやり取りそのものがジョークだったことに、彼女もやっと気づいたらしい。からからと大声で笑った。
レッスンとは口にしたが、その実態はこうして二人してカフェでお茶をしたり、レストランで食事を一緒にしたりするだけのことだ。
私はよく、こうしたマンツーマンでの指導、もとい遊び歩きを、彼女に限らず多くの学生と行っていた。
「先生、一つ聞いてもいいですか?」
「ああ、もちろん。なんでもどうぞ」
「授業料なんて言ってましたけど、別に先生、大学から特別な手当なんてもらっていませんよね? どうして私たちに、こうも付き合ってくれているのですか?」
「おいおい、それこそ学生が気にすることじゃあないだろう。君に生活費の心配をされるほど、私はみすぼらしいスーツを着ているのかい?」
「いえ、とんでもない」
二年ほど愛用しているスーツの裾を、ことさらに引き伸ばして主張すると、彼女は若干引き攣った笑みで否定してくれた。
「ただ、不思議なのです。こう申し上げてはなんですが、先生は……別の目的があるような気がするのです。学生たちと、話す以外に」
「別というと?」
再度、尋ね返すも、彼女自身もその疑念に具体的なイメージは無かったようだ。困ったように、はにかんで、会話はそこでいったん途切れる。
「そうだな……強いて言うなら」
私は彼女の顔から視線を外し、空を見上げた。
個人的な感想だが、フランスの空は日本よりも、ずうっと高いような気がする。晴れている日が比較的に多いからだろうか? それとも景観保護の観点から、高層ビルが少ないからか。
薄青の澄み渡った空がどこまでも広がっている。
「探しているのかな、人を」
私は十年前、大きな事故に遭った。――遭った、とされている。自分の頭の記憶にも、そう書いてある。
だからそれは間違いなく事実だ。以前、気になって過去の新聞記事を見返したが、確かにそういった記述があった。私の名前も被害者の一覧に載っていた。
しかし、ときおりそれは全くの嘘で、実際には車両間の事故なんて一切経験していない……ようにも思えるのだ。
なぜか、と言われると原因は全く不明だ。根拠も理由もありはしない。
そして決まって、この疑問というか、違和感というか、狂気的な発作に捕らわれるたびに私はある人物を思い出す。
それは女性だ。おそらく人種は白人、明るめの瞳をしていて、髪の色は茶。活発な性格で、話し方も気楽。女性にしては高めの身長で、人並みに肉感のある体型だった。
異様に具体的に、ほとんど細部まで、その全く見知らぬ女性の姿が思い浮かぶ。しかし会ったことはない。名前も思い出せない。
そもそもそういった人物と、関わり合いになるタイミングなど無かったはずだ。
私が通っていた高校では、海外出身の教師などいなかったから。
「ではこの記憶は一体何なのか? それが全く分からない。だが、唯一の手掛かりはその女性がこの国の出身ではないか、ということなんだ」
『それって、なんで?』
え、と思って顔を上げる。いつの間に、話し相手が変わっている。ブロンド髪の学生ではない。
ちょこんと、行儀よくテーブルに座っているのは、中学生ほどの少女だった。薄赤の髪を可愛らしいリボンで二つにまとめている。
服装はヒラヒラとした、フリルのついたワンピース、それと真っ赤な靴だった。
……どこか、いいところのお嬢さんだろうか? この街では、そういう大昔の貴族みたいな娘をたまに見かける。
『面白そうだから、割り込んじゃった。ねぇ聞かせて、先生はどうして、その人がここの出身だと思ったの?』
「いや……えっと」
いなくなった学生の姿を探す。しかし、見当たらない。というより、テラスから軒並み人の姿が消えている。誰もいない。広場にも、通りにも、人っ子一人いやしない。
『ねぇねぇ、わたしとはお話してくれないの?』
少女はそう言ってせがんでくる。なぜ、私にこうもなついてくるのか。
顔に見覚えは無い。道ですれ違った記憶も無い。
だが……どうしてだろう? この子は無視してはいけない、という絶対的な直感がある。
『どうして、か』 自然と、フランス語に切り替えた。しかしさっきまで日本語だったのに、少女には話が普通に伝わっていた気もする。良く分からない。
『私がフランス語を学び始めたのには、理由があるんだ。これも昔、とあるフランス映画を見てね。
よくあるパニックホラーで、男女の恋人が恐ろしい化け物から逃げる話なんだよ。
そのラストシーンで、怯える彼女に男が言うんだ。死ぬときは一緒だ、ってね』
『そう……それで?』 少女はなぜか、自分の両肩を必死にさすっている。天気は晴れだというのに、とても寒そうに。
あるいは、何かの情動に耐えているようでもある。
『良いセリフだと思ったんだ。でも、あいにくマイナーな映画なのか、吹き替えが無くってね。全編フランス語だったんだよ。でも私はどうしてもその内容を確かめたかった。
それは――それは? えっと……当時、そう、高校生の頃に付き合っている彼女がいたんだ。
その彼女が、フランス語でそのセリフを言って欲しいって、せがんでしょうがなかった」
『その人が、記憶にはあるのに、実際はいない女性なの?』
『いや……違う』
記憶が混濁しつつある。そうではない、と勝手に首が横に動く。
『彼女……付き合ってなかったかもな。向こうが一方的に、言い張っていただけな気もする。
それとは別に、セリフを言いたい人が、もう一人いたんだよ。
もう一人はたぶん、フランス出身だった。だから、フランス語のそのセリフを必死になって覚えたんだ。これなら辻褄が合う。
つまりそういう事だ』
『じゃあ、肝心のその人とは付き合えたの?』
『いや、別れた。上手くいかなかったんだよ、きっと。
彼女は国へ帰ってしまった。だから、私はここへ探しに来た。必死にフランス語を勉強して、通訳とか、日本語の先生として日銭を稼ぎ、どうにか長期滞在できるよう頑張った。
ずっと探してるんだ。でも見つからない……。そんなことを、かれこれ十年以上も続けている』
『十年も? ずいぶんとご執心なのね』
『ああ。笑ってくれていいよ。どうしてか……どうやっても忘れられない。我ながらバカげたことをしている自覚はあるんだ。
おかげで、もう二十八になるのに結婚相手の一人も見つからない。以前、帰郷した際なんて家族に呆れられた』
『えぇ!? 冗談でしょう? さっきだって、あんなに若い女の子たちに囲まれていたじゃない』
少女は非常に大袈裟な驚き方をした。ただでさえ、つぶらな瞳を落っことしそうなほど見開いている。
『残念ながら事実さ。その気が無いのが、自然と相手にも伝わってしまうみたいでね。
だいいち、教え子に手を出すなんて有り得ないだろう。教師として失格もいいところだ』
『そうかしら……?』 少女はなんだか不服そうだ。
『そうなんだ』 自戒の意も込めて、こちらも大仰に頷く。
話し終えて、ふと我に返ると、妙に辺りが暗い。あれだけ晴れていたはずの空が、墨を溶かし込んだような色合いに染まっていく。しかし、相変わらず雲は無い。
日が落ちつつあるのだろうか? そんなに長く、話しているのか。
『ねぇお兄さん、たくさん喋って疲れたでしょう。喉は乾かない? 美味しいカフェオレがあるの。わたし、ごちそうしてあげる』
『ああ……ありがとう、いただくよ』
少女はワンピースの両裾をつまんで、麗しい礼をすると、店内へと入っていった。しばらくあって、彼女はお盆にカップを二つ載せて戻ってくる。
飲んでみると、評判通り確かに美味しかった。少女の方も、自分で持ってきたカップを口にしている。
『うん、やっぱりママの味は一番ね。あなたもそう思わない?』
『本当だ。……あれ、もしかして君』
言い終える前に、『そうよ』と彼女は微笑んだ。
『わたし、ここの店の子なの。いいでしょう? ケーキもカフェオレも、好きなだけ頼める』
『そりゃあ凄い、君はお姫様だね』
『パン屋のいけ好かないあいつには負けるけど、ね。
そんなことより、お話もっと聞かせてよ』
『そんなにせがまれても。私みたいなおじさんと喋ったって、楽しくなんて無いだろう?』
『いいえ』
少女は私の瞳をじいっと、それこそ穴を開けようとしているくらいに見つめて、笑った。
『とっても楽しいわ。こんなに素晴らしいことが、他にあるのかってくらい』
心底、そう確信している表情だった。同時に、背中に氷を押し当てられているような寒気を覚える。
なんだか、絶対にいてはならない場所に座っているような。例えば、列車の通らんとする踏切の真ん中。
その一方で、少女から離れたくない自分もいた。まだもう少し――いいや、時間の許す限り、この子と会話を続けねばならない。
カフェオレで、乾いた喉を潤す。美味しいと言葉にはしたが、その実、味はよく分かっていない。風味も苦みも、なぜだかあまり感じられない。現実味が無いのだ。
『一目ぼれだったんだ』
気づけばそんな言葉を口にしていた。
『私にとって、初めての経験だった。守りたいって、心の底から初めて思った人だったんだ。
元気で、可愛くて、それなのに折れやすい。俺が守ってあげないと、きっとこの人は容易く壊れてしまう。初めて会った瞬間、そう思ったんだ』
『初めて会った?』
そこが最も重要な部分だとでも言いたげに、少女は語気を強めた。
『ああ……。あれは……どこだったかな。教室……? いやそんなはずはない、そんなはずはないんだが……。確か、そこが初めてだったんだ。
たくさん並んだ机と生徒を前にして、教壇に立ってた。笑ってたけど、空々しかった。いくつもの虚勢で強がる彼女の、本当の笑顔を見たかった……』
「見られたの?」
急に声のトーンが変わった。いかにも少女然とした高音から、しっとりと落ち着いた、ゆっくりしたものに。
「え……?」
「本当の笑顔は見られた? 君はその人を守れたの?」
まじまじと見つめられる。少女の視線に、ひどく後ろめたいものを覚え、つい「いいや……」と口を滑らせる。
「ダメだった……んだと思う。もし私が最後までちゃんとできていたら、きっとこんな風に、当てもなく人探しを続けていたりしない。……そうだろう?」
「全くその通りね。てんでなってない」
すげなくダメ出しを食らう。こんな小さな子に叱咤されるほど、私は頼りがい無く見えるのか……と、思わず頭を抱えそうになったところ、囁くような低声があった。「でもね」
「でも……私、すごく嬉しいよ。今度は強がりじゃない。掛け値なしに、世界で一番幸せ。君は弱くて甲斐性ナシのダメガネだったけど、そんなの私も似たようなものだし。
記憶が無くなっても思い出を忘れても、私と君の気持ちはずうっと一緒だった。
だからね……だから……」
不意に、視界がぱぁっと晴れた。それと一緒に、喧騒が戻ってくる。聞こえる雑踏、話し声、子供たちがはしゃぐ音。
空はいまだ青く、果てしない。宵闇の気配は欠片も無かった。
『……ね。カフェオレのお代わりを淹れてきてあげる』
少女は出し抜けに言った。奪い去るような勢いで、私のカップを取ると、そそくさと店内へと戻ってしまう。
「待ってくれ……」
呼び止めようとしたが、無駄だった。少女の名前すら、私は訊いていなかった。
「先生! もう、どこに行ってらしたのですか」
ブロンド髪の女学生が早足に戻ってくる。彼女はなぜだか、ぷんすかと肩を怒らせている。
「手洗いに行くなら、一言くらい残してください。探したではありませんか」
「いや、私はずっとここに座っていたが……」
「下手な嘘はやめてください。ほら、はやくレッスンの続きをしましょう。
あ、そうだ、罰として私にカフェオレを奢ってくれませんか?」
「分かった、分かった。でもそれなら、今、店員のお嬢ちゃんにお代わりを頼んだところだから。もうすぐ来るよ」
なんとか彼女をなだめつつ、軽い雑談でお茶を濁す。どこかの子供が手放したのか、空を風船が二つ飛んでいく。青いものと、赤いもの。追いかけ合って、二つがもつれた。そのまま一緒に、天に昇っていく。
「それより先生、訊いてくださいよ。また彼に浮気されたんです。これで五回目ですよ、信じられます?」
「だが、私の記憶が正しければ君の方は六回目だろう? お相子じゃないか?」
「違います! だって、彼の場合、白昼堂々なんですよ。もう少し後ろめたさというか、背徳感を覚えて欲しいです」
「君、さすがにそれは言葉選びを間違っているだろう。そうだよな?」
愚痴のわりにキャピキャピ、いつまでも楽しそうな彼女の話を聞いていると、時が経つのを忘れてしまう。
チャペルの鐘が鳴り響き、もう一時間が経ったのかと少し驚く。
しかしカフェオレのお代わりは、まだ来ない。
END