「よもや、あなたが自ら、その名前を口にする日が来ようとは。
いったい、どういった心境の変化ですか」
洞穴の壁をぶち抜いて、乱入してきたシエル先輩。
彼女はあくまで淡々とした口調で、狂乱の極みにある同僚に相対する。
「ええ、私もちょっと驚いてるくらい。もう二度と、あなたっていう女を人間扱いなんてしないって、心に決めてたのに。
天に仕える代行者にして、吸血鬼を滅すための装置。その目的のためだけに稼働することを許される、歯車仕掛けのお人形さん。腕をもがれようが、足が腐ろうが、軟体生物みたいに再生するんだから、そう呼ばれたってしょうがないわよね」
「そんな言い方――」
「ごめん、虫の意見とか求めてないから」
口を挟もうとした俺の腕は、強かに打ちぬかれた。ズキズキと脈動するような激痛が走る。聖水ではなく、腕力による純粋な暴力だったが、それでも満身創痍の俺には十分だった。
この場において、自分に発言する権利は絶無であると、理解するには。
だが、先輩にはその意図は伝わらなかったらしい。
「遠野君に危害を加えないでください。私とあなたの過去に、彼は関係無いでしょう」
そう呼びかけながら、俺の横たわる寝台へと駆け寄ろうとする。
「止まれ!」
その姿勢が見えた瞬間に、ノエル先生が鋭い声を発した。さらに、見覚えのある短剣――黒鍵と言ったか――をどこからともなく現わせて、それを俺の首へ突き付ける。
シエル先輩に対する、明白な脅迫だった。
「今の彼だと、さぞかし効果抜群でしょうね。刃が触れただけで、さっくり召されちゃうんじゃない?
身の振り方には気を付けて。知ってるでしょうけど、私、これの扱いあんまり得意じゃないの」
シエル先輩は観念したように、その場で脚を止めた。
寝台までの距離は、たっぷり10メートルほどある地点だ。そこから先へは、一歩も進ませない腹積もりということか。
「遠野君を解放してください」
短いだけに、迫力の籠った言葉だった。
寝台に縛り付けられている関係上、表情まではよく見て取れないものの、先輩の纏う覇気はひしひしと伝わってくる。
それだけに、少しの疑問が湧いた。
今、俺は聖水で傷つき、黒鍵で致命傷を受ける存在――つまり、吸血鬼らしい。絶対に認めたくない事実だったが、こうも証拠が揃っていれば、受け入れざるを得ない。
なのになぜ、先輩は俺を助けに来たのだろうか。彼女の務めを考えるなら、むしろ率先して、粛清に取り掛かるべきではないか?
俺の疑念を後押しするように、ノエルが「ふっ」と、笑んだ。
「
あなたはそう動くって予想していたけど――予想していたから、こんな事をしてるわけだけど。
でも現実にそんな言葉を吐くとこ見せられたら、一周回って吐き気がするわ。
どういうつもり? 教会に賜りし使命によりて、断罪を下して回る、シエルさん。あなた今、同僚が頑張って拘束した吸血鬼の、鎖を解けって命じてるのよ」
「彼が吸血鬼であるという確証はまだ得られていません。まず審問に掛けるのが定められし手順であり、ものの道理です」
「はあ? 正気?」
どの口が言ってるのか分からない悪罵を吐きつつ、ノエル先生はもう一方の手で、先輩を指さした。
「疑わしきは罰する。……そう口にして、誰も彼もを問答無用で虐殺してきたのは、他ならぬあなたでしょうが! 感染の疑いあれば集めて焼き、流布の危険あれば区画ごと沈めた。
その手がどれだけ、無辜の民の血で汚れているか、私が一から説明しないと思い出せない!?」
「あれらは全て、教会の認可を取った上での、正式な行為でした。現に、この街で私がそういった戦略を取りましたか?
ロアをただ滅すればよいなら、空から爆撃すればそれで事足りる。しかし――」
「あーうっさいうっさい! そういう理屈を聞いてるんじゃないの! もう面倒臭いから、そろそろ正直に言ってよ。
この男だからでしょ? エレイシア。この男のことが好きだから、愛しているから、庇い立てするような真似してるんでしょう?」
「お前、急に何をっ!」
たまらず、再び口を開いた俺に、容赦なく鉄拳が打ちおろされる。
「あらあら、暴言が過ぎるわね。先生に対して、『お前』は無いでしょ」
誰が先生、だ――と、よっぽど言い返したいのはやまやまだが、いかんせん腹部を強打されたせいで、肺に息が入ってこない。
情けなく震えるしかない俺をよそに、彼女は好き勝手に続ける。
「私、ね。そりゃ昔は色々あったけれど、それでも最近はあなたっていう存在を受け入れつつあったの。そうはいっても十数年経ったんだから、人並みの包容力や忍耐力ってやつも養えた、し?
でもさ、それは無いでしょう、エレイシア。それだけはやっちゃいけないわ?
今更になって、今になって! 人間の! 女に! 戻るだなんて!」
繰り返す絶叫とともに、今度は何の脈絡も無く、俺への暴力が激発する。声に合わせて、一発、二発、三発……。聖なる力が宿ったものではないとはいえ、痛みは痛みだ。
文字通り、はらわたがひっくり返りそうな不快感が押し寄せる。
「やめ、て……」
その無様な悲鳴が届いたからなのか、ぼそり、と。
かつて聞いたこともないような、先輩の声がした。
「やめ、てください。そんなわけ、無いでしょう。彼は何も関係無い」
「あーそう? じゃあ足の先から丹念にぐりぐり砕いていっても構わないわよね? あなた、関係無いんだから。頭かっぴらいて、頭蓋骨に直接聖水注いだっていいわよね? こんな男、あなたはどうとも思ってないんだから。
ただの吸血鬼よ、この男は。……正しく言うなら、ロアの転生先かもしれない男? あなたがわざわざ、電話で私に教えてくれたんだものね」
「そんなつもりで、あなたに情報共有したのではありません。
彼の身柄を抑え、後は教会に移送すれば、それで私たちの任務は完了です。そんな風に、いたぶって殺す必要がどこにありますか」
必死に理を説く先輩を、ノエル先生は嘲るように答えた。
「どうせ連れてった先でも、解剖されて死ぬのに? 徒労も過ぎると滑稽だわ」
ひとしきり笑った後、「それとも、もしかして」と言葉を繋ぐ。
「適当な報告で誤魔化して、彼と一緒に高飛びする気? 埋葬機関の伝手があれば、教会の目だって潜れるかもしれないものね。
夢はハワイのビーチへ新婚旅行? 昼はお洒落で可愛い水着で彼を誘惑して、夜は高級ホテルでしっぽりと?
ふざけるな、雌豚が! 誰が許したって、そんな未来はこの私が絶対に認めない!
人でなしの悪魔が! 街のみんなを殺しつくした罪人が! そんな幸せ、手にしていいわけないでしょ!」
「そんなこと考えるはず――」
「いいや! 私は知ってるわ、エレイシア。いつからかは定かじゃないけれど、あなたはとっくに代行者のシエルさんじゃなくなってた。
だって、同じ女だもの。どんなに巧妙に隠したって、分かるわよ。
校舎裏でも、保健室でも。……茶道室の時だって。あんなに明け透けに雌の顔しといて、今更そんなつもりないなんて、どの口が言うわけ?」
「はぁ……もういい」
エスカレートする一方の喋りを、唐突に冷め切った声が遮った。
あたかも最後通告のような冷徹な響きに、俺はもちろん、傍の狂人さえも動きが止まる。
「なんですって……?」
「もういい、と言ったのです。ノエル。
ただいまをもって、あなたを代行者の任から解きます。黒鍵も聖水も、ハルバードも。所有する権利を持たない、ただの一般人となる。
いえ、より適切に表すなら――」
すらり、と確かに聞こえた抜剣の音。視覚には入らなかったが、それでも見て取れた。
先輩が黒鍵を前に構える姿が。
「穢れた血の流れし異端者。弁明は不要です。死後、身体を検めればそれで事足りる。
今まで見逃してあげていたのは同僚のよしみですが、それも要らぬ情けだったようです」
「あなた――っ!」
刹那に攻防が交わされる。閃くは、二人の握る黒鍵。
その瞬間に、何本の剣が、どういった軌跡を描き、どれだけが命中したか。蚊帳の外の俺には追いきることなど到底、無理だった。
しかし勝因と敗因は明らかに思えた。
かたや、長時間にわたって人質の首に刃を押し当てていたもの。
かたや、対象への明確な殺意をもって、今しがた刃を抜いたもの。
達人の領域にある遣り合いにおいて、始点の位置は何にも代えがたい利である。
その結果。
「ぐぅっ……!」
迸る鮮血。右の肩口に、黒鍵が深々と突き刺さった。
痛い――圧倒的に。今まで感じてきた暴力なんて、もうお遊びとしか思えなくなるほどに。
だが、動けないほどじゃない。命中した部位にも救われた。右腕が使えなくなった程度なら、洞穴を走って抜けるくらいはできそうだ。
「志貴……クン?」 「遠野君!?」
奇しくも、あれだけ殺意を向け合っていた両者が、揃って仲良く、同じ驚嘆の声を上げる。
それも無理はない。
ノエル先生が、撃ち落としきれなかった、一本の黒鍵。
彼女の心臓を貫くはずの一撃を、寸前で立ち上がった俺が、身代わりに受けたからだ。
この場にいる誰からも、戦力外の烙印を押されていたからこそ、この離れ業ができた。
そもそもの話、きちんと鎖を結んでも無い癖に、やたらめったら俺の身体を跳ねさせたり、痙攣させたりしたノエル先生が悪いのだ。
実際のところ、彼女がシエル先輩に因縁をつけだした辺りで、鎖の拘束はほとんど無力化されていた。となると後は、タイミングの問題だったわけだが……。
待ちに待ったおかげか、これ以上は望めないほどの成果を得られた。
あのシエル先輩ですら、目を剥き、硬直している有様なのだから。
「え、なんで――」
「なにボサっとしてるんですか! 早く逃げますよ!」
同じく、バカみたいに呆然と突っ立っているノエル先生の腕を強引に引き、その場から逃走を試みる。
最初こそ、脚がもつれそうになっていたが、代行者の威厳はまだ残っていたようで、すぐに遅れず走り出した。
「遠野君!? いったいどういうつもりですか!」
混迷の極みにあるらしい先輩から、再三の呼びかけが発される。しかし振り返らない。
脚を止めたらそれで終わりだ。一本でさえ、三回死んで余りある激痛なのだ。二本目なんて受けようものなら、その場で魂ごと爆散する。
これはあくまで希望的観測だが――背を向けて走っている俺には、先輩は刃を向けないでいてくれる気がした。