月姫R ノエル先生ルート分岐妄想   作:激辛党

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8……シケイ

 勝てない。俺は負ける。

 圧倒的な強者に挑む。何をするより先に、結果は既に見えている。

 

 シエル先輩の実力がどれほどであるか、分析なんてしたわけじゃない。彼女の戦績を人伝いに聞いたわけでも無い。

 

 が、しかし。

 

 彼女の前に、敵意を持って立つことが、どれほど愚かな行為であるか。

 非常に不思議なことに、俺はずっと前から確信があった。

 

「うおおおお!」

 

 ひとりでに喉が咆哮を上げていた。寝台の上で、もう枯れ果てたと思っていたのに、実に嘘つきなヤツだ。でも、今は都合がいい。脳内を埋める敗北の未来を、ぼやけさせるのに多少は役立った。

 

 左から振り下ろす。狙うのは――先輩の腕。ヴローヴにやったのと同じように。

我ながら、速度も勢いも申し分ない。先輩に、ほんの僅かでも油断があるなら、決まる一閃だった。

 

 だが、まぁ、当然のように。

斬られて飛んで行ったのは、むしろ俺の左腕の方だったが。

 

「ぐっがぁああ!」

 

 恥も外聞も無く、その場にうずくまって、左肩を抑える。黒鍵が突き刺さった時とはわけが違う。蛇口をひねったように、後から後から、湧き溢れてくる、赤い液体。

 床に飛び散って、水たまりを作って、いたずらに流れていく様を見ても――それが自分の身体を、ついさっきまで巡っていた血液だとは、到底信じられない。

 

「はぁっ! はぁっ! っぐ!」

 

 痛み、衝撃、めまい、全てを無視して、もう一度立つ。両脚で立ち上れた自分に自分で感動を覚えた。人間、為せば成るとはよく言ったものだ。

 

 先輩……の表情を、一瞬だけ垣間見る。そこあったのは無表情、瞳に湛えた冷酷さ。

ただひたすらに、己の使命を果たすことしか頭に無い――戦闘機械だけが持つ、無の色だった。

 ノエル先生の言葉の正しさを、今になって実感する。確かに、こんな顔を一度でも見たら、人間だったシエル先輩の姿など、嘘か冗談にしか見えなくなる。

 

「ああああ!」

 

 また叫ぶ。叫び続けなければ、崩れ落ちる。情けないことこの上ないが、『助けて』『死にたくない』の二言を出さなかったことは、自分を盛大に褒めてやりたい。

 

 横っ飛び。黒鍵の二撃目を回避できたのは、ほとんど奇跡だ。

あるいは左腕一本分の体重が消えて、その分だけ動きが身軽になったため、先輩の目測を外れたからか。

 

 その幸運を最大限活用すべく、ステップの勢いを殺すことなく、姿勢を低める。次いで左脚を軸に、重心を回転。下段の回し蹴りを試みる。

格闘技の覚えなど無かったが、とにかく無我夢中だった。

 

 これは先輩の意表を突いた攻撃だったらしく、俺の狙い通り、蹴りが脛の部分に命中する。異常に固い質感。まるで、電信柱か何かのようだ。

だが、構わない。足の骨一本で、この人の行動力を多少なりとも奪えるなら、十分お釣りがくる。

 

 当たった勢いのままに振り抜いた。ぎり、と凄まじく厭な音が全身に広がる。冗談じゃなく、本当に右脚がイかれたらしい。攻撃した側が重傷を負うなんて、いったいどういう事態なのか理解に苦しむ。

 

 その尊い犠牲もあって、足元を刈られた先輩は、たたらを踏んでバランスを失した。生まれた僅かな隙を活かし、俺の身体の中で唯一、無事な左脚で踏み込む。撤退、逃走は考えない。

 逃げたら終わりだ、俺も先生も。ここで何とか、どうにかして、シエル先輩を行動不能にする必要がある。

 

 問題はその『どうにかして』のハードルが果てしなく高すぎることだった。ナイフは左腕と一緒に飛んで行った。右腕も黒鍵に貫かれたばかりで、筋肉に力が入らない。右脚も今、報いた一矢で、逆に粉砕骨折の有様だ。

 

 どうかしている。やっぱり勝てるわけがない。上位者との戦闘は、アルクェイドの時がそうだったように、卑怯な不意打ちが鉄則だ。正面きっての斬り合いになって時点で、遠野志貴の未来は閉ざされている。

 

 それでも。

 

 死を悟りながらも、俺は突進していく。いきなり世界がスローモーションとなって、その様子が第三者の視点で、ふっと脳裏に描かれる。

 ああ、これが走馬灯なんだな、とこれまた他人事のような感想が生まれた。

 

 けれど、重要なのはそのカットじゃない。死に行く俺のアホ面なんて、特に映す価値も無い。バカが何も考えずに死地へ突っ込み、観客の予想通りに、無駄死にするだけのこと。

 

 大事なのは、その画面の片隅だ。

ノエル先生が――誰よりも先に、まず幸せでいて欲しいと願った彼女が、絶望の表情を浮かべている方。

 

「ああ……チクショウ」

 

 現実に、声になったかは怪しいが、そんな独り言が漏れた。そういう顔を二度として欲しくなかったから、柄にもなく色々頑張ったのに。

 

 

 正面、極限の視界が捉えたのは、黒鉄の手甲。まるで拷問器具のような、無骨で、まがまがしく、容赦の無い外観。

 

 完全なカウンターだった。

 突撃する俺と、右手で打ち抜く先輩。互いの勢いが合わさった、致命的な衝突の未来が垣間見える。その手甲はいわば、具現化された死の託宣。

 

 

 やっぱり――慣れないことは、するもんじゃないな、と今になって思い知る。

 

 

―――――――――――

注)視点変更

 

 

 ボロ雑巾よりも、もっと酷い。

 壁に打ち付けられ、全身の骨と臓器がぐちゃぐちゃになったであろう、遠野志貴の死体を見て、シエルはそんな感想を抱いた。

 

 ただ、酷いというのは死に様ではなく、扱いについて言及したものだ。単に死に方だけで言うなら、過去の彼女はその数千倍は凄惨なものを経験している自負がある。

 

 だから、そっちではなくて。

 遠野志貴はどこにでもいる何の変哲もない、ただの男子高校生だったのに、羽虫に並ぶ惨い死に方をさせてしまった。

 

 使い古された雑巾だって、使用者によっては家の掃除に一役立つというのに。この少年は、夢も希望も将来も、何ら汲み取られることなく、ただ無意味に潰されて死んだ。

 

 ――私と出会ったばっかりに。何千、何万と繰り返されてきた後悔の念が、シエルの内に響く。

 

 かぶりを振って、その声なき声を振り捨てた。自責は増えていくばかりだが、しかしそれは脚を止める理由にならない。――してはいけない。

 

 要の済んだ黒鍵の刃をいったん納め、シエルはもう一人の対象へと振り返った。

 片隅にうずくまっていた元、代行者の女はその視線に当てられただけで、びくりと肩を震わせた。

 

「仮にも、同じ任務に就いた仲です。最期の祈りを済ませたいというのなら、聞き届けましょう」

 

 そのまま少し待ったが、返事は無かった。

 女はうずくまり、ひたすらにむせび泣いている。

 

 そのあまりに自分本位で、愚かな姿勢に、一欠片あった同情すら消え失せる。

 この女――自分を守ろうとして死んだ一般人の少年のために、掛ける言葉すらないというのか。

 

「なぜ遠野君は……あなたに」

 

 そう呟いて、自分らしくも無いと自嘲した。いずれにせよ、これで終わりだ。女を断罪し、少年の遺体を回収すれば、自分の請け負った任務は全て達成される。

 司祭代行は、ロアとの取引を第一目的としていたようだったから、その点では失態かもしれないが……それも些細なものだ。

 

 吸血鬼はみな滅ぼす。シエルの目的は簡潔にして、揺るがない。壁に埋まった少年や、床に這いつくばる女と違って、あれこれと迷う要素は微塵も無かった。

 

 一本、黒鍵の刃を再出力し、女の胸に押し当てる。コレも屍者化がずいぶんと進行しているようだったから、一突きでも十分だろう。

 

 押し込もうとした――その時。

 

「待って、ください」

 

 死体になったはずの、少年の声がした。

 

「お願いします……。先生を、殺さないでください」

 

 久方ぶりに、純粋な驚きを覚えて、彼の方へ振り返る。

一切の手加減も無い掌底を喰らい、壁に蜘蛛の巣状のひび割れが生じる勢いで叩きつけられて――まだ息がある?

 

 予想した以上に、ロアの浸食が進んでいる。もう半分以上、少年の魂は同化しているということだろう。それに合わせる形で、肉体も不死の恩恵を受けている、と。

 

 冷静に分析を続けるシエルをよそに、ほぼ死体同然の少年は、なおも懇願する。

 

「放っておいたって……どうせ、死ぬって……分かっているでしょう? わざわざ、先輩が殺すことなんて、ないじゃないですか」

 

「それは浅慮というものです。みすみす代行者を吸血鬼化させるなど、有り得ません。教会の有する秘蹟の情報が、あちらへ筒抜けとなる危険性だってあるのです」

 

「そんなの、可能性の問題じゃないですか。だいたい、ノエル先生はそんな重大な秘密なんて、握ってませんよ。もし本当に重要人物だったら、こんな風に前線に出てきて……こうして使い捨てられないでしょう」

 

 息も絶え絶えのくせに、存外、理路整然とした反論だった。事実、少年の指摘は当たっている。

 もし、ノエルが完全に敵側へ寝返ったとしても、教会が受ける損失はごくごく軽微に留まるだろう。

 あの司祭代行あたりなら、無駄な食い扶持が減ってむしろ有難い……だなんて、言うかもしれない。

 

 シエルの反応が遅れるのを見て、少年は自分の優位を察したらしい。掠れた声で、訴えかける。

 

「お願い、します……。なにも、延命処置をしてくれってんじゃない。少しでも……せめて寿命が尽きるまで、一緒にいさせて、欲しいんです」

 

「一緒に? どうしてあなたが?」

 

 その一言が、引っかかった。ノエルの助命を願うだけなら、ひたすら他人に優しい少年の意地だと、まだ理解が及ぶ。

 しかしなぜ、この女と連れ添うことにこだわるのか。思えば、先ほど寝台のある間から逃げ出す時もそうだった。

 

「一人ぼっち、なんですよ」

 

 対する少年の答えは、簡単だった。

 

「学校でも、街でも、どこで会っても、この人は独りなんです。

 でも決して、それ自体は特別、珍しいことじゃない。シエル先輩だって、あのアルクェイドだって、似たようなものだと思います」

 

「まぁ……そうですね」

 

 少年の物言いには、少し腹立たしい面もあったが、先を促した。なにより、続きが気になった。

 

「けど、先生は……強くない。先輩や、アルクェイドみたいにはなれない。普通の人だから。本来は……いろんな人と知り合って、支え合って、協力して生きていくべき――ごくごく当たり前の人間なんです。

 弱くて、ずるくて。厭なことが合ったら傷ついて、時にはストレスを発散しなきゃいけないような、そんな普通の女性なんです。

 そんな人が、どうしてたった一人で生きてきて、たった一人で死ななきゃいけないんですか? この人が何をしたっていうんですか!?

 教えてくださいよ、先輩!」

 

 血反吐と一緒に飛び散った問いに、シエルは何の回答も浮かばなかった。

 

 元同僚の女――ノエルがいったい何をしたというのか。

 これは根源的かつ直感的で、まさしく本質を突いた指摘だった。

 確かに、彼女は何もしていない。

 

職務遂行の度合という観点で見るなら、責められるべき部分は多いと言わざるを得ない。……が、そもそも代行者という役割は、どれほど優秀な人物でも、五年続けば良いとされる、極めて危険で、困難なものだ。

 

 ノエルは決して才能に溢れた人物ではなかったが、それでも影日向に努力を重ね、修道院時代は苦手としていた黒鍵も、今では十全に操るようになった。

 今の彼女をして、落ちこぼれとするのは不当な評価だ。かといって、優秀な人材かと言えば肯定もしがたいが、平均点は少なくとも超えている。

 

 しかし、それでは不十分なのだ。

 五年続けば良い方……ということは、大抵の者は五年で死ぬか、もう動けなくなるか、ということ。

 その死ぬ方に、大した才能の持ち合わせが無かったノエルは入ってしまった――というだけの話だ。

 

 努力をしなかったから。

 二十七祖に代表される、強力な吸血鬼と真っ向から打ち合える武力。

あるいは冷静沈着に戦況を判断し、適切なタイミングで脱出、退避できる判断力。

もっと挙げるなら、いかなる時でも信頼し合える心強い味方。

 

 そのいずれも、ノエルは結局、持ち合わせなかった。もう少し、もう僅かにでも、何かのきっかけがあれば、どれか一つは手に入ったかもしれないというのに。

 

 あと一押しを、頑張ろうとしなかった。つまり、何もしなかった。

五年の間、かりそめにも師を務めてきたシエルの目には、彼女の姿勢はそう映った。

 

 ――だから、死ぬ。吸血鬼に噛まれ、これまで獲物として幾人も狩ってきた存在になり果て、誰にも悲しまれることなく、命を終える。

 死後、その屍は手厚く葬られることもなく、大抵その場で、灰まで丹念に燃やし尽くされる。

 後に残るのは、余分なスペースを取らない、ごく小さな墓碑一つだけ。墓参りに来る家族などいるはずもない代行者たちには、それでも十分過ぎるほどだ。

 

「先輩、教えてくれよ……!」

 

 少年は血反吐を散らしながら繰り返す。

シエルはどうしてもその答えを声にできない。

 

 なにせ、そもそもの話。

 その修羅道へノエルを堕としたのは、他でもない自分自身――エレイシアだ。

 遠野志貴の言う通り、ノエルは殺し合いの才能を持たない、ごく当たり前の人間だった。黒鍵や斧槍よりも、花やケーキを持つ方がよっぽど似合う、普通の女の子だった。

 

普通に親や友人、恋人と、笑って生きて普通に老いて死ぬべきその子を――ノエルの人生を、根こそぎ奪った。

 その主犯がいったいどうして、彼女の代行者としての欠格を責められようか。

 

「遠野君。本当の意味で、あなたは善人だと思います」

 

 あまり褒められたことではないと承知の上で、シエルは全く見当違いの事を言った。

 

「けれど、その優しさを誰彼構わず向けてしまう癖は、直すことをお勧めしますよ。

世の中には、それではどうしようもない事が、あるんですから」

 

 今度は少年の方が窮する番だった。

 それにシエルは一安心し、今度こそ務めを全うすべく、誅すべき異端者へと向き直る。

 

 女はまだ、さめざめと泣いている。その姿に、またしても怒りが再燃しかけるのを、必死に堪える。

 断罪者が、私欲で刃を振るってはいけない。それでは私刑だ。

自分の為すべきは迷える魂の救済であり、間違っても……大好きな人を穢した悪女を撫で斬りにして殺すことではない。

 

「……っ」

 

 強い否定は、その裏返しだ。

 気づいてしまったのは、失敗だった。

 

「やめて……やめて、殺さないで……」

 

 ――命乞いをするな、みっともなく慈悲を請うな。そう口にした屍者を、あなたは何人見逃した? 殺すに決まっているだろう。あなたは死ぬんだ。

 よりにもよって、彼に手を出すなんて。

 彼の善意を踏みにじり、あざ笑って。最期の時すら、苦しめようというのか。

 

 許せない。……もともと気に食わなかった。何だかんだ、表面上はうまくやれていたつもりだったけれど、やっぱり根本的にそりの合わない部分が多かった。

 彼女は嫉妬と怨念を節々で見せてきたし、こっちもこっちで、それに全く気付かない素振りをしなければならなかった。とにかく疲れる。なるたけ余計な気力を使いたくないのに、この女のせいで、どれほど時間を取られたことか。いなくなったらせいせいする。 もっと早くこうなれば良かった。

 

 だいたい、この女の顔を見ると、厭でも思い出す。

 生ける罪の象徴。自分がいかにして悪鬼となって、女の全てを奪い去ったか。

 まざまざと見せつけられる。

 どう自分を誤魔化そうとも、どれほど言い訳を並べようと、お前は結局、人殺しのクソムシなのだと。

 

 瞬間、端末の振動音がした。シエルの所持する、携帯が鳴らしたものだった。

 このタイミングで、直電で掛けてくる相手と言えば、一人しか心当たりはいない。そこまで予想がついたうえで――選択肢は二つあった。

 

 すなわち電話を取るか、取らないか。

 無視するのは容易い。相手が誰だとしても、しょせんここに今いない人間など、物の勘定に入らない。端末を鳴らしたいなら、勝手にさせておけばいい。自分は粛々と、義務をこなすだけ。

 

 逆に取って、電話を受けたら。

間違いなく、面倒ごとが増えるだろう。最悪を想定するなら、この街――というか、国から追われる羽目になる。特に今回は、我ながら越権行為が過ぎた。

 

 もともと、相手は重箱の隅をつつくのが趣味のような人種だ。ひとたび査問を受け入れたなら、向こう一週間は表立って動けなくなるだろう。

 仮に受けるにしても、そのタイミングは慎重に選ぶ必要がある。

 

 少なくとも、それは今ではない。理性がそう結論付ける――より先に。

 

「はい、もしもし」

 

 極めて自然な動作として、シエルは携帯端末を手に取り、自分の耳に当てた。

 直後、変声期前の少年のソプラノボイスが――「おいこら!」鼓膜を突き破って脳へ直接飛び込んでくる。

 司祭代行、マーリオゥ・ジャッロ・ベスティーノ。教会という大きな枠組みの中では、シエルの上席に当たる人物である。

 

「おせぇよ豚! 上からの連絡には三コール以内に出ろって教育を受けなかったのか? 時間は金だ、次遅れたらてめぇのボーナス差っ引いて老朽化した寺院の修繕費に充てるからな」

 

「申し訳ありません。次からは徹底いたします」

 

「はっ。しおらしい事言いやがって。電話越しにその人を喰ったツラを拝んでやりてぇよ。てか今からそうするか? おい、昔気質の代行者の端末にも、きょうびカメラ機能くらい入ってるだろ」

 

「すみませんが、少々電波状況の悪い場所におりまして。それでは却って通信の妨げになるかと」

 

 とっさに、シエルはそう躱していた。話の向く先はまだ明かされていないものの、自分の居場所を気取られるのはまずい。――そう直感した。

 

「ふん……まぁいい。

 結論から話す。代行者シエル、てめぇはこの件から手を引け。今日付けで解任だ。とっとと本国へ帰って、次の案件を受領しろ」

 

 想像の範疇に収まる要件だっただけに、驚きは無かった。いかにも、あの食わせ物の司祭代行のやり口である。

 納得しかねる点は山ほどあるが――かといって司祭代行に面と向かって反抗することは、教会へ反旗を翻すのと同義だ。

その瞬間、自分は代行者の立場どころか、吸血鬼狩りの大儀すら失ってしまう。

要するに、選択権は無かった。

 

「はい、承知しました。今日付けとなりますと……早朝のチケットが取れますかどうか、といったところですが」

 

 端末の画面の端っこで、デジタル文字は午前2時過ぎを指していた。真っ当な手段では、都心部にある空港で、予約を取るのは少々厳しそうな時間帯だ。

 

「帰りの便は安心しろ。俺もそこまで鬼じゃねぇ。夕方、ちょうどいいくらいのを取ってあるよ。半日くらいは、のんびり寝るのを許してやる。借りてた部屋の片付けもあるだろうしな」

 

「お気遣い、痛み入ります」

 

 いやに大盤振る舞いなのは、こちらの心情を慮ってのことか。

それとも……もしもの時の、保険のためか? 

 

 今回の件における、真祖アルクェイド・ブリュンスタッドの暗躍は、司祭代行も関知しているはずだ。あれを真正面から抑え込もうとすれば、上位の代行者のみを選りすぐるにしても、三十人は要るだろう。

 その数も相手の機嫌次第で、十倍、百倍と際限なく伸びる。真祖とは元来、そういう手合いだ。手札は残すに越したことは無い。

 

「ま……だいたい、てめぇの考えてる通りだよ」

 

 見透かしたように、司祭代行は言った。

 

「そうならないように、こっちも策を考えちゃあいるがな。どこまで通用するか、知れたもんじゃねぇ。……ったく、どこのどいつが、ああもぶっ壊しちまったんだか。ヤるなら最後まで責任取れっつの。

 ともかく、だ。てめぇは、たった今から自宅近辺で厳に待機だ。俺の許可が無い限り、決して動くな。

 そんで、午後六時前になったら空港へ向かって、指定した便に乗って帰れ。いいな?」

 

「お言葉ですが」

 

「なんだ。質問なら手短に済ませろ」

 

「ロア討伐の目途は立っているのですか? 私を解任するのは結構ですが、その後、任務遂行に支障をきたすようでは、こちらとしても然るべき人物に報告を上げねばなりません」

 

「んなこと、末端のてめぇが心配することじゃねぇよ。と、突っぱねてえとこだが、俺にも守りたい面子ってもんがある。……豚の分際で、ちったぁまともな脅し文句を思いつくようになったじゃねぇか。

今代に限って、奴が再転生なんざしやがったことは、こっちでも既に確認済みだ。しかるべき人員を向かわせ、早急に対処する。……これで満足か?」

 

「該当人物の所在は掴めているのですか?」

 

「バーロー、教えるわけねーだろ。誰が引っかかるか、そんなカマ」

 

「イエスか、ノーかを聞いています」

 

 しばらく、端末は沈黙した。

幾多ものメリット、デメリットが、かの天才少年司祭の頭脳の中で、秤にかけられていることが、無音の内に伝わってくる。

 

 珍しいこともあるものだ――。と、シエルは心の中で嘆息した。おおむね自分も承知していることだが、今回の案件はよほど不確定事項の多い曲者らしい。

 

「ノー、だ。どこのどいつが、ロアになりつつあるかは調べがついている。

 だが、そいつの首根っこを捕まえてるってほどじゃない。下手に動いて、向こうに気取られるなんてぇヘマは犯したくねぇからな」

 

 やはり、か。そうでなければ、ノエルに抜け駆けをさせたりなどしないだろう。

 司祭代行はもう少し時期を見計らったうえで、遠野志貴を捕えるつもりでいる。それは一時間か、二時間後か……。多く見積もっても、今日の夕刻までには仕掛けるはずだ。

 

つまり、彼の命運もそれまでということ。

 いざ主目的であるロアとの取引を終えれば、司祭代行は容赦なく彼を滅ぼす。腐っても教会に仕える者である以上、そこに例外は生まれない。

 

 逆に言えば、その時が来ればロアは必ず死ぬ。自分が今ここで、彼を殺す必要性は薄い。

 

 シエルはふと、背後の壁に目線をやった。ぼろぼろの身体の少年は、今は壁の元で仰向けに倒れ伏していた。

 ときおり、小刻みにその肉体が痙攣しているのを見るに、亀裂の中から自力で這い出たということだろう。――いよいよ、少年の決意の固さにぞわりと恐怖に似た感情を覚える。いかに不死に近づきつつあるとはいえ、痛みは以前と変わらないだろうに。

 

 少年は……今も遠野志貴なのか。それとも、ロアなのか。

 単なる人間としては、異常過ぎる生命力であることに疑いはないのだが、そう判断するにはあまりにも反証が多すぎるのもまた、事実だった。

 

例えば聖水は吸血鬼にしか効き目が無いが、少年は痛みこそ感じたものの、身体の融解までは至らなかった。通常では有り得ない、実に中途半端な効果だ。

 

 黒鍵も、純粋な吸血種なら致命傷となり得る武器である。これが右肩、左腕と二つの部位に命中しておきながら、やはり活動には、さほど影響は見られなかった。

 

 最後、なにより不可解なのが、トドメの掌底打すらも耐え抜いたこと。

 第七聖典の中でも、最も携帯性に優れた武装――第四死因、衝突死(ブレイク)

手甲型の聖典が放つ一撃は、並みの吸血鬼ならば、その拳圧が掠めただけでも蒸発せしめる威力を持つ。

 

 しかし射程が、他の死因と比べて短いことが欠点で、一定以上の実力を持つ死徒――特に二十七祖級ともなると、あまり出番には恵まれない武装だった。

 近頃ではもっぱら、第三死因、出血死(ブレイド)と合体させての、パイルバンカーとして使用するのみだった。

 

 ノエルからの一報を受け、この洞穴へと駆け付けたシエルは、万が一に備えて、この第四死因を携行していた。

 もしもロアが、遠野志貴の肉体で再転生を完了させていたなら、一刻も早く聖典による転生批判によって、これを撃滅しなければならない。

かといって、あまり大仰な準備――装備換装をする余裕は無かった。それゆえの判断だった。

 

 その衝突死を、遠野志貴は耐え切った。純粋な物理的ダメージによって、肉体はほぼ全損しているものの、生命活動そのものは維持されている。

 肝心かなめの、延命特効が発揮されていない。

 

 つまり、客観的な根拠にのみ基づいて導かれる結論は、以下の通りである。

遠野志貴は、まだロアではない。

 

 熟慮を重ねたうえで、シエルは一つの判断を下した。電話の向こうの相手に、その意図をはっきりと伝える。

 

「司祭代行。連絡の旨、委細、承知しました。わたくしは離脱命令に従い、本国へと帰還します」

 

「ああ、それでいい。犬も豚も、なにより従順なのが一番だ。捕食者だろうが、被食者だろうが、上には従わなくちゃ生きていけねぇ」

 

「ご高説どうも。……もう切っても?」

 

「ん……あと一つ。なーんも使えねぇあの雌豚はどうした? 俺に一報を入れたきり、結果報告が来てねぇぞ。残り短い間とはいえ、書類上はまだてめぇの弟子なんだから、びしっと言っておけ」

 

「ノエルが? ……司祭代行に、連絡を入れていたのですか?」

 

「あ? ……おいまさか」

 

 相手の声色が変わったとみるや、シエルは即座に通信を切った。

当然、間を置かず再度コールされるが、今度は取らない。それどころか、床へと適度な勢いで叩きつけた。

暗闇の回廊の中、大小様々な電子部品が派手な音を立てて散華する。

 

 これは立派な反目行為だが、トラブルがあって端末が壊れたとでも誤魔化せば、いくらでも後で言い訳できる。向こうにしても、急な解任という無理を通しているから、あまり大事にはしないだろう。

 

「これで良し。……さて、これからどうするか、ですが」

 

 シエルはとりあえず、いまだ床にうずくまったままの元同僚の女の元へ、腰をかがめた。

 

「やだ……やだ……」

 

 何事か、うわごとを繰り返している女の声には全く耳を貸さず、その懐へ無造作に手を突っ込む。

 その内から、同じ仕様の端末を抜き取ると、一息に握激で破砕した。唯一残った懸念事項もこれでクリアだ。

 

 ぱっぱっと、手についた水を切るようにして、指に付着した細かな部品を落とすと、シエルは立ち上がって、廊下の先へ足を向けた。ここへの突入の際に使った、出入口のある方である。

 

「シエル……先輩?」

 

 少年のか細い声がした。彼は不思議がっているようだった。なぜとどめを刺さないのか。なぜ何もせずに帰ろうとしているのか。

 

「知りませんよ、もう」

 

 あくまで冷淡に返すつもりだったのに、自分でも制御しきれず、感情が乗った。思ったより、だいぶ刺々しい声だった。

 

「好きにしてください。そうして、好きに死んだらいいじゃないですか」

 

 かつかつ……と足音を響かせて、彼と彼女の残る小部屋から遠ざかる。

 ずいぶんと進んだところで、いったん立ち止まり、小声に付け足した。

 

「お二人で、一緒に」




第七聖典、衝突死(ブレイク)の設定は完全オリジナルです。
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