The world beloved Fool 作:へっこむす
次あたりで話が進むかなあ。
どうかなあ。
続きです。
『ようV!元気になったか!』
開口一番、ジャッキーはまるで言葉を多く知らない子供のような発言をした。側から見れば女性相手に気の利かない奴だ、などと思う者もいるかもしれないが、彼をよく知っていればそのような印象は受けない。
これは彼の最大限の気遣いだ。
三日前は些か妙な雰囲気で話を終えてしまったし、それからメッセージでのやり取りはあっても声を聞く事はなかった。正直Vもどう会話を始めようか迷っていたところだった。
そんな迷いをジャッキーは一瞬で払ってくれた。気まずさも、躊躇いも一切感じさせない朗らかな声音で全てを取り除いてくれた。
確かに少し考えなしな部分があるのは否定しない。だが、それを含めてジャッキーであり、Vの頼もしき相棒なのである。そもそもVはジャッキーの中で異性の枠に当てはまっていない。
「えぇ、ヴィクに治してもらった。神経ウイルスのせいで情緒がおかしくなってたみたい」
Vは用意していた台詞をそのまま伝える。
ヴィクター同様、ジャッキーにも追い追い事情を伝える予定でいる。だがVはそのタイミングを測りかねていた。
ジャッキーは当事者だ。間接的にしか関わっていないヴィクターと違い、彼はVと共に行動する。歪みの元凶の近くにいれば無論その影響を強く受けるだろう。その状況で、不明瞭な未来の話をするのは混乱の原因になりかねないのではないか。元よりジャッキーは一度死の運命を辿っている。要するにこれから何も対策をしなければ貴方は死にます、と伝えたうえで依頼に臨むのか否か。
リスクとリターンを延々と考えながら、Vは決断出来ないでいた。
『そうなのか。大事じゃなくて何よりだ』
「心配かけてごめんね」
『何だ水臭えぞV。こういう時はシンプルにありがとう、だろ』
「そう、ね。ありがとうジャック」
Vの口角が自然と持ち上がる。
この三日間は何かしなければという焦りからあまり穏やかに過ごせていなかった。あれもやってこれもやってと、冗談抜きで目が回りそうだった。気も相当立っていたと思う。その反動もあって、ジャッキーとの会話に強い安心感を覚える。
『で、だ。病み上がりのとこ急でわりぃが話がある。服を着たら下まで来い』
「……どうしたのよ勿体ぶっちゃって。あ、もしかしてこの前言ってたサプライズってやつ?」
『なんだ、お前にしてはよく覚えてたな。ま、そんなとこだ。じゃ待ってるぜ』
いつも通り雑にホロが切られた。
Ⅴはベッドに腰かけたまま全身を力を抜き目を閉じる。大きく息を吸って、吐き出す。
重みなど感じない瞼を意識的にゆっくりと持ち上げて、もう一度深く呼吸をする。
二時間も寝ていないというのに、頭は天然の大自然に囲まれているのかと思うくらい爽やかだ。肉体の疲労もまるで感じない。ブースターをキメて、脳を誤魔化して身体を無理やり動かしているのではと思うほど調子がいい。
このところ毎朝同じ感想を抱いている。人ならざる肉体の神秘には驚かされるばかりである。
ただおそらく今日に限って言えば、その神秘に、主に暴力的な面に関しては出番は訪れない。
なにせ今日は絶望に繋がる道への第一歩を踏み出した記念すべき日。
記憶通りであるなら、この後ジャッキーがデクスの依頼を持ってくる。
「いよいよか……」
手を後ろに付き面白みのない天井を見上げながら、Ⅴはこの三日間を振り返る。
真っ先に取り掛かったのは自分の能力の把握だった。
ゴリラアームを握り潰せる握力と、メガビルディングの屋上まで三、四回の跳躍で登れる跳躍力。それだけでも十二分に凄いが、実際握力と跳躍力は依頼に大きく関わってこない。純粋な腕力や脚力の方が重要度は高く、今の自分に何が出来て何が出来ないのかを知らなければ今後の行動を決めるのに差しつかえる。だからこそ、その辺りを念入りに確認する必要があった。
検証に費やした時間は四十八時間をゆうに超えた。だがその甲斐あって、必要な情報は大体得られたと思う。
五つの運命を集約した腕力はゴリラアーム以上の力を発揮した。バイク、バン、トラック。街を走る車両は全て持ち上げられた。限界を見極められるまで街を歩き回ってもよかったが、単体で重量のある物を見つけられなかったため諦めた。車やコンテナを幾つか重ねて持ってみようかとも考えたものの、誰かに見られたら面倒な事になりかねないので止めておいた。徒らに通報されれば最悪サイバーサイコ認定されてマックスタックを呼ばれかねない。即座に逃げ切れる自身はあるが、負わなくていいリスクを態々負う必要もないだろう。
因みにただのパンチで車が数十メートル吹き飛んだ際に一度経験済みだ。
「準備しなきゃ」
その腕力でベッドを破壊しないよう努めながら、立ち上がってシャワールームに向かう。意識せずとも歩みはいつもと変わらない。しかし使おうと思えば、この足は瞬時に埒外の力を発揮する。
脚力関して調べたのは上に跳ぶ力以外。単純なダッシュ力、走力、キック力。
言うまでもないことだが、どれも常軌を逸した性能を誇っていた。
ダッシュ力とはつまり駆け出す瞬間の力だが、これの差異によって最高速到達までの時間が変わってくる。Vのそれは、もはやダッシュ云々の次元ではない気がした。何せ一歩目から最高速なのだ。車でもAVでもロケットでも、摩擦によってスピードは徐々に上昇する。一部の虫やリニアなどは同じ条件を満たすが、それを人間界に持ち込むのは如何なものか。
自分の身体のことなのに、他人に勝手に弄られた結果だという事実がまるで他人事のように感じさせる。
走力、キック力についても同様だ。
Vの最高速度は正確に測ったわけではないが、少なくともハイパワーの車より早い。単純に考えれば二百マイル近くは出ている事になる。空を飛ぶAVを容易く生身で追跡可能な速度である。ついでに心肺機能も当然異常なので、どれだけ走っても息が切れなかった。
キックは車をパンチ以上に吹き飛ばした。パンチもそうだが、工夫すれば吹き飛ばさず穴を開けたり、ドアだけ破壊したりと用途は多そうだ。
「ふう」
寝る前にも浴びたが、一応という程度だったので少し念入りに。ジャッキーやデクス相手にそこまでする必要性を感じないとはいえ、Vにだって女の矜持というものがある。妥協は最低限にとどめておきたい。
体を見下ろせば小さくはないだろうと個人的には思っている乳房と、不満のないくらいには引き締まった腹部に脚部。異次元の力を持ったとは到底思えない普段通りの体を、用意しておいた肌触りの悪いタオルで拭き、髪の水気を吸わせる。やはり髪は肩まで届くかどうかの長さがちょうどいい。身体の調子に合わせて、髪も輝かんばかりに艶めいている。ハリもよく、色素の薄い髪は銀色にも見えた。
そのままタオルを髪を巻きつけて乾かしている間に、Vはシャワールームからクローゼットまで移動する。
「んしょ」
畳まずに放り投げてあったお気に入りの店で買った黒のショーツとブラ。この時期愛用していたスニーカーとパンツ、トップスに昨日ヴィクターがクローゼットの奥から引っ張り出して来たという大口径ピストル用のホルスターを巻く。当然年季が入っているものの、状態はそこまで悪くない。クローゼットの中にあったとは思えないほどだ。
ユニティ用に使っていたホルスターではサイズが合わず困っていたところに、ヴィクターが気を利かせて譲ってくれた。埃を被せておくには勿体無いし何より、Vになら任せられる、と。
口が弧を描くのを自覚しつつ、その上から黒のジャケットを纏う。これでタオルを取ってドライヤーを当て軽く髪を梳かせば、身だしなみは及第点には届く。スキンケアと化粧をしていない時点でデートだったら完全に手抜きだが、血や汗に塗れる仕事や少し出かける程度ならばこれで十分だ。それに髪と同様、肌は過去に類を見ないほどに絶好調である。
「あとは、と」
Vは保管庫へ足を向ける。二日前に変えたばかりのパスワードを打ち込めば、扉は素直に道を開けてくれる。
その先の空間を視認し、殺風景になってしまったと軽い喪失感に襲われた。
最後にこの保管庫を見た時はもっともっと賑わっていた。壁には世界に二つとない武器達が所狭しと並べられ、床には多種多様な弾丸が散らばり、デスクの上には有り余ったグレネードやらサイバーウェアやらが乱雑に置かれていた。
死への抵抗の証として。努力の結晶として。この空間は存在していた。
それを知ってしまっているからこそ、今の景色が一層物悲しく見えてしまう。全ての積み重ねが無に帰してしまったような気がして。
(そんなことないって、頭じゃわかっちゃいるんだけどね)
全てはVの中に詰まっている。圧縮され濃縮された積み重ねは確実に存在している。
今はまだ、実感するための証明書はないに等しい。だが、これからなのだ。まだ始まってたったの三日。これからまた、一つ一つ増やしていけばいい。今度はもっと拘りを持って、綿密に計画を練った上で誰もが羨むような空間を作り上げてやろう。
Vは後ろ向きになりそうな己の心を無理にでも前へと押し出す。
(さて、持ってくものは)
デスクの上にはもはや置き物と化してしまったユニティとその弾薬。いざという時のための護身用ナイフ。グレネードが二つほど。
ジョニー擬きの言では確か、武器全般は持つことも出来なかったはずだ。だが実際には持つ動作自体は出来た。出来なかったのは攻撃の意思を持ってそれらを扱うことだ。
ただ持ち運ぶのに不都合は発生せず、しかし普通に使うなり投げたりなど攻撃手段にしようとした途端、手に雷でも落ちたかのような信じられないほどの痛みが生じた。
尋常ではない痛みに驚けばいいのか、この体にそれほどの痛みを与えてくる電流の強さに慄けばいいのか。ユニティとナイフでそれぞれ三回ずつ。計六回分を受けて、Vはもうその辺の武器を握ろうとは思えなくなった。
それらの隣には今や唯一扱える武器となってしまった至極色の銃。何をしても拒絶して来ないレムニスケートには安堵すら覚え始めている。何となくジョニー擬きの掌の上のような気がして腹立たしいうえ、銃の性能自体は安心感とは無縁のものだったが。
(確かに威力はあったけど……)
元々提供されていた情報はそれだけで、無論そのまま重要な依頼に臨むわけにはいかない。だからこそ詳細を知っておくために調べに行った訳だが、些か反省点が多かったように思う。少なくとも人に使う前に、まずは一度無機物で試してからにしておくべきだった。
まさか撃ち出す前にチャージが必要だとは思いもしなかった。この銃、見た目は完全にパワー武器のくせに実はテック武器だったらしい。おそらく事故で善人を殺めてしまわないための措置なのだとは思うのだが、如何せん扱いが難しい。
スカベンジャーと繋がりのあった闇クリニックの店主。頭を吹き飛ばそうとしてトリガーを引いたのに、チャージを始めるものだから実に驚いた。何とか表には出さなかったと思うが、冷や汗ものだ。
因みにキロシとの連動の件もその過程で判明した。何とこの銃を人に向けた状態でレティクルを覗くと、その相手が善か悪かが色で表示されるのだ。善人、つまり殺してはいけない人間は全身が緑の枠で囲まれる。悪人の場合それが赤に変わる。何を基準に善悪を判断しているのかは甚だ疑問ではあるものの、銃が決めてくれるのであればVとしても難しい判断を迫られなくて気が楽だ。
レムニスケートを手に取り、マガジンを確認する。ここでもこの銃はサプライズを起こしてくれた。弾はヌエと同じ口径のものでよかったのだが、何と最大装填数がたったの三発のみだったのだ。
チャージに三秒。チャージが完了した状態が続くのも三秒まで。そして弾数は三発。
三に塗れた新たな隣人は、一緒にいると心地いいものの何とも頼りづらい。一癖も二癖も、それこそ三癖もある。友好的な関係を築くのに必要な時間はどれほどか。三日か、三週間か、三ヶ月か。三年は勘弁して欲しいと思う。
「ま、気長にね」
未来の相棒を古くも新しいホルスターに仕舞い込み、Vは保管庫に存在する最後の要素を流し見て部屋に戻る。
使い古されたヘルメット。見窄らしいロングコート。時代遅れのマスク型変声機。ノルマを達成するために用意した変装セットだが、今日は使わないのでお留守番だ。
(もっとジョニーっぽさ出せるようにしなきゃなあ)
ノルマを熟す際は普段の自分からかけ離れた人格を演じると決めた時、真っ先にジョニーが浮かんだ。無理もないだろうとVは思う。
デジタルゴーストとして事あるごとに視界に映り込み、煙草を吸うなり愚痴をこぼすなり、最後の方は日常の風景としてそこにいた。そうでなくても脳が勝手に侵食され自分の意思とは関係なく彼に感化されていたし、時には体の運転を任せたことすらあるのだ。コピーするのにこれ以上の人物はいないだろう。
しかし今、ジョニーが頭からいなくなり脳が正常に戻ると、思ったよりも彼の再現が難しいことに気がついた。歩き方、仕草、独特な癖。自然とやっていたはずの動作に違和感が生じるのだ。
煙草を吸うのもその一つ。
過去に戻り、ニコチン中毒者に毒されていた脳が浄化されたためか、不必要に煙草を吸いたいという意欲が湧いて来ない。三日前に暫く吸わないと決めて吸った一本も、安物というのを抜きにしてもあまり美味しいとは思えなかった。統合されたのはジョニーと別れた後の未来の自分だというし、その辺りが何かしらの影響を与えたのかもしれない。
「ローグあたりに指導してもらおうかしら……なんてね」
ジョニーをよく知っていて、今も生きている人物。無論思い浮かぶのは関わりを持った事のあるローグやサムライの面々。何度か世話になった恩もあるし、また一から関係性を作り直す努力をしてみてもいい。
とはいえあの関係は全てジョニーが間に立って初めて成り立つものだった。彼抜きで始めるとなると、難易度は数段跳ね上がるだろう。特にケリーとローグは不可能に近い。ジョニーの音楽抜きではケリーの信頼は得られないだろうし、ジョニーの記憶がなければローグの心は動かない。ピースの欠けたパズルだ。どれだけ完成させようと足掻いたところで結果は同じ。決して報われない努力の一つ。
(考えるのは色々片付いてからよね)
忘れ物がないことを確認し、部屋を出る。
するとすぐに人や飲食店、銃火器などの熱気が綯交ぜになった空気が襲ってくる。人間集積場から発される空気は淀み切っており美味しくない。はっきり言えば臭くてまずい。自分が何者かであるつもりだった時はまだ嫌いではなかった。ここにいる誰にも出来ないことをして、ここにいる誰よりも上に行く。その野心をここに立つ度、この空気を吸う度に意識出来た。
だが野心から解放されてからはただ暑くて臭くて騒がしいだけの場所になってしまった。死神の鎌に怯えなくていい人々を煩わしいとすら思っていた。今思えば八つ当たりもいいところだ。
それほどまでに、Vは追い詰められていた。
「V、どうだ、一戦してかないか?」
短い階段を降り、屋台の間を抜けてジムに通りかかる。するとガタイのいい坊主の男が声をかけてきた。彼はフレッド。元ボクサーで、引退した後はこのジムを経営している。ここに越してきてから偶にこうして声をかけてくれる気のいいやつだ。過去には賭けボクシングに誘ってもらい、幾らか稼がせてもらったこともある。
そんな彼は今、機械にしては機敏な動きを見せるロボットの側でVをスパーリングに誘って来る。以前であれば乗っていたところだ。実際前回は乗った気がする。
「悪いわねフレッド。また今度にするわ」
「そうか、仕方ないな」
が、残念ながら今はノーを返すしか出来ない。
よっぽどロボットの具合を確かめたかったらしく、あからさまに肩を落とす大男に申し訳なくなるも、答えは変わらない。何せこちらのパンチはヘビー級どころかパンツァー級。彼が丹精込めて、かはわからないが直したロボを秒でスクラップにしたくはない。
「おいV!新しい銃がママを待ってるぞ!見てけよ!」
フレッドに頭を下げながらジムを横切り、さて漸くエレベーターだというところで今度はその反対側から大きな声で呼びかけられる。声の主はささやかな気持ちとばかりに生えた髪の毛と、でっぷりと突き出た腹部が特徴的な男。
八階にある銃砲店、セカンド・アメンドメント店主、ロバート・ウィルソンである。
彼とは転居して来てから割と早い段階で交流を持った。当時は高威力かつ使い勝手のいい武器を求めていたしウィルソンの武器は渡りに船だった。とはいえ使い勝手がいいというのはあくまでV個人の感想であって、実際彼がカスタムした銃は賛否両論である。何処までも個人の拘りを重視して調整されているため、反動やリロード、グリップの握り具合など様々な点に癖がある。それが誰しもに受け入れられるはずもない。偶に通な傭兵から大きな仕入れもあるようだが、基本的には赤字の月ばかりなのだ。
売り上げに貢献したい気持ちは大きい。だが何分レムニスケートと無理やり身を固めさせられてしまった手前、装備出来ないものを買っても仕方がない。それに仮に浮気をしようものなら、相応の罰を与えられてしまう。地獄の責苦のごとき罰をだ。コレクションとしてなら購入を考えなくもないが、それは懐に余裕ができてからでないと難しい。
「ごめんねウィルソン。また今度にさせて」
エレベーターを呼びながら、ウィルソンに手の甲を見せて謝罪を送る。つれないだの何だのという不満が後頭部に飛んでくるも不快感はなく、かえって懐かしい感覚に頬が緩む。
到着したエレベーターに乗り、一階と記されたパネルを押せば扉は閉まり下降が始まる。もはや日常の一部と化しているはずの動作。にも関わらず、心はやけにざわついている。地味に煩いテレビから反対側の壁に背中を預け、今日何度目かの深呼吸。
いよいよ訪れる再会の時。
長かったようで、短かったような。昨日まで隣にいたような気もするし、遠い遠い昔に別れてしまった気もする。この感覚はとても言葉では言い表せそうにない。
いつも遅いくらいに思っていたエレベーターが今日ばかりはやけに早く感じる。あと少し、もう少しだけ時間をくれと願う。でも上下に動くだけが仕事の鉄塊に届くはずもない。
降下が終わり扉は開かれる。
「……よし」
もう何度目かもわからない、作り物の笑顔を貼り付ける作業をこなす。ただただ普通に、いつも通りに。ひたすらそれだけを考えて、エレベーターから降りロータリーへ向かう。
途中、すれ違った二人の警官から二十三人の犠牲者という言葉が聞こえてきた。それから先日シティセンターでサイバーサイコが暴れたらしいということも。
この時期にそんな事件あっただろうか、と思いはするものの、今考えることではないと思考を切り替える。
一段一段踏みしめながら階段を降りた先。目を向ければそこには彼がいた。
美味しいのかどうかもわからない料理を豪快に口へ運ぶ姿は見慣れたもの。口の周りは汚れているし、側から見ればあまり綺麗な食べ方ではない。前に自分のことを棚に上げて、もう少し丁寧に食べろとぼやいたこともある。
なのにどうしてだろう。彼の全てに文句など浮かびようもなく、胸中の殆どを喜びが埋め尽くしている。
「お、V様のご登場だ」
(あぁ、くそ……)
本当ならこの喜びを爆発させたい。抱きついて、背中を叩いて、存分に泣いて、よかったと、ごめんなさいと喚きたい。
でもそれはまだしないことにした。
彼の命を、優しい人達の笑顔を確実に護れるまでは。
「ジャック……元気そうで、よかった」
ヴィクと会った三日前とは比にならないほどに荒ぶる感情。
震えそうになる声。
歪みそうになる笑顔。
Vはこれまでの道のりで培ってきたもの全てを総動員して自然体を創り上げ、渦巻く感情を抑え切ったうえで漸く言葉を発した。