俺は一体誰なんだろう。そう思ったのはこれが初めてではない。
死んだはずの人間が何をやってるんだろう。この考えが頭をよぎるのも、これが初めてじゃない。
「はぁ、はぁ、はぁ」
もはやどこへ向かっているのかもわからない。
どこへ行ったって同じなんじゃないかとすら思う。
『売女が――』
『誰かに媚を売るばかりで中身が――』
『いつも距離を置いて――』
聞きたくないはずの言葉は、耳を塞いだ両手の甲を貫いて耳に侵入してくる。
走る足音よりも、うるさいはずの呼吸音も、爆発するようになっている心臓の音よりも、鮮明に聞こえてくる。
俺はどこへ向かっているんだろう。
どこへ行けばいいんだろう。この町から逃げ出しても、たどり着ける場所はもうどこにもないのに。
居場所がない。どこにもない。逃げられる場所が、見当たらない。
『お前のせいだ』
違う。
『帰る場所を焼いてきたのはお前じゃないか』
違う。
『なぜお前だけが生き延びている?』
違う。違う違う違う!
町の人たちの顔ぶれがいつの間にかに変わっている。
村の人たちだ。懐かしい、俺の家族たち。短い間だった。それでも好きだった。
普通な村だった。何かがあるわけじゃないけれど、何か不足があるわけでもなかった。
なのに、どうして。どうして、あの兵士たちは。
「ねぇ、ひょっとして気づいちゃった?」
耳元で囁くような声。振り返っても誰もいない。
振り返った方とは反対側の耳から、また囁かれる。
「――村が焼かれたのは、自分があの村にいたからだって」
「あっ……」
「嘘だって言える? この町で起きた、これまでの事を考えても」
――俺は普通じゃない。
もう目を背けてもいられない。そうなのだ、じゃないと説明ができない。
わからないけれど、俺には何かがあるらしい。
その何かを知ってる誰かが、あの兵士たちを向かわせたのだったら?
それはもう、俺がみんなを殺したのと同じじゃないか?
走っていた足がふらりと止まる。
偶然なのかどうか。その場所は、とても見知った場所だった。
「……野良猫亭」
看板は出ていて、中からは賑やかな声が聞こえる。
開店中みたいだ。もう時間だもんな。
呼吸が煩い。怖い。怖くて怖くて仕方がない。
「怖いよね」
耳元から声が付きまとう。姿は見えないお前は、一体誰なんだ。
「ここでも否定されたら帰る場所がなくなっちゃうもんね」
「そんなこと。そんな、こと」
「大丈夫? 見なかったことにしよっか。知らなければ、気にする必要なんてないもんね!」
聞こえてくる声は楽しそうだ。
何がそんなに楽しいのか、聞く気も起きないほどに。
「大丈夫大丈夫。都合の悪いことは見て見ぬ振りして、表面上だけ取り繕って、また明日からいつも通り。……いつもやってることでしょう?」
「うるさい、うるさい、うるさい!」
声を振り払うように、俺は野良猫亭の扉を開き――入り口をくぐる。
野良猫亭の一階は、いつも通りの姿だ。
常連さんがいて、給仕服を着たアリスちゃんが必死にお皿と笑顔を振りまいている。
マスターはお堅い表情でカウンター席の人と話をしているし、自称料理長は時折顔だけ出しては食べてる人を満足そうに眺めている。
いつもの、見慣れた光景だ。
入ってきた俺に、アリスちゃんが気が付いた。
「お姉さん!」
「アリス、ちゃん」
「お帰りなさいお姉さん!」
変わらぬ笑顔で、俺に抱き着いてくる。
温かい。震える腕で、そっと抱き返す。
「どうかしたの? どこか痛いの?」
「ううん。何でもない」
涙が出てくる。優しい温度。
周囲がこちらを見る眼に、先ほどまでの冷たいものはどこにもない。
マスターのものだけはさっぱりわからないけれど。これはこれでいつも通りだ。
「ねぇ、ちょっと悪い夢を見てたみたいで」
「それは大変!」
しゃがむように要請され、その場にしゃがむ。
すると、アリスちゃんがその小さな手で俺の頭を撫でてくれる。
優しく、丁寧に。
「アリスちゃんは優しいね」
無意識に漏れた言葉だった。
この温もりが、とてもありがたかったから。
――本当に、不用意に放った言葉だった。
「うん! だって、その方が得だから!」
「…………え?」
一瞬、脳が思考を拒んだ。
聞き間違いだと思う。目の前のアリスちゃんはどこまでも屈託のない笑顔で、純粋なものだったから。
「お姉さんがそうでしょ? その方が得だから、その方がいいから。そう言うの全部考えて動いてやって、今の今まで繋いできたんだもん」
「そ、れは……」
「うん! わかってるよ! そうしないといけない状況だったからだもんね! 私もお姉さんに捨てられたらまた奴隷に戻ることになるだろうから、そうしないといけないんだ!」
思わず撫でてくれている手を払って、数歩下がってしまう。
拒絶されたのにも関わらず、アリスちゃんの笑顔はそのままだ。陰りのない太陽のような笑顔、不気味なほどに。
「お姉さんに媚を売って、お姉さんの自尊心を満たすために動いて、顔色を窺って……。そうやって初めて、生きていけるんだよ!」
「ち、ちがっ! 私はそんなつもりじゃ」
「でも、お姉さんは信じなかったでしょ? ――自分がそう言ってもらった時も」
過去の出来事が想起される。
ああ、確かにそういう声を貰ったのは何度もあった。何度も何度も、助けてくれるという声はあった。
全部嘘だと切り捨ててきた。純粋な善意なんてない。信じられないと。
「そうやって汚く生きていくしかないんだよ。私たちは汚い生き物なんだから」
「そ、そんなこと……」
否定できるのか? 本当に? 俺が、この言葉を?
「受け入れてもらえる、なんて高望みだよ。私たちはずっと、ずっと、汚れたまま。ついて離れない罪が付きまとったまま。付き合い続けるしかないの、寄生虫でしかない私自身と」
怖い。
アリスちゃんの視線が、瞳が、俺の全てを見透かしているようで。
「まあなぁ」
常連さんの方から、声が聞こえてきた。
「シャーロットちゃん。俺たちに心開いてくれてないもんな」
「そ、そんなことは」
「気が付いてないと思ってるのか? 接客するとき、いつも俺たちの顔色ばかり窺ってるだろ?」
「それは、お客さんですから……」
「本当にそれだけなのか? ――心の底で、俺たちの事を見下してたからじゃないのか?」
言葉を失う。
そんなつもりはない。でも、今の言葉に返せる言葉を、俺は持ち合わせていない。
違うのか? 答えられない。わからない。
いっつも昼間からお酒を飲んでていて、仕方のない人たちだと思っていた。愚痴に付き合う時も、しょうがないと思っていた。これは見下してたんじゃないのか?
憐れみをかけていたんじゃないのか? それが根底になかったのか?
わからない。今の俺には、答えられない。
「自分とは違う、なんて馬鹿にしてたんじゃないか?」
「ち、ちがっ」
「本当に?」
アリスちゃんが遮ってきた。
純粋な、まんまるな目。裏も表もないからこそ、今一番直視したくない。
「お姉さんはいつもそう。心のどこかで壁を作って、一人だけの世界で生きている。なのに、一人が怖くて、表向きは繕っちゃう」
刻々と告げられる言葉はどこまでも冷たくて。
雰囲気は温かいいつもの野良猫亭なのが、余計に違和感を増長させる。
「怖いんだろう?」
「周りの人がそれに気が付いてないと思ってた?」
「浅はかな自分を見て見ぬ振りして、いい気分に浸れてた?」
何だろう、空気が上手く呑み込めない。
周りの人の笑顔が恐ろしい。俺だけが、この空間で異物なのだ。
笑え。
脳裏によぎったのはその言葉。
そうだ、笑わないと。
異質なら、混ざってしまえばいい。
受け入れてしまえばいい。
いつもそうやってきた。苦しければ、辛ければ、笑って流してしまおう。
一度混ざれば辛くない。そういうものだと受け入れてしまえばいい。
周りの人とだってそうだ。
後ろから声が聞こえてくる。鮮明に、周りの喧騒に一切打ち消されないままで。
「辛いのは拒絶されるから」
なら、最初から求めなければいい。
「そう、いつも通りに」
相手が何を望んでるのかに合わせて。
自分からは求めないで。
ただそこにいられるように、大衆に混ざってしまおう。
人をもっと属性で分類して。自分も一つの記号として。
自分を出さずに、周囲の色に合わせてしまおう。
「そうだよ。ただでさえ私達は人に迷惑をかけるんだから」
さっきから耳元で囁くように聞こえてくる背後からの声。
この声の正体が今わかった。
振り返れば、大人しく声の主は姿を現した。
「……やっぱりですか」
「そうだよ、わかっていたでしょ?」
そこにいるのは俺の姿をした誰か。
俺ではない。俺はこんな風には笑えない。
つまり――。
「私を殺して手に入れた二度目は楽しかった?」
――俺が奪った。この体の持ち主。
何度も思った。俺はこの体に転生したけれど、その転生は本当に自然なものだったのかと。
ひょっとしたら、本来産まれてくるはずの誰かを殺したんじゃないかって。
その座を奪って生きてきたんじゃないかって。
「あなたがいたせいで、本来の私はこんなところでしかでてこれなくなっちゃった」
手に回して、まるでご機嫌に散歩をするように、彼女は俺の側まで寄ってくる。
「でも、思えば最初から貴女の生き方は決まってたんだね」
目の前までくるとぴたりと止まり、今度はキスするかどうかぐらいまで近くに顔を寄せてくる。
相手の呼吸の音が耳に入る。
「誰かの居場所を奪って、蹴落として、そのくせ平気な顔をして生きていく。それしかなかったんだよ。私を殺した時点で」
ああ、そうなんだ。
最初から決まってたんだ。
「だからほら、高望みはやめなよ。受け入れて楽になろう。……元々、無理な話だったんだよ」
まるで子供をあやすように、肩の上から手を回すようにして抱き着かれる。
左肩から囁きかけてくる声は、とても甘い響きを秘めていた。
「最初に戻るだけ。ううん、戻りすらしない。いつも通り、人の顔色を窺って生きていこう。心を許さなければ、誰も傷つかないんだから」
ああ、そうだ。
色々言われて辛かったのも、人に受け入れてもらおうと思っていたからこそ。
それを無くしてしまえば、辛いものは何もなくなるんだ。
その通りなんだろう。正しいと思う。
もう一人の俺の言葉はするすると耳に入ってくる。
一言一句、もはや直接頭に情報が入ってきているかのよう。
ああ、本当に正しい。俺は受け入れて欲しかったんだ。受け入れてもらいたかったんだ。
でも、そんな生き方してこれなかった。今後もできやしない。
その度に傷ついて、その度に苦しんで。
ならもう、全部諦めて捨ててしまった方がいい。
「ほら、最後の試しが来たよ」
「……試し?」
「そう、私達が平和に、心安らかに生きられるようになれたかの試し」
もう一人の俺の言葉と共に、激しく扉が叩きつけられる音が店中に響き渡る。
視線を上げて、入り口の方を見る。
「……リヴェン」
そこにいたのは、それまで走っていたのか息を切らせた様子のリヴェンだった。