私は落ちた。海に落ちた。
辺り一面の澄んだ青。見上げれば空高く昇る太陽。遠くには鯨が遊泳するのが見える。なぜこんな沖合で身体を海流に委ねているのか、私はなにも覚えていない。ただただ柔らかい重力と口元から溢れる泡沫が私にはある。
ゆるりゆるりと海底を目指し、澄んだ青色は明度を失う。どこか心地よいまどろんだ意識の中、私は死を悟った。揺蕩う海月のように、このままゆりかごに揺られるように死ねるのなら、それも悪くはなかった。
そっと、下から支えられるような力を受けた。
大きな地面。直接は掴めないものの、見つけた突起にしがみついて着地する。鯨だ。遊泳していた鯨。なぜか、私はさっきみた鯨と同じであると分かった。近くで見るとずっと大きい。その背びれに掴まって、海流に逆らうように大海を泳ぐ。呼吸のためか、鯨の背は私とともに外界と繋がった。広がるのは、満点の星。人工的な光を一切合切排した世界で見られる、自然の光で満ちた夜の空。どうやら気絶していたらしい、落ちてすぐは昼時だったはずだ。
鯨の背で仰向けになり、満月と星を仰ぐ。鯨が潮を吹くと、さらに光は数を増した。太陽を反射した星。更にその光を受けた水しぶき。昼に劣らない明るさと、海に劣らない幻想が広がった。
「しょっぱいや」
辺りを見回しても、船はない。水平線に島も乗っていなければ、水面に浮かぶ漂流物もない。大海にできた、たった少しの足場。それを、私が独り占めしている。なんだか少しだけ嬉しかった。誰もいないのに、頬がほころんでしまう。絶望的な状況なのに、これもいいかと納得してしまう。
しばらくその状態で遊泳すると、再度鯨が潜った。同じように背びれに掴まって、海中を駆ける。だが夜の海は体温を急激に奪い、意識がまた遠のいていく。背びれを掴む手にも力が入らない。するりと手から背びれが抜け落ちると、あっという間に最初に見たような光景だ。遠くには遊泳する鯨だけ。まどろむ意識に、吐き出される泡沫。そんな私の最後に聞こえたのは、低い鯨の鳴き声だった。
目を覚ませば、背中に砂の感触が伝わる。首をもたげれば広い海と水平線を昇る日の出が見える。青ざめた海の中ではない。遊泳する鯨は見えない。
低く、唸るような声がした。
すぐに力を振り絞り、地を踏みしめ立ち上がり、網膜が焼けるような痛みを堪えながら、日の出に紛れる大きな尾ひれを見た。
「ありがと」
潮風を受けながら、私は大きく手を振った。
一時期界隈で有名になった海テーマの1000文字小説に応募し忘れました。
せっかくなので、カクヨムからハーメルンに鞍替えしつつ、分かりやすい私の作風に触れてもらおうと投稿しました。
少し詩的な表現が普段よりも多いですが、今後もごく短い短編はこんな感じになるかもしれません。
以後よろしくお願いします。