胸のすくような爽やかなにおいが。
自分がどうなったかも分からない。
ただ
懐かしい。
アンベルが執務の合間に礼拝堂に遊びにくるたび、彼女のために
「ディルクス様はきっと世界で一番優しいわ」
ある穏やかな午後。まだディルクスが誰の命も奪っていない、平和だったころ。
訪ねてきたアンベルは、礼拝堂の椅子でまどろみながらそう言った。
「なんです、急に」
「ふふ、施設の子が言ってたんです。あなたがこっそりとおやつをくれた、って。
「それだけで世界で一番だなどと、言い過ぎです」
「ううん、きっとそうよ」
アンベルは
「だって私も、あなたの優しさに救われたんですもの」
「優しさ、ですか。それはたとえば、お昼寝されるアンベル様へ毛布をかけるとか?」
今みたいに、とディルクスは用意していた毛布を彼女へとかけてやる。
ありがとうとアンベルは微笑み、しかし首を横に振る。
「それだけじゃないわ。お母様の葬儀の日、あなたは私を救ってくれたのよ、ディルクス様」
懐かしい日の記憶が
「ええ。ディルクス様は見苦しくても吐き出した方がいいって言ってくださって……私、領主の娘として弱音を吐くわけにはいかないって思いこんでいたもの。でも、あなたの言葉のおかげで今は前を向いて歩けている。昔のお母様みたいに、ね」
アンベルは目を閉じて幸せそうに呟く。
「ディルクス様はきっと世界で一番優しいわ……きっと……」
彼女が少しでも休めるようにと
母の死を乗り越えた彼女が──孤児を育て、民を導くことに心血を注ぐ彼女が、少しでも安らげるようにと。
「優しい、か」
僧侶になると誓った幼き日から、そう
邪族に滅ぼされた村で一人泣いたあの日から、ずっと。
村人たちの弔いをしてくれた
ずっと努めてきた。
困っている人に優しくできる人であろうと。
大切なものを喪った人に優しくできる人であろうと。
為すすべなく全てを奪われた幼いころの自分と同じ痛みを抱える人を、少しでも救えるようにと努めてきた。
それをアンベルに認めてもらえて。
あの頃から己に誓ってきた生き方を肯定された気がして。
穏やかな寝顔のアンベルを見て、ディルクスはふっと口元をゆるめる。
「……嬉しいものだな」
ここは
僧侶たる自分にとっては、はじめ、死者を弔うための匂いでしかなかった。
それがいつの日か、彼女のために
安らぎの象徴へと変わっていった。
午後の
ここは
ここは、幸せの匂いがする。
* * *
叶うのであれば、あの場所へ帰りたかった。
もう一度彼女に会いたかった。
けれど今となっては、もう──……
いや。
優しい僧侶として人々を助けられるのであれば、なにも思い残すことはない。
彼女だって困ったように笑って許してくれるだろう。
片耳の僧侶・ディルクスは、そうして命を全《まっと》うした。
命を、全《まっと》うした。
* * *
アンベルは懐かしい匂いに顔を上げた。養護施設の子供たちと畑を耕している最中だったのだが、ふと
「……ディルクス様?」
父の凶行から助けてくれた僧侶の名を呟く。
人を殺した罪を、背負ってくれた彼の名を。
その時、遠くで雷鳴がした。
西の空から雨雲が迫ってきている。
「どーしたの?」
「なにかあった?」
「ちょっと休むー?」
施設の子たちの言葉に、アンベルは我に返る。
それから、優しく育ってくれたという感動を覚えて頬がゆるむ。
「なんでもないわ。雨が降りそうねと思って」
「そだねぇ、やだねぇ」
「髪の毛ぼさぼさしちゃうー」
「雨きらーい」
「ええ、そうね。でも……」
アンベルはかつて流した涙を思い出して、ふっと笑った。
「雨のあとには作物がよく育つわ」
どゆことー? と口々に疑問を浮かべる子供たちの頭を撫でる。
「はやく耕してしまいましょうってことです。手を止めてごめんなさいね、続きをしましょうか。立派に作物が育つように、ね」
アンベルは子どもたちと共に
かつての彼の優しさが今も私を支えてくれる。
「ああ、春が待ち遠しいわね」
雨のあとに育つ作物が楽しみでしかたなかった。