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オシャレなカフェに行くのは人生で二度目だ。
入店のベルをできるだけ静かにやり過ごしたつもりだったけど、「いらっしゃいませ」と声をかけられてしまった。ドキリとして首をめぐらすと、すぐ近くに店員さんがいた。
「あっ、あっ、ひ、一人できました! 一名様でご来店ですっ」
背筋を正し、人差し指を一本立ててみせる。と、なぜかキョトン、とした表情が返ってきた。なんか間違えたかな、と肺がヒンヤリしたところで「ひとりちゃん」と救いの声が聞こえてきた。
「こっちこっち!」
小さく手招きする女の子を見つけた。喜多ちゃんだ。大きく安堵の息が出た。今なお不審の目で見つめてくる店員さんにふにゃふにゃと軽く会釈をして、特に意味もなく腰をかがめながら彼女のもとへ向かった。窓際の席だった。
「店員さんとなに話してたの?」
席に着くなり喜多ちゃんが訊ねた。
「ええと……ちょ、ちょっとした世間話を」
「ふうん? 知り合いなの?」
「い、いえ。そういうわけでは」
「へえー。初対面の人とも話せるようになったんだ?」
半分茶化すように、半分は感心したような口ぶりで笑う。しばらくぶりに見た笑顔だった。
「あ、さっそくだけどなにか頼む?」
メニュー表を開いて見せてきた。少し首を伸ばして、書かれた文字と写真に目を通す。ドリンクだけでも思いのほか品数が充実していて尻込んでしまう。
「あ……さ、先に喜多ちゃんどうぞ」
「そう? じゃあね……あ、これにする」
彼女の方は、あっさり決まった。写真を指さし見せてきた。シンプルなホットコーヒーだった。
「ひとりちゃんは?」
「あ、じゃあ私も──」と言いかけたところで、『ホットココア』の文字を見つけた。慌ててそっちにする。コーヒーは飲めなくはないが、苦いよりは甘い方が好きだ。
「ココアね。りょーかい。──すみませーん!」
喜多ちゃんが手を挙げた。よく通る声が店内に気持ちよく響いて、店員さんもすぐに気づいて来てくれた。
慣れた様子で注文を済ませると、喜多ちゃんは「それにしても」と始めた。
「しばらく会ってなかったのに、なんだか全然久しぶりって感じしないわね」
「あっ、そうですね」
割と頻繁にロインしてるからだと思う。
「バンドの方は? 調子よさそう?」
「ええまあ。そこそこファンの人も増えてきて、チケットも割と捌けるようになりました」
「ほんと? ふふっ、よかった」
「き、喜多ちゃんの方は……大学はどうですか?」
「うん、充実してるわよ。友達も結構できたし、サークルも楽しいし」
「あっ、よ、よかったですね」
思わず目線を下げた。何だか話を聞いてるだけで眩しくて目がチカチカしてしまいそうだ。
「勉強は大変だけどねー。単位落としたらお母さんになに言われるか分からないし」
「あっ、お母さんそのへん厳しそうですもんね」
「そうよー? 私だって遊び呆けてるわけじゃないんだからね?」
「そ、そこは別に疑ってないですけど」
ふふ、とまた彼女は口元に笑みを作った。つられて、私も顔が緩んだ。
この柔らかく懐かしい雰囲気。まるで高校生の頃に戻ったみたいですごく落ち着く。
「お待たせしましたー」
と、考えていたところに店員さんがやってきた。ドキッとする。強引に意識が現実に落ちてきた。
コーヒーとココアがテーブルに置かれる。
「ん〜、いい匂い」
喜多ちゃんはコーヒーカップを口の前に運んで、小さく円を描くように回した。ソムリエみたいな所作で冷ましながら湯気をくゆらせる。それからゆっくりと口をつけ、カップを傾けた。
「ふう──にぎゃい……」
「あ、苦いんですか?」
絶対「おいしい」って言うと思ってた。
「だってブラックだもの」
苦笑しつつ、もう一口いく。「やっぱりにぎゃい」と渋そうに口を横に結んだ。
「こ、これで口直ししますか?」
ココアを喜多ちゃんの前に進める。しかし、彼女はかぶりを振って、
「ありがと。でも大丈夫。お砂糖いれるから」
テーブルの横に置かれているガラスの瓶に手を伸ばす。中には白と茶色の角砂糖がいっぱいに詰まっている。蓋を開け、喜多ちゃんは二つほど取り出すとソーサーの上に置いた。そのうちの一つをスプーンですくい、コーヒーの上に落とした。
くるくるとスプーンで甘い塊を丁寧に混ぜ回し、それから再びカップを口に運んだ。
「ふう──おいしい」
そして今度こそ、その感想を口にした。
「あっよかったですね」
「えへ、最初からカッコつけずに入れればよかった」
おどけた言葉に、自然と笑みがこぼれた。喜多ちゃんがたまに見せる無防備な瞬間に私はどうも弱い。
そんなことを悟られないよう、私もカップに口をつけた。ホットココアの甘い香りを深く吸い込む。次いで口の中には芳醇な甘さとコクが広がって、喉に流せばココアの柔らかな温かさが全身に涵養していった。思わずほぅ、と細い息が漏れ出た。
「リョウ先輩と伊地知先輩は元気?」
「あっはい。二人とも相変わらずですよ」
カップを置いてそう答える。
「そう。……ふふっ」
「え、な、なにか?」
「ごめんなさい。『相変わらず』って言い方がちょっとおかしくて」
「そ、そうですか?」
考えてみれば、一応先輩の二人に対して少し馴れ馴れしかったかもしれない。とはいえ、もう三年以上の付き合いになるのだから、そこまで不自然でもないような気もするんだけど。
「でもよかった。皆、変わってないみたいで」
もう一つ、角砂糖をコーヒーに落としながら喜多ちゃんは言った。
「あっ喜多ちゃんも相変わらずみたいで安心しました」
「私? そう? 私は結構変わったかなーって思うんだけど」
ふふん、と得意げに彼女は口角を持ち上げた。
「え、そうなんですか? ……す、すみません、どのへんが……?」
「あはは」と歯を見せて笑い、「そんなジロジロ見ても分からないと思うわよ」
「ええっと……あ、髪切ったとか?」
「見た目じゃないって〜」
ううーん、と顎に手を当て考える。見た目じゃないとなると中身なのかな? でも、中身の変化なんてそれこそ他人に言われるまで自覚できないものだと思うのだけれど。やっぱり明確に変わったと思える何かが彼女にはあるはずだ。が。それが分からない……。
探しあぐねていたところで、喜多ちゃんはソーサーにカップを置いた。さらりと答えた。
「私ね、彼氏できたんだ」
…………。
「え」
「彼氏。半年前にできたの」
「あ、そ、そっ──それは……それはそれは……」
「もうっ、そんなにびっくりしなくても〜」
喜多ちゃんの陽気に笑う声が頭に響く。何度もぐわんぐわんと反響する。脳みそが揺れている気がする。
「……えっと、どうかした?」
「あ……は、いえ。すみません、なんっなんでもないです」
夢から覚めたばかりのような感覚で、私は大きくかぶりを振った。
「な、なんかその……喜多ちゃんに彼氏って、全然信じられなくて」
「えーっ? なんかちょっとひどくなーい?」
優しい目で彼女は睨んでくる。子供のように頬を膨らませる仕草は普段なら可愛いと思えるはずなのに、今はおぼろげにしか意識に映らない。意味もなく唇を舐めた。ひどく乾いていた。
「なんてね。まあ実際、私も誰かと付き合うことになるなんて正直予想してなかったんだけど」
「そう、ですか……」
「でもね? 私、今すっごく幸せなの。彼、とってもいい人でね。私の二個上なんだけど、記念日は必ずロイン送ってくれるし、気弱なところもあるんだけど、そこがまた可愛くて──」
「はい……」
気落ちした相槌を打ちながら、私の視線はテーブルに落ちた。まともに彼女の顔を見られなかった。自分とは繋がりのない幸せを楽しげに語る彼女の顔を見たくなかった。
そんな自分の卑屈で怯懦な心を見透かしたかのように、喜多ちゃんは途中から言葉を弱々しくさせた。おそらく、ずっと自分の身の上の話をしていたせいで場を白けさせてしまったと思ったのだろう。話を転換させてきた。
「あ、ところで、これからまっすぐスターリー行くの?」
「あ、はい……そのつもりですけど」
「そっか。ね、よかったらどこかでお買い物してからでもいい? 久しぶりに皆さんと会うのに、何もお手土産ないのも寂しいし」
両手を合わせながら彼女は言った。
「あ、はい。大丈夫です」
「ありがと。決まりね!」と、また花の咲くような笑顔に戻った。「それじゃあ、もう少ししたら行きましょ? ──私、ちょっとお手洗い行ってくるね」
そう言って喜多ちゃんは椅子を引き、トイレに立った。
一つ空いた向かいの席を見て、しばらくのあいだグルグルと考えを巡らせた。
彼氏。彼氏──か。
口の中で唱える。喜多ちゃんに彼氏──うん、何もおかしなことではない。不自然なところは何もないはず。
むしろ、不自然なのは私自身であるという自覚がギュッ、と唇を結ばせる。親友に恋人ができて、それに対して祝福の言葉一つもかけることができなければ、そうした心持ちさえ微塵も抱くことができない。人として大切なものが欠けているのではないかと感じた。
……苦い。
口の中が苦い。いや、そんなはずない。
だけど体全体が苦々しく縮こまっている気はする。そんな気がする。まだ半分以上残っているココアを口に運ぶ。熱いけど構わず流し込む。
それでも甘さが足りなく感じ、糖分を求めて角砂糖の瓶に手を伸ばした。三、四個ほど一気に取り出し、ドポドポとココアの中に入れた。スプーンで簡単に掻き混ぜ、まだ完全には溶けきっていないだろうけど口の中に流し入れた。
「…………あま」
ようやく甘さを感じた。舌の先から喉の奥まで痺れるような甘さが染み渡っていった。
だけど、こんな飲み方、誰にも見せられないなと思った。
喜多ちゃんとの再会は実に八ヶ月ぶりとなる。
三月に都外に移り住んでから、新しい生活に慣れるのにかなり苦労したと彼女は言った。一人暮らしという環境は自分で完全な生活リズムを形成する必要があるため、どうしても慣れには時間がかかるのだと。
他にも、勉強やバイトやサークルにも一生懸命になってしまい、なかなか帰省するタイミングが掴めなかったらしい。
「で、でも、年越す前に帰ってこれてよかったですね」
「うん、それは本当に。──だけど」喜多ちゃんは少し首を下に傾けた。「なんだかとってもご無沙汰になっちゃって。皆さんに申し訳ないなあって気持ちが」
「そ、それは……いっいえ、仕方ないですよ。虹夏ちゃんも大学生は意外と忙しいんだよ、ってよく言ってますし」
「でも、伊地知先輩の場合は勉強が大変だからでしょう? 私はバイトとかサークルとかでちゃんと必要な時間確保できてなかったのよ。ほんと、私って不器用よね」
自虐気味に笑ったあと、ため息をつく彼女を見て、なにか気の利くセリフでもと考えたが、その前に乗っていた電車が止まった。ドアが開いて下北沢のホームが見えた。
「あ、もう着いた。行きましょ」
「は、あ、はい」
次々とドアから吐き出されていく乗客に混じり、自分たちもホームに降りる。階段を下って改札を抜けると、隣の彼女はほんのりと柔らかい表情になった。
「あー、なんか……やっぱりいいなあ」
「しばらくぶりですもんね」
「うん。ちょっと景色は変わっちゃったけど、ここの空気は変わらないわね」
大げさに深呼吸する喜多ちゃんを横目に、つられて私も小さく息を吸い込む。自分も今、似たような気持ちだと思った。下北沢にいる喜多ちゃんがやっぱり一番しっくりくる。
スターリー前に来ると、散々賑やかだった喜多ちゃんの顔にもやや緊張の色が現れた。大丈夫ですか、と訊ねると彼女は苦々しく笑った。
「あ、お、お疲れさまでぇーす……」
扉を開けて店内に声を送る。すぐにひょこ、と顔を出したのは店長さんだった。
「おー、ぼっちちゃん。喜多連れてきたの?」
「あ、はい。こちらに……」
「店長さんっ、こんにちはーっ!」
扉の隙間から喜多ちゃんが首を出して、いつもの調子で声を送った。
「はい、どうも。てか、久しぶりだな。いつぶりだっけ?」
「三月以来ですね。本当にご無沙汰しちゃってます」
「そんなになるのか。なんだよ、もっと顔見せてくれればよかったのに」
「はは……それはほんとにすみません」
「あら、なんだか懐かしい声が」
奥で机に伏せていたPAさんが顔をむくりと上げた。
「わあー、PAさん! お久しぶりです!」
「喜多さん久しぶりですね〜。一段と大人っぽくなりましたね」
「ええ〜、ありがとうございますぅ」
「いまどこの学校行ってるんでしたっけ?」
「はい。◯◯県の△△大学っていうところに──」
「とりあえずお前ら中に入れ。ドア開けっぱじゃ寒いだろ」
自分を挟んで始まってしまった世間話を邪魔しないよう、どうにか気配を消そうと頑張っていたところで店長さんの助け舟が入った。ホッとしながら室内に入る。
「虹夏とリョウは今買い出し中だから。くつろいで待ってな」
「ありがとうございます。あ、そしたら先に……これ、よろしければ皆さんで」
喜多ちゃんは持っていたビニール袋をカウンターの上に置いた。中から真っ白なケーキの箱を取り出して見せる。さっき中目黒のお店で買ったものだ。以前テレビでも紹介されてたんですよ、と彼女は胸をそらして言った。
「そんな気遣わなくていいのに。高かっただろこれ」
「いえいえ。店長さんや皆さんにはたくさんお世話になってますし。それにしばらく顔出せなかったので、そのお詫びというかなんというか。なのでぜひ召し上がってください」
「なんか悪いなあ」
言いつつも、店長さんの目はらんらんと輝き、頬もすっかり緩んで見える。後ろのPAさんは早くもケーキ皿の用意を始めていた。
「──高そうなケーキのにおいがする」
「っ!?」
突如、背後から声が聞こえてギョッとする。一緒に喜多ちゃんもビクッと肩を跳ね上げ、驚きなのか感激なのか分からない声を上げた。
「ああっ、リョウ先輩!」
「郁代じゃん。久しぶり。いつきたの?」
「お久しぶりです! ちょうど今来たところです!」
「そっか。──あ、じゃあ、このケーキは郁代から?」
「はいっ。皆さんに喜んでもらいたくて!」
「よしよし。褒めてつかわそう」
「えへへ〜」
犬みたいに撫でられて喜ぶ喜多ちゃん。きっと尻尾があったら、ちぎれんばかりにブンブン振り散らしているだろうと想像した。
「お前、足音くらい立てろよ。ビックリすんだろ」
「いいじゃん。店長、サプライズ好きでしょ」
不満げに眉をひそめる店長さんに対し、ふふんと先輩は言い返した。
「サプライズとドッキリは別モンだ。──ていうか、虹夏は? 一緒に帰ってきたんじゃないの?」
「ああ、そろそろ来ると思う」
そのとき、ドンドンと入口の扉が強めに叩かれた。
『あけてー!』
思ったとおり虹夏ちゃんだ。
「ほら来た」
「あ、い、今あけます!」
慌てて立ち上がって扉を開けると、パンパンに膨れたレジ袋で両手の塞がった虹夏ちゃんが現れた。「重ーっ!」と倒れ込む勢いで入ってきた。
「あ、片っぽ持ちます」
「ありがとー! ……ふう、腕ちぎれちゃうかと思ったよ」
「あ、本当だ……ずいぶん重たいですね」
「でしょー? でもこれ、ほとんどリョウの買い物だよ。なのに荷物持たずに途中でどっかいなくなっちゃってさ。アイツまだ帰ってきてない?」
「え、えっと……」
視界の隅で先輩がゆっくり物陰に隠れるのが見えた。これは黙っておくべきかな。
「ったく、帰ってきたら顎に一撃食らわせてやらないとだよ」
「あ、はは……」
「あ、あの。伊地知先輩……!」
そろりとした声が私たちの間に差し込まれた。
「あっ……」
ふっ、と。虹夏ちゃんの表情から色が消える。それでも無表情にはなるまいと思ったのか、ぎこちなく頬を持ち上げ直して、
「喜多ちゃん、いらっしゃい……来てたんだ」
「は、はい。お邪魔してます……」
それまで和やかだった空気は一転して、気まずさに満ち満ちていった。
喜多ちゃんの結束バンド『仮』脱退は高校最後の日──つまり卒業式の日から続いている。
二人で卒業証書を片手にスターリーを訪れ、「私たち、ちゃんと卒業できました」と一緒に報告したその次に、
「それで、大事なお話があるんです」
彼女は重々しく脱退の話を打ち明けた。
喜多ちゃんはやめる理由をいくつか語った。それらはだいたい、私にも予想できたものだった。地元を離れるので合わせの練習ができなくなるからとか、演奏技術で他三人に大きく引けを取っていることに引け目を感じているとか、少しずつ拡大していく事業にプレッシャーを感じてしまったとか、そのようなものだ。
あとは、SNSでエゴサしていたら汚い言葉で中傷された投稿に自信を削がれてしまったことも一因にあったらしい。
『決して結束バンドが嫌になったとか、そんなんじゃないんです。でも、これから先のことを考えると、私じゃ力不足なんじゃないかって……皆の足を引っ張ってしまうんじゃないかって……楽しみより怖いって感情の方がどんどん大きくなってしまって……』
卒業証書の筒を握りしめ、喜多ちゃんは声を絞り出した。心の底から悔やんでいる様子に見えた。誰一人として軽々しく声を出そうとはしなかった。
『だから……今日、この日をもちまして、結束バンドを引退させていただきたく思います』
深々と喜多ちゃんは頭を下げた。その場にいる全員が「仕方ないよな」と思っているに違いなかった。そういう空気だった。だから、虹夏ちゃんが息を吐き出したとき、次に彼女が口に出す言葉はきっと喜多ちゃんを元気づけて送り出す言葉だと私は勝手に確信していた。
『──駄目だよっ』
『えっ』
驚いた。
おそらく、虹夏ちゃん以外の全員が同時に声を上げた。みんなまとめて、氷のように固まった。それから私たちは虹夏ちゃんの次の言葉を待った。理由を聞きたかった。
けれど、虹夏ちゃんはなかなか言い出さなかった。眉をひそめ、目を伏せ、口を閉ざしていた。永遠に等しい三十秒が過ぎたところで、ようやく喜多ちゃんが「ど、どうしっ……」と理由を訊ねる言葉の頭を口にした。だけど、立場的に切り出しづらかったのか、そのまま飲み飲んで、再び沈黙が訪れた。
『……理由を言わないと納得しないよ』
今度はリョウ先輩が言った。俯いていた喜多ちゃんも少し顔を上げた。
『いきなりそんなこと言われて、即日で了承できるわけないでしょ』虹夏ちゃんはナイフのように鋭く言い放った。『レーベルさんにも話通さないといけないし、これからの計画にも活動方針にも、とにかく色んな影響が出ちゃうんだよ。それが分かってるの?』
『そっ、それは──それは、分かってます……でも』
『うそ、分かってないよっ。あのね、私たちはっ……もうプロなんだよ。やめたくなったからやめます、って言える時期はもう過ぎたんだっ』
「…………っ」
喜多ちゃんの背中が丸くなっていく。
『だいたい──喜多ちゃんの悩みは浅いよっ。演奏技術だとかプレッシャーだとか……そんなのいくらだって私たちがカバーするよ。支えるよっ。SNSの投稿だって、いちいち気にしてたらキリがないじゃんっ。無視すればいいんだよ、そんなのっ』
『そっ、そうなんですけどっ。それはっ、本当にっ、その通りなんですけどっ……だけど、私っ、私、これ以上は……ほんと、どうしていいか……』
喜多ちゃんは片腕で頭を抱えた。顔を歪めて、血が滲みそうなほどに強く唇を噛んでいた。見ている私まで頭が痛くなって、胸がぎゅう、と絞られるように息苦しくなった。
『──それとも、本当は別の理由があるの?』
虹夏ちゃんは低い声で言った。
『…………え?』
『ほっ、本当はもう……このバンドに飽きちゃったとか──』
『虹夏っ!!』
そのとき、鼓膜に電撃が走った。それまで静観していた店長さんが声を張り上げた。ビリビリと店内が震え、私はおそるおそる彼女の方を見た。眉間に深くシワが刻まれていた。
『感情任せに、思ってもねえことぶちまけようとすんじゃねえよ』
唸るように店長さんは言った。
『四人で必死に足掻いて、歯ぁ食いしばって、そんで上手いことやってきたんだろ? それをお前自身が、たった一言でぶっ壊しちまってどうすんだ』
『そっ……そんなつもりじゃっ! わ、私はみんなを……バンドのっ、ことを思って……!』
『後悔したくないなら言葉は選べ。相手を考えろ。要らない言葉は殺して、必要なセリフだけ言ってやれ。じゃないと、いつか取り返しがつかなくなる』
『だって……だって、そんなのっ……分かんないよっ……!』
虹夏ちゃんは足の裏を思い切り、床に叩きつけた。震える両手には固い拳が作られていて、微かにしゃくり上げる声が聞こえた。
『に、虹夏ちゃん』
思わず声をかけると、虹夏ちゃんはいきなり走り出した。数段飛ばしで階段を駆け上がった。そして扉の前で私たちの方に振り返った。
『私は認めないから……っ。抜けるなんて、ぜったい許さないっ……!』
『伊地知先輩……』
虹夏ちゃんと喜多ちゃんは目線を交差させた。だけど、それもほんの数秒ですぐに虹夏ちゃんは扉を開けて外に出て行った。喜多ちゃんも、誰も後を追ったりはしなかった。
もう二人が今までのように笑い合うことはないんじゃないか、と。私は不意にそんな悪い予感に取りつかれてしまった。
※
「ケ、ケーキごちそうさまでした」
駅まで戻る道すがら、私は喜多ちゃんにお礼を伝えた。
スターリーには顔見せ程度に挨拶して、そのあとは二人で遊ぶつもりだったけど、何だかんだ開店直後まで居座ってしまった。おかげですっかり日は傾いて、夕日に照らされた喜多ちゃんの赤い笑顔が返ってくる。
「ふふ、みんな美味しいって言ってくれて私も大満足よ」
「あ、そうですね。リョウ先輩は虹夏ちゃんにケーキ没収されてましたけど」
「あはは」
今度は違うお店のケーキ持っていってあげようかな、と上機嫌に喜多ちゃんは言うけど、私はどうしても訊きたいことがあって歩みを止めた。
「ん、どうかした?」
「あ、あの……喜多ちゃん」
思い切って喉から言葉を引っ張りあげる。シリアスになり過ぎず、冗談っぽくなり過ぎない言い方で。
「ええと、ま、またバンドに……戻ってきてくれたりしませんかね? ……なんて」
喜多ちゃんは笑顔をゆっくり真顔に近づけていった。口元だけは薄く笑っていたけど、目元は悲しげに潤んで見えた。
「──ごめんなさい」
「あ……はい……」
しばらく私たちは見つめあった。
遠くで踏切のサイレンが鳴っている。弱い風が吹いて、喜多ちゃんの髪を揺らしている。小さく吐いた息が白くなる。鼻がツンとして悲しい気持ちが腹の底にドスン、と落ちてくる。
「本当にごめんなさい。私……たぶん、もう」
喜多ちゃんは私から視線を外して、少しだけ上を向いた。遠くの空を見ているようだった。私じゃない、別の何かを見る目だった。
「あ、は……そうです、よね。すみません。無理言っちゃって」
「ううん。悪いのは途中で逃げ出した私だから」
彼女の言葉を否定しようとしたけど、諦めた。私にはそんな語彙力はない。弱々しくかぶりを振ることしかできない。
「……ほら、いこ?」
喜多ちゃんが手を差し伸べてきた。情けないなあと思う。それは私がやりたかったことなのに。私が喜多ちゃんに手を伸ばして、「戻ってきて」ってやりたかったのに。
それでも、喜多ちゃんと手を繋げるという欲望は、容易く私の心を軽くして、言われたとおり彼女の手に自分の手を重ねてしまう。
「あーあ。次はいつ帰って来れるかな〜」
「す、すぐ来てください。来週でも、来月でも……来れそうだったらロインください」
「ふふっ、うん。そうするわね」
無茶な要求に笑って返す喜多ちゃんは、私よりお姉さんって感じで。心強くて。憧れちゃって。
好きだなあって。どうしても思っちゃって。
でも。でも。
──私ね、彼氏できたんだ
「…………」
そりゃあ、そうだよなあ。
細く、長い息を吐き出して、喜多ちゃんとは繋がれていない方の手を固く握りしめた。
十一月末。
意外なことに、私の願いは叶えられることになった。普段は物静かな私のスマホが、寝る前にポロンと一回鳴いた。
画面にポップされた新着メッセは喜多ちゃんからだ。
『年末年始、時間できたから帰省しま〜す!ぶい』
「やった……!」
ひゃっほー! と心の中で乱舞しながら枕に顔を埋めた。一ヶ月! あと一ヶ月で喜多ちゃんが帰って来る! また会える! わーいわーい、わいわいわーいっ!
そんなふうに布団の上できりもみ回転してたら、足を吊ってしばらく悶絶した。
約束の日まで待つのは長く感じたのに、約束当日の時間はやたら流れるのが早かった。
朝六時に起きて、ソワソワしながらシャワーを浴びて、普段使わないいい匂いのするヘアーオイル使ったりして、ちょっと丈の短いスカートを鏡の前で合わせて「いや、ないない」と思いながらもニヤケが止まらなくて、結局、前と同じ服にしようかなと思い至ったところで遅刻寸前を示す時計に気づいた。ぎゃっ、と短い悲鳴が出た。
運動不足のさびついた体を叱り飛ばして、何とか二分遅刻で待ち合わせ場所に着いた。前回と同じカフェだ。
さすがに息切れのまま入るのは格好もつかないので、扉の前で呼吸を整えてから入る。
オシャレなカフェはこれで三度目。さすがにそろそろ慣れたいところだけど、ベルがうやうやしくお客様の入店を伝え、店員さんを呼び寄せてくるシステムはコミュ障には易しくない。
「いらっしゃいませー」
「え、ええっと……せ、先客……じゃなくて、相棒……じゃなくて……」
「え? あ、もしかして、お待ち合わせされてるということで?」
「あ、あっ! はい……」
店員さんのアシストを受けて、こくこくと頷く。ああ、もうっ。恥ずか死い。
「ひとりちゃんっ。ここ、ここ!」
あっ、と声が出た。よく見たらすぐ近くの席に喜多ちゃんが座っていた。指先を軽く振って合図している。
「あ、あ、もう大丈夫です! すみません、ありがとうございました」
店員さんがどんな表情してるのかも見たくないので、そそくさと喜多ちゃんの元に向かった。
「もうっ、相棒ってなによ? どういう間違い?」
座ると、さっそく喜多ちゃんはくすくすと笑った。前と違って今回はがっつり会話を聞かれていた。頭を掻いて、「私にも分かりません」って言ったら、さらに喜多ちゃんは笑った。
「はあー、おっかしい……ほんと、ひとりちゃん面白くて好き」
「すっ──へ、へへ……そんなこと」
褒められてるわけでもないし、本当の意味の「好き」じゃないことは分かってるけど、言われて嬉しくないはずがない。口角がじわじわと上がっていく。
「さて、と。なにか頼もっか。ひとりちゃん、なに飲む?」
喜多ちゃんがメニューを見せてくれる。
「あ、ううーんと……じゃあココアで」
「ココアね──あれ? 前もココアじゃなかったかしら?」
「あ、そうですね。前飲んだとき、けっこう美味しかったので」
「へえー。じゃあ、私も同じのにしよっかな」
「あ、へ、へへ……」
おそろい──なんだか嬉しい。
「──あっ、なにこれ。ねね、このパンケーキ美味しそうじゃないっ?」
喜多ちゃんがチョコソースと生クリームたっぷりのパンケーキの写真を見せてきた。
「あ、本当だ」
「ねえねえ〜、一緒に食べない? さすがに一人じゃ食べきれないの〜」
「あ、はい。いいですよ」
「ほんとっ? やった。あ、じゃあやっぱり私コーヒーにしよっと」
「え、ココアはやめるんですか?」
「うん。甘いパンケーキには苦味のあるコーヒーの方が合うじゃない? 甘い甘い同士だと味分からなくなっちゃうし」
「そ、それは……はい」
そうかもしれないけど。
「すみませーん!」
喜多ちゃんが店員さんを呼んで、注文を済ませる。そのとき、ついでにお冷もお願いしてもらった。全力で走ってきたから喉が渇いていた。
すぐに運ばれてきた水を口に流し込む。しおれかけていた体に水気が宿った。
「そんなに喉乾いてたの?」
「あ、はい。ちょっとその……軽い運動しながら来たので」
適当に誤魔化そうとしたけど、
「ほんとは遅刻しそうだったから急いで来たんでしょ?」
「えっ! あ、そのぉ……」
否定できずに頷くと喜多ちゃんは得意げに笑った。
「やっぱりね〜。ふふん、私、ひとりちゃんのことなら何でも分かるのよ? 今なにを考えてるのかだって分かっちゃうんだから」
うそぶく喜多ちゃん。そこまで私を知ってくれているのは素直に嬉しいけど、それなら私の気持ちにも気付いてるのかなって焦りもでてくる。
いや、そんなはずないけど。
だけど、試してみたい気もする。
「じゃ、じゃあ、いま私が何を考えているか、あ、当ててみてくださいよ」
「うん、いいわよ。ほら、考えて考えて〜」
目を閉じる。頭の中に喜多ちゃんを思い浮かべる。
私と喜多ちゃんが手をつないで。二人きりで川沿いの道を歩いていて。近くにベンチがあったから、そこに腰かけて他愛もないお話しをして。いつの間にか日が暮れて、そろそろ時間だから帰ろうって喜多ちゃんは言い出すけど、私が彼女の手を取って引き止めて。喜多ちゃん、好きです。大好きです。そう伝えて。真っ赤になりながら私の告白を喜多ちゃんは受け止めてくれて。
そういうことを考えて。うっすら目を開けて、喜多ちゃんの目を見る。喜多ちゃんも私の目を真剣に見ている。
好きです。
好きなんです。
分かってください。あなたが好きなんです──。
懸命に目でそう伝える。目が口ほどにものを言うのなら、私はどれだけ簡単に告白できるんだろうと思う。
「わかった!」
喜多ちゃんは指をパチンと鳴らした。
「ひとりちゃんは今──」
「はい……」
「──私がココアじゃなくてコーヒー頼んだことに、少し裏切られた気分になってモヤモヤしてるんでしょ?」
「…………」
ああ。
よかった。伝わってなくて。
「正解です」と答えると、喜多ちゃんはちょっとだけ驚いた顔で「え。やだっ、本当に!?」と笑った。
年末年始は時間ある、と言っていたけど、結束バンド年内最後のライブに喜多ちゃんは来なかった。
いや、私がライブの日程を事前に伝え忘れていたのと、そもそも喜多ちゃんの家族旅行の日程がまるまるライブに被ってたから、「来れなかった」という表現の方が正しいんだけど。
ただ、喜多ちゃんはライブに行けないことに、そこまでショックを受けた様子はなかった。
それどころか、
『年明けにまたライブあるんでしょ? そのときにまた誘って!』
あのときの喜多ちゃんは、心なしかホッとしたようにも見えた。もちろん、そう見えただけであって、あからさまな態度ではなかった。
でも。喜多ちゃんはあくまで受け身だった。誘われたら行く、ということは誘われなかったら行かない、という意味にも聞こえてしまった。いつもアクティブな喜多ちゃんらしくないと感じてしまった。
けれど、これも言い方の問題だということにして、あまり深くは考えないようにした。
大晦日。結束バンドで近くのお宮に初詣に行こうという話になった。リョウ先輩と、あと虹夏ちゃんにも言って、思い切って喜多ちゃんを誘うことにした。
喜多ちゃんにロインを送ると、すぐに「行く!」と返ってきた。そのあと結束バンドで行こうという話を伝えると、既読がつかなくなった。
通話に切り替えようかと思ったけど、リョウ先輩は首を振って止めてきた。
「無理しなくていいんだよ」
喜多ちゃんに対する言葉なのかと思ったけど、先輩は私に言ったらしかった。それからは三人で行こうということで話が固まった。
私は別に無理はしてない。電話するくらい訳ない。そりゃあ緊張はするけど、無理なんかじゃない。
それとも、四人で集まることがもう無理ってことなのかな。
私はただ……ただ前みたいに四人で、喧嘩しても会話がなくても、四人でいたいだけなのに。
それがもう無理ってことなのかな。
だとしたら。泣きたくなるくらいに悲しいなって思う。
年明けのライブが始まる前日に、喜多ちゃんからロインがきた。
『ごめんね。彼がインフルに罹っちゃったみたいで……看病しなきゃだから、明日帰ることになりました。ライブ行けなくて本当にごめんなさい。みんなによろしく伝えてください。本当に本当にごめんね』
「…………え」
既読をつけた手前、なにか返信しなきゃと思う。
だけど、なんて返せばいいか。頭に浮かんでくる言葉はどれもこれも偽物で、私の本当の言葉じゃない気がする。
いや、別にそれでもいいか。本当の言葉は全て喜多ちゃんへの批難になってしまいそうだから。そんなもの送ったら私と喜多ちゃんの関係まで歪になってしまう。
そんなのは嫌だ。喜多ちゃんとはずっとずっと仲良しでいたい。いなきゃいけない。
『分かりました。心配しないでください。ライブは毎月やってるので、来れそうなときに来てください。待ってます』
十分ほどかけて考えたメッセを送信。まだ既読はつかないけど、この文面なら喜多ちゃんも安心してくれると思う。
「…………はあ」
ため息が出た。重くて、苦いため息。
これでいいんだろうかと思う。
今の関係をつづけるために、親友でい続けるために、本音を隠していていいんだろうか。建前ばっかりの言葉で、形を保てている友情でいいんだろうか。
…………。
いや、よくない。よくないよ。
本当は本音で語り合いたい。
なんで来なかったの。来て欲しかったのに。ずっと待ってたのに、とか。
喜多ちゃん、私の演奏みて! かっこいいでしょ? 惚れちゃう? ふふん、いいよ? 好きになってよ。私も喜多ちゃん大好きだもん、とか。
言いたい。そう伝えてみたい。
でも、無理だよ。
失うのがこわいよ。
最近、毎日がスピーディに過ぎていくように思えてくる。ついこの間、新年あけましておめでとうって言ったと思いきや、蝉の声が聞こえてくるようになっていた。幻聴じゃなくて現実だ。
喜多ちゃんからロインがきたのは、梅雨も明けて、熟した暑さが幕を開けた七月も終わりの時期だった。
『お盆のころ、少しのあいだだけど帰省しまーす!』
「わあっ……!」
しばらくぶりの再会。暑さで参っていた体に、もれなく熱が集まってきて、居てもたってもいられなくなった。急いで冷たいシャワーを浴びに行った。
顔面にシャワー、って感じで冷水を浴びて、シャッ! って感じにTシャツを着て、ギュニュ、ギュニュ、と牛乳を流し込む。
あー幸せ。
この世の幸せっていうのは、冷たいシャワーを浴びたあとに牛乳を飲むことの延長線上に全て存在するんだと思う。だから喜多ちゃんと会える幸せも、後ろを見れば牛乳が存在しているに違いない。
それはともかく、あと二週間ちょっとで喜多ちゃんが帰ってくる。どこに行こうかな。何を買おうかな。どんなお話しをしようかな。
いつものカフェに向かう。
これで四度目。もう店員さんに白い目で見られないようしなければと気を引きしめて扉を開ける。
「いらっしゃいませー」
相変わらず丁寧に入店を伝えるベルの音に気づいて、店員さんが近づいてきた。あらかじめ用意していたセリフを言った。
「まちっ、て、店内で待ち合わせしてて……ええっと……」
よし、なんとか言えた。練習しておけば、私だってこれくらいはできるんだ。あとは喜多ちゃんを見つけて、その席に向かえばミッションクリ……。
「あれ……?」
と、思っていたけど、店内に喜多ちゃんの姿は見えない。いつもならすぐに私に気がついて声を送れるよう、入口に向き合う席にいるはずだけど。
もしかしてお手洗い? え、どうしよう。トイレまで呼びに行く? いや、それすごい不審者っぽい。
それともまだ来てないのかな。そしたら……あれ? どうすればいいんだろう。
あ、どうしよう。詰んだ。
「あっ、す! すみませんっ。あの、で、出直します……」
慌てて店員さんに向き直り、ペコペコと頭を下げた。
「は、はいっ?」
「ま、まだいなくて……いつもは先にいるんですけど、今日はなぜか……あ、たぶん病気かな? 風邪引いちゃったんだと思うので……すみません、すみません、それでは……」
そそくさと出口に近づくと、急に扉が開いてきた。ガツン、と頭の中で火花が散る。
店員さんが「ひっ」と引くような悲鳴を上げて、次に入店者が慌てたような声を上げた。
「ごっ、ごめんなさい! 大丈夫です……って、ひとりちゃんっ?」
「あ、あ……喜多ちゃん……!」
鈍痛はまだ冷めやらないが、心底ホッとする。後ろを振り返って、ドン引きしている店員さんに、「あっ……か、風邪治ったみたいなので来ました。この人です」と喜多ちゃんを紹介した。二人とも困惑していた。
※
頭の痛みは引いたけど心は大怪我した。申し訳ないけど、次から私がこのカフェに来ることはないだろう。
「ひとりちゃんはココアでいい?」
「あ、は、はい」
そんな私の揺るぎない決意を知る由もなく、喜多ちゃんはいつものように注文を訊ねてきた。彼女の中で、私はココアキャラになっているらしい。
「あっ、できればアイスで……」
「ふふ、分かってるわよ。アイスココアね。私はどうしよっかなー」
さすが喜多ちゃん。真夏にホットココアではホッと一息つけない。気が利く人ってやっぱり素敵だなって思う。
ほどなくして、店員さんがアイスココアを持ってきてくれた。一緒に運んできたのはアイスミルクティー。喜多ちゃんが頼んだものだ。
「ん〜……あーっ、ちめたいっ!」
ストローで上品に飲んだあと、子供みたいなリアクションをする喜多ちゃんがかわいい。
私も同じことすれば喜多ちゃんにかわいいって思ってもらえるかな──とかなんとか考えてたら、ココアが急に気官に流れ込んできた。「ごふっ!?」とおよそ可愛さの欠片もないむせ返りが口から出て、慌てて喜多ちゃんが後ろにきて背中をさすってくれた。
「だ、大丈夫っ? お水もらう?」
「い、いえ──けほっ……だ、いじょうぶでふ」
「とてもそうは見えないんだけど……」
「けほっ……いえ、んんっ! ほんっ、本当にもう……落ち着いたので……んんっ!」
咳き込みと咳払いを繰り返してたら、ようやくココアが取り除かれた気がした。喜多ちゃんはまだ心配そうに背中をさすってくれたけど、ココアを飲んで大丈夫アピールしたら信じてくれた。
「もーびっくりした。吐血したかと思ったじゃない」
「こっ、こんなに私の血は淀んでませんよ」
私のツッコミが面白かったのか。それともボケに返してくれたことに満足したのか。喜多ちゃんは珍しく手で口を覆うほどに大きく笑った。
少し複雑だけど、楽しんでくれて嬉しいなって思──。
「────」
喜多ちゃんの手。口を抑える手に目が止まった。
彼女の指に金属の光沢が見えた。暖色系のライトに照らされ、鈍く金の輝きを放っているソレは、警鐘のように激しく私の心臓を打ち鳴らしてきた。
「? ひとりちゃん?」
どうかした、と喜多ちゃんが小首を傾げた。心臓が痛いほどに脈動する。
「あっ……あ、あ、あの」
口の中が急速に乾いてくる。思ったように声が出ない。視線は一点。彼女の左の薬指だけを注視し、あの輝きが夢か幻であって欲しいと切に願っている。
「そのっ……喜多ちゃん……っ」
「うん」
「あの、ええと……」
本当は訊きたくない。だけど、訊かずにモヤモヤしたままなのはもっと嫌だ。
だからできるだけ遠回しな質問で。心にくるダメージを減らそうと思う。
「そのっ、さ、最近……彼氏さんとはどう、ですか?」
「え、ええ〜っ?」
予想外の質問、とでもいうように喜多ちゃんはやや体を後ろにそらした。だけど嫌ではないのか、照れ笑いを浮かべ、頬を少し上気させている。
「ひ、ひとりちゃんからそういう質問くるなんて、ちょっと意外かも」
「あ、すみっ、すみません……その、気になっちゃって」
「そ、そう? えへ……なんだか、普段しない会話だから言うの恥ずかしいな」
かわいいはずの喜多ちゃんの照れた顔が、今はとても恐ろしく感じた。
言えないのならそれでもいい。恥ずかしがって話をはぐらかしちゃっても構わない。
「お、教えて欲しいなっ……友達だから」
それでも、私の口は動いてしまった。
「……ふふっ。うん、わかった」
「…………っ」
ああ──。
やっぱり訊かなきゃよかった。そう直感した。
喜多ちゃんは、はにかみながらも話し出そうとしている。
耳を塞ぎたいと思った。何を言おうとしているのかが分かってしまう。
どうすればいい? どうすれば辛くならずに済む?
喜多ちゃんに彼氏ができたって聞いたときから、こうなることを予想しておけばよかった。考えておくべきだった。そうすればいくらか心に余裕が持てたのに。覚悟の準備ができたのに。
なのに、なんでしなかった?
なんでいつまでも喜多ちゃんを忘れられなかったんだろう。未練たらしく、想いを引きずっていたんだろう。
なんで……なんで私は。
「あのね、実は結婚することになったの。来年の四月に──」
──生まれて初めて、他人との約束を破った。
本当なら、カフェでの待ち合わせのあとは喜多ちゃんと久しぶりにスターリーに行くつもりだった。年始の挨拶もできなかったし、ちょうどいいと思った。それに、そこで虹夏ちゃんと会えたら、上手いこと私が二人の間を取り持って、さり気なく仲直りのサポーターになっちゃおうかな、とか軽いことを考えていた。
けど、その約束は「急用が入ったので」と隠す気のない大嘘でブッチした。千円札だけを置いて私はカフェを飛び出し、嗚咽に苦しみながら走った。
走った。
走って、走って。
行くつもりのなかったスターリーに私は行き着いた。
「はあっ……はあっ……」
階段を降り、扉に手をかけようとしたら、足がもつれた。休みなく走ったせいで踏ん張る力もなくって、地面に頭をぶつけた。容赦ない痛みに涙がにじんできた。
立ち上がれる気力はなかった。起き上がりたいと思える希望がなかった。このまま頭の痛みで安らかに死体になれたら、どれだけ幸せだろうと考えた。
まぶたを閉じて、優しい死神が来てくれることを祈っていたら扉が開く音がした。
「え……っ、ぼっ、ぼっちちゃんっ!? ちょっ──どうしたのっ、大丈夫っ? 立てる?」
「……にじ、かちゃん……っ」
にじんだ視界に尋常ならざる表情の虹夏ちゃんが映った。
「きゅ、救急車! お姉ちゃんっ、こっちきて! 救急車呼んで! ぼっちちゃんが……ぼっちちゃんがっ!」
「だ、大丈夫です……すみません……何ともないんです……」
「何ともないわけないでしょっ! そんな……死人みたいな真っ青な顔して!」
「本当です。体は何ともないんです……迷惑かけてすみません……」
「ぼっちちゃん……」
最低だな私って。
こんなに他人に迷惑かけて。泣きそうなくらいに心配してくれている虹夏ちゃんを見て、呑気に嬉しいって思ったりしてる。スターリーに来たのも、きっと心配されるのを期待していたからだ。
「ぼっ、ぼっちちゃん! どっどうしたっ、大丈夫かっ? 病気っ? 怪我っ?」
バタバタと忙しない音を立てながら、血相を変えて店長さんが駆けつけてきた。すぐに通話できるように、スマホはダイヤル画面が開かれていた。
「お姉ちゃん遅いっ! 早く中に運ぶよっ」
「えっ? きゅいっ、救急車はっ? 虹夏、さっき呼んでって」
「こんな狭くて固いところに寝かせてたらぼっちちゃん死んじゃうよ! まずは運ぶのっ。早く早くっ!」
「し、死んっ!? わ、分かった!」
店長さんが私の両腕を掴んで、虹夏ちゃんが両足を掴んだ。体が浮き上がって、私は運ばれていった。なんだか動物扱いされてる気分。
……いや、もういっそのこと動物になりたい。草食の動物に。何も考えずに草だけ食べて生きていきたい。
※
「喜多が結婚、ねえ……」
店から三階──虹夏ちゃんと店長さんのお家──に運ばれて、詳しく事情を聞かれた。なので、洗いざらい話した。助けてくれた恩人に対して黙秘権は行使できない。
とはいえ、自分の秘めていた思いまで全て吐き出すのはさすがにはばかられた。でも店長さんが異常に心配して私を抱きしめて離してくれなかったので、結局これも不承不承に打ち明けた。
「それで、ええーと……つまり、なんだ? ぼっちちゃんは喜多のことが好き……ってことなの?」
店長さんは腕を組みつつ、どこか不安げに訊ねた。今さら隠す気もないので素直に首肯する。
「はい。ずっと、好きだったんです」
「お、おお……」
はっきりとした時期は覚えてない。気づいたときには好きになっていた。
誰からも好かれる、みんなのアイドル。私からはあまりにも遠い対極の存在。
それなのに、いつしか目で追うようになってしまって。触れてみたいと思うようになって。結ばれたいと願うようになった。どうせ叶うはずのない恋だと分かっていても、彼女から優しさを受けるたびに一ミリほどの可能性を期待して、信じようとしてしまった。
だけど、今日。ついにその可能性は潰えた。
誰のものでもなかった喜多ちゃんは、これから誰かのための存在になる。そしてそれは、私ではない誰かなんだ。
残酷でもなんでもない、ただのリアル。だからこそ逃げ場がなく、たまらなく苦しい。
「私……喜多ちゃんの結婚っ、おめでとうって言える自信ないです……」
膝の上でギュッと拳を固める。
「もちろん、喜多ちゃんには幸せになって欲しいんです。いつかは結婚するんだろうなってのも分かってたんです。だけど、やっぱり……」
「……そっか」
いざ、現実を目の当たりにするとずっとショックが大きくて。それに想像よりもずっと早くて。受け入れられるだけの魂がまだ備わっていなかった。
店長さんは私の話を聞き終えたあとも、変わらず腕を組みながら宙を見つめていた。ちゃんと聞いてくれてたのかな、と思いつつ、お茶を入れに行った虹夏ちゃんがなかなか戻ってこないことに疑問を抱いていると、
「あのさ、ちょっとだけ昔話していい?」
「えっ……?」
私は目をしばたたかせた。いきなり何なんだろう。
とはいえダメです、とも言えないので首を縦に振った。
「まあ、気楽に聞いてよ。すぐ終わるからさ」
「は、はい」
店長さんは胡座から体育座りに座り直した。
「もしかしたら虹夏から聞いたことあるかもしれないけど、母さ──私たちの母親、数年前に亡くなってさ。まだ虹夏が小学生の頃の話なんだけど」
「あ……は、はい。以前、聞きました。その、もらい事故だって……」
「そう。玉突き事故に巻き込まれて。夕方のニュースとか新聞で見かけりゃささやかな悲劇で終わる話だけど、身内の話だとどうしてもな……ずっと胸の中に色々残るんだよ。後悔とか、思い出とか」
「は、はい……」
気のせいかもしれないけど、細い目で語る店長さんの横顔は、いつもより少し幼く見える。
「だけど、当時の私はそういうの全部無視してた。考えないようにしてた。だって、辛気臭いし、悲しくなるだけだし、死んだ人間が戻ってくる訳でもないし。そんな無意味なことより、ギター弾いてた方がよっぽど有意義だと思ってた。──けど」
虹夏に無理やり気付かされたんだ、と店長さんはおどけた調子で言った。
「虹夏ちゃんに?」
「ああ。あいつはさ、私なんかよりよっぽど現実を見てた。ずっと母さんの死に向き合ってたんだ。そんで、ギター掻き鳴らしてまだどっかで母さんは生きてるんじゃないかって妄想に逃げてた私に、現実を叩きつけてきたんだよ」
「そ、それは……なんというか。虹夏ちゃんらしい……」
「そうでしょ。大したもんだよな。まだ小学生だよ? ちっこい子供に私は諭されたんだ。いい加減、前を見ろって。リアルを受け入れろって」
「あ……」
なんとなく、店長さんが私に何を言いたいのかが分かってしまった。ぎゅっ、と奥歯を噛みしめる。
「……ま、何が言いたいかっていうとさ。悲劇なんてのは意地悪で、いつだって予想してないタイミングでくる。心の準備なんてする余裕もない。だから、来たときに正面切って受け止めるしかないんだよ。どんなに理不尽でも、死にたくなるくらい辛くてもな」
「…………それは、つまり」
私は下唇を噛んで言った。
「もう……諦めるしかないって……そういうことなんですよね?」
「いや、違うな」
「なっ──なにが違うんですか……っ」
少し大きな声が出た。でも怒りが沸いた訳じゃない。
混乱があった。思考が整理されない気持ち悪さがあった。だから問いただして、はっきりさせたかった。
「違うっていうなら……わたっ私は、どうすればいいんですか……っ」
「ぼっちちゃんは、これから喜多の幸せを願う側の人間になるんだよ」
「…………?」
穏やかな顔でそんなふうに言うから、勢いが削がれてしまう。
「どういう……ことですか」
「喜多の幸せは、喜多自身と、あいつと結婚する男が作り上げていく。そして、ぼっちちゃんと私と。もちろんリョウと虹夏もな。みんなで、喜多のことを応援してやるんだ。幸せになれよ、ってさ」
「応援……」
「そう。だから、ぼっちちゃんは諦めるんじゃない。喜多を未来の幸せに向かって送り出してあげるんだよ」
「……そんなの」
騙されるかと思った。
そんなの、ただの詭弁だ。耳触りのいいセリフに変えただけだ。結局、私はこの恋心を捨て去ることを強要されるんだ。店長さんはそう言いたいんだ。
拳に力が入るのを感じる。ひどいよ。あんまりだ。
私の方が喜多ちゃんのことを先に好きだったのに。今だって、彼氏さんよりずっとずっと彼女のことを好きに違いないのに。
なのにどうして。どうして私の方が身を引かなきゃいけないんだ。なんで見ず知らずの他人を信じて、喜多ちゃんを送り出してあげなきゃいけないんだ。
なんで私じゃ……駄目なんですか──。
──私、今すっごく幸せなの
その時、ふっ、と。喜多ちゃんの言葉が脳裏をかすった。
──彼、とってもいい人でね。私の二個上なんだけど、記念日は必ずロイン送ってくれるし、気弱なところもあるんだけど、そこがまた可愛くて……
「────」
…………そうだった。
答えはもう、出ていたんだった。
どっちが先とか、どっちの方が好きとか、そんなの全然関係なかった。
喜多ちゃんが好きになって、結婚を望んだ相手は彼氏さんだ。私じゃなかった。
きっと二人には、私の知らない特別な縁があったんだと思う。だから結ばれたんだ。それは運命だったり、奇跡と呼ばれるものだったりするのかもしれない。そんな大層なものを相手に、私が勝てるわけないんだ。
「…………」
「……ぼっちちゃん?」
店長さんが顔を覗き込んでくる。少しのあいだ、私は無言で俯いていたことに気づく。
顔を上げた。胸の下で、何かが固まった感覚があった。
「……あの、店長さん」
「うん?」
「私……喜多ちゃんのこと、ちゃんと送り出せるでしょうか……」
ぐっ、と服の裾をつかんだ。
「全然っ……まだ想いを捨てきれてないのに、幸せを願ったりして、いいんでしょうか……」
店長さんは返事の代わりに、ふっと笑った。それから私の頭に手のひらを乗せた。撫でるとかじゃなくて、ポンポンするとかじゃなくて、ただ単に乗せられただけ。だからなのか、店長さんの体温がじんわりと頭皮から伝わって、優しい温かみを感じる。
「いいんじゃないの」
店長さんはまた胡座に直った。
「で、でも……」
「自分の気持ちに整理をつけることと、相手の幸せを願うことは切り離して考えていいと思う。不誠実でもなんでもないよ」
「──そうですか……そう、ですよね」
よかった、と息を吐いた。それと同時に目頭が熱くなってきた。
ポロポロと重たい涙がしたたり落ちて、私の手の甲を濡らした。息を吸い込むと、ためこんでいた嗚咽が出てきた。だけど、それも必死に飲み下そうとして息を止めた。
「ぼっちちゃんはいい子だな」
すると唐突に、店長さんが言った。
「優しくて、思いやりのある子だよ」
「──っ」
私を励まそうとして出てきたのであろう、そのセリフはいやに耳に残った。
そんな言葉、私には相応しくないと思った。店長さんは何も分かってない。
だって本当の私は汚くて、卑怯で。卑屈で、傷つきやすくて。下ばっかり向いてて、正しいことを言うのが怖くて。
そんな、人間で。
優しさなんて、他人に厳しくできる勇気がないから。思いやりなんて、嫌われたくないって臆病な心に従っているだけだから。
だから、綺麗な言葉で私を表現するのはやめて欲しい──そう、思ったのに。
「──へ……っ、へへ、うへへへっ、へへ……っ、っ」
止まらない涙を頬に感じながら、私は笑っていた。
喜多ちゃんとは結ばれないことへの悲しみと、褒められたことへの無条件の喜びが同時に表情筋を動かしてくる。嗚咽は不気味な笑い声に変換される。すっごい不自然で恥ずかしいのに、どうしても止めることができない。
「──ごめんねー、お客さん用のマグカップなかなか見つからなくて〜」
「あ……」
「……えっ!?」
虹夏ちゃんが戻ってきた。おおっていた手を外して、彼女の方を見た。で、私の顔を見た瞬間、虹夏ちゃんは明らかに引いてる顔を作った。そりゃあ笑いながら泣いてるんだもんね。気持ち悪いよね。
ただ、店長さんまで微妙な顔で見つめてくるのはやめてください……。
「あ、あの……ご迷惑おかけしました」
ドアの前で二人に頭を下げた。
お店が開く時間が近づいてきたので、お暇することにした。いつまでも居座っていたら迷惑だし、気を遣わせてしまう。
「気にしないで。何かあったらまた来な。……まあ、入口前で寝転がるのは心臓に悪いから勘弁して欲しいが」
店長さんは冗談めかして笑った。
「そっ、それは……本当に申し訳ございませんでした」
「いいって。気をつけて帰りなよ」
「ぼっちちゃん、またね!」
「は、はい。失礼します」
もう一度、大仰に頭を下げて、扉を閉める前にも隙間から頭を下げて見せた。二人の顔が見えなくなってから、私は肺の中の空気を入れ替え、踵を返して歩き出した。
外はまだ明るく、茹だる暑気がアスファルトの地面に陽炎を産み落としている。道端に並んだエアコンの室外機が忙しそうに呼吸を続ける。どこかで誰かが自販機にお礼を言われた。ゲームセンターで夏休み少年たちが歓声を上げる。
そうやって、時間が止まっていると錯覚していた私の脳を、日常は冷徹に否定してくる。
ため息をついた。
私は今の自分が何なのかよく分からなくなっていた。結局、喜多ちゃんへの想いを断ち切れたのか。まだ捨てきれずに囚われ続けているのか。それとも、その両方が混在しているのか。
「……頭いたい」
軽い頭痛。普段使わない頭の部分を使っているせいか、なんだかひどく疲れている。なにか甘いものが欲しいと思ったとき、頭にココアが思い浮かんだ。角砂糖をどっぷり入れた、悪魔じみた甘さのホットココアを。
──ぼっちちゃーーーんっ!
「虹夏……ちゃん?」
ハッ、と意識を呼び覚ます声が響いて振り向く。黄色いアホ毛をぴょこぴょこ揺らして、虹夏ちゃんが走ってきていた。大きく手を振っている。もしかして、何か忘れ物でもしちゃったかな、と不安を抱きながら、私の方からも虹夏ちゃんに歩み寄った。
「はぁああー……っ、よ、よかった……追いついたあ……」
「あ、あの、なにか……?」
激しく息を切らす虹夏ちゃんに問いかけると、彼女は笑顔でレジ袋を掲げて見せた。コンビニで今さっき買ってきたのであろう、その中にはアイスが二つ入っている。
「ね、ちょっと話さない?」
※
私たちは近くの公園まで歩いた。ここにも夏休み少年たちがたくさんいて、お話しするには落ち着かないと思ったけど、少し離れたところにベンチを見つけた。あそこなら多少マシかなってことで腰をおろす。
「バニラとチョコ、どっちがいい?」
虹夏ちゃんが両手にカップアイスを持って訊いてきた。どっちも大好きだけど、私はあまり迷わずチョコの方を選んだ。一緒にプラスプーンも渡され、溶けないうちに食べようと虹夏ちゃんが言った。
「お、お茶までいただいたのにアイスまでご馳走になっちゃって……すみません」
「いいからいいから。気にしないで食べてよ」
明るく虹夏ちゃんに促され、ほどよく柔らかくなったアイスを口に運ぶ。
…………。
美味しい。ちょうど甘みが欲しかったから、余計に舌も喜んでいる気がする。隣の虹夏ちゃんも、汗を拭いつつ美味しそうに頬張っている。アイスクリーム頭痛がきたのか、途中で頭をおさえて足をばたつかせた。
「冬のアイスも背徳感あって好きだけど、やっぱ真夏のアイスは王道的な美味しさがあるよね」
「あ、そ、そうですね。……それで、あの」
目で要件を訊ねる。わざわざアイスを買って追いかけてきて、私と盛り上がらない世間話をしたかっただけとは思えない。
「ああうん。そうだよね、なんの話だよって思うよね」
「す、すみません」
虹夏ちゃんは小さく咳払いをした。
「その……さ。実は私、お姉ちゃんとぼっちちゃんの会話、ずっと聞いてたんだ。部屋の外から」
首を上げた。虹夏ちゃんの顔を見る。
「ごめんね。盗み聞きなんて……感じ悪いよね」
「い、いえ。それは別に」
私は首を一往復だけ横に振った。元々、虹夏ちゃんにも全て話すつもりだったし、実際、戻ってきたときには全部打ち明けた。都合の悪いことはなにもない。
「いや、なんていうか──お母さんの話のくだりで、お姉ちゃん、私のことも話してたでしょ? しかも、ちょっと褒めた感じだったじゃん。だからなんか……出ていきづらくなっちゃって」
「あ、ああ、なるほど。それで」
ふっ、と息が漏れ出た。照れくさそうに頬をかく虹夏ちゃんがかわいかった。
「それから、色々二人の話聞いてるうちに喜多ちゃんの話題が出てきてさ。お姉ちゃん、ぼっちちゃんに喜多ちゃんの幸せを願う人になれ、とか言ってたでしょ?」
「……はい。あ、諦めるんじゃなくて、送り出してやれ、と」
「そうそう。年上ぶっちゃって、らしくないなー、と思いつつ。結構そのセリフ、私にもぐっさり突き刺さっちゃって。考えてみれば、私もぼっちちゃんと同じなんだなって気づいちゃってさ」
「わ、私と……?」
「うん。私も喜多ちゃんのこと大好きだから」
「えっ」と私は目を剥いた。
「ああ、違うよ? 恋愛的な意味じゃなくて!」笑いながら虹夏ちゃんはかぶりを振った。「大切な家族の一人として」
「家族……」
「そうだよぉ。結束バンドは、私のもう一つの家族だもん。ぼっちちゃんも、私の妹みたいなものだよ?」
ほとんど空になったカップの底をスプーンで丁寧にすくい上げながら、虹夏ちゃんは言った。
「だからね、だから……喜多ちゃんからバンド抜けたいって聞いたとき、正直私、最初信じられなかった」
「あ……」
「ずっと一緒だって、それが当たり前のことだって思ってて。──そりゃ、いつかはそういう日がくるとは思ってたよ。でも、今はまだそのときじゃないって、勝手に決めつけてた」
虹夏ちゃんは下に向けていた首をこちらに向けた。
「だけどねっ、私、ちゃんと言おうと思ったんだよ、あの時。頑張ってね、応援してるよ。口を開けば、すんなりそんな感じのセリフが言えるだろう、って思ってたの。──でも、言えなかった……」
そして、浮かんできた涙を隠すように再び顔を伏せる。
「なんでだろう、って考えてさ。そしたら私、お母さんが死んだ日も、似たような言葉で送り出してたってこと思い出して。それがお別れの言葉になっちゃったことも。
もちろん、喜多ちゃんがお母さんと同じようになるなんて思わないけど、言ったら間違いなく喜多ちゃんは、私たちのもとからいなくなっちゃう。また家族を一人失っちゃう。そう考えると……辛くてっ、受け入れられなくて。理性的で冷たい物言いしかできなくなって……っ」
駄目だよっ──、というあの日の虹夏ちゃんの言葉。とても冷たく、感情のない言い方に聞こえたけど、それは違った。本当は、はち切れそうな感情を懸命に胸の内に隠し、自分を抑え込んでいたんだと思う。
「でも……っ、もうわがままはお終いにしないとって思ったんだ」
鼻をすすり、袖で拭ったあとの赤い目尻を見せて、虹夏ちゃんは薄く微笑んだ。
「…………っ」
「ぼっちちゃんも苦しいのに、頑張って送り出す決意したんだから……だから、私もちゃんと腹決めないとって。喜多ちゃんと会って話そうって」
「に、虹夏ちゃん……」
「……はは、なんか思ったより話長くなっちゃった。言いたかったのはそれだけなんだ。……ごめんね、だらだら話しちゃって。そろそろ私、店に──」
「あ、あの……っ!」
なにでスイッチが入ったのか分からない。でも、気づいたら私は両腕で虹夏ちゃんの頭を包み込んでいた。
「えっ。ちょ、なになにっ? どうしたのっ?」
「あ、あの、私っ。私、いつも虹夏ちゃんにもリョウ先輩にも、他にも色んな人に甘えててっ。それなのに何も恩返しできてなくて!」
「ええ……?」
「わ、私にできることなんてたかが知れてますけど……それでも今、虹夏ちゃんが辛いなら……私に甘えていいですから」
「は、はは……なにそれ。あ、だから抱きしめてくれてるの?」
「て、店長さんに頭触られてたとき、私っ、すごく安心して……だから、こうすれば虹夏ちゃんも安心するかなって……あの、それで」
「あ、も、もう……別にそんな。いいんだよ、そんなことしなくたって。そんなこと……そんな……」
始めは私の手を振りほどこうと、じゃれつく程度に虹夏ちゃんは抵抗した。けど、次第にその力は弱まっていった。
「…………ぼっちちゃん、あのね」
少しして、虹夏ちゃんは言った。
「は、はい」
「
「……はい、知ってます」
「喜多ちゃんのことも、みんなのことも、本当にっ、大好きなんだよ」
「知ってます。大丈夫です」
「あたしは……っ、冷たい人間なんかじゃないよ」
虹夏ちゃんの声は震えていた。少しだけ抱きしめる力を強めた。
「はい、ちゃんと分かってます」
「喜多ちゃん……あたしのこと、嫌いになっちゃったかな……冷たい人間だって、思ってないかな……っ」
「嫌いになってないですし、思ってないですよ」
「本当に……?」
「間違いないです。喜多ちゃんは優しい人ですから」
「……そっか」心の底から安心したような声で虹夏ちゃんはつぶやいた。「…………よかった」
それからしばらく、虹夏ちゃんは小さい女の子みたいに縮こまって泣いた。
※
「……ごめん、もう大丈夫」
「あ、は、はい」
目を擦りながら起き上がった虹夏ちゃんは、少し腫れたまぶたで腕の時計に目を落とした。
「いやあ、はは……ごめんね。長らく甘えちゃったりして……」
「い、いえ全然。その、落ち着きましたか?」
「うん……なんだか、すごく懐かしかった」
「な、懐かしい?」
「小さいころの感覚っていうのかな。それがすごく呼び覚まされたっていうか。……はは、なに言ってんだろね、私」
「は、はあ……」
もしかして、虹夏ちゃんは私に母性でも感じたんだろうか。年上の娘ができる感覚……考えたけど、想像つかないからやめた。
「さ、そろそろ帰ろっか。あ、アイス食べ終わった?」
立ち上がりながら、虹夏ちゃんが振り返った。
「あ、はい。ごちそうさまでした」
「いいえー。ゴミ捨てるからちょうだい」
「あ、すみません」
空のカップとプラスプーンを手渡した。さっきのレジ袋に入れて、キュッと縛られる。
「あー……なんか口の中 甘々だよ」
「は、はい。ちょっと喉乾いちゃいましたね」
「わかるー。なんか飲み物買ってから帰らない?」
「あ、はい」
ベンチから移動して、公園に設置してある自販機までくると「おごるよ」と虹夏ちゃんが財布を出した。
「やっ、いいですよっ。アイスまでごちそうになったのに……」
「いいって、これくらい。長話に付き合ってくれたお礼とお詫び」
「そ、そんな……ああっ」
言ってる間に、虹夏ちゃんは野口先生を一人、自販機に吸い込ませた。なんてことを。
「はい。いいよ、選んで」
「うう……でも……」
「もー、早くしないとお札返ってきちゃうから。──先に私が買うよ?」
遠慮が抜けない私にシビレを切らして、虹夏ちゃんが先にボタンを押した。ゴトン、と自販機がお礼を言って、取り出し口からペットボトルの緑茶を掴み取った。
「はい、次」
「う……すみません、いただきます」
過度な遠慮も失礼に値する。多少は大人の常識も身につけたつもりの私は、頭を下げつつラインナップをざっと眺めた。ペットボトルは高いから、缶にしようと下段を確認すると、
「あっ」
ココアを見つけた。よし、これにしよう、とボタンに手を伸ばす。
──甘い甘い同士だと味分からなくなっちゃうし
「…………」
口の中はまだチョコアイスの甘みが残っている。
私は、
「…………」
ボタンを押した。
取り出し口からガコン、と少々硬めのお礼を言われ、缶を掴み取る。
「あれ?」と虹夏ちゃんが声を上げた。「いがーい。ぼっちちゃん、コーヒーなんて飲むんだ?」
「あ……はい」
ブラックコーヒー。当然、無糖だ。
「私、いまだにコーヒーの美味さがちゃんと分かんないだよねー……って言ったら、コーヒー好きに失礼か」
「あ、いえ。私も好きってわけじゃ……あんまり買わないですし」
あんまりどころか、缶コーヒーなんて買うの初めてだ。でも、私はこれを飲みたいと思った。
パキッ、と景気よくタブを開け、おそるおそる缶に口をつけた。ゆっくり傾けると、深い香りとコクが舌の上に馴染んできて──。
「ぅぇ……にぎゃい」
べえ、と舌を出すと、虹夏ちゃんは歯を見せて笑った。
怪獣の着ぐるみを着て『いいね』を欲しがる承認欲求モンスターならまだ可愛げがあったかもしれないけど、私は目深にキャップを被り、グラサンをかけながら女の子を尾行していた。
決してストーカーではない。監視だ。お巡りさんに理由を訊かれてそう答えたらきっとストーカー認定されてしまうだろうけど、私は正真正銘、監視目的で虹夏ちゃんを尾けていた。
『明日、喜多ちゃんに会ってくるよ。それで、ちゃんと話してくる』
昨日の別れ際、虹夏ちゃんは私にそう言った。多少の不安はあったけど、その言葉に私はすごく救われた気持ちになった。二人がまた元の関係に戻ってくれること以上の望みはない。
だから、私も着いていきますと言った。何でもいいから二人のサポートをしたかった。でも、虹夏ちゃんは優しくこの申し出を断った。これは自分が起こした問題だから自分一人でケジメをつける。ぼっちちゃんには後でちゃんと報告するから待ってて欲しい、と。
それでも折れずに同行をお願いしたけど、虹夏ちゃんの頑固さは私よりもずっと堅牢で、首を永遠に横に振り続けた。結果、凱歌を上げたのは虹夏ちゃんの方だった。
こうなったら仕方ない。私は彼女と一緒に行くのは諦めた。──後を尾けて二人を見守ることにした。
何時にどこで喜多ちゃんと会う約束をしたのか知らされなかったので、朝六時からスターリー前で待ち伏せた。で、六時間経ったころに虹夏ちゃんはやっとこさ現れてくれた。だいぶ脚が限界にきていたから、現れたときは心の中で快哉を叫んだ。
虹夏ちゃんは私に気づいた様子もなく、ぶらぶらと道を歩いて行った。白Tに膝下丈の黒いフレアスカート。カジュアルだけどラフすぎない格好だ。駅方面に歩いていくのが見えたけど、おそらくそこまで遠くへは行かないだろうと睨んだ。
井の頭線に乗って、虹夏ちゃんは終点の渋谷に降りた。駅から十分ほど歩いた先のお店に彼女は入った。予想はまあまあ当たっていたけども、素直に喜べなかった。虹夏ちゃんが入っていったのは、私と喜多ちゃんがいつも待ち合わせしていたあのカフェだったからだ。うへぇ、と目を細めつつ、五分ほどしてからグラサンを外して私も店に入った。
「いらっしゃいませー」
「あぅ、ひ、一人……です」
「空いてるお席にどうぞー」
ここに来てようやくまともに店員さんと会話ができたことに安堵しつつ、私はさりげなく店内を見渡した。虹夏ちゃんは……いた。一番奥のカウンター席だ。私はコソコソと入口付近の席を陣取った。ここなら、ちょうど私に背を向ける形となるので、そうそうバレることはないはず。近くに観葉植物もあるのでカモフラージュも完璧。
しかし、喜多ちゃんの姿はまだ見えない。待ち合わせの時間も知らないから、彼女が遅刻してるのか、虹夏ちゃんが早く来すぎたのか判断もつかない。
ううーん、と思考をめぐらせていると、店員さんと目が合った。ニコリと微笑むや否や、つかつかと歩み寄ってきた。注文は決まってないけど、注文をしない選択肢を選ぶ勇気はない。慌てて、ココ──アイスコーヒーをお願いした。
注文を受けて去っていく店員さんの背中から、虹夏ちゃんの背中に目を移そうとすると、入店のベルが高らかに鳴った。
……あっ。
辛うじて声は出なかった。私は慌てて顔を伏せた。スマホを見るふりをしながら、垂れた前髪の隙間からお店に入ってくる女の子を見上げた。
喜多ちゃん……!
彼女は背伸びして店内を見回した。それから虹夏ちゃんの方にまっすぐ歩いていった。途中で虹夏ちゃんが気づいて振り返り、真顔と笑顔の中間のような表情を作った。何かを言っている。声は聞き取れない。隣の席を指さしたのが見えた。ここに座って、と言ったんだろう。その通りに喜多ちゃんはゆっくりと虹夏ちゃんの隣に腰を下ろす。
……沈黙が続く。いや、何かしら話をしているのかもしれない。ただ、ここからだと会話の内容どころか唇の動きすら読めない。
席選び失敗したかなあ、と軽く後悔していると虹夏ちゃんが動いた。彼女は喜多ちゃんの方に体を向けた。神妙な顔で何かを弁明するように口を動かしていた。喜多ちゃんも上半身だけ虹夏ちゃんの方へ向けた。彼女の方は気まずさの目立つ表情。虹夏ちゃんが何かを言うたび、ぼそりと一言だけ返しているように見えた。
虹夏ちゃんが頭を下げた。それを喜多ちゃんは驚いた目で見た。首を横に振りながら、虹夏ちゃんの肩に手を伸ばした。止めさせようとしたんだと思った。けど、虹夏ちゃんも顔を伏せながらかぶりを振った。
「お待たせしましたー」
「ああっ! あ……ありがとう、ございます……」
いいところで、店員さんが視界を塞いできた。アイスコーヒーを持ってきてくれた。お礼を言いながら、店員さんと自分の運の悪さに歯噛みした。
ごゆっくり、と残して店員さんが去ると、二人の様子に変化があった。今度は喜多ちゃんが頭を下げていた。それを虹夏ちゃんが悲しい目で見ている。どこか諦めきれないような、認めたくないような、そんな目だった。
しばらく二人はその状態で固まった。口を動かしている様子もないから、沈黙しているんだと思う。どうしたんだろう、とハラハラしていると、
「失礼しましたー。ガムシロップでーす」
「ああっ! あ、はい……ありがとうございます」
忘れものを届けに再び店員さんが視界を塞いできた。今回はわざとじゃないの? と胡乱な視線を向けると、さすがに少しは謝罪のこもった目で私を見てきたので、慌てて目を逸らした。
ようやく視界が晴れて、私は顔を上げた。二人を見た。そして、思わずハッと息を飲んだ。
虹夏ちゃんは照れくさそうに頬をかき、喜多ちゃんは目を細めて口を手でおおっていた。お互い笑顔だった。
ああ──と、私は空気が抜けるように、背もたれに体をあずけた。天井を仰ぎ、大きく息を吐いた。
杞憂でよかった、と私は目を閉じた。二人が二度と笑い合うことがないという私の悪い予感は、消えてなくなったんだ。
もう一度、大きく息を吐いた。途端に嬉しさが込み上げて、目頭が熱くなってきた。数回まばたきをして、一人で流す恥ずかしい涙を引っ込めていると、虹夏ちゃんがスマホを掲げて、喜多ちゃんが身を乗り出しているのが見えた。ああ、なるほど。仲直りの記念撮影かな。ふっ、これが友情ってやつか──と、他人目線で酔いしれていたら、突然私のスマホがバイブし始めた。
ギョッとして画面を見ると、電話がきていた。虹夏ちゃんから。それもビデオ通話だ。
やばいっ。嫌な汗が脇の下をつう、と通った。後で報告するとは言っていたけど、まさかこんなすぐくるとは。
躊躇いながらも、とりあえず通話には応じた。場所がバレないようこちらのカメラ設定はオフにした。
『ぼっちちゃーん。やっほー』
「あ……こんにちは」
『いきなりごめんね。今大丈夫?』
「えっと……は、はい」
『ん? なんでそんなに小声なの? 外出中?』
ドキッとする。しかし落ち着いて、ええまあ、はあ、とぐにゃぐにゃな返答で濁した。
「そ、それよりどういうご要件で?」
『ああうん。問題解決したよって件で──』
『ひとりちゃーん! 見えるー?』
違う意味でまたドキッとした。画面に喜多ちゃんの顔が写った。手を振っている。
「あっ……喜多ちゃん」
『えへ。まあ、ご覧のとおりで。ぼっちちゃんにはすっごく心配かけちゃったけど……もう私たち、大丈夫だよ』
安心させる声色で虹夏ちゃんは伝えた。私は彼女の言葉を噛みしめつつ、はいと返した。
『ひとりちゃん、本当にごめんなさい』
「いえ、よかったです」
『ううん、そのことだけじゃなくて』
喜多ちゃんは申し訳なげに目を伏せた。
『年末年始、私、付き合い悪かったでしょ? ライブにも行かなかったし、初詣のお誘いもちゃんと返事しなかったし。あれね、本当は気まずくなるのが嫌で、逃げてただけだったの』
「あ……それは」
『用事があったのは本当よ? でも、旅行は別に行かなくてもよかったし、彼のインフルだってお母さんが看病してくれてたから私が行かなくてもよかったんだ』
「そうだったんですか……」
『すっごく嫌な思いさせちゃったよね? 本当に、本当にごめんなさい』
画面の中の喜多ちゃんが見えなくなった。直接、肉眼で観察すると頭を下げているのが見えた。シリアスな雰囲気なのに、ちょっとシュールで笑いそうになる。
「あ、気にしないでください」カメラはオフになってるけど、私は首を振って見せた。「わ、私の方こそ、昨日急に帰っちゃってごめんなさい」
『ああ、ううん。いいのよ。用事は大丈夫だった?』
「っ、は、はい」
私の場合、その用事もフェイクだから、喜多ちゃんよりよっぽどタチが悪い。急に罪悪感が背中にのしかかってきた。
『あ、そうそう。喜多ちゃん、十二月に──』
虹夏ちゃんがなにか言った。だけど、店の前を通り過ぎた救急車の音で遮られた。
「あ、すみません。サイレンの音で聞こえなくて」
『え、なんて?』
「あ、救急車の音で途中から聞こえなくて……」
『ああ、ごめんね。というか、そっちからもサイレンの音聞こえたんだけど?』
「あ、そっ、そうですか?」
思わず棒読みになる。密かに呼吸を整えながら、「偶然ですねー」みたいなことを口にしようとしたとき、視界に人影が見えた。
「たびたびすみませーん。ストローお持ちしましたー。すみませんでしたー」
「ああっ……!」
絶望がそのまま口に出た。やってきた店員さんの声はなんのフィルターもかからず、スマホのスピーカーに吸収された。
『んんっ? ぼっちちゃん、今どこにいるの?』
「あ、あのぉ……あのぉ……」
適当なお店の名前か、単純に外食中ですとか、いくらでも誤魔化す口実はあるだろうに。私のテンパりは虹夏ちゃんの不審を募らせることしかできなかった。
『ぼっちちゃん、もしかしてさあ』虹夏ちゃんがやたらねっとりとした声で言った。『今、近くにいる?』
「ひっ」
短い悲鳴が出た。完全に悟られた。どうしよう、どうしよう。このまま見つかったら怒られちゃう……!
急いでアイスコーヒーに手をつけた。これを飲んで、とっととずらかろう。……と、思っていたけど、ガブ飲みするには苦味がきつい。大人しくガムシロップに手を伸ば──
「ふふ、みつけたっ」
「ぴっ──!」
──したところを掴まれて、全身に鳥肌が走った。喜多ちゃんの無垢な笑顔が近くにあった。い、いつの間に。
「もーっ、やっぱり! なんで着いてきたのっ?」
すぐに虹夏ちゃんもやってきて、私は行動に移る猶予も与えられないまま、あえなくお縄になった。
※
プンスカ怒られるかなと覚悟していたけど、思いのほか虹夏ちゃんの怒りはライトで、ごめんなさいと素直に頭を下げたら許してくれた。何だかんだ、私の意図は汲み取ってくれたらしい。ホッとした。
二人はその後、私のテーブル席に移動してきた。三人でお茶しようという流れになった。私は平和な時間が戻ってきたのだと実感した。
「あ、あの、ところで虹夏ちゃん。さっきの話なんですけど……」
「ん? なんだっけ?」
頼んだ抹茶ラテで、少し唇が緑色になっている虹夏ちゃんが首を傾けた。
「あ、さっき救急車で聞こえなかった話の続きが気になって」
「ああ、あれね。そうだそうだ。忘れてたよ」
笑って虹夏ちゃんはカップを置いた。
「喜多ちゃんね、十二月にまた戻ってくるってさ」
「あっ、ほ、本当ですか?」
喜多ちゃんの方に顔を向けた。
「うん。次は少し長めにいられると思う」
「あっ、それは……嬉しいです」
ふふ、と喜多ちゃんは目を細めた。そして、私に顔を近づけ、私にだけ聞こえる声量で言った。
「──そのときに、あのこと皆にも報告しようと思うの」
「あっ……あ、は……なる、ほど……」
「なんの話〜?」
「ふふっ。いいえ〜、なんでも!」
喜多ちゃんは楽しげに唇の前で人差し指を立てた。虹夏ちゃんはたぶん察してるんだろうけど、「気になるー」と場の空気に合ったリアクションをしていた。
私は……今、どんな顔をしているのかな。
笑えていたらいいなって思う。
夏から秋に変わって、秋もまもなく冬の身支度を始める時期になった。
あんなに騒々しかった蝉の叫びも、白々と照りつける暑い日差しも、時間が経てば弱まっていくのはなにか名状しがたい虚しさがあった。
十一月、私は少し思い切ったことをしてみた。背中まで伸びていた髪を短くしたのだ。肩の高さまでバッサリやった。一人で美容室に行くのも大変だったけど、美容師さんにオーダーするのは並大抵ではない苦労があった。何度も「本当にいいんですか?」と訊かれて、そのたびに「お願いします」と答えるやり取りは、店内の注目を集めてかなりしんどかった。
でも、結果的にかなり満足した。いやいや、と頭を振ると短くなった髪がわしゃわしゃと揺れて、今までとまったく違う感覚が楽しめた。シャワーを浴びて髪を乾かすのも、いつもの半分くらいの時間で済むし、朝起きたときの寝癖のケアも楽になった。
周りの反応もかなり好意的で、みんな褒めてくれた。「似合ってるね」「かわいいじゃん」「前より明るく見えるよ」などなど、なんていうか私にそんな言葉もったいないですよっ、てくらい褒められた。ふたりも「おねーちゃん、あたま軽いね」と言ってくれた。悪口じゃないと信じた。
ただ、リョウ先輩は茶化して「失恋でもした?」と言って、虹夏ちゃんに引っぱたかれていた。遊びにきた廣井お姉さんも「あれ〜、ぼっちちゃん失恋したの?」と言って、店長さんにボコボコにされていた。
だいたいみんな優しかった。
※
十二月に入ると、約束どおり喜多ちゃんが帰ってきた。いつものカフェで彼女は待ってて、私がやってくると目をキラキラと輝かせて「本当に切ってる!」と言って、私の髪をずっと梳くように撫でてきた。すごく幸せだった。
スターリーを訪ねると虹夏ちゃんとリョウ先輩がすでにいて、「待ってたよ〜」と出迎えてくれた。店長さんとPAさんも当然いて、並べられた折りたたみテーブルの上にどデカいホールケーキとパーティ用のポテトチップスやドリンクなどが用意されていた。何の宴が始まるんだろうと思っていたら、「それじゃあ、卒業式始めようか」と虹夏ちゃんが言った。
「卒業式?」
何のことだろう、と私は目をしばたたかせた。
「そうっ。喜多ちゃんの結束バンド卒業式」
「え、ええっと……」
「虹夏が、ずっと郁代が仮脱退のままだと居心地悪いだろうって。それならちゃんと卒業させてあげて、今後はOGになってくれた方がお互い繋がり保てていいんじゃない? ってことで発案したんだよ」
なかなか話が読めない私に、リョウ先輩が語ってくれた。
「ああ、なるほど……」
「あはは……説明足りなくてごめんね?」
「わ、私のためにこんな……?」
今の時点でだいぶウルウルきてる喜多ちゃんの肩を優しく抱くキザなリョウ先輩に軽い妬みを抱いていると、唐突に店長さんがでっかいB4サイズくらいの紙を両手に持って前に出てきた。みんなの注目が集まる。
「う、うおっほん。うおっほん!」
「店長、風邪? 寝た方がいいよ」
「ばかっ。今緊張してるんだから茶化さないの!」
いまいち締まらない空気に店長さんがもう一度「うぅおっほぉん!」と大仰な咳払いをする。それで、ようやく静まり返った空間に店長さんの声が響き始めた。
「そぎょっ、卒業証書、喜多郁代。き──貴方は長年にわたり結束バンドのギター、ボーカルとして、えー……が、頑張ってきたので、ここにその感謝の意を表します」
「それ、感謝状じゃないですか?」
PAさんが小声で耳打ちするのが聞こえた。
「う、うるせえな……令和〇年十二月十二日。スターリー店長、伊地知星歌! ──はい、拍手っ!」
恥ずかしさを誤魔化すように拍手を求めてきた店長さんに、みんなで応える。
喜多ちゃんは店長さんの前に出て、餌を待つ雛鳥のように賞状の授与を待った。
「……とりあえず、今までご苦労さん」
打って変わって、落ち着いた大人の声で店長さんは言った。
「……はいっ」
「色々と変わっていくことはあるだろうけど、これから先もここは変わらず喜多の居場所だから。変に遠慮せずに帰ってこいよ」
賞状が手渡された。受け取った喜多ちゃんは感極まった声で身震いしたあと、
「〜〜〜っ、店長さんっ!」
わっ、と涙を流して店長さんに抱きついた。ついに崩壊した。
いきなりバケツの水を顔面にぶっかけられたような表情になった店長さんは、なぜか私の顔を見て「違うんだ。これは違うんだ」と弁解してきた。
「ぐすっ……店長さんっ、大好きぃ……!」
「う、うん……わかっ、分かったから離れろ。一旦離れよう。な?」
「いいじゃないですかぁ。今日くらい甘えても〜!」
グリグリと首筋に顔を埋めてくる喜多ちゃんに、店長さんの顔が引きつっていく。
「ああもう。ほら! せっかくだから何か言えよ。卒業生の言葉として何かみんなに一言っ!」
「ええっ、いきなり言われても……」
と言いつつも、真面目に考え始める喜多ちゃん。その間に店長さんはそろりと離れて私の後ろにきた。
「あ、えっと……それじゃあこの場をお借りして、一言、皆さんに感謝の言葉とご報告を申し上げたいと思います」
言うことが決まった様子で、喜多ちゃんは畏まった口調になった。みんなも少しだけ背筋を正した。
「──まずは、本日は私のためにこのような会を催して下さってありがとうございました。結束バンドのメンバーとしては卒業してしまいますが、これからも末永くよろしくお願いいたします」
深々と九十度のお辞儀をして、頭を上げた喜多ちゃんはさっきより少し口元が緩んで見えた。
「それで──ご報告というのが」喜多ちゃんは唇を舐めた。「私……来年の四月に結婚することとなりました!」
わーーーーーーっ!!
という歓声を期待していたのだろうけど、店内には沈黙が落ちた。
「あら〜」
「へえー」
なんとかリアクションしたのはリョウ先輩とPAさんの二人。私と伊地知姉妹の三人は拍手だけに留まった。
「あ、あれっ?」
さすがにこの白けた反応は予想外だったようで、喜多ちゃんは目を点にしてみんなの顔をうかがった。
「えっと……私、あの……」
なんだか可哀想に思えてきて、私は震えながら手を挙げた。
喜多ちゃんの結婚の件は、虹夏ちゃんと店長さんには話しちゃいました。新鮮なリアクションができなくてすみませんでした──。
私からの報告を聞いた喜多ちゃんは、まさに「ガーン」といった顔で肩を落とした。それからオモチャを取り上げられた子供のように叫んだ。
「もっとビックリしてもらいたかったのにぃ───ッ!!」
※
ライブハウスのオープン時間前にはファミレスへと移動し、結束バンドと喜多ちゃんの面々で二次会が始まった。まあ、二次会といっても普通のお食事会だったんだけど、三人でお金を出し合って、喜多ちゃんの分は出すことにした。リョウ先輩は若干出し渋っていたけど、最終的にはきちんと出してくれた。人の心はあったのだ。
食べ終わったあとは三次会の話が持ち上がることなく解散となった。というのも、食事中に店長さんから「救援求む」と電話があったみたいで、虹夏ちゃんとリョウ先輩はしぶしぶスターリーに戻らざるを得なくなったからだ。私は喜多ちゃんを駅まで見送るよう、虹夏ちゃんから指示を受けたので、ファミレスを出たら必然的に二手に分かれることとなった。
「あー、楽しかった〜!」歩きながら、喜多ちゃんは大きく伸びをした。「やっぱりみんなで集まると盛り上がるわね! 私、ずーっと話してたかもっ」
「あ、確かに喜多ちゃんの口、ずっと回りっぱなしでした」
「あははっ、だって四人で集まるの久しぶりだったから」
明るく笑った次に、喜多ちゃんは懐かしさを噛みしめるような表情で夜空を仰いだ。私もつられて首を持ち上げる。ケバケバしく輝く街の光より、何光年も先の星々の煌めきの方がずっと鮮明で、どこまでも透き通って見える。
「ねえ、ひとりちゃん」不意に喜多ちゃんが訊ねた。
「はい?」
「ひとりちゃんって、今好きな人いる?」
「え……っ、え、えっ!?」
「ね、どうなの?」
星を眺めていた目が、私に向けられる。頬が一瞬にして燃え上がる。周りが暗くてよかったと思った。
「ど、どうして……そんなっ、あの……」
「星空を見てるとロマンチックな気分にならない?」
「ええと……まあ、はい……」
「だから!」
あっけらかんと彼女は笑った。
「ええ……」
「ほらほら〜、教えてよ〜?」
「そっ、いや、あの……っ」
「もう、隠さなくていいじゃない。親友でしょ?」
親友だから明かせないんです──というセリフは飲み込み、ひとまず一息つく。落ち着いてから、私も喜多ちゃんの目に正面から向き合った。
「い、いま──した」
「いました? 過去形?」
「は、はい。もう多分……そういう感情はないと思います」
「ふうん。そっか」と喜多ちゃんは目線を下げた。「その人のこと、諦めちゃったの?」
「……諦めたというより、その人を応援しようって考えたんです」
「応援?」
「はい。えっと、すでにその人には好きな人がいて……だから、私は二人の幸せを願う人間になろうって、そう思って……」
店長さんの言葉を借りて、なんとか自分のセリフに変換する。ズルい気もするけど、私の語彙力で上手く言語化するのは困難だ。
喜多ちゃんは難しい顔をして黙っていた。なんとか脳に理解させようとしているようにも見えた。
やがて、彼女は私に向き直って、
「そういう考え、私好きだな」
「あ……ありがとうございます」
ホッと息を吐いた。その直後に「でも」と喜多ちゃんは言葉を続けた。
「でも──身を引いてばっかりじゃ駄目だとも思う」
「……え」
「ああ、別に略奪愛を肯定してるわけじゃないのよ? ただ、ひとりちゃんはかわいいんだし、もっと強気に自分をアピールしてもいいんじゃないかなって感じたの」
「い、いや……でも──私は……その人にとっての幸せが一番大事なんじゃないかって……」
「うん。けど、何がその人にとって本当の幸せかなんて分からないじゃない」
「え……えっと……え?」
「私だったら、本当に好きな相手には、自分があなたを一番幸せにできますってアピールしたいし、して欲しいかなあ。だって、それだけ本気で愛してるってことでしょ? それってすごく素敵なことじゃない?」
「────」
頭の中で、何かが崩れていく音がする。
私は本当に正しい選択をしたのだろうか。
途端に不安が胸の中で渦を作り、目眩がしてきた。
「……って、なんか悪女っぽい考えよねこれ。嫌だわ〜」喜多ちゃんは自嘲して、頭を振った。「ごめんね、変なこと言っちゃって。忘れて?」
「あ、は……はい」
それから駅までは、盛り上がる会話もなく私たちは歩き続けた。改札を抜けて、ホームに降りていく喜多ちゃんに手を振るまでの一連の流れを驚くほど単調に済ませ、彼女を乗せた電車が去っていくのを見届けてから私は再び歩き出した。
「…………」
十二月十二日。
喜多ちゃんの結婚式まであと四ヶ月。
時間は止まらない。待ってくれない。少しくらいサボってくれたっていいのに、クソ真面目に時を一秒ずつ削り続けていく。
残された時間で、私はどんな決断をするんだろう。なにを失っていくんだろう。
考えながら白い息を夜空に溶かす。冬はこれから始まろうとしている。
忙しい年末が滞りなく終わり、おめでたい正月もつつがなく過ぎた一月の中頃、喜多ちゃんから手紙が届いた。
瀟洒な装丁の洋封筒には、端正な字体で「後藤ひとり様」と書かれていて、開け口は四葉のクローバー型の封緘シールで綴じられている。その下には喜多ちゃんと彼氏さんの名前が仲睦まじげに並んでいた。
ついにきた、と脈打つ鼓動を落ち着かせながら、シールを剥がして慎重に中身を抜き取る。二枚の紙が入っていた。一つは招待状。もう一つは返信用のハガキだった。
まずは招待状の方を手に取る。綺麗に三つ折りされた便箋はぴっしりと定規で測ったかのように正確で、開くのに少し物怖じしてしまうほどだった。
──────
拝啓
新春の候、皆様にはますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
さて、〇〇 〇〇と喜多 郁代は、このたび結婚する運びとなりました。
つきましては、日頃よりお世話になっている皆さまにお集まりいただき、ささやかな小宴を催したく存じます。
ご多用中、誠に恐縮ではございますが、ご光臨の栄を賜りたく謹んでお願い申し上げます。
敬具
──────
文面はこんな感じ。ここから下には日時と式場の場所、返信締切日などの案内が記載されている。一通り目を通してから、ふぅ、と一息ついた。
いやあ、お堅い。
喜多ちゃんのことだから、もっとフレンドリーな親しみやすい文章で送られてくるもんだと思っていたけど、だいぶビジネスライクというか。まあ、喜多ちゃん本人が考えた訳じゃないかもしれないし、彼女のお母さんから「こう書きなさい」と言われたのかもしれない。あるいは、ネットの例文をそのまま引用した可能性もある。多分、どれかだろうなと思った。
ハガキの方を見る。こっちは喜多ちゃん色満載だ。ゴテゴテに彩られた模様やイラストが所狭しと描かれていて見た目がうるさい。中央には白と黒の猫がお互いを見つめ合うイラストがあって、その間に『ご出席』、『ご欠席』の文字を見つけた。
たまたま以前、ネットで聞きかじったマナーによれば『ご』の字は斜線を引いて打ち消さなければならないらしい。理由は知らない。書いてなかった。しかし、打ち消すのが当たり前のマナーなら、最初から書く必要はないのではと無粋なことを考えつつ、とりあえず出席と欠席の両方の『ご』の字にぺけぺけと斜線を引いた。
あとは丸を。『出席』の方を丸で囲めばいい。
みんなそうするんだ。だから私もそうするんだ。
……。
…………。
……………………。
ちょっと休憩。文字を見すぎて目が疲れた。
伸びをして、目を擦る。眠気が出てきた。一眠りしてから丸をつけよう。うん、そうしよう。まだ締切日まで全然時間はある。なにも慌てるような時間じゃない。
万年床の布団に体をドサッと落とす。しばらく死体のように転がったあと、鼻からゆっくり息を吸い込んだ。ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしって、拳に力を入れ、枕に噛み付く勢いで「あーーーーーーーあっ!!」と落胆の叫びを放つ。
終わりだ、終わりっ。ついにこの時がきてしまったんだっ。
あー……くそぅ、もうっ。あーあ。本当にあーあっ。全部が嫌で仕方ない。
大声で喚き散らかしたい。世の中の全てに思っきしビンタしてやりたい。アメリカに行って大統領のヅラを盗んで、NASAのロケットで火星まで飛ばしてやりたい。
どうせ終わりなんだ。死刑囚だって、死ぬ前にタバコくらい吸わせてもらえるんだ。私もそれくらいぶっ飛んだことをしたっていいじゃないか。
もう、終わりなんだから。
夢を夢見ていい時間はもう終わりなんだ……。
斜線を引いただけの返信ハガキは一週間ほど机の上に放置されている。
お母さんが部屋に入るたび「早く返事出してあげなさい」って言ってくるので、私も何とかしようとは思っている。でも、書けない。たかが丸一つがどうしても書けない。
これは未練なのか。いや、きっと『意地』のせいだと思う。書けば負け、という小学生みたいなつまらない意地が私を動かしている、いや、動かしてくれないのだ。丸一個書けば済む話を「最後の一歩」と呼称し、大げさに仕立て上げているのだ。
ドラえもんだって、丸一つじゃ描けない。でも、このハガキでは丸一つで重大な選択を選ぶことができる。そんじゃそこらの丸とは重みが違うんだ──そんなことを真面目に考えてしまうのだ。
バカだなあって思う。でも、バカになってないと正気に戻ってしまう。バカを演じているうちが、一番精神的に楽でいられた。
とはいえ、このままずっと放置して締切までに間に合いませんでした、とかなったら正真正銘のおバカちゃんなので、私は今日、ハガキを持ってスターリーに向かった。練習の日だから虹夏ちゃんもリョウ先輩もいるはずだ。すでに出しているだろうみんなに、いつまで経っても前に進めない私の背中を押して欲しかった。
きっと押してくれるだろう。そう信じながらスターリーに着いて、階段をおりて、扉を開ける。
「あ、おはようご」
「──だあああっ、もうっ。分からず屋っ! そんなに金にならないことがイヤかっ!!」
「お金の問題じゃない。単純にパフォーマンスが落ちるのがヤなんだよ。質の低い演奏なんてやる価値ないしやりたくない」
「だから〜〜っ、ちゃんとした設備はあるんだって! 音量も少しは制限大目に見てくれるって言」
扉を閉めた。
喧嘩だ……こんなときに。
虹夏ちゃんとリョウ先輩の喧嘩は珍しいことじゃない。だいたい二週間に一度くらいの間隔で、小さな衝突から小競り合いが勃発する。すぐにしれっと仲直りしてるからいつもは気に留めないけど、今日に限ってはタイミング悪いなって頭を掻いた。
とりあえず撤退。二人の喧嘩は仲裁に入ると逆に長引くので、そっとしておくのが無難だ。一時間くらい本屋さんで暇をつぶしてからまた来ようと思った。
では、また──。
「ねえーっ、ぼっちちゃん、いまの話聞いてたーっ?」
「すみません聞いてましたっ!」
逃れられなかった。
背中を向けた瞬間、虹夏ちゃんが飛んできたので振り向きざまに頭を下げた。
「そっか。じゃあ、詳しく説明するからちょっとこっち来て!」
虹夏ちゃんの腕が伸び、完全に開いてないドアの隙間から私を中に引きずり込んでいく。観念して身を委ねた。
「──あ。ねえ、ぼっちはどう思う? ヤダよね? やりたくないよね?」
「えっ? あ、あ、はい……」
いきなり。
店に顔を出すや否や、先輩が問い詰めてきた。勢いに気圧されて、思わず首を縦に振る。すると、彼女は得意げに虹夏ちゃんの方に顔を向けた。
「ほら、ぼっちもヤダって。二対一だよ?」
「ノーカンだよ、そんなの。ダメダメ」
「民主主義を否定するのか」
「違うわ。まだ事情知らないんだから、いきなり訊いたって何のことか分からないだろ。てか、そんな訊き方じゃ、ぼっちちゃん反対したくてもできないでしょ? やめなさいっ」
むう、とリョウ先輩は口を曲げる。私は何のことやらで二人の顔を交互に見た。
「ああごめんね、今から説明するよ。──実はさ」と虹夏ちゃんが口を開く。その言葉を継ぐように「ライブ」とリョウ先輩が短く言った。
「え、ライブ?」
「虹夏がライブやろうって。郁代の結婚式で」
「え、ええっ?」
虹夏ちゃんを見る。左様でございます、って顔で腰に手を当て頷いていた。
「そっ。余興ライブ。いい案でしょ? 私たちらしくて」
「べつに突飛な発想でもないけど」
「うっさい」
「え、あのっ、できるんですか? そういうのって」
「ああ、できるみたいよ。披露宴会場って、スピーチとか音楽流すために音響関係の設備が結構しっかりしてるんだよ。喜多ちゃんが挙式する式場にも電話入れてみたら、大丈夫ですよーって許可もらえたんだ」
「へえー……」
「けど、絶対ライブハウスと比べたらショボイ」
頬っぺに空気を溜め込んで、リョウ先輩が不満そうにこぼす。
「だから、それはしょうがないじゃん! 専門の施設じゃないんだしさっ。分かってよー!」
ふんっ、と納得の見えない顔で先輩はそっぽ向いてしまった。
「……とまあ、こんな感じで。計画は立ててるんだけど、リョウがどうも乗り気じゃなくてね。ぼっちちゃんが来たら意見聞いて、どうするかはっきり決めようって二人で話してたところだったんだ」
「はあ……そう、でしたか」
苦い笑顔で虹夏ちゃんは締めくくった。こっちはこっちで問題を抱えていたらしい。ますますイヤなタイミングで来ちゃったなあと思いながら、式場でライブする三人を想像してみる。
広い空間に、百人以上の来賓客。新郎新婦の席には喜多ちゃんと彼氏さんが並んで座っていて、
早くも想像終了。もうブルーになってきた。花嫁衣裳の喜多ちゃんが鮮明にまぶたの裏に浮かんできてしまった。
「それで、どうかな? 喜多ちゃんを送り出すためにも、ライブやってみない?」
「はぁ……」
「ぼっちちゃん?」
「あっ──いや、すみません……ええと、ちょっとその、考える時間もらえますか?」
ハガキの出席も回答できてない以上、ここで答えることはできないと思った。
「う、うん。いいけど……できれば早めに返事くれると助かるかな」
「あ、はい……」
「よし──さあ、もうそろそろ時間だし、練習始めよっか」
虹夏ちゃんの一声でこの話題は一旦打ち切りとなり、楽曲練習に入ることとなった。今週末は新宿でのライブが控えている。今日は最終調整のため、セトリ順に通しでやろうと虹夏ちゃんが言った。
リハーサルスタジオに移動し、ギグバッグからパシフィカを取り出す。アンプに繋いで軽く弾きながら音のチェックを済ませる。心を鎮めるための長い呼吸を繰り返す。
数分ほど各々が軽く指を鳴らしたところで、リハが始まった。
一曲目──、イントロのリフが鳴り響く。リョウ先輩と虹夏ちゃんの二人がしっかりグルーヴを作り出し、曲に弾みが醸成されていく。いつも通りだ。あとはボーカルの先輩が歌い始めれば、一気に緊張が解ける──はずだったのに、そうはいかなかった。
Aメロの終わりから徐々に虹夏ちゃんと先輩の息が合わなくなってきた。どちらかというと、リョウ先輩の方がリズムのピントから外れていく。それは本人も自覚しているようで、いつもの涼し気な顔に焦りが見えた。歌声も上ずっていて心許ない。
少しずつ大きな乱れに育っていくベースラインにハラハラしながら、私はサビを待つ。サビに入れば軌道修正できる。そう思った。けれど結局、不安定になったリズムが元に戻ることはなく、一曲目が終わった。
演奏の余情もほとんどない、無機質な沈黙の中に三人の息切れの声だけがただよっている。ひどく疲れた。私たちの曲の中ではそこまで激しい方ではないのに、かなり体力を消耗した。いっぱい汗が出た。リョウ先輩も顎先に汗の滴を作っている。
「ねえ、大丈夫……?」
落ち込んだ空気に虹夏ちゃんの声が響く。リョウ先輩に向けられた言葉だったんだろうけど、先輩は虹夏ちゃんの声には答えず、そばにあったペットボトルを手に取った。中のスポドリを喉に流し込む。
「…………うん。ごめん」
手の甲で口を拭ってからリョウ先輩は数秒遅れの返答を口にした。絶対大丈夫じゃないし、只ごとじゃないだろうけど虹夏ちゃんは何も言わなかった。私も何も言えなかった。
※
最悪なリハーサルを終えて、すっかり消沈したムードができあがっていた。全ての曲の演奏が明らかにプロとしてのラインを下回っている。これを本番で披露してしまったら──考えると全身が総毛立った。
リョウ先輩は黙々と片付けを始めていた。虹夏ちゃんはその様子を真顔で見ている。何かを言い出しそうな雰囲気はあるけど、それでも口はつぐんだままだ。
私は無言のまま虹夏ちゃんの言葉を待った。心配してあげて欲しい。励ましてあげて欲しい。愚痴ってもいい。詰ってもいい。どんな言葉でもいいから送って欲しいと願った。
「……先に上がる」
「あ……っ」
けれど、その前にリョウ先輩がスタジオから出て行った。
先輩の背中から虹夏ちゃんに視線を移す。
「あ、あの……どうして、」
どうして、何も言ってあげなかったんですか──と言うつもりだったけど、ひどく他責的な発言だと気づいて止めた。その代わり、「これからどうしましょう?」とふんわり訊ねる。
「うん……今日はもう終わりにしよう。リョウも帰っちゃったし、音のコンディションも良くないし」
「そ、そうですよね」
仕方ないとは思いつつ、週末のライブの不安がどっしり重くなる。
「それから悪いけど、本番前にあと一、二回は練習入れるよ。さすがにこのままぶっつけは怖いからね」
「あ、はい。それは助かります……」
「それから……もう一つ悪いんだけど」
「はい?」
「リョウのこと、頼んでもいいかな?」
「は、えっ?」
声をひっくり返らせながら、見開く目を虹夏ちゃんに見せる。
「なっ、どっ……わ、私にですか?」
「いや、ね。私が相手だと、あいつ悩みとか本音を隠すクセがあってさ。それがシリアスな方向だと特にね。だから、ぼっちちゃんに話し相手になってもらって、それを引き出してもらいたいんだよ」
「は、はあ……というか、なんか意外です。リョウ先輩って、虹夏ちゃんに対してはかなりあけすけなイメージですけど……」
「ううん、そんなことないよ。実際はその逆。あいつ、腹の底では色々と溜め込んでるのに、私にはそれを意地でも見せようとしないんだよ。たぶん、リョウなりのプライドがあるのかもね」
それはあるかも、と思う。
「いつもは放っておいても、いつの間にか立ち直ってるから世話ないんだけど、今回はライブまで時間もないし……それに本人もすごく苦しそうだからさ」
だから、と虹夏ちゃんは私に向かって両手を合わせて、
「──そういう訳で、たいへん申し訳ないんだけどお願いしてもいいかな?」
「あ、は、はい。その、できる範囲でがんばります……」
答えると、ようやく虹夏ちゃんの表情に安堵の色が見えた。その顔を見て、私も少し胸が軽くなった気がする。
さあ、引き受けてしまった以上はやるしかない。
ギグバッグを背負い込み、先を歩き出して行ったリョウ先輩を追いかけた。まだ遠くへは行ってないはずだろうから、捕まえて話を聞こうと思った。鉄は早いうちに打つのだ。
スターリーを出て、階段を駆け上がる。外はもう日が沈みかかっていた。薄暗い辺りを目を細めて見回したけど、リョウ先輩の姿は見えない。
スマホを開いてロインから通話に繋ぐ。耳にスピーカーを近づけるが、着信音は鳴り止まない。埒が明かないので唇を噛みながら、スマホをポッケにしまい戻した。
ひとまず先輩の行きそうな場所を走りながら考えることにした。楽器屋、古着屋、本屋、ネカフェ、映画館──お腹が鳴った──あとは、ご飯屋さんとか。
まずはご飯屋さんから探すことにした。先輩もお腹を空かせて、どこかで夕食をとっているかもしれない。
スマホを開いて近くのお店を確認する。先輩が好きな物は何だったろうか。カレー? ラーメン? お寿司?
間をとって、パスタにした。
徒歩五分圏内にあるイタリアンの店を目指した。
※
──奇跡というものを信じたことはなかったが、ちゃんと存在するらしい。
小洒落た外観のお店に意を決して入ったら、リョウ先輩がいた。まさかの一発ツモ。お互いに「あっ」と声が出た。
「ぼっちもここで夕飯?」普段通りの声で訊ねてきた。
「あ、いや……まあ、はい」
あなたを探しに来たんです、と格好よく言ってやりたかったけど、実際ここで済ませるつもりでもいたので頷く。
「じゃ、こっち来なよ。一緒に食べよ」
「あ、はい。失礼します……」
促され、目の前の席に着く。渡されたメニュー表に目を通しながら、先輩の顔を盗み見る。が、彼女も私を見ていた。
「なに?」
「あ、いえ……なんでも」
「安心しなよ。今日はちゃんと財布あるから」
「あっ、そ、それは安心ですね……」
「……あのさ」
「あ、はい?」
「さっきのことだけど──」
「お待たせしましたー。『黒オリーブとケッパーのピリ辛スパゲッティ 地中海の風感じる南イタリアの情熱』でーす」
なんかきた。
ちょうど先輩の方から話題を振ってきたところだったのに店員さんが現れ、やかましいメニュー名で阻んできた。デジャブを感じる。
「あ、私です」
手を上げた先輩の前に、なんとかピリ辛スパゲッティなんとかが置かれる。もう注文していたらしい。おいしそう……じゃなくて、ひどくタイミングが悪いと思う。
フォークで上品に食べ始める先輩。そういえばこの人、家が裕福だったなあって思い出す。でも、今はそんなことより、さっきの話の続きを聞きたかった。
黙って先輩の口が開くのを待つ。あ、開いた──けど、スパゲッティを食べるために開いただけだ。言葉は発しない。歯がゆくなってくる。
「ぼっちも何か頼みなよ。食べてるところずっと見られるの恥ずかしいんだけど」
「あっ、す、すみません……あの」
この際、思い切ってこちらから訊こうか。いや、でも食事中に重い話になったら申し訳ないし……。
「なに?」
「え、えっと……ち、地中海の風、感じますか?」
悶々と考えてたら、どうでもいい質問になった。
「いや、べつに」
「あ、そ、そうですよね」
「本当はなに訊きたいの?」
希望を掬いあげてくれた。今度は諦めずに、
「さ、さっきなに言おうとしてたんですか?」
「ん……」先輩が口元を手でおさえた。「辛っ……水ちょうだい……」
「あ、は、はいっ」
慌ててテーブルのピッチャーからグラスに水を注いであげる。それを先輩は一気に口に流し込んで空にした。
「ふぅ──ありがと」
「い、いえ。あの、それで……」
「うん……話すよ」
言って、リョウ先輩はフォークを一旦、傍に置いた。
「……ぶっちゃけて言うと、今プレッシャー感じてるんだよ、私」
「へ、プレッシャー……?」
先輩の口から珍しい言葉が飛び出て、私は首を少し傾けた。
「郁代が辞めてから私がボーカルやってきたけど、正直自信ないんだ。私はあの子みたいに声量ないし、声に迫力も出せないし。だから、本番考えると……なんかね。ビビっちゃったのかもしんない。おかげで今日の練習も全然集中できなかったし」
「え、で、でも、今までのライブは普通にできてたじゃないですか。週末のライブも──新宿はハコ大きいですけど、今まで通りにやればべつに……」
「週末のライブの話じゃなくて」リョウ先輩は俯きがちにかぶりを振った。「郁代の結婚式ライブのこと」
「え。でも先輩は……」
余興ライブに反対してたはずだけど──。
私の反応に、先輩は察した表情を作った。
「ああ、言っとくけど、私は結婚式ライブ自体に反対してるわけじゃないよ。やるなら十分にポテンシャルを発揮できる環境じゃないとイヤってだけ。虹夏は若干勘違いしてたけど」
「す、すみません。私もてっきりやること自体イヤなのかと……」
「そんなわけないでしょ。私はライブをこよなく愛している」
先輩は鼻の穴を広げて言った。そのあと、また少し表情を暗くして、
「──それで、もし最高のライブができなかったらって考えると、なんかすごく怖くなって。いつもみたいな自信が湧いてこなくて。けど、ぼっちはきっと賛成派でしょ? 結局は多数決で押し切られてやることになるだろうから……はぁ」
最後はため息をついて、先輩はがっくり顔を伏せた。空のグラスに手を伸ばしたのが見えたので、もう一度、水を注ぐ。
「ええと……そ、そんなに深く考えなくてもいいんじゃ……?」
私はおずおずと先輩に考えを伝えた。
「も、もちろん、最高の環境で最高のライブができるのなら、それは最高なんでしょうけど……そうじゃなくても、きっと喜多ちゃんは喜んでくれると思いますし……」
リョウ先輩は無言で注がれた水を呷った。たんっ、とグラスが音を立てて置かれ、小さく水が跳ねた。
「最高じゃないとダメだっ」
先輩は強く言い切った。
「かわいい後輩の門出なんだ。人生で一番いいライブにしてやんなきゃダメだよ……っ」
「…………ぅ」
反論に窮する。心の根っこにある思いなんだと感じた。固唾を飲みつつ、私は言葉を探した。目眩がするくらいに探した。先輩がこれ以上、苦しまなくて済み、抱え込まなくて済む、そんな都合のいい言葉を。
けれど、そんなものはいくら語彙の引き出しを開け放っても見つけられず、私は徒労の息を吐いてしばし途方に暮れた。
ピッチャーを傾け、リョウ先輩は自分で水を注ぎ始めた。
「……声大きくなっちゃってごめん。ぼっちの言ってることは分かるよ。正しいとも思ってる。──けど、これは私の意地なんだ。曲げられないんだよ」
「意地……」
その言葉にハッとする。同じだと思った。
リョウ先輩も私と同じだ。自分の中の意地に縛られている。他にも正しい道があると分かっているのに、たった一つの選択肢に固執してそれを何とか正当化しようとしている。
ぐっ、と拳を膝の上で固める。目の前の相手は私なんだと思い込む。そう考えれば、不思議と何を言えばいいのかが分かってきた気がした。
「あの──リョウ先輩」
頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「先輩にとって、最高のライブって何ですか?」
「え……っ」
リョウ先輩は目を少し大きく見開いた。
「それは──観客が喜んで盛り上がって、ずっと記憶に残してもらえるようなもの、だと思ってる」
「じゃ、じゃあ、どうすればずっと覚えてもらえると思いますか?」
「上質なパフォーマンスとかエンタメとか……あとは演出のインパクトとかかな」
「なるほど」と私は相槌を打ち、「喜多ちゃんの結婚式で、どれなら実現できそうですか?」
「それは分からないよ。セトリも決まってないし。式場の設備がどんなもんなのかも知らないし。……けど、実現できるなら、全部させたい」
「あっ……え、演出なら、インパクトあるやつ、私一個思いつきました」
「え、なに?」
ほとんど勢いに任せて、私は頭の中でふと考えついた『ある事』を先輩に話した。
「──えっ。や、それは……」
黄檗色の瞳が激しく揺れて見えた。
「ど、どうでしょう? インパクトは十分じゃないですか?」
「んん…………」
私の顔をじっくり先輩の視線が這い回る。不安に満ちた表情だった。しきりに顎を指でさすり、難しそうな声を上げた。
「……できると思うの?」
「それは……っ、わ、分からないです。で、でも成功すれば、きっと最高のライブになるんじゃないかなって……」
「たしかに、郁代にとって絶対忘れられないものになるだろうね……だけど」
不安の抜けない瞳が私を見上げる。
「わ、私なら大丈夫です。任せてください」
「険しい道になるよ」
「わかっ、分かってます。がんばりますっ」
「時間は限られてるし、妥協も泣き言も許さないよ」
「か、覚悟の上です。だから──」
そして私は拳を先輩の前に突き出した。
「先輩の意地に──私も付き合わせてください」
先輩の目が一瞬、キラリと光った。だけどすぐに目を伏せて見えなくなった。その代わり、ふっと口元にいつものニヒルな笑みが浮かんで、先輩も拳を突き出してきた。
「……そいつは、最高にロックだね」
私たちは無言のまま拳を突き合わせた。
※
「はああああっ、し、新曲ぅっ!? 結婚式でっ!?」
翌日──楽曲練習前に、虹夏ちゃんに昨日のことを洗いざらい伝えた。だいたい納得して、満足した表情で聞いてくれた。
が、リョウ先輩に打ち明けた『ある事』についても話したらデカイ反応を示してきた。
「そう。どうせやるなら全部新曲でいこうぜって」
先輩がぐっ、と親指を立てた。
「い、いやいやいや、無理無理無理……あと三ヶ月ちょいしかないんだよ? 曲作ってリハやって、ってだけでも全然時間足りないよっ」
「そんなことない。ロックを信じろ。さすれば救われる」
「お前はロックから目を覚ませっ。──もうっ、ぼっちちゃんも本気なの?」
ジトっ、とした目が今度は私を標的にした。
「え、えと……はい」
「しかも、ぼっちちゃんが作詞も作曲もやるんだって? それも二曲っ。大丈夫なの本当にっ?」
「だ、大じょ……が、がんばります……」
「〜〜〜っ、ああーっ、不安だあっ!」
「さらに不安にさせてやろうか?」
頭を抱えて右往左往する虹夏ちゃんに、リョウ先輩がニヤつきながら追い打ちをかける。
「え、なにっ?」
「二曲のうち一曲は──ぼっちが歌うんだよ」
「は?」
「ぼっちがそう言ったんだよ」
「……………………………………………………は?」
この一撃で虹夏ちゃんが石になった。黒目だけが錆び付いた鉄扉のようにギリギリと動いて、私に焦点を合わせてくる。
頷いて見せる。
「ウッソでしょっ!?」
石が剥がれて虹夏ちゃんが動き出した。私の両肩を掴んでくる。瞳孔を確認してくる。額に手を当て熱を計ってくる。しまいに「病気じゃなさそう……?」とつぶやいた。
「わ、私は正常です」
「あ、ごめん……で、でも、本気なのっ? 本当に本気なの?」
「は、はい。大本気です」
眉間に少し力を入れる。
「歌うってことはアレだよっ? 大きい声を出すってことだよっ? お客さんの前で! そして、いっっっぱいお客さんいるんだよっ? 百人以上も!」
「わ、分かってます」
「でも……!」
「だっ大丈夫です。ほんと、大丈夫ですよ、虹夏ちゃん」
ひくつく口角を何とか持ち上げ、安心させる笑みを作る。
「リョウ先輩とや、約束したんです。絶対っ、絶対絶対っ、最高のライブにするって。だから──心配しないでください。私は大丈夫ですっ」
「ぼっちちゃん……そっか」
虹夏ちゃんの声にはまだ心配の調子が混ざってたけど、私の肩からようやく両手をどかした。もう一度「そっか」とつぶやきながら、
「……二人がその気なら、私も本気でやるよ。これから三人で、喜多ちゃんを最高の形で祝福してあげようっ!」
「後から合流してきた人間が仕切ると萎えるよね」
二人の鬼ごっこが始まった。虹夏ちゃんがドラムスティックをダガーナイフのように持ち、必死に逃げるリョウ先輩を追いかける。
締まらないなあ。
でも、らしくていいな。
楽曲練習が終わった帰り、自販機で飲み物を買おうと思ってバッグを開けた。すると、
「あっ、忘れてた……」
財布の横に返信ハガキが隠れているのを見つけた。
手に取ってしばらくぼぅっ、と考える。
私の意地は、リョウ先輩に敵わなかったな──。
ギグバックのポケットから、スコア用のボールペンを取り出す。電柱を下敷き代わりにして、『出席』に丸を付けた。
「最後の一歩」はそんなふうに味気なく終わり、ジュースを買ってから駅前のポストに投函した。
ポスン、と赤いポストにお礼を言われた。
二月になった。二月はちょっと特別な月だ。
私の誕生日がある。
「ぼっちちゃん、誕生日おめでとーっ!」
「おめでとー」
店に入った途端、発砲音が聞こえてきたので死を覚悟したけど、幸いクラッカーだった。撃たれてないのに止まりかけた心臓を大事に押さえていたら、虹夏ちゃんは満足そうに、リョウ先輩は小馬鹿にしたように笑った。
「誕生日パーティするよ」と言うので、スターリーから虹夏ちゃんのお家に移動となった。部屋に案内されたのでドアを開ける。
と。
「あ、きたきた! おめでとう、ひとりちゃんっ」
「きっ、きき喜多ちゃんっ?」
すでにパーティの飾り付けや料理の用意がされた部屋の中に、姿勢よくお座りしている喜多ちゃんがいた。
「なっなんでここにっ?」
「えへっ。サプライズでお祝いに来ちゃった。ひとりちゃん、今年で二十歳でしょ?」
「えっあ、そういえばそうだった……」
「ぼっちちゃん、自分の歳忘れてたの〜?」
後ろから背中を押しつつ虹夏ちゃんが笑った。
「ほぅら、主役は上座に座った、座った!」
「あ、は、はい」
そして、一番奥のお誕生日席に私は座らされる。
「ジュース注ぎますね〜」
「あっ、あ、そんな……すみません……」
喜多ちゃんからコーラをお酌してもらい、ペコペコと頭を下げた。私もお酌しますと言ったけど、喜多ちゃんは「いいからいいから」とかぶりを振って、手酌でグラスにコーラを注いだ。
リョウ先輩がトイレから帰ってきたところで乾杯が始まった。まだお昼なので、ギトっとしたメニューは少なく、サンドイッチプレートやパエリア、チキングリル、あとはなんかお洒落なサラダがあった。喜多ちゃんは「それはカプレーゼサラダよ」と教えてくれた。
どれもこれも美味しくて、夢中で食べた。途中で、料理はほとんど喜多ちゃんが作ったと聞いたときは、なんだか特別感動してしまった。リョウ先輩は、チキンをオーブンに入れたのは自分だと謎のアピールをしていた。多分、自分も手伝ったのだと言いたかったんだと思う。
あらかた食べ終わった頃に、喜多ちゃんが廊下に出て綺麗にラッピングされた箱を持って戻ってきた。まさか、と思い背筋を正していたら、喜多ちゃんはその箱を手渡してきた。誕生日おめでとう、と改めて言いながら渡してきた箱の中身はギターのストラップだった。パシフィカの色合いに合う、紺色のスタイリッシュな模様が入っているものだ。高級メーカーのものだとすぐに気づいた。
三人からだよ、と虹夏ちゃんが言った。私はみんなの顔を見ながら何度も何度も頭を下げた。ちょっとだけ泣いた。
そうして四人で永遠に駄弁っているうちに、ケーキを平らげ、夕飯も一緒にそこでご馳走になり、食卓にアルコールも並び始めた。
「ぼっちちゃんも飲むう? 初お酒〜。これ、度数低いしいけるよ〜?」
「あっいえ……きょっ今日はコーラだけで……」
「も〜、子供なんらから〜。そんなんら、あたしみらいに大きくなれないぞ〜」
「す、すみません……」
初めて見る泥酔した虹夏ちゃんは新鮮で、見ていて結構面白かった。常にヤケクソ気味な発言をしてブーブー騒いで、時おり自我を取り戻したように目をパチクリさせたあと、また目をトロンとさせてヤケクソになる。
一方、リョウ先輩はあまり変わらない。少し頬が紅潮している程度で、「酔ってます?」と訊くと「べつに」といつもの調子で返した。酒豪なのかもしれない。虹夏ちゃんと飲むときは、いつもと違ってこの人がサポートに回ってるんだなって察した。
そして、喜多ちゃんは。
「あの、喜多ちゃんは飲まないんですか?」
「ひとりちゃんが飲まないなら私もいいかな〜」
こういうスタンスだ。
「わ、私のことはお気になさらず……お二人も飲んでますから」
「いいのいいの。ていうか、私あんまりお酒得意じゃないのよ。友達と飲みに行っても、だいたいサワーをチビチビ舐める程度で」
「あ、そうなんですね」
「ひとりちゃんこそ、私に遠慮しないでいいのよ? まあ、もちろん無理はしなくていいけど」
「あ、はい。私はコーラがあれば満足です」
ふふ、と喜多ちゃんは淑やかに笑った。
と同時に、虹夏ちゃんが突然、猫の威嚇みたいな声を上げた。みんなして彼女の方を見る。テーブルに顔をくっつけ、すやすやと威嚇している。じゃなくて、寝息を立てていた。
「あらら」と喜多ちゃんが苦笑。
「またこれだ。九時前なのに、もうこんなになって」
やれやれ、といった顔でリョウ先輩が立ち上がって虹夏ちゃんを担ぎあげた。
「ちょっと布団敷いて寝かせてくる」
部屋から出ていった。廊下からもう一回「シャー」と寝息が聞こえた。
残された私と喜多ちゃん。急に緊張してくる。時計の針が、やけに大きく音を刻んでいる気がする。
「ふう──なんか飲んでないのに、暑くなっちゃったわ」
なにそのセリフ──。思わず心臓が跳ねた。ちら、と喜多ちゃんを見る。ジャンスカをパタパタと扇いで、手の甲で額の汗を拭っている。それが変に悶々とさせてきて、
「ねえ、ひとりちゃん」
「ひゃっ……す、すみません、何も変なこと考えてないです……っ!」
慌てて彼女に向かって土下座をかました。
「?」って顔で喜多ちゃんは首を傾けたあと、「ちょっと外行って、夜風浴びない?」
※
「はあー……寒っ」
涼しい、と言うのかと思ったら、それを通り過ぎて喜多ちゃんが身震いした。薄いセーターしか着てないから仕方ない。咄嗟に自分のダウンジャケットを彼女に羽織らせる。
「ああ、ごめん。ありがとう」
「い、いえ……寒いならもう戻りますか?」
「ううん、大丈夫。もう少し外にいようよ」
「あ、は、はい」
そんな甘えた声で言われたら、戻る理由もない。私もちょっこし寒いけど、我慢しようと思う。二人で店前の花壇のそばに腰を下ろした。
「それにしても、ひとりちゃんももう二十歳なのね……なんだか不思議な感じ」
親戚のおじおばみたいなことを言い出す喜多ちゃん。もちろん、口には出さないけど。
「へへ……わ、私ももう大人なんですよ?」
「まだまだコーラもココアも大好きだけどねー?」
「あぅ、そ、それは……その……」
「ふふっ、じょーだん!」喜多ちゃんは茶目っ気たっぷりに笑った。「ちゃんと立派な大人の女性よ」
「そう……言われると、なんだかこそばゆいです」
「ええー、なんで?」
取り留めもない談笑は続く。
いつまでも続いて欲しいなと思う。
ふと、そんなふうに思ってしまうと、途端に私は悲しくなって、上手く笑えてないんじゃないかって怖くなった。手で顔を触って、引きつった笑顔になってないか確かめた。
……大丈夫。ちゃんと笑えてる。まだ笑えていた。
「──風邪引いちゃうし、そろそろ戻ろっか?」
いいタイミングで喜多ちゃんが言ってくれた。私は頷いて、喜多ちゃんと同時に立ち上がった。そして二人一緒に虹夏ちゃんのお家に戻──ろうとしたけど、不意に喜多ちゃんが「見て見てっ」と夜空を指さし声を上げた。
「あ、星ですか?」
喜多ちゃんは星が好きだなあ、と思いながら私も空を仰ぐ。
「ううん、月! よく見えるわね今日は」
「あ……満月」
よく見れば、満月というには端っこが若干虫に齧られたように欠けていたけど、おおよそ真ん丸に近い月がぼんやりと浮かんでいる。ずっと前からここにいましたよって顔で、淡い光を地上に落としている。
私、月の光を浴びるとお腹が空くのよね、と喜多ちゃんが冗談か本当なのか判断しにくいことを隣で言って、
私はといえば、そんな喜多ちゃんの横顔を瞬きもせずに横目で覗き見ていた。
彼女は今、幸せなんだろうと思った。ふと思った。そんな当たり前のことをわざわざ考える必要もないのに、勝手にそう思わせてくるほど、喜多ちゃんの横顔は様々な幸福の色に満たされているように見えた。
もっと幸せになって欲しい。私は口の中で願った。
そして、やっぱり好きです、と口の中でつぶやいた。
…………。
もしも、
もしも、と思う。
ここで、私が喜多ちゃんに告白したらどうなるだろう。私はあなたを誰よりも幸せにできますって伝えたらどう反応するだろう。
困った笑顔で「ごめんね」と拒絶するだろうか。
告白だと受け止めず、「ありがとう」と友情の好意を示してくるだろうか。
それとも、「そういうのやめて」と容赦なく突っぱねてくるだろうか。
分からないけど。受け入れられることだけはないだろうと確信する。
喜多ちゃんから視線を外す。私も月を両目に写しながら、細い口で息を吸い込んだ。
「──好きなのに」
「え?」
気づいたときには声に出ていて、喜多ちゃんに聞かれていた。けれど、体は思ったより冷静で、狼狽えることなくそのままの姿勢で私は月を眺めた。
「今、好きって言った?」
「……いえ」
唇を噛んで、澄ました顔のまま頭をフル稼働させた。
「っ、す──つ、つき……月って言いました」
「つき……ああ、なんだ。びっくりした」
「月が綺麗ですね、って言おうとしたんです」
「えっ」と喜多ちゃんは意外そうな声を出した。「あはは、なにそれ。告白?」
そうですよ。
「違いますよ」
「そっかー。告白だったら嬉しかったのになー」
「彼氏さんに言いつけちゃいますよ?」
「あーうそうそ! やめてよーっ」
喜多ちゃんがジャレついてきて、私は微笑みながら彼女を受け止めた。
これでいい、と思った。
三月になると、いよいよオリジナルソング作成も大詰めを迎えた。詞の方は完成し、曲もリョウ先輩にアドバイスをもらいながら、細かな調整や修正の段階に入った。毎日、徹夜だった。
月の半ばには二曲とも無事に完成して一息……つく間もなく、今度は連日リハ地獄が待ち受けていた。あーでもない、こーでもない。ここはこうした方がいい、いやそのアレンジはエモくない──いったいどこに向かえば正解に行き着くんだろうと頭を抱えた。
そして一番大きな問題はボーカルだ。
二曲目の『ラスト・ガール』という楽曲は、ポップとハードロックが融合し、そこに青春っぽさを一つまみ加えたものとなっている。私の天敵曲だ。私が作ったんだけど。
そして、これを私が歌う。サビのギャリギャリとしたシャウトも私が発さなければならない。全体的なキーも高い。これらの難易度うんぬんはもちろんだけど、何より虹夏ちゃんが懸念していた問題に、私は期待を裏切ることなく直面してしまった。
人の目。
マイクの前に出るだけで、足がガックガクなのに、店長さんが見物に来てくれたときは緊張で吐きそうになった。ファン一号、二号さんが一緒に見に来たときなんか、ちょっと吐いた。声なんてゲロゲロとしか出なかった。
「慣れるしかないよ」
先輩にアドバイスを求めたら、史上最高にシンプルな答えが返ってきて頬がこけた。でも実際、これしかないなと思った。ライブをやるたびに、いつもより前に出て、MCもがんばってやってみたりした。
前に進めている、という感覚を信じることにした。
一方で、私生活の方は正直なところあまり前に進めていなかった。
カレンダーは二月のままで止まっている。無言のまま天井を眺めて一日を終えることもある。時々、思い立ったように家を飛び出して、近所をぶらぶら散歩したりした。あてどなく街をさまよって、人のいない道を思い切り走った。
少し自暴自棄になって、出会い系アプリを入れたりもした。メッセージで知らない人に「かわいいね」「会いたいな」と言われるたびにその声が喜多ちゃんの声で変換されて、虚しくてやめた。街で男の人に声をかけられて、すごく怖いし、緊張したけど着いて行ったこともあった。人気のない路地に連れていかれて無理やりキスを迫られた。泣きながら拒絶すると「つまんねえな」と舌打ちされて、肩をぶつけられた。しばらくそのまま一人でうずくまった。
私は破滅に向かっているんだろうなと感じた。毎晩毎晩、怖い夢を見た。喜多ちゃんが手を振りながら私から遠ざかっていく夢は五回くらい見た。目が覚めるたびに頭が痛くて、心が辛くて、現実に戻ってこれたことに死ぬほど安心しながら布団の中で震えた。
自殺を考えたことはないけど、ある日突然、目が覚めなくなってしまえばいいと思うことはあった。それも虚しいだけだから今は考えないようにしている。
そんな毎日を過ごしているうちに三月も終わりを迎え、芽吹きの季節が来た。
運命の四月だ。
今年は桜の開花が遅れているらしい。
「温暖化の影響かねえ」とコメンテーターのおじさんがテレビの中でボヤいているのを聞きながら、私はギグバッグを背負って玄関に出た。
「……行ってきます」
今日は早めに練習やろうと言い出したのは虹夏ちゃんだった。結婚式まであと二週間弱。だいぶ形にはなってきているけど、「最高」にはまだほど遠い。少しでも練習時間は取りたいということだ。
京急線に乗って、下北沢に向かう。揺られる車窓から何気なく外を見る。確かに今年はまだピンクの影が見えないことに気づく。季節がゆっくり進んでいるんだと思うと、少しだけ息が楽になった。
スターリーに着くと、すでに二人は来ていて、何やら虹夏ちゃんの方が得意げな様子で何かを語っているのが見えた。
と、私が入ってきたことに気づいた。
「ああ、おはようぼっちちゃん!」
「おはよ」
「あ、お、おはようございます。えっと、何の話を?」
訊ねられるのを待っていた顔で虹夏ちゃんは、ふふんと鼻を鳴らした。
「実は私もね、いいライブの演出考えたんだー!」
「へ、へえ……どんなですか?」
「実際に見た方がいい」
リョウ先輩が言った。彼女はすでに知ってるのか、期待を持たせる言い方だった。この人が太鼓判を押すほどのものなのか。
「そうそう。ちょい準備するから待ってて」
言って、虹夏ちゃんはテーブルの上に置いてあるプロジェクターを操作し始めた。その次に電気を消す。スタジオ前のスクリーンにブルーバックが表示されたあと、『結束バンドの軌跡』とタイトルが現れ、映像が流れ始めた。
「わ……っ」
息を飲んだ。
喜多ちゃんだ。喜多ちゃんがボーカルをやっていた時代の、私たちのライブ映像がダイジェストに編集されて流れていた。
まだ人前に慣れておらず、声も若干震えていた頃の喜多ちゃんから、自信に溢れ楽しげに歌う喜多ちゃんの姿へと移り変わっていく。ライブ以外にも、結束バンドの四人で旅行に行ったり、遊びに行ったり、何気ない日常の風景も挟まれた。
八分強の映像の最後には、みんなで喜多ちゃんの卒業を祝ったときの写真が映り、『永遠のバンド娘 永遠の幸せを』とメッセージが入った。
映像が終わる。
「へへ、どうかな……?」
虹夏ちゃんが少し照れくさそうに訊いてきた。見せる前は割と自信ありげだったけど、感想を聞くのは緊張するらしい。
「す、すごくっ、すごく最高でした」と私は言った。
「ほんとっ? はは、よかったあ……」
満足というより、安堵した様子で虹夏ちゃんは肩から力を抜く。
「リョウもぼっちちゃんも毎日毎日がんばってて……私もできることはやらなきゃって思ってたから……だからよかったよ。本当によかった……」
「べつに私は大して頑張ってないよ」
リョウ先輩が虹夏ちゃんの肩に手を置いた。
「頑張ってるのはぼっちだよ。私はちょっと手貸してるだけ」
「そ、そんなっ、そんなこと……リョウ先輩にアドバイスもらえてなきゃ、私なにも……!」
「そうだぞー」と虹夏ちゃんは先輩のお腹に優しく頭突きをする。「変に謙遜したりしないの。私、リョウが練習終わったあとも毎日遅くまでブツブツ言いながらデモ音源繰り返し聞いてるの知ってるんだよー?」
先輩はほんの一瞬、ギクリと瞳を揺らしたけど、すぐにスン、と戻って、
「ああ、あれね? 頑張ってる感見せようとしてただけだよ。引っかかってやんの」
「ははっ、分っかりやすいなぁもうーっ!」
見透かしてる虹夏ちゃんに、リョウ先輩は反論の言葉を失ったらしく、珍しく照れた顔になった。
「ぜ、全員で頑張ってきたんです。ここまでやってきたんですっ」
気づくと、私は声を出していた。何でか分からないけど、二人を見ていると色んなものが体の内に湧き上がってきた。何でもできるんじゃないかというような高揚感と伝説を起こしてしまうんじゃないかという緊張感。そうしたものが、私を押し動かしてくれた。
「だ、だから……あの、えっとぉ……ほ、あぅ……」
けれど、貧弱な語彙を補ってくれる訳でもなく、何を言えばいいのか途端に分からなくなった。
それでも何とか声を出して、
「ほ、ほっ! 本番もっがんばりましょう……!」
ありきたりで、大した感動もない言葉になって終わった。
ダサいなあ。こういうときに、ビシッと言えれば格好いいのに。悔しいなあ。
ただ、そんな私の不細工な発破──にもならない単なるスピーチに対して、虹夏ちゃんとリョウ先輩は少しだけ顔を上げて聞いてくれた。
私たちは今、最高に結束できている。そう感じた。
四月の第三日曜日。
当日。
昨夜はなかなか寝れなくて、本番大丈夫かなと思っていたけど杞憂だった。しっかりぐっすり眠れて、スマホのアラームで目が覚めた。朝六時だった。
むくりと起き上がると、すでに眠気は溶け消えて、異様な緊張感とほんの少しの喪失感が胸をざわつかせていた。
とりあえず顔を洗ってから服を着替える。着ていく服は前日から用意していて、虹夏ちゃんが選んでくれたものだ。何を着ればいいのか分からないと相談したら、一緒に服屋さんに行ってくれた。
これとか似合うんじゃないかな、と選んでくれた服に鏡の前で着替える。薄ピンクのロングドレスで袖部分がレースになっている。アクセサリーはシンプルなパールネックレスのみで、髪に関しては今短いので、まとめずにこのまま。靴は服の色に合わせた明るい色のストラップ付きヒールを買って、玄関に置いてある。
よし、と鏡の自分に何度か指を指し、それから持ち物も忘れ物がないか確認する。大丈夫そうだ。うん、大丈夫。
クラッチバッグを肩にかけ、玄関に出た。靴は履きにくいけど根性で履いた。
「行ってきます」
ドアを開いて私は足を送り出した。
※
スターリーに着くと、階段前にデカいハイエースが停まっていた。虹夏ちゃんがレンタルした車だ。今日はこれに乗っていくのかな──とジロジロ見ていたら、階段から足音が近づいてきた。
「あっ、おはようございます」
虹夏ちゃんがスネアドラムをうんとこ運んでいるところに声をかけた。すぐに彼女は顔を上げて、
「ああっ、ぼっちちゃん、おはよっ! 悪いけど搬入手伝ってくれる?」
「あ、はいっ」
虹夏ちゃんの横を抜け、入口付近に積まれている機材を運び出す。私が来る前にだいたい虹夏ちゃんがやってくれてたみたいなので、数はないけど重たいのが残っていた。
「ごめんねー。昨日のうちにやっとけばよかったんだけど」
バスドラムを二人で担いでいるときに虹夏ちゃんが言った。
「い、いえ、仕方ないですよ。昨日は遅くまでリハやってましたし。──早めに着いてよかったです」
「ほんっと! ぼっちちゃん来てくれなかったら挫けてたよ〜。どうせリョウは遅れてくるだろうから戦力にならないし」
口をすぼめて愚痴る虹夏ちゃんは、普段通りって感じでホッとする。
「──さて、だいたい運び終わったかな」
「あ、はい。あとは……」
「はい、これで最後」
ギョッとする。後ろから声がした。虹夏ちゃんは妖怪にでも出くわしたような顔になって、
「こんなことあるんだ……」
振り向くと、最後に残っていたアンプをリョウ先輩が持ってきてくれていた。「こんなことあるんだ……」と私も思った。
店長さんに見送られ、九時前に私たちは出発した。ハイエース初めてだよ〜、と虹夏ちゃんが不安になるようなことを言ってきたので、シートベルトはしっかり締めた。
式場は都内にある。下北からだと四十分ほどのところだ。日曜ということもあって道はほどよく空いていて、晴れ渡った天気がよく見えた。
何の気なしに窓から外を眺める。川の近くを通っていた。穏やかに凪いだ水面が日の光をゆらゆらと反射し、風が吹くと銀色の絨毯が波打つように波紋を広げていく。
少し目線を上げると、緑を着飾り出した木々の中にピンク色の影を見た。
あっ、
声には出ないけど、口が開いた。
桜が咲いている。
※
詩人になった気で車に揺られていたけど、車が停まると我に返った。式場に着いた。
また重たい機材を運ばなきゃいけないことにゲッソリしたけど、男のスタッフさんが二人ほど駆け付けてくれて、かなり助かった。リョウ先輩が腕を組みながら「力の強い男の人ってステキ」と柄にもないことを言って「お前も手伝え」と虹夏ちゃんに怒られた。
中に入って受付を済ませると、女性スタッフさんが近づいてきた。控え室に案内します、とのことだ。親族でもないのに控え室があることに動揺しつつ、一階の奥の部屋に案内された。そこそこ広い部屋で、搬入された楽器がそこに置いてあった。本番前のリハーサル用に使ってくださいということだろう。これは嬉しい。
「じゃあ、少し落ち着いたら軽く楽器鳴らそうか」
虹夏ちゃんの言葉に私と先輩は頷き、しばらく自由時間となった。虹夏ちゃんは、喜多ちゃんのご両親のところに挨拶に行ってくる、と残して部屋を出ていき。リョウ先輩は二階の多目的スペースでケーキバイキングやってるから、と言って出ていった。
ポツン、と残された私は手持ち無沙汰にスマホをいじったり、ギターの弦を触ったりした。それでも心のザワつきが収まらないので、私も少しぶらつくことにした。
一階のホールには、受付を済ませた喜多ちゃんか彼氏さんの友人らしき人たちが集まっていた。みんな若いけど、私よりずっと大人って感じだ。
──あの中を通り過ぎる勇気はないな……
くるり、と踵を返す。
うん、やっぱり大人しく控え室で待ってよう。
「──あれ? ねえ、もしかして後藤?」
「へえっ……?」
おかしな声が出た。
友人集団の中から私を呼び止める声がした。挙動不審になって振り向くと、懐かしい顔が。
「あっ、やっぱり後藤だ」
「さっ、ささささん……っ!」
佐々木さんだ。高校の卒業式以来だった。
「久しぶり〜。来てたんだ?」
「あ、ああ、はい……来ちゃいました」
佐々木さんは小さく笑って、
「てか、髪切ったんだね〜。そっちの髪型もいいじゃん」
「あっ、へ、へへ……どうも……」
「今日は誰かと来たの?」
「あ、ええっと、結束バンドのみんなで」
「ああ、喜多がいたとこね。てことは、もしかしてライブとかやんの?」
「えっ! あ、はは、それは……ふへ、へへ……」
ドキッとする。虹夏ちゃんからはサプライズだから他言無用と言われている。何とか誤魔化……せてないと思った。佐々木さんが「ははーん」とニヤけている。
「あ、あの……このことはどうかご内密に……!」
おそらくバレたので、頭を下げて懇願した。両手を合わせる。
「ああ、サプライズってことね。りょーかい」
と、軽く佐々木さんは了承してくれた。
「あっ……た、助かります……」
「いいよ。それよか、いいライブ期待してるね」
そう言って、後ろ手に手を振りながら佐々木さんは去っていった。私も手を振って、佐々木さんの背中を見送った。しばらく見ないうちに大人っぽくなったなって思いながら、私は無意識のうちに握りしめていた拳に気づいた。胸の前でもう一度、強く固める。
やってやろうぜ相棒、と私の拳は言っていた。
※
こんな格好なので、リハーサルはかなり短時間で終わった。本番は着替えるからいつも通りの演奏ができるはずだけど、ボーカルへの不安はどうしても拭えなかった。
お昼を過ぎたころ、スタッフさんが来て挙式会場への移動を促してきた。楽器の移動はその間にやっておきますとのことなので、お願いして私たちは移動した。
バカ高い扉を抜けると、アーチ型の天井が優雅な曲線を描くように伸びていて、床から天井近くまで届く大きなガラス窓が全面にある。
親族の人たちはすでにズラっと前列の席に並んでいて、一番前に喜多ちゃんのお母さんの姿が見えた。私も挨拶した方がいいかなと思ったけど、早く座ろうとリョウ先輩が言ったのでとりあえず近くの席に詰めた。
しばらくすると、ピアノとハープの奏者が式場奥の席で演奏を始め、厳かな雰囲気が流れた。緊張してきたけど「あのピアノの人、絶対パット入れてるよ」とリョウ先輩が耳打ちしてきたので吹き出しそうになった。
新郎入場、とアナウンスが入ると、全員が後ろに体を向けた。扉が開き、喜多ちゃんの彼氏さんが一人で現れた。拍手が沸き起こる。写真で喜多ちゃんから見せてもらったことは何度かあったけど、実際に見るのは初めてだ。リアルで見る彼は、想像していたより格好いい人で、想像していた通り、優しそうな人だった。
彼氏さんは祭壇前で立ち止まり、そこで拍手も鳴り止んだ。アナウンスが再び流れた。
新婦入場。
先ほどより大きな拍手が鳴り響いた。
喜多ちゃんが入ってきた。
雪のように白いドレスを身にまとった喜多ちゃんは、お父さんの手を借りながら、ゆっくり、ゆっくりと。バージンロードの上を歩いた。ベールの下に見える彼女の表情はとても穏やかで、幸せを噛み締めているように見えた。私の横を通り過ぎるとき、はにかみながら微笑んでくれた。私は強くっ、強くっ、拍手した。
祭壇前に来ると、お父さんが離れ、二人の儀式が始まった。
司会の声はよどみなく進む。
喜多ちゃんのベールが外され、
お互いに指輪を交換し、
二人は。キスを交わした。
隣の虹夏ちゃんが私の手をギュッと掴んだ。「大丈夫?」と声を出さずに言って、私の顔を覗き込んできた。何度かまばたきしたあと、私は俯くように頷いた。
堅苦しい儀式のあとは、だいぶ緩い雰囲気になって、披露宴会場へと移動になった。
いよいよだ、と心臓を吐き出しそうになりながら私は胸を押さえた。虹夏ちゃんもリョウ先輩も表情が固い。私と同じなんだろうなと思う。
私たちの席は新郎新婦席の近くにあって、『結束バンド御一行様』と書かれたプラカードが目立っていた。こうやって畏まった書き方をされるとバンド名が浮いて、ちょっと面白い。
後方にあるステージ席には大きなカーテンがおろされていた。おそらくあそこでライブをやるんだろうなと踏んだ。楽器ももう用意されているんだろう。
テーブルにはすでに料理が置いてあったけど、なかなか食指は動かなかった。虹夏ちゃんは「とりあえずお腹に何か入れておかないと」と言いながら頑張って食べていた。私もなんとか魚の切り身みたいなのは口に入れて飲み込んだ。
少し時間が経って、披露宴が始まった。離席していた喜多ちゃんたちが戻ってきて、新郎新婦の席に収まる。すぐに喜多ちゃんは私たちに気づいて、やっぱり少し恥ずかしそうに微笑んだ。
披露宴も慣れたアナウンスで進行していき、開宴の挨拶、乾杯、祝電の披露と一般的な流れで進んだ。
二人の馴れ初めの映像が流れ始めたあたりで、スタッフさんに呼ばれ、私たちは席を立った。
「……よし、準備は大丈夫?」
ステージ裏の入口で虹夏ちゃんが私たちに言った。ドレスを脱いで、動きやすい格好にみんな着替えた。
「は、はい……っ」
「平気」
返答に虹夏ちゃんが安堵した笑みを浮かべて、
「じゃあ、最初は『アレ』から始めるからね?」
「あ、はい……」
「本気でやるのか……」
「直前になってやめるなんて言わないでよっ? いい演出じゃん!」
「でもなあ……」
リョウ先輩は頭を掻いて、まだ納得してない表情だったけど、スタッフさんから「準備お願いしまーす」と声をかけられると覚悟を決めた顔になった。
「じゃ、行くよっ」
ステージに立つ。まだ目の前のカーテンはおろされたままで、場内のざわめきだけが聞こえる。これから何が始まるんだ、という雰囲気がカーテンの壁を破って伝わってくる。
それでは、続きまして──とアナウンスが始まり、結束バンドの名前が呼ばれた。カーテンが上へと引っ張られ、ステージを照らすライトが私たちに降り注ぐ。百人以上の好奇に満ちた目が私たちに集まる。
「どうもっ、結束バンドでーすっ!」
いつものライブのときと同じテンションで虹夏ちゃんが挨拶を始める。
「すでにご存知の方はこんにちはーっ! 初めまして、という方はぜひ今日は名前を覚えていってくださいね!」
会場の雰囲気が一気に柔らかくなる。さすがだと思った。ずっとぬいぐるみ相手にMCの練習をしてきた成果が現れている。
「──さあ、ではお待ちかねのライブ……といきたいとこですがっ」虹夏ちゃんはもったいぶった言い回しで、「どうせなら、私たちのユニフォームに着替えてから始めようと思いまーす!」
虹夏ちゃんが私たちに視線をめぐらす。今だ、という合図だ。私は頷いて、おもむろに上の服を脱ぎ出した。
おおっ、という歓声。男性陣から聞こえた気がした。なんか急に恥ずかしい。リョウ先輩が嫌がってた理由が分かった。
「あっ」と遠くから喜多ちゃんが声をあげた。「その服……!」
結束バンドTシャツだ。本番でこれ着よう、と虹夏ちゃんが前日に提案してきたのだ。
「それじゃあ、この日のために作った新曲──お聞きください!」
虹夏ちゃんがドラムスティックを叩く。その音に合わせてリョウ先輩のベースが低く唸りを上げる。続くように虹夏ちゃんのドラムサウンドが力強く響いて、シンバルを叩くと会場全体が震えた。
私の心臓も同じリズムで高鳴っている。ギターを握りしめて、最初のコードを弾く。指が弦を押さえる感触、ピックが弦をはじく瞬間、その全てが身体に染み込んでいる。音が叫びを上げ、私たちの演奏が一体となって流れ出す。
一曲目は王道のロックだ。エネルギッシュで攻撃的なリフが観客を煽る。先輩のボーカルは鋭く、透明に響き渡っている。彼女が紡ぐ言葉の一つひとつが見ている人たちの関心を掻き集めていく。後ろで虹夏ちゃんが正確なビートを刻み、上のスクリーンで虹夏ちゃんの作った映像が流れ、上からも後ろからも彼女は私たちの音楽を支えてくれる。
二番のサビが終わり、ギターソロに入る。指が自由にフレットの上を駆け回り、複雑なフレーズを作る。全てが一瞬に集中し、私の世界が音楽だけになる。ギター以外の音が遠くに聞こえる。今、私はこの瞬間のために生きている──。
最後の音が鳴り終わると、会場は一瞬、水を打ったように静まり返った。その直後、耳鳴りがするほどの拍手喝采が起こった。
私たちは無言で顔を合わせた。みんな笑顔だった。最高の一曲になった。
そして、次──。
「ぼっち」
リョウ先輩が汗を拭いながら微笑んだ。マイクの前から退き、私に促した。
「行ってきな」
「……っ、はい」
マイクの前に進む。腰が丸くなり、顔はまた俯いてしまっている。いや、それでもいい。俯いていても歌えればいい。
「あ、に、二曲目……いき、いきます……」
息を吸い込む音さえ震えている私の声は、再び会場をざわつかせた。「あの子大丈夫なの?」「本当に歌えんのか」「あの子が歌ってるとこ初めて見る」──そんな声が聞こえてくる。
でも、気にしない。
私はただ歌うだけだ。
喜多ちゃんのために。
喜多ちゃんの結婚をお祝いするために。
喜多ちゃんを送り出すために。
イントロが始まる。さっきと違い、静かな始まり方だ。会場のざわめきが落ち着き、再び興味の色を示してくる。
ふう、と息を吐く。そして吸い込む。
目を開く。顔を上げた。本当は怖いけど、やっぱり喜多ちゃんを見て歌いたい。そう思った。
そう思った、ときだった。
「…………っ」
遠く、新郎新婦の席。私は喜多ちゃんを見つけた。
目立つから見つけられた訳じゃない。喜多ちゃんのいる場所が私には光って見えた。輝いて見えた。
輝いている喜多ちゃんは──泣いていた。
私を見て、泣いていた。
口元を手でおさえ、目を真っ赤にして、私のことをしっかり見つめながら泣いていた。
「────」
喜多ちゃん──。私は心の中で呼びかけた。
喜多ちゃん。
ねえ、喜多ちゃん。
私たちは……どうして出会ったんだろうね。
何のために、出会ったんだろうね。
友達になるためだったのかな。一緒にバンドをやるためだったのかな。
それだけなら……どうして私は、こんなになっちゃったんだろうね。どうして、こんなに胸が痛いんだろうね。
「ぼっちっ」
「ぼっちちゃんっ」
リョウ先輩と虹夏ちゃんが声を上げた。イントロが終わって、すでに歌い出しに入っている。
二人の心配の眼差しが突き刺さる。会場のざわつきが大きくなってきている。喜多ちゃんの──困惑した顔が目に入った。
「あ……っ、ぁ……!」
歌わなきゃ。
私は急いで口を開けた。声を絞り出そうとした。
だけど、その前に涙があふれてきた。
「……っ、……ぅっ、ぁ……っ!!」
……ごめん。
ごめんね、喜多ちゃん。
私、やっぱり、歌えない──。
次の瞬間、私はその場に膝から崩れ落ちた。ステージの床に額を擦り付けた。それから両手で顔をおおい、声が枯れるほどに泣き出した。
ありがとうございました