貞操観念逆転世界で低レベルな女子野球部を指導してやろうとしたら逆に分からされた 作:伊つき
それが、津川和哉の母親にあたる女性の名前。
女性医師が多いこの世界で、彼女も医者として仕事をしている。
俺は、彼女に頼ることにした。
成城先輩にトミー・ジョン手術を施してくれないか、一か八か頼み込む。
正直、渋い反応が返ってくることは間違いない。
前例も成功例もない。それどころかこの世に存在しない手術を若者に施すなんて、承諾される訳が無い。
だが、俺が1番不安視してるのはそこではない。
「……」
俺は、2ヶ月ぶりに帰ってきた実家のリビングで冷や汗を垂らしながらダイニングテーブルについて、座っている。
かれこれ1時間は木製のテーブルと睨めっこだ。
顔を上げることなんてできない。
なぜなら、俺と共に沈黙を生成している目の前の女性、津川和美と俺は関係が良好じゃないからだ。
「……」
「……っ」
向かいの席にいる彼女は、俺の話を聞いた後、深い溜息をついてそれ以降黙りこくってしまった。
今は肘を机につき、髪かきあげて目元を両手で覆い、そのまま俯いて1時間も固まっている。
俺は彼女がピクリとでも動けば、ビクッと肩をならして息を飲んだ。
「……はぁ」
「……っ」
やがて、彼女は瞼を開ける。そして、気だるそうに顔を上げたと思えば、俺をジトッとした目で鋭く捉えた。
上目遣いだが、まるでゾンビのような負のオーラと敵を見るような強い眼光が彼女の前髪の奥に見える。
俺は、再びゴクリと息を飲んだ。
「……まず」
「は、はい」
やっと口を開いた彼女は、思わず低い声が出て、「んんッ」と喉を鳴らす。
ここ2ヶ月、獅ノ宮学院高校に入学した俺が、やらかした出来事。その説明を受けてから1時間。彼女は考えに考えてようやく纏まったのだろう。ただ、ずっと集中してたから声が上手く出なかったようだ。
気を取り直して、彼女は、和美さんは顔を顰めて俺と向き合う。
「あのさ。私、貴方をこの家から出した時、貴方と約束を交わしたんだけど。その内容について、覚えてるよね?」
「は、はい……覚えてます」
俺は、俯きながら頷く。
覚えてる?ではなく、覚えてるよね?という言い方から忘れてるという行為が許されないことを感じさせる。
俺は、忘れてない。2ヶ月前のことを思い出す。
高校生になってすぐ、俺は家を出て一人暮らしを始めた。生活費とか家賃とか仕送りはあるけど、基本的にはバイトで稼いだ金で補っている。
そして、俺が家を出た時に俺は彼女と約束を交わした。
その内容は―――。
「『和美さんに迷惑をかけない』、『和美さんが責任を負わなければならないことを極力避ける』、『津川家とはできる限り関わらない』、『高校を出たら就職して津川家とはできるだけ縁を切る』……ですよね」
俺は約束の内容を一言一句そのまま復唱する。
和美さんは溜息をついてから、目を細めた。
「そう。忘れてはないようね。ならば、何故?それなのに貴方は、たった2ヶ月……いえ、まだ経ってないわね。たった1ヶ月で約束を破った。何故?」
「……っ」
2回でてきた「何故」という言葉に圧を感じる。
俺はさらに縮こまった。
彼女には、心底理解できないのだろう。理性や感情といったものが理屈を無視してしまうのが。
「……そ、その。それは……」
「貴方は女子高生に怪我を負わせた。貴方はまだ高校生の子供だから、その責任は親である私にあることになる。これがまず1つ。貴方は私が責任を負わなければならない事態を避ける、という約束を破った」
「……っ」
俺が言葉に詰まっている間に彼女は淡々と俺が破った約束について、その詳細も含めて情報を整理する。
そして、俺が破った約束はもう2つある。
「さらに、貴方は私に再び会いに来て、尚且つその女子高生を治療しろと言った。これで『私に迷惑をかけない』、『津川家に関わらない』この2つも破った。……本当に呆れたわね。ここまでの愚か者は初めて見ました」
「……っ。す、すみません……」
謝る俺に、和美さんはまたため息をつく。
彼女はさらに目を細めた。
「『野球部の監督になって有能な選手をプロに排出し、野球界のレベルアップを図り、前の世界の男子プロ野球にこの世界の女子野球を少しでも近づける』……でしたっけ?貴方の野望」
「……っ!」
彼女は、俺がなぜ今回のような行動に出たのかその動機を聞いた。
俺はそれを素直に話し、その時の彼女は俺の事をゴミでも見るような目でその瞳に映し、頭を抱えていた。
……そこよりも、彼女がなぜ『前の世界』や『この世界』などと口にし、逆転世界を把握し、俺が素直に自分が抱えている思考を全てさらけ出したのか。
しれっと流したが、転生モノとしてはそんなに多くない展開だろう。
彼女は、津川和美は決して転生者ではない。完全にこの逆転世界の女性。
では、なぜ彼女がまるで転生を認識しているような態度なのか、認識しているという前提でないと説明がつかない態度なのか。
それは、和美さんは俺が転生者だということを知っているから。厳密に言えば、自分で看破したからだ。
もっと具体的に言うと、転生者ということまで自力でたどり着いた訳では無いが、彼女は医者になれるほど賢く、津川和哉が自身の子供ではないと睨んだ。
そして、彼女に誰だと問い詰められた俺は、素直に吐いた。
無論、俺の言う転生だの貞操逆転だの異世界だのをそう簡単には信じてくれなかったが、辻褄は合うことや説明はつくことから彼女はそれを受け入れることにした。
そうして、今に至る。俺が彼女を母さんともお母さんとも呼ばず、和美さんと呼ぶのも彼女に赤の他人だとバレているからだ。
俺が赤の他人だと気づいた和美さんは俺の事を育てる義務はないと主張、自分の子供ではないのに自分の意思とは関係なく血縁関係になったのだから、当然の反応と言えば当然の反応である。
故に、俺と和美さんは約束を交わした。
和美さんに自分の子供でもない人間の責任を持つ義理などないから。
要約すれば、独り立ちするまで最低限の支援は産んだ者として行うから、極力余計なことはせず大人になってから好きにしろという約束だ。
「……転生、だったかしら」
彼女は、頭痛がするようで、こめかみを強く抑える。
本当にやってくれたなという目で俺を見た。
強い悩みの種は俺、頭を抱えてる原因も俺だ。
和美さんが、俺と再び目を合わせる。
「この世界に来て、随分はしゃいだようね。貴方は想像を絶する程に理性的ではなかった、そういうことね。まさかたった2ヶ月で私に責任能力を発生させ、その上図々しい頼みまでしてくるんだもの。本当に……たまげたわね」
「す、すみません……」
俺は、謝ることしかできない。膝に手を押さえつける程に置いて、姿勢を正している。
和美さんは俺の親ではない。俺達は、家族ではない。赤の他人。
それでも、身体は血が繋がってるし、戸籍も社会も当然俺達を親子としか判断しない。
和美さんは不運だ。
不幸にも俺に子供の身体を乗っ取られてしまった哀れな人。
彼女は、俺の自由は尊重してくれだ。ただ、責任や義務が自分にあるのだけは納得できなかっただけで、赤の他人だということを考えると良くしてくれた方だ。
でも、俺はそんな人も裏切った。
彼女が高校を卒業したら好きにしていい、それまでは大人しくしてろと暗に言っていたにも関わらず。家を出てすぐ目的の為に自分の欲望を解放してしまった。
本当に情けなくてどうしようもないやつだ、俺は。
「……成城冬華さんでしたっけ?向こうの親御さんにどう説明したものか本当に……というよりとにかく平謝りするしかなかったわね」
「は、はい。その節は本当にお手数お掛け「は?」―――っ!」
俺の言葉を遮った彼女が睨みを効かせ、俺は口を閉じる。
和美さんはまた深い溜息をついて、思うところがありながらも、未熟な俺に諭すような落ち着いた口調で何がいけなかったのか指摘してくれる。
「……あのね。お手数?向こうは大事な子供に怪我を負わされたのよ?真っ先出るのはそこじゃないでしょう。私よりまず向こうのことを気にしなさい」
「は、はい!すみません……」
「まあ、話を聞くに彼女が自分からそう仕向けたらしいから、親御さんもこっちを責めるに責めづらそうではあったけど……」
和美さんも和美さんで困惑したように想起した。
思い出した時に顔を顰めるということは、恐らく子供だと思っていた相手の不気味さに慄いたのだろう。その子供は、間違いなく成城先輩。
親御さんと彼女への謝罪に和美さんが行った日、帰ってきた彼女は当然責任に疲れたやつれはあったが、それとは別に戦慄した表情もあった。
あの時、玄関で俺に尋ねた時の和美さんは忘れられない。
『ねえ。あの
和美さんは、高校生を怖いと思ったのは初めてだと口にした。そこに加えて、加害者の保護者なのにこんなことを言ってはダメだと自分で訂正を入れていた。
でも、彼女が恐れるのも無理はない。
野球界の為に部員を潰そうとし、その為にたてた計画が自己の欲望を目的に近づいてきた生徒を逆に利用して、生徒間で問題を起こし学校側に危険な部と認識させること。
つまりは学校に部の活動は停止させた方がいいと思わせることが成城先輩の思い描いたゴール。
そうすることで、美山先輩は少なくとも転校するか一から部を作り直さなければ公式の試合に出ることはおろか、高校野球を享受することもできない。
後者に限っては既にあった野球部の活動を学校が停止させるのだから、また新しく作るなんて許可される訳がないという完全にあってないような選択肢。
これが、たった16歳の少女が考えた筋書きだ。
さらに、和美さんが会いに行くとつらつらといかに自分が悪いかを説明し始めたらしい。
ギプスを装着したいかにも被害者な風貌の若すぎる女性が淡々と客観的に語る様は、そらゾッとする。
和美さんは思い出すだけで少し視点が定まらなくなる。彼女は、気を取り直して故障のことに話を移す。
「肘の内側側副靱帯損傷……正直この箇所を完全修復というのは難しいわね」
「……っ!引き受けてくれるんですか!?」
故障箇所の具体的な内容に触れてくれたということは前向きということだ。でなければ、損傷箇所云々よりも前提の話でずっと会話は止まる。
だが、俺は彼女にその気にあるのが驚愕だった。正直ダメ元だったからだ。
俺が思わず尋ねると、彼女はジト目で返す。
「当たり前でしょ。貴方ね。よそ様の子供怪我させておいて、手術も引き受けませんなんてこと口が裂けても言えないわよ。それに……私には貴方にその身体を与えてしまった責任があるの」
「あ、あぁ……すみません」
また苦言を呈されてしまった。
ダメだな、本当に俺は。何から何まで。本当に子供だ。
転生者は転生前の年齢を上回るまで、精神年齢が成長しないと言われるが、本当のようだ。
まあ考えてみれば精神年齢の成長は人生経験と直結するのだから、同じ期間をやり直しても成長は難しいとわかる。
……まあ、俺はそれを差し引いても未熟な気がするけど。ははっ。……笑う資格ねえわ。
言葉を交わす度に謝る羽目になってしまう俺を前にして、和美さんはもう何度目かわからない溜息を「はぁ……」とつく。
そして、結局また責任の問題に思考を戻してしまったのか、目元を覆って俯く。また思い詰めてしまった。
「……私に貴方を見捨てる覚悟があれば。この手を汚す度胸があれば。産み落としたからといってその身体に愛着がなければ……貴方が私の子供じゃなければ。……私は、私は……っ」
彼女を取り巻くのは後悔。
彼女にとって俺はただの他人。だから、本来なら何の責任を負う必要もなければ、仕送りだってする義務はない。学費だって高校までは払うと言ってくれたがそれだって本来なら本当の息子に払いたかっただろう。
それでも、彼女は俺を最低限は支援してくれた。見捨てることはなかった。
それは何故か。自分の子供の身体だからだ。中身が誰であっても、苦労して産んだからだ。
故に、どうしても愛着を0にはできなかった。
だが、今は後悔しかない。
その結果、こんな悲惨な事態に至ったのだと彼女は考えている。
自分ならもっと早く手が打てた。俺という危険因子をもっと早く取り除くことが出来た、と。
でも、彼女にそんなことができるはずがない。
彼女は親で、しかも医者だ。医者がその手を汚すことは出来ない。誰よりも、命の重みを知ってるから。医者がそんな罪を犯すことの重大さを正しく認識しているから。
性質的にも、常識的にも。そして、多くの医者の為にも彼女は頭に浮かんだ発想を何度も拒否し続けた。
それでも、後悔する。
「こんなことになる前に手を打てたのに……」
「すみません……」
また謝る。
俺の謝罪なんかに価値はない。でも、俺には責任能力がないからこれしかできない。本当に情けない。
彼女もそれは理解してるから溜息を重ねるだけで済ませてくれる。
髪をかきあげて、冷静さを取り戻した。
「ごめんなさい。ちょっとボヤいただけよ。現実的な話をしましょうか。貴方の言ってたトミー・ジョン手術?だけど、前例や成功例がないってことよりも情報が乏しすぎてキツイわね。でも、肘の靭帯を治す……というより再び機能させるならこれが最適なのはわかるわ」
俺は既に和美さんにトミー・ジョン手術の話をしてある。彼女に手術をして欲しいと既に頼んでいるのだから、当然だ。
彼女も肘の靭帯に対するアプローチは保存療法しかないと認識していたから、最初は「手術……?」と訝しんでいた。
が、俺の説明を受けると難しい顔をしてどこか納得した表情も浮かべてくれた。しかし、彼女は手術を行うには情報が乏しすぎて、これで手術に乗り出すのはリスクが多すぎる上に、判断が危うすぎると述べた。
俺はそれに対して疑問を感じる。だって、俺は全て話した。情報なら渡した筈だから。
「えっ?あの、手術について俺一応説明しましたよね……?」
「……あのね。素人がネットニュースの記事で読んだ概要を把握したくらいでわかった気にならないでくれる?そんな概要、あってないようなものなのよ。情報っていうならせめて論文くらいは持ってきなさい」
「あ、あぁ……なるほど。すみません、浅はかで考えが足りなくて……」
彼女に再び苦言を呈されて、俺は引き下がる。
何度目だ、これ。もう何も喋らない方がいいかもしれない。
彼女の指摘の通り、俺はどういう手術かは説明できても、具体的にその手術をどう行うのかその技術的な部分は全く把握できていない。
と、なると彼女にとって俺の説明など無価値なのだ。
和美さんは、「あー、もう。研究って嫌いなのよね……」とボヤきながら俺の話を聞いてから自分なりに導き出した手術の考察をノートに纏めて、頭をかいた。
彼女は微妙な顔をしながらとりあえず今の状況を口にする。
「まあ大体こうやるんでしょうねってくらいはわかるけど……ちょっと学会に持っていって他の医師に相談するしかないわね」
「……お願いします」
俺は、もう彼女に縋るしかない。本当に心の底から申し訳ないと思いながら頭を下げる。
彼女は、俺の後頭部を一瞥して、ノートを見返しながら今後の予定を決めた。
「ちょっと時間をちょうだい。成城さんの診察は来週にするわ」
こうして、津川和美先生は成城冬華さんの主治医となった。