実際のところ、好きか嫌いかで言えば「興味がない」が一番しっくりくる。
「……
愛着のないギターはデカくて邪魔くさいケースの中で、まるでふてぶてしい赤ん坊のように眠っていて。そのずっしりとした肩への食い込みは、もはや痛みと同義になっている。
自分はなにをしているんだろうと、登校中の五月晴れのじめつく暑さに汗を拭った。ギターなんてろくに弾けやしないのに。先輩目当てで入ったバンドだってもう抜けたのに。それなのに、毎日毎日、見栄とメンツを保つためだけにこんななんの役にも立たない荷物を持ち歩いたりして。
きっと、この口がいけないんだと思う。この性根がよくないんだ。
入学初日、早く友達が欲しくてクラスの自己紹介で「バンドでギター弾いてまーす!」なんて自信満々に喧伝してしまったから。バンドを抜けたあとも、周りにはそれをひた隠しにして、ギタリストという格好いい称号だけはなんとか守りたかったから。
その結果が
授業前から貴重な体力を浪費する自分のアホさ加減に辟易する。過去の自分を呪いたくなり、今の自分を恥じたくなる。これなら働きアリの方がよっぽど
「…………あ」
そしてある日、あるとき、ある瞬間。ふと思った。
閃いて、足が止まった。
ああ、そっか。
べつに、
その日を境に、喜多郁代は空っぽのギターケースを背負って登校している。
私立秀華高校三年一組に青山先輩という、やたらとハイスペックな先輩がいる。一八○センチの長身にスラッと引き締まった体。水泳部の部長で、高一のころに世界ジュニア水泳選手権で準優勝したこともあるという、歯科医の両親を持つそろばん二級のフツメンだ。
そんな彼が六月のある日、喜多の教室にやってきた。ざわつく教室の中をかき分けて入ってきた先輩は喜多の席にやってくると、いきなり体を折り曲げ、手を差し伸べ、
「オレと付き合ってくれっ!!」
大胆な告白をぶつけてきた。
きゃーーーっ、と女子たちが黄色い悲鳴を上げて、男子たちは「なんだコイツ」と怪訝な視線を向ける。
そして、男子からも女子からも好奇と緊張の目を一身に受ける中、
喜多は。
「えっと……ごめんなさい」
伝説のはじまりだった。
校内最強の優良物件が
正直、かなりうんざりした。
最初こそ、モテている自覚にまんざらでもない様子を見せていた彼女だったが、ロッカーに大量の生チョコ──溶けている──が入っていたり、バラの花束が下駄箱に詰められていたりとエスカレートしていく求愛行為に「なにかが違う」と思うようになった。キスマークが一面についたラブレターを受け取ったあたりで、喜多はようやく身の危険を感じ、
「私、誰とも付き合うつもりはありませんっ」
とはっきり宣言した。
これにより男子勢は消沈し、喜多の学校生活に平穏が戻ってきた。その際に、空のギターケースも一役買ってくれた。
今はバンドで忙しいので恋愛どころじゃないんです──。
この
ちなみに。
喜多が最初の告白を断った理由はギターにある。弾けないことがバレると思った。もし、一人にでもバレればあとは波紋式に広まって、あっという間に自分は見栄っ張りのウソっぱち女だと知れ渡ってしまう。話で誤魔化せても、将来的に手をつないだりして、プニュプニュの指先が知られてしまえば結果は同じことになるにちがいなかった。
最終的に自分の選択は間違ってなかったと喜多は信じているが、この現状が正しいかどうかと言われると分からなかった。秘密はこれまで同様、隠しとおさなきゃいけないし、なんなら騒動で目立ってしまった分、これまで以上に気を張る必要があった。正直、かなり疲れる。
だが、諦めるわけにはいかない──喜多はそう決意を固めた。自分はギタリストという設定を守り続けなければならないのだ。そうしなければ、順風満帆な学校生活の維持はありえない、
のに。
なんでこんなミスをしたんだろう、と激しく息を切って、喜多は現在、忙しなく足を回している。
教室にギターケースを忘れた。シンプルで致命的なミスである。
本当に、なんでこんなバカなミスしたのよ──繰り返し歯噛みしながら交差点を通過。七月の夏休み目前の浮ついた空気に当てられたせいなのか、はたまた今日返ってきた日本史の点数がクラスで一番だったせいで浮かれていたのか、と考える。
どちらにせよ油断していたのだと胸中で結論づけて、通用門を走り抜けた。六時になりかけの時計塔を見上げて、まだ閉門まで三十分はあると安堵する。それからもう一度、地面を蹴って昇降口へと突っ込んでいった。どうせ誰も見てないのでローファーは雑に脱ぎ捨て、上履きも突っかけることなく、靴下のまま廊下を走る。一年生は最上階。まだまだ安心はできない。誰かがいるかもしれない。
敵地に乗り込んだスパイになったつもりで、足音を立てずに階段をかけ上る。踊り場にある窓から西日が差して、慌てる自分の姿を客観的に壁に見せる。剥がれかけの「廊下を走るな」ポスターが手招きしてくるのを横目に引っ張り見ながら、最後の一段を上った。
少し息を整え、教室に足を送り出す。人の気配はない。電気も消されて、廊下の窓から入る錆びついたような赤い光だけが視界を照らしている。
怖いとは特に思わなかったが、非日常的な光景に喜多は一息だけ足を止めた。ここには今、自分だけしかいない。自分だけの世界がここにある。奇妙な支配感が湧き出てきた。
余計な思考だったのでぶんぶんと頭を振って追い出す。
「……はやく帰ろ」
自分の意識に言い聞かせながら、教室の前に立ちガラリとドアを引いた。目線のすぐ奥にギターケースはあった。待ちくたびれた様子で窓際に立てかけられている。すぐに駆け寄り、ケースを確認。開けられた形跡はない。と思いたい。
不安はまだ残るが、ひとまず喜多は大きく息を吐き出した。それからひょい、と担いで背負ってから教室を飛び出した。来た道を、来たときと同じ早さで戻ろうと小走りで階段に向かった。
そのときだった。
「…………ギター?」
立ち止まった。耳をすます。
ヒグラシと、カラスと、軽トラのエンジンと、部活終わりのヤンチャたちの奇声と、さっさと帰れと促す生徒指導の怒声と、自分の呼吸に混じって、
今にも塗りつぶされてしまいそうなか細い音量だけど、たしかにギターの音がしている。
時刻的に軽音部の可能性はない。となると、誰かが自前のギターを持って、校内で弾いているということになる。そんな人間、この学校にいるのだろうか。自分ですら、ギターを持ってきてないというのに。
いったい誰が。
喜多はしばらく棒っきれのように立ち尽くして考えて、それからつま先を音のする方へ向けて足を進めた。確かめるしかない、と思った。
音は教室棟の東の階下から聞こえる。すり足ぎみに廊下を歩き、東階段を無音で下りていく。音は徐々に鮮明になってくる。なにを弾いてるのかもはっきりしてくる。これはきっと去年流行ったJPOPだ。サビのリズムに一切の乱れがない。そうとう上手い、と素人耳の喜多でもわかる。
興味がしだいに膨らんでいく。こんな演奏ができる人間の顔をぜひ拝みたいと思いつつ、ついに一階まで下りた。が、
あれ、と喜多は首をかしげた。人の影が見当たらない。音はすぐ近くから聞こえるのに。まさかお化け──、
あっ、
いた。階段脇の机や椅子が積まれた謎スペース。ほとんど光が当たらない真っ暗な空間に演者の姿はあった。ひとまず実在していたことにホッとして、喜多はその人物に歩み寄る。声をかけようと決めた。
「……あの、」
「────っ!!」
たったひと言。まだ、それだけしか口にしてないのに、目の前の相手は飛び上がらんばかりに顔を上げた。喜多の方も予想外のリアクションにギョッとして、続きの言葉が吹っ飛んだ。
それで二秒。目が合った。
女の子だった。
薄桃色の髪はさらりと伸びて、自分より長い。病的なまでに白い肌は積もりたての雪のようで、触れば溶けてしまうんじゃないかと思う。指は細くて長く、心もとないように見える。本当にさっきの力強いリフを弾いていたとは考えられない。
そして顔。喜多は思わず息を飲んだ。全体的に整っていて、細い眉は八の字に下がり、長いまつ毛の下にはターコイズを湛えた瞳が潤みを帯びている。鼻も口も小さいが、それが小動物的な保護欲をそそり……ああ、なんてことなの、と喜多は唇を震わせた。
めちゃくちゃかわいい──。
「あ、あっ、あっ!」
二秒経つと、目の前のギター少女は顔を伏せ、唐突に鳴き声を発した。
「え、なに?」
「わっ、わたっわ、わっ」
なにかを言おうとしている。それだけは分かった。だから喜多はにっこりと聖母のような笑みを浮かべ、彼女の言葉をやさしく待った。
「なあに?」
「〜〜〜っ、〜〜〜〜〜っ!!」
が。
少女は言葉を紡ぐより先に、勢いよく立ち上がった。持っていた黒いギターを抱えて後ろに引っ込み、ギグバッグに無理やり押し込んで、
「しししっ失礼しまっす!!」
「えっ!? 待」
そう告げると、バタバタと廊下を踏みつけるように彼女は走り去ってしまった。慌てて喜多も立ち上がって彼女の背中を追うが、すでに靴を履いて外を駆けていた。
「なんなの……?」
ぽつん、と残された喜多は呆然と独りごちた。言いたかったことも、訊きたかったこともたくさんあったのに、すべてお預けにされた気分だった。
校舎にはもう、ギターの音はしていない。カラスも、車も、部活終わりたちも、生徒指導の声も、今の喜多の耳には聞こえない。
聞こえるのはヒグラシの声だけだ。