「後藤さんっ!? な、なんで……?」
なんでここに。どうやってここに。二つの意味を含んで喜多は声を送った。ひとりは床にへたり込んでいる喜多に一瞬、「えっ」と目を大きくして、次に震える声で、
「あっ、き、私、喜多さんが心配で! 急いであっ後をつけて……あ、でもストーカーとかそんなんじゃなくてっ。ただ、本当に心配で、あの、」
心配だったから後をつけてきた。するり、とその情報は頭に入ってきて、喜多の疑問にはきれいに回答がつく。
だからといって、現状はなかなか飲み込めなかった。壊滅的なリハーサルの出来に絶望しているところへ、ひとりの登場という斜め上すぎる展開がやってきて、感情の処理に喜多の脳はオーバーヒート寸前だ。
「いやまあ、心配で来たってのはいいんだけどさ。店前であんまりウロウロされると困るからやめてよ?」
なにか言葉をかけようかと思うより先に、店長の星歌が口をひらき、軽く彼女をたしなめた。
「あ、あっ、すすすみませっ……は、入りづらくて……」
それでひとりは完全に恐れ入ってしまったようで、顔がさあっ、と青づいた。腰が痛くなりそうな早さで、仕事に戻っていく星歌にペコペコと頭を下げつづけた。
その様子をしばらく眺めていた虹夏が、
「ねえ。後藤さん……っていうの?」
「は、はいっ!?」
ひとりがぐりん、と振り返る。
「背負ってるの、ギターのバッグだよね? もしかして弾けるの?」
「え、あ、えっと……?」
「ああ、いきなりごめんね。あたし、『結束バンド』でリーダーやってる伊地知虹夏。よろしくね?」
「あっ、ご、後藤ひとり……です」
「
「ひと──あ、そこそこかと……」
「何年くらいやってるの?」
「あっ、そこそこ……三年ちょっとくらいですけど……」
「そうなんだ……ちょっとごめんね。──ねえ、リョウ」
そこで一旦虹夏は、会話相手をリョウに移した。リョウの方も、考えがあるような顔で虹夏に近づき、二人は聞こえない声量で話し始める。なにかを相談しているように見えた。
「あ、喜多さん……すみません、その、練習中にお邪魔して……」
喜多もようやく状況に慣れてきたあたりで、ひとりが話しかけてきた。ひどく疲れ切った顔のくせして、わざわざ喜多に目線を合わせるため床に膝をついた。
「う、ううん、いいわよ。むしろ……ちょっとホッとした」
「え、ホッと……?」
聞き返されてから、喜多は自分の弱さを自覚して少し傷ついた。リハーサルが中断されて、安心している自分がみっともなくて情けない。
ひとりは黙ったままの喜多に、
「あ、あの。喜多さんは、これからライブに出るんですか?」
「……うん、そう。そのリハーサルを今やってたの。──でも、」
無意識に喜多は顔を下に向けた。涙が出そうな予感がした。予感どおり、じわりと目頭が熱くなってきて、
「私ね……ぜんぜん上手に演奏、できなくって……がんばって練習したのに、実力出せなくて……」
こんなこと彼女に話したってしょうがないのに、口が動いてしまう。
「後藤さん……どうしようっ。私っ、こ、このままじゃ、ライブ失敗しちゃう……また先輩たちにっ、迷惑……」
床に向かって吐き落とされた弱音は、十秒近く、二人のあいだに沈黙を作った。しばらくすると苦悩した様子で顔を歪めていたひとりが弱々しく息を吸い込み始め。息をやや長い時間止めて。盛大に吐き出してから、
「じゃ、じゃあ──わ、私がっ、私が出ます……っ」
「……へ?」
「ラ、ライブ……喜多さんの代わりに、私が出ますっ」
聞き間違いかと思ったが、今度こそハッキリ聞き取れた。喜多は勢いよくかぶりを振った。
「ダ……ダメよっ。なに言ってるの? そんなのダメッ」
「で、でもっ、このままだとまともに演奏できないんですよね?」
「そうは言ったけどっ」
「それなら、わっ私が弾きます。私は喜多さんの先生なんですから。生徒が困ってるなら助ける義務があるかと……」
喜多は首を横に振りつづける。
「そうじゃないのっ。私が出ないと意味がないのよ!」
このバンドに戻るには、二人からの信用を集めなければならない。だから、代わりに出てもらうなんてぜったいダメだ。
それでもひとりは「でも、でも……」と自分を曲げようとしない。喜多は彼女の両肩に手を置いた。宥めるために、なんとか笑えているように見える程度の微笑みを作り、
「……ごめんね。私が弱音吐いたせいでそう言ってくれたのよね?」
ひとりが顔を上げる。精一杯、表情だけで「そんなことない」と訴えている。
「だけど、私は大丈夫だから。ふ、不安はあるけど……うん、大丈夫……」
小さい子供をあやすような根拠も説得力もない、ただ単に安心させるためだけのセリフ。いくらひとりでも、こんな言葉を真に受けるほどバカじゃない。手が震えてるのだってバレている。それは喜多にもわかってる。けれど、こうして優しく突き放してやる以外の選択肢はない。
だけど、ひとりはまだ「でも」と諦めず、絞り出すような声で、
「私は……喜多さんの、役に立ちたいんです……っ」
喜多はいよいよ言葉に詰まった。
ひとりの方も、まるでその選択肢しか有り得ないという物言いで退く気配が見えなかった。どうすれば納得してくれるのか。そろそろ途方に暮れそうになっていたところで、
「じゃあ、役に立ってもらおっかな」
後ろから虹夏の声がした。
ひとりと一緒に振り返る。二人の先輩が、片方はにっこり。もう片方は無表情で自分たちを見下ろし立っていた。
虹夏は笑顔を湛えたまま喜多を見たあと、ひとりに目線を動かして、
「──ひとりちゃん、ギターやってもらえる?」
「え……は、はい」
「なっ──」
喜多の頭に雷撃が落ちた。一瞬で色んな感情が全身を駆けめぐり、反射的に彼女は立ち上がった。
「そ、そんな……っ」
泣きそうになる。自分の技術が未熟なのはわかっているけど、目の前でこんなあっさり切り捨てられるなんてショックだった。それも会って数分も経たない相手に鞍替えなんて。いくらなんでもひどい。
頭の理性的な部分が欠け落ち、喜多は虹夏によろぼい歩み寄った。掴みかかって「そんなのあんまりですっ」と泣きわめいてやりたくなった。
だけどその前に、虹夏が視線を戻してきた。
「喜多ちゃんも、ひとりちゃんと一緒にやれそう?」
「え……?」
立ち止まった。なんのことだろうと思う。
「一緒に……?」
「郁代にはサイドギター、ひとりにはリードギターをやってもらおうって虹夏と話したんだよ」
リョウが前に出て答える。
「サイド、ギター……?」
「うん。それでいい?」
いやよくない。全然わからない。専門用語だというのはわかるけど、普通のギターとどうちがうのか。
ただ、言葉の響き的になんとなく察せたのは、
「えっと……つまり、二人でギターをやるってことですか?」
「ああ、そうそう。ごめんね、喜多ちゃんはまだそのへん詳しくないよね」
初心者丸出しの質問に、虹夏が謝りながら代わりに答える。
「要するにね、二人で力を合わせて、ギターの演奏をやってもらいたいんだ」
最初はそんなことができるのかなって思ったけど、調べてみたら割と普通のことみたいで驚いた。ギターが二人いる場合、それぞれ役割があって、片方がリズムやバッキング(伴奏)を担当する土台役のリズムギター(サイドギター)。もう片方がそこにメロディをのせる他、ギターソロなどで曲に盛り上がりをつける飾り役のリードギターというのが一般的らしい。
バンドは全員ちがう楽器を持つものだと思い込んでいた喜多にしてみれば衝撃的な事実だったが、同時に精神的にかなり救われた。それは要求される技量面での負担が軽減されることもそうだが、なにより頼れる先生が同じステージに立ってくれるのだ。これほど心強いものはない。
とはいえ、
「──でも後藤さん、いきなり本番で大丈夫なの?」
楽屋で出番を待つ中、右手をわきわきやりながらスコアを睨むひとりに喜多は問う。「いきなり」とは言っても役割分担後にリハーサルは二十分ほど行った。しかし、やはり自分のように事前に練習できていないのだから、その表現で間違いないと思う。
ひとりはスコアから顔を上げて、喜多に目線を移した。わかりやすく緊張を孕んだ目で苦く微笑む。
「あ……はい。きょっ曲自体はシンプルなんで、演奏に関しては特に問題は……」
まるで他に問題があるような口調に、喜多は胸の奥がざわつく。そして、その答えには彼女の性格を考えてみれば簡単にたどり着いた。
人。
内向的の枠を大きく逸脱したレベルでコミュ障のひとりのことだ。大勢の人の前に出るとなれば、精神にかかるプレッシャーは生半可なものではないはずだ。自分だって心臓がはち切れそうなほど緊張している。彼女は今も、人目にさらされる恐怖と必死に戦っているにちがいない。
それも、自分のために。
自分の役に立ちたいという理由のために。
「後藤さん──」
なにかをしてあげたいと思う。
してあげられることはないかと考える。
考えたすえ、喜多はひとりの手を握ってみた。
「ひゃっ!?」
ひとりが擦られた皿のような声を出した。そんな反応されると悪いことをした気分になるが、構わず喜多はギュッと握りつづける。
「あ、あ、あの……っ」
「えへ、こうすると安心するでしょ?」
「あ、え……?」
「しない?」
「あっ、し、ししします」
「よかった」
軽い調子で笑ったあと、喜多は表情を少し落ち着いたものに変えた。
「……ねえ、後藤さん」
「は、はい」
「ありがとね。本当に」
「え……?」
少し汗ばんだ手のひらから彼女の緊張を吸い取るように強く握り、
「後藤さんが来てくれなかったら、私、たぶんダメになってた。何もかも捨てて、また逃げ出しちゃうかもしれなかった」
「え、ぁ……」
「だけど……もう大丈夫。もう私は逃げない。後藤さんと一緒に最高のライブにしてみたいって今は思うの」
ひとりの顔を見つめる。彼女も大きく開いた目で見てくる。
「だから──ありがとう」
彼女の指に自分の指を絡ませた。
「私を、追いかけてきてくれて」
「あっ、わ、わたっ私は……私はその、」
「……ふふっ。ごめんね? ドラマの見過ぎかも」
わたわたと顔面を崩し始めたひとりに噴き出しそうになりながら、喜多は手を離した。ちょっとクサイことを言ってしまったかもしれない。顔が熱い。赤くなってるかもしれない。けど、それはひとりも同じみたいだ。茹でダコみたいな色になっている。
「こういうのはライブが終わったあとに言ったほうが感動したかもしれないわね〜、なんて」
おどけて言ってみせるが、ひとりの反応はない。自身の手のひらを惚けた様子でジッと見つめていた。
「後藤さん?」
「あっ、あ! は、はい、がんばりましょう!」
ズレた答えが返ってきて喜多はちょん、と首を傾げた。しかし、これを中途半端に聞いていた虹夏が反応し、
「おお、ひとりちゃんやる気だねっ?」
「え? は、はい……」
「いいね、いいね! ほら、二人もひとりちゃんみたく気合い入れてっ? そろそろ出番だよっ!」
喜多とリョウを順番に見て、眠りこけているリョウに気づいて小突き起こしながら、虹夏は明るく声を出した。
「は、はいっ。私もがんばります!」
「ねむ……」
満足そうにうなずく虹夏に喜多もつられて笑う。それから、ひとりの方に視線をめぐらす。また手のひらを注視し、心なしか嬉しそうに頬をゆるめている姿が見えた。
喜多は思う。
彼女が自分の役に立ちたいというのなら、自分だって彼女を支えてあげたい。
そういう演奏をしてみたい。してあげたい。
※
クリスマスライブということもあってか、いつもの無骨なステージもキラキラにデコレーションされ、ゴテゴテにドレスアップ──ということはなく、いつも通り無骨なままだ。とはいえ、ステージの上から見える客層はサンタの格好だったりトナカイのコスプレだったりと割とカオスで、非日常感はバッチリとライブハウス内に飽和していた。
シールドがアンプに繋がれたときの「ボツッ」とノイズが走る音を聞き、喜多はレスポールの弦を撫でた。最初のコードをジャカジャカと軽く鳴らして音の確認を済ませる後ろで、虹夏がドラム楽器の一つひとつを丁寧に叩き鳴らす音が聞こえる。左横ではボーカルとベースを兼任するリョウがマイクスタンドの高さを合わせつつ、サウンドチェックで「あーあー」と声を出す。一番喜多から遠い位置では、ひとりが丸まった背でギターを抱え込むようにしてソロ部分を繰り返し弾いている。
誰もが真剣だった。
誰もが頼れる存在に見えた。
喜多は前を向いた。自分は他の三人からどう思われてるいるんだろう。
頼れる存在に見られてないのは確かだ。
けど、それでいい。
その方が気持ちが楽でいい。
自分は自分の音楽に集中するだけだ。
ステージ後ろのライトが点灯する。スポットライトみたいに一気に明るくなるわけではなく、ふんわりと優しく自分たちが照らされていくのがわかる。観客の視線がステージの上に集まり、ざわめきが落ち着いたものになってくる。
「どうもーっ、結束バンドでーす! 皆さん、メリークリスマス!」
虹夏のMCが始まる。リハーサル中にドラムを叩きながらずっと何やらブツブツつぶやいていたが、これのためだったのかと喜多は今わかった。
「ええー、なんだか客席にいっぱいサンタさんとかトナカイさんがいて、変な感じがしますが、私たちからは皆さんに曲のプレゼントをしたいと思いまーす」
特に笑いは起きなかったが、虹夏は淀みなく言い終えて、マイクのスイッチを切った。
代わりばんこに、今度はリョウが目の前のマイクに向かって、
「じゃあ一曲目──」
シンプルに曲名だけをつぶやいた。それから一拍置いて、虹夏のドラムスティックがカウントを叩いた。喜多も心の中で一緒に数える。
直後、スネアドラムが始まりの音を爆発させ、ハイハットのショットとともに土台となるリズムを作り上げる。リョウのベースは主張強めに低く唸りつつ、虹夏のドラムに難なく音色を馴染ませて、さらにリズムが強化される。
次は私が──喜多は汗ばむ指先でしっかりコードを押さえ、震える指先でストロークをかき鳴らした。
「…………っ!」
よし、乗れてる──喜多は胸の内側で叫んだ。
今度はちゃんと二人のリズムに合わせられている。自分のギターで、しっかり二人の作ったリズムを補強できている。急にやったこともない役割を当てられたときはどうかと思ったけど、意外といけている。
大丈夫だ。この調子で、二人の歩調に自分も合わせていけばそれでOK。コードを間違えず、テンポを乱さず、落ち着いてストロークしつづければそれでいいんだ。
心臓の鼓動が少しゆるやかになるのを感じる。浅かった呼吸も、今はしっかり吸えている。よし、よし。
もう一つのギターが入り始めた。ひとりだ。安定感のあるサウンドがバンド全体をサポートしてくれる。四人の演奏が一つになった一体感を喜多はたしかに感じ取った。イントロが完璧な出来で終わる。
「────♪」
リョウのボーカルが入った。ここからは落ち着いたパートになる。ひとりは一旦ここで休みに入り、虹夏のドラムも単調な音だけになる。つまり、自分とリョウに観客の視線は集中してくる。
ふたたび喜多の心臓がドクドクと脈打ち始めた。呼吸が乱れそうになるが、口の中で舌を噛んで、痛みで緊張を押し殺す。
邪魔しないでっ。私は演奏してるのっ。ギターを弾いてるのっ。誰にもぜったい負けないんだから──。
乗り切った。ひとりが合流し、虹夏もド派手にシンバルを叩き鳴らし始めた。だけどまだ安心はできない。もうすぐサビがくる。一番盛り上がり、客の注目が集まる瞬間がくる。そのときを、喜多は万全の体制で待ち受ける。
リョウが叫んだ。
サビだ。
喜多は左の指先に力を入れた。シンプルなコードしかない曲だけど、サビはチェンジが多い。しっかり押さえて、変な音が出ないようにしなければいけない。
ひとりのギターが唸りを上げている。凄まじいリフだ。彼女の性格からは考えられないような攻撃的でパワフルなサウンドが、ビリビリと脳の奥を揺さぶってくる。こんな音、自分には出せそうにない。やっぱりすごい。
負けたくないと思う。彼女がこれだけ献身的な演奏をしてくれるのだから、自分も最後までミス一つなく完走したい。ひとりが最高のパフォーマンスをできるよう、安定したリズムで支えてあげたい。
大きなミスもなくサビが終わり、間奏に入る。ここも少しのあいだは、ひとりは手元が暇になる。自分のギターが重要になる場面だ。でも問題はない。さっきと同じようにやれば大丈夫だ。
だが、問題はここから。この曲は間奏が終わると、AメロやBメロに戻らず、すぐサビに入る。そしてその次に大サビがくるという少し変わった構成になっている。
つまり、ここから先はずっと観客の注目が右上がりになっていく。手を抜いていい瞬間なんてないけど、少しも気の抜けない曲というのもなかなかハードだと喜多は思う。
思っている間に、サビは目前に迫ってきている。
思わず目を細めた。先ほどのサビで強く押さえすぎたせいか、指先が痛い。おまけに感覚も鈍くなっている。喜多は息を大きく吸い込んだ。大げさな呼吸で指先の神経を叱り飛ばす。ここからなの。もう少しだけがんばって──。
サビに突入。また忙しいコードチェンジに指が悲鳴を上げる。ベースとドラムのリズムにやっとこ着いていけてるが、握力が明らかに弱まってきている。
呼吸が浅くなる。歯がカタカタと鳴る。あご先に汗が溜まってくる。この調子じゃ、いつ押さえ漏らしが出てくるか分かったもんじゃない。ミスの予兆が次第に影を濃くして忍び寄ってくる気配がある、
その時がきた。
「あ……っ!」
ボンッ、とこもった音がした。完全に押さえ切れなかった弦がストロークを掣肘してきた。もう一度、押さえ直して──と考える暇もなく、虹夏とリョウはリズムを進めていってしまう。
急いで合わせようとする。だけど、コードチェンジに手間取って、追いついては置いていかれて、を何度も繰り返してしまう。
喜多の頭の中は次第に白く塗りつぶされていった。たった一つのミスから、連鎖的に演奏が乱されていく虚無感と無力感が意識を支配しようとしている。観客の一部が少しざわついた。「あの子、下手じゃない?」と言われている気がする。
サビは終盤に差し掛かっている。次は大サビ。もっとも盛り上がるところ。なのに、まだミスが修正できない。指が痛くて、頭が空っぽになった気分で、集中力がどんどん削ぎ落とされていく。
視界の端っこ。横目に映っている、もう一人のギタリスト。
ひとりが、自分を見ていた。
後藤さん──。喜多は泣きそうになりながら、彼女を見つめた。もう我慢できなかった。
心の中で叫んだ。
『たすけて』
──瞬間、ひとりは勢いよく足をステージに叩きつけた。観客だけじゃない。メンバー全員もひとりに視線を向けた。床を踏み抜く勢いで彼女が踏んだのはエフェクター。リフに鋭さと激しさが加わり、攻撃性が増強されたサウンドが空間を切り裂くように響き渡る。ベースボーカルとドラムも負けじと最後のサビを作り上げていく。
喜多は呆気に取られそうになりながらも、コードを押さえ、バッキングを再開した。頭を振って、視界を曇らす涙は追っ払った。頭の中の霧も、ひとりによって取っ払われた。もう自分を邪魔してくるものはない。やり切れる。
ラスサビも終盤に入った。ひとりのギターソロが炸裂する。激しさを増し、力強く響き、惑星でもぶっ壊してしまうかのような迫力が頂点に達する。
そして、ゆるやかに全ての音が
会場が沸いた。プロを見慣れている客たちからすれば、きっと喜多たちの演奏は稚拙で未熟なものだったかもしれない。それでも、拍手は高らかに鳴っている。指笛が響く。「ギターがんばったなー」と喜多に向けた声が送られる。
しかし、今の喜多の意識にそれらは映らなかった。どれもこれもがノイズにしかならず、自分の呼吸と心臓の音だけしか聞こえない。
緊張が解けて、放心状態にあるからではない。
大きい音を聞きすぎて、耳鳴りがしているからでもない。
喜多は目が離せなかった。
激しいギターソロを弾き終え、
額の汗を野球部のイガグリ坊主のごとく腕で粗雑に拭って、
自身に向けられる観客の視線から気まずそうに床に目を背ける、
そんなひとりの横顔から、目が離せない。
どうしても、離せない──。