中三の頃が両目とも 2.0。
事故にあった四月に測ったときは、右が 0.7で左が 0.6だった。
そして先週。病院で視力の定期検査をおこなったときにもらえた結果表には、
右目(R):裸眼視力 0.3、矯正視力 矯正なし
左目(L):裸眼視力 0.3、矯正視力 矯正なし
眼圧:右 16mmHg、左 17mmHg
視野検査:両目ともに中央付近の欠損あり
こう記載されていた。
正直、なにがなにやらという感じなのだが、両目の視力がかなり落ちているということくらいは、ひとりの頭にも十分伝わった。感覚的にも、以前より見えづらくなっているのは自覚している。
だから最近、メガネを買った。
担当医の先生から、今後も少しずつ低下していくだろうから、メガネは作った方がいいと言われたのだ。そんなモノかけたら、今よりもっと陰キャに見えちゃうかもって気がしたからイヤだったんだけど、
「黒板が見えなくなったら、また赤点連発して追試地獄行きになるでしょ〜? 作っておいた方がいいわよ」
母からぐうの音も出ない正論を食らってしまい、しぶしぶ父と一緒にメガネ屋に行くことになった。そこで生まれて初めてのメガネを彼女は手にしたのだった。
しかし、学校生活では変わらず裸眼のまま過ごした。「あれ、後藤さんメガネかけてたっけ?」とクラスメイトに話しかけられるのが恥ずかしかったし、 0.3でも目を凝らせば黒板に書かれてる文字くらいは読めた。羞恥心を根性でカバーし、疲れた目は目薬で強引に癒した。
ただ、せっかく買った──もとい、買ってもらったのにまったく使わないというのも忍びなく思い、土曜日の半ドンの日の午後をねらって、彼女は保健室に向かった。そこで実験的にかけてみようと思った。なぜ保健室なのかというと、放課後になると保健の先生はべつの仕事で保健室からいなくなるし、生徒もほとんど寄り付かないからだ。トイレよりも人がやってこない。夕方、目の薬を飲まなきゃいけないときも、いつもここを利用しているくらいには信頼している。
ドアを開けて中に入った。備え付けの洗面所の前に立って、ケースからメタルフレームのメガネを取り出す。フレームの色はローズゴールドで、派手さはないけど地味でもない。
鏡の自分と睨み合い、鏡の自分がこわごわとメガネをかけていく様子を見つめる。鼻にパッドのゴムっぽい感触を感じ、耳に乗る部分が柔らかい素材でできていることに気づきながら、メガネ姿の自分を観察した。
「…………ないな」
ザ・陰キャが目の前にいた。頭の中のイメージ通りすぎてイヤになる。やっぱり自分にメガネは死ぬほど似合わないとわかった。
大事に外してケースにしまう。そして鬱になる。今はかけない、という選択がまだできるけど、今後の視力の変化次第ではイヤでもかける日がくる。またこのザ・陰キャと対面しなきゃいけなくなる。この陰キャを他人に見せなきゃいけなくなる。そう考えるとため息が、
──ん、んんっ……
出る前に、誰かの声が聞こえた。飛び上がりそうになった。
ひとりは、ベッドの方に首をめぐらせた。よく見ると、一つだけカーテンで仕切られているところがあった。誰かが寝ているんだ。
どうせ誰もいやしないだろうと高をくくっていたせいもあって相当びっくりしたけど、声が出なくてよかった。それに早めに気づけてよかった。ブツブツ独りごとをつぶやいて、起こしてしまっていたかもしれない。
ひとりは、そろそろと出口に向かった。足音を立てずに退室しようとする。カーテンの向こうからは「んん〜」と女の子らしき寝息が今も聞こえている。ベッドの下には、睡眠中の生徒の上履きが揃えられていて、
ん? と足が止まった。
上履きの色が自分と同じ一年生のものだった。いや、それはべつに変なことじゃない。さっきから聞こえる寝息──意識してみると、誰かさんっぽいなと今気づいた。
ひとりはベッドに歩み寄った。違う人だったらごめんなさいと思いつつ、興味に任せてカーテンの隙間から睡眠者の顔をのぞきこんだ。
「……やっぱり」
喜多だった。
ひとまず人違いじゃなかったことに安堵しつつ、それでこれからどうしようと考えた。当然ながら熟睡してる人を起こすわけにはいかないだろうが、せっかく会えたのに話をしないでこのまま出ていってしまうのも……ちょっともったいないなと感じる。
じっ、と彼女の寝顔を見る。すると目の下にクマを見つけた。もしかして不眠症とかで寝られなかったのかな、と心配が湧いてきて──それを理由にしようと決めた。「お見舞いにきた」ということにしよう。
近くにあったパイプ椅子をベッドの横に並べた。カーテンを閉めて、音もそこそこに腰かける。それから、すやすやと幼児のように無防備に眠る彼女の顔を、ひとりはぼんやりと眺めつづけた。ゆっくり、優しい時間が流れていた。
ふと思い立って、ひとりはメガネケースを取り出した。決して寝てる彼女にメガネをかけてやろうと悪ガキめいたことを考えついたわけじゃないが、寝てる彼女の前でメガネをかけてみようとは思った。意味のない行動だけど、試してみたかった。この姿の自分に対し、喜多がどういう反応を見せるのか想像してみたい。
なので、かける。
「ど、どうですか。似合ってますか……?」
見せつけて、
「……わー。後藤さん、メガネデビューしたの? 似合ってるわ〜。かわいい〜(裏声)」
一瞬で外した。両手で顔をおおう。
声真似までして、褒められる妄想をする自分が痛々しい。即座にケースにしまい戻した。やはり、まだ見せるには勇気が足りない。これからの自分に任せることにした。
ふざけたことをしているうちに、スマホが午後四時を教えてきた。窓から斜めに差し込んでくる若い西日がクリーム色のカーテンの外側に照りつけ、中からはレモン色に輝いて見える。学校のくせして時計のない部屋だから秒針の音はしなくて、代わりに窓ぎわのエアーポンプがタニシしかいない藻だらけの水槽に酸素をポコポコ送り出す音が聞こえてくる。あのポンプはソーラー式だから、時間がきたらやがて自動的に止まることをひとりは知っている。
その前には帰らなきゃと思う。
でも喜多はまだ眠りこけている。起こしてあげるべきか悩んだが、無理やり起こすのもかわいそうだからという結論にいたった。もうしばらく彼女の睡眠を見守ることに決めた。
本音を言えば、自分ももう少しこのままでいたかった。
喜多と二人きりでいたかった。
また生徒指導の先生に怒られるのはイヤだけど、ギリギリまでこの時間を享受したいと思った。
なぜそんなふうに思うのか自問すると、「だって友達だから」と心の自分が返してきた。
喜多さんと一緒なら、私はなんだっていい。会話がなくても、ぼーっとしてるだけでも、すごく安心してどんどん満たされていくような気がするから──。
きっとそうなのだと、ひとりは確信する。友達だから。
友達なんだから、一緒にいたいと思うのは当然なのだ。
正解が出て納得すると、ひとりは喜多の顔を優しく見つめた。友達なんだからメガネをかけるイタズラくらいやってみてもいいかなと軽く考えた、
そのとき、
「っ」
突然、左目の奥で静電気のような痛みが走った。反射的に顔を歪ませ、両手で左目を押さえた。数秒、ピリピリとした痺れがつづいたあと、それはすぐにスッと溶けるように消えた。
おそるおそる手を離し、左目をゆっくり開けた。ぱちぱちとまばたきを繰り返す。涙で若干、視界はにじんでいるが大丈夫。目はちゃんと見える。喜多の寝顔が見えている。ホッ、と長い息を吐き出した。
この痛みは最近になって引き起こるようになった。発作のようなものだと医者は言っていた。目の神経が必死に脳に向かって信号を送ろうとして、そのがんばりが少し過剰になってしまった結果、起こってしまうものなのだと。
その説明以外のことを医者はなにも教えてくれなかったが、べつに訊くまでもなかった。今までこんなことはなかったのだ。自分の目が少しずつ光を失う準備を始めているのは明らかだった。
しかし、今さら取り乱すこともなかった。四月の時点で、すでに失明は宣告されている。視力が落ちていく辛さも経験している最中だ。辛酸は何度も嘗めて味わってきた。少し目が痛くなるくらいどってことなかった。
自分が強くなったとは思っていない。
ただ少し、考え方を変えるようになっただけだ。
視力が落ちたところで大した問題ではない。たしかに、遠くのものを今までのように見ることはできなくなった。不便ではあるし、困ることもある。けれど、近くにあるものは普通に見ることができる。見えなければ、近寄って見ればいいだけのことだと。
喜多の顔を見て、さらに強くそう思った。こうやって近くで見れば顔の輪郭も、ツンと立った鼻先も、長いまつ毛の一本一本もちゃんと視認できるのだ。
自分にとって一番価値のあるものは、ちゃんとこの目で見られるのだ。
それで十分だと思った。
どんな慰めの言葉よりも、医者からもらえる強い薬よりも、その事実は心を落ち着かせることができる。
自分は──『普通』だと信じられる。
そして、それを喜多が教えてくれたのだ。
ひとりは「ありがとう」と唇の先でつぶやいた。寝ている彼女に届くはずもなく、そもそも聞かせる気もない蚊の鳴くような声だ。でも、それでいい。喜多だって、いきなり身に覚えのないことを感謝されても疑問に思うだけだろう。だから、これでいい。人は時に、ただそこに居てくれるだけで誰かを救っていることもある。
「…………後藤さん?」
あっ、
「お、おはようございます……大丈夫ですか?」
目を覚ました喜多に声をかけた。寝ぼけた目の彼女は、まだ夢から抜けきれない顔でまぶたを
「ん……うん。ちょっと寝不足で」
「ふ、不眠症とかですか?」
「ううん。単純に夜更かししちゃったの」
言いながら、ゆっくりと体を起こしてきた。
「もしかして、お見舞いにきてくれたの?」
「あ、は、はい……」
そこで、少し考えた。なぜ自分が保健室にいるとわかったのかと訊かれるかもしれない。
「──さ、佐々木さんから喜多さんのこと聞いて……その、はい……」
咄嗟に思いついたにしては筋の通った返しになったが、あとで本人に確認されたらどうしようと思う。思わず肩をすぼめた。
しかし喜多は、ミリも疑う様子もなく「ありがとう」と言って、さらに時間を訊ねてきた。ひとりはスマホを見ながら、
「ええと、そろそろ四時半になりそうです」
そう伝えると彼女は血相を変えて、ベッドから跳ね起きた。つんのめりながらドアに向かっていく喜多に慌てて「どうしたんですか」と声をかけると、
「ごめんなさいっ。行かなきゃいけないところがっ!」
──そんなことがあったのが十時間ほど前。
起きたばっかなのに走り出していった喜多が心配なのと、「行かなきゃいけないところ」が何なのか気になって、彼女のあとを必死こいて追いかけた。彼女は足が速いから、何度も背中を見逃しかけた。それでもなんとか食らいつき、電車に乗って、下北沢でおりて、ライブハウスまできて、ライブに出ることになって──結果的にバンドに加入することになってしまった。
まるで詰め込みすぎの映画みたいだ。明かりのない部屋の中でひとりは薄く笑った。こんな現実味のないことが本当にあるなんて。人生なにが起こるかなんて神様にだってわからないんじゃないか。
おかげで、まだバンドに入ったという実感が体に染み渡っていなかった。頭が現実に追いついてきていない。まったく眠くないくせに、夢をみている気分がずっとつづいている。
腕枕していた右手を顔の前にかかげた。にぎにぎと指を動かし、目を細める。
だが、あまりフワフワしたままではいられない。不安がある。当然、目のことだ。いつ使い物にならなくなるかもわからない時限装置みたいなこの両目のことをまだ先輩たちには伝えていない。
黙ったままでいいのか。
いいわけがない。
これに関しては、ちゃんと話さなければいけないと思う。少なくとも虹夏には伝えておかなければ今後、ぜったいに迷惑をかけてしまう。それだけは避けなければいけない。
伝えたときの自分への処遇はどんなものでも受け入れるつもりだ。「そういうことなら、ごめんね」と言われたって、仕方ないと割り切る覚悟はある。だってそれが普通だ。将来性のない人間を切り捨てるのは、悲しいかな世の常識である。社会経験の乏しいひとりにも、それを想像するだけの思考力はある。
でも、願わくば──、
もしも虹夏が自分を残してくれるのなら、とても嬉しい。バンドにはずっと入りたかったから。不安はあっても、後悔はなかったから。だから、
──そんな希望に喝を入れるように
「いっ」
ふたたび左目の奥でバチッと痛みが走った。夕方のときよりも鋭い痛みが体を跳ねさせる。
仰向けからうつ伏せの状態になり、ひとりは枕に顔を埋めた。口で呼吸をする。深呼吸をする。唾液が垂れて、枕に染み込んだ。ビリビリと目の奥が痺れている。熱を持っている。
あのときは数秒で済んだのに、今回はまだ引いてくれない。痛みも激しい。歯をきしった。歯の隙間から狭い呼吸を繰り返した。涙が出てくる。目をギュッと閉じ、呼吸も止め、全身に力を込めた。それで耐えようとする。
耐える。がんばって耐える。
耐えろ、耐えろ──。
しばらくすると、蒸発するように痛みが溶けた。全身の筋肉が一気に弛緩する。腕に力を入れ、枕から顔を離した。激しい息切れが口から出てきた。汗も噴き出してきた。外気は寒いから体を冷やさないようにすぐに拭った。
上体を起こす。頭が酸欠のせいかクラクラする。今までで一番痛くて、長い発作だった。まばたきをする。もともと部屋が暗いからわからないけど、たぶん大丈夫。失明したわけじゃないだろう。
なのに、
「ぅ……、うぅ……っ、っ」
すごく怖くて。どうしようもなく不安で。涙がボロボロ流れ出てきた。
本当に見えなくなるときがきたのかと思った。
二度と元の生活に戻れなくなるんじゃないかと思った。
布団にくるまって、ひとりは暗闇の中で声を出さずに泣いた。体の震えが止まらなかった。
神様──。それから心の中で願った。
お願いです。もう少し時間をください。
まだ、『普通』でいたいんです。