指先に銀河をのせて   作:夜のイロ

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赤い部屋

【12月25日 AM3:51】

 

 いつ朝日がのぼるんだろう、と。車窓から暗闇を見つめてそればかり考えていた。それ以外に頭にあったのは一時間前の激しい発作の感覚と、明日の終業式のことだ。

 クリスマスの日のまだ朝四時になる前だった。ひとりは両親に車に乗せられ、病院に向かっていた。生き地獄のような目の痛みが引いたあと、彼女は一階で寝ていた両親に泣きながら抱きついた。起きた二人に事情を説明すると、把握した父は車の準備を、母は近くの総合病院に電話を入れてくれた。幸い、そこの病院では眼科の緊急外来が置かれているらしく、日曜日だけどすぐに診てくれるとのことだった。

 

「──いまは痛くないか?」

 運転席から父が声を送ってきた。バックミラーを見たけど、真っ黒に塗りつぶされて表情は読めない。けれど、その声がひどく低くて不安げに揺れているのはわかった。

「……うん」

「もうすぐで着くからね。大丈夫だから……」

 母はとなりで一緒に後部座席に座っていた。ひとりの背中を撫でながら、呪文のように「大丈夫」を何度も何度も唱えてくれた。母の声も震えていた。

 病院に着くと、入り口には目尻も口元も垂れ下がって、不機嫌そうな表情が貼り付いたおばさん看護師が待っていて、

 

「すぐ診察入れますので」

 

 つっけんどんな物言いの看護師はなぜか車椅子を引いていた。ひとりを見ている。もしかして、自分が座るためのものなのかと思う。

 

「はやく座ってください?」

 

 急かされた。やはりそうだった。ひとりはビクビクしながら車椅子に尻を向け、腰をおろした。普通に歩けるのに。目だってちゃんと見えるのに。痛みも今は大したことないのに。それなのに『普通』を捨てることを強要されたようだった。

 そのまま病人になった気分で車椅子を押され、診察室に通されると寝ぼけた顔の医者が待っていた。寝ぼけたような口調でいくつか簡単な質問をしたあとに検査が始まった。

 まぶしいライトを目に当てられたり、映画の投影機みたいな機械の前で交互にウインクをさせられたり、パラボラアンテナ型のドームの中に光を感じたら手元のスイッチを押したり──色々やらされた。最後に、前にもやったCTスキャンとMRIの撮影をおこなって、それでいったん待合室で待機となった。一時間以上も検査だったから、終わったあとは安心感と疲れがどっと出てきて眠気に襲われた。「寝てもいいからね」と母が言ってくれたので、膝を借りて少しのあいだ甘えることにした。

 深夜のテレビから流れる大して面白くもない旅番組の心地よい音声と母の膝の柔らかさで、すぐに意識は睡魔に吸い込まれた。

 

 

 

【AM5:39】

 

 目が覚めたとき、ひとりは皮っぽいソファーの感触を顔に感じた。ぺたりと座面に貼り付いた頬を引っぺがし、体に掛けられていた母のウールコートの温かさをどかしてムクリと起き上がる。青白い照明にふんわり意識が呼び戻される感覚を抱きながらまばたきをする、

 

「……お母さん?」

 

 ようやく気づいた。母がいない。

 すぐに目はぱっちりと開き、辺りを見渡した。母も父の姿もなかった。

 

「お父さん……?」

 

 途端に不安になり、ひとりは立ち上がった。どうして誰もいないんだろう。そしていまは何時なんだろう。

 ふらふらとほの暗い廊下を歩いた。等間隔に天井に埋められた照明は、視力のせいなのか、元々あまり明るくないのかわからないけど、不安になる暗さだった。その中で、つよい明かりを感じる方向に向かうと受付にたどり着いた。さっきの不機嫌な看護師がイライラした口調で電話を受けていた。話しかけるのが怖かったので、そそくさと離れる。

 ひとりはさっきの診察室に向かうことにした。もしかしたら、自分が寝ているあいだに呼ばれたのかもしれない。すり足気味に歩いていると、診察室から話し声が聞こえてきた。父の声だとわかった。

 ホッとして、ひとりは扉の前まで小走りした。ドアノブのハンドルを握る。だけど、途中から入ってもいいのかなとそこで思いとどまり、まずはノックしないとダメだよねと考えた。

 そのとき、

 

『──なんだよその言い方っ!』

 

 怒号が中から響いた。

 反射的にひとりは手を離した。声は出なかった。だけど、後ずさった拍子に足がもつれて廊下に尻をついた。

 父、直樹の声だ。

 

『そんな無責任なっ……あんた医者なんでしょっ? 患者の未来を守るのが仕事なんでしょっ? なのになんでそんな──っ』

 

 直樹の声がそこで止まる。今度は医者の声がボソボソと聞こえてくる。なにかを説明しているのだろうが、いい訳をしている口調にも聞こえる。

 父はふたたび声を荒らげて、

 

『──だったらなんなんですかっ? もう諦めろっていうんですかっ? うちの娘をなんだと思ってんだ……っ』

 ふたたびボソボソ声が聞こえて、

『──でもっ、まだあの子は十六歳……いや、まだ誕生日前の十五歳の子供なんですよっ? まだ自分がなにになりたいかもハッキリしてない、そんな子なんですよっ? それなのに、そんな言い方ないじゃないですか……っ』

 

 となりで母の美智代がなだめる声を上げる。それから今度は、美智代が医者に向かって、

 

『あのっ、なんとかならないんですか……? 手術とか、お薬とか……それではもう、治らないんですか……?』

 医者のボソボソ声。

『──それはどうにかしますっ。私たちがサポートしますっ。なんでもあの子のためならします……っ。だからっ、どうかっ、助けてあげてください……っ』

 

 藁にでもすがる声だった。言われれば自分の命でも平気で差し出しそうな声色だった。医者はまたボソボソと話し始める。美智代がそれになにかを言いかけて、途中で我慢できずに泣き出す声が聞こえた。直樹ももう声を荒らげたりせず、懇願するように、

 

『お願いします……っ。どうにかしてください。大切なうちの長女なんです……お願いします、お願いします……』

 

 ひとりはのろのろとゾンビのように立ち上がった。頭が真っ白になっていた。

 もうこれ以上、聞く勇気がなかった。

 彼女は壁に肩をこすりつけながら歩いて、待合室まで戻った。どかっとソファーに腰を落とし、腰を丸め、床を見つめ、髪をくしゃりとつかみ、まばたきもせずに、抜け殻のような魂で一言だけ。

 

「──おわった」

 

 

 

【AM6:08】

 

 両親がもどってきた。ひとりは首だけを動かして二人を見上げる。二人とも目の下に乾いた涙のあとができていた。胸が破裂しそうになった。

 

「詳しいことは帰ったら話すよ」

 

 直樹はうすくほほ笑んだ。そして、会計をするから先に車に戻るよう言われた。キーをあずかって、一人で外に出る。外は朝焼けが始まっていた。燃えるように空は輝いているのに、どうして風がこんなに冷たいんだろうと不思議に思った。

 車に入る。エンジンがついてないから、当然車内は凍えるように寒い。自分の体を自分で抱きしめ、ダウンジャケットのジッパーを極限まで上げる。フードをかぶって、寒いのか怖いのか判断つかない震えに身をもだえさせた。

 数分ほどで二人とも車に戻ってきた。「寒かったでしょ〜?」と当たり前のことをいつもの調子で母が言いながら、ホットココアの缶を渡してくれた。

 すぐに車が動き出す。景色が流れ始める。ひとりは缶を開けることなく、カイロ代わりに手元で転がしている。

 直樹が、

 

「……なあ、ひとり」

 ひとりはバックミラーを見た。もうすっかり明るいので、今度はちゃんと父の顔が見える。穏やかな表情だった。

「ひとりは、将来やりたいこととかある?」

 そんなものない。けど、

 その返しはひどく親不孝な気がして、

「わからない」と曖昧に答えた。

「そっか」

 笑う。

「じゃあ、これから見つけないとね」

「……うん」

 横で美智代も淑やかにほほ笑んでいる。

「……あのな、」

 直樹は少しだけ鼻の詰まった声になって、

「今はなくても──やりたいことを見つけたなら、我慢せずにやるんだよ」

「……え」

「ひとりの人生はひとりのものなんだから。なにも遠慮なんてしなくていいからな。お父さんとお母さんに、めいいっぱい迷惑をかけてもいいから。ひとりは、『普通』の女の子なんだから……だから、」

 

 そこで言葉を詰まらせて。初めて直樹の涙がバックミラー越しに見えて。

 ひとりは、

 

「……うん──ありがとう、お父さん」

 

 それだけ答えた。

 沈黙が車内にただよう。ひとりは窓から空を見上げた。真っ白な日がのぼっていた。空はまだ少し黄色が残っているけど、いつもの青空に戻ろうとしている。

 いつもの日常に、戻ろうとしている。

 だけど、それはきっと勘違いなのだとひとりは思う。世界はいつも似たような顔をして、実は絶えず変化しているに違いない。

 自分はもう、その変化についていけなくなるんだ。

 世界は自分を取り残して、まったくべつの日常を作り上げていくんだ。

 そう考えると怖かった。でも、絶望というほどではない。

 家族がいる。父と、母と、妹と、犬までいる。三人と一匹も自分には家族がいる。べつの日常になっても、変わらない家族がいる。怖いけど寂しくはなかった。

 ひとりは今はじめて、自分が家族を愛していることに気づいた。愛されていることがわかった。そして、大好きな家族にこれから迷惑をかけると考えると、目が見えなくなるよりよっぽど辛かった。

 

 だから、決めた。

 

 これからできるだけ迷惑はかけない。

 手のかかることはしない。

 負担になるようなことはやめる。

 それで手始めに思いついたのが、ギターだった。

 目が見えなくても弾けるギタリストは大勢いるけど、そういう人を目指すのは現実的じゃないし、なったところで家族になにかしてあげられるわけでもない。今までのような演奏もできなくなるし、メンテナンスだって一人でできなくなる。長い目で見れば消耗品だから金銭的な負担もかかる。

 つづけるメリットなんて何もないのだ。

 手離したくないというのが本音ではある。三年もやってきて、身につけた実力を捨てるのは惜しい。自分の唯一の長所でもある。アイデンティティでもある。やりたいことがあるなら我慢せずにやっていい、という父の言葉にも反すると思う。

 それに──()()のことを考えてしまう。喜多がこのことを知れば、どう反応するんだろうかと思う。ギターをやめた自分に興味を持ってくれなくなるかもしれない。それはすごく……とても悲しい。

 

 でも、

 

 もういいんだ──ひとりは両手で缶を握る。

 家族に迷惑をかけるくらいなら、もういい。やめる。

 だいたい、そこまでしてやりたいわけじゃないから。ギターなんて、そんなに面白いものでもないんだから。もっと面白いものは世の中にたくさんあるんだから。

 だからもういい。どうでもいいんだ。

 もうやめたいんだ。

 やめるしか、ないんだ。

 やめなきゃ……いけないんだ──。

 

 ひとりは清浄な空を、高く高く突き抜けるような青を、朝焼けのすっかり引いた日常の青空を見つめて、まばたきをすっかり忘れた廃人のように無表情で泣いた。涙がとめどなくあふれてきた。

 それに気づいた美智代がハッと息を飲み、つよく抱きしめてきて。

 耳元で、

 

「ごめんね……なにもしてあげられなくて……ごめんね」

 

 それで一気に感情がもどってきて。なにかが粉々に壊れる音がして。顔がくしゃりと歪んで。ひとりは母の胸に勢いよく顔を埋めた。

 わあわあと声を張り上げて泣きじゃくった。

 

【12月25日 AM6:32】

 

 この日、後藤ひとりはギターを完全にやめた。

 

 

 

 ※

 

 

 

【12月26日 AM10:49】

 

 視神経というものが、だいぶすり減ってきているらしい。

 そんなこと言われたところでさっぱりだし、教えてくれた父自身もそこまで深くは理解していないようだった。だが、現在の日本の医療技術では手の施しようがないものだという医者からの言葉はしっかり伝えてくれた。そして、自分の目がもうあまり保たないということも。

 

 つまり、本当にもうどうしようもないのだ。

 

 だけど、それがわかると逆にスッキリしたのをひとりは覚えている。足元の見えない海底に沈んでいくよりも、確実な終わりに向かって崖から飛びおりる方がマシだと思った。怖いのは変わらないが、覚悟が疲れずに済む。包み隠さず教えてくれた父には感謝だった。

 とはいえ、色々と片付けなければならないものも多い。近いうちに学校には来られなくなるだろうから、持って帰れそうなものは今のうちに持って帰らないといけない。置き勉していたせいで余計に荷物が多くなったのは痛かった。

 それとバンドだ。まだ虹夏には目のことを伝えていない。早いうちに伝えなければと思う。こうなってしまった以上、つづけるのは無理だから脱退を申し出なければならないだろう。まだなにも活動できていないのに申し訳なく感じる。

 あとは、

 喜多さん──彼女のことだった。

 一番の問題だと思った。

 彼女のギター練習にはもう付き合うことができない。指導はしてあげられないこともないが、ギターを見ること自体が辛かった。心が耐えられなかった。

 目のことも虹夏同様に伝えなければいけないんだろうけど、

 

 

『私、障害のある子と付き合うのなんてイヤよ』

 

 

 そんなこと言うはずないのに。

 思い出してしまうのは、いつだったか見た夢の記憶。夢とは思えないくらいしっかりとした絶望が脳の裏側まで刻み込まれている。

 言いたくないな──そう思ってしまう。彼女の前では、『普通』の女の子のままでいたい。この願いが贅沢なのはわかっているけど、

 それでも、

 

「──後藤さんっ!」

「わっ」

 突然、現れた喜多の顔にひとりは飛び上がった。

「えへ、びっくりした?」

 

 びっくりしたに決まっていた。

 ちょうどあなたのことを考えていたんですから、と口の中で小さく抗議する。

 だけど、ちょうどよかったかもしれない。目のことはともかく、ギター練習の件は先に話さないといけなかったから。ロインよりも直接伝えた方が手っ取り早くていい。

 ひとりは口を開いた。もう今後、ギター練習には付き合えません──そう言おうとした。

 のに、

 

「──その、きょ今日は練習しないで帰ろうかな、と」

「え?」

 

 おバカ、とひとりは心の自分を小突いた。

「今日」の話じゃないだろ。もうこれから先、一緒に練習はできませんって伝えないとダメだろ──。

 

「そ、そういうわけなので……すみません。失礼します」

 

 それなのに、現実の自分はどうしてもヘタレで弱っちくて、言い逃げして彼女から去ろうとしている。

 喜多も当然追ってくる。用事があるのとか、スターリーに行こうとか、自分の本心を探ろうとしてくる。それでも、のらりくらりと躱していたら最後には腕をつかんできて、

 

「その、これからどこかいかない……?」

 

 断ろうと思った。呑気に遊んでいられる精神は自分の中に残っていない気がした。

 だけど喜多は、

 

「──デ、デート! したいなって……」

「へ?」

 

 予想外の攻撃で、ひとりの思考を吹っ飛ばしてきた。

 

 デート……デート?

 え、デートって、恋人同士でするやつじゃないの……?

 私たちって恋人だったっけ……?

 

 困惑が平常心をかき乱してくる。断る、という選択がモヤがかって、なにを言えばいいのかが行方不明になってしまう。

 そうしているうちに喜多が腕を引いて歩き出して、

 

「デート、楽しもうね! ──ひとりちゃん」

「────っ」

 

 そんな笑顔は、

 やめて欲しいのに。

 

「…………はい」

 

 やっぱり無理だった。

 言えるわけがなかった。

 なにも、言えるわけない。

 

 

 

【12月27日 PM1:22】

 

 冬休みが本格的に始まった。だからといってなにか特別なことをやるわけでもなく、ひとりはダラダラと布団の上で死んでいた。

 枕元には昨日、喜多からもらったギターのストラップが転がっている。包みは開けたがまだ中身は触ってもいない。触るつもりもない。もらっておいてそれは最低な仕打ちなのかもしれないけど、触れれば心の平穏が保てなくなる。

 レスポールは午前中に階段下の物置にしまった。今までたくさんお世話になったからぞんざいに扱ったりはしない。張りっぱなしだった弦はゆるめて休ませてあげて、ホコリで汚れないように毛布をかぶせた。スタンドの上に立たせて、かっこいい状態のまま保管することにした。アンプなども一緒にそこにしまった。

 ギターとのお別れを済ませたあとの部屋はあまりにも無機質だった。のび太の部屋よりつまらなく思える。やることがないから寝るしかないけど、寝ていると不安になりそうなことばかり考えてしまうので、暇つぶしに冬休みの宿題に取りかかった。

 でも難しくて、頭が痛くなってきたから結局寝た。

 

 

 

【12月30日 PM3:20】

 

 後藤家毎年恒例の年末大掃除の日である。もちろん、ひとりももれなく手伝わされていた。

 一階と二階の窓拭きがようやく終わったあと、母からお風呂掃除もお願いねと追加でオーダーが入り、内心ブーブー言いながらも一旦部屋にもどった。濡れてもいい格好に着替えようと思った。そこで布団の上に放置されていたスマホをなにげなく見やると、ロインの通知が一件。

 

『明日、よかったら二人で初詣いかない?』

 

 喜多からだった。

 口の中の空気を飲み込む。どうしよう。

 初詣ということは、遅い時間に神社に行くということだから、あたりは真っ暗に違いない。それだと、今の自分の目ではちゃんと歩くことすらできないかもしれない。

 きっと無理だ。

 迷惑はかけたくない。

 ひとりはしばらくのあいだ考えて、

 

『すみません。体調がよくないので遠慮しておきます』

 

 既読がつく前に部屋から逃げた。

 

 

 

【1月1日 AM0:02】

 

 コタツの中で年を明けた。十二時になった瞬間は寝ていたけど、テレビの音で目が覚めた。起き上がる。

 となりでは、妹がヨダレを垂らして寝ていた。風邪を引いたらかわいそうなので、起こさないように抱きかかえて布団まで連行。戻ってきてスマホを開くと、喜多からロインがきていた。写真つきだ。

 

『あけましておめでとう〜! 体調は大丈夫? はやくよくなって三学期にまた会いましょ!』

 

 写真はどこか大きな神社の鳥居前で撮られていた。周りがライトアップされているのか、喜多の笑顔も鮮明に写っている。となりで一緒に写っているのは、名前はわからないけど彼女の友だちだろう。仲が良さそうだった。

 やっぱり喜多さんは人気があるんだな、としみじみ思った。

 そう考えていたら、胸が痛くなってなぜか涙が出た。理由は本当にわからなかった。

 

 

 

【1月2日 PM7:55】

 

 ここ最近、小さな発作が繰り返しあって心配だったけど今日はまったくなかった。目も心なしかいつもよりハッキリ見える気がする。処方してもらった目薬が効いてきているのかもしれない。

 医者からはあまりスマホの長時間使用はしないように言われていたが、少し調子にのって動画サイトで色々観た。でもやっぱりなにも目に異常はなかった。夕飯を食べたあと、宿題をほんのりやって、また少し動画を観た。そのうち、だんだん眠くなってきて、ひとりはうつ伏せのまま眠りについた。

 

【同日 PM11:49】

 

 激しい目の痛みで飛び起きた。ダンゴムシみたいに体を折り曲げ、指を思い切り噛んで痛みに耐えた。一分近い拷問のあと、ヒリヒリと赤ばむ指先を大事に手のひらに包みながら枕に顔を埋めた。バチが当たったんだと思った。

 

 

 

【1月6日 PM2:16】

 

 冬休みももうほとんど虫の息だというのに、ひとりの宿題はまだピンピンと生きのびていた。なので必死こいて古典の問題集を解いていたら、現代語訳している途中で発作が邪魔をしてきた。強烈なやつじゃないけど、しばらく痛みはつづいた。

 ようやく引いて、机に向き直って再開しようとしたけど、数分も経たないうちにまた発作がやってきた。今度はさっきよりも痛い。たまらずひとりは目薬をさした。そうすると、一気に痛みが消えて落ち着いた。でもこの調子じゃ、宿題なんて終わらせることができないと思った。

 だから諦めることにした。

 諦めて、リビングでテレビでも観ようと部屋を出た。すると、自分のスリッパが両方とも「明日は雨ですよ」とでも言わんばかりに底を上に向けて転がっていた。ふたりの仕業に違いなかった。不吉なイタズラはやめて欲しいなと笑った。

 

 

 

【1月7日 AM5:10】

 

 冬休み最終日だ。

 珍しく日がのぼる前から目が覚めた。上体を起き上がらせて目をこする。当然、部屋はまだバツグンに暗くて、家具の輪郭がかろうじて認識できる程度だ。

 もう少し寝たいのだが、いやに寒くてたまらなかった。ふすまの隙間から冷たい風が入り込んでいるのかもしれない。ハイハイの姿勢でひとりはふすまに近づいた。思ったとおり三センチほど開いていた寒さの原因を確認すると、ちょっとの私怨を込めてピシャリと閉じた。

 これでよし──なのだが、体が冷えたせいか急にトイレに行きたくなった。眠気で重たい体をよっこら起き上がらせ、部屋の電気を──、

 

 

【AM5:12】

 

 

「……あれ?」

 

 つけた、はずなのに。

 まったく部屋が明るくならなかった。

 多少は闇が退いた気配はあるのだが、家具の輪郭も、部屋の風景も、自分の手さえもほとんど認識できなかった。

 ドクン、と胸が跳ねる。

 冷たい血が全身を流れる。

 うそだ、と思った。

 やだっ、うそだ。まだ……まだ私は、

 

 首を振って現実を否定しようとする。震えた足で後ずさる。歯が激しくカチカチと鳴り、呼吸が乱れてくる。固めていたはずの覚悟が一気にぐらついてくるのを感じる。

 そして、

 

 

【AM5:13】

 

 

「え……っ」

 

 突如、ひとりの視界にどろりとした血が流れ落ちてきた。

 

「わあああっ、ああっ!!」

 

 パニックになった。あわてて彼女は目をこすった。額を拭った。ヤケドするほどに袖でこすりつけた。だけど、なにも痛みはないし、濡れている感覚もない。視界の血は、体から流れているわけではないとわかる。

 それなのに、目の中の赤はどんどんと領域を拡大していく。かすかに見えていた壁のシミもふすまの汚れも、まるで血の膜に覆われるかのように染まっていく。

 ようやく、恐怖がひとりの体を動かした。

 失明が始まったんだと頭が理解した。

 

──お父さんっ!! お母さんっ!!

 

 喉がやぶけるほどにひとりは叫んだ。人生で一番大きな声を出した。目の前の赤を見るのが怖くて、目をつむったまま手さぐりでふすまの取っ手を探した。爪の先にくぼみの感触を見つけた瞬間、足がもつれて前に倒れ込んだ。

 ガタン、となにかが外れる激しい音がした。その音とともにひとりの体は浮き上がり、次に全身を強く打った。息が一瞬できなくなる。ふすまごと廊下に倒れたんだと感覚で察した。縛られるような寒さが押し寄せてくる。

 それでもかまわず声を上げて、

 

──ふたりっ!!

 

 誰でもよかった。

 誰でもいいから来て欲しかった。

 自分の手を握って安心させて欲しかった。

 喉が慣れない大声でイガイガとささくれ立っている。

 寒さと恐怖で体が信じられないくらいに震えている。

 おそるおそる目を開けると──なにもかもが真っ赤に染まっていて、全身の毛穴から汗が噴き出してきた。

 

「ああっ……!!」

 

 全てが崩壊していく。

 全部、全部──消えてしまう。

 失われつつある光の中に、なぜか彼女の顔が浮かんだ。

 変わらないあの笑顔だった。

 

「喜多……さん……っ!!」

 

 もう見られないのだろうか。

 

「喜多さんっ、喜多さんっ……!!」

 

 もう会えないのだろうか。

 

「やっ……いやだ……っ!!」

 

 そんなの、あんまりだ──。

 

ああああぁああああああああぁぁあああぁああああっ!!

 

 耐えきれなくなり、ひとりは頭を抱えて魂を吐き出すように叫んだ。

 世界は赤一色になっていた。

 

 

【AM5:16】

 

 

 両親が階段を駆け上がってきたが、彼女の視界にはもうなにも映らなかった。

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