雪も降ろうとしないくせに、氷点下の日ばかりつづいている。ボリュームのあるマフラーに鼻下まですっぽり顔を隠し、学校指定のネイビーのコートが痺れるような冷たい風になびくのを感じながら、喜多は信号を渡った。
何日も雨が降ってないのに路面が濡れているのは霜のせいで、ところどころカチコチに冷たく張られたトラップは天然自然のイジワルに他ならない。これにより何人の受験生たちが足元をすくわれ、自信を失ってきたのかを喜多は知らないし、べつに興味もなかった。
日常は戻りつつある。
遠い遠い未来の話だと思っていた三学期はあっという間にやってきて、ため息色の始業式が行われたのが一週間前。休み明けのだらけ切った生徒たちの顔も、さすがに少しは引き締まってきた。
みんな日常に戻っていく。日常は現実として動き出している。
それなのに、いつまでもエンジンのかからない非日常は喜多の中に存在していた。
校門を抜ける。時計塔があと十分ほどでHRが始まることを教えてくれた。昇降口まで少し走り、下駄箱で上履きに履き替える。長い階段をのぼり最上階にたどり着くと、喜多は自分の教室より先に二組に向かった。小うるさい喧騒が響いてくる。朝のうちは、どこのクラスもHRが始まるまでは換気のために扉は開けておかねばならないことになっている。だから、廊下から教室の中をのぞき見ることができる。
喜多はのぞき込む。
後ろの席。ひとりの席。
ポツンと空いた空席は、もはや二組のあいだでは日常の風景の一部に溶け込んでしまっているように見える。
今日もひとりは来ていなかった。
いつになったらまた会えるんだろうと、顔を床に向けた。
ひとりが学校から姿を消したのは三学期始業式の日からで、彼女が入院したという情報もその日のうちに二組の子から教えてもらった。しかし、なにが原因で、どこに入院しているのかはその子も、ほかの誰も知らなかったし、先生に訊ねても「個人情報だから」の一点張りで口を割ろうとはしなかった。
それなら直接本人にと、喜多はひとりにロインを送った。何件何件も、スパムかと見紛うほどにメッセージを送信した。なかなか返信がこないことにシビレを切らし、よくないこととは思いつつも通話をかけたりもした。だけど向こうの電源が入っていないのか、定型のアナウンスがスピーカーから流れるばかりだった。メッセージも一向に既読がつかないまま今日にいたる。
もしや、嫌われてしまったのだろうかと喜多は考えたりもした。冬休み、彼女は体調が悪いと言って、自分の初詣の誘いを断っていた。きっと、あのときから入院してしまうほどに具合が悪かったのだ。にも関わらず、自分はそのあとも無神経に写真付きで「あけおめ」ロインを送ったりした。それが気に障ったのかもしれない。苦しんでいる彼女への当てこすりになってしまったのかもしれない──と。自己嫌悪で吐きそうになった。
たとえ嫌われてなかったとしても、想像はいい方には向かなかった。スマホをいじれないほど、重篤な病気になっているのではないかと考えてしまった。それもすごく辛くて、自分のことのように苦しくて、どうして彼女をそんなにイジメるんだと神様と彼女の運命を呪った。
一人でギター練習するのも虚しくなるだけで、一昨日からはサボっている。ギターケースを持ち歩くのも本当は億劫だけど、ひとりがまた登校してきたときのために毎日持ってきてはいる。でも、邪魔くさいと最近は思えてきて、学校に置きっぱなしにしたいというのが本音だった。どうせ家に帰っても練習する気は起きないから。
そんな日々がつづいて一月も下旬に入ったころ、虹夏からロインがきた。次の日曜日、みんなでスタジオ練習しようとのことだった。場所は『スターリー』。最後に行ったのがクリスマスライブの十二月二十四日だから、ほぼ一ヶ月ぶりである。二人にもご無沙汰だ。
もちろん喜多は行くつもりだったが、ひとりが来ないだろうと考えると数瞬、迷いも生じた。だがすぐに理性の方が勝ち抜き、スマホのカレンダーに予定を書き加えた。
※
「こ、こんにちは〜っ」
ドアを開けて店の中に声を送ると「おっ」という声が聞こえてきた。階段をのぼる音が近づいてきて、次にひょこっと顔を出したのは、
「喜多ちゃん、久しぶり! 待ってたよ〜」
虹夏だった。
「お久しぶりです。すみません、遅れちゃって」
「ううん、ぜんぜん。リョウもいまさっき来たとこだし」
「ああ、そうなんですか」
階下から、「そうだよー」とリョウの声が聞こえた。
「それで、ひとりちゃんは一緒?」
「あ、いえ……」
虹夏は喜多の後ろをのぞき込みながら言った。喜多は一往復だけ首を横に振って、
「その、いま来れない状態で」
「来れない?」
「はい、入院してるみたいでして……」
虹夏は目と口を同時に丸くした。
「にゅ、入院っ?」
はい、とまたうなずき、
「なんの病気なのか、どこか怪我したのかもわからないんですけど、それでぜんぜん連絡も取れない状態でして……」
「そ──そう、だったんだ……」
だから返信なかったのか、と虹夏がつぶやくのを聞いた。それから悲しそうに少し目を伏せたあと、すぐに彼女は顔を上げ、
「ま、まあ、とりあえず中はいって? 寒かったでしょ?」
「あ……はい。すみません」
扉を閉めて招き入れられる。暖房の温かさが心地よい。
階段をおりると、ホールではリョウがラウンドテーブルの前に座りながらスマホをいじっていた。声をかけようとする前に、彼女の首が喜多の方にめぐり、
「ひとりは大丈夫なの?」
上での会話は聞こえていたようだった。
喜多は難しい顔をつくって首を少しかしげて見せ、
「その、私にはなにも……」
「わからないの? 友だちなんでしょ?」
純粋な質問が突きささる。喜多は言葉が尽きた。たしかに友だちなのに、どうしてなにもわからないんだろうと自分でも思う。
後ろからぽすん、と虹夏が懲らしめの手刀をリョウの頭に柔らかくのせ、
「こら。イヤミな言い方しないっ」
「え。なにが、」
「いろいろと事情があるでしょ? 友だちだからとか関係なく。いまの言い方はよくないよ」
「ん……」と七割納得、一割反省、二割は「悪気はないのに」と不服さを残した顔になったリョウは、喜多に申し訳なさそうな目を向けてきて、
「あ、いえっ。大丈夫ですよ!」
謝罪の言葉が降りかかる前に、喜多は笑ってかぶりを振った。微妙な空気になるのは避けたい。
「それより、はやく練習しましょう? 時間もったいないですし」
この一声には二人とも十割同意した顔でうなずき、そのまま三人でスタジオに入った。何気に、こうしてバンドとしてちゃんと練習するのは初めてかもしれないと喜多は思った。
ギターケースをおろし、中からレスポールを取り出した。最近はあんまり触ってなかったから、こっちもご無沙汰な気がする。でもまあ大丈夫だろう、と軽く考えながらアンプに接続した。
おのおのが自分の楽器を軽く鳴らして、指も慣らしたあたりで虹夏が「一曲やろっか」と言った。
「なにやる?」
リョウが目線を投げ、
「簡単なの」
虹夏が答える。
「じゃあ、アレ。クリスマスライブでやったやつ」
「一曲目にやったやつ? いいね。──喜多ちゃんもいい?」
「ああ、はい──」
答えると同時に、喜多は「あっ」と思い出した。
「すみません、私、一人でギターできるか少し不安で……」
「あー、そういやあのときは喜多ちゃん、サイドギターだったっけ?」
「はい……なのでソロ部分とか、ほかの派手な演奏はちょっと……」
「見よう見まねでやってみなよ」とリョウ。
「で、できるでしょうか……?」
「わからないけど、チャレンジは大事。できなくてもいいし、できるようになれば儲けもん。ひとりの分を郁代が支えてあげられるようになれば、バンドの質も上がるよ」
「あっ……」
支える──その言葉に喜多の体の熱が上がった。
そうだ、と思い出す。自分がひとりを支えるんだ。自分はそういう演奏がしたかったんだった。
やってみようと思う。できる気もしてきた。もともと、あの日は自分一人で弾くつもりだったのだ。なにをどう弾けばいいのか、というのも指先の感覚に残っている。まったくの初挑戦というわけではないのだ。
「──やりますっ。やってみます!」
リョウがニッ、と口角を上げ、虹夏も「大丈夫かなあ」という表情ながら首肯した。
「それじゃあ──いくよ?」
虹夏が声を出す。それで、全員が自分たちの武器を構える。
喜多の指先はいま、自信に満ちている。ドラムスティックのカウントを今か今かと待ち受けている。
カウントが叩かれた。虹夏のドラム、リョウのベースが音を合わせ、すぐに一本のリズムの線に収斂していく。
喜多のレスポールもそこに合流する──。
──手のつけられなくなった演奏の乱れに、ついに喜多はピッキングの指を止めた。ギターの音がすっぽ抜け、スカスカで間抜けになった演奏は五秒もつづくことなく断たれ、最後に叩かれたシンバルの残響がぐわんぐわんとスタジオ内にこびりついた。
「喜多ちゃんっ! 途中でやめちゃ、」
「──すみません」
かぶせ気味に喜多は口を動かし、その場に膝をついた。正座の姿勢になり、ギターを抱え込むようにしてうずくまった。
「すみません、だめでした……」
「だ、だめでしたって……まだ一番が終わったばっかじゃん。これからまだまだ巻き返せるのに、なんで」
「虹夏」
リョウが手を挙げて虹夏の言葉をさえぎった。「自分が訊くから」とでも言うように無言で目線を送る。そして、喜多の前に同じように膝をつき、
「どこがだめだった?」
「……全部です」
吐き捨てるように言った。
「全部?」
「そうです。全部、だめでした。こんなの、ひとりちゃんの演奏じゃない……っ」
一拍置いて、
「郁代は郁代の演奏でいいじゃん。それじゃ、だめなの?」
「だめです……それじゃ、だめなんです……!」
「どうして?」
「ひとりちゃんをっ、」
声が裏返りながら、
「ひとりちゃんを支えるにはっ、ひとりちゃんの音じゃなきゃだめなんです……っ、私の音じゃっ、支えられないんです……っ」
わかっていたはずだ。
そう簡単に並べるはずがないのだ。
自分にはまだまだ足りないものがいっぱいあって、欠けてるものがたくさんあるのだ。
なのに、自分でもひとりの音が出せるなんて思ってしまった。あの豪快なストロークを、強烈なリフを、繊細なチョーキングを、自分の指先でも再現できるなんて簡単に考えてしまった。
それがこのザマだった。
音は汚らしく濁り、リズムはよじくれ、迫力なんてこれっぽっちもないニセモノの演奏しかできなかった。どれだけ歯を食いしばって必死にかき鳴らしても、本物の感覚なんてつかめやしなかった。
「負ける」とはこういうことなのだと喜多は思った。決して届かない、敵うはずのない相手を支えるだなんて大言壮語もはなはだしい。
身のほどを弁えるべきだった。
自分は、ひとりにはなれないのだ。
「郁代」
リョウが肩に手を置いてきた。けれど、それ以外に彼女はなにも語らなかった。虹夏も後ろで黙って見ているだけだった。
喜多は悔し泣きをしていた。
喜多は悲し泣きをしていた。
ひとりがこの場にいないことが、ひとりのいない場所でギターを弾くことが、いまになってとてつもなく淋しくて、心細いことなのだと気づいてしまった。
「ひとりちゃん……っ、ひとりちゃん……っ」
ボタボタと重たい涙がこぼれ落ちた。
どうしようもなかった。
あのクリスマスライブの日、彼女が自分を救ってくれたように、自分も彼女を救える存在になりたかった。
だけど、自分にはなんの力もないのだ。
自分では、ひとりを支えることなんてできないのだ。
彼女はどこにいるんだろう。どんな状態なんだろう。どれだけ辛い思いをしているんだろう。
なにもわからないのが、たまらなく悔しくて、悲しかった。