「──ねえ、大丈夫?」
天から降ってきた声に顔を上げると、見知った顔が珍しい表情で自分を見下ろしていた。さっつーの心配顔。年に一度、見られるかわからない顔。
「……大丈夫」
なにも考えずに答えて、また目線を落とす。
「いや、ウソつけ。めっちゃやつれてんじゃん、顔色悪いし。なんかあった?」
「……学年末テスト近いから」
「勉強疲れって? 冗談よしなよ。そんながんばるタイプじゃないでしょ」
さっつーには言われたくないなと思っていると、彼女は腰をかがめ、喜多の机にあごを乗せ、喜多の目をのぞき込みながら、
「本当は?」
喜多は口をつぐんだ。
言いたくないのではない。わからなかった。
ひとりがいないことへの不安。彼女の代わりになれない無力感。なにをどうすればいいのかわからない迷子のような感覚。
自分のいまの感情をどう言語化すればいいのかわからず、軽く途方に暮れていた。
けど、
「……友だちに、会えないの」
一番、感情の根っこになってる部分は言葉にして伝えられた。
「友だち? 誰? ──あ、」
さっつーは訊いておきながら「あ、待って」と言って、喜多の答えを食い止め、
「──もしかして、後藤?」
「……うん」
言い当てられたので素直にあごを引く。
「やっぱりな。なんか二組のやつ言ってたんだよなー、誰々が入院したーとか。そっか、あれ後藤のことだったんだ」
「……うん」
「てか、会えないって? 入院してる病院とかわかんないの?」
誰も知らないし、先生も教えてくれなかった、と喜多は伝えた。
「本人に直接訊いたりとかは?」
それもした。だけど応答がなかった、と伝えた。
「ええー、マジで。そら心配になるよな〜……」
「……うん」
さっつーの口調は相変わらず軽くて、真剣みを感じないが、自分に寄り添ってくれているのはたしかだった。
「まあでもさ、そんな落ち込むなよ? またすぐ会えるって」
「でも、もう一ヶ月なのよ? そんなに長い時間、入院するってことはすっごく重い病気なんじゃないの……? だとしたら……もしかしたら……もう来れないってことも……」
喜多は思いあまって、心の奥底にあった不安を引っ張り出してしまった。自分の言葉にショックを受けて顔を青くする。
「落ち着けって。それは……本当に最悪の場合でしょ?」
「最悪だったらどうしよう……」
「最悪なんて、そう簡単にゃ起こらんでしょうよ」
「起こっちゃったらどうしよう……」
呆れるようなため息。
「喜多ってさあ、そんなネガティブな人間だったっけ? もっと能天気で色々勢い任せな人種だったじゃん」
失礼ね、という顔で喜多は少し眉を寄せる。
「楽観的でいろとは言わんけどさ、もっと相手のこと信頼してやりなよ」
「信頼って……」
「好きなんでしょ? 後藤のこと」
「…………えっ」
いきなり。
喜多は石になったあと、すぐに今度はトマトになり、
「え、な、なんっなんでっ?」
「やっぱし。わっかりやすいな〜」
さっつーはニヤニヤ笑い、
「今までのこと考えりゃ、なんとなく察せるわ」
今までのこととは。
考える。
思い当たる節は──ある。たくさん。
さっつーにはよく、ひとりの話題を振ってはニヤニヤされていたし、スマホの壁紙を文化祭のときに撮ったひとりとのツーショットにしてるのを見られて、ニヤニヤからかわれたこともある。恥ずかしくなって、すぐに変えたらまたニヤニヤされた。「ひとりちゃん」と呼ぶようになったときも、真っ先にニヤニヤしてきた。
大ヒントもいいとこだ。自分だって気づくと思う。
喜多は手を揉み、どう答えればいいのか逡巡しながら、さっつーの顔を上目で見た。
もう一度、「で、好きなんでしょ?」と訊いてくる。
変わらないニヤケ顔。だけど、それが逆に安心できて、
こくん、と。
喜多は首を一回、縦に動かした。
それでさっつーは「やっと認めたよこいつ」って顔で長い息を吐いて、
「それなら待ってやりなよ。ちゃんと帰ってくるって信じてさ」
「帰って……くるよね?」
「だから〜、それを喜多が信じてやんの。わかった?」
喜多は長い時間をかけて、
「…………うん、わかった」
ようやくうなずけた。
「よしっ」とさっつーは立ち上がった。膝をたたいて、「そんじゃ、自販機おごってよね」
「えっ、なんで?」
「なんでって。相談料的な?」
「え、ええっ」
「ほら、立った立った。コンポタで手を打ってやるよ〜」
さっつーはどこまでもニヤけた顔で笑った。喜多も「もう」と言いながらようやく笑えて、席を立った。
そして、彼女の言葉どおり信じてみようと決めた。
ちゃんとまた会える。ひとりは必ず帰ってくる。
※
学年末考査も無事に生き延び、二月も下旬に入った。
鼻毛も凍るほど寒いのに体育は外でやるし、指定のジャージは薄生地だし、授業はマラソンである。
なんの冗談なのかと喜多は思う。
しかし、マラソンはべつに嫌いではない。走っていればそのうち終わるし、授業でやる距離も大したことないからだ。秀華高はなんだかんだ都会の学校で、都会の学校なんてもんは狭い敷地の中でなんとかやりくりしているものなのだ。トラック十周という、一見気の遠くなりそうな数字も校庭の窮屈さの前では意外とすんなりこなせてしまう。距離にしてみれば三キロにも満たない。
だから、その点に不満はなかった。
不満があるとすれば当然、寒さだ。
誤って爪を立てればスパッと皮膚の裂けそうなこの極寒さ加減には、さすがの喜多も文句を垂れたくなった。やい、多少はあったかくしてくれたっていいじゃない。冬だからって手を抜いて働いてたら、みんな脳みそまでカチコチになっちゃうわよ──そういうお天道様への異議申し立てが通るのであれば、いくらだって声を張り上げたいと思った。
そんなファンタジーをボヤボヤ考えているうちに時計塔が授業の終わりを告げ、完走している生徒たちからぞろぞろ昇降口に帰っていく。そこに喜多もならう。次は昼休みだからか、あれだけ走ったあとなのに生徒たちの足もたくましい。のしのし早歩きしている。きっと早く教室に帰って、つかの間の休息を享受したいのだ。
「──あっ、喜多!」
昇降口から声が聞こえてきた。さっつーだ。体操服を忘れたという理由で、マラソンを意図的に休んだと思われるさっつーが手を振っていた。
喜多は少し叱る口調になって、
「もう、いくら走るのがイヤだからって、」
「喜多っ、はやく! 保健室いって!」
急かす言葉にさえぎられる。必死な表情が喜多を保健室にうながしている。
「え、な、なに?」
「後藤っ! 後藤が保健室にいるっ!」
「えっ」
「はやく、急いで!」
喜多は頭も体も固まりかけたが、次の瞬間には下駄箱まで突っ走り、スニーカーを脱ぎ捨て、廊下を走り出した。さっつーも後ろを走って着いてくる。
「────っ」
無心で走っていた。ひとりの顔しか頭になかった。
三人で廊下を塞ぐように、ちんたら歩いていた女子生徒たちの間を紙っぺらのようにすり抜け、重い教材を運んでいる先生の横をギリギリで避け通り、ワックスのかけすぎでツルツルの床は、そのまま滑るように走った。
保健室に着き、
「──ひとりちゃんっ!」
勢いよく扉を開け放った。
が、
「…………あ、」
数秒遅れて、さっつーが来る。
「──いないっ?」
「…………うん、誰も」
中はもぬけの殻だった。先生もお昼休憩に入っているせいか、本当に誰一人いない。無人の空間に消毒の匂いだけが漂っている。
「そ、そっか……や、さっきまではいたんだよ、ほんとに。購買に行く途中、チラッと中のぞいたときに……」
いい訳するように、さっつーは喜多に向き直った。
だが、喜多は、
「うん、大丈夫……わかってるから」
さっつーがウソをつくはずない。体操服を忘れたと先生にホラは吹いても、友だち相手に悪意のある冗談をかましたりはしないのだ。
ひとりはここにいた──それは喜多の中で、確定的な事実となった。
会えなかったのは残念だが、彼女は学校には来たのだ。それは大きな前進だ。喜ばしいことに違いない。ひとりと会える日もそう遠くないはずなのだ。
「──でも、」
だけど、
「もっと、はやく来れば会えたのかな……」
本音を言えば、今すぐにでもひとりに会いたかった。
あれから毎日、喜多は保健室を訪れるようになった。
登校したときには教室よりも先に保健室をのぞきに行き、授業終わりの中休みや昼休み、放課後にも必ず足を運んだ。その間に、彼女と会うことはなかったが、保健室の先生に話を訊くと、どうやら本当にひとりは前にここに来たとのことだった。それだけで、喜多はどんな励ましや慰めの言葉よりも救われた気持ちになった。
いつか、本当に会えると思った。
そして。
そのときは、ある日突然やってきた。三月だった。
「──あ、ねえ。喜多ちゃーん」
帰りのHRも終わり、ギターケースを背負い込もうとしていたとき、二組の女子から呼ばれた。振り向くと廊下から手招きしていた。
喜多は一旦、手に取ったケースをおろしてパタパタと駆け寄り、
「どうしたの?」
「うんとね、さっきたまたま保健室行ったんだけど、」
「え、うん」
「中に──後藤さんっぽい人いてさ」
「──ほっ、」
喜多は息を大きく吸い込み、
「本当っ!?」
「う、うん。喜多ちゃん、後藤さんのこと探してるって、さっつーから聞いて……あ、でもあの子、本当に後藤さんなのか……いつもと雰囲気ちがかったっていうか、メガ──、」
「ありがとっ!」
ギュッと感謝の気持ちで手をにぎり、喜多はそのまま二組女子の横を通り抜けた。風のように駆け出す。
ひとりちゃん──っ!
ずっと待っていた。何日ぶりなのかも覚えていない。
話したいことが山ほどある。訊きたいことがうず高く積もっている。それを全部ぶつけてしまえば、ひとりは恐らくパンクしてしまうだろう。
でも、それくらい色々なものが溜まっていたのだ。
本当に、彼女に会いたかった。
それがついに今日、叶うのだ。喜多の足は廊下だろうが、階段だろうが、先生が見ていようが、構わず同じスピードで回りつづけた。
その足もついに速度をゆるめた。
保健室の前で止まる。
喜多は扉に手をかけた。少し緊張している。ゆっくり、ゆっくり、自分自身を焦らすように開けていった。
「っ!」
喜多は息をとめた。
そこには待ちわびていた光景があった。
日焼けが目立たないように黄色で統一されたカーテンは開け放れてその役目を放棄し、冬の頼りない日差しを部屋に招き入れている。
その光の水たまりの中に、彼女はまるで何年もそこに座っていたかのような横顔で、窓ぎわの藻だらけの水槽を遠い目で見つめていた。
ひとりが、ちゃんとそこにいた。
彼女は自分に気づいていない。白昼夢を見ているような表情のまま部屋中央の長椅子にぼんやりと座っている。
喜多は声も出せずに、彼女に歩み寄った。唇が震え、心臓がいつもの二倍も早く鼓動していた。
そして、
「〜〜〜〜〜っ!」
気持ちの方が声より早かった。ぬいぐるみを抱きしめるように、喜多はひとりの肩に両腕をまわした。
「ぅあっ!?」
ひとりが仰天した声を出す。ようやく他人の存在に気づいたようだった。体がビクッと跳ね上がり、同時にカタン、と彼女の顔からなにかが外れて床に落ちたが、喜多の耳には届かなかった。
会えた、やっと会えた──喜多は涙を溜めながら、つよくひとりを抱きしめた。信じて待っていたけれど、それでも心の中には、ひとりに二度と会えないのではないかという不安が燻っていた。
だけど、その心配はもうないのだ。
ひとりは帰ってきた。また会えたのだ。その実感をもっと感じたくて、さらにつよく抱きしめ──
「やっ……やめっ……!」
ひとりの両手が、喜多の腕をつかんだ。怯えるような震えがその手から喜多の体に伝わった。
「え……」
「やめっ……くだっ、さい……!」
やめてください──。間違いなく彼女はそう言った。
明らかな拒絶だった。
あわてて、ひとりから飛び退いた。いきなり抱きついたのはよくなかった。びっくりさせてしまったのかもしれない。つよく抱きついたから痛かったのかもしれない。
喜多は謝ろうと口を開いた。しかし、拒絶の言葉が想像以上に胸に突きささって、声を出したら泣いてしまいそうだった。
ひとりは体を震わせている。喜多は彼女の顔を正面から見た。ターコイズの瞳は自分を映している。それなのに、まったく知らない誰かを見ているような透明な目つきに思えた。
「あ、あの……ごめ……っ」
喜多は受けたショックを涙とともに飲み下し、謝罪の言葉を口にしかけた。しかし、ひとりは歯牙にもかけない様子で不安げに顔を下に向け、手のひらで自分の椅子のまわりをぺたぺた触り始めた。
「あれ……? あれっ、どこ……?」
なにかを探している、というのはすぐに理解した。
喜多も自分のまわりをキョロキョロ見回す。なにを探しているのかはわからないが、「どこ?」というからには、ついさっきまで手元にあったものに違いない。
「あ、」
そして、それらしきものはすぐに見つかった。ひとりの足元に落ちていた。
メガネだった。
なんで、とは思ったが、ひとまずひとりに向かって、
「もしかして、これ?」
「えっ!?」
ひとりが勢いよく顔を上げた。ひどく驚いた声色だった。なにをそんなにビックリしているのかと思いつつ、喜多はひとりの手をとって、メガネを握らせた。
「あっ……喜多さんだったんだ……」
ボソリとひとりがつぶやく。安心したような独りごと。それが喜多の背中に冷たい汗を流してきた。自分だと今まで気づかなかったのだろうか。
「え、えっと──久しぶりね……! こうして話すの」
ザワザワとした不安を胸の中に抱きつつ、喜多は会話を始めることにした。ひとりは「は、はい」と言いながらメガネをかけようとしたが、少し迷った表情になって、結局そのまま膝に置いた。
「さっ、最後に会ったの、いつでしたっけ……?」
ひとりは顔を伏せたまま言った。
「終業式の日よ。ほら、二人でクリスマスデートに行って……」
「あ、そ、そうでしたね……一日遅れの……」
ぎこちなく喜多は笑い、
「そうそう。おっきい餃子食べたり、プリクラ撮ったり……」
「はい……」
しん、と一瞬の間。
「その……ひとりちゃん」
まだ早いか。もう少し会話をしてから訊くべきか。
いや、もう訊きたい。早く彼女になにがあったのかを知りたい。
だから、
「──なにが、あったの?」
「……………………そ」
ひとりはその一文字だけを口にして、しばらく固まった。電源が切れたかのように、まばたき一つしない。顔もずっと伏せたままだ。
「……言えないこと、なの?」
質問の追加。今度は、一文字も発さない。
「ねえ、言えないの……?」
発さない。
「私、気になるの。ひとりちゃんになにがあったか……知りたいの……」
なにも言わない。
「私ね……? 本当にっ、すごく心配だったのよ……? 事故にあったんじゃないか、重い病気で苦しんでるんじゃないかって。不安で仕方なかったの……」
なにも。
「お願い……教えて? ひとりちゃんのこと、ちゃんとわかりたいの」
言わない。
「ねえ、」
無言。
「ひとりちゃん……っ」
無、
「どうして──こっちを見てくれないの……?」
「…………っ」
人形のように無機質だったひとりの様子に、少しだけ変化があった。両手の手のひらを拳に変え、スカートの裾をしわくちゃに握った。目を開いたあと細く閉じ、苦しそうに口元を歪めた。
それから数秒経って、
「すみません……っ」
重々しくひとりは口を開いた。が、
「…………言え、ないです」
「え……?」
「きっ喜多さんには……言えないです……っ」
「な、なんでっ? なんで私には言えないのっ?」
「だっ、だ、だって……それはっ、あのっ、」
ひとりは首を揺らしながら、
「──すみません……っ、い、言いたく、ないんです……っ」
それはある種、彼女の固い決心なのかもしれなかった。ほかの誰かには言えたとしても、自分には言えない秘密を彼女を持っている。
それはとても悲しい気がした。
信頼されていないんじゃないかと思えた。
喜多はひとりに体を寄せる。冷たい彼女の手を取って、つよく握った。小刻みに震えているのは自分の手なのか、ひとりの手なのかわからなかった。
喜多は、
「ね、聞いて……?」
俯いたままのひとりに呼びかける。
「あのね、実は来月、結束バンドでライブやろうって話になってて、」
「…………」
「ひとりちゃんがいないから、私、一人でがんばってギターやっててね? それで、まだまだ下手っぴだけど……ソロもぜんぜんまだまだなんだけど、がんばって、やってて……」
「…………」
「すっ少しくらいは、ひとりちゃんの演奏、支えられるようになったのよ……?」
ウソだ。でっちあげだ。
どれだけ練習しても、ひとりの演奏に近づくことなんてできなかった。支えられる演奏なんてできなかった。
だけど、
それでも、
「だからねっ、だから……私のこと、信じて……?」
「ぅ……」
「信じて、話して欲しいの」
「…………っ」
「ひとりちゃんが苦しんでるのなら、その苦しみを私にも……少しくらい分けて欲しいの」
「そっそれ、は、」
ひとりは、
さらに腰を丸めて、
「──無理です」
「…………なんで」
自分でも驚くくらい、冷徹な声が出た。
「どうして、無理なの」
「……め、迷惑を……かけたく、ないんです」
「迷惑なんて感じないっ」
喜多の頭にフツフツと血が煮えたぎってきた。
「私はっ、そんなっ、冷たい人間じゃないっ!」
ひとりの手首をつかみ、
「ねえ……なんでっ? 私たち、友だちじゃなかったの? なんでそんなに遠慮するのっ?」
ひとりは顔を歪める。しかし、答えてくれない。
「私は……友だちだって……ずっと、思ってたのに……!」
手首を離す。立ち上がった。
顔を見せないままのひとりを見下ろし、沸騰しそうな頭のまま、
「もういい……っ」
どこまでも勢い任せに、
「ぜ……ぜ、ぜっこう、だから……っ!」
ハッ、とひとりが顔を上げた。だが、それに気づかず喜多は扉に向かって歩き出した。これでもかというほど、子供っぽく床に足を叩きつけて歩いた。
取っ手に手をかけ、精いっぱい乱暴に出ていってやろうかと思った、
「まっ──待って!! 待ってくださいっ!!」
喜多は思わず体を跳ね上がらせた。声がかかること自体、期待はしていたから驚くことではなかった。だが、そこまで大きな声で呼び止められるとは思わなかった。
それも、あのひとりが。
まるで、グラウンドの端っこにいる友だちに向かって叫びかけるような声量で。
「ひとりち──」
「やだっ!! 行かないで……っ!! 待って、待って……!!」
弾けるように立ち上がったひとりは、なぜかベッドの方に向かって歩き出した。両手を前に突き出し、床の感触を確かめるかのように足をビクビクしながら前に進めた。
「あぅっ!!」
ひとりが痛みを受けた叫びを吐いた。ベッドの足に激しく膝をぶつけたらしかった。苦痛のうめきを上げてうずくまる。なのに、また立ち上がって今度は壁に向かって歩き出す。
ただ事じゃないと思い、喜多はひとりに歩み寄った。
「だ、大丈……」
「喜多さん……っ、ごめんなさいっ、ごめんなさい……!! 言うから……ちゃんと話すから……!! 待って……待ってください……っ!!」
扉なんてそこにはないのに。
ひとりは壁を手で触り、虚空の取っ手を探しながら、喜多を呼びつづけている。
喜多はもう察していた。
おそらくひとりは──目が見えていない。
だけど、それをまだ認めるのがこわくて、喜多はおそるおそるひとりに近づいた。壁にへばりついていた彼女は、やがてずるずると力を失ったように床に落ちていき、その場にへたり込んだ。
それから、
わあーっ、
ああーっ、
わあーっ、
ああーっ、
ひとりは天井を見上げ、小さな女の子のように泣き出した。泣きながら何度も繰り返した。
一人になるのはイヤだ、
そばにいて欲しい、
痛いのがイヤだ、
苦しいのもイヤだ、
普通に戻りたい、
真っ暗なのがこわい、
真っ赤なのもこわい、
──何度も、何度も繰り返した。
予感は当たっていたのだと思う。
少し離れたところに、彼女のメガネが転がっていた。立ち上がった拍子に落としてしまったのだろう。きっと、これがないと彼女はもうなにも見ることができないのかもしれない。
喜多は大事にメガネを拾い、今なお幼女のように泣くひとりの前でひざまづいて、
「…………ひとりちゃん」
ひとりの嗚咽が止まる。ぐるり、と体を反転させ、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を見せてきた。
「喜多……さん……っ」
「──ごめんなさい」
喜多はふたたび、ひとりの手にメガネを握らせて、
「絶交だなんてひどいこと言って……ただの脅しのつもりだったの。本当のことを聞き出したくて……だから、」
その瞬間、ひとりは突進するように喜多に抱きついてきた。制服に顔をうずめながら声を上げ、
「ごめんなさい……っ、私っ、私は……っ!!」
「ひとりちゃん……っ」
「私っ、目っ、目……っ、なにもっ、もうっ……!!」
絶望はそれだけで十分だった。
喜多は張り裂けそうな胸の中に、ひとりをギュッと抱き込んだ。察してはいたけど、彼女の口から事実を知ると目の前の景色が暗く歪んで見えた。
「あ、あの、ね……っ」
だけど、なにかを言わなければと思う。
彼女を安心させられる、彼女の支えになれる言葉──。
考えた。脳がちぎれてしまうくらいに考えた。
なのに、
「だ、大丈夫……大丈夫だから……」
そんな無責任な言葉しか出てきてくれない。