指先に銀河をのせて   作:夜のイロ

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夏の墓場

 消毒のにおいで目が覚めた。

 目線の先には白いトラバーチン模様の天井。

 視界を縁どるように囲むクリーム色のカーテン。

 遠くから聞こえるポコポコと酸素を送り出すエアーポンプの呼吸。

 そこは間違いなく、学校の保健室だった。自分はそこのベッドに寝ている。

 

「……あれ?」

 

 喜多は体を起き上がらせる。長いあいだ横になっていたせいか体はバキバキで、首が痛い。色々とぼんやりしているが、なんでここに、という思考だけは頭の中にある。

 

「あっ」

 横から誰かが気づいたような声をあげた。顔をのぞき込んでくる。

「喜多さん、大丈夫ですか?」

「…………ひとりちゃん?」

 

 ひとりが不安げに瞳を揺らしながら、喜多を見ていた。

 

「え……? 大丈夫って、なにが……?」

「えっ、おっ、覚えてないんですか?」

「…………なにも」

「さ、さっき、体育の授業のとき、倒れちゃったんですよ。保健の先生は貧血って言ってました」

 喜多は自分の体を見る。体操服を着ていた。

「体育……貧血……?」

「あ、安静にしてなさいとも言ってましたので。もうちょっとだけ寝てても大丈夫ですよ」

 そう言って、ひとりはベッド脇の椅子に腰をおろした。おだやかな表情になった。

「そっか……そうだったっけ」

 喜多はそこでふと思い、

「あの……ひとりちゃん。目は……?」

「へ? 目……?」

「目は……あの、目……なにも、変じゃないの……?」

 ひとりは質問の意図を汲みかねたように、眉を困った形にさせ、

「えっと……なにも、変じゃないですよ……?」

「あ、そ、そっか……」

 

 喜多はふたたび天井に目を向けた。

 なんの面白みもない白いだけの天井を、穴が空くようにジッと見つめる。

 そして「そうか」ともう一度、口の中でつぶやき、

 

「……ぜんぶ、夢だったんだ……」

 

 ホッと息を吐いた。それから力尽きたように、喜多はベッドに体を倒れ込ませた。

 そうだ。ぜんぶ、ぜんぶ夢だったのだ。

 おかしいと思った。ひとりの目が見えなくなるなんて、そんなことありっこない。

 いまが現実で、いまが本当の世界なのだ。

 悲しいことも、辛いことも、苦しいことも、すべて存在しない世界の記憶だったのだ。

 よかった──喜多は心からそう思った。

 すると、体中の力が抜けて、次に涙があふれてきた。視界がモザイクがかり、両目に熱が集まってくる。仰向けの状態から、涙がポロポロと横に流れ落ちていき、枕にシミができてしまう。

 

「きっ、喜多さん……!?」

 喜多の様子に気づいて、ひとりはあわてた様子で声をかけてきた。

「どっ、どうして……泣いてるんですか……?」

「わた、し……すごくっ、」

 喜多はしゃくり上げながら、

「すごくっ、こ、こわいっ夢をっ、みてて……っ、か、悲しい夢をっ、みちゃって……っ」

「そ、そう……でしたか」

「ひとりちゃんは……っ、どこにもっ、行かないわよね……?」

 ひとりに手をのばす。

「ずっと、ずっと……そばにっ、いてくれるよね……?」

 ひとりは困惑しながらもその手をにぎり、

「だ、大丈夫ですよ。ずっと、そばにいます」

「ほん、とう……?」

「は、はい、本当です。そばにいますから。信じてください」

「そ、っか……うん……」

 喜多はようやく安心して、ほほえみを作った。

「……よかっ、た……っ」

 

 そして、目を閉じた。

 つながれた手にはひとりの温もりがある。大好きな人の体温を感じる。

 喜多はそれだけでいいと思った。ひとりがいればいい。それだけでいい。ほかにはなにも要らない。ひとりがこの手をにぎってくれるなら、たとえ世界の終わりがきたって、なにもこわくなかった。

 喜多は鼻をすすりながら、ひとりの手を自分の頬に当てた。たしかな幸せを顔に感じた。

 

「あっ、喜多さん」

 ひとりが思いついたような声をあげ、

「あの、よければ……いまから、海に行きませんか?」

「……え?」

 目を開け、ひとりを見上げる。

 海? 急になにを言い出すんだろうと思う。

「せ、せっかく今日で夏も終わりですし、二人で行きたいんです」

「夏……」

 いまは夏だっただろうか。言われればそんな気もするし、そうに違いないと脳が信じさせてくる。

「いや、ですか……?」

 ひとりが不安そうに訊ねてくるので、

「ううん。いく」

 喜多は疑問をすべて頭から追っ払って、みじかく答えた。

「海、いきたい」

「じゃあ、いきましょう」

 

 喜多の手を引いて起き上がらせ、ひとりは歩き出す。喜多はひとりに導かれながら彼女の後ろを歩く。

 保健室の扉に彼女は手をかける。ガラリと開かれると、その先は廊下ではなく、白い光に包まれていた。

 喜多は眩しさに思わず目を閉じる。

 そのとき、夏のにおいが鼻を刺激した。

 海のにおいだと思った。

 

「──着きましたよ」

 

 ひとりが言った。おそるおそる目を開けると、喜多は砂浜に立っていた。キョロキョロと周りを見渡す。本当にそこは海だった。沈むような砂の柔らかさ、暴力的な風のつよさ、水平線の向こうには太陽が海面に触れるか触れないかという高さまで落ちていて、海全体は活発な火山活動をしているかのように、赤く波打っている。

 

「──きれい」

 複雑な光景を、喜多はたった一言で済ませた。しかし、これ以上の感想はない。

「来てよかったですか?」

「うん」

「それじゃあ」とひとりは言って、「ギター、弾きませんか?」

「えっ? ギター?」

「は、はい……」

 自分でもおかしいことを言っている自覚はあるようで、ひとりは照れくさそうに笑った。

「その……海辺でギター弾くの、ちょっと憧れてたんです」

「あ、なんかわかるかも」

 

 喜多も笑った。笑いながら、いつのまにか背中にあったギターケースを砂浜に置いて、中からレスポールを取り出す。ひとりも同様にギグバックからギターを持ち上げて、構えた。

 

「いっ、一緒に弾きましょう」

「うん!」

 

 そして、二人で砂浜に腰をおろし、ギターをかき鳴らし始めた。

 いつまでも、いつまでも飽きることなく鳴らしつづけた。

 波の音なんか目じゃなくて。風の邪魔なんか気にならなくて。自分はギターを弾くために生まれてきたのではないかと考えながら、弦を弾きつづける。

 しばらくすると、ひとりがふいに演奏を止めて、自分だけが鳴らしていることに気づいた。喜多も一旦手を止めて「どうしたの?」と訊ねると、

 

「──喜多さんは、ギター好きですか?」

「え、急になに?」

 笑って訊き返す。ひとりも少し笑うが、その質問を取り下げようとはしない。

「いえ、ちょっと気になっただけで」

 そして、もう一度。

「ギター、好きですか?」

「えー。うーん、そうねえ……」

 喜多はあごに手を当てて、自分にとって一番しっくりくる答えを探す。

 そして、

「好きか嫌いかで言えば、私は──」

 

 

 ────────────

 

 

「──あっ、」

 

 それは何度目の停車だっただろうか。

 京急線の急行電車がどこかの駅に到着し、一定の揺れが途切れると同時に、喜多の意識は現実にもどってきた。少しのあいだ眠っていたらしい。

 背もたれにあずけていた頭を持ち上げる。少し首が痛い。そんな感覚を夢の中でも味わったような気もするが、内容はもう覚えていなかった。

 なぜか目に溜まっていた涙を手の甲で拭い、いまだ覚醒しきれない意識をギュッと力強いまばたきで呼び起こす。

 ようやくハッキリしてきた視界に車内ビジョンを映すと、能見台まできていた。金沢八景まではあと二駅だ。

 ポッケからスマホを取り出す。開くと、液晶には母からの鬼ロインがごっそりポップされて、最新のものをタップすると、これまで送られてきたメッセージが滝のように縦長に表示された。「不在着信」の形跡もいくつかある。

 やっぱり『好きな人に会ってくる』はまずかったかもしれない。お堅い母のことだから、気になって仕方がないのだろう。あとで色々くどくど訊かれる未来が目に浮かんだ。

 軽く後悔しつつ、喜多はひとりとのチャット欄をのぞいた。こちらはまったく反応がなかった。既読もついていない。

 画面を閉じる。スターリーで生まれた喪失感が、胸の中でとぐろを巻いている。心臓がぎゅう、と絞られたように痛い。

 金沢文庫に着いて、電車が停まった。もうここでおりてしまおうかと思ったが、我慢した。あと一駅だ。

 あと一駅で、ひとりの地元に着く。

 

 

 

 

 駅に到着した喜多は、まずどうしようかと思った。

 ひとりの家の場所を知らなかった。

 なにをやっているんだと自責しつつも、なんとなくの場所ならわかるのよ、と自分に言い訳した。去年の夏休み、ひとりと遊んだときに「うちはこの辺なんです」というようなことを聞いていたのだ。それは駅から十分ほど歩いたところにある住宅街だ。それだけわかっていても仕方ないのだが、ひとまずそこまで目指そうと足を送り出した。

 店の並びも快活な道を歩く。ひどく冷たい夜になっていた。朝のテレビで、夜にかけて関東でも雪が降る可能性があると予報士が言っていたのを喜多はいま思い出した。よもや三月に雪なんて降るまいとは考えながらも、この寒波を身に感じると白い幻がすぐにでも見えそうな気がした。

 少しして、車の通りもおだやかな道に入った。住宅街特有の香りがしてくる。おもに、夕飯のにおいだ。賑やかな生活の明かりが、外灯なんてお役御免とばかりに道を照らしている。

 喜多に考えなんてない。

 住宅街にきたら、しらみ潰しに表札を見てまわろうと思っていた。「後藤」という文字を見かけたら、インターホンを押して、「後藤ひとりさんはいますか?」と訊ねるのだ。そんなもの不審者行為以外のなにものでもないのだが、喜多はそれしか方法はないと考えて表札めぐりを開始した。

 が、「後藤」なんてさして珍しい苗字でもないのに、意外と見つからなかった。そうそう簡単に見つかってしまっても人違いの可能性が高いので困るのだが、まったく見つからないというのも途方に暮れそうになる。表札のない家も割とあるし、そこがひとりの家だったらどうしようと不安になったりもした。

 

 四十分が経過しようとしていた。

 

 残りの家はごまんと残っているのに、喜多のほうは限界に近かった。精神力も耐寒力も底を尽きかけている。手袋をはめて、マフラーも装着したが、その程度の装備ではもはやなんの慰めにもならなくなっていた。

 スマホを開く。ひとりに反応があったかをたしかめようとする。相変わらず母からのロインはつづいているが、ひとりはウンともスンとも言わない。未読のままの不在着信の履歴が寂しげに残っている。

 喜多はしだいに心細くなってきた。知らない場所を寄るべなくさまよう虚しさで、心まで凍えそうになる。ひとりに会える希望だけを燃料にしてやってきたのに、その足あとすら辿れないことが自分の無力さを煽ってくる。

 自分はなんの役にも立てないのだと、また自覚してしまいそうになる。

 喜多は天を仰いだ。唇をかみしめ、くしくしと目元に込み上げてきそうなものを腕で拭った。

 ──まだだ。

 まだ、弱気になるな。がんばって。もう少しだけがんばってみようか。

 自分を励まし、自分を奮い立たせ、喜多はまた歩き出した。ひとりに会って、彼女から話を聞くまで帰らないぞと、いま一度つよく心に聞かせた。

 その甲斐を神様が拾ってくれたのか、数分と経たないうちに、喜多の目に嬉しい文字が飛び込んできた。

 

 

『後藤』

 

 

「──ひとりちゃん」

 

 思わず声が出た。急いで駆け寄る。

 表札が紹介しているのは普通の一軒家だった。本当になんの変哲もない家だ。しかし、それこそがあのひとりの地味っぽさを醸しているようにも見えて、喜多は期待を膨らませた。

 が、

 

「……電気、ついてない」

 

 もうスマホの時刻は午後七時を過ぎているのに、中からは明かりの一つも見えなかった。どう見たって留守に違いない。

 ようやく見えた希望が無慈悲に摘み取られた気分になる。だが、なにもせずに他の「後藤」をまた探しにいくのも気が遠くなりそうだったので、せめてインターホンくらいは押していこうと思った。

 玄関の扉に近づく。そろそろと呼び出しボタンを押して、応答を待つ。ブツッ、と音が鳴って、「はーい?」という声が聞こえてくるのを待ちつづける。

 ……しかし、

 

「……やっぱりだめね」

 

 数分ほど待機して。それから、もう一度インターホンを鳴らしてみたが、やはり中から人の気配はしてこなかった。悄然と肩を落とす。白い息が洩れた。

 喜多は踵を返す。次の「後藤」は何件目になるのかと白目を剥きたくなることを考えながら、玄関から離れようとする。と、

 

 そこでバッタリ、人と出くわした。

 たくさんの買い物袋を持った三人の家族が門から入ってきた。

 

「えっ」と。どちらも四十前半くらいに見える夫婦と、喜多の三人が同時に声をあげた。そして、父親に抱きかかえられている小学校低学年くらいの女の子が喜多を見て、

 

「どろぼー?」

「ち、ちがいますっ!」

 降伏するように喜多は両手をあげ、必死にかぶりを振った。

 父親らしき男が、

「あのぉ……うちになにか?」

「あ、あの私は……」

 喜多が身分を明かす前に、今度は母親らしき女が、

「あれ……? もしかして、秀華高校の人?」

 喜多の制服を見て、訊ねてきた。

「は──はいっ、そうです!」

「ああ、やっぱり。うちの娘も同じとこいってるのよ〜。まだ一年生でね?」

「えっ、あ……そ、それって、」

 喜多は目を見開き、

「ひとりちゃ──後藤ひとりさん、ですか?」

 二人が同時にうなずいた。

 やった──喜多は胸の内で快哉を叫んだ。ようやく見つけられた。やっぱりこの家だったのだ。

「あ、あの! 私、ひとり……さんの友だちで喜多と申します。えと、いつもひとりさんにはお世話になってまして。その、」

 ああ、と父親が納得の色を含んだ声を出して、

「きみが喜多さんかぁ。いや、ひとりからよく話は聞いてるよ。こちらこそ、いつも娘と仲良くしてくれてありがとう」

 もう一人の娘を抱きかかえながら、父親は頭を下げた。ひとりの父親にしては、ずいぶん常識的というか、両親ともに普通だな、と喜多は思う。

「いえ、私のほうこそ……」

 喜多も頭を下げつつ、はやく本題に入ろうと、

「あの……ひとりさんはいらっしゃいますか……?」

 この場には見えない、ひとりの所在を訊ねた。

「私、ひとりさんとお話ししたいことがありまして……あの、彼女の目のことは知ってます。だから、あまりお時間も取りませんし、ちょこっとだけ話を聞きたくて……!」

「あ、ああ……」

 

 両親の顔が同時に曇る。母親が横目で夫を見て、小さくうなずくのを見た。それを確認したひとりの父は、精いっぱい強がるような笑みを浮かべて、

 

「いやあ……その、ね? ひとりには、申し訳ないけど会わせられないんだ」

「え……?」

「ああ、喜多さんだからってわけじゃないんだよ? その、ひとりは……いま、」

 口元の笑みが少しだけひくつく。

「いま──、入院してるんだ」

「え、にゅ、入院って……前にも、してたんじゃ……?」

「それはひとりから聞いたのかな? うん、そうなんだ。前にも入院して、リハビリとか色々やって、それでようやく日常生活にもなんとか戻れてきていたんだけど……けど、」

 もうほとんど、笑みは消えてしまって、

「昨日の夜、メガネをかけても左目が見えない(・・・・・・・・・・・・・・・)って──」

「…………ぇ」

「ちょっと! それは……!」

 

 ひとりの母親に腕を小突かれて、ハッと我に返った父親がそこで言葉をやめた。言ってはいけない言葉を口にしてしまったような顔になった。そして、あわてて誤魔化しの咳払いをした。

 しかし、喜多の耳にはいまの言葉が何度も反響していた。つよく、つよく脳を揺らしてくる。

 

「あ、あの……っ」

「──ごめんね、喜多さん。せっかくきてくれたのに」

 

 ひとりの父親は、強がりの笑みを作り直し、話をまとめにきた。その顔は、もうなにを訊かれてもこれ以上の情報は提供しないという決意に満ちて見えた。

 

「なにか伝言があるなら、僕からひとりに伝えておくよ」

「あ……い、いえ……大丈夫です」

 喜多は愛想笑いなんてとっくに忘れて、能面のような表情でかぶりを振った。頭の中が得体の知れないなにかでいっぱいだった。

「喜多さん、夜まだだったら、よかったらうちで食べてく?」

 ひとりの母親は、気遣うように言った。父親もその言葉に同意し、うなずいている。

「あっ……いえ! 私、すみません……これで失礼します……すみません……」

 ちゃんと日本語になっているのか心配になりながら、喜多は三人の家族の横を会釈をして通りすぎた。そして、門の前で立ち止まり、

「ひ、一つだけ……教えてくれませんか……?」

「……なに?」

 父親が喜多に向き直る。

「ひとりちゃんは……っ、大丈夫なんですよね……?」

 その質問に、一瞬、両親の顔がぐらりと歪んだのを喜多は見た。しかし、すぐに優しいほほえみになり、

 

「うん」と。

 

 その二文字だけで答えてきた。喜多が望んでいた「大丈夫」という言葉は、いくら待っても返してくれなかった。

 

 

 

 ※

 

 

 

 ──もう、いやだ

 

 

 電車に乗る。

 

 

 ──もう、これ以上は

 

 

 駅をおりる。

 

 

 ──これ以上は、耐えられない

 

 

 気がつくと、喜多の耳には波の音が聴こえていた。

 夏のにおい。海のにおいだとわかった。

 少しだけ走る。

 道になっていない道を抜けて、喜多は芝生の地面から砂浜におり立つ。明かりなんて微塵もなくて、人なんて影の一つも見えなくて、自分だけを残して世界がちがう場所にいってしまったかのようだった。

 しかし、ここにはひとりとの思い出がある。去年の夏休み最終日、ここで過ごした彼女との記憶がある。それは間違いなく存在しているはずだった。

 それを信じてやってきた。

 せめてその思い出にしがみつきたくて、喜多はここまできた。

 なのに──、

 喜多は砂浜を見渡した。

 砂に埋もれて海水を詰められたラムネの瓶が、

 サメにかじられたように穴のあいた浮き輪の死骸が、

 ぺしゃんこにつぶれたかき氷のポリカップが、

 マナー違反どもが後始末せずに残した花火の残骸が、

 かつては夏の主役として、脚光を浴びていたそれら夏の風物詩たちが、砂浜に無惨に棄てられていた。

 

 まるで、夏の墓場だった。

 

 思い出なんて優しい言葉では拾われない、夏に生きた証たちしかそこには存在しなかった。

 

「…………っ、……っ、」

 

 喜多は胸をおさえた。痛くてたまらなかった。

 やることなすこと全てを誰かに否定されているようだった。心が傷ついて壊れてしまいそうだった。

 もうここには思い出なんてなかった。ひとりと過ごしたあの時間も、夏の風物詩たちと一緒にここに埋葬されているのだと思った。

 喜多は重たいカバンを砂浜に落とした。マフラーも手袋もはずした。それから靴下もローファーもかなぐり捨てて、素足のまま海に向かって走り出した。雪のように冷たい砂で、あっという間に足の裏の感覚は死んで、開かなくなった足先が砂のくぼみに食われて転んだ。

 

「つっ!」

 

 ゴツ、と。背中のギターケースが転んだ拍子に喜多の頭に勢いよく叩きつけられる。痛みと悲しみと苛立ちで狂ったように喜多は声を上げ、ギターケースをはずして乱暴に砂浜に投げ捨てた。

 顔は涙と鼻水でぬれて、砂がまだくっついている。口の中には「ジャリッ」とした砂の感触がある。そんなのもぜんぶどうでもよくて、喜多は海に向かって走りつづける。

 

 ──ぅあああああっ、ああぁああっ、ああああっ!!

 

 自分の怒りを、ひとりの苦しみを、この世の全てに知らしめてやりたかった。呑気に暮らす幸せな人類たちにわからせてやりたかった。

 喜多は無我夢中で海に入った。海面に思い切り拳を叩きつけ、叫びながら海底の砂をつかんでは遠くに投げつける。氷水とほとんど変わらない水温で、皮膚の感覚がどんどん薄れていく。仕返しだと言わんばかりに、墨汁のような黒い海水が顔にかぶってきて、息ができなくなる。

 それでも構わなかった。

 死ぬのなんてなにも怖くなかった。

 ひとりがいなくなることのほうが、何倍も、何千倍も怖くて仕方なかった。

 

 ──あっ

 

 あるところまで進むと、急激に深さが増した。足が滑って、喜多は頭の先まで一気に海水に浸かった。死ぬほど冷たい水が全身の体温を奪いにくる。浮き上がろうとする。しかし、それを荒ぶる波の嫌がらせが阻んでくる。

 空気が泡となって口から逃げていく。呼吸ができない。海水が肺に潜り込んでくる。水中で吐き出す。そしてまた飲む。体が凍える。手足が動かない。

 喜多は必死にもがいた。黒い水面に向かって手を伸ばした。

 やっぱり死にたくない──そう思った。

 そして、少しのあいだ気を失った気がして、

 目を開けると、漂流した海藻のように波打ちぎわまで流されていた。もう立ち上がる気力も希望もないのに、運悪く人間として生まれてきてしまった以上、立ち上がるしかなかった。

 死体と変わらない体温で喜多は震えながら顔を上げると、目の前の物体に気がついた。

 ギターケースだった。

 あんなに乱暴に投げたのに、投げられた本人は痛くも痒くもない様子で、時おり涼しげに波を浴びては気持ちよさそうに揺れていた。

 それがとても──憎たらしく見えた。

 喜多はギターケースをつかみ、中からレスポールを引っつかんだ。膝の上にのせ、その顔を見下ろした。

 

「──こんなもの……始めなきゃよかった……っ」

 

 明確な悪役が欲しかった。

 いまの喜多には、神様も天使も要らなかった。どうしようもない怒りと悲しみのかたまりを遠慮なくぶつけられる対象が欲しかった。

 だから、ギターのせいにしようと思った。

 そうだ、ぜんぶギターが悪いのだ。こんなものを始めたせいで、空のギターケースを持ち歩くことになって。教室に忘れて取りに行って。校舎から流れてくるギターの音に興味を持ってしまって。ひとりと出会ってしまって。友だちになってしまって。彼女を好きになってしまって。彼女の苦しみが自分の苦しみに変換されるようになってしまって。

 それらはぜんぶ、ギターのせいに違いなかった。

 それで、終わらせたかった。

 

 

『好きか嫌いかで言えば、私は──』

 

 

「──ギターなんて……だいっきらい……っ!」

 

 それを結論にして、喜多はギターのネックを両手で握りしめた。逆さまに持ち上げて、大きく振りかぶった。砂浜に思いっきし叩きつけてやる──そう思ったとき、

 

 なぜか、ひとりの顔が浮かんできて。

 喜多は、

 

「…………っ、ぅ…………っ!」

 

 両手に集中していた力がゆるんできてしまった。

 涙があふれてきて、なんでもいいから頼りたくなって、

 喜多は、振りかぶっていたギターをおろして胸に抱きしめた。

 

「ひとり……ちゃん……ぅっ……!」

 

 うつむきながらギターを抱く。喜多の頭上には雪が降り始めている。

 黒い海水に足を洗われながら、体温を今なお奪う凶悪な風に吹かれながら、厚い雲の上に輝く銀河の下で、冷たい雪に震えながら、愛する人の名前をつぶやきながら喜多は泣いた。そして願った。

 この恋が報われなくたっていい。もうそばにいて欲しいなんて贅沢は言わない。二度と会えなくたって構わない。

 だから、少しでもひとりに幸せになって欲しかった。

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