実は、昨日の放課後の出会いは夢か幻だったんじゃないか。
頬杖をつき、教室の黒板の上の右端の角っこを一点に見つめながら、喜多はそんなことを考えていた。
誰もいない夕暮れの校舎の中、
微かに聞こえてくるギターの音を頼りに歩いて、
向かった先には自分好みの顔の女の子がいて、
話しかけたら煙のように消えてしまって──。
思い返せば、なかなかドラマチックで。というか妙に物語じみてて、ううーんと喜多は頭皮を揉んだ。
こんな話、誰かに話したところで「なんか面白そうだね」としか返ってこない気がする。自分だってそうだ。こんな話を聞かされたら、たぶんドラマかなんかの話だと思って同じことを言うだろう。
それに、あの子はたぶん自分と同じ一年生だ。上履きの色が同じだった。入学から三ヶ月も経って名前も顔も、ましてやギターが弾けるという女の子を自分が知らなかったとは考えにくい。そういう点も含めて、やっぱり現実味がうすい。
きっとギターケースを忘れたことへの重度の緊張やストレス。それらが無事にケースを回収できたことで緩み、一気に心が元の状態に戻ろうとした結果、あんな幻覚を見てしまったのだと喜多は推理する。極限まで引っ張られたゴムが縮むことで凄まじい衝撃が起こるように、緊張から安堵への急速な感情の移り変わりが一時的に精神を不安定にさせてしまったんだと。
うん。それっぽいな、と思う。
とはいえ、幻覚にしてはハッキリしてたし、あの後の記憶もハッキリしてる。女の子の顔を見たときの衝撃と感動もしっかり感覚に刻まれている。現実だったんじゃないかという線も自分の中で根強い。
一体全体、正解はどっちなのか。喜多はため息を吐きつつ、黒板の右端から左端へと視線を移す。すると、窓際の席で自分を見つめる女子が視界に入った。
「……なあに?」と笑いかける。
「や、なんかボケーッとしてるからさ。考えごと邪魔しちゃ悪いかなって」
言いつつ、佐々木次子──さっつーは喜多の前の席に移動してきた。
「べつに考えごとってほどじゃないわよ。ただ、どっちなのかなーって」
「なにが?」
「夢か現実か」
さっつーは片眉をつりあげ、
「さっぱりわからん」
「そうよね。私もわからない」
「いや、あんたの話がよ」続けて、「なんかあったん?」とさっつーが踏み込んでくる。
喜多はしばし思案してから、
「さっつーならまあ……いっか」
ということで、彼女にも昨日の出来事を打ち明けることにした。さっつーとは長い付き合いなのだ。たとえ真相がわからなくても、同じ悩みを共有してくれるだけでこれほど心強い味方はいない、
「──てかそれ、二組のゴトウじゃない?」
と思ってたらいきなり真相っぽいのにたどり着いた。幻覚説はさっそく否定された。
「ゴ、トウ……?」
「ピンクっぽい長い髪で、色白で、ギター持ってる女子っつったら、たぶんその人だと思う」
「ゴトウ……後藤……?」
頭の中でそれらしき漢字に変換できた。しかし、やっぱりその名前に聞き覚えはない。
「その子……ええと、後藤さん? って、もしかして転校生?」
「いや、ふつうに私らと同じここ入学だよ」
「うそっ。やだ、ぜんぜん知らなかった……」
「まあ、うちも最近知ったんだけど。てか、おととい二組のやつから聞いたばっかだし」
ケラッ、とさっつーは笑う。
「そ、そうなの? なんでそんなにその子は……その」
影がうすい──という言葉しか思い浮かばなくて、喜多は口ごもった。それでも、さっつーは察したように「ああ」と言って、
「なんかね、つい最近ようやく学校に復帰できたんだってさ」
「え、復帰?」
そう、とさっつーは頷いて、
「これも二組のやつ情報なんだけど、入学式の日に
「ええっ」
思わず身を乗り出した。
「え、それ……大丈夫だったのっ?」
「さあ。わかんないけど、復帰できたんだから大丈夫なんじゃない? 知らんけど」
「そう……」
交友はないけど、そういう情報を聞いてしまうとちょっと落ち込む。事故のことも不憫に思うし、高校生活しょっぱなから出鼻を挫かれたんじゃ友達だってろくにできていないのではと考えてしまう。
昨日の彼女を思い出す。一人でうす暗いスペースで寂しそうにギターを弾くあの子。どうひいき目に見ても、交友関係になにも問題ございません、というふうには見えなかった。
「かわいそう……」ふと口に出た。
「ん、なにが?」
「だって、入学式の日から今までずっと学校に来れなかったんでしょ? それじゃ、なかなかみんなと馴染めないんじゃないかなって」
「まあーね。出来あがった輪に入るのってコミュ力ないと厳しそう」
コミュ力。その言葉とあの子を頭の中で繋げようとしてみる。
──三秒で無理だと悟った。昨日の様子を見るに、コミュニケーション能力はお世辞にも高いとは思えない。
「……たしかに難しそうね」
諦めの息を吐く。
「なに、そんなに心配なの?」
「うーん。なんか、放っておけなさそうな感じなのよ」
「とかいって、本当は顔が好みなんでしょ〜?」
「そうなのよ」
「否定しなよ」
「いや、もちろんそれもあるけど、それだけじゃなくて。こう、守ってあげたくなるようなオーラがあったっていうか……わかる?」
「わからん」
面倒くさそうにさっつーは目を細めた。
「てか、そんならもう喜多が友達になってやりゃいいじゃん」
「それは……もちろん、なれたらいいんだけど」
「けど?」
「私、あんまりああいうタイプの子とお話ししたことなくて。どういう話題なら盛り上がるのかわからなくて……」
「いやいや」とさっつーは笑ってかぶりを振った。「すんごいわかりやすい共通の話題があるじゃん」
「え、なに?」
「ギ、タ、ァ。喜多もやってんだから、話合うんじゃない?」
「あ、ああ……そ、そうね……! たしかに……」
両手を合わせ、「なるほど!」という表情を作った裏で、いやに冷たい汗が流れた。
その直後に、チャイムが鳴り出した。「んじゃ」と予鈴の音とともにさっつーは元の席に戻り、廊下にいたクラスメイトたちも五月雨式に自分の席に帰っていく。
喜多はふたたび黒板の上の右端の角っこを一点に見つめ、大きく重い息を吐き出した。重たい荷物を背負ってしまった気分だった。
それにしても。
後藤さん……後藤……だれさん?
下の名前はなんなんだろう、と思ったところで先生が入ってきて「起立」の号令に遅れた。