熱で四日間は寝込んで、一年分は怒られた。
母からのロインを放置しつづけた結果、両親が捜索にやってきた。スマホのGPS信号をたよりに、わざわざ金沢まで車を走らせてきたのだ。そして、砂浜で座り込んでいるところを喜多は二人に発見された。凍死寸前まで冷たくなっていた我が子を見たときの母の顔たるや、その昔、お気に入りのカーペットに喜多がココアをぶっこぼしたとき以来の絶望さ具合だった。
そんな顔でも母はしっかりしていて、喜多を迅速に回収し、車内のブランケットでミノムシ状態にして包み込み、自宅に着くまでつよく抱きしめてくれた。それが本当に温かくて、心地よくて。親鳥はこうやって卵を温めるのかな、と呑気に考えていたことを喜多はおぼろげながら覚えている。
ただ、優しかった母はそこまでで、家に着くとヤマンバに変身した。もともと吊り気味だった目尻はギリッとそり立ち、柳眉を逆立て、歯は剥き出しに、喜多がどれだけ親に心配をかけ、バカなことをしたのかを論理的かつ感情的にまくし立てた。父も最初は叱ろうという気配を見せてはいたが、娘のあまりのキレられっぷりに同情したみたいで、「まあまあ」とフォロー側にまわってくれた。ありがたかった。
ひどい風邪を引いてしまったものの、病院までは行かずに済んだ。こんな体でもやたらと食欲はあったからだ。父の作ってくれたたまご粥をお代わりして、「調子にのらないの」とまた母に叱られた。なにはともあれ、頑丈な体に産んでくれた両親には感謝しなければならない。
四日も経つと調子もすっかり戻ってきて、クリーニングに出していた喜多の制服も返ってきた。翌日には登校できることになったが、行きたくないなと少し思った。いつものように心に力が入らない気がした。
それでも、もうさすがに両親に世話はかけまいと、次の朝にはいつも通りの時間帯に喜多は家を出た。
「いってきます」
「──あっ、喜多がきた」
教室のドアを開けると、ギャグで言ったのか意識せずに口から出たのかわからないセリフで、さっつーが出迎えてくれた。多少は心配の気持ちがあるのか、ニヤニヤ顔も今日はやや控えめだった。
「風邪引いたんだって? 意外だよね、喜多はアホの子だと思ってたのに」
「バカでもアホでも風邪くらい引くわよ……」
拗ねたフリをしながら喜多は席につく。なんだかんだ、さっつーとの軽口は気が楽になれるからいい。
「ごめんて。んで体調は? もう平気なの?」
「うん。昨日には熱も下がったし、食欲もあるし」
「そりゃなによりで」
言いつつ、さっつーは少し不満げな顔になり、
「てかさ、それならロイン返してよ。未読無視はひどいって〜」
「え。あ……ごめん。ちょっといま、スマホこわれちゃってて」
「はあ〜? なんで?」
「ええと、水の中に落としちゃって……」
正確には、海水に浸かりまくったせいでぶっこわれた。スカートのポケットに入れていたので巻き添えになったのだ。
幸いなことにSIMは無事だし、データの方も外部バックアップのおかげで残っているから問題ない。とはいえ、新しく本体を買うまではしばらくノースマホ生活である。
「ふうん。やっぱりアホの子じゃん」
さっつーがケタケタ笑う。
「もう……やめてよ」
「ま、そういうことなら仕方ないけどさ。──あっ、てかそれなら、後藤にもはやく伝えてあげないとだね」
「……え?」
急にひとりの名前が上がり、胸に一瞬、針がささる。
「どういうこと?」
「や、昨日さ、珍しく後藤がここきたんだよ、教室に。ドア付近でウロウロしてて、うちが声かけたら『喜多さんいますか?』って。連絡してもぜんぜん返事がないから、気になってきたんだと」
「ひ、ひとりちゃんが……?」
彼女はいま入院しているはずでは、と喜多は思う。それとも、もう退院したのだろうか。
さっつーはうなずいて、
「うん。で、うちが『喜多は風邪で休みだよー』って言ったらさ、すごい悲しそうな顔しちゃって。『そうですか……』ってわかりやすく落ち込んじゃってさ。あれは相当、喜多のことが気になってたんだろうね〜?」
ニヤニヤと恋愛顔になる平和なさっつーを尻目に、喜多は机に重たく目線を落とした。
正直、ひとりに会うのが少しこわい。会って話をすれば、厳しい現実を知ることになる予感がある。喜多はそれがこわかった。自分にはもう、苦しみに耐えられるだけの魂がないと思った。
けれど、
「……わかった」
「んえ、なにが?」
「──ひとりちゃんと話してくる」
彼女から逃げるのだけは、自分が許してくれなかった。
さっつーは「なにをそんなに意気込んでんの」という顔で喜多を不思議そうに見つめながらも、
「うん、そうしてやりなよ。後藤を元気づけられんのは、喜多しかいないんだからさ」
そう言って、自信満々に親指をグッと立ててくる。
朝のうちに保健室にいこうかと思ったが、やめておいた。HRの邪魔が入るだろうし、朝はまだ保健の先生がいるかもしれない。放課後まで我慢した。
耐えがたきを耐え、帰りのHRが終わると喜多はいの一番に教室を出た。保健室に向かう。昼休みのときに二組の先生に訊いたところ、昨日に引きつづき今日もひとりは来ているとのことだった。迎えの車がまだきていなければ、会えるはずだ。
保健室のドアの前に立つ。胸中の不安と、ドアの先にある不安との板ばさみになって、心臓が痛く感じる。それらを振り切って、取っ手をつかんで開く。
「……こんにちは」
長椅子に猫背に座っているひとりに声を送る。彼女はかすかに肩を揺らしたあと、ゆっくりこちらに顔を向けた。メガネをかけて、左目にはガーゼの眼帯がつけられていた。
喜多は胸が詰まりそうになりながらも中に入る。
「喜多さん……?」
「そうよ」
優しく答えながら近づく。ひとりは一瞬、メガネを外そうとする仕草を見せたが、諦めて膝に手を置いた。眼帯を隠すようにして顔をうつむかせる。
「あっ、へ、変ですよね……? この顔……」
「ぜんぜん変じゃない」
喜多はきっぱり言い放った。
「ひとりちゃんの顔はいつも通りよ。メガネと眼帯つけてるだけじゃない」
「あ……は、はい……」
ひとりは二秒だけぎこちない愛想笑いをしてから、
「あ、あの、お父さんから聞きました。わ、私に話があってわざわざ家まで来てくれたって……」
「……うん」
「す、すみませんでした、留守にしてて……その、私、ちょっと左目が──えと、具合悪くなっちゃって。それで入院しちゃいまして……電話にも出られなくて、ほんとすみません」
ううん、と喜多はかぶりを振って、
「私が勝手に行っただけだから。それに、私の方こそ連絡返せなくてごめんなさい。ちょっといま、スマホが使えなくなっちゃってて……」
「あ、そ、そうなんですね。…………よかった」
嫌われてなくて──ひとりはそう小さくつぶやいたあと、
「あの、それで、喜多さん。話っていうのは……?」
喜多は胸の内に覚悟を詰めて、
「バ──バンドやめるって、本当なの……?」
ひとりの首が少し上がる。
「あ、虹夏ちゃんから聞いたんですね」
喜多は無言でうなずいて見せる。
「えっと……はい、そうです」
「それは──あのっ、」
理由を訊ねようとした。しかし、言葉はそこで止まった。もう頭の中ではわかっていた。ひとりはもう、バンドなんてつづけられる状態じゃないのだと。本人も色んなものを飲み込んで、苦しみながらもそれを決断したのだと。
喜多はしばらく開いていた口を閉じた。受け入れるしかないのかと思った。悔しさで唇をかみしめる。
結局、自分にはなにもできなかった──。
「すみませんでした。本当は、喜多さんには直接伝えたかったんですけど……どうしても勇気が出なくて……だから、虹夏ちゃんにお願いしたんです」
「……うん」
涙声にならないよう、喜多はうなずいた。
ひとりはもう一度「すみません」と謝罪したあと、
「──でも、最後にこうして喜多さんに会えてよかったです。なにも話せずにお別れはさみしかったので……」
「────え」
最後。お別れ。
予想外の言葉が喜多の頭をつよく打ちつけた。脳がしびれて、すべての思考が一瞬ふっとんだ。
「ま、待って……最後って……? どういう……?」
ひとりは目を細めて、
「……今日で私、学校やめるんです」
「え、え……?」
「ひ、左目がこんななので……これ以上はもう、と判断されまして……昨日と今日で、終わりにしようって話になったんです」
眼帯をさすりながら静かに語る。視界がぐらりと傾いてしまいそうになる。
「だから──、今日、喜多さんと会えて、ちゃんとお話しできて本当によかったです」
ひとりがようやく顔を上げた。見つめ合う。彼女の右目には涙が溜まっていた。ほほえんだ瞬間、実が落ちるようにこぼれた。
喜多はなにも言えない。言葉では表せない感情が喉の奥をふさいでいる。不細工な呼吸をするので精いっぱいだった。
「あ……すみません。電話が、」
ひとりがスマホを取り出した。画面をタップしてすぐにスピーカーに耳を当て、
「はい……うん……うん。わかった。そっちいくね」
十秒も経たずに通話を終え、スマホをしまう。迎えの車がきたのだと直感した。案の定、ひとりはカバンをかかえて立ち上がり、
「あっ、それじゃあ、喜多さん……あの、本当に今まで──」
「や……いや、待ってっ!」
手をのばし、喜多は彼女のカバンをつかんだ。自分も立ち上がる。
「あ、あの……?」
「ま、まだ! 私、まだ伝えてないことが……っ」
「え……」
この期に及んで自分はなにを言おうとしているのか。
喜多は唇を震わせる。このままお別れなんてイヤだ。まだ話したいことがある。
だから、
「──わっ、私も……バンドやめる……っ」
「え……ええっ?」
ひとりが右目だけで驚いた顔を作る。
「なっ、どっ……なんでですか? どうしてそんなっ」
「ひ、ひとりちゃんがやめるなら、いても仕方ないから……っ」
子供だと思う。ひとりを引き留めたくて、時間を作りたくて、思ってもないことを口走ってしまった。直後に虹夏とリョウの顔が浮かんで、二人がこれを聞いたらどんな顔をするだろうかと考えた。罪悪感で胸焼けしそうだった。
ひとりは動揺と焦燥に駆られた声で、
「だ、だめですよそんな……! き、喜多さんはまだ、ギター弾けるんですから」
「ギターなんて、べつに興味ない……っ、好きじゃないもの……っ」
「そんな……っ」
「わ、私は──っ、」
喜多は両手に拳を作った。
これが最後になってしまうのなら──そう思って、
「私が好きなのは──ひとりちゃんだけなんだからっ!!」
「…………えっ」
少しのあいだ二人の時間が止まる。
それからそこそこ長い時間が経って、やっと言葉の意味を理解した様子でひとりは顔を上気させ、
「す、好き……って……?」
「だっだからっ! 私は、ひとりちゃんが好きなの……!」
喜多は目をつむり、顔がガーッと熱くなるのを感じながら、舌が暴れるままに告げた。人生初の告白だった。
「ひとりちゃんがバンドをやめるのなら、私も一緒にやめるっ」
「き、喜多さ──」
「ひとりちゃんがいなくなったものに、私は未練なんてない……!!」
ふたたび時間が止まる。
ひとりの悲しげな目線が突きささる。胸がえぐれそうなほどに痛い。そんな顔が見たくて言ったわけじゃなかった。
やがてひとりは重そうに口を開き、
「……わ、私なんかを好きになってくれて、ありがとうございます。……すごく、嬉しいです」
「ひとりちゃん……」
「でも──き、喜多さんは間違ってると思います」
「え……?」
目を見開く。どういう意味なのか。
「喜多さんは、ギターに興味がないなんて、好きじゃないなんて言いましたけど……それはきっと、間違いですよ」
ひとりはカバンをつかんでいた喜多の手を優しくほどき、
「──喜多さんは、ちゃんとギターが好きだと思います。だって、演奏してるときの喜多さんの目、すごくキラキラしてました。ギターが大好きな人の目でした。だから、バンドをやめるなんて言わないで欲しいです。これからも、喜多さんのギターの音を、もっと色んな人に聴かせて欲しいです」
「────」
それがトドメになった。
喜多は今度こそ、本当になにも言えなくなった。
「──そ、それじゃあ……これで失礼します」
ひとりが背中を向ける。離れていく。彼女は保健室を出て、一度振り返ると喜多にぺこりと頭を下げた。ありがとうございました──そう唇を動かして、廊下に消えていった。
喜多はその場に植物のように立ち尽くしていた。なにもかもが終わったのだと思った。
※
「──お、やっときた」
車に乗り込むと、直樹が待ちくたびれた様子で声をかけてきた。ひとりは扉を閉めると同時に、
「…………待たせてごめんなさい」
「ああいや、いいんだよ。それで、最後の学校はどうだった?」
「…………うん、普通だった」
「はは、そっか」
直樹はバックミラーに苦い笑みを映し、エンジンをかける。
それから、
「喜多さんには会えた?」
「っ、う、うん……会えたよ……」
「ちゃんとお話しはできた?」
「うん、できたよ……」
「お別れもちゃんとできた?」
「で、でき……っ」
『私が好きなのは──ひとりちゃんだけなんだからっ!!』
「…………っ」
言葉が出なくなって。
目が熱くなってきて。
私だって喜多さんが──そう思ってしまって。
「…………ひとり?」
発進しかけていた車を一旦止め、直樹が振り返ってくる。メガネを外し、両手で目を押さえるひとりを見て、
「だ、大丈夫か? 目が痛いのかっ?」
「──お父さん、ごめんなさい……っ。私、やっぱり……まだ、私……っ」
まだ、諦めたくないよ──。
口から飛び出てしまいそうになるわがままを、ひとりはがんばって飲み込んだ。そして、どう見たって作り物にしか見えないぶきっちょな笑顔で、
「──ううん、なんでもない……っ」
※
月イチだった定期検診も、左目の失明で今月末にもう一度おこなわれることになった。いつも通り、眼圧や眼底、視野といった項目を調べ、今回は人生で三度目になるMRIでの検査もあった。今さらだが、ひとりはこの検査が苦手である。音がめちゃくちゃにうるさいし、金属部のある服──下着も含め──は脱がなきゃいけないので恥ずかしい。そのせいでいつもの検診より疲れてしまった。
「──大丈夫か? 疲れちゃった?」
「あ、うん……」
着替えを済ませて検査室から出ると、外で待っていた父から声をかけられた。ちょうど疲れていたタイミングだったので素直にうなずいてしまった。「そうだよな」と直樹は笑った。
「とりあえず待合室に戻ろう。あったかいお茶飲めるよ」
「うん」
その言葉どおり、待合室に戻ってお茶を飲んだ。病院のお茶は好きだ。飲んでいると健康になれる気がする。特別な成分が入っているのかもしれない。
「なんもないといいけどね……」
美智代が膝にふたりを寝かせながら、不安をつぶやいた。娘の前でそんなこと──というふうには思わない。自分も母親の立場になったら、子供のことが心配でたまらなくなるのだろうとひとりは納得している。
「うん。まあ、きっと大丈夫さ。ひとりは毎日がんばってるから。いい子は、きっと神様が守ってくれるよ」
左手を妻の肩に、右手を長女の頭に乗せた直樹は、くしゃりと笑った。根拠がなくても、愛情の詰まったセリフはすごくパワーをもらえる。ひとりは、ほほ笑んでうなずいた。
ほどなくして、「後藤さん」の名前で診察室に呼ばれた。同時にふたりも起きたので、そのまま四人の後藤で向かうことになった。
診察室にはひとりの担当医が待っていた。目が細長で、口が大きく、椅子がしょっちゅう「キュッ」と鳴くので、ひとりは密かにイルカ先生と呼んでいた。ちなみに本名は「
「どうぞ、おかけ下さい?」
ドクターイルカはひとりを目の前の席に促し、検査結果を伝え始めた。両親も横で一緒に聞いてくれた。
結果としては、特別悪いものではなかった。ただ、改善するものでもないようで、今後もゆるやかに右目の視野の狭まりは進行していくと、イルカは静かに語った。
まあ、そうだよね──ひとりは下を向く。期待していたわけではないが、やはり運命からは逃れられないらしい。
イルカは「これからも今まで同様に、点眼薬や定期的な検査が必要ですね」とキュッと椅子を鳴らしながら、説明を締めくくった。それで終わりだとひとりは思い、椅子から立ち上がろうとした。とき、
「──先生」
唐突に、直樹が前に出た。なんだろう、と思っていると、いきなり床に膝をつき、土下座の姿勢になった。
「お、お父さ──」
「ひとりの目は──もう治りませんか……?」
イルカは片眉を吊り上げた。「今さらなにを言ってるんだ」という顔に見えた。しかし言葉は柔らかく、
「お気持ちは心中お察しします。ですが、残念ながら現時点での医療技術では、視力を回復させるのは難しいです。もちろん、できる限り進行を遅らせることは──」
「どうやってもできませんか……? どんな手術でも、もう無理なんですか……?」
イルカはアリを噛みつぶしたような顔になり、
「……ひとりさんの場合、左目はすでに視力を失ってしまいましたが、右目に関してはまだ猶予があります。なので、我々が必死にサポートをして、」
「──ぜったいに、もう無理なんですか……っ?」
いよいよ困り果てた顔になったイルカは、腕を組んで、天井を見上げてしまった。お手上げという様子だった。
「お、お父さん……っ、いいよ、もう大丈夫だよ……だからやめてよ……」
ひとりは父の背中に手を置いた。すると、小刻みに震えているのが伝わってきた。
「お父さ──」
「ひとり」
直樹が顔を上げた。目が赤く充血して、みっともないほど、弱々しい表情になっていた。
「ごめんなぁ……お父さん、ひとりに世話かけてばっかで……我慢ばっかりさせちゃって……っ」
「え……」
「ひとりはまだ……本当はまだ、諦めたくないんだよな……? だけど、お父さんたちに迷惑かけないように、我慢してたんだよな……?」
「そ、そんなこと、ないよ……私、そんなこと……」
「いいんだよ、本当のこと言って。子供が親に遠慮なんてすることないんだ。娘のわがままを聞くために僕は父親やってるんだ。だから──せめて本当のことを言ってくれ」
そんなこと言われたって──ひとりは口を一の字に結んだ。
そりゃ本音を言えば、当然、元に戻りたい。目がまた見えるようになるのなら、苦い薬だって、痛い手術だってがんばれる自信がある。
しかし、それが現実的に不可能だということは、何度も何度も聞かされてきた。医者の先生もこれ以上困らせたくはない。
だからもう、諦めなきゃいけないって。受け入れなきゃいけないって。そう思っている。
『私は、ひとりちゃんが好きなの……!』
だけど、やっぱり、
また見たい顔があって、
諦めきれない思いがあって、
だから、もう一度だけがんばりたいなって思って、
「…………お父さん、ごめんなさい」
ひとりはこもった声を出し、
「私……本当はね……? まだ、諦めたくないよ……っ」
美智代が肩を抱きしめてくる。
ふたりが手をにぎってくる。
直樹がほほ笑みかける。
そしてイルカは──、
「ううーん……まいったなぁ……」
かなり参ってしまっていた。
「ごっ、ごめんなさい……」
ひとりはあわてて頭を下げた。やっぱり困らせてしまった。言うべきじゃなかった。
「ああいや。いいんですよ。治したいというのは当然の欲求ですし、我々もそれに力を貸したいとは思っています。──ですが、」
そこで、イルカはひとりの顔をジロリと見た。数秒ほど凝視し、難しそうに顔を歪め、歯噛みし、椅子をキュッ、キュッと鳴らす。
怒っているのかな、とひとりは不安になる。変な家族に芝居を見せつけられ、自分は血も涙もない意地悪な医者のように仕立て上げられてしまい、不愉快な気持ちになったのかもしれない。
やがて、キュッと椅子が音を止め、
「──後藤さん。いいですか」
イルカはやや固い口調で、大きな口を開き出した。
「私は医師です。信頼できる治療法や、確実性の高い選択肢を患者に提供することが義務です。──ですから、本来ならばこうした提案は慎重であるべきなんですが、」
そして、ためるように唇を一回舐めて、
「一応、ひとつだけ道はあります」