指先に銀河をのせて   作:夜のイロ

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二人の道

 ドクターイルカの発言に、幼いふたりを除いて、後藤家全員が極寒の中で水をぶっかけられたように固まった。

 

「──み、道……?」

 

 その中で、最初に口を開いたのは意外にもひとりだった。とはいえ、オウム返ししかできない。

 イルカは変わらず、怒っているのか困っているのか判断つかない難しい表情で、

 

「……まあ、道とは言いましたが、ほとんど舗装もされていない、行き先の見えない獣道です」

 目を細めて、長い息を鼻から吐き出す。

「リスクもありますし、確実性は皆無です。安全性はもちろん最大限に配慮するでしょうが、なにかしらの副作用の可能性も否定できないです」

 

 やけに脅かしてくるな、とひとりはハラハラする。いったいどんなことをするのだろうか。

 すると、封印から解けた直樹がおずおずと、

 

「あの、それはいったいどういった治療なんですか……?」

 イルカはさらに難しい顔になり、

「簡単に申し上げれば……まだ、標準とされていない実験的なものですね」

 かなり選んだ言い方だったが、それはつまり、

「じ、人体実験ですかっ?」

「ち、違いますよっ」

 キュッキュと椅子を鳴らしてかぶりを振った。

「『臨床試験(りんしょうしけん)』と呼ばれるものです。決して非人道的なものではありません」

「リンショウ……?」

 直樹が首を傾け、その後ろでひとりも同じようにコテン、と首が傾く。

治験(ちけん)、みたいなものですか?」

 

 ようやく美智代も口を開き、質問を投げた。イルカは言葉の正確性に悩んでいる様子だったが、「まあいいか」という具合に妥協したうなずきを見せ、

 

「ええ、そうです。いま、日本とアメリカのチームで視覚再生の共同研究が進められてまして。そのプロジェクトの一環で、今後一般の患者さんを対象に最先端の治療が実施されるんです。ひとりさんが、まだどうしても諦めたくないというのであれば、私も担当医としてその気持ちは尊重したい。効果の保証はできませんが、ゼロではない可能性を信じたいのなら、これへの参加を『最後の選択肢(・・・・・・)』として検討する価値はあるかもしれません」

 

 おお、と直樹が期待を込めた声を漏らし、ひとりも胸を高鳴らせた。難しい言葉だらけで少し理解が追いつかなかったが、不可能が可能になるかもしれないということだろう。これほど魅力的な提案はないと思う。

 一方で、美智代はまだ胡乱(うろん)な表情を崩さず、

 

「──あの、でしたらなぜもっと早くその提案をしてくださらなかったんですか……? 早めに言ってくだされば、こんなにこの子が苦労しなくてもよかったんじゃないんですか?」

「お、お母さん……そんなふうに……」

 珍しく感情的になる母に、思わずひとりは体を寄せた。

 対するイルカ医師は眉を八の字にし、

「今回の臨床試験は、つい最近承認された研究で、募集も先日開始されたばかりだったんです。──まあ、これは言い訳になってしまいますが」

 さらに、ワックスでがちがちの頭をかいて、

「それに、先にも申し上げたように色々と問題もあるんです。簡単に推奨できるものではありません」

 

 そう言うと、イルカは三本の指を立てた。三つの問題があるということか。

 先生は指を順番に折っていく。

 

「まず、『確実性がない』こと。試験段階の治療なので、はっきり言って成功率は不明です。なので医師からの具体的な説明と、患者からの同意が不可欠です。それと、『参加の可能性』。実施人数には制限があるので参加希望者が多い場合、選ばれない可能性もあるんです」

 それから残った指を折り、

「そしてなにより──仮に参加が決まっても、治療までにひとりさんの視力が保つかどうか。幸い、現在のひとりさんの右目の状態は良好で、進行も非常にゆるやかだと予想できます。ですが、実施は一年後になるので、それまで今の状態を維持できるかは断定できませんし、左目のときのように急激に進行する可能性も……」

「あ……」

 

『タイムリミット』という言葉が浮かぶ。

 たとえ、奇跡的に色んなことがトントン拍子に上手くいったとしても、自分の右目が間に合わずに力尽きてしまったら、それで全部おしまいなのだ。

 ひとりは頬の内側をかむ。視線をさまよわせる。現実はやはりそう甘くなかった。

 治したい、というのは心からの願いだ。しかし、そのために背負わなければならないものや、覚悟しなければならないものが、イルカ先生の話を聞いて自分の想像より、はるかに大きいものだとわかってきた。

 体がズシリと重たくなる。

 痛い手術も苦い薬も、必ず効果のあるものなら我慢できたが、それがないとなると恐怖でしかない。そもそも参加すらできないとなれば、期待した分、落胆もつらいものになるかもしれない。

 どうしよう──雨のようにそれらの言葉が頭の中に降り注いでくる。

 

「──とまあ、色々と省いた説明になってしまいましたが。いまはただ、どれだけこの選択肢が複雑で、簡単なものではないかということだけを理解していただければ十分です。しっかりご家族で相談されて、決まりましたら詳しいことはお話します」

 

 本格的な説明はまだ残ってるぞ、という口調でイルカ先生はそこで一旦言葉を休めた。一気に話をされても理解できないので助かったが、これだけでも迷宮に入り込んだかのように思考がぐちゃついてしまっている。

 体が震える。

 すごくこわい。

 やっぱりやめた方がいいかな、と考えが傾いてきている。

 

「…………ひとりちゃん」

 そこへ母の声が降ってきた。顔を上げる。苦々しいほほ笑みがこちらを向いている。

「なに……?」

「ひとりちゃんはどうしたい? これでも受けてみたいの……?」

「え、あ……」

 もう決断を迫ってきたのだろうか。まだなにも自分の中では固まっていないのに。

 ひとりが口の中で必死に言葉を作っていると、美智代が、

「──あのね。お母さんは……正直言って反対かな」

「え……っ」

 

 ひとりを含め、直樹とイルカも美智代に注目した。ふたりは、診察室に貼られている目の神経図を見て「グローい」と笑っていた。

 美智代はつづけて、

 

「ごめんね。でも、お母さん、もうひとりちゃんにこれ以上苦しんで欲しくないの」

 少し腰をかがめ、ひとりの目線に合わせてくる。

「もちろん、目は治って欲しいって本気で思ってるよ……? だけど、今でさえすごく大変そうで、すごくつらそうなのに……もっと大変な思いはさせたくないなって。それに、もしも治療が上手くいかなかったらって……お母さん、こわくて、心配で。泣いちゃうかもよ……?」

「あ、ぅ……っ」

 

 言葉が失せる。母の顔を正面から見てしまった。

「泣いちゃうかもよ?」なんておどけた脅しをかけておきながら、すでに涙の膜におおわれた瞳には、たしかな愛情の色が湛えられていた。

 ひとりは母のその目を知っている。

 交通事故にあった日、息を切って駆けつけてきたときの母もいまと同じ目をしていた。大好きな娘を失いたくない。苦しんで欲しくない──そうした感情が表れた色だった。

 ひとりは目を伏せた。ギュッとまぶたを閉じる。

 なにが正しいんだろう。どれが正解なんだろう。

 難しくて、わからなくて、脳が「考えるのを諦めろ」とばかりに頭を痛くさせてくる。

 

 どうすればいい──。ひとりは痛い頭を抱えた。

 ほんの少しでも可能性があるのなら、それにしがみつきたい。

 だけど、成功するかわからない手術なんてやっぱりこわくてイヤだ。お母さんがこんなに心配してくれてるのに無視なんてできない。悲しませたくない。迷惑はかけたくない。

 決められない。

 なにもわからない。

 誰か助けて欲しい。

 

 そのとき、ふと喜多のことを思い出してしまう。

 彼女の声が聞きたくなってきてしまう。

 彼女なら、どのように言葉をかけてくれるのかを考えてしまう。

 

 喜多さん──。胸の内側で呼びかける。

 教えてください。私にはわからないんです。

 私は……どうするべきなんですか。

 

 

 

 ※

 

 

 

 カーテンの閉め切られたほの暗い部屋の中で、目の前の液晶が淡く喜多の顔を照らしていた。つい先日、新しく買ったばかりのスマホには、ひとりとのロインの履歴がちゃんと映し出されていた。

 

『すみません、電話に出られなくて』

『あの、いま大丈夫ですか?』

『保健室にいます。お話できますか?』

 

 会話は向こうからの一方的なメッセージで途絶えている。スマホが壊れていたときに送られてきたものだ。もう何日も前のものだから今さら返信するのもおかしいと思い、ただ既読をつけただけになってしまっている。

 あの日からひとりと連絡は取り合っていない。本当はロインだけでもいいから話したかったが、あんなことを言ってしまい、あんな別れ方になったから、メッセージを送るのがひどく億劫だった。「未練がましい女」だと思われて、引かれてしまわないか不安だった。たとえひとりがそう思わなくても、自分がそう感じるだけで胸が苦しくなった。

 それでも喜多は、ひとりとのロインの履歴を毎日毎日、日課のようにのぞいていた。いつか、ひとりからメッセージが送られてくるかもしれないと、忠犬のように待ちつづけた。向こうから話しかけてくれれば、また前みたいに話せると思っていた。

 しかし、いくら待っても彼女からはなにも送られてこない。テキストボックスには『いまなにしてるの?』というメッセージが未送信のまま閉じ込められている。

 

「……………………ぅっ」

 

 泣いたって仕方ないのに。虚しさがかたまりとなって、目の奥から込み上げてきてしまう。

 人は失恋をすると、胸にぽっかり穴が空くというが、あれはウソだと喜多は知った。穴なんてのは間違いで、本当は腐り落ちた恋心の死骸が掃除されることなくずっと転がっていて、心全体を腐らせようと燻っているのだ。だから、胸がひどく重くて、痛くて。なにを考えても虚しさだけが残ってしまうのだ。

 なにもかも忘れてしまおうと考えたりもした。だが、結局なにも忘れることなんてできなかった。テキストボックスのメッセージでさえ消すことのできない喜多に、手で触れることすら敵わない想いを片付けることなんてできないのだ。

 毛布を頭までかぶる。暗闇を全身にまとう。ベッドに「ギシッ」と文句を言われた。

 いまは春休みだから不貞寝していても親もそこまでうるさくは言わないが、学校が始まったら自分はどうなるのだろうと思う。

 ちゃんと登校できるだろうか。

 元の生活に戻れるだろうか。

 喜多はいままで不登校の生徒の気持ちなんてわからなかったし、考えたこともなかった。しかし、いまなら理解できる気がする。自分の生きたい世界がないことが、こんなにも悲しいことだなんて思わなかった。

 

 ひとりちゃん──。スマホを胸に抱きしめる。

 あなたはいま、なにをしているの。

 ちゃんと幸せに生きてるの。

 教えて。知りたいの。わからないの。

 私は……これからどうすればいいの。

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