桜と草のにおいがする春がきた。
始業式とクラス替えの儀式を無事に乗り越え、喜多郁代は秀華高校二年三組の住人となった。さっつーとはふたたび同じクラスになって、始業式の日に「またかよ。ウチのストーカーすんなし〜」と笑われた。これで中学から計算して五年連続である。
「そろそろ喜多の顔見飽きたわ。たまには離れてもいいんだよ?」
そんなことを言いながらも、さっつーは嬉しそうに顔をゆるませ、「真似してるのはそっちじゃない」と喜多も言い返して今度はお互いに笑った。
季節は流れていく。
悲しみと苦しみに満ち満ちていた冷たい冬は、柔らかい春色に染め上げられ、いまは安らぎと平穏の日々に包まれている。学校に行けるのか、もとの生活に戻れるかとベッドの中で抱え込んでいた不安も、「そろそろシャキッとしなさいっ。じゃないと──」と母のさもなくば攻撃で強制的に解消された。
子の心親知らずよね、と思わなくもない。しかし、結果的に社会復帰できたことには喜多自身も安堵した。
──だが、
「──ねね、喜多ちゃん。このあとみんなでカラオケいかない?」
とある日の放課後、教室を出ようとしていたとき、喜多は背中に声をかけられた。首だけを巡らせて振り返ると、数人のクラスメイトたちが並んで自分を見ていた。
「カラオケ……」
「ほら、駅前に新しい店できたじゃん? クーポンあるからさ、よかったらいこうよ」
「ええと……」
「だめ?」
「う、うん……」とうなずきかけるが、
「ええー? たまにはいいじゃん。いこうよ〜」
ショートカットの女子が少し詰め寄ってくる。
喜多は目線を落とし、数秒ほど考えるフリをしながら、
「──ごめんね。その……このあと、用事あるから」
「用事ぃ? 前もそう言ってクラスの親睦会断ってたじゃん。喜多ちゃん、最近付き合い──」
違う友だちがその子の口をふさぎ、
「ああ、ごめんごめん。用事なら仕方ないよね。また今度よかったらね?」
「……うん」
もう一度、ごめんねと言ってから喜多はギターケースを背負い直し、廊下に足を送り出した。少し歩いて離れたところで、教室からさっきの集団の一人が「ほらね、やっぱり」とボヤいているのを聞いた。
──喜多ちゃん、最近変わっちゃったよね
用事があると言ってしまった手前、このまま家に帰るのも妙にはばかられた。なので、帰り道とは真逆の方へテキトーに道を流し歩くことにする。
交差点を抜ける。大通りを外れる。人のいない道を選んで、あてどなく足を進めていたらどこかの団地にたどり着いた。
まあいいかと思い、喜多は静かな道をうつむきがちに歩く。少しして遊具の枯れ果てた古い公園が見えてきたので、そこに入った。もちろん子供なんているわけなく、生え放題伸び放題の雑草を踏み歩いて、月面みたいにボコボコに穴の空いた丸太型のベンチに腰をおろす。背中を丸めて息を吐く。ぬるい風が髪を揺らす。ベンチの下に咲いている白くて丸いフワフワのたんぽぽが、風に吹かれて一瞬で欠けた。
それから五分ほど沈黙、後。
喜多は暇だと感じた。
もともと落ち着きのない人間なので、ぼーっ、としているのが味気なく、もったいなく思えてくる。しかし、スマホをいじるのもなんだかちがう気がして、仕方なくギターケースからレスポールを取り出した。外でジャカジャカ鳴らすのは恥ずかしいので、指の腹で撫でるように思いつきでコードを鳴らすことにした。
目を閉じる。弦を押さえ、風に吹かれ──そして、ひとりのことを思い出しながら、彼女は右手を動かし弾き始める。
時は流れていく。
ひとりとの別れから一ヶ月半が経とうとしている。その間も、彼女からの連絡はウンともなかったし、喜多からもスンとも言えなかった。空白の時間だけが過ぎていき、彼女のいない世界が少しずつ日常と化してきていた。その世界を少しずつ喜多も受け入れてきていた。
移り変わりとは容赦ないものだと喜多は思う。
いっときは、なにを考えてもひとりの顔がよぎり、胸の奥が絞られ、涙が出て、最終的に虚しさだけが残っていた。しかし、最近は嬉しいことがあれば幸せを素直に感じ、楽しいことがあれば笑顔になるようになった。ひとりが感情に挟まることは少なくなり、頭からいなくなってしまうこともある。
それは普通に考えれば当たり前のことなのだろう。時間が経てば傷は癒えて、心も落ち着いてくる。前に進もうというありふれた気概も湧いてくる。なにもおかしなことはない。
ところが、ふとした拍子に喜多の脳裏にはひとりが最後に見せた苦しいほほ笑みが映し出され、切りつけられるような罪悪感が胸に走った。
忘れてはいけない──正義の心を持った自分がそう訴えていた。
とんだ薄情者ね。あんなに仲良くしていた友だちを、あんなに好きになった人のことを、時間が経てば簡単に忘れちゃうんだ。あの子がいまも大変な思いをしているのに、あなたはのほほんと幸せそうに暮らしているのね。本当に最低。あの子にはあなたしか友だちがいないのよ。あの子には思い出せる相手があなたしかいないの。それなのに、あなたはちがう幸せを見て、ちがう誰かを考えて。それがどれだけあの子にとって残酷な仕打ちなのかわかっているの──。
わかっていなかったのかもしれない。
大切な記憶とは、いつまでも新鮮なまま保存されるものだと思っていた。綺麗な色の状態で、引き出しを開ければすぐ取り出せるように、いつでも簡単に思い出せるものだと信じていた。
そうやってなにも知らないままでいられたらよかった。しかし、それが誤りだとわかってしまったとき、喜多は考えを変えた。
『──喜多ちゃん、最近変わっちゃったよね』
ひとりのことを忘れないように。
喜多は生活の中で常にそう意識するようになった。ひとりの顔を、ひとりの言葉を、ひとりのギターの音を、いつも頭の中に思い浮かべて過ごした。そうすればいつまでも覚えていられると思った。するとどうしてか、なにに対しても喜多の中で罪悪感が生まれるようになった。楽しいことも、嬉しいことも、彼女に対して罪の意識を感じ、目を背けるようになった。自分がどういう感情でいることが、ひとりに対する誠実な姿勢なのかがわからなくなった。
そうした心持ちのせいで喜多の表情には陰鬱な色が貼りつくようになった。それを誰かに「変わったね」と言われるたび、心に一つずつヒビが入っていく音を聞いた。
自分はどう生きていけばいいのだろう──。
答えのつかめない煙のような悩みが頭を埋め尽くそうとしていたとき、
「──独りぼっちで寂しくないの?」
「え……」
指が止まる。
唐突に突きつけられた声に、喜多はあごを上げた。悠然と腰に手を当てて、目の前に立っていたのは、
「さっつー……」
「よ、吟遊詩人」
夕日に顔の半分を赤く炙られながら、さっつーはニヤリと笑った。
「どうしてここに?」
「それはいま、ウチも喜多に訊こうと思ってた」
少しの沈黙。
喜多が先手を打った。
「……じゃあ、私のほうが早かったから先に答えて」
さっつーは「しゃあないな」という顔で眉を少し下げ、
「べつに。帰ってる途中で喜多を見かけて。なんか、よみがえったミイラみたいにテレテレ歩いてたから面白がってついてきただけ。──はい次、喜多の番」
喜多はちょっとムッとなったが、ひとまず感情は置いて、
「私もべつに……なんとなく歩いてたら、なんとなくここに行き着いただけ」
「ふうん? 用事あるってのはホラだったわけだ?」
教室での会話を聞かれていたらしい。
「…………ごめん」
「いや、ウチに謝られてもな」
「誰にも言わないでくれる……?」
「いいよ」
消しゴム貸してくれる、に対する答えのような軽さで彼女はうなずき、喜多のとなりに座った。「ミシッ」と音がした。
「で──なにをそんな黄昏てんの?」
「うん……」
地面に落ちた二つの影を見つめながら、喜多はあいまいに答える。
「どういう生き方をすれば正しいのかなって……」
「吟遊詩人じゃなくて哲学者だったの?」
さっつーはおどけて言いながらベンチの座面に手のひらをつき、喜多の顔をのぞいてくる。喜多は首を持ち上げて、ウソみたいに赤い空を見上げた。半欠けの月がぽっかり浮かんでいた。
「……ねえ、さっつー」
「ん、なに」
「あの、もしもの話なんだけど、」
足元のたんぽぽは、すでに綿毛が尽きている。
「──さっつーにとってすっごく大事な人が、ある日突然、自分のもとから離れていっちゃったらどうする?」
「急に。重たい話だね〜」
さっつーも少し目線を上げ、ペンキが剥げまくった錆だらけのすべり台を見つめながら、
「どうするって言われたら……ま、悲しむかな」
「……そうよね」
「うん。で、しばらくは泣いて過ごして、」
「うん」
「しばらくは鬱になって、」
「うん」
「そしたら、まあ。きれいさっぱり日常に戻るかな」
「え……?」
見ると、さっつーも横目だけでジロリと見返してきて、
「えっ、てなによ」
「戻れるの? その人のこと、思い出して苦しくならない?」
「んー、そりゃあ苦しくはなるかもだけど。でも、そのうちあんまり思い出さなくなっていくんじゃない?」
「そ……それって、相手にとってはすごく悲しいことなんじゃないの……?」
「……そうは言ってもさ、ずっと覚えておくなんて無理な話でしょ。しょうがないよ。人なんてバカな生き物なんだからさ。勉強とか仕事とかでバカスカ頭に情報詰め込んでるうちに、キャパオーバーして忘却の彼方にいっちゃうって」
「それ、は……」
喜多は無意識にかぶりを振った。理解も納得も、正義の自分が拒んでいるように感じた。
レスポールのネックをグッとつかんで、
「私は……そんなのイヤだ……」
「喜多?」
「だって、かわいそうだもん、そんなの。かわいそうよ……っ」
さっつーが間違っているとは思わない。けれど、正解だと信じたくもなかった。
ひとりを忘れてしまうことを「しょうがないこと」だと自分が割り切ってしまったら、彼女のことを思い出せる人はもう学校からいなくなってしまうかもしれない。それはひとりにしてみれば、たった数ヶ月とはいえ、過ごしてきた青春の日々を保証してくれる存在がいなくなるということではないか。
そんなの、あまりにも無慈悲だ。
「……あのさ、」
少しさっつーが肩を寄せてきて、
「もしかして、後藤の話してる……?」
喜多は小さく「ぅ」と喉の奥で声を鳴らしたあと、素直に首肯した。
「あー……そっか。うん、そうだよね」
するとさっつーは気まずそうに腕を組んで、次に脚も組んだ。それから軽く貧乏ゆすりをしてベンチを揺らしたあと、
喜多に体を向けて、
「……ごめん。察し悪かった。テキトーなこと吹いただけだから気にしないで」
喜多はふるふると首を揺らす。
「ううん……さっつーの言ってることは、きっと本当のことだと思う」
「いや、そんな……」
「実際そうだもん……私、ひとりちゃんのこと忘れたくないのに、少しずつ頭から離れていっちゃってるの……こんなに好きなのに、会えなくて寂しいはずなのに、どんどん立ち直ってきちゃってるの。それが、すごく、こわいの……っ」
肩が震える。唇がわななく。ひとりと別れた日から、初めて他人に本音を吐き明かした気がした。
さっつーは言葉が尽きた様子で、喜多の顔から少しずつ下に目線を落としていく。しかし、ある点まで下がると彼女は口を固く引きしめ、ふたたび目線を喜多の顔まで戻して。
唇を動かし、
「──ウチは……そういう喜多も好きだよ」
喜多は「え」とだけ口を開く。
「だ、だから……そういう優しい喜多も、ウチは嫌いじゃないよ……って」
「え、ええと……」
彼女は落ち着かない様子で喜多から目を背けて、
「間違ってないと思うよ、喜多の考え。忘れずにいたいって、覚えていてあげたいって。それだって普通の感情だと思うよ。……でもさ──、」
それから勢いよく腰を上げた。喜多の前に立つ。夕日のせいか、ひどく顔が赤かった。
「でも──、そんな独りで抱え込むなよ」
「あ……」
「後藤がかわいそうって喜多は言うけど……ウチからしたら、いまの喜多だって、すっごいかわいそうだよ。いつも悲しそうで、泣き出しそうな顔して。みんなから理解されずに苦しんでて……見てらんないよ」
半分だけの月が頭上で輝いている。
さっつーは決意したような顔になり、
「わかった──喜多が忘れないっていうなら、ウチも忘れない。ちゃんと後藤のこと覚えてるよ。これからも思い出すよ。だから……もうそんな顔しないでよ……っ」
彼女の目が赤くなっていることに気づいた。息を飲む。何年も友だちをやってきたけど、彼女のこんな表情は初めて見た。
親友に、こんな顔をさせてしまった。
喜多は小さくあごを引いた。さっつーの手を引いて、自分のとなりに座らせた。それから、
「…………ごめんね。心配かけて」
「……ありがとうでいいよ」
「うん……ありがとう。心配してくれて」
ずっ、と鼻をすする音。
「喜多はさ……変だよ。普段はちゃらんぽらんなクセに、後藤相手だとこんなに真剣になったりして……」
「だって……好きなんだもん。真剣に」
鼻をすする音。
次に盛大なため息。
「な、なによ、そんなため息……」
「べつに」
つん、とさっつーは跳ねのけたあと、うすく笑みを浮かべて、
「……どう? 少しは気ぃ楽になった?」
「…………うん」
本心でうなずいた。
とはいえ、これだけでいいのかと思う。もちろん、一人で悩んでいたときよりかは、いまは格段に心が軽い。それは事実だ。だけど、やっぱりまだ不安を完全に消し去ることはできていない。ひとりを忘れる恐怖も、彼女がみんなから忘れ去られる悲しみも、解決したわけではないのだ。
「……ねえ、さっつー」
なにかないだろうかと考える。
「ほかの人にも、ひとりちゃんのことを覚えててもらうことってできないのかな……?」
「そうねぇ」とさっつーは唇に指を当てた。喜多も真似するわけじゃないが、同じように指をあご先に当てて、目をつむって思考を巡らせる。が、ろくすっぽ湧いてこない。せいぜい「リメンバー・ヒトリ・ゴトウ」と横断幕を掲げながら、校内を練り歩く奇行ぐらいしか頭に浮かばなかった。こんなもの「右翼か」と勘違いされて左翼の校長から顰蹙を買うだけだ。当然、却下である。
さっつーにも期待していたが「ムズいなあ」と言いながら首を振ってしまった。
「そうよね……」
「『覚えててもらう』ってのがどうしてもねえ。後藤自身になにかすごい功績とか面白いエピソードがあれば、みんなも思い出してくれたりはするんだろうけど……」
「うん……」
そうよね、と思う。言っちゃ悪いが、ひとりは影は薄いし成績も悪かった。ギターが弾けるという特技はあるが、それを学校で披露した機会は一度もなかった。
後藤ひとりとは何者なのか。
きっと、そこからなのだと思う。興味を持ってもらえなければ、覚えてもらうことなど無理にちがいない。
さっつーが「あっ」と声を出し、喜多も顔を向けると、
「──それならさ、喜多がみんなに
どういう意味、という喜多の目線に彼女はつづけて、
「喜多は男からも女からもモテるんだから、その立場を利用すればいいんだよ。なんかこう、目立つ状況でさ、『私の後藤ひとりを忘れるなーっ』とか言ってやりゃ、『後藤ってだれだ?』ってみんなも疑問に思うでしょ? もともと知ってたやつは思い出すし、知らなかったやつも興味を持つんじゃない? どう?」
どう、と言われても。あまりにもフワフワした提案に、喜多はまぶたをしばたたかせた。「名案でしょ?」と言わんばかりに目を輝かせるさっつーに圧されながら、少し考えてみる。
ひとりちゃんのことを忘れさせない──。
自分にそんなことができるのか。というか、具体的になにをどうすればいいのか。
思考が渦巻く。少なくとも簡単にできることとは思えない。
しかし、もしもそんなことができるのなら、今度こそひとりの役に立てるかもしれない。
ひとりのために──なにかをしてあげられるチャンスなのかもしれない。
喜多はさっつーに向き直った。ちょうど彼女もこちらを見ていた。ニヤリと笑いかけてくる。
「前も似たようなこと言ったけど、結局んとこ、後藤を支えられるのは喜多しかいないよ」
喜多はほんの少しだけ、小さくあごを引いて見せた。
そうだと自分も信じてみたくなった。
※
喜多と駅で別れてから、佐々木は足を送り出した。フェンスから喜多をのせた電車が遠ざかっていくのを見送って、そのまま群青に染まった空を仰いだ。冬の気配も引いて、暖かくなってきた春の空は地味な星座たちしか浮かんでいない。
だが、佐々木はそういう星たちも嫌いではなかった。地味な星たちがあるからこそ、夏や冬の星座の美しさが引き立つのだ。
歩きながら頬に手を当てる。もう熱さは引いていた。つい口に出てしまった「好き」という言葉に後悔をしつつ、喜多が追求してこなかったことに安堵する。
ふう、とそろそろ白くならなくなってきた息を吐く。
これでいいんだと佐々木は思う。
自分も喜多もこのままでいい。
ずっとそうだったのだ。五年前からずっと、彼女の一番の親友でいられることが一番の幸せだと佐々木は信じてきた。
彼女と結ばれたいという願望がなかったわけではない。けれど、喜多が自分をそういう目で見てくれていないのはわかっていた。佐々木もいまの関係性に不自由などなかったし、それでよかった。
喜多が幸せならそれでいい。綺麗事ではなく本気でそう思っていた。喜多に本当に好きな人ができて、その人と結ばれるのなら、誰よりも大きな拍手を誰よりも長く鳴らしてあげたいと。
それが親友だから。佐々木次子だから。
だから、この気持ちはずっと封じてきた。
そして、これからも封じつづける。
喜多にはもう、心に決めた人がいるのだ。その応援を自分はこれからもしていく。
だけど、と思う。
佐々木は空を見上げながら、この世界の下のどこかにいるだろう『彼女』に呼びかけた。
「ウチの親友、これ以上泣かさないでよ──後藤」
半分の月が自分を照らしている。