「──うん、前回とあまり変わらない感じですかね」
検査結果をチラシの一文を読み上げるような調子でドクターイルカは伝えてきた。机上のディスプレイに首だけを向け、同時に手元のカルテにも目を落としている。
四月中旬の定期検診だった。前回から約二週間ぶりだ。今回はMRI検査もなかったので、早く終わってくれた。
「眼圧も安定してますし、特に異常も見られません。視野検査の結果は……ええ、こちらもほぼ前回と同じですね。大きな進行は見られないです」
カチカチと鳴らしていたクリック音と一緒にマウスカーソルの動きも止まり、イルカ先生はようやくひとりの方に首をめぐらせる。落ち着いた表情だった。
ひとりは胸をなで下ろす。医者の言葉や表情に一喜一憂してしまうことが悲しくもあるが、いまはただ安心できてよかったと思う。
「よかったです」
となりで聞いていた父も安堵のため息をもらす。ちなみに母は、待合室で妹と待機中だ。
「この状態を維持できるようでしたら、また月イチ検診に戻っても大丈夫だと思いますが、」
イルカはひとりの目を見ながら、
「なにか現状、目に違和感とかはありませんか?」
「あ、いえ、特には……」
ふるふると首を振ると、忙しなくカルテの備考欄にペンを走らせる。そして「うん」と一回だけ、自身に対する納得の首肯を見せ、
「まあ、とりあえず来月末の検診までは様子を見ましょうか。結果が次回以降もずっと良好なようでしたら、来院の頻度も落としていっていいかと」
直樹とひとりは同時にうなずく。イルカもうなずく。
それで目的の話は済んだ様子で「では、またなにかありましたらいつでも。お大事にどうぞ」とイルカはキュッと椅子を鳴らしてディスプレイに向かい合おうとした。が、
「……あの、それで先生。お話なんですが、」
そこに直樹が神妙な声をかける。椅子の回転を止め、ふたたびこちらに体を向けてくる。
「はい?」
「前にお話ししてくださった臨床試験についてです。一応、本人の中では答えが出たようで」
イルカは細い目にやや力をこめて、
「お聞かせできますか」
「はい。娘は、」
ひとりは身を乗り出した。
「──さ、参加っ! 参加っ、したいです……!」
父よりも先に言葉が出た。声が張り上がり、かじりつく勢いで自分の意志を伝えた。どう考えたって目の前の相手には不要な声量なのに、必死な感情が色々とオーバーに体を動かしてくる。
「かかっ、覚悟はできてます……っ。どんな治療も我慢しますっ、がんばってみたいんですっ。なので、あの、よろしくお願いします……!」
椅子に座った状態で、ひとりは極限まで体を折り曲げた。ほぼ九十度だ。お辞儀の角度は、誠意の純度と同義である。
対するイルカは苦笑いしながら、
「わかりましたから落ち着いてください。それに大丈夫ですよ、今すぐ結論を出していただかなくても」
ひとりは上目でイルカを見る。早いに越したことはないのでは、と思う。
「まだちゃんとした説明はしてませんからね。それを聞いてもらったあとで、改めて参加の意志を確認しますから。気を急ぐ必要はないですよ」
「──あ……すっすみません……」
そうして静々と元の姿勢に縮こまる。言われてみれば、前回の検診のときにもイルカはまだ説明を残している様子だった。気が早いというのはその通りだったかもしれない。
後ろの方にいた看護師が少し笑っているのをひとりは見た。顔が燃えてくる。
イルカは背もたれから体を離して前かがみになり、
「ひとまず、ひとりさんの希望は承知しました。なので試験の概要などについて、これから本格的にお伝えします。──お母様にもご同席いただけますか? 家族全員で聞いていただく必要がありますので。私も資料を用意してきますので、その間に」
「は、はい。わかりましたっ」
イルカが立ち上がって、診察室の後ろに引っ込んでいき、直樹も部屋から出て美智代を呼びにいく。残されたひとりは座りながら膝をつかみ、胸をおさえた。ドクドクと待ち受ける試練におびえる心臓がうるさい。
美智代とふたりを連れて直樹が診察室に入ってきたころ、ちょうどイルカも戻ってきた。厚めのファイルを手に持っていて、椅子につくとその中からホチキス留めの資料を数組ほど取り出した。
どうぞ、と渡された資料は一人分でもなかなかのボリュームだった。表紙には『インフォームド・コンセント』と英語で書かれているが、ひとりには読めなかった。
「ええー……それではまず最初のページをめくったところの──」
ふたり以外の全員に資料が行き渡ったところで、さっそくイルカ先生による講義が幕を開ける。
実際、講義といって差し支えなかった。試験の目的や概要、スケジュール、予想されるリスクや副作用等々。淡々と語られる一つとして無駄のない情報たちが、ひとりの脳の器にたぷたぷと注ぎ込まれていく。
そして、あふれ出ていく。
だって、難しいのである。
授業で聞いた何百年も前の昔の世界の用語よりも、目に見えないミクロな生き物たちの名前よりも、はるかに複雑で覚えにくい言葉たちばかりだった。
一応、一般人でも伝わるようにイルカが言葉を選んでいるのはわかるのだが、ひとりの知能と集中力は一般人よりやや劣る。頭が「イヤイヤ」を起こして、眠気に逃げようとしている。
これじゃダメだろ、と自分に注意したところで意味はなかった。必死こいてまぶたを見開き、資料をめくり文字を目でたどり、前傾姿勢で耳の穴をかっぽじっても、パンクした頭の穴からするすると情報が抜けていってしまう。
ひとりはもうダメだった。目がぐるぐるしてきた。
あとでちゃんと資料を読み直し、父と母にも詳しいことを要約してもらうおうと彼女は決めた。
それに結局のところ、最後に訊かれるのは「参加するか否か」というものなのだ。その答えはもう自分の中で確定している。
だからたぶん、問題はないだろうと思った。
だからせめて、いまは寝ないようにしっかり意識を現実に留めることに努めた。
「──そういうわけで、参加者はどのタイミングでも試験を辞退することが可能ですので、決して無理はなさらないで結構です──」
少しホッとできる情報がひとりの頭に珍しくストンと入ってきたあたりで、イルカ先生の長広舌も次第に落ち着いてきた。沈みかかっていたあごを上げる。
先生もちょうど自分に顔を向けたところだった。
「──少し駆け足気味になってしまいましたが、ここまで大丈夫そうですかね」
「あ、は、はい……」
ドキッとしたが、ひとりはなんとか首肯できた。
それを見て、後ろの両親にもイルカは同じように目を向け訊ねた。二人はやけに深刻そうな顔でうなずいている。
「ではこれで、試験に関する説明は終わりとなりますが……なにか質問はありますか?」
誰もなにも言わない。ただ、両親の目が自分に向けられているのをひとりは感じた。
なんだろう──そう思っていると、イルカが長い息を吐き、
「──まあ、またご家族で話し合う時間が必要かもしれませんね。こればかりは仕方ないです。ただ、もし参加を希望されるなら、来月までにはお返事をいただけると助かります。私も早めに紹介状は作りたいと思うので」
「え、あ、あのっ」
思わず声をかけた。返事が欲しいのなら、すぐに出せる。
「えと……もう家族で話し合ったので大丈夫、です。なので、」
「ひ、ひとり……」
肩に手が置かれる。振り向くと、父が厳しい顔で自分を見つめていた。
「な、なに?」
「本当に、いいのか……?」
「え?」
困惑する。
父までなにを言うのかと思う。自分の背中を押してくれたのは、他ならぬ父のはずだ。どうして今さらそんな、
そんな──「後悔しないのか?」という顔をしているのか。
直樹は口を開き、
「だって……このままだと──」
……………………。
…………。
……。
「────え」
急いでページをめくる。
父の言ったとおり、それはたしかに資料の最初のほうに記されていることだった。
息が止まる。顔が青ざめていく。
ちゃんと確認するべきだった。話を聞いておくべきだった。
そして、どうしてこんなに運命は自分に意地悪なんだろうと思った。
どうしても乗り超えなきゃいけない壁の存在に、ひとりはつよく唇をかみしめた。
「──喜多さん……っ」
※
『拝啓 喜多 郁代 様
とつぜんのお手紙すみません。スマホがいま使用キンシになってて、連絡とるのがむずかしいので、思いきって手紙を書いてみることにしました。
手紙書くのはじめてなので、書き方とか本でしらべながら書いてます。でも、私はあんまり文章がとくいじゃないので、少しへんかもしれません。すみません。
ちょうしはどうでしょうか? 元気ですか? カゼとかは引いてませんか? ケガとかもしてませんか?
私はとりあえず元気です。体もけんこうです。目もまだ見えてます。ときどき、目のおくが痛くなることはあるけど、それも少しずつなれてきました。
四月にライブがあると言っていましたが、もう終わっちゃいましたか? もしもまだだったら、成功することをいのってます。喜多さんのギターはとても上手いので、いろんな人の心をつかむと思います。
なにを書けばいいのかわからなくて、半日くらいかけて書きました。よみにくかったらすみません。お返事もらえるととってもうれしいです。
めいわくじゃなければ、また手紙を書きます。次までにはもうちょっと上手な文章を書けるようにがんばります。
追伸
喜多さんのお家の住所がわからなかったので、スターリーに送っちゃいました。店長さんにごめんなさいと言ってもらえると助かります。』
ライブ当日の今日、スターリーにくると喜多はいきなり星歌から封筒を渡された。白無地の地味な縦封筒だ。表に書かれている住所はスターリーのものなのだが、宛名はなぜか自分の名前になっていた。
はて、と思いながらも受け取って、裏面の送り主の名前を見ると、喜多は目と口を同時に丸くした。
後藤ひとり
すぐに封を開けた。ガチガチに糊付けされて開けるのが大変だったが、やっとこ開封すると中には一枚の便せんが三つ折りで入っていた。お世辞にも上手いとは言えない縮れたような書体で綴られたそれは、本当に何気なく、面白みもなく、そして温かい文章だった。
「……んふふ」
思わずニヤける。胸がわくつく。三度も読み返したが、やはり嬉しくてたまらなかった。手紙というのは古典的だけど、すごくロマンチックだと思う。文字の一文字、一文字にひとりが存在しているような気がした。
必ず返事を書こうと決め、便せんを胸に抱き込む。こうしていると、彼女の声が聞こえてきそうな気がして、
「──なんだか機嫌いいね〜?」
叫びそうになった。
となりに虹夏がいた。喜多はあわてて後ろに手紙を隠し、そのまま器用に三つ折りに戻してから封筒にしまった。
「あ、先輩……」
「ん、なんかいま隠さなかった?」
「な、なにも隠してませんよ」
「ふうん? それより、なんかいいことあったの? ずっとニコニコしてるけど〜?」
「い、いえ。ただその、今日のライブ楽しみだな〜って……」
へえー、と虹夏は感心するように目を開き、
「心臓つよいなあ、喜多ちゃんは。今日が初ボーカルだってのに。緊張しないの?」
「あ、はは……」
そうなのだ。「あはは」ではない。
今日のライブで、喜多はリードボーカルを担当することになった。そして出番はこのあとすぐ。緊張していないはずがなかった。手紙のことで少しのあいだ現実から逃げ出せていたが、虹夏に引きずり戻されてしまった。おかげで、また手汗がたまり、口の中が砂でうがいしたようにカラカラに乾いてくる。
ちなみに、今まで担当していたリョウは今回サブボーカルだが、決して喜多に役を奪われたわけでも、解雇になったわけでもない。
これは彼女からの課題の一環だった。
文化祭ステージに上がるための条件として、リョウが喜多にこう課してきたのだ。
『──郁代が歌うんだったら出てもいいよ』
なんの冗談かと思いきや、彼女は本気だった。虹夏に「意地悪しないでやったげなよ」と言われても彼女は頑としてこの条件を取り下げようとはしなかった。いわく、「ひとりのためにライブやるんなら、郁代がマイク握ったほうが格好がつくでしょ」とのことだった。
そして当然、勢い任せの弾丸喜多がこの条件に引き下がるはずもなく、
『わかりましたっ。やってみます!』
そういうわけだった。
そういうわけで、今回のライブから実験的にボーカルをやってみようという話になった。
「リハーサルでは上手くできましたし、自信あるんです。本番もこの調子でがんばります……!」
喜多はなんとか笑って見せた。すると、途端に虹夏は心配そうに眉をひそめ、
「ほんとに大丈夫? 無理そうだったら、リョウにいまからでもチェンジしてもらうよう、あたしから言ってあげるよ?」
言いながら、床に座り込んでコクコクと船を漕いでいるリョウを虹夏は見つける。そして睨みつける。
喜多は「いえいえ」とかぶりを振って、
「だ、大丈夫ですよ! 先輩たちが演奏で支えてくれるので、私、安心して歌えると思います」
とはいっても、大切なライブの場で初挑戦というのはなかなかのプレッシャーである。観客の数もクリスマスライブほどではないが、少なくはない。目立つポジションだから突き刺さる視線の数は前よりも厳しい。リハーサルで上手くいったとはいえ、そこで得られた自信など、いまこの場では尻拭き紙ほどの役にも立ちそうにない、
いやこれじゃダメよ、と喜多は頭を振った。本番前にこの思考状態はよくない。
虹夏がリョウの頭を両手でつかんで揺らし起こしているのを横目で確認しながら、喜多は封筒からまた手紙を取り出した。文字を目でなぞっていき、
──喜多さんのギターはとても上手いので、いろんな人の心をつかむと思います。
「んふ」と。また勝手に口元がゆるむのを感じた。
そして、その通りだと思い込む。そうだ、自分はギターが上手いのだ。たくさん練習してきて、ひとりからもこうして認められているのだ。歌だって上手い。カラオケはいつも九十後半を叩き出しているし、高音もビブラートも綺麗に出せるのである。
喜多は細い息を長く吐いた。
失敗なんて、要らぬ心配だった。
喜多は、自分が単純な人間だということを思い出した。能天気で、勢い任せな人種なのだと。
ならば、どこまでもそうであろうと思う。
息を吸うタイミングの難しさも、弾きながら歌うことの不安定さも、一人でギターをかき鳴らす心細さも、まだ心の中に居着いているが、きっとなんとかなるにちがいない。
うん、大丈夫だ。
ひとりとの絆は、こうしていまもつながっている。
一人ではあっても、独りじゃないのだ。
だから大丈夫。不安はもう溶けた。
喜多は仕上げにぺちぺち、と両手で頬を軽くはたいた。ちゃんとした痛みを感じる。手紙を封筒の中に戻してポケットに大事に突っ込み、それから弾けるように立ち上がった。
「──先輩っ! がんばりましょうっ!」
「え?」
虹夏がリョウの胸ぐらを掴んで無理やり立たせながら自分に首をめぐらせ、リョウも起き抜けのしょぼついた目で見上げてくる。
「今回のライブ、ぜったい成功させたいんです! 前回よりも、もっともっとすごいライブにしてみたいんです! だからっ、すっごく、がんばりましょう!」
「あ、う、うん……」
「……へえ?」
ぽかんとする虹夏の横でリョウが口角を少し上げ、
「郁代にしては、なかなかロックな目してるじゃん。いいね」
胸ぐらを掴まれたままのくせに格好つけたセリフを吐いて、彼女は珍しく笑っている。
※
『前略 お手紙ありがとう。
スマホが禁止っていうのにはびっくりしました(笑) やっぱり目に良くないからなのかな? それでもこうして手紙を送ってくれてとても嬉しいです。これからもお手紙で連絡取り合えたらなと思います。
ちなみに、手紙は私も初めてです。どう書けばいいのか、ひとりちゃんと同じように調べながら書いてます。難しいですね。
私はいたって元気です。病気も怪我も大丈夫です。ひとりちゃんも元気だと知って、さらに元気になりました(笑)
あと、ライブの応援ありがとう。すっごく勇気づけられました。前のクリスマスライブはちょっと失敗だったけど、今回は大成功でした! 伊地知先輩もリョウ先輩も喜んでました。もちろん、私も大はしゃぎしました。ひとりちゃんのおかげです。本当にありがとう。
もっといっぱい書きたいことはあるんだけど、便せんの余白がもうあんまりないので、今回はこれくらいにしておきます。あんまり字が上手じゃなくてごめんなさい。次までにはもう少し上手くなるように私もがんばるね。
また、お手紙書きます。
P.S.
封筒にも書いてあると思うけど、一応ここにも私の家の住所書いておきます。
次からはここに送ってね!(店長さん怒ってなかったから安心してね)
「東京都 ○○区 △△△」』
五月に入って、また定期検診の日がきた。
いつもと変わらない検査を受けてから診察室に入り、いつもと変わらない顔のイルカ先生が待っていて、そしていつも通り、検査結果を彼は簡単に伝えてから、
「──それで臨床試験についてですが、先日、私から紹介状の方を書いて送りました」
椅子をキュッと変わりなく鳴らして得意げに言ってきた。
「とりあえずは返事待ちですね。一、二ヶ月ほどかかるかと思います。それまでお待ちいただければと」
「ありがとうございます」
直樹は頭を下げつつ、
「それで……やっぱり参加の倍率は高いんでしょうか?」
「ええ、高いでしょうね」
イルカは腕を組みながら、ふんすと背もたれにかかった。
「再生医療はいま、世界中から注目が集まっていますから。それこそ、世界中の国々から応募者が殺到するはずですよ。倍率は数十倍から下手すれば数百倍まで上がると思います」
「す、数百倍……」
「あの、それってほとんど無理なんじゃ……?」
直樹に代わり、今度は美智代が質問にまわる。
イルカはまだ腕を組みながら、
「ええまあ。普通の応募では、可能性は薄いかと」
さっきからずいぶんと軽く言うなあとひとりは思う。直樹も美智代も、その余裕そうな態度に思うところがあるようで、訝しげにイルカを見ている。
これにはイルカも気づいたようで、こほんと咳払いをして腕組みを解いた。それからタネ明かしでもするような口調になり、
「──そういうわけなので、とある手を使わせてもらいました。これなら確実とは言わずとも、可能性はかなり現実的になります」
全員、眉をつり上がらせた。
「どういうことですか?」
「今回の臨床試験は、国際的な規模でおこなわれるものです。一介の医師よりも、権威ある人物からの推薦の方が主催側の目にも留まりやすいかと思います。──なので、その方から推薦をもらうべく、紹介状を書かせていただいたんです」
ひとりはまだピンとはこないが、イルカがなにか裏技めいたことをしたのだろうというのは理解した。
直樹がおそるおそる、
「それで、どなたにひとりは推薦してもらうんでしょうか?」
「
「青山さん……?」
イルカは鼻の穴を膨らませて言った。
「日本の再生医療の分野で第一人者ともいえる人です。某国立大学の医学部で教授を務めてまして、さらに、今回の臨床試験のスポンサーの一人です」
「そ、そんなすごい方から推薦をもらえるかもしれないんですか?」
そこでイルカは少しだけ眉を下げ、
「ええ。ただ、かなりお忙しい方なので、取り合ってもらえない可能性もあります。ですがもしも、もらうことができれば参加の可能性がハッキリ見えてきます。スポンサーの推薦を蔑ろにはできないでしょうからね」
「それは……どうにかなりませんか? 必ず取り合ってもらう方法とか」
ううーん、とイルカはまた腕を組んだ。
「そうですね……青山さんは『縁』を重視する方でして。そこを見ていただければもしかしたら……とは思いますが」
「エン、ですか?」
「ええ、たとえば青山さんはご子息が歯科医なんですが──後藤さん、歯科医師免許などはお持ちでは……?」
「な、ないですね」
直樹と美智代は苦々しくかぶりを振った。
「あとはそうですね……青山さんにはお孫さんがいらっしゃるそうなんですが、ひとりさんと同じ学校だったりとか……」
ひとりに視線が向く。彼女も苦々しく首を傾けることしかできない。青山なんて人、学校にいただろうか。少なくとも自分は知らない。
イルカはひとりの反応を見て「そうだよな」という顔で笑い、
「まあ、いまのは気にしなくて結構です。研究が手隙な時期であれば、取り合ってくれるかもしれません。いいお返事を期待しましょう」
先月、臨床試験への参加意志が正式に認められた。
最終的な決断を下したのはひとりで、同意書にサインをしたのも彼女だった。いま現在は、その激しい倍率戦争を勝ち抜くために担当医と協力しているところだ。
すべてが少しずつ動き出している。
前に進もうとしている。
だがそれは、自分が思っていたところとはちがう方向にだ。
「……はぁ」
自室で仰向けに寝そべっていたひとりは、大仰に息を吐き出した。ボヤけた右の視界に映るのは輪郭を失った白い照明。手元には何度読み返したかも数えていない喜多からの手紙。胸中にはごちゃごちゃと渦巻く後悔。
本当に自分は正しい選択をしているのだろうかと思う。
これでも喜多は自分の選択を間違ってないと、はっきり言ってくれるだろうかと思う。
わからないことばかりだ。
頭のよくない人間に、あまり難しいことばかり選ばせないで欲しいと願う。
ただ──このままだと必ずお別れの日がくるというのは、頭が理解している。
日常と、
家族と、
そして喜多と。
ひとりは手紙をくしゃりと顔にかぶせた。死体の顔にかけられる白い布のようにして、そのまま自分自身も死体のように動かなくなった。
だけど、死体とちがって涙が出てくる。
※
『前略 お返事おくれてすみません。
おひさしぶりです。リハビリと点字のべんきょうで、なかなか手紙が書けませんでした。すみません。
前のお手紙よみました。ライブが成功したと知って、とてもうれしかったです。私はとくになにもしてないと思うんですけど、力になれたのならよかったです(笑) あ、あと住所もありがとうございます。
そういえば、明日から六月ですね。つゆの時期ですね。じめじめしてて、私はけっこう好きなきせつです。雨はぬれると冷たいのでイヤだけど、家の中から見てるのは好きです。
ちょっとずつ暑くなってきましたけど、たいちょうには気をつけてください。
P.S.
今回はちょっと文章がみじかくてすみません。もっと書きたかったけど思い浮かばなくて。次はがんばります。』
「──郁代、ちょっといい?」
「はい?」
電池ボックスの蓋が行方不明になったチューナーをヘッドに噛ませ、一弦の音が少しズレているのを確かめているところでリョウから声がかかった。首を向ける。
「なんですか?」
「文化祭ライブの件なんだけど、セトリってもう決まってる?」
「え、いや……まだですけど」
さすがに六月の時点で十月のライブのセットリストを考えているはずもなく、喜多は素直に首を揺らした。
それとも、いまのうちから準備しておくのが普通なのだろうか──と考えていたら「そうだよね」とリョウが言ったのでホッとする。
「いや、ちょっと提案があって」
「どんなですか?」
うん、と首肯して、
「よかったらさ、オリジナルソング作ってみない?」
「オリ……えっ?」
「それを文化祭で披露するって感じ」
「え、なになに? なんか面白そうな話してる?」
虹夏もテケテケとやってきて、話に加わる。
喜多は虹夏に言いつける口ぶりで、
「その、文化祭ライブでオリジナルソングをって……リョウ先輩が」
「へえーっ。いいね、楽しそう!」
「でも、学校のライブでオリジナル曲って、けっこう攻めすぎでは……?」
「いいじゃん! 攻め攻めでいこうよ!」
「そうそう。仮にスベっても三人で分け合いっこしよ」
そんなこといっても結局はボーカルが一番ダメージを受けそうな気がする。在校生だし。
しかしまあ、考えてみれば面白い試みだとも思えてきた。観客の注目度も集まりそうだし、青春って感じもする。意外とアリかもしれない。
「そうですね──わかりました」
喜多はリョウの顔を見て、
「私もオリジナルソング、やってみたいです!」
すると、リョウは満足そうにほほ笑みを作って、
「んじゃ、郁代は作詞担当ね。いい歌詞期待してるから」
「はいっ…………ええっ!」
勢いでうなずき、一秒後に喜多は叫んだ。ボーカルに加えて、ズッシリとした課題が追加でのしかかってきた。ひどい罠に引っかかった気分だ。
スターリーの外では雨が上がっていた。
虹が出ている。
※
『前略 お元気ですか。
だんだん暑くなってきましたね。雨が降らない日は、もうほとんど夏って感じで、我慢できなくてエアコンつけちゃったりしてます。
リハビリと点字の勉強、大変そうですね。色々と覚えることがあって忙しいと思います。お返事は落ちついたときでぜんぜん大丈夫なので気にしないでね。
私はどちらかと言えばカラッと晴れた季節が好きだけど、家の中から雨を見るのが好きっていうのは私も同じです。おそろい!(笑)
あと一週間で七月です。ひとりちゃんと初めて会ったときからもう一年経っちゃいます。なんだかすごく早いような気もするし、やっと一年かぁって気もします。変な感じです。
ひとりちゃんはどうですか。
早く感じた? そんなことない?
なんか答えにくい質問になっちゃったね(笑) ごめんね、無視しちゃって?
そろそろこっちは期末試験でばたばたする時期です。みんなブーブー言いながら試験勉強してます。私も勉強やりながら一緒にバンドもがんばってます。ひとりちゃんががんばってるなら、私もがんばろうって気がするからです。
これからもっと暑くなっていくと思うけど、体調管理はしっかりね。
また、お手紙書きます。
P.S.
特に書くことないけど書いちゃいました(笑)
またね!』
大ニュースが二つある。
なんと、イルカ先生の椅子がついに「キュッ」と鳴らなくなったのだ。新しくなっていた。
あともう一つは、例の「青山さん」から推薦状を書いてもらえることになった。
『いや、よかったですよ。これでほぼ確実に……と言ってしまうのは危険ですが、参加できる可能性は高くなりました。通知はまた一ヶ月ほどかかると思いますので、それまでどうかお待ちください』
優しくそう言ってくれてはいたが、椅子の鳴らなくなったイルカ先生に一抹の寂しさを感じつつ、後藤家は病院を後にした。車に乗り込む。ひとりは助手席に座った。
「……あんまり嬉しくなさそうな感じだね?」
車を走らせて数分し、信号に引っかかったところで、直樹が前を向きながら言った。小声なのは後部座席でふたりが寝ているからだ。
ひとりはうつむきつつ、
「そんなことないよ。嬉しいよ」
「親にウソは通じないよ」
「…………はい」
さらに顔が沈んでしまう。
直樹は鼻から息を吐き出し、
「……急にこわくなっちゃった?」
「……うん」
「なにがこわい? 手術?」
「それも……あるけど、」
ひとりは口をもごつかせ、
「みんなと……会えなくなるのが……」
直樹は赤信号を見つめつづける。
目の前の横断歩道を小学生らしき女の子と父親が手をつないで歩いていた。
少しだけ低い声になり、
「……辞退してもいいからな」
「え……あ……っ」
「いやもちろん、諦めろっていう意味じゃないよ。ただ……これ以上、ひとりが寂しい思いをしたくないのなら、そういう選択もあるよって意味で」
「うん、わかってる……大丈夫だよ」
信号は赤のままだ。
赤を見ると彼女のことを思い出してしまう自分は、もはや病気なのかもしれないと思う。
過ぎていく時間とともに募っていく思いが、どんどんとひとりを追いつめていく。
まぶたを閉じる。考える。
目を治して、普通の生活を取り戻したい。
だけど──家族と、喜多と、離れたくない。
心が二つある。どちらも本物で、同じ重さをしている。
クラっと頭が痛み、目を開けた。
信号はまだ赤のままだった。
※
『前略 暑いですね。
つゆが終わって、完全に夏になりました。私もさいきんはガンガンにエアコンをつけてます。つけないと溶けちゃいます。
テストたいへんなんですね。喜多さんはあたまいいので、べんきょうすれば余裕で百点とれると思います。がんばってください。私もこのまえ、杖をつかって点字ブロックの上を歩くテストみたいなことしました。止まらなきゃいけないところをふつうに歩いたり、転んだりして、何回も再テストやりました。
喜多さんと会った日から一年ですね。
私も早く感じるような、そんなことないようなへんな感じです。おそろいです(笑)
ただ、喜多さんと過ごした時間はすごく早く感じて、喜多さんがいなかった時間はゆっくり流れていたようには感じます。ふしぎですね。
テストが終わったら、そろそろ夏休みですよね? いっぱい楽しい思い出をつくってください。
P.S.
アイスの食べすぎには気をつけてくださいね。』
歌詞を任されたときは「そんなの私にできっこない」と食わず嫌い精神で頭を抱えていた喜多だったが、一度書き始めると思いのほか筆がのってきた。
結果として、夏休み前にはリョウに提出でき、一発OKをもらうことができた。
「──すごいね。リョウは割とこういうの辛口なんだよ?」
虹夏が感心したように喜多を見つめる。
喜多はふふん、と少し胸をそらして笑い、
「なんというか、なにを歌いたいかって考えながら書いてたら、けっこう色んな歌詞がふわふわふわ〜って思い浮かんできたんです」
「へえぇ……喜多ちゃんってもしかして天才?」
そんな〜、と喜多がかぶりを振っていると、横で歌詞ノートに顔を埋めて座っていたリョウが急に立ち上がり、
「きたっ。インスピ湧いてきたっ。これは名曲になるかもしれないっ!」
「おおっ、なんかすごいやる気?」
「うん、満々。だからもう帰る。家で曲つくってくる。練習は二人でがんばれ。じゃ」
「え。ちょ、待」
静止の言葉よりもリョウの逃げ足のほうが早かった。階段を滑りあがり、風のように彼女はスターリーからさっさと飛び出していった。
虹夏はやれやれ、とでも言いそうな顔になり、
「ほんっと勝手なんだから〜」
「あはは」
「まあでも……なんかいま、すごくいい感じな気がするな〜。充実してるっていうか」
「はい、私もそう感じます」
二人は目を細め合う。
「──ところで、あたし喜多ちゃんの書いた歌詞ちゃんと見てなかった……というより、リョウが独占してたから見られなかったんだけど、なんていう曲なの?」
「ああ、それは」
虹夏が曲名を訊ねてきたので、喜多は口を開いた。
ひとりの顔を脳裏に浮かべつつ、
「『忘れてやらない』です」
※
『前略 夏休み突入です。
テストも無事に終わって、こっちは夏休みに入りました。テストの結果はぜんぜん無事じゃなかったけどね(笑)
二年生になってからは、夏期講習の時間が一気に増えちゃってなかなか遊べてません。バンドの練習もあるのでさらに遊べる時間は減りそうです。だけど、いますごく充実してるのでそこまで悲しくはないです。
ひとりちゃんの前のお手紙を読んで、すごく納得しました。私もひとりちゃんがいる時間は短く感じて、いない時間はとてもながーく感じます。
だけど、いまはそこまで長くは感じてません。
決して寂しくなくなったわけじゃないよ。やりたいことができたんです。
そのために、いますごくがんばってます。
いまはまだ、ひとりちゃんには話せないけど、必ずいつか教えるから。そのときまで待っててくれると嬉しいです。
また、お手紙書きます。
P.S.
ひとりちゃんもお腹出して寝ないように気をつけてください(笑)』
『前略 またお返事おくれてすみません。
さいきん、いろいろとバタバタしちゃってて、お返事がおそくなっちゃいました。本当にすみません。
もう八月も終わりの時期になっちゃいました。病院にいくと、ひぐらしの声が聞こえてきます。このあいだ、赤トンボが私のあたまにとまってきて、お母さんと妹に笑われました。
夏休みはどうでしたか。本当はもっとお手紙だして喜多さんのことききたかったのに、ざんねんです。
やりたいことができたんですね。すごく気になります。いつ教えてくれるのかワクワクしながら待ってます。
『前略 お返事ありがとう。
忙しかったのね。前にも書いたけど、暇なときにお返事くれれば大丈夫だから気にしないでください。
夏休みはほとんど夏期講習とバンドの練習でした。友だちと遊ぶ時間はほとんどありませんでした。なので、ひとりちゃんに訊かれてもあんまり楽しいお話しはできなかったかもしれません(笑)
夏休みが終わっちゃって少し悲しいけど、これからは文化祭の季節です。いまはクラスの子たちと出し物の準備をがんばってます。もう一つの準備もね。
すごく書きたいことがあるんだけど、それは次にとっておきます。
また、お手紙書きます。
『前略 ひとりちゃんに贈り物があります。
来週、秀華高校で文化祭があります。
招待チケットとパンフレットをご家族のみなさん分、同封しました。来てもらえると嬉しいです。
この日のために、私はすごくがんばりました。人生で一番がんばったと思います。
だから、もし来られるのなら、十月二日の午後三時に体育館に足を運んでみてください。
ひとりちゃんに見せたいものがあります。』
ひとりは手紙を読むと、封筒の中をのぞいた。書かれていたとおり、招待チケットが四枚入っている。一枚取り出して太陽にかざした。
『秀華祭 特別招待券』の文字がハッキリと見える。