もう少しだけお付き合いください……!
大人とはズルい生物である。
結束バンドの次──プログラムのトリを飾るのは、我らが秀華高校の教員たちによる合唱ライブだ。生徒たちの発表には十分間という制約をつけたくせして、これには二十分以上もダラダラと時間をとる。
誰もがアホらしいと思っている。
なので、喜多はひとりと共にここからさっさとおさらばしようと決めた。彼女と二人きりになりたかった。
しかし、先ほどの告白ライブで喜多は観衆からの視線をいまなお一身に集めている。そこでさっつーになんとかできないかとお願いすると、
「外に芸能人がきてるってさーーーっ!!」
彼女は声高らかに大ボラを吹聴した。これにより観客どもは撹乱し、「ありがとう」と小声で伝えてから喜多はひとりの手を取って、そそくさと体育館から抜け出した。
これでもう、大人たちだけを「ズルい」とは言えまい。
「──ごめんね、急に引っ張ってきちゃって」
誰もいない場所を目指してさまよい、たどり着いたのは教室棟校舎、東階段を下った一階。二人が初めて出会った、あの階段脇の謎スペースだった。
「あ、い、いえ。大丈夫です」
ひとりは緊張気味にかぶりを振りつつ、
「そ、それより、勝手に抜け出してきちゃってよかったんですか……?」
「うん。伊地知先輩には片付けまでには戻りますって言っておいたから。──それより、私のほうこそ勝手に連れ出しちゃってまずかったわよね……?」
彼女の両親には「ひとりちゃんお借りします」とは声をかけたが、きっと心配をかけているにちがいない。
しかしひとりは、
「あ、だ、大丈夫です。お父さんとお母さん、喜多さんのことすごく信頼してるみたいなので」
「え、そ、そうなの?」
「あ、はい。なので大丈夫です」
ならよかった。
だが安心して顔を突き合わせると、急激に気恥しさが熱を取り戻した。同じタイミングで彼女たちは顔を背け合い、沈黙が二人のあいだに落ちた。血液の温度が上がり、体内のあらゆる脈がドクドクと波打っている。
「えっと……とりあえず座ろ……?」
「は、はい……」
なにを言っても気まずくなる。ただ、それは決して居心地の悪いものではないと思う。階段に二人で腰をおろしてもなお、つながれたままの手がそれを象徴している。
少ししてから喜多は思い切って口を開き、
それと同時にひとりも口を開き、
──あのっ、
同じ言葉がぶつかった。
「あ、な、なあに?」
「あ、いえっ、き、喜多さんから、どうぞ……!」
「あ、うん……」
喜多も譲るべきか迷ったが、また譲り返されるだろうと予想し、素直に発言権を受け取る。
「えっと、今日はきてくれて本当にありがとね? すごく嬉しかった。私、本気でがんばれたと思う」
「あ、わっ私のほうこそ……こんなにすごいライブ見せてもらって……ありがとうございます」
ひとりは珍しく言葉をつなげ、
「喜多さんのがんばり、すごく伝わってきました。いっぱい、いっぱい努力してきたんだなって、ちゃんとわかりました」
喜多は小さく笑みを浮かべ、
「それでも、ひとりちゃんにはまだまだ敵わないけどね」
「い、いえそんな……いまの喜多さんは、私なんかよりよっぽどすごいギタリストです」
「そんなこと」
「そっそんなことあります。本気で……そう思ってるんですっ」
ひとりが首を向けてくる。力づよい目だった。微塵も自分の発言を疑っていない光が宿っていた。
「……ありがと」
その目を受けて、喜多は優しく口の端を持ち上げる。それでひとりは照れたようにまた顔を正面に向け直す。
十月なのに外でセミが鳴いている。
たった一匹だけ。ヒグラシだった。
ひとりは小さく息を吸い、
「……だから、喜多さんを見て私も……がんばらないとダメだよなって……そう、思いました」
控えめに言う。
喜多はひとりを見る。前向きな言葉を口にしているにしては、表情がやや固いし暗かった。迷いの色が顔全体を這っている。もうしっかり翼が生えているのに、飛ぶことをためらっている子供の鳥のように見えた。
「ひとりちゃん……?」
「…………あの、喜多さん」
お互いに名前を呼び合う。今回は喜多が発言権を譲った。
「あ、うん。なあに?」
ひとりは唇を舐めた。決意をこめた口調で、
「──私、治療を受けることにしたんです」
「あ……っ」
喜多は目を大きくした。それは以前、電話で話したときからずっと気になっていたことだ。
重たい話題だから手紙では気軽に訊けなかったし、ひとりからも言ってこなかった。どうするのだろうと長いあいだ心の奥底に疑問がこびり付いていた。
ようやくその答えが聞けた──しかし、喜多の内側はこれっぽっちもスッキリしない。決意に対するひとりの迷いの表情がどうしても解せないのだ。
喜多が言葉を探して目線を泳がせていると、
「……でも、本当は受けたくないんです。辞退しようかとも考えてて……」
「え……?」
喜多は思わず、
「どうし、」
どうして。そう訊ねようとする前に、治療の成功率の話を思い出す。
目を伏せる。舌を噛んで自分を叱った。どうしてじゃないでしょ。失敗するかもしれないのよ。誰だってこわいに決まってるじゃない。受けたくないなんて、やっぱり辞めようかなんて、当然の感情でしょ──。
ところがひとりは喜多の心を読んだように、
「べつに治療がこわいわけじゃないんです。……いや、少しはこわいですけど、それはもう覚悟できてるんです」
喜多はじゃあいったいなにが、という顔をする。
片目を失った少女は喜多の目を見つめている。メガネの奥にある弱った右のターコイズの瞳を寂しげに揺らしながら、
ひとりは言った。
「私──アメリカに行かなきゃいけないんです」
「────え?」
いきなりだった。
あまりにも突拍子もない言葉に喜多は意味もなく笑いそうになった。けれど、ひとりの表情は真剣そのもので、すぐに正気が喜多の口角を押し下げた。
ひとりは言葉を継ぐ。
「私の受ける治療……臨床試験っていうのが、来年の五月、アメリカにある病院でおこなわれるみたいで……そのために、日本を離れなきゃいけなくて。だから……」
「そ、そうなの……」
それはたしかに迷うかもしれないなと喜多は思う。住みなれた国を離れて、異国で治療というのは自分の身になって考えてもそうそう簡単に決断できるとは思えない。
とはいっても、
「で、でも……治療が終わったらすぐ帰ってこれるんでしょ……?」
なにも永遠に移り住むわけではないだろう。長くても一年くらいで帰国できるのでは。そういう思いと希望を込めて喜多はこわごわ訊ねた。
しかしひとりはふるふる、と首を横に振り、
「く、詳しくはわからないですけど……経過観察の期間がけっこう長いみたいで……三年は少なくとも、と……」
「さ、三……」
言い放たれた言葉の重みに頭がぐらつく。成人になるまで彼女は帰国できないというのか。体が傾ぎそうになった。
ひとりは追い打ちをかけるように、
「しかも……そのあいだは家族以外の人とは面会できないって決まりで。手紙とかスマホでの連絡も、情報が漏れるのを防ぐためにということで禁止されてて……」
つまり、向こうにいってしまうと一切の連絡手段が封じられ、仮に会いにいったとしても自分では顔を合わせることすら許されないと彼女は言っているのだ。
これを聞いて、喜多はしばらく口をつぐんだ。当然、ショックだった。どこまで運命は自分たちを遠ざけようとするのだろう。
だが、喜多は歯をきしって悲しみを追いやった。これまで幾度も苦しみを味わってきた。つらいことがあった。それでもがんばって乗り越えてきたのだ。ここで屈したくはなかった。
喜多は一縷の望みを期待し、
「で、で、でもっ……べつに永遠の別れってわけじゃないのよね……? いつか必ず帰ってくるよね……?」
「それは……はい……」
ひとりは小さくこく、とあごを引いた。
よかった──喜多は大きく安堵した。最悪の展開は回避できたのだ。もうそれで十分だった。
「それなら……私、待つよ? ひとりちゃんが帰ってくるまで日本で待ってる。寂しいけど……また会えるのなら、いつまでもずっと」
これにひとりは無言で返す。長い髪を柳の枝のように垂らし、表情を隠している。
「どうしたの……?」
彼女の顔をのぞき込もうとする。と、
「──イ、イヤです」
ひとりは静かに頭を揺らした。
「私にはっ、無理ですっ、三年なんて、耐えられない……っ」
「え……」
「そんなにっ、長い時間会えないなんてっ、私はっ、イヤですっ!」
勢いよく持ち上がったひとりの顔を見て、喜多は言葉が尽きた。瞳が潤んでいた。つながれた手がひどく震えていた。
「がんばらないとって──我慢しないとダメなんだっていうのはわかってるんですっ。そうしないと、目が治らないっていうのは頭ではわかってるんですっ。今日の喜多さんを見て、なおさらそう思いましたっ。前に進まないとダメなんだってっ! だけど──だけどっ、」
ついに我慢できなくなった様子で、ひとりの顔が大きく歪んだ。倒れ込むように喜多の肩に顔を埋めた。
「私は──喜多さんが、好きなんです……っ、私だって、大、大、大好きなんです……っ」
遠慮なんて投げ捨て、ぐしゃぐしゃと喜多に抱きつき、
「もうこれ以上っ、離れたくない……っ、ずっと、一緒に、いたいっ……!」
ボタボタと大粒の涙がこぼれ落ちる。喜多の肩には彼女のシミが作られていく。その様子を喜多は黙って見つめる。
この恋は報われないものだと思っていた。
それでいいはずだった。
彼女は生きることに必死で、誰かに恋をする余裕なんてなくて。喜多も、ひとりが立って、ひとりが話して、ひとりが笑って、そうしてひとりが普通の幸せを手に入れられれば、それでよかったはずだった。
しかし、いま。ひとりはこうして自分を求めてくれている。自分と一緒にいたいと言ってくれている。自分を好きだと言ってくれている。
喜多は思う。
自分にはなにができるだろう。
大したことはできないだろう。
でも、ほんの少しだけ、彼女の背中を押してあげるくらいならできるかもしれない。
「──ねえ、」
彼女に体を寄せる。
「ひとりちゃんは、私たちの関係ってなんだと思う?」
「ぇ……?」
まだシクシクと涙を流すひとりは、真っ赤な目で疑問の表情を作った。
喜多は柔らかく笑い、
「私はね? 友だちよりも、恋人よりも、もっともっと深くて、つよくて、カッコイイ関係だって思う」
ひとりはしゃくり上げながら、首を少し傾けている。
「だってそうでしょ? 私は銀河一のギタリストで、ひとりちゃんはその先生なんだもん。こんな広大な関係性の二人、ほかにいないわよ」
ひとりは鼻をすすっている。
喜多はまた少し笑いかける。そして、ひとりの両手を自分の両手で包み込みながら、
「──だから大丈夫。私たちはどこにいたって、どれだけ離れてたって、そう簡単には切れないつよいつよい絆で結ばれてる。長いあいだ遠いところにいたとしても、心ではちゃんとつながってると思うの」
「喜多……さん……っ」
ようやくひとりが声を出した。鼻の詰まった声だった。喜多は一度だけうなずいて、
「私は、ひとりちゃんがどんな選択をしても正しいって信じてる。でも、私のことで悩んでいるのなら、その背中を押させて欲しいな」
そう言って、
ひとりを抱きしめて、
まわした手で軽めに背中をペシッ、と叩き、
耳元で。
「──ずっと待ってる。何年でも。目を治して、帰ってきて、そしたらまたぜったいに会おう……?」
少し離れる。顔を見る。
ひとりは目を伏せていた。「ぅ」と彼女の喉で締めあげられるような音が鳴った。喜多の言葉にうなずこうとしているが、まだ自分の中で昇華し切れない思いがあるようで、難しそうな表情を浮かべている。
あともう一押し、なにかが必要かもしれないと喜多は考えた。
そこで、ちょっとだけ欲を出してみたくなった。
今日はたくさんがんばった。
ひとりにも認められた。
彼女の気持ちを知ることもできた。
だから、
だから、ほんの少しだけ。また安っぽい少女に戻ってもいいだろうか──。
「ひ、ひとりちゃん……」
喜多はひとりの両肩に手を移動させる。
「もしも……まだそれでも不安なら……いまここで、もっとつよい絆、結んでみる……?」
「え……えっ?」
ひとりは伏せていた目を丸くして上げてきた。遠回しな言い方をしたつもりだが、雰囲気で察したのか「ボンッ」と音が聞こえそうな勢いで赤面した。
「ど、どうかしら……? イヤならやめるけど……」
「あ、えっ、えっ、えっと……!」
ひとりはカメレオンみたいにあっちこっち右目の視線を暴れ回し、
それからしきりに髪をかき分け、
ずるずると鼻水を引っ込ませ、
後ろを向いて手のひらに「はぁーっ」と息を吐いて口臭チェックを済ませ、
静かに、喜多の目に視線を落ち着かせた。
「あ、そ、その……はい……」
ひとりは肩をすぼめながら、
「きっ絆……欲しい、です……」
喜多はあごを引く。
「じゃあ、目……閉じて……?」
「っ、は、はい……!」
メガネをはずし、素直に目を閉じたひとりのまぶたは、大福のように白くて、まだ少しだけ濡れていた。喜多は指先で優しく涙を取り除いてあげたあと、
「い、いい……? するからね……?」
喜多の念押しにひとりはこくこく。
つばを飲む。呼吸を殺して、喜多はひとりの顔にじりじりと近づいていく。自分自身を焦らすように、階段上の窓から顔をのぞかせる赤い西日にバレないように、ゆっくり、ゆっくりと近づいていく。
外ではヒグラシが鳴いている。いや、もうひょっとしたら鳴いていないのかもしれない。べつの場所に向かって飛んでいったのかもしれない。
それでも、ヒグラシが頭の中で鳴いている。そういえば、彼女と初めて会ったときも鳴いていたことを思い出す。
唇が迫っている。ヒグラシが鳴いている。喜多も目を細めていく。少しだけ防虫剤のにおいがする。彼女の体温を感じる。
ひとりのギターの音がする。
────ん
いったいどれほどの時間が経っただろうか。
唇の先に温かさと柔らかさを同時に感じて。頭の芯からぼうっ、と熱が生まれ、体に広がっていく感覚があって。思考がロウソクのように溶け落ちていく感じがして。ヒグラシの声はもうすっかり聞こえなくなってしまって。
気がつくと唇が離れ、二人はめまいがするほどの至近距離で見つめ合っていた。
「どう、だった……?」
なにが「どう」だと喜多は言ってから思う。ファーストキスだったくせに。そんな相手に感想を求められるほど余裕もないくせに。心臓がやぶれてしまいそうなほど、みっともなくドキドキしているくせに。
ひとりは「あぅ」と一言だけ鳴き声を発して、
「す、すっすごく、すごくて、そのっ、」
それからもう一度言い直すように、
「その──すごく、よかった、です……」
「それ、ライブの感想と一緒じゃない?」
ふっ、と笑いがこぼれる。
「あ、た、たしかに」
つられてひとりも笑う。
「あ、で、でも、ライブと同じくらい、すごい衝撃で……頭の中がボーッてしちゃって……」
「うん、そっか……」
自分と同じ感覚だったようでホッとした。どうやら彼女も初めてだったらしい。
ふわふわした幸せの中で、ふと喜多の頭の中の乙女が顔を出した。ささやいてくる。
キスまでしたんだ。ここまできたらあともう一段階、進んだっていいじゃない。進むしかない。もっと関係を深めて、絆をつよくするんだ。
じゃあどうすればいい、と喜多は訊く。
頭の中の乙女は当然のように答える。
『変化をつけろ』
「あ、あの、喜多さん……っ」
「──い、」
喜多は絞り出す声で言った。
「郁代、って呼んで……?」
「え」
「な、名前で呼んで欲しいなって。ひとりちゃんには……」
「え、あ……でも、いいんですか……?」
遠慮がちにひとりは訊ねる。喜多が下の名前で呼ばれるのを快く思わないのは彼女も知っている。
しかし喜多はつよくうなずく。
「うん……いい」
たったそれだけ。
けれど、自覚できないほどの勇気をこめた。
ひとりは口をもごつかせている。口の中で自分の名前を作っているのだろうと思う。だけどあまり焦らされると恥ずかしいのではやくして欲しいと喜多はソワソワする。
やがて、ひとりは自信なげに口を開くと、
「…………い、い──郁代、ちゃん」
「……っ! は、はい……!」
喜多は背筋を伸ばして返事をした。ひとりは間髪入れず、
「いっ郁代ちゃん、あの……あの、もう一度、」
「うん?」
「もう一度──してもいいですか……?」
「へ?」
二回まばたきをした。
「ま、まだ、これだと絆が足りないのでっ、だから、もう一回、したいです……」
「あっ、え、ええっと……」
意外な積極性に喜多は当惑する。そして、バカみたいに顔が熱くなる。自分はこの一回で心身ともにいっぱいいっぱいなのに、ひとりはまだ求めているというのか。
でも、イヤなわけがない。
「うん……」と喜多はあごを引き、「いいよ……?」
「あ、じゃ、じゃあ、」
攻守交替とばかりに、ひとりが喜多の両肩をつかんでくる。今度はその大胆さに胸が飛び跳ねる。
「キ、キスだけだからね……」
せめてもの強がりを主張するも、その声は弱々しい。ひとりは「も、もちろんです」と言いながら、
「目……閉じてください」
言われたとおり、喜多は視界を暗くした。
数秒後、ふたたびあの感触を唇に感じる。衝撃がくる。先ほどよりも長い。ただ触れ合っているだけ、唇をついばむだけの子供みたいなキスなのに全身が幸せに包まれている。
その後も、二人は何度も何度も絆をたしかめ、つよく結びつけた。なにも考えられなくて、なにも聴こえなくて、ただただ思いに任せて、口づけを交わし続けた。
そんな中、喜多はファーストキスの味を知った。何十回と重ねてきた初めての相手とのキスは、少ししょっぱくて、温かかった。
なんだろうとは思わない。
自然と自分の目からこぼれ落ちてきた涙の味だった。