(更新遅れるかもしれません汗)
『前略 寒くなってきました。
十月もおわっちゃって、もうすっかり冬ですね。カレンダーを見ると、十一月は「霜月」っていうよび方もするそうです。どおりで寒いわけです。カゼ引かないように気をつけてください。
学校のほうは忙しいですか? 文化祭がおわったあとってなにしてたか、私もうあんまり覚えてないんですけど、テストべんきょうしているんでしょうか。たいへんそうです。
私はさいきん、ちょっと落ちついてきました。前までは保険の手つづきだったり、ビザとかパスポートのしんせいをしたりとかでバタバタしてましたけど、ようやく色々おわってホッと一息ついてます。目も悪くないじょうたいが安定してて、このままなら治りょうまで保つかもしれないとお医者さんからも言われました。
まだまだやることはたくさんあるけど、私はがんばってます。私の体もがんばってくれてます。これからもがんばっていきます。
でも、がんばり過ぎるとつかれちゃうので、たまにはごほうびが欲しいです。
なので、郁代ちゃん。
まだ少し先の話ですけど、今年のクリスマス、時間があったら私とデートしてくれませんか?
去年のリベンジがしたいんです。今年こそおっきいクリスマスツリーを見てみたいんです。一日おくれじゃない、本当のクリスマスデートがしてみたいです。郁代ちゃんと。
もちろん、ムリだったらだいじょうぶです。ただのわがままなので。色々とめいわくをかけちゃうだろうし。
本当に気が向いたらでだいじょうぶなので。すみません。お返事まってます。
手紙を読み終えた時点で、喜多の中では答えが決まっていた。
当然、「イエス」だ。
※
十二月二十五日。
終業式が終わったあと急いで校門に向かうと、すでに路上に一台の車がとまっていた。喜多は「待たせちゃったかな」と思いつつそろそろと近づき、ためらいがちに車の窓を二回ノックした。
すぐに中からガチャリ、と音がしてパワースライドのドアがゆっくりと自動で開いていく。見えてきたのはひとりの顔だ。
「こ、こんにちは」
「ごめんなさい、遅くなっちゃって」
「あ、いえ、ぜんぜん。いま来たばかりですので。──ど、どうぞ」
言いながらひとりが奥の席に体をずらす。あまり路駐させてしまっても申し訳ないので、喜多もすぐさま乗り込んだ。ドアが閉まると車も一緒に動き出した。ショッピングモールに向かって発進する。
走行中に運転席から直樹が、
「今日はありがとね、喜多さん。ひとりのわがままに付き合ってくれて」
「ああいえ、そんな。私も遊びに誘ってくれて、すごく嬉しかったです」
「でも、今日はクリスマスでしょ? ご家族のほうで用事とかあったりしたんじゃない? だとしたら申し訳ないなあ……」
「いえいえ。うちはそういうのは特に。それに、用事があっても私はひとりちゃんのほうを優先しますよ」
三割は冗談、七割は本気で喜多は答える。
直樹はバックミラーに細めた目を映し、
「そっかそっか。愛されてるんだなあ、ひとりは」
ひとりが「うう」と言いながらとなりで縮こまる。
「──じゃあ、今日は二人とも思う存分『デート』してきなよ? 僕たちは買い物してるから遠慮なく」
「あ、ははは……」
やや強調ぎみに放ってきた言葉に喜多は顔を沈ませながら笑った。心がくすぐったくてモジモジしてしまう。横目でひとりを見ると、彼女もほのかに顔を赤らめながら自分を見ていた。
「デート代出そっか?」と助手席の美智代がニコニコしながらこちらに振り返ってくる。ひとりを挟んでとなりに座っている妹のふたりが「喜多ちゃんっておねーちゃんの彼女?」とあけすけに訊ねてくる。
喜多は緊張と照れくささがないまぜになったような笑みをずっと浮かべて、彼女の家族たちと話した。思っていたよりも親しみやすい人たちだったので、話が弾んで楽しかった。
その間、ひとりとの会話は特になかったが、べつに構わなかった。これからいくらでも話す時間はある。それに、言葉を交わさずとも密かに二人の手はずっとつながれていた。
学校から歩いていける距離なので、十分と経たずに車はショッピングモールに着いた。エントランスでひとりの家族と別れ、ようやく彼女と二人きりになれた。
「あ、あの、すみません。家族込みになっちゃって……なんかデートっぽくないですよね、これじゃ……」
八の字眉のひとりに、喜多はいいのいいのと笑って返す。
「一人でくるのは危ないし、むしろよかったわよ。それに、私もご家族の方と仲良くなれて嬉しかったし」
「あ、へ、へへ……そうですか」
「それより、これからどうしよっか? お昼食べにいく?」
クリスマスツリーは午後五時からライトアップが始まる。ひとりには最高に綺麗な状態でのツリーを初見で見てほしいので、それまでは時間をつぶそうと喜多は考えていた。
ひとりは同意した様子でうなずき、
「あ、はい。お腹すきました」
そうなれば昨年同様、まずは飲食店さがしである。「じゃ、いこう」と言いながら喜多はひとりの手を引き、彼女の歩調に合わせて足を送り出した。去年は昼飯選びに失敗してえらい目にあったが、今年こそは「いい感じ」を見つけ出したい。ロマンチックな食事にしてみせるぞと喜多は意気込む。が、
「ひとりちゃんは、なにか食べたいものある?」
ひとりの意向も聞いておくべきだろう。雰囲気も大事だが、やはり彼女が好きなものを自分も共有したいと思う。
「え、あぁ……」
ひとりは躊躇した様子で、
「い、一応……はい」
「あ、ほんと? なあに? 遠慮しないでいいわよ」
「え、ええーと……」
乙女のように恥じらう彼女は、上目であどけなく答えた。
「ぎょっ、餃子」
──まさか二回目のデートも例のバカデカ餃子に苦しめられるとは思わなかった。胃が「痛い」や「苦しい」を通り越して「踊っている」感覚は久々だった。
どうやらひとりは店の雰囲気はともかく、あの店の味が気に入っていたらしかった。「ニンニクの効いたガツンとした味がクセになるんです」と食べ終わったあと満足げに語っていた。
なぜ人が争いをやめないのか、という世の真理が喜多にはわかった気がした。他人が理解できないからである。
とはいえ、まあ悪くないかなとは思う。
ひとりが喜んでくれたのならそれでよかったし、お腹もバツグンに膨れて一石二鳥だ。
スカートのアジャスターを三センチほど屈辱的にゆるめながら、喜多はそうやってなんとか勝利を拾った気分になり、買った黒烏龍茶を勢いよく呷った。
少しずつ腹が落ち着いてきたあたりで、お互いにいきたい店を代わりばんこに言い出し合おうという流れになった。
喜多はコスメストア、ひとりは本屋。
喜多はライフスタイル雑貨店、ひとりはペットショップ。
喜多はアクセショップ、ひとりはヴィレヴァン──などと次々提案し、順番にまわっていった。
四時半を過ぎ、ひとりの番でそろそろ最後になるかというあたりで、彼女は楽器屋にいきたいと言い出した。
「え、楽器屋?」
これには喜多もまぶたをしばたたかせた。ひとりの口からその提案が出てくるとは思わなかった。
ひとりはうなずき、
「あ、は、はい。ダメですか……?」
「う、ううんっ。ぜんぜん!」
喜多はかぶりを振りつつ、もしかしてと考えた。
もしかしたら、ひとりはギターを再開しようと考えているのではないか。そういう決意が芽生えたのではないだろうか。
もちろん、単なる気まぐれの可能性もあるかもしれないが、それでも喜多は嬉しかった。昨年は楽器屋にいくことを拒んでいた彼女が、自分からいきたいと言っている。よい方向に事が動いてきている気がした。
「すみません。すぐ戻るので。待っててください」
楽器屋に着くと、ひとりはそう言って一人で店の中に入っていく。喜多は店前のベンチでハチ公になった。
彼女が店内で転ばないか心配だし、自分も新しいエレキ弦が欲しかったので付き添いたかったのだが、「ここで待っててください」、「すぐなので」とやたら念押しされてしまった。よくわからないが、必死な感じだったのでしぶしぶ従った。
十分ほどで彼女は帰ってきた。
手には小さめのお買い上げ袋が提げられていた。
「すみません、お待たせしました」
喜多は立ち上がりながら、
「大丈夫よ。なに買ったの?」
ひとりはもったいぶるような口ぶりで、
「ええと……まだ秘密です」
そうして、珍しい表情をつくった。
人差し指を唇の前で立て、小さく口角を上げた。薄桃色の長い髪に縁どられた、イタズラ小僧のようなほほえみ。
五時も目前に迫っていたので展望デッキに向かうと、すでにけっこうな人が集まっていた。自分たちと同様にライトアップの瞬間を見たい人たちなのだろう。みな揃って、手すりからスマホのカメラを下に構えている。
「あ、郁代ちゃん、いま何時ですか……?」
ひとりに訊かれる前から腕の時計に目を落としていた喜多は、
「もうすぐよ。あと四分」
「ド、ドキドキしますね」
「うん、ワクワクする」
二人で柵の近くまできて下を見下ろす。駐車場付近の広場にも大勢の見物客が集まっていて、今か今かと薄闇の中のツリーを見守っている。
星が落ちてきそうな空の下、ピリつくような鋭い風がびゅうびゅうと容赦なく煽ってくる。ひとりが身震いしていたので、喜多はカバンから自分のマフラーを取り出した。後ろから彼女の首にぐるりと回した。少し雑に巻いてしまったせいで、忍者のマスクのようになった。
ひとりは一瞬、眉をぴょんと跳ね上げながらも、次に口元の見えない状態で喜多に目を細め、
「あっ……ありがとうございます」
喜多は大したことないという顔でほほをゆるめる。
「まだ寒かったら言ってね? ホッカイロもあるから」
「は、はい……あの、郁代ちゃんは寒くないんですか……?」
「うん。これくらいへっちゃら──」
風の子をアピールした直後、またつよい風が吹いてきた。ひとりに巻いたマフラーがはためき、喜多の前髪がすべて持ち上がり、喜多は小さくくしゃみをした。ずるっ、と鼻をすする。情けない。もう少しくらい格好つけたかった。
ひとりが小さく笑い、
「あっ、よ、よかったら一緒にどうですか……?」
ひとりがマフラーの端を持ってヒラヒラと揺らした。二人で巻こうと言っているのか。
そんな恥ずかしいこと、と思う。できるわけが、
喜多は周りを見渡した。カップルや子供連れの家族が多い。まあ、この状況ならべつにそこまで恥ずかしいことじゃないわよね、と自分に納得させ、
「…………う、うん」
答えるとひとりが身を寄せてきた。マフラーを半分ほどき、余った部分が喜多のあごから下に丁寧に巻かれる。ひとりの体温がまだ残っていた。
「あったかい……」
ひとりは喜多の肩にぴったりと自分の肩をくっつける。
「わ、私も……あったかいです」
ほほが触れ合いそうなほど体が近づいているのに、二人はあまり恥じらいを意識していなかった。ただ、お互いがそこにいるという安心感だけが心の表層をただよっていた。
身の裂けそうな寒さがほどよく和らいできたところで、喜多の瞳に淡い光が映し出される。
顔を上げた。周囲のざわめきが大きくなってきている。
ツリーの頂点にある大きな大きな星が、今まさに命を吹き込まれたかのように、弱々しく点滅していた。そしてこれから大爆発するぞ、とでも警告しているかのように、その点滅を早めていく。
誰もが星を見ている。
その輝きが放たれる瞬間を待ち望んでいる。
喜多はひとりの手をぎゅっとつかんだ。彼女もにぎり返してきた。
いま、自分たちは一つになっている──そう思った次の瞬間、
クリスマスツリーが、まばゆい輝きを放った。
最初は頂点にある星がキンキンとした派手な黄金の光を灯し、その輝きが徐々にツリー全体を包み込んでいく。まるで光の源となるエネルギーが天から降り注ぎ、ツリーを上から撫でていっているようだった。幾千ものイルミネーションが波打つように一斉に点灯していき、赤、緑、金のライトがまたたく間に夜空を照らす。周囲の空間が柔らかな光で飽和する。人々の驚きと感嘆の声は、その美しさを讃える歌声のように響き渡っている。
「わあ……!」
ひとりもその光景に白い息を吐き出した。
「すごい……っ」
「大丈夫? 見える?」
「は、はい……!」
「ふふっ、綺麗でしょっ!」
喜多は自分の手柄だと言わんばかりにふふん、と口元に大きく弧を描いた。やっと彼女にこの景色を見せてあげられた。沸き立つ達成感が喜多の中でツリーのライトに負けじと輝いている。
そして、ひとりの目も輝いている。視力が弱っていても、メガネをかけていても、片目が見えていなくても、どこまでも彼女は普通の女の子で、爛々と輝く瞳は下のツリーを一心に見つめている。
さあ、
そろそろいい頃合いかもしれない。喜多はカバンの中に手を突っ込んだ。昨年と同じように、クリスマスプレゼントを渡そうと思った。
こほん、と咳払いする。サプライズ感あふれる声色で、ひとりの名前を呼ぼうとする。前に、
「あ──あの、郁代ちゃん……」
「え、あ、はいっ?」
途端にひとりが顔を上げ、名前を呼んできた。機先を制されたようで間抜けな声が出た。あわてて取り出したプレゼントをカバンに戻す。
「じ、実はその……私、いっ郁代ちゃんに……渡したいものがあって……」
「渡したい……」
あっ、と気づく。喜多は察しが悪い人間ではない。
今日この日に渡したいものといったら、なんなのかはすぐ思いつく。
ひとりはあからさまに調子の外れた声で、
「じゃ、じゃじゃーん……! プレッ、クリスマスプレゼント、でぇーす……!」
そして、綺麗にラッピングされた包み──ではなく、さっき楽器屋で買い物してからずっと手に提げていたレジ袋を手渡してきた。
受け取る。「お買い上げありがとうございます」のメッセージがイルミネーションに照らされよく見える。
喜多がわあ、と声を上げる間もなく、ひとりは口内炎を噛んだかのような表情になり、
「す、すみません……そんなお粗末な形で……ほ、本当は店員さんにラッピングお願いしようと思ったんですけど、恥ずかしくて言えなくて……」
そんなことだろうと喜多は思い、苦笑した。
「いいのよ、そんなの気にしなくて。もらえるだけ嬉しいわ。ありがとう」
「あ、でも……去年はすごく綺麗な包みでもらったのに……私は……」
「いや、ええっとね? 実はその……私も今年はそんなに綺麗じゃないっていうか」
白状するように、喜多はゴソゴソとカバンの中から不織布バッグを取り出す。それをひとりに手渡す。
「えっ。これは……?」
「えへ、私からもクリスマスプレゼント。すぐ見てもらいたかったから、裸のままバッグに入れて持ってきたの。だから、あんまり格好つかないんだけど……でもこれでお互いさまね?」
「わあ……あ、ありがとうございます。見ても……いいですか?」
「うん。私も見ていい?」
「は、はい」
そして同時に二人はプレゼントを開封、確認。
「あっ、エリクサーとピック!」
喜多が受け取ったプレゼントは、ちょうど欲しかったエレキ弦が数種類といくつかのカラフルなピックだった。しかも、ピックは喜多の好きなトライアングル型だ。これがよく手に馴染む。いま使っているものがすり減ってきていたから、これも最近買い換えようと思っていた。
正直、かなり嬉しい。プレゼントの内容もそうだが、彼女が自分のことをよくわかってくれていることが、ワクワクとした喜びを体に与えてきた。
一方でひとりは、
「これって、」
彼女がバッグから取り出したのは二着の服。一つは半袖のTシャツで、もう一つはフード付きのパーカーだ。どちらも黒だが、重要なのは正面。
「け……結束、バンド……?」
結束バンドの文字とロゴが入っている。
ひとりは困惑した様子で喜多の目を見て、
「あ、あの、これは……?」
「それはね、私たちがライブのときに着てるバンドTシャツとパーカーなんだ」
喜多は言った。
「──で、それはひとりちゃんの分」
ひとりはさらに困惑し、
「な、なんで……私は、もう……っ」
「これは、結束バンドみんなからのプレゼントなの。ひとりちゃんがいつでも戻ってこられるようにって」
「え……?」
「目を治して、日本に帰ってきたら、それを着てまた一緒にバンドやろうって。そういう意味で」
ひとりは言葉を失くした。
喜多は構わず言葉を継ぎ、
「率先して作ったのは伊地知先輩だけど、発案は私なのよ? もちろん、色々と手伝ったんだから。パーカーはひとりちゃんが好きそうなフード大きめのデザインにしてもらえるよう頼んだり、ポケットもカンガルー式に──、」
と、
話しているあいだにひとりが半歩近づいてきて、顔をぽすん、と喜多の肩に押し付けた。ゆっくりとした動作でひとりは腕をまわし、喜多は彼女に包み込まれた。
「……どうしたの?」
「──いいんですか……?」
「うん?」
「ま、また、バンドに、」
ひとりはつばを深く飲み込みながら、
「いっ一度、抜けたのにっ、またっ、戻っても……いいんですか……?」
「……うん、もちろん」
喜多もひとりの背中に腕をまわす。そして背中から頭に手を移動させる。髪を梳くように撫でた。
「私なんか、一度逃げ出したのにまた戻してもらえたんだから。ひとりちゃんなら大歓迎よ」
「で、でも、」
ひとりの体が触れているところから、彼女の中の不安が鼓動しているのが伝わる。どんな不安を抱いているかは喜多には全てつかめない。それでも「大丈夫よ」とあっけらかんと笑いのけて、
もう一度、マフラーを自分たちの首にしっかり巻きつけながら、
「また──四人で結束しよう?」
ひとりはもうなにも言わなかった。
無言であごを引いている。口の中で嗚咽を殺している。そのたびに肩が波打っている。
けれど、去年のように辛そうに泣いてはいなかった。
「ごめんなさい」とも言わなかった。
その代わり、小さく、周りの歓声にかき消されてしまいそうなほどにか細い声で彼女は言った。
ありがとう。
聖夜が闇を退かせている。上空に浮かぶ星々も、ツリーの輝きに嫉妬したかとばかりにギンギラとつよく輝いている。一つのマフラーを二人で巻くおかしな少女たちは、天と地の光の中に包まれている。
与えられている時間はあと三ヶ月。
その間に、彼女たちは二十四通の手紙を送り合った。
※
アメリカ行きの荷物がぱんぱんに詰められた大型のキャリーケースがどかんと並べ置かれたリビングには、後藤家でメモ帳代わりに使われているカレンダーがある。そこには『羽田十一時発 家は六時発 夜ふかし・お寝坊・忘れ物厳禁(特にお父さん)』という太字が枠をはみ出す勢いで書かれている。ひとりはそれを見ている。
ため息。
しかし、ため息の一つや二つでは吐き出しきれない緊張がひとりの全身を霧のようにおおっていた。
フライトは明日だ。四月三日。
そしていま現在、午後七時四十二分になったところ。
はるか遠くから見ていたはずの未来は、もう一日にも満たない。残り十五時間ちょっとのカウントダウンを削り始めている。
十五時間後には自分は飛行機の中だ。それから数年間は単身アメリカ。両親とふたりも行きは一緒に来てくれるが、二週間ちょっとで帰国してしまう。寂しいけれど、仕事と学校があるから仕方ない。
だから、今日が最後の我が家だ。
だから、これも本当に最後の電話となる。
ひとりの手にはスマホが握られていた。直樹から特別に使用の許可をもらうことができたのだ。
両親と妹はいま、お隣さんにジミヘンを預けにいった足で、そのまま明日の朝食を買いにスーパーにいっている。なのでこの家には現在、自分だけしかいない。
多少は恥ずかしい会話もできるだろう。
ということで、さっそく喜多にかける。この時間帯に彼女がいつもなにをしているかはわからないが、応答してくれることを願う。
『──はーい』
三コール目で出てくれた。ひとりは一つ咳払いして、
「あ、こんばんは。いま大丈夫ですか?」
『うん、大丈夫よ』
答えながら喜多は笑う。
『ふふっ、最後だから寂しくなっちゃった?』
「あ……は、はい」
寂しくなったのだ。そのとおりだった。
『やっぱり』とスピーカーの向こうでニコニコする喜多の顔が見える。その顔が恋しい。
とはいえ、言い当てられるのはちょっと悔しかった。
なので、
「あ、明日はお見送りこなくて大丈夫ですからね?」
これには、またしても喜多は笑う。
『もうっ、ひとりちゃんってベタよね。色んなドラマとか映画でそのセリフ聞いたわ』
「へっ」
『悲しくて泣いちゃうから、こないでくださいっていう意味なんでしょ?』
「う……」
もはやなにを言っても喜多はエスパーだった。見透かされて、言い当てられて、本音を丸裸にされてしまう。
「その……はい、そうです。そのとおりです」
だから、ひとりも観念した。正直になろうと決めた。
「私、たぶん泣いちゃうと思います」
『うん……』
「泣いてるところ、かっこ悪いので見られたくないです」
『それでも行くからね、私』
「はい……」
『ひとりちゃんが泣いても、私は泣かないから。笑顔で見送るって決めてるから』
「はい。私も最後は郁代ちゃんの笑顔を見てから旅立ちたいです」
少しだけ間が空いて、
『…………うん』
「郁代ちゃん……?」
喜多の声が震えている気がした。
しかし彼女は、
『なんでも、ない……っ』
それから少しのあいだ話して、スピーカーから「さっさとお風呂入りなさいっ!」と喜多の母親が叱りつける声が聞こえてきたのをきっかけに、
『ごめんなさい! じゃあまた明日会おうね! おやすみ!』
嵐のように通話が終わった。
喜多の声が聞こえなくなったスマホをテーブルの上に置き、ひとりは自分の部屋に戻ることにした。
特にやることはない。もう一度、忘れ物がないかだけ確認しにいこうと思っていた。
階段をあがる。
ふすまを開ける。
綺麗に掃除をして、家具も大きなもの以外は片付けられ、生活感のなくなった部屋を眺める。ここももう見納めなんだなとしみじみ考え
「あ、」
──ていたら、唐突に思い出した。そういえば、と頭に電流が走った気がした。
ひとりは部屋に入った。そして押し入れを開け放つ。
あった。
そこにはまだ一度も使われず、包みが開けられたまま放置されたギターのストラップがあった。一昨年の一日遅れのクリスマスデートの日、喜多からプレゼントしてもらったものだ。
ひとりは膝をつき、それを両手で大事に拾い上げた。ずっとこんなところに置いといてごめんね、と胸に抱きしめる。
そのとき、押し入れの中を何気なく見た。
狭くて暗くて、防虫剤のにおいがする。好きだったバンドのポスターがまだベタベタと貼られている。かつてここで、毎日のようにギターの練習をしていたときのことを思い出す。
その瞬間、ひとりのまぶたに次々と記憶が映し出された。
初めて鏡の前でギターを構えたとき。
初めてギターの弦を触ったとき。
初めてコードがちゃんと押さえられたとき。
初めてストロークができたとき。
初めて一つの曲を最後まで弾けたとき。
それら全ての記憶には、純粋なギターへの愛があった。ただただ、ギターが大好きだった。それを思い出させてくれた喜多のことをひとりは思う。
「……郁代ちゃんには救われてばっかりだな……」
苦笑しながら立ち上がった。胸にストラップを抱えながら、一階におりた。リビングに入る。
不要な荷物かもしれない。
意味のない行動かもしれない。
それでも──やっぱり自分にはギターしかないのだ。
また一から。
ひとりは自分のキャリーケースを開いた。そして、ストラップをそっと中に入れた。
※
「伊地知先輩っ、もっとスピード出せませんかっ?」
後部座席から身を乗り出して、喜多は急かすように言った。しかし虹夏は前を見ながらぶんぶんと首を揺らす。
「むっ無茶言わないでよ! あたしこの前もオービス光らせちゃって、いまも運転ビクビクなんだから!」
「でも、さっきから抜かされまくってますよ! みんなビュンビュン飛ばしてますし……あ、ほらっ、いまも軽に抜かされました」
「だあーーーっ、静かにしないと事故るからねっ! みんな死んじゃうよっ、いいのっ?」
よくないので喜多は黙った。
羽田空港までは虹夏の運転である。結束バンドのみんなでひとりを見送る計画を立てたはよかったが、色々と裏目に出た。
このとおり、高速道路でも虹夏はスピードメーター九十キロビタ止めでのろのろ走っているし、リョウは集合場所に三十分も遅れてきた。いまは助手席でウトウトしている。
喜多は腕の時計に目を落とした。まもなく九時半になろうとしている。ひとりは十一時のフライトだから、この調子だと見送りの時間はかなりギリギリになってしまうが──果たして間に合うのか。
喜多はソワソワしながら車窓を眺めた。二台の車にまた高速で追い抜かれた。それより上を見る。
青空だった。
春の空にしては、ずいぶんと青々しく晴れ渡っている。
ひとりは今日、この空に旅立っていくのだろうかと考える。すると胸がぐっと重くなってくる。はやく会いたくなってくる。
だからまた喜多は身を乗り出して、
「い、伊地知先輩……もう少しはやく──」
「死にたくないなら黙ってろーーーっ!!」
なんとか十時前には空港につき、三人で息せき切って走った。
ひとりがいるのは第三ターミナルだ。だが、思ったより広いし、キャリーケースをゴロゴロ引いた人たちがそこら中にいて、どこに後藤家がいるのかわからない。不安になってくる。
「あっ!」
虹夏が声を上げた。
「ね、あれ! ひとりちゃんじゃないっ?」
指さす方向に目を向ける。チェックインカウンター付近で固まっている家族がいた。
まちがいなく後藤家だった。
「いた……!」
すぐに駆け寄る。虹夏とリョウも後ろをついてくる。
最初に喜多に気づいたのは妹のふたりで、こちらを指さしてきた。それで父と母も同時に喜多の姿を認めて、手を振ってきた。
最後にひとりが家族にうながされ、喜多のほうを見る。目を細め、喜多の顔がようやく視認できたかと思うと、ぱあっと目が光り輝いた。彼女からも歩み寄ってくる。
「郁代ちゃ、」
「──ひとりちゃんっ!」
先に喜多がひとりに抱きつく。「わっ」とひとりは三歩ほど後ろにたたらを踏んだあと、しっかり喜多を抱き止めた。それから二人で静かに抱き合う。
ひゅー、と後ろからいやらしい口笛が鳴った。
「ラブラブじゃん」
「あはは……ほんと」
先輩たちがめいめいちがったニヤつきで喜多を見ていた。ハッと我に返る。みんなが見てる前でついやってしまった。
そろりと離れる。
「見送り……みんなできてくれたんですね」
ひとりは結束バンドの三人を優しく細めた目で順番に見つめた。
虹夏が前に出て、
「もちろんっ。ひとりちゃんはウチらの大切な仲間だし、友だちだもん」
「あ……あ、ありがとうございます。──あの、私……虹夏ちゃんには本当にご迷惑おかけしちゃって、」
その先は言わせんと虹夏はひとりの顔の前で手を振った。
「迷惑だなんてぜんぜん思ってないよ。本当に」
ニコニコ言いながら、
「ほんの少しのあいだでもひとりちゃんが結束バンドに入ってくれて、あたしすっごく嬉しかった。こちらこそありがとう」
「あ……はい……っ」
「そういえば、喜多ちゃんからTシャツとパーカーはもらったかな?」
「あ、は、はい。受け取りました」
虹夏は満足そうにうなずき、
「あれは正真正銘、バンドメンバーの証だから。大切に持っててね。日本に帰ってきて、またバンドやりたくなったら、あれを着てスターリーにおいで?」
こくこく、とひとりは声を出さずにあごを引く。もう目に涙がたまっていた。そんなひとりを虹夏は優しく腕で包み込んだ。よしよし、と彼女の背中を撫でている。
が、
「すぐ近くに恋人がいるのに、そんなギュッてしちゃっていいの?」
リョウの一言で虹夏が「あっ」という顔になった。ひとりからゆっくり後ずさる。ぎこちない笑みを喜多に見せて、
「えっと、ち、ちがうからね……? そういうつもりじゃ、」
「わ、わかってますよ! 大丈夫ですっ」
喜多は苦い笑顔でかぶりを振った。さすがにこの状況で、空気も読まずジェラったりはしない。……しない。
次はリョウがひとりの前に出た。ひとりは少し気まずそうに目線を泳がせている。
そういえば、二人がちゃんと話しているところを喜多は見たことがなかった。
「あっ、え、ええっと……リョウさんにもいままでお世話になりまして……」
ひとりは当たり障りのない言葉でお茶を濁そうとする。まあ、仕方ないかと思う。でも、もう少し時間があれば二人も仲良くなれたかもしれない。
リョウはひとりの言葉にしばし考えるように首を傾け、
それから言うことが決まった顔になり、
「うん。あっちでビッグになってから帰ってきなよ──『ぼっち』」
「へ? ぼ、ぼっち……?」
ひとりはキョトンと目を点にした。リョウはなぜか得意げな表情になり、
「そう。私がいま考えたあだ名。虹夏と郁代とは仲良しなのに、私とだけ関係が希薄って悲しいじゃん。だから、そう呼ぶことにするよ。いい?」
「は、はい……!」
「ねえ、なんで『ぼっち』なの?」
虹夏が横から訊ねる。
「『だいだらぼっち』っているでしょ? そこから取った。ああいう感じのビッグな人間になれって意味で。いいでしょ?」
「いや、あれビッグっていうか巨人だし……しかも男だし。女の子には失礼なんじゃ──」
そんな二人の横でひとりはかすかに肩を揺らして、
「へ、へへ……は、初めてのあだ名……」
「でもほら、ぼっちは喜んでるっぽい」
実際、喜んでいた。ツチノコのぬいぐるみを取ってあげたとき以来の笑顔だった。虹夏は「いいのかなあ」という顔をしていたが、本人が喜んでいる以上、大人しく引き下がった。
そして、
全員が見守る中、喜多が前に出る。
二人はしばらく真剣な表情で見つめ合った。
「あ、あの……これを……」
ひとりはゴソゴソと手持ちのバッグからなにかを取り出した。それを喜多に手渡した。
手紙だった。
「わ、私っ、郁代ちゃんには、本当に伝えきれないくらい言葉があって。お別れなんていつまで経っても言えない気がして……だから、ズルいかもしれないけど、お手紙にしました。なので、これを読んで欲しいです」
「……うん」
喜多はしっかりと手紙を受け取り、
「ちゃんと読む……っ」
「は、はい」
それで力が抜けたように、ひとりの表情がゆるむ。そして彼女の瞳がぼんやりと潤みを帯びてきた。唇をかみ、眉が八の字に下がり、少しずつ顔が歪んでいく。
喜多はその顔を見て、開いていた口を閉じた。言おうとしていた言葉を引っ込めた。
自分もひとりと同じだと思った。
別れの言葉なんていつまでも尽きそうになかった。
言っている途中で泣き出してしまうかもしれなかった。
だから、
自分も同じように、
言葉ではない方法で、
「──ひとりちゃん」
一歩、近づく。
喜多は両手でひとりの顔を挟んだ。
みんなが見ている。
ひとりが真っ赤な顔で見つめている。
それでも喜多はキスをした。
全員が固まった。
知らない他人の目線も感じる。
だが、そんなの喜多の知ったことではなかった。
これが最後の『絆』なのだ。バカにできるものならしてみろ。
唇を離す。
「い、郁代ちゃん……!?」
喜多はほほ笑んだ。ひとりの目から寂しげな涙を追っ払ってやった。笑顔で見送るには、どっちかが泣き顔じゃダメなのだ。バカっぽい驚き顔を見せてくれるくらいがちょうどいい。
喜多は真ん丸に開いた大好きな人の目を見た。
それから、全ての思いを短い一言に込めた。
「──待ってる」
展望デッキから三人は離陸の瞬間を見守っていた。
ひとりたちをのせた飛行機はいま、滑走路の端で待機している。エンジンの低い轟音が聞こえるたびに、喜多の胸はかすかに震える。
つよい風が柔らかな春のにおいをのせ、金属の柵は冬のように冷たい。いったいいまは季節のどこにあるのか不思議に思いながらも、喜多の視線は白い機体を一点に見つめている。
「あ、そろそろじゃない?」
虹夏の言葉どおり、待機していた飛行機が滑走路をゆっくり滑り出していた。エンジンが先ほどまでより力づよくうなり、機体も速度を上げていく。
「…………っ」
手すりを握る手がつよくなる。呼吸が荒くなってしまう。ひとりがいなくなってしまう実感が、胸を痛く締めあげてくる。
滑走路をすさまじい速さで飛行機が駆けていく。航空灯が光の尾を作り、目の前を横切り、機体はどんどん遠ざかっていく。
喜多は胸をおさえた。
やっぱりいかないで──身勝手な自分が心の中でぽつりとつぶやいた瞬間、
飛行機がふわりと浮き上がった。
銀の翼が太陽光をギラリと反射し、喜多の目を細めさせる。離陸した飛行機は高度を上げ、みるみる小さくなっていく。どこまでも、どこまでも高く飛んでいく。
「──先輩」
喜多はゴマ粒ほどの大きさになった飛行機を見つめながら口だけを動かした。虹夏とリョウが同時に喜多を見る。
「私……偉くないですか……? ちゃんと、笑顔でお別れできましたよ」
「……うん、偉い」
リョウが静かな口調で返す。
「泣かずにお見送り、できたんですよ……偉くないですか……?」
「うん、偉いね」
今度は虹夏が優しい口調で答えつつ、
「──でも、泣いても喜多ちゃんは偉いと思うよ」
「……え」
喜多はまだ視線を飛行機からはずさない。
「どういう、意味ですか……?」
虹夏は喜多の肩に手を置き、
「ずっとひとりちゃんのためにがんばってきて、苦しくても、辛くても、諦めずに立ち上がってきたんだもん。本当に偉いよ。すごいよ」
「そっ……そんなこと……私は……ただ、私は、」
喜多は首を振る。リョウがその背中を軽く叩く。
「先輩たちの前なんだから。大人ぶらなくていいよ」
喜多はようやく視線を飛行機からはずした。振り返って、二人の先輩を見る。二人とも優しい顔で自分を見ている。
虹夏が、リョウが、
「だからね、いいんだよ? もう我慢しなくて」
二人で喜多の肩を抱き込みながら、
どこまでも柔らかい声で、
「郁代はもう、自分のために泣いていいから」
「────」
その一言で、
いままでなんとか形を保っていた心が崩れ、
貼り付けていた笑みがひび割れ、
視界が曇ってきて、
顔が歪んできて、
力が抜け落ちていって、
膝からその場に崩れ落ちて、
顔を地面に向けた。
思い出してしまう。
懐かしくて、楽しくて、悲しくて、切なかった彼女との日々。
初めて出会った放課後の校舎での出来事を思う。
空っぽのギターケースだと見抜かれて、焦ったときのことを思う。
ギターを買いにいったとき、初めて一緒に遊んだ。ゲームセンターでぬいぐるみを取ってあげたときの満面の笑みと、友達になって欲しいと言ってくれたときの真剣な表情と言葉を思う。
文化祭で強引に一緒にまわる約束を取りつけたときの指切りげんまんを思う。
二人で食べたチュロスの味を思う。
初めてのライブで自分を救ってくれたときの彼女の横顔を思う。すごく、すごく格好よかった。
「ひとりちゃん」と初めて呼んだときのことを思う。
一日遅れのクリスマスデートで餃子を「あーん」してもらったときのことを思う。
彼女が学校にこなくなり寂しかったときのことを思う。
目が見えないことを打ち明けたときの彼女の苦しそうな顔を思う。
バンドを抜けた彼女を一人で探しに行った。心まで凍えてしまうほど寒かった夜の海を思う。
告白した日のことを思う。
ベッドで泣いていた日々を思う。
彼女と送りあった手紙たちのことを思う。
文化祭ライブの日を思う。
「銀河一でした」と言ってくれた彼女の満たされたような涙を思う。
何度も何度も交わしたファーストキスの味を思う。
二人で見たクリスマスツリーの美しさを思う。
最後に見せた、彼女の驚いた真ん丸な目を思う。
ぜんぶ、ぜんぶ、思い出してしまう。
思い出の数だけ涙があふれ、こぼれ落ちてきてしまう。
もう──限界だった。
喜多は両手で顔をおおった。体を大きく震わせた。
「ぁ……っ! ぁぁっ、あぁ……っ!!」
それから噛み合わせていた歯を全て浮かせ、口を開いて、子供のようにわあわあと声を上げながら喜多は泣き出した。冷たい風なんて、周囲の目なんて構わず、声が枯れても、涙が尽きても、いつまでも、いつまでも彼女は泣きつづけた。
ひとりをのせた飛行機はいまなお高度を上げている。翼で風を切り裂き、ぐんぐんぐんぐんと高く突き進んでいく。
澄み渡った青空の中を、落書きのような白い雲の中を、地上で泣き崩れる喜多に一瞥もくれてやることなく羽ばたいていく。
「殻」に閉じこもっていた少女はもういない。彼女はいまようやく自分の翼を広げて、自由を取り戻しに遠い場所に向かって飛びつづけている。
ひとりが遠ざかっていく。
ひとりが青空に染まっていく。