昼間にさっつーとあんな会話をした以上、やるしかなかった。後藤なんとかと友達になる。それが、放課後に喜多が自分に課した課題だ。
クラスの子に「帰りスタパ寄らない?」と誘われたときはかなりグラついたけど、理性で断った。
「えー、行かないの? 新作出たんだよ?」と追い打ちかけられたときは、ほぼ条件反射で着いていきかけたけど、なんとか我に返れた。
「付き合い悪いなー」とか言われたら、泣く泣く行くしかないかなと思ったけど、そういう意地悪はなくてホッとした。また今度ね、と言ってくれた。
ぞろぞろとみんなが廊下に出ていく様子をクラスに一人残って、喜多は眺めた。退屈で少し虚しかった。スマホで時間をつぶそうとしても、無意識に左上の時刻表示に目がいって、そのたびに壁の時計と見比べて時間のズレがないかどうか無意味な確認を繰り返した。
そんなことをしているうちに外の時計塔が「七つの子」とともに六時を伝えてきたので、喜多は教室を出た。廊下はすでにしん、と静まり返っていて、蚊ほどの談笑すら聞こえない。校舎に自分以外、残っていないことがわかる。それに電気も消えている。西日も赤い。ヒグラシも鳴いている。
条件は昨日と同じ。すべて揃っている。だから後藤さんも現れる、はず。
モンスターの出現条件じみた発想をまじめに頭の内に展開させながら、喜多は荷物を持って東階段を忍者のように下りていく。そして二階の廊下でひとまず待機。ギターの音が鳴ったら今度は驚かさないように細心の注意をはらって、声をかけようと決めた。
「……………………」
十分ほど経った。
しきりに階段の手すりに身を乗り出して一階の様子をうかがっていたものの、後藤ナニガシが現れる気配はない。時間的に、昨日の今ごろには弾いていたはずなのに。
ちょっと思考をめぐらせてみる。それで、もしや警戒されているのではと思い至った。昨日、図らずもかなり驚かせてしまったから、場所を変えているのかもしれない。あるいは、学校でギターを弾くのがトラウマになってしまって、二度とここへはやってこないかも──。
それは困ると喜多は焦り出す。そうしたらもう彼女に会うことができ、
……いや、ふつうに二組に行って会えばいいのか。
この結論にたどり着くと、喜多の中で急速に熱が冷めていった。なんでわざわざこんな時間まで待ち伏せていたんだろうという真っ当な後悔が頭を抱えさせてくる。やっぱりスタパに行けばよかった。新作飲みたかった。ああ、もうっ、ほんとバカ。
帰ろ──そう思った、ら。
『……へぇーい、アリーナ。盛り上がってるかーい。わーわー、いぇーい』
誰かきた。
咄嗟に近くの柱に身をひそめる。それから顔の半分だけをのぞかせ、手すりの隙間から一階の人影を見る。
『ふへへっ、待たせちゃったなベイベーたちぃ。ちょいとばかし、ヤボ用があってさ。……えぇ? 何かって? ふふん、保健室に行ってたのさ……きゃーきゃー保健室ぅ』
あれは。
……後藤さん?
ようやく来てくれた。ひとまず、自分の行動が無駄にならなくてよかったと喜多は安堵する。同時にあの少女がいったいなにを言ってるのか首をかしげた。
後藤はずっとボソボソと一人で喋っている。
もしかして、誰か近くにいるのかな。電話でもしているのかな。と考えうる予想を並べてみたが、見るかぎりそんな様子はみえない。ゴソゴソとギグバッグからギターを取り出し、ニヤニヤと弦を触り始め、またボソボソと喋り出した。
『みんなも待ちくたびれちまっただろぅ? わーわー。はやく私のギターテクに痺れちまいたいだろぅ? わーわー。おーけおーけ。それじゃあ、アリーナのみんなに最上級の愛をプレゼントだ。いくぞぅ』
演奏が始まった。好奇心に邪魔されて完全に話しかけるタイミングを見失ってしまったが、まあいい。とりあえず終わってからにしようと決め込む。今は演奏に耳を傾けることにした。
で、この曲は……多少のアレンジが入っているが、最近流行ってるアニソンに違いない。アニメに明るくない喜多でもイソスタやチックトックでよく流れてくるのですぐわかった。
そして、やっぱり上手いと思う。アンプもなにもなく生音で響かせるその演奏は、クリアで情感にあふれている。まるで音の一つひとつが意思をもって歌っているみたいだ。アルペジオが奏でられるたびに、美しい音が組紐のように連なり、音階が次々と空間に溶け込んでいくのが感覚として伝わる。
喜多は柱から手すりに近づき、身を乗り出した。もっと後藤の演奏をよく見たいと思った。すると、ネックに伸びる彼女の細い指が見えた。フレットを行き来する指は軽やかで、滑らかで。押さえるコードは一見シンプルなダイアトニックコードだが、厚みのある音が自分がかつて弾いて、響かせたソレとはまったく違うことを痛感させられる。
喜多は自然と自分の左手を見下ろしていた。不器用でプニュプニュの柔らかい指先を見つめる。あんな演奏ができたら、と考えたくもないのに考えてしまう。あれだけの演奏が私にもできたら、こんな見栄張らずにすんだんだろうな──。
ぐっ、とギターケースのストラップを握りしめた。
『……センキュ』
演奏が鳴り止む。喜多は視線を上げた。少し息を整え、なにを言うか考えた。それから手すりを離れ、階段をおりて、
「──やっぱりすごいわっ」
後藤の前に立って、話しかけた。
「いっ……っ!」
昨日同様、彼女は飛び上がりそうなほどに驚いた。驚かさないよう、自然に、フレンドリーに、静かな声を努めたつもりだったけど、関係なく相手は仰天した。
真ん丸な、だけどきれいな形の目がこちらを向く。
そして、これまた昨日同様、慌ててギターとバッグを抱えて立ち去ろうとする後藤。
「ああん、待って待って。ごめんね、急に話しかけちゃって」
昇降口に倒れ込みそうな勢いで足を送り出す彼女の前に、喜多は立ちはだかった。
「あうっ、え、お、あ、え……!」
後ずさり、追い込んでないのに勝手に壁まで追い詰められた後藤はネズミみたいに縮こまる。この子は母音しか話せないのかしら、と喜多は軽く思いつつ、
「二組の後藤さん、よね?」
「え、あっ……は、はい……」
震える声でうなずく。
「えっとね、私、五組の喜多っていうの。きのう偶然、後藤さんの演奏聴いてね? 上手だなあって思って。ちょっとお話しできたらなあって」
なんだかナンパな言い回しになってしまったが、後藤の表情から少し緊張の色が抜けたように見える。彼女はわずかに体の正面を喜多に向けて、
「あ、あの……私の名前……なんで?」
「ああうん。友達から聞いたの。二組に後藤さんっていうギター持ってる子がいるって」
「あ、そ、そうなんですね」
「ねえ、下の名前はなんていうの?」
「あ、ひ、ひとり……後藤、ひとり……です」
ひとり。後藤ひとり。
なんというか、名は体を表すという言葉が浮かんだ。
「かわいい名前ね」
「あ、ど、どうも……」
「それにしても本当にギター上手なのねっ。昨日も聴いたけど、なんだかすごく惹き付けられる演奏っていうか」
「あ、いやあ……へ、うへへっ……そん……へへ」
あ、喜んでる。かわいい。
もっと固く心を閉ざした感じの子かと思っていたけど、意外と素直そうで喜多の方まで頬がゆるむ。
「バンドでもしてるの?」つづけて訊ねる。
「あ、いえ……そういうのは」
「ギターは誰かに習ったの? お父さんとか?」
「あ、ほ、ほとんど独学で」
「ええっ、すごーいっ!」
「いやあ……」
うへうへ、とひとりはふたたび顔をフニャつかせる。褒めれば褒めるほど彼女は体を正面に向けてくるので、楽しくなってきた。
「独学であんなに上手になれるなんて羨ましいわ〜……私、ぜんぜん上手くならなかったから──」
言ってから、過去形で話してしまったことに気づく。ヒヤリと肺が冷えた。
「へへ……あ、き、喜多、さんもやってたんですか? ギター……」
「あっうん……えと、一応、今もやってるのよ? ほら!」
背中を向けて、ギターケースを見せる。
「ああ……」
ひとりはジロリ、と一瞬だけケースを見たあと、
「そう、なんですね」
目線を元の位置に戻した。
「ね? まあ、まだまだ下手っぴで、人様に見せられるものじゃないんだけど」
「一応」と「下手」という言葉で保険をかける自分が浅ましい。だが、これで「じゃあ、一緒に弾きませんか?」という提案を避けられる口実は作れた。
「ああ、なんか私ばっかり話しちゃってごめんね。楽しくてつい」
あざとく両手を合わせた。
「い、いえ……」
「後藤さんは私になにか訊きたいこととかある?」
「あ、いや……」
「ふふ、なんでもいいのよ〜? あ、ちなみに彼氏はいないわよ?」
「あ、そ、そうですか」
お互いに質問し合ったほうが早く仲良くなれる。これは喜多の十六年の人生経験で培ったコミュ術の一つだった。が、初めて効果がなさそうだと感じた。ひとりは遠慮がちに俯いて口をもごもごさせるだけだ。
強要すると負担になるかもしれないと思い「無理しなくて大丈夫よ」とフォローを入れようとする。
と。
「えと、じゃあ……」
おずおずとひとりが口を開いた。
「あ、な、なんでその……空のギターケース持ってるのかなっ、て……」
「……………………え」
凍りついた。
全身が固まった。
次の瞬間には全身の毛穴が開いて、汗が噴き出した。「なっ、なっ、なっ」と緊張と焦りの吃りが喉から勝手に出てくる。表情筋が痙攣して、誤魔化し笑いがピクついてしまう。
その反応は当然、目の前のひとりも見ているわけで、
「あっ、あっ! すみっすみませんっ。私っ、あの、悪気は……!」
とんでもない地雷を踏んでしまった、という顔でひとりはわなわな、と唇を震わせていた。
「あ、ち、ち違うのっ、違うのよっ! こ、これはその……い、家にっ家に忘れて!」
一瞬で論破されそうな言い訳を盾にしたところで、言い逃れできるはずもなく。そして、喜多の必死な反応に怯えの表情が戻ってきたひとりは、
「ごごっごめなさいっ、失礼しますっ!!」
光の速さでギグバッグを背負い込み、そそくさと逃げ出そうとした。
「ま、待ってっ!」
だが、今日は喜多も逃がさない。彼女の両肩を掴んで食い止める。ここで逃がしてはいけない。秘密を知られて、逃がすわけにはいかない──。
「ひ、ひえぇ……っ」
「逃がさないから……!」
「ああっ、お、お慈悲を……っ!」
サイコキラーに捕まったがごとく、半泣きのひとりが命乞いをしてくる。
「いや違うのっ! 後藤さん聞いて、お願い!」
「ご、ごめんなさいっ、しし知らなかったんですっ、ほんとに悪気は……だから……っ」
「なにもしないからっ。話を聞いて、ね? ね?」
「…………」
「…………」
数秒の沈黙、後。
「お、お慈悲を……!」
「聞いて!」
※
しばらくそんなやり取りをしているうちに生徒指導の先生に見つかり、
「こりゃぁっいつまで校内で遊んどるんじゃいいかお前らみたいなヤンチャ共がおるからワシら先生たちは毎日毎日苦労して夜遅くまで仕事しとるんじゃお前らのせいじゃワシが四十半ばから円形脱毛症に悩まされてるのもお前らのせいなんじゃどう責任を取るつもりでおいどこに行くんじゃまだ話が」
無呼吸でまくし立てられる説教をくぐり抜け、慌てて二人で昇降口を飛び出した。
突っかけたままのローファーで締まりかけの通用門を突っ切り、後から追ってくる生徒指導の気配が完全に消えるまで走りつづけた。
「……ここまで来れば大丈夫そうね」
後ろを見ながら喜多はひとりに対して言った。しかし無反応。横を見ると、彼女は全身の呼吸で疲労を訴えているところだった。
「だ、大丈夫?」
「は……ひ、はあっ……はい……」
駄目そうなので五分休憩してから歩き出すことにする。
「──もう平気?」
きっちり五分経ったので、歩き出すと同時に話しかけた。ひとりの顔も平常の色に戻っている。
「あ……はい。すみません、運動不足なもんで……」
「ううん。私の方こそいきなり走り出しちゃってごめんなさい」
一息ついて、
「それで……後藤さん」喜多は横目で彼女を見た。「なんで
「え、あっ、それは……」
ひとりも一瞬だけ横目を合わせてきたあと、すぐに顔を伏せて、
「も、持ち方がそれっぽかったのとか……あとは、き、喜多さんが話してるときもずっと後ろでプラプラ動いてて……軽そうに見えたので、中身入ってないのかなあって……」
「そ、そうだったんだ」
なんという観察眼、というよりはギター経験上で得たスキルなのか。どちらにせよ恐ろしい。
「……はあぁ」
立ち止まって、道の真ん中で喜多は塞ぎ込んだ。デカいため息が魂を道づれに漏れ出ていく感じがする。
「き、喜多さん……?」
「まさかこんな簡単にバレちゃうなんて……恥ずかしい……」
「あ、すっすみませんっ……」
「後藤さんはなにも悪くないわよ……悪いのは私だから……ずーっとみんなにウソついてきて、後藤さんにも同じようにウソつこうとしたんだから……はあぁ」
「あっあの……もしかして、ギターが弾けるってのも……?」
「…………ごめんなさい。ウソ」
捨てバチ気味に喜多は答える。
「ほんとはぜんぜん弾けないのよ……ちょろっと簡単なコードを押さえられる程度で……アルペジオもリフもぜんぜん意味わかってないの……はあぁ」
「あっ、ど、どうしてそんなウソを……?」
喜多は一瞬、答えに詰まった。しかし、ここまで知られたからにはと思い、
「見栄……かな」
包み隠さず話した。
「み、見栄?」
「……うん。──私ね、ずっと何かになりたいなって思ってたんだ」
左手を広げた。柔らかい指先を細く見つめる。
「何かが特別秀でてるわけじゃないけど。今まで通りの生活に不満なんてないんだけど。それでも何かになりたいっていう漠然とした気持ちがあって。だからギター始めたの。
でも、結局ぜんぜん上手くならなくて……私は何者にもなれないんじゃないかって、認めるのが悔しくて。それを周りに悟られちゃうのもイヤで……だから、せめて格好だけでも……って」
自分の感情を言語化するのは初めてだった。正直、自分で言ってて納得したところもあるし、どうなんだ、って思うところもある。本物だって感じる気持ちもあるし、少し違うと感じるものもある。
だけどそれらは全部、自分の声となり、目の前の少女に伝わってしまった。恥ずかしいし、小さく後悔もある。だけど、不思議とホッとしてもいる。
ひとりは、押し黙ったまま言葉を噛み砕いているように、むぐむぐと口を動かしていて、
その口が「そ」と動いた。
「そ、その……わ、わかります」
「え……?」
ひとりの顔を見上げる。
「わ、私も、何かになりたいっていう気持ち、わかります。すごく、わかります。わっ私がギター始めたのもその、に、人気者になりたいって……そ、そういう気持ちがあったからで」
「後藤さん……」
「だから、だから……思うようにいかなくて、見栄張っちゃうっていうのも、なんだか共感できちゃって……あ、もちろんウソはよくないんじゃないかなって思いますけど……でも」
そこまで言うと、ひとりはようやく言いたかったことに到着した様子で、
「そ、それなら、これから練習して、上手くなればいいんじゃないかな……と」
「────」
──思う。
自分はきっと、この言葉が欲しかったんじゃないか。
誰かにこう言って欲しかったんじゃないか。
喜多は胸の奥底がメラメラと燃え上がるのを感じた。ひとりの弱々しい発破がガソリンのように体内に注ぎ込まれ、自分のエンジンを奮い立たせてきた。
「後藤さんっ!」
勢いよく立ち上がり、ひとりの手を取った。
「ふあっ!?」
「そうよねっ。そのとおりよね! これからがんばって上手くなればいいのよねっ!」
「あ、あの……」
「ありがとうっ。私、がんばるね! いっぱいいっぱい練習して、後藤さんみたく上手になるから! だから──」
喜多は九十度に腰を折り曲げた。
「お願いしますっ! 私の先生になって!」
「え、ええっ!」
「後藤さんに教えてもらえれば、私がんばれる気がするの! だからどうか! ね?」
「え、ええと……」
ひとりはポリポリと頭を掻いた。難しい顔で腕を組んで、口を曲げて、時おりニへッと顔が緩んだかと思うと、ふたたび真剣な顔に戻って唇を結ぶ。
そんな後藤百面相が十五秒ほどつづいたあと、
ひとりは言った。
「すみません、無理です」