夏は好きだ。夏休みがある。
ただ、喜多が高校生になって初めて迎えた夏休みは、中学生までと同様に無条件に「好き」と言えるものではなかった。
秀華高校では、いわゆるごく一般的な自称進学校のシステムを導入している。夏休みには二週間ほどの夏期講習が存在していて、三年生と二年生はもちろん、一年生までもれなくこの地獄のプログラムへの参加を余儀なくされる。サボろうものなら担任からの鬼電が容赦なく自宅に鳴り響き、文系の教師なら文学的な申し開きを、理系の教師なら科学的な申し開きを小一時間に渡って電話越しに要求してくるのだという。
『いいかお前らっ。三年生はこの夏休みが受験の最後の追い込み期間っ。二年生もこれから三年生のゼロ学期に突入するっ。そしてお前ら一年もこれから三年生のマイナス一学期が始まるんだ。気を抜くなよっ、すでに受験は始まってるんだっ!』
終業式の学年主任の暑苦しい叫びは、多くの一年生を「覚ました」というより冷ましてきた。喜多もこれにより、頭の中で思い描いていたキラキラな夏の妄想像にヒビが入って吹雪が舞ったのを覚えている。
それでもバケーションというものはやっぱり嬉しいもので。好きなことに時間を使える喜びはしっかり享受した。たんまり、どっさり出されると覚悟していた課題も講習を考慮してか思いのほか量は控えめで、夏休み序盤にはすんなり捌けてしまった。
「あ、す、すごいですね……もう終わったんですか」
そのことをひとりに話すと、彼女はピッキングを一旦止めて、感心したような声を上げた。
「うん、一応ね。後藤さんはどのくらい終わった?」
すると、ひとりは暗雲立ち込めた顔になって、
「い、一学期はほぼ学校行ってなかったので……その分、勉強も遅れてるだろうからって大量に課題出されちゃって……なので、まだ全然です」
「そ、そうなの……というか、ひどいわねそれ。後藤さんが悪いわけじゃないのに」
「あっ、で、でも、喜多さんが勉強みてくれるおかげで……すごく、助かってます」
ひとりは縦線多めの表情になんとか微笑みを作って見せた。無理してそうね、と喜多は思う。
夏期講習は想像どおりのダルさと面倒くささはあったが、学校に来られるという点については良かった。夏休み中でもこうしてひとりと顔を合わせられる。会う場所は、いつもの薄暗い謎スペースなのには変わりないが。
「いいのよ、私の方こそ勉強させてもらってるから。お互いさまね」
「あ、はい。そうですね」
そしてひとりは止まっていた指を動かし、ピッキングを再開する。その動きを喜多はじっ、と観察した。
──すみません、無理です
夏休み前。そう言ってにべもなく彼女から弟子入りを断られてしまったものの、その理由は至って単純で、
『わっ私、教えるのとか苦手で、それに人様に教えられるほど上手いってわけでもないので……なので、ごめんなさい』
つまるところ、自信がなかったらしい。
喜多からすれば謙遜にしか聞こえなかったが、本人はそういうわけなので無理に踏み込むことはしなかった。けど、もっと演奏は見たいとお願いした結果──、今みたいな門前の小僧スタイルに落ち着いた。直接的な指導はしないし要求もしないという約束はあるが、動画は頼めば撮らせてくれるし、質問すれば答えてくれる。不自由なものは何もなかった。
「と、ところでギターの方はどうですか?」
一曲終わって、軽くこめかみの汗を拭いながらひとりが訊ねる。進捗はどうなのか、という質問だろう。
喜多は苦笑して、
「うん……最近、家でがんばって練習してはいるんだけど……なかなかね」
「ど、どこかでつまずいちゃいましたか?」
「どこかっていうか……なんというか。音からして、なんだか変なのよね。よく動画みて勉強してるんだけど、動画内と同じコード弾いてるはずなのに、こもった音しか出なくって」
「えっ。こもった音?」
ひとりは眉根を寄せる。
「うん……ちゃんと指はしっかり押さえてるのに、ボンボンって低い音ばっかで。才能ないのかしら……」
「あ、あの……喜多さんの使ってるギター、写真とかあります?」
「え? うん。買ったときに撮ったやつがあると思うけど」
スマホを開く。アルバムを数ヶ月前までスライドして、見つけたものを「これよ」と彼女に見せた。
「あ、ああ……」
ひとりが目を細めた。乾いた吐息を出して、小声で「やっぱり」とつぶやく。
「え、なに? もしかしてこれ、不良品とかっ?」
「あ、いえ……アイバニーズは有名企業ですし、このモデルはかなり良いものだと思いますけど……」
「あ、そうなの? たしかにこれ、すごく高かったのよね」
「た、多弦ベースはどれも高いですから……」
「へえ、そうなんだ」
喜多は三秒、考えて、
「…………ベース?」
「は、はい。これ、ギターじゃないです」
「え……えっ、えっ!」
喜多は声を張り上げた。
「そんな……っ、だ、だって、ベースって弦が四本のはずじゃ……?」
「ろ、六本とか五本のもあるんですよ」
「そ、そそそんなっ!! ……あぁ」
喜多は悲劇的に床にべちゃりと崩れた。
「き、喜多さんっ?」
「お、お金……お金、ローンがあと二十回以上残ってるのに……」
「ええ……」
※
喜多は先日、心にとても深いキズを負った。ので、
今日は気分転換に買い物にいくことにした。獲物は『正真正銘の』ギターである。
「よし、行くわよ〜!」
御茶ノ水に到着し、喜多は意気揚々ととなりのひとりに声をかけた。すでにグッタリしている。そして初めて見る彼女の私服は全身ピンクのジャージだ。
「あ、あの……なんで私も……?」
今さらな質問がきた。
「だって、
「で、でも私、べつに楽器に詳しいわけじゃ……」
「少なくとも私よりは詳しいじゃない。頼りにしてるからねっ!」
予想どおり、その一撃でひとりはウヘウヘと了承してくれたので、さっそく楽器屋に二人で向かう。背中のギターケースも今日はちゃんと空である意味があるので、後ろめたさは何もなくて軽かった。
「こことかよさそうね」
五分くらいで近場の楽器屋にたどり着いた。レビューを見るかぎり評判も上々。喜多が先頭に立って入ることにした。
「いらっしゃいませぇ」と間延びした声で店員が出てきた。ギターの場所を訊くと二階だと案内してくれたので、もう帰りたそうに入口付近でうろつくひとりの手を引っ張って階段を上がる。
「うわぁー、いっぱいあるのね〜」
整然と陳列されたギターの数々に喜多は目を輝かせた。数万円程度のお手軽なものから目眩レベルのヴィンテージものまで幅広い。アンプやエフェクターなども多種多様に取り揃えられている。
「ねね、後藤さんはどれがいいと思う?」
階段付近で切なげに入口を見つめるひとりの腕を引っ張ってきて訊ねた。
「さ、さあ……」
「さあ、じゃないでしょ。経験者としてどれがオススメなの?」
「い、いや、本当に詳しくないので……わからないです」
「もうっ。じゃあ、後藤さんと同じのにするわ。なんていうやつ?」
ひとりは「ギブソンのレスポールです」と答えた。同じ名前のものを探しに回る。なかなか見つからないわね、と探しあぐねていたところで、ようやく似たような名前を見つけたのはまさかのハイエンドコーナーだった。値段は強気のウン十万円(税込)。なけなしの貯金を取り崩してもなお、諭吉十人分の戦力しか手元にない喜多に手の出せる代物ではない。
悄然と肩を落としながら、ひとりの元によろぼい戻ると、何やら店員に詰められていた。案の定、顔を真っ青にして、目が合うと助けを求めてきたので慌てて駆け寄った。
どうやら、ひとりもギターを探すのを手伝ってくれていたようで、思い切って店員に話しかけたらしい。だが、そこで勇気を使い切って途方に暮れていたようだった。
喜多が自分の持ち金を店員に伝えると、「これはどうですか」と黒いギターを持ってきてくれた。「エピフォンのレスポールです」と教えてくれた。値段は八万弱。見た目もひとりの使ってるものと似ている。
「わあっ……それにしますっ!」
もっと悩めばいいのに喜多は即決した。試奏もせず、ノリとテンションでお会計に進み、ついでにオススメを受けたミニアンプとシールドも購入。諭吉は全員消し飛んだ。
「ありがとうございましたぁ」
背中に店員からのお礼とギターの重みをしっかり受け取り、二人は店を出た。かつてない満足感で、自然と鼻歌が出てくる。
「あ、よ、よかったですね。いいやつ買えて」
雰囲気的に話しかけやすかったのか、珍しくひとりの方から声がかかった。
「うんっ。これでようやく私もギタリストの一歩を踏み出せるわ」
おどけて喜多は言って、
「さて、と。それじゃあ、次はどこ行こっか?」
「え」
ひとりは表情を固めた。
「どうかした?」
「あ、え……きょ、今日はギターを買いに行く、と……」
「うん。だから、その次はどうしようかって。行きたいところある?」
「あ、えっと……も、もう今日は遅いですし……」
「まだお昼でしょ。ご飯も食べてないじゃない」
「あ、でもっ。あ、これから雨降るかもしれないですし……」
「今日は一日晴れのはずだけど。……後藤さん、もしかしてもう帰りたいの?」
「え!」とひとりは声を上ずらせて、「そ、それは、そう……いう考えもあるのかな、と……人はみな違った考えを持ってますし……」
よくわからないことを言ってるが、要するに帰りたいらしい。
喜多としてはまだぜんぜん物足りないが、無理やり買い物に付き合わせた挙句、これ以上無理強いするのも悪いと思い……かけたが。
「じゃあ、せめてご飯だけ! ご飯だけ一緒に食べない?」
「あ、う……」
「お願い! 後藤さんともうちょっとお話ししたいな〜?」
「あ、うぅ……わ、わかり、ました……」
「決まりね!」
ということで、二人でファミレスに入った。お昼の時間だけど意外と空いていて、喜多はドリアとサラダを頼み、ひとりはハンバーグとライスを頼んでいた。ひとしきりモグモグして、わいわい話して、一時間くらい経ってからファミレスを出る。
と、
「あー、デザート頼めばよかったかしら〜」
「あ……た、たしかに……」
「よし、甘いもの食べにいきましょ!」
「えっ」
自然な流れで、近くのクレープ屋まで向かうことになった。喜多は生クリームとイチゴソースのもの、ひとりはチョコとアイスが乗ったものを注文。食べたばかりだけど、あっという間に胃に吸い込まれた。
で、
「あっ。ねえ見て! あの映画、今日から上映だって!」
映画の広告ポスターを指さした。
「ずっと気になってたのよね〜」
「あ……アベピロシ主演……」
「後藤さん、アベピロシ好き?」
「あ、はい。好きです……」
「じゃ、観にいきましょ! お昼ご飯の時間帯だし、空いてるかも!」
「あ、え……っ」
実に、ごく自然な流れで今度は駅近の映画館まで足を運んだ。喜多はコーラのSサイズを買って、ひとりはメロンソーダのMを買っていた。映画は今日上映のはずだけど、人気がないのかハコの中は閑散としていた。ほぼ貸し切りだった。
洋画ばりの大ボリュームで二時間半近く拘束されたが、ずっとひとりは食い入るように観ていた。その様子を喜多は横目で見て笑った。内容は特に面白くなかった。
映画のあとは、近くにゲームセンターがあったので二人で入った。プライズコーナーではひとりがツチノコのぬいぐるみみたいな物をモノ欲しげに見ていたので、取ってあげた。三千円もかかったが、初めてひとりが目を細めて笑う顔が見られた。がんばってよかったと喜多は思う。
それから本屋に行って、服屋に行って、コンビニに行って、もう一回お昼のファミレスでご飯を食べて、今度はちゃんとデザートを注文して、
とやっているうちに、
「だ、だいぶ遅くなっちゃいましたね……」
「もうそろそろ七時ね〜。帰りましょ」
紅から群青へと移っていく空を見上げて、喜多は提案した。ひとりもうなずいた。
「あー、楽しかった〜!」
電車に乗り、空調の快適さを全身で感じながら喜多は言った。
「夏休み入って、今日が一番遊んだ日かも!」
「あ、そうなんですね」
「うんっ。後藤さんはどうだった? 楽しかった?」
「あ、あのっ……はい、すごく楽しかった、です」
ひとりはゲットしたツチノコのぬいぐるみをギュッと抱きしめる。無理して言ってる感じはしなかった。
「ふふっ、よかった」
「こ、こんなに遊んだの、初めてでした」
「あ、そうなの?」
「はい……じ、人生で一番、遊んだかもしれないです」
大げさね、と喜多は笑ったが、ひとりは「本当ですよ」と返した。
「わ、私……友達いなくて、誰とも遊んだことなかったので。だ、だから……本当に今日は楽しかったです」
「……そっか」
柔らかく喜多は微笑む。
すると、ひとりは肩を少しこわばらせて、
「あ、あの……喜多さん……っ」
「ん?」
「き、喜多さん……わたっ、私……あの」
「なあに?」
彼女の顔をのぞき込む。すると、不安げに揺れる瞳が喜多を見つめた。
ゴクリ、とつばを飲む。
「私っ、ね、根暗で、コミュ障でっ、ひ、卑屈だしっ、いいとこなんて、ぜんぜんないですけどっ。けど、それでも……」
「……うん」
「それでも……こんな私で、私なんかでよかったら──と、とと、とも、だち……に……!」
「と、友達?」
「あっ、はっ、はい……! あ、で、でも無理してなって欲しいとか、そんなんじゃなくてっ、余裕があればというか、べつになってあげてもいいよってくらいの軽い感じでもよくて……あの、えっと」
なんなんだろう、この子は。
友達になって欲しいなんて生まれてはじめて言われた。それもプロポーズでもするような雰囲気で伝えてくるものだから、変にドキドキしてしまった。
緊張が解けると、喜多は思わず吹き出した。こんな不器用でかわいい子、今まで見たことない。
「そ、そんな……笑わなくても……っ」
「あ、ああ、ごめんねっ? ちょっとびっくりしちゃったの」
ひとりの目のハイライトが消えかけていたので、あわてて声をかけた。「私たち、もうすでに友達じゃない」とかなんとか、洒落た返事を考えていたけど、もう思いついた言葉を並べることにする。
「その、ね。友達になって、って言われたの初めてだったから」
「え……で、でも、喜多さん、いっぱい友達いますよね? なんで……?」
「ううーん、なんていうのかしら……」
昼間のクレープと夕方のパフェで得た糖分をフル使用して言葉を探す。
「言葉がなくても友達にはなれるっていうか……そもそもいらないというか。話したり、笑い合ったりするだけで、それはもう友達なんじゃないかなって」
「そ、そういうものなんですか……じゃ、じゃあ私って、すっごい恥ずかしいやつなんじゃ……!」
途端にひとりの顔が上気して、勢いよくツチノコに顔を埋めた。
「そ、そんなことないわよっ。えっと、私、言われてすごく嬉しかったわよ?」
「〜〜〜〜〜」
喉の奥で鳴らす声が聞こえる。
「ウソじゃなくて。本当に嬉しかったの」
「…………でも」
くぐもった「でも」に喜多は少し笑いそうになったが、微笑みに置き換えた。
「たしかに、ふつうは友達になってとか言わないかもしれないけど、あえてそうやって言葉にするのも新鮮でいいなって」
「…………」
「言葉でつながる絆って、なんだかとっても素敵じゃない? 私、そういうのすごくカッコイイと思うな」
「カッコイイ……?」
顔の上半分だけ、ひとりは上げた。
「うん。だからね、恥ずかしくなんてないよ?」
「う…………」
それでも、ひとりはまだ恥じた表情を崩さない。喜多は少し息を吸って、
「じゃあ、私からも言えばいいかしら?」
「えっ……」
「ねえ、後藤さん」
言った。
「私と友達になってくれる?」
「…………っ」
ひとりは、
「…………あっ、の…………」
目をうるうると煌めかせて、
「…………はぃ」
直後、また彼女はツチノコの中に顔を落とした。その状態のまま、何度もこくこくとうなずいた。
無言のまま電車は走っている。二人のあいだには優しい沈黙だけがある。
喜多はひとりを見た。新しい友達は横で少しだけ泣いていた。
※
「ただいま……」
家に着くと、もう九時を回っていた。
どっと疲れて、ひとりは汗まみれの服のまま布団に落ちた。気持ち悪いけど、気分はいい。
天井を見上げる。
「友達、できたんだ……」
誰にも聞こえない声でつぶやいた。
ちゃんと言えた。勇気を出して言ってよかった。生まれて初めての友達──本当に嬉しい。
嬉しい……のかな。
「…………喜んで、いいのかな…………」
ほの暗い照明が、まるで自分を迎えに来たUFOのように見える。その輪郭はボヤけて、はっきりと焦点を合わせることができない。
ああ、とひとりは小さく絶望した。
また、視力落ちてる──。