指先に銀河をのせて   作:夜のイロ

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逃げないギター

 これはなにかあるぞ、とひとりは(いぶか)った。

 最近、どうも喜多の様子がおかしい。

 今までは三日に一回程度、放課後にギター練習していた彼女だったが、ここ最近は毎日だ。

 おかしい。

 友達とわいわい楽しく下校するより、自分と特に会話もなく黙々と練習するのを優先しているのだ。

 おかしい。

 おまけに、ミニとはいえ重たいアンプをわざわざ家から持ってきて、ちゃんと許可もらったのか学校のドラムリールまで引っ張ってきて電源を確保するという気合いの入れようだ。

 おかしい。

 さらに、

 

「後藤さん! お願いっ、やっぱり私の先生になってっ! ギターの指導をお願いします!」

「えっ」

 

 今日にいたっては、過去に断ったはずのお願いを掘り返してきた始末である。

 おかしい。これはなにかあるぞ、と思わざるを得ない。

 

「い、いやあの……それは……」

「だめかな……?」

 繰り出される上目遣いから目をそらして、

「え、えっと……どうしてまた急に……?」

 すると喜多は声色に真剣さを増して、

「私ね、やりたいことがあるの。そのために、今よりもっとギター上手くならなきゃいけなくて。後藤さんに直接教えてもらえれば、きっと上手になれると思うからっ。だからお願いします、力を貸してくださいっ!」

「う、う……」

 

 力の入った懇願。ほとほとひとりは困り果てた。夢にまで現れてきそうな勢いだなと頭を掻く。目を閉じて首を傾けた。

 それから十秒にもわたる熟考のすえ、彼女は「まあ、いいかな」と思うにいたった。もともと、他者とあまり深く関わりたくない一心でテキトーな理由をつけて断っただけだった。友達となってくれた喜多に対して、今もそのスタンスをつづける必要はないかもしれない。

 それに、彼女がこれからどんな音を鳴らしてくれるのか、聞いてみたいとも思う。

 

「その……はい。わかりました……私なんかでよければ」

「そこをなん──えっ。ほ、ほんとっ?」

 

 断られるのを前提としていたのか、喜多は追撃の言葉を口にしかけ、次に「信じられない」という目でまばたきしたあと、最終的には背景に花でも咲きそうな笑顔になって、

 

「あ──ありがとう、ありがとうっ! 私、がんばるから! だから、これからいっぱい色んなこと教えてくださいっ!」

「あ、はい……あっ、手……っ」

 

 そんな大げさに手を握ってくることないのに、と困惑しつつ。ひとりは彼女の手の感触と体温をしっかり手のひらに記憶していることに気づきハッとした。

 最近おかしいのは、自分もなのかもしれない。

 

 

 

 ギターの指導を引き受けたことにより、彼女の演奏をまじまじと見るようになった。そこから色々とわかったことがある。

 まず、喜多はなかなか筋がいい。「ここは、こう押えた方がいいですよ」と一度教えたコードは、二度も同じ指摘を受けることがなかったし、音もきれいに出ていた。バレーコード苦手なのよね、とよくこぼしているが、かすかなミュートの音は残しながらも確実に鳴らせている。アルペジオを教えたときは、最初こそ難しそうに小首を傾げていたが、すぐに慣れた調子で弦を弾くようになった。ストロークに関して言えば、教える前からアップとダウンの切り替えが妙に上手くて「あっ、上手です」と感想をもらすことしかできなかった。

 言ってしまえば、彼女は天才だった。センスのかたまりだ。多弦ベースのトラップに引っかからなければ、空っぽのギターケースを持ち歩く必要もなかったほど才能に恵まれている。

 ただ気になるのが、彼女の口ぐせで、

 

「バンドでギターやってる人って、どのくらいのレベルなのかしら」

 

 これを毎日、日課のように言っている。さっきも言ってた。

 ひとりはこれに対しては「さあ」としか返せなかった。実際、バンドに入ったことがないからわからないし、そんなのグループの規模とかモチベによるんじゃないかと思った。

 しかしなんとなく、彼女がバンドに入りたがっているんじゃないか、ということはわかった。それは最近、喜多のスマホ画面を見たことで、よりハッキリした。タブ譜を調べようと彼女がスマホを開いたとき、チラッと見えた検索履歴に、

 

『女子 バンド 募集』

『ガールズバンド 募集』

『バンド 女子高生 募集』

『多弦ベース 買い取り』

 

 と並んでいたのだ。

 正直、モヤっとした。

 喜多がギターを教えて欲しいとふたたび頼み込んできたのも、バンドに入るのに十分な実力をつけるためだったんだろうと、そこでわかってしまった。

 いや、それはべつにいい。彼女がバンドをしようが何をしようが、彼女の勝手だ。

 なぜ最初から正直に言わなかったのか。なんで急にバンドに入りたいと思ったのか。そうした疑問が……湧いてきたけど、

 それもべつに、どうでもよかった。

 もっと根本的というか、単純な話というか。喜多さんがバンドに入っちゃったら、私とはどうなるんだろう──そんなことを考えた。

 やっぱり会える時間は少なくなるんだろうか。今みたいに二人でギター練習する機会もなくなってしまうんだろうか。前みたいに遊びに誘ってくれることもなくなってしまうんだろうか。

 ハナクソほどの役にも立たない心配事に頭を悩ませていたひとりだったが、なんとか気持ちを切り替えようとした。

 で、切り替わった。変な方向に。

 

 よ、よしっ、

 

 これから喜多さんの動向をしっかり観察しよう──。

 

 ストーカーである。

 とはいえ、このトンチンカンな発想もひとりの精神的な不安からきている。唯一の友人が自分から遠ざかってしまうと考えると気が気ではなかった。

 十日後に迫っていた期末試験もひとりには大した問題ではなかった。喜多がこれからどんな動きを見せるのか。どこに行ってしまうのか。それが今のひとりにとって、もっとも重要で重大な懸念事項だった。

 

 

 二週間後、彼女は全教科赤点記録を樹立した。

 

 

 

 ※

 

 

 

 期末試験がつつがなく終わり、つつがなくない試験結果に喜多は顔をしかめたが、これでようやくギター練習に打ち込める、と思った矢先。ひとりが全教科で追試を受けることになったと聞いて、喜多は思わず顔を歪めた。自分もギターばっかりで試験勉強にまったく身が入らなったけど追試は一つもなかったのに──まさか全部とは。入院で学校に来られなかった期間を考慮しても、ここまでおバカちゃんな結果になるとは予想していなかった。

 

「すみません……しばらくはギター教えてあげられないです……」

 

 そう言い残し、ひとりが追試の監獄にぶち込まれることになったので、喜多は放課後しぶしぶ一人で練習に打ち込むことになった。

 練習場所は、空き教室を最近利用している。あの階段脇の謎スペースは、十二月にもなるとあっという間に暗くなって、なにも見えなくなる。照明もない上に、冷たい空気が溜まるせいで底冷えする。ひとりは「そこがいいんです」と言っていたが、こればっかりは理解できなかった。

 ドアを引いて、無人の教室に入る。今日はアンプは持ってきてないから生音で弾こう。ケースからレスポールを取り出し、軽く弦を弾く。指慣らしがてら、簡単なコードを思いつきで鳴らし、あんなに苦労したFコードも慣れたもんだと少しニヤついた。

 この調子で上手くなれば──固く広がった指先のマメを見つめて考える。

 先々月、『結束バンド』への再加入を断られてから、喜多はべつのバンドを探しつづけた。都内で活動していて女子高生でも入れる、という条件で。ネットで検索をかけて、SNSで「ギター募集」の文字をひたすらに探して、街中を歩き回って音楽をやっていそうな人に声をかけたりした。

 結果として、何人かのバンド女子と知り合いになり、仲良くなった。バンドとのコネクションを作ることにも成功した。加入とまではいかなかったが、上々の成果だった。

 あとは努力次第。

 音楽の世界では、技量こそが最大の『信用』になるに違いないと喜多は思う。実力があれば信用は勝ち取れるのだ、と。

 だから死にものぐるいでギターをかき鳴らす。ひとりレベルには届かずとも、近い段階まで弾けるようになれば、いつかどこかのバンドから声がかかるかもしれない。

 そう信じてきたし、今もそう信じている。

 だから、喜多はギターを弾きつづける。自分は正しいことをしているんだと思い込む。

 …………だけど、

 ふと思い出すのは、胸にひっかかっているのは、脳にこびりついて離れないのは、あの日の虹夏のセリフ。

 

 

『あたしは……喜多ちゃんのことを、まだ受け入れることはできないかな』

 

 

 ……どうすればいいのか。

 忘れたいと思っている。

 だけど、喉の奥の奥に刺さった魚の小骨みたいに、どれだけ色んなものを飲み下してみても、チクチクとした痛みが「忘れるな」と訴えてくる。

 忘れてはいけないと思わせてくる。

 

 私は本当に、正しいことをしてるの……?

 

 ギターが鳴り止んだ。

 それと同時にポケットのスマホが震えた。

 取り出して画面を開くと、ロインの新着メッセ。きっとひとりからで『今日の追試が終わりました……』みたいな内容だと思った。

 が、

 

「……伊地知先輩?」

 

 想定外の相手からで、画面を注視したまま意味もなく立ち上がった。

 なんで。どうして彼女から?

 すぐにロインを開く。

 

『久しぶり〜! 喜多ちゃん、来週の土曜日って空いてたりするかな??』

 すぐに返信を打つ。

『お久しぶりです! 土曜ですか? なにかあるんですか?』

 …………。

 既読。から数秒経ち、

『うちのライブハウスでクリスマスの特別ライブやるんだよ。それで、あたしたちも特別に出ていいってことになってね。よかったら喜多ちゃんに見に来て欲しいなって?笑』

 

「え……ライブ?」つい口に出た。

 

『ライブやるんですか? お二人で??』

 既読。

『いや、うちのクラスの子がその日だけサポートギターやってくれることになったの。だから三人でやるよ〜!』

 打つ。

『そうなんですね! 午前中授業あるんですけど、行けそうだったら行きます!』

 既読。

『うん! いいお返事期待してまーす笑笑』

 スタンプ。

 

「…………ライブか」

 

 スマホをポケットに戻して、立ちっぱだった脚をどっかり座って休ませる。

 それから考える。

 行くか。行かないか。

 たぶん、行かないと思う。

 練習もやりたいし、それに二人に会うのがやっぱり気まずい。だから──今のうちに断りの文句を考えておかないと。

 頭の中で「あなたは間違ってる」と自分の声がした。そうかもしれない、と思った。

 

 

 

 ※

 

 

 

 その日の最後の授業が終わり、なにげなく廊下に視線をやると珍しいものを見た。ひとりが教室の外でうろついている。

 

「後藤さん? どうかしたの?」

「あ……!」

 声をかけると、親を見つけたひな鳥のような顔で近づいてきた。

「あ、あの、今日は練習しますか?」

「ギター? うん、もちろん」

「あ、そうですか。あの、私も今日行きます」

「えっ? 追試は終わったの?」

「はい、終わりました」

 これまた珍しく、ひとりが吃らずに言い切った。思わず拍手した。

「やっと終わったのね〜! おめでと!」

「へ、へへ……わ、私にかかれば朝メシ前ですけど」

「一週間もかかったけどね。──それじゃあ、先行っててくれる? 私たちのクラス、まだ帰りの会終わってないから」

「あ、はい。じゃあ先に……」

 

 バイバイ、と手を振ってきたので、振り返して喜多は席に戻る。

 数分して担任が教室に帰ってくると、

「もうすぐで冬休みだけど気を抜くなよ」、

「今年の冬は寒いらしいから気を抜くなよ」、

「クリスマスが近いけど気を抜くなよ」と気の休まらないことを散々言ってきて、

 最後に「インフルエンザには気をつけろよ」とまともなことを告げると、ようやく喜多のクラスも解放された。

 ギターケースを背負い込み、さっそくひとりのもとに向かう。今日は、先日新しく買ったヘッドフォンアンプを持ってきた。早く試してみたいし、ひとりにも見せて驚かせてみたい。軽い足取りで廊下の人混みをすり抜けていく、と。

 

「……電話?」

 

 階段を下りている途中、ポケットの中でバイブの気配を感じた。取り出すと、予想どおり通話。

 相手は、

 

「え、また先輩……?」

 

 虹夏からだった。先週も急にロインしてきて、今回は通話とは。

 クリスマスライブの件ならもう断ったんだけどな、と不審に思いつつ電話に出る。

 

「はい、喜多ですけど……」

『あっ! 喜多ちゃんっ? いま大丈夫かなっ?』

「え、は、はい」

 息切れしてるのか、微妙に割れた声は切羽詰まった様子で、喜多は思わず背筋を正した。

「どうかしたんですか?」

『うん、あのね、明日のライブなんだけど!』

 やっぱりその話かと思い、喜多は再度、断りの口を開きかけるが、

『急な話でごめんっ。──明日一日、サポートギターやってくれないかなっ?』

「え…………ええっ!?」

 通話に必要以上の声量が出てしまう。

「あ、あのっ。どういうことですかっ?」

『実はさっ、ギターやるはずだった子が、インフルにかかっちゃって。あたしも今日、初めて聞かされてっ。代わりの人なんて全然用意できてないし、アテもなくってっ』

「そ、それで私に……?」

『喜多ちゃん、前にお店来てくれたとき『最近になってちゃんとギター弾くようになった』って言ってたでしょ? 喜多ちゃん以外に頼める人がいないのっ。だから、お願いっ! どうかお願いしますっ』

 電話の奥で土下座でもしてるかのような声の調子に、喜多は揺れる。

 そんな必死にお願いされたら断りにくい。助けてあげたいって思ってしまう。だけど安請け合いできるものでもない。失敗したら──また二人に迷惑をかけてしまう。またライブを台無しにしてしまう。

 数十秒ほどの脳内会議を繰り広げたすえに。

 出た結論は、

 

「──わかりました」

『……えっ』

 虹夏が驚きと希望を持った声を上げて、

『ほ、本当にっ? 出てくれるのっ?』

「はい。そこまでまだ上手ではないんですけど、やってみます」

『あっ、ありがとう! 恩に着るよ!』

 それから矢継ぎ早に、

『それじゃあ、あとで明日のセットリストとスコア送るね! あ、 プログラムも送っておくか。あたしたちの出番は二番目だから割と早いんだけど──』

「はい……はい……わかりました」

 

 次々と耳に入ってくる虹夏の言葉に、喜多はうなずきながら単調に返す。一通りの説明が終わり、「あとはまたロインで教えるから」と残すと、虹夏からの電話は途絶えた。

 喜多はスマホをしまった。次に全身に力を入れ、両手で頬をパンっと叩いた。

 不安になんてなるな──自分を奮い立たせる。

 私は努力してきた。今までみたいな見栄っ張りの私じゃないんだ。私ならやれる。人前での演奏だって、一人で演奏するのと同じようにやればいい。

 だから、がんばれ。がんばれ。がんばれ。

 

「……よしっ」

 

 喜多は階段を駆け下りた。

 これでいいんだ、と思いながら足を回した。

 ライブに協力すれば、二人からの信用をきっと取り戻せる。恩を作っておけば、文化祭ライブの件だって引き受けてくれるに違いない。

 それに。

 どうしてかわからないけど。

 自分は『結束バンド』に入るために生まれてきたんじゃないか、と運命めいた予感が頭の中にある。たぶん、それは気のせいだと思うけど。

 でも、今の自分は絶対に間違ってない。

 今度こそ、自分は正しいことをしていると思う。

 

 

 ※

 

 

 虹夏から送られてきたスコアを徹夜でタブ譜に変換し、セトリ通りに弾きまくった。幸い、どれもメジャーな曲でメロディは頭の中にあったし、複雑なフレーズも難しいコードもなかった。なので五時間も弾いていれば、それなりの演奏ができるようになって、喜多はホッと息をもらした。

 安心したら眠気がドロッ、と脳に流れてきたが、カーテンの隙間からは朝日が差し込んできていた。細い光が喜多の顔半分を炙っている。

 オールしちゃった──軽い調子でつぶやきながらも、これから学校と考えるとしんどい。しかし休むわけにもいかず、ヘッドフォンアンプを取り外してからノロノロと洗面所に向かった。鏡にはクマのある顔。水で洗い流せるはずもないが、バシャバシャと滝行のごとく顔を洗った。

 学校に着いた喜多は、それはそれは心配された。いつも明るい彼女がどんより曇った表情で、目の下にはペイントされたようなクマがぶら下がっているのだ。クラスメイトたちは病気の我が子を見守るような目になり、保健室に行こうと提案してくれた。この申し出を喜多は断りかけたが、保健室にはベッドがあることを思い出し、首を縦に振った。

 さっつーに「重いよ」と言われながらも肩を貸してもらい、保健室にたどり着いた喜多は先生からの許可をもらってベッドに横たわった。かすかに消毒のにおいがする。カーテンの閉められる音がして「ゆっくり休んでなさい」と声がした。

 完全に自分のベッドの周りが仕切られるのを確認した瞬間、喜多の意識は完全に眠りに落ちた。

 

 

 

 目が覚めると、トラバーチン模様の天井が見え、次にひとりの顔が見えた。

 

「…………後藤さん?」

 声をかけると「あっ」というような表情でひとりが目を向けた。

「お、おはようございます……大丈夫ですか?」

「ん……うん。ちょっと寝不足で」

「ふ、不眠症とかですか?」

「ううん。単純に夜更かししちゃったの」

 ゆっくりと体を起こし、

「もしかして、お見舞いにきてくれたの?」

「あ、は、はい……さ、佐々木さんから喜多さんのこと聞いて……その、はい……」

 モジモジとひとりは答える。

「ふふ、ありがとう」

 言いながら、首を少し回す。少し寝すぎたような気がする。首がコキコキと鳴った。

「そういえば……いま何時かわかる?」

 保健室には時計がない。スマホも教室に置いてきてしまった。

 ひとりは自分のスマホを取り出して、

「ええと、そろそろ四時半になりそうです」

「えっ」

 全身が硬直した。

「よ、四時……? 夕方の?」

 朝なわけがない。それでも質問に対して、ひとりは真面目に「はい」と返してきた。

 あわてて飛び起きた。上履きを突っかけ、ドアまで転びそうになりながら走った。

「どどっ、どうしたんですかっ?」

 後ろからひとりがビックリした声で訊ねてくる。しかし、悠長に説明する暇もなく、

 

「ごめんなさいっ。行かなきゃいけないところがっ!」

 

 廊下をロケットのように走り出した。

 教室まで荷物を取りに戻り、ギターケースを乱暴に背負い込みながら、喜多は下駄箱まで息も忘れて走った。

 まずい、まずい、まずい──。

 完全に寝過ごしてしまった。

 クリスマスライブは午後六時開始。しかし、リハーサルをしっかり行おうということで虹夏からは二時間前には来て欲しいと言われていた。

 現在の時刻は四時半ちょうど。

 つまり遅刻。

 それも、ライブのパフォーマンスに関わる重要な遅刻だ。

 なんで私はいつもこんな──。焦りと苛立ちで泣きそうになりながら、駅まで走り、電車に乗り込み、車内で虹夏に「いま向かってまふ!」と誤字送信を済ませてから、下北沢に降りる。また走り出す。

 スターリー前には虹夏が立っていて、自分を見かけると大きく手を振ってきた。

「喜多ちゃんっ!」

「いっ、い、伊地知先輩……っ、すみません、私、ち、遅刻……ごめんなさい……」

 立ち止まると、一気に疲れがのしかかってくる。喜多は膝に両手を置いて激しく呼吸を繰り返した。

「だ、大丈夫っ? まだ時間はあるから焦らなくていいよ。ほら、中入って。少し休憩してからリハやろ?」

 優しい口調の中にも焦りがにじんでいるのが伝わる。

 喜多はかぶりを振って、

「だ、大丈夫です。もう平気です。それより早くやりましょう」

 

 無理やり押し切った。虹夏は心配しながらもうなずいてくれて、二人ですぐにスタジオに入った。中にはリョウが待っていた。

 

「あ、先輩……今日はよろしくお願いします……」

 リョウとはまだ気まずい空気が残っている。こわごわと挨拶を送った。

 しかし、彼女は思ったより自然体で、喜多の顔を見ると安心した顔を作った。

「おつかれ。急なお願い聞いてくれてありがと」

「い、いえ。戦力になるかわかりませんが……」

「変に気負わなくていい。郁代のいつも通りの演奏を聞かせてくれればいいから。──期待してるよ」

「は……はいっ」

「さあ、あんまり時間もないからさっさと始めるよ!」

 

 ドラム椅子に座った虹夏がやる気のこもった声をかけてくる。喜多とリョウは同時にうなずき、ギターとベースをそれぞれ構える。

 虹夏が息を吸う音が聞こえたと同時に、ドラムスティックがカウントを軽く叩く。それからスネアドラムを始まりとして、しっかりとしたリズムの土台が作り出される。少しして、リョウがベースのネックに手を伸ばした。あっという間に彼女は自分のベースラインを作り出し、曲のリズムが完成する。

 ギターの出番はあと少し。喜多は左手を握りしめた。

 自分は期待されてる。

 期待されてるんだ。

 二人は、自分のことを信じてくれているんだ。

 なら、ぜったい失敗しちゃいけない。必ず成功させるんだ。私ならやれる。ぜったい、ぜったいにっ。

 ぜったいに、だけど。

 だけど。もし、

 もしも、失敗したら……どうなるのかな、

 

「──郁代っ、ギター!」

 

 ハッとした。リョウの声が鼓膜に響く。意識が音楽に引き戻され、すでにギターの弾き始まりを迎えていたことを自覚する。

 急いでコードを押さえる。素早いピッキングで合流する。ベースとドラムの間に音をねじ込もうとする。しかし、思うようにリズムに乗れない。音がどんどん先走っていって、遅れた分を取り戻そうしたのに、逆に二人を置き去りにしてしまった。

 

 あれっ、あれっ……?

 

 なんで。どうして。合わせられない。

 いつもの、普通の演奏ができない。一人でならできていたことが、三人になるとできない。

 なんで、なんで?

 呼吸が乱れてくる。暑くないのに汗が止まらない。頭がクラクラしてくる。心臓が激しく胸を打ち付けて痛い。

 音がだんだん聞こえなくなってくる。コードを押さえる指の痛さも、ストロークで爪先を震わす振動も、覚えていた曲のフレーズも、全てが霧のように包まれて見えなくなってくる。

 唐突に曲が終わった。途中で虹夏がストップをかけたようだった。喜多はストラップを握ったまま魂が抜け落ちたように崩れ落ち、その場にへたり込んだ。

 

「あ、あ……わ、私……っ」

 

 うわ言のように喜多はつぶやいた。

 自分のせいでリハーサルを止めてしまったんだ。あまりにも下手くな演奏に愛想が尽きたんだ。はやく謝らないと、と思う。だけど顔が上げるのが怖い。失望した二人の顔を見るのが──。

 

「喜多。ちょっといいか?」

「……え?」

 

 動揺する。自分にかけられた声は、虹夏でもリョウでもなかった。重かった顔を上げると、スタジオの入口に店長が悠然と立っていた。

 唐突に現れた第三者に、虹夏が不満げな声で、

 

「ちょっとお姉ちゃん。今、リハーサル中なんだけど〜」

「いや、喜多の友達って言ってる子が来ててさ。なんかどうしても会いたいっていうんだよ」

「と、友達……?」

 店長はすぐ横に視線を向け、となりにいるだろう人物に声をかけた。

「ほら、会ってきなよ」

 

 誰だろう。そう思いながら、喜多はドアを見つめた。人影はおびえた様子で、少しずつ、少しずつ顔を見せ──喜多は声を出さずに目を見開いた。

 

 ひとりがいた。

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