「ほら着いたよ。ここ」
「……ここが」
双葉の後ろを追従するよう、また街に出てしばらく。
辿り着いた建物を見上げて彼は驚く。非常に大きく、外側から見ても頑丈な作りだ。砦としても使えそうである。
ここに〝ほん〟が。期待にも似た感情が微かに顔へ浮かぶ。
それをどう思ったか、少し呆れるように笑った双葉が「入るよ」と言いながら勝手に開いた扉の奥へ進んだ。
つられて踏み入ると、また空気が変わる。
街の騒がしさとも、幼体達の遊び場とも違う静けさ。どこかあの森にも似ている。
すっと息を吸うと、食べ物の匂いも、人間達が身に付けるやけに強い香りもしない。周囲の柱や壁から漂う木の香りが落ち着いた。
(……ここは、いい)
人間で言うところの〝気に入る〟を感じながら、入り口から少し奥に進む。
そしてまた息を呑んだ。
見渡す限りの、〝ほん〟、〝ほん〟、〝ほん〟。木組みの棚に、数えきれないほど詰め込まれている。
彼はぶるりと体が震えるのを感じた。人間の知識とは、これほどまでに無数であるのか。
「なーに初めて来た子供みたいな顔してんのよ。あんた、演劇部入ったらいいんじゃない?」
ぽん、と肩を叩かれて正気に戻る。
隣を見ると双葉が口元をニヤニヤとさせており、揶揄われているようだ。
彼はその手を取った。がっしりと握り締められ、双葉はきょとんとする。
「ありがとう、双葉」
「へ? ど、どういたしまして?」
この時ばかりは少年の記憶よりも彼の歓喜が上回り、ジャマトの力で怪我をさせないぎりぎりで握る。
すると徐々に双葉の方が恥ずかしくなってきたのか、頬を赤くさせて無理やり手を離される。
「ほら! なんか探してんでしょ、一緒に探してあげるわよ」
「では、人間の文字が知れる〝ほん〟はどこだ」
「……筋金入りね、あんた……」
深くため息をつきつつ、双葉は幼児向けの図書が集められたコーナーを指し示した。
そちらを向いた彼は躊躇なく使っていき、先にいた幼体達の不思議そうな目を受けながら棚の前にしゃがみ込む。
しかし、一つ失念していた。
「……どれだ」
どれが目的のものなのかわからない。
何やらこちらに向いている部分に名前らしきものが書かれているが、そもそもが読めないのでどれがどんな〝ほん〟か分からない。
難しげに眉を寄せていたら、隣にいた幼女に袖を引かれて顔を向ける。
「おにーちゃん、何さがしてるの?」
「……文字の〝ほん〟はここにあるか?」
「文字? うーん、あっ、あれだよ!」
彼のすぐ目の前が示される。もう一度棚に目線を戻し、沈黙した。
まだ分かってないと思われたのか、幼女は棚と彼の間に入ってくる。
ジャマトである自分にここまで無防備に近づくとは、人間の幼体の怖れ知らずさに面食らっている間に一冊の本が引っ張り出された。
「はい、これ! どうぞ!」
「……ああ」
にぱ、と笑顔で差し出された本を、思わず受け取ってしまった。
満足したらしい幼女は元から自分が座っていたところに戻っていく。立ち上がった彼は手の中の〝ほん〟を見つめた。
「へえ〜、子供は元気すぎてあんまり得意じゃないんじゃなかった?」
「……知らん」
「そう? まあでもよかったじゃん、お目当てのものが見つかって」
「ああ」
これにばかりは大きく頷き、彼は〝ほん〟を抱えると移動した。
そして、すぐ近くのソファにどっかりと腰を下ろす。子供用のとても柔らかく、背の低いソファに。
真剣な眼差しで〝ほん〟のページを開き、中に記されたひらがなを食い入るように見つめ始めた。
双葉は顔を引き攣らせる。この男、ここまでやるかと。
しかし、もはや彼は〝ほん〟に全ての意識がいっており、紙の上の文字を指で興味深そうになぞっていた。
「……なんだ、これは」
「えー、兄ちゃんそんな大きいのにわかんないの? 〝あ〟だよ、〝あ〟!」
「〝あ〟か。なら、こっちは」
「〝い〟に決まってるじゃん! 小学校で習ってないの?」
「〝しょうがっこう〟とは何だ」
「いやあんた、それは設定盛りすぎでしょ」
べしっ、と後頭部に微かな痛み。
見上げれば冷めた目の双葉が。叩かれた意味がわからず、彼は首を傾げた。
「双葉。お前は知っているか、〝しょうがっこう〟を」
「知ってるに決まってるでしょ。ああもう、見てるこっちが恥ずかしい」
「っ、何をする」
突然上から本を取り上げられて彼は怒りを声に乗せた。せっかく順調だったというのに、邪魔をされた。
だが、ジャマトの姿であれば十分な恐ろしさがあったかもしれない視線に、双葉は全く怯えた様子もなく。
「ほら、あっちの机。子供に馬鹿にされてるくらいなら、この私が教えてあげるわ」
「……なら、やってみせろ」
「ふふん、まっかせなさい。小学校の先生くらい分かりやすい授業! したげるわよ」
「〝じゅぎょう〟とは何だ」
「……埒が開かないわね、ほんと」
ドヤ顔から一点、がくりと肩を落とす双葉であった。
しかし義理堅い彼女は、一旦宣言したことを取り消しはしない。彼の袖を掴み、利用客用のテーブルの一角に連れて行った。
二人とも席に着くと、肩に下げていた鞄からノートやペンを取り出す。
また新しく見るものに、彼は興味深そうな眼差しを向けた。
「はい、それじゃ始めよっか。まずはあ行から覚えなおそうねー、誠樹くーん?」
「ああ、わかった」
「いや、そんな真剣に返されると調子狂うんだけど……本当に記憶喪失にでもなったわけ? あ、やっぱいい。どうせわかんないって言うんでしょ」
まさしくその通りであった彼は開きかけていた口を閉じる。
度肝を抜かれ続けていた双葉はやり返せたことが嬉しかったのかほんの少し得意げにし、〝じゅぎょう〟とやらをする。
「私が発音と合わせて教えるから、一緒にノートに書いて。流石にペンの持ち方くらいは覚えてるでしょ?」
「……こうか」
「いや、三歳児か!」
ペン先を下に、拳の中へ握ってみる。双葉はすかさず突っ込んだ。
「んんっ。館内ではお静かに願います」
「あ、ごめんなさーい……あんたのせいで怒られたじゃない」
「そうか」
「まったく。ほら、こう! わかった?」
無理やり持ち方を直され、親指と人差し指の間に収まったペン。先ほどより安定していそうだ。
「覚えた」
「よろしい。さっき子供に〝い〟までは教えられてたよね。次は〝う〟からやるわよ」
「このミミズみたいなのか」
そうして、一つずつ人間の文字を覚え始めた。
ジャマトは生来、学習能力が高い。
生まれてそう間もなく武器の使い方を覚えられる程度の知能は元から備わっており、更にその面において、彼は並のジャマトより多少優れる。
音と合致させられれば後は容易く、一時間もすれば平仮名の読み方を濁点等に至るまで全て理解していた。
「……なるほど。似てるな」
「似てる? 何に?」
無論、ジャマトの言葉にである。
「じゃあ、ここで問題! あんたの名前はどうやって書くでしょうか?」
「……ぼくの、名前」
それはすなわち、姿を借りたこの少年の名前ということ。彼自身の名前ではない。また彼に名前は存在しない。
ジャマト。それこそが自分であり、あの頭領ジャマトのように特別な〝役割〟すらもない。
答えあぐねていると、仕方がないというように双葉がノートにペンを走らせる。
「ほら、こうでしょ?」
ひっくり返して差し出された紙面には、平仮名で「もとき」と。
指先でなぞる。
じんわりと、不思議な感覚がした。
まるで今この瞬間、この場所でだけ、自分が「もとき」になったかのような。
「……こう、なのか」
「そうよ。てことで、続けるわよ。次はカタカナね」
感覚に浸るのも束の間、どさりといくつもの本が目の前に置かれる。
平仮名と似ているようで違う形の文字の本や、はたまた謎の記号にしか見えない文字の本まで。
「……いつの間に」
「あんたがさっき反復練習してたときに。さっ、ビシバシ! いくわよ」
「……望むところだ」
彼はペンを握り直した。
それから凡そ、二時間の後。
窓の外がすっかり暗くなる頃、図書館の入り口に二人の姿があった。
「ん〜っ、はぁ。すっかり夜じゃん」
「……助かった」
「ん? ああ、それね。貸出カードどころか、財布持ってないとは思わなかったし」
昔一緒に作ったのに、と呆れる双葉。
しかし、何冊かの貸りた本を大事そうに抱えて立つ彼の姿にくすりと笑うところを見るに心底怒ってはいないようだ。
「さっ、帰ろ! もうお腹ぺこぺこだし。あっ、そうだ! あのたい焼き屋さん寄ってこ。で、このおふざけも終わり。ちょっと楽しかったけど。どう?」
「〝たいやき〟とは何だ」
彼は問いかける。何度もそうしたように、不思議そうに。
すると、今度は双葉が露骨に顔を顰めた。
どちらかに嫌なことがあっても、絶好するほどの大喧嘩をした時さえ、幼い頃からいつもの店で一緒にたい焼きを食べることで解決している。
だというのに、今日はやけに長引かせる。そろそろ忍耐力の限度というものがあった。
「ねえ、いい加減にしてよ。まだやるの?」
「たい、とは確か魚類だったか。ジショにあった。それを焼いた食べ物か?」
「何、言って…………」
「教えてくれ。〝たいやき〟は、何だ?」
──何か。何かが、違う。
双葉は一歩後ろに下がる。
こちらをまっすぐに見つめる彼の眼差し。これまでは純粋に見えていたそれが、ふと不気味に思える。
彼の背後にある暗い道がどこか別の場所に繋がっている錯覚さえ感じ、悪寒が背筋をなぞった。
一度でも違和感を覚えると、どんどん膨らんでいく。
まるでそう、幼馴染であり友達でもある彼と、姿形が酷く似ているナニカと話しているような──。
「あんた…………一体、誰?」
「……まあ、いい」
半日を共にし、初めて発せられた〝怯え〟に彼は質問を中断する。
そして、自分の手元の本に目線を移した。
「お前がいなくてはこれらを返せない。だから……」
「っ…………」
「そのうちな。〝双葉〟」
最後に少し、口端を上げて。
ゆっくり背を向けた彼の姿は……夜の闇の中へと、溶けていくのだった。
読んでいただき、ありがとうございます。