乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
──二時間目の授業が終わると、児童たちは待ちわびたかのような表情で休み時間に入る。
︎︎たかが二十分程度の休憩だというのに、男子たちは運動場へ駆けてサッカーゴールの争奪戦を繰り広げ、女子たちは教室で他愛のない話に花を咲かせたり、図書館で静かに本を読んだりする。
︎︎この学校には高所得層の家庭で育った児童が多いが、子供の本質は変わらないらしい。
︎︎高校生や大学生にもなれば二十分などあっという間に過ぎるものだが、彼らを見ていると「そういえば自分もかつてはそうだったな」と、ふとしたノスタルジーに浸る。
︎︎前世──そんな俺の、かつての小学生時代を振り返ると、当時は何とも思わなかったが、家庭環境が良くない方らしかった。世間一般では俺の親はネグレクトをしていたようなのだ。
︎︎行き過ぎた放任主義は、児童虐待と変わらない。そのことを知ったのは、中学生になり、少しは物事を冷静に考えられるようになってからだった。
︎︎それまでの俺はごく普通の、どこにでもいる子供だと自らを思っていたし、朝晩の食事は用意されていたので、幼い妹の世話をすることが億劫だったこと以外、親への嫌悪感を抱くことはさしてなかった。
︎︎そんな環境にいたせいか、他所の家庭を見ても「ああ、ここはそういう感じなのか」と軽く流していたくらいだ。
︎︎しかしそれでも当時の俺は、小学生男児らしく妙に体力だけは無限にあった。
︎︎この学校に通う彼らと同じように、休み時間になればグラウンドへ駆け出した。わずか二十分で汗を垂らし、全力でサッカーボールを追いかけて、片付けは最後にボールに触った奴ね──なんてことを毎日やっていたか。
︎︎家に帰れば、俺と入れ替わるように出かける母を玄関先で見送る。そして妹の面倒を見て、時には彼女を近所の公園へ連れて行き、同級生と日が暮れるまで遊んでいた。
︎︎だが流石に中学生ともなれば、その生活が異常だと気づくようになる。
︎︎俺の普段の生活状況を聞いた担任や仲の良い先輩たちを通じて、中学校から市内の児童相談所へ連絡が入り、ついには両親だけでなく、それぞれの実家にまで話が飛ぶことになった。
︎
︎︎もう遠い昔のことで記憶は曖昧だが、その時期の我が家は荒れに荒れた。
︎︎俺の父は多くを語らない寡黙な男だった。だが、東大出身の優秀なエリートであり、旧財閥系の大手企業に勤める敏腕サラリーマンでもあった。仕事熱心な性格で、上司からの信頼も厚く、同期や部下からも尊敬されていたという。
︎︎彼は同期一の出世頭として稼いでいたが、その反面、家庭や育児には全く無関心だった。
︎︎妻が自分の学歴や職業、容姿に惹かれ、そして何よりも金目当てで結婚したことを察していながら、「既婚者」でいることによって異性からの余計な誘いが断れると考えて結婚に至った。
︎︎身贔屓ではないが、客観的に見ても父はかなりのイケメンだった。実際、祖母の話ではアイドルやモデルのスカウトを何度も受けていたことがあったらしい。しかし俺の主観だが、彼はそもそも他人に愛を向ける精神に欠けているようだった。加えて仕事を第一としていたこともあって、異性からの誘いは面倒だと言って憚らずに全て断っていたようだ。
︎︎そんな人格なものだから、夫として本来あるべき妻への愛情は欠片もなく、むしろ彼女の不倫さえ黙認していたほどだった。
︎︎俺と妹に対しても、父は母と同様に興味を持たなかった。
︎︎彼は子供の誕生日すら覚えていなかったし、妹が重度の小麦アレルギーを持っていたにも関わらず、稀に顔を出しては「食わんからやる。二人で食え」と消費期限切れの惣菜パンを机に投げてきたくらいだったので、親なのにそんなこともすらも知らなかったのは確かだ。
︎︎そもそも俺が今くらいの年齢──小学四年生の頃には両親はすでに事実上の別居状態だったため、彼と会話した記憶は本当に両手で数えるほどしかない。
︎︎そんな家庭の実情を、他ならぬ本人から直接聞かされた父方の祖父母──つまり父にとっての両親は、異常な夫婦関係に絶句し、親子関係の破綻に憤っていた。
︎︎一方、遠く沖縄の宮古島に住む母方の祖父母にとっては、故郷を離れた一人娘が円満な家庭を築いていると信じていたのに、突如として現実を突きつけられた形となり、二人ともひどくショックを受けていた。小柄な老夫婦がとにかく青ざめて閉口していた姿は、幼時の俺に強い印象を残している。
︎︎両親は結婚式や披露宴ではごく普通の新婚夫婦を装っていたため、気づかなかったようなのだ。また、俺たちが両方の祖父母たちと会う機会がこれまで殆どなかったのもあるだろう。
︎︎彼らは「気づかなくてごめんなさい」と涙ながらに謝り、抱きしめてくれた。
︎︎また、母は言うまでもなく、複数の男との不倫や、夫婦の共有財産を勝手に大量に使い込んでいたこと、さらには俺や妹への無関心が露見し、しかも加えて悪びれる様子もなかったため、祖父母からこっぴどく叱責されていた。
︎︎結局、両親は離婚──するかと思いきや、離婚歴がつくことを嫌がった父と、継続的に金が欲しいが今更働きたくはなかったらしい母の意向もあって、二人は身内にドン引きされながらも形だけの夫婦関係を継続することになった。
︎︎だが、一方の俺たちは多方面から育児能力なしと判断された両親から引き離され、隣町に住む父方の祖父母の家に預けられることになった。
︎︎学区が替わり転校は避けられなかったものの、幸いにも隣町にも友人が多く居たため、転校先で気まずい思いは一切せずに済んだ。むしろ人生初の彼女まで出来たことで、中学生活は家庭の問題を忘れさせてくれるほど夢中になれるものだっただろう。
︎しかし当時は何とも思わなかったが、冷静に振り返ると、腹が立つのはやはり母親の方だった。
︎︎幼い妹を保育園にも通わせず、家事育児の大半をまだ小学生の俺に押し付けながら、自分は高級ブランド品で身を包み、夜の街へ消えていく。
︎︎ヤングケアラーという単語が日本に浸透する前の出来事だったが──どちらがより悪質だったかと問われれば、俺は迷いなく母だと答えるだろう。
︎︎父の無関心は、あまりにも仕事に熱中しすぎる性格だったと百歩譲れば理解できる。金はかなりの額を家に入れていたことを思えば、家庭を持つ者として最小限のことはやっていた。納得も同意も賛同もしないけれども。
︎︎しかしそれにしても、一方であの母を擁護する理由など、どこを探しても見つからなかった。
︎︎だからこそ俺は、今も昔も二人に対して尊敬や親愛や恩情を向けていない。妹に至っては両親の記憶がほとんどなかったようで、育ってきた祖父母の家では彼女の口からは両親の話題が一切出ることはなかったくらいである。
︎︎それらの反動もあって、俺は今世の母親に対して強い好感を抱いているのだろう。
︎
︎︎何故ならば今世の母には、地方公務員である学校教員としての社会的地位や信用もあれば、一人の親としてしっかり俺を育てる意思と愛情があった。もはや、普段何をしているのかサッパリだった前世の母と比較することすら彼女に失礼だろう。
︎︎現在、不幸にも彼女の元を離れて京都で暮らすことになってしまっているが、それでも会いたいと思う気持ちは強い。
︎︎実際に母と過ごしたのは、前世の記憶を思い出してからだったので体感ではわずか一ヶ月程度だっただろうが、その短い時間の中でも「世の中にはこんなちゃんとした母親がいるのか」と俺は衝撃を受けたものだ。
︎︎そんな優しい母を、現在進行形で名古屋郊外のアパートに置き去りにしている父のあの態度は、前世の親の姿を強く思い起こさせる。だから好きになれるはずもなかった。
︎︎母と月に数度、互いの近況報告をかねて屋敷の固定電話を使って彼女と話しているが──一方で、俺を京都に送り込んでからというもの、ほとんど音沙汰のない父に対しては、こちらから連絡する気など微塵もなかった。
︎︎もう随分と父の声を聞いていない気がする。彼は今、どこで何をしているのだろうか。
︎︎唯一、彼の行方を知っていそうな公威も常に屋敷にいるわけではない。たとえ居たとしても執務室にこもり、膨大な業務に日々を追われ、多忙を極めている。
︎︎それに、まだ正式な役職も持たない俺では、彼に気軽に話しかけることも難しかった。いくら彩葉と同じ学校同じクラスに通い、良好な関係の構築維持を頼まれているといえ、あくまで俺は付き人という役職を持つ”予定”の子供という立場である。
︎︎故に少なくとも現状においては、屋敷で生活しているだけの無役な外様野郎──西ノ宮と古い縁を持つ陸浦をそう喩えるのは正しくないが──と言っても良いだろう。
︎︎だから彼と会話をするときは、俺からではなくあちら側から話しかけてくる事が大半だ。そしてその内容も基本的に彩葉の様子ばかりで、稀に俺や麻雀の話題になるくらい。
︎︎そのため父の居場所や彼が何をしているのかは、未だによく分からないままだった。
──そんなことを思い出しながら机に突っ伏していると、突然背中を軽く突かれる。
「うぉっ、ビックリした」
︎︎驚きで心臓が跳ねるのを感じつつ、瞬間的に湧いた苛立ちを抑えて後ろを振り返る。隣の席の彩葉はというと、すでに読書の世界に没頭しており、俺のことなど一切気にもしていない様子だ。もしこれが沙耶香だったなら、きっと鋭い目つきで睨まれていただろうが──しかし俺の背後に立っていたのは沙耶香ではなく、クラスメイトの鳴宮 旭だった。
︎︎彼は、俺が去年この小学校に転入してきた際、あからさまに彩葉への好意と俺への敵対心を滲ませていた少年である。
「陸浦、少し聞きたいことがある。今いいか?」
「ん……?」
︎︎彩葉に好意を抱くということは、当然ながら毎日彼女と一緒に登下校する俺は鳴宮少年にとって厄介な存在だったのだろう。俺にその気が全くとも、彼からすれば突如現れた恋敵に見えたはずだ。
︎︎転校当初は彼の敵意が露骨だったが、次第に困惑の表情へと変わり、いつしか俺と彩葉に話しかけることもなくなった。
︎︎そのため俺は、てっきり彼の気持ちが他の誰かに移ったのかと思っていたのだが──。
︎︎今も時折、ちらちらと彩葉の様子を窺っているあたり、まだ彼女への未練はあるようだ。しかし、どうして五年生へ進級して数ヶ月も経つ今になって話しかけてきたのかわからない。
「鳴宮か……いきなりどうしたよ。ここで出来ない話か?」
「出来なくはねーけど……その、あまり誰かに聞かれたくないし……いや、つーか聞かせるような話でもないし……」
︎︎いつもは喧しいほど大声で話す彼が、やけに歯切れ悪く、小声でぼそぼそと話す。その様子に首を傾げたが、とにかく教室では話しづらい内容らしかった。
「彩葉」
「………………ん? どしたん?」
︎︎少し間を置いて、彩葉が本から顔を上げる。
︎︎その途端、彼女の表情が一瞬だけ険しくなった。鳴宮少年の顔を認識した途端に滲む嫌悪の色──けれどもすぐに何事もなかったかのように、取り繕った微笑みを浮かべる。
︎︎ほんの一瞬の変化だったが、俺は見逃さなかった。
︎︎彼女が鳴宮少年を嫌っていることは普段の様子から察していたが、ただ顔を見ただけでここまで露骨な反応をするとは。鳴宮少年のこれまでのアプローチの仕方が相当間違っていたのだろう。
︎︎精神年齢は違えど、同じ男としては何とも言えない気持ちになる。しかしともあれ彼の話が気になるので、離席の許可を取るべく彩葉に一言伝えた。
「ちょっと離れるわ。鳴宮が俺に話があるってさ」
︎︎俺がそう言った途端、意外にも彼は彩葉と目を合わせることなく、気まずそうに教室の扉へ向かって歩いていった。
︎︎その小さな背中を見送りながら、彩葉は俺にだけ聞こえる声でため息をつく。彼女のその深いため息は、決して疲れからくるものではなく、苛立ちを滲ませた感情の吐き出しだった。
︎︎彩葉にしては珍しい態度だった。
︎︎完全に錦戸家の考えに染まっているあの沙耶香に対してですら──西ノ宮家としての本心はどうあれ──表面上は取り繕って大人びた対応をしていたというのに。
︎︎なぜ鳴宮少年はこうも彼女に嫌われているのだろう。
︎︎しかし彩葉の口からクラスメイトのことが話題に出たことはほとんど無いので、俺が転校してくる以前はどのような関係だったのかは知る由もない。
︎︎けれど、彼女のこの反応を見るに良好ではないのは確かだ。
「…………あんな奴が将吾くんに何の用やねん。行く必要あるん? 別にここで話せばええやんか」
「いや俺も知らんけど……別に全然ふざけた様子じゃなかったし、たぶん真面目な話だと思うぞ」
「ふぅん……あの鳴宮が、あんたに真面目な話? また下らん金自慢ちゃうの? そもそもアイツと仲良い訳ちゃうやろ」
「俺に聞かれてもなあ……」
︎︎俺が肩をすくめると、彩葉はもう一度ため息をついた。その表情には、鳴宮への明確な嫌悪が滲んでいる。
︎︎その顔はまるで原作主人公を初めて前にした時の、“悪役令嬢”西ノ宮彩葉を想起させる迫力があった。
︎
︎︎幼いとはいえ原作と同一人物なのだから、その面影や片鱗があるのは当然なのだが──しかし数年後の様子を思うと少し怖くなってくる。
︎︎願わくば悪役令嬢なんぞにはならず、いずれ現れる婚約者殿と穏やかに暮らしてほしいものだ。俺はひっそりフェードアウトして遠方に逃げるから。
︎︎尚も不満気な彩葉に俺は「すぐ戻る」と一言だけ残し、廊下で待つ鳴宮の後を追った。そのとき背後から感じた、突き刺すような鋭い視線はあえて気にしないでおく。 ︎
■■■
︎︎鳴宮少年は短く息を吸い込むと、一度だけ目を閉じ、それから俺を見据えた。彼の目には、一瞬だけ戸惑いと決意が入り混じったような色が浮かんでいた。
「──聞きたいことがあるんだ」
︎︎校舎端の階段踊り場で、窓の外の景色を眺めていた鳴宮少年は、俺を見据えると重たい口調でそう切り出した。
︎︎彼の視線の先には校庭が広がっている。グラウンドを飛び出して遊ぶ児童たちの賑やかな声が耳に届くが、鳴宮少年の表情はその明るさとは裏腹に曇っているように見えた。近くの教室から聞こえる笑い声も、妙に遠く感じる。偶然か、階段を使う児童の姿はなく、ここだけが取り残されたように静かだった。
「聞きたいこと?」
︎︎俺が問い返すと、鳴宮は視線を窓の外に戻しながら、唇をわずかに引き結んだ。いつもは元気溌剌としている彼には珍しく、言葉を探す仕草が見て取れる。
「……おう」
︎︎僅かに息をつきながら、彼は小さく頷いた。短く答えたその指先が窓枠をなぞる。その動きには僅かな迷いが滲んでいた。
「お前って、西ノ宮ちゃんの家で暮らしてるんだよな?」
「……ああ、そうだけど」
︎︎不意に向けられた問いに、俺は少しだけ眉を上げる。
「やっぱり……まあ、毎日一緒に同じ車で登下校してるもんな。そりゃそうか……」
︎︎鳴宮は自分に言い聞かせるように呟き、再び窓の外へと目を向けた。その横顔はどこか緊張している。何か言いたいことがあるのは明らかだが、まだそれを口にする覚悟ができていないようだった。
「お前……自分の親とは、何か話したりしてるか? 西ノ宮ちゃんの家で暮らしてるってことは、別の場所に親が居るんだろ? 確か名古屋から来たって去年転入してきたときに言ってたよな」
「親?」
︎︎躊躇うかのような様子でかけてきた突然の質問に俺は訝んだ。なんで彩葉と暮らしているんだ、とか。どういう関係なのか、とか。そういう類の質問ならば理解できるが、なぜそこで俺の親が出てくるのだろうか。
「……例えば、家のこととか、昔のこととか」
「いや……たまに電話はしてるけど、そんなことは話さないな。うちの親は学校の先生やってて普段忙しいし、ただの近況報告くらいだわ」
「そっか」
︎︎質問の意味がよく分からなかったので曖昧に答えると、今度は窓枠に肘をついて深く息を吐いた。その吐息は妙に重く、どこか思いつめたような空気が漂っている。なんなんだ一体。
「……うちの親さ、昨日変なことを言ってたんだ」
︎︎低く落とされた彼の声が、俺の疑問に蓋をする。なぜ鳴宮少年が俺の親について聞いてきたかは分からないが、一旦は大人しく話を聞くべきだろう。
「変なこと?」
「ああ。父さん、昨日お酒を飲んでてさ。俺に仕事の話をしてたんだけど、急に黙り込んで“これは知らなくていい”とか言い出したんだ。それだけなら別にいいんだけど……何かを隠してるみたいな顔してたんだよ」
「ふぅん……それで、お前は何か気になることでも?」
︎︎軽く流したつもりだったが、彼の表情は変わらなかった。いやむしろ、真剣さが先程より増しているように見えた。
「……どうだろうな。なんか寝る前からずっと引っかかっててさ。どういう事なのか聞いても、あからさまに話を逸らしたから”何だったんだろう”って感じで。あんな父さんの顔初めて見たし……母さんも早く寝ろって怒ってきて」
︎︎制服の裾を握りしめた彼の指が微かに震えているのが見えた。俺は気づかないふりをしたが、その内心が穏やかではないことは明らかだった。
︎︎仕事の話をしていて途中で話を切り替える。それ自体は別に珍しいことではないだろうと俺は思う。子供には聞かせられないと判断した話題が、中に含まれていただけかもしれない。
︎︎前世で社会人の経験がない俺が言えたことではないが、世の中、後ろ暗い話なんて幾らでも転がっている。経営者ならその筋の良くない話を聞くこともあるだろう。
︎︎それにしても、そんなことで俺に相談する理由が全く理解できない。彼の親が挙動不審になったのと、単なるクラスメイトでしかない俺。そこにどのような繋がりがあるのだろうか。
︎︎しかし幸いにも、ようやく本題に入るかのような雰囲気に変わったのを感じたので、怪訝な表情はあえて隠さずに俺は壁へもたれかかった。
「……それでさ、お前に聞いてみようと思ったんだ」
︎彼の目が、初めて真っ直ぐこちらを向いた。真剣な色が浮かび、軽い冗談では済まされない気配が漂っている。
︎︎俺は何となく、胸の奥に鈍い不安が芽生えるのを感じた。
︎こらちを見ながら何かを考え込むように唇を噛んだ鳴宮少年は、しかし迷いを振り払うように、ぽつりと呟く。
「……西ノ宮ちゃんの家、ってさ……普通じゃないよな?」
︎︎ようやく絞り出されたその言葉は、思ったよりも慎重な響きを帯びていた。
︎︎俺は軽く肩をすくめる。
「普通かどうかは分からないが、まあ……変わってるかも」
︎︎かつては華族にも名を連ねていた歴史ある名家。
︎︎近代日本史を調べれば、いくつか西ノ宮の名が登場することもある。流石に四大財閥や有名士族、幕府・新政府要人らとは比較にならないが、屋敷に置いてあった専門的な歴史雑誌でも華族としての西ノ宮について僅かに触れられていたページもあった。
︎︎以上の事を鑑みれば、神祇瑞光院の事を抜きにしても西ノ宮は凡そ一般的な家ではない。
︎︎普通でないと言われれば確かにそうだ。
︎︎鳴宮少年は僅かに唇を噛みしめた。彼の目は窓の外に向けられていたが、まるで何かを思い出すように目を細めていた。
「そう、なんだな」
︎︎再び低く呟いたその声には、何か確信めいたものが混じっていた。俺が何か言おうとしたその瞬間──鳴宮少年は拳を握りしめ、まるで思い切ったように口を開く。
「なあ陸浦──妖怪って……本当にいるのか?」
──その瞬間、まるで時間が止まったかのように、周囲の音が消えたような錯覚に陥った。
「……は?」
︎︎耳を疑った。鳴宮少年の口から「妖怪」という単語が出てくるとは、全く予想だにしていなかったからだ。
︎︎一瞬、思考が停止する。なぜ彼の口からその単語が出てくるのか分からず、俺は困惑を隠せなかった。
︎
︎︎鳴宮 旭という少年が原作に登場しないことは確かだ。沙耶香の名前を聞いたときのように、馬鹿な脳ミソによる記憶違いの可能性も考えたが、今回は自信を持って否と断言できる。
︎︎それなのに、彼は「妖怪」と言った。
︎︎しかも、それはカルチャー的な空想や単なる遊びの話ではなかった。彼の表情や声色からは、明らかに真剣な思いが伝わってくる。
︎︎どこで、どうやって、いつ知ったのか。
︎︎沈黙が続く中、鳴宮少年はじっと俺を見つめている。その目には、単なる好奇心ではない、確信に近いものがあった。
︎︎まるで俺が答えを持っていることを事前に知っているかのような……そんな視線だった。
「妖怪だぁ? お前そんなの信じてるのか?」
そう口にした瞬間、自分の声がやけに乾いていることに気づいた。あえて吐き捨てるような調子で答えたのは、内心の動揺を隠すためだ。
鳴宮少年の瞳に宿る真剣な光。
それがまるで、俺が「知っている」という前提で問いかけてきたような──そんな錯覚を抱かせた。
妖怪の存在の秘匿は、神祇瑞光院が最も重視している事だ。
妖怪の存在が世間に公表されれば、自動的にそれを排除する自分たちの行動まで明るみに出ることになる。たとえ神祇瑞光院が沈黙を貫いたとしても、妖怪側が表に出れば、嫌がらせのように組織の存在を暴露するだろう。
護国衆が保持する武装が銃刀法や火薬取締法に違反しているのは明らかだし、日本政府からの巨額の資金援助は税法に触れている。その上、組織構成員全員に与えられた不逮捕特権は、現行憲法すら逸脱している異常な状態だ。
これらの実態がマスメディアや国民に知られれば、猛反発を受けるのは火を見るよりも明らか。そんな非常事態は、俺のような馬鹿でも予測がつく。
実際、こうした事は佐々木の勉強会で散々教えられてきたことだった。西ノ宮家の一員として、「余計なことは何も話すな」と口酸っぱく言い聞かされてきた記憶が嫌でも蘇る。
だからこそ、表面上は冷静を装った。
無関係の人間に何かを漏らすことは許されない。それは、西ノ宮家や彩葉の信頼を裏切る行為になるからだ。
とはいえ、単なる義理人情だけではない。
俺個人の事情もある。西ノ宮家の不興を買えば、大した力も逃走資金も持たない俺は、その処罰を免れることはできない。単なる小学生に過ぎない今の俺にとって、彼らの庇護を失うことは命取りだ。
「そんなわけないだろ? 妖怪なんて、ただの昔話じゃないか」
さらに追い打ちをかけるように、尊大に鼻で笑う仕草を見せた。俺の言葉が嘘に聞こえることを恐れていたのだろうか……いや、違う。それは単に、自分自身に言い聞かせるためだったのかもしれない。
だが、鳴宮少年は怯まなかった。じっとこちらを見つめたまま、視線を外す気配すらない。
その目に浮かぶのは、「疑い」ではなく、もはや「確信」だ。
「(鳴宮少年の親は何を言った? ……西ノ宮家について何か知っていた上で口を滑らせたのか? くそ、酔った勢いで余計な真似を……)」
西ノ宮家が資金源として利用しているフロント企業は、関西エリアを中心に大きな不動産業を営んでいる──公式ファンブックの設定によれば、そうだったはずだ。府内で有名ホテルを経営する鳴宮少年の両親が、その不動産関連で西ノ宮家とビジネスの繋がりを持っていてもおかしくはない。
それならば、彼らが「妖怪」の存在を知っている可能性も考えられるが……。
だが、鳴宮少年が彩葉ではなく俺に声をかけてきた理由は何だ?
単に彩葉に話しかけるのが気まずかっただけかもしれないが──彼は一体どこまで知っている? 妖怪の存在だけか? それとも西ノ宮家や、神祇瑞光院の実態にまで踏み込んでいるのか?
どちらにせよ、俺がそれらに馬鹿正直に答える選択肢はなかった。ただこの場をどう切り抜けるか、それだけを考えるしかない。
だが、そんな俺の焦燥感は無駄に終わった。
鳴宮少年が俺を見詰めていた視線を逸らし、バツが悪そうに頭を搔いたのだ。
「……そうかよ、悪かった。変なことを言ったな」
彼はそれだけ呟き、ふいと窓の外に目を移した。だが、その肩は緊張で硬くこわばったままだった。
一方で、俺は密かに安堵の息をついていた。この場で深追いされずに済んだことが、何よりの救いだ。鳴宮少年の意外とも言える察しの良さに助けられた形である。
静かな沈黙が踊り場を支配した。
遠くから聞こえる子供たちの笑い声が、やけに遠い響きに感じられる。
その沈黙が長引けば長引くほど、不穏な気配が胸の内に広がっていく。鳴宮少年が発した「妖怪」という言葉が、小さな火種となって俺の中の何かを燻らせているような感覚だった。
「答えられないなら、せめてこれだけは答えてくれないか」
「……何だ?」
「──”ソレ”は、西ノ宮ちゃんにとって危ないものなのか?」
「……」
具体的な名称を避けた”ソレ”とは──おそらく、妖怪のことを指す。鳴宮少年が気にしているのは、妖怪が彩葉にとって危険な存在なのか否か、それだけだ。
︎︎いや──正確には、自分が好意を寄せる彼女を「守れるのかどうか」を気にしているのだ。具体的な人名は分からずとも、誰かが彩葉を守っているということは、彼の様子からして恐らく知っているようだったが、幸いにも詳細は知らないらしい。
︎︎確かに、全ての妖怪が危険なわけではない。桜庭が言っていたように、人間と同じように暮らしているだけの個体も世の中には居るのだ。原作でもそういった個体が多く登場し、妖怪について無知だった主人公の考えに影響を与えていた。
︎︎だがそれでも、一部の個体──といってもその数は多いが──特に数ヶ月前のあの襲撃事件に関与していたような奴らは、危険性が突出している。
︎︎その事実を俺は強く理解している。
︎︎何故ならばあの時、俺は事件現場に居合わせ、そして目の前で彩葉が妖怪に襲われかけたのを目撃したのだから。
︎︎彼女が狙われた理由も明白だ。
︎︎西ノ宮家の直系であり、そしてその後継者候補筆頭という立場そのものが、人間社会──ひいては神祇瑞光院に敵意を抱く妖怪たちにとっては格好の標的になる。
︎︎それに加えてあの事件以来、彩葉の周囲に漂う緊張感は薄れるどころか、水面下ではむしろ増しているはずだ。だからこそ公威は桜庭に送迎の警護を依頼した。彩葉が再び妖怪に狙われる可能性。それは「ある……かもしれない」どころか、確実に「ある」と断言していい。
︎︎具体的なタイミングは誰にも分からないが──事件の調査がさほど進展していないらしい──故に万が一に備えての一番隊再編であり、桜庭の警護任務があった。
︎︎けれど、そのことを目の前の鳴宮少年に正直に伝えるわけにはいかない。いや、それ以前に、この問いそのものにどう答えるべきかがわからない。
︎︎「全ての妖怪が危険ではない」と言えば安心させられるのだろうか。それとも「彩葉には危険が及んでいる」と正直に言うべきなのか──どちらを選んでも、関係者ではない彼を納得させられるとは思えなかった。
︎︎下手な言葉を選べば、逆に怪しまれるかもしれないし、最悪の場合、神祇瑞光院や西ノ宮家に迷惑をかけることにもなりかねない。
︎︎俺は、目の前の鳴宮少年をじっと見つめた。
︎︎彼の瞳に宿る不安と焦りは、今にも俺の口から何かを引き出そうとするかのように強い圧力を持っている。
︎︎そんな静かな押し問答のような時間の中で、胸の奥に何かが鈍く重く沈んでいくのを感じた。
︎︎それは、罪悪感なのか、あるいは何かを隠し続けることへの恐怖なのか──自分でもよくわからなかった。
︎︎ふと、窓越しに差し込む陽の光が目に留まった。あの事件の日と変わらない柔らかな光が、今この窓にも差し込んでいる。
︎だが、それを浴びていたはずの彩葉の姿が、数ヶ月前、妖怪に怯え立ち尽くしていた瞬間を思い出し、思わず視線を逸らす。彩葉の無事を守るために必死だった自分と佐々木、そしてすぐさま救援に駆けつけた桜庭の姿が脳裏をかすめる。
︎︎俺は短い溜息をついてから、あえて軽い調子で答えた。
「さあな。けど、お前がそこまで気にするほどのことでもないと思うぜ。子供なんて皆、”色んな大人”に守られてんだからさ」
︎︎言葉の真意を悟らせないように、努めて気楽そうに装った。色んな大人たちと表現したのは、付き人云々を悟られぬため。流石の彼も同い歳の男が彩葉の護衛役とは思うまい。
︎︎だが、そんな自分の声が少しだけ震えていたのは、大変恥ずかしながらも自覚していた。
︎︎鳴宮少年は視線を落としながら小さく息を吐いた。質問を重ねても無駄だと悟ったのか、それとも単にこれ以上言葉が出なかったのか──その理由は彼自身にもわからないのだろう。
︎︎ただ、その姿に俺が感じたのは、彼がいまだ迷いの中にいるということだった。
︎︎その迷いが、これ以上深まらないことを祈るばかりだ。
︎︎それが誰のためなのか──彩葉のためか、彼自身のためか、もしくは自分の安寧のためか──今の俺には答えられないが。
休み時間の終わりを告げるチャイムが、校内全体に響き渡る。鳴宮少年は何か言いたげな顔をしていたが、結局それ以上は何も口にしなかった。俺も彼に背を向けて階段を降り、教室へと戻る。階段を下りる彼の足音が、俺の背中に微かに届いていた。
教室に戻ると、俺の後を続いて中へ入った鳴宮少年は各々の席で待っていた友人たちに囲まれた。「おい、どこ行ってたんだよ」「キーパーのお前が居ないと球入れられまくりやったわ」などと冗談交じりの声が飛び交う中、彼は特に反論することもなく、いつものように軽く笑って話を合わせていた。
そんな様子を横目に見ながら通り過ぎて、俺も自分の席へと向かう。そこには彩葉が変わらぬ様子で座っていて、手元の教科書をなんとなく開いている。
︎︎しかし俺の動きに注意を向けているのがわかった。俺が席に着くなり、彼女は口を開く。
「……で?」
短い一言だが、その声には明確な問いが含まれている。
もちろん、鳴宮少年と俺が話していた内容を気にしているのだろう。
「でって、何が?」
俺はとぼけてみせるが、彩葉は視線を逸らさない。微妙に眉間にしわが寄っているのは、どうやら納得がいっていない証拠だ。
「あの鳴宮が、なんの用で将吾くんを捕まえてたんかって話。まさか、変なこと言ってへんよな?」
「あんまり関係ない話だったよ。安心しろ」
俺は努めて軽い調子を装ったが、彩葉の目は鋭く細められたままだ。
「あんまり関係ないって、どういう意味?」
「ただ単に”どうしていつも一緒に居るのか”みたいな感じだった。……悪い、詳しくは後でもいいか。ここじゃアレだろ」
俺の曖昧な返答に、彩葉はほんの少し首をかしげた。追及しようとする気配があったが、思い直したのか、それ以上は何も言わなかった。ただ小さく息をついて、再び教科書に目を落とす。
俺は胸を撫で下ろしつつ、気持ちを落ち着けるように視線を窓の外に向けた。誰が聞いているかも分からない、こんな休み時間明けの教室で話すような内容では無い。とはいえ、彩葉に黙っているような事でもないので帰宅する時の車の中で話すべきだろうとは思う。
日差しは夏が近いことを思わせるほどに強いが、その光を時おり遮る雲が作る柔らかな陰が、地面をゆっくりと動いていた。
︎︎俺が個人的に顔が好きなお天気お姉さん曰く、もうシーズン的にはとっくに梅雨入りしているようなのだが、本日の京都は普通に天気が良かった。たが大阪や奈良辺りでは雨が降っているらしいので、明日はどうなることやら。
だが、天気の良さとは対照的に、この教室の中に漂う空気はどこか鈍く重い。表面的にはいつも通りでも、俺と彩葉と鳴宮少年の三人だけが間違いなくいつも通りでは無かった。
鳴宮少年の不安げな顔が脳裏をよぎる。
︎︎彼があの問いの答えを本当に受け入れたのか、それともさらなる疑念を抱え込んだのか。どちらにせよ、彼の中に渦巻く迷いが、今後どんな形で表れるのか──俺には想像もつかなかった。
誤字報告マジで助かってます、谢谢。
本当は鳴宮くんと仲良くなる話にするつもりだったんですが、いつのまにかシリアスな内容になってしまいました。
書き溜めてたやつ返して……(懇願