乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
「ほんで? 結局なんやったん?」
「ん? なにが」
「鳴宮の件や」
「ああ……」
学校が終わり、屋敷へと向かう車の中。彩葉は本を手にしながらも、どこか気にかけていたように、ふと話を振ってきた。
数時間前の鳴宮少年とのやり取りが頭をよぎる。
彼は、両親の何気ない会話の中で、妖怪という存在に疑念を抱いた。そして、それが西ノ宮家──つまり彩葉と関わりがあるのではないかと考え、俺に接触してきたのだろう。
教室に戻った際に彩葉から話の内容を問われたが、休み時間明けの教室という場では不用意に口を開くわけにはいかなかった。誰が聞いているか分からない以上、適当に誤魔化すほかなかったのだ。
彼女も察してくれたのか、あの場では特にそれ以上は何も言わなかったが、この閉鎖的な車内なら問題ない。運転席には使用人がいるものの、彼は基本的に会話には干渉しないし、彼もまた西ノ宮の人間なので寧ろ耳に入れておくべき話だろう。
俺は、鳴宮との会話の内容を正直に伝えることにした。
「なんか、妖怪のこと知ってそうだったんだわ。そんで彩葉を心配して俺に声かけてきたって感じじゃないか。西ノ宮の付き人どうこうまでは流石に知られてないと思うけど……まあ、こっちに来たのは単純に、俺がお前と一緒にいるから何か知ってんじゃないかって考えたんだろ」
「はぁ? 何でアイツが妖怪のこと知ってんねん。組織とは関係ない家の成金坊ちゃんやで?」
「さあ? なんでも親がそんな話をチラッと漏らしたとか言ってたが……」
鳴宮少年自身、詳しいことまでは分かっていなかったようだ。だが、彼の両親が妖怪の存在を認識しており、さらに西ノ宮家についても何らかの情報を持っていることは間違いない。
おそらく、西ノ宮のフロント企業群を通じて何らかの繋がりがあるのだろう。もしそうならば、公威には必ず報告しておくべき案件だ。
公威がどの程度、企業の経営に関与しているのかは俺には分からないが、顧客情報や土地売買の記録などを調べるくらいなら容易いはずだ。
「鳴宮の親……あぁ、あのホテルの」
「なんだ、やっぱ有名なのか?」
「あんたも京都住んどるなら見たことくらいあるやろ。京都駅の近くにある、あの色んな外国人さんが仰山入っていく建物」
「ん……? ……あー、あれね。はいはい」
「絶対分かってへん顔や」
そう言われても、これまで街中を散策する機会などほとんどなかったのだ。
京都の街並みに関する知識は、ほぼ前世の──しかも今より十年近く後の時代のものに頼っている。こちらに来た時はともかく、西ノ宮邸で生活するようになってから京都駅を利用したこともないので、駅前の光景にどれほどの前世との違いがあるのかさえ実感できていないのが正直なところだった。
「”花洛インターナショナルホテル”って言うたらあんた、テレビでもたまに取り上げられとるくらいよ?」
「ほーん……」
それなりに有名なホテルらしいが、俺にとってはどこか遠い話のように思えた。今後、利用することはないだろうから、頭の片隅に置いておく程度で十分だろう。そもそもテレビなど前世含めてさほど見ていない。
「それにしても……そうか、妖怪のことか。てっきりうちは、アンタにちょっかいかけるつもりで呼び出したんかと思たわ」
「ちょっかい?」
「んー……アイツも色々あるやん?」
「なんだよそれ……って、あー……いや成程、お前絡みでか」
「そーいうこと」
最近はともかく、かつてはあれだけ露骨にアプローチをかけていたのだ。聡明な彩葉が彼の気持ちに気づかないはずがない。とはいえ、あの鳴宮少年が向こう見ずに俺へ手を出してくるとも考えづらかった。実際に対面してサシで話すと、想像していたよりも随分と大人しかったのもあるが──……。
鳴宮少年の件以外は彼女に伝えるべきことも別になかったので、俺は水筒に入った麦茶を口に含み、渇いた喉を潤した。彩葉も特に話を続ける気はないのか、手元の本に視線を戻し、車内には静かな沈黙が落ちる。
窓の外には、すでに見慣れた京都の街並みが流れていく。
日も傾きかけ、強い西日がビルの間から差し込んでくる。街路樹の葉が夕陽を受けて揺れ、車のボディに柔らかな陰影を落としていた。
︎︎信号待ちで停車すると、歩道を行き交う人々の姿がスモークガラス越しに映る。リュックを背負った外国人の姿が目立つのは、さすがは日本屈指の観光地といったところか。それでもオーバーツーリズムが問題になっていた前世よりはマシな数だ。
後部座席に座る俺たちには、車外のそんな喧騒はまるで別世界の出来事のように遠く感じられる。車内は適度に冷房が効いていて、外の蒸し暑さとは無縁の快適な空間だった。
ふと、彩葉が本のページをめくる音が聞こえる。
「……」
俺も何か言葉を発しようかと思ったが、特に話題もなく、そのまま喉の奥に押し込む。
別に気まずい沈黙というわけでもない。お互いにそれなりに慣れた空気のなかで、車は屋敷へ向かって進んでいく。
︎︎車内には心地よい静寂が広がっていた。エンジンの低いうなりと、タイヤがアスファルトを滑る音だけが微かに耳に届く。外の喧騒とは対照的な、この閉じられた空間は妙に落ち着くものがあった。
彩葉は相変わらず本に目を落としている。
︎︎ページをめくる指先が時折わずかに止まるのを見るに、完全に集中しているわけではなさそうだった。俺も窓の外を眺めながら、ぼんやりと考えを巡らせる。
鳴宮少年の親が妖怪のことを知っていた。
︎︎そこに何かしらの意図があるのか、それとも単なる噂話として口にしただけなのか。
︎︎ふと、彩葉が小さくため息をついた。俺が視線を向けると、彼女は本を閉じ、軽く背伸びをする。
「それにしても、妙な話やね」
「どれがだ?」
「鳴宮の親のこと。
「それはそう……まあ、ガチでうっかり喋っただけって可能性もあるけど。鳴宮曰く、その時は酒飲んどったみたいだし」
「それならええけど……いや良くないわ」
彩葉の表情はどこか釈然としない様子だった。だが確かに、俺も少し気にかかる話ではあったので彼女の気持ちも分かる。 ︎︎ ︎
︎︎まず鳴宮少年が親から妖怪のことを聞いた、という点。
︎︎西ノ宮家との縁もあり、彼の両親が何らかの経緯を経て妖怪を知ったということは分からないでもない。だが、西ノ宮をはじめとする組織の情報統制はかなり厳しい。フロント企業を通じてのビジネスの繋がりしかない上に、旧華族の西ノ宮から言わせれば“ぽっと出の成金”に過ぎない鳴宮の家に、彼らが妖怪や組織のことをわざわざ教えるとは到底思えなかった。そもそも、それをする利点が西ノ宮にあるとは思えない。
︎︎つまり、鳴宮両親が妖怪のことを知った過程に西ノ宮家は関わっていないはずだ。無論、情報を漏洩した裏切り者が西ノ宮側にいないという前提の上ではあるが、実際に西ノ宮家で生活し、佐々木から様々なことを教えられてきた俺からすれば、その前提は確かなものだと思える。それくらい彼らの情報統制は徹底していた。
︎︎やはり、西ノ宮家の人間以外の第三者が、鳴宮両親に妖怪や西ノ宮家のことを教えた──これが可能性としては一番高い。しかし、まだ腑に落ちない点がある。
︎︎なぜ、その第三者は鳴宮家を選んだのか。鳴宮家に妖怪のことを教えた理由が何かあるのか、それとも単なる偶然なのか。もし意図的に情報が流されたのだとすれば、その目的は?
︎︎考えれば考えるほど、鳴宮少年の話に疑問が深まっていく。しかし、これ以上考えても俺には答えが出せそうになかった。考察を続ければ、下手をすれば知恵熱を出しそうなほどだ。ここは素直に他の人に丸投げするのが得策だろう。
「彩葉、西ノ宮閣下って今日は屋敷にいらっしゃるか?」
「お爺様?……あー、どうやろ。うちも普段あんま話さへんし分からんなあ」
︎︎公威や佐々木には報告しなければならない。鳴宮の両親が妖怪や西ノ宮のことを知っていて、そのうえで息子が偶然それを聞き、さらには俺に接触してきた。単なる俺の杞憂や考え過ぎなら良いが、彩葉の襲撃事件もある以上、ここまでの流れが偶然の産物であるとはどうしても思えない。
︎︎公威がどの程度の情報を把握しているのかは分からないが、仮に問題のある事案なら、彼が調査を進めるだろう。襲撃事件以降、彩葉の身辺は厳重に警戒されている。怪しい事案を放置する理由はない。
︎︎とはいえ、俺は公威のスケジュールを把握していない。佐々木なら確実に屋敷にいるだろうが、これは早めに伝えるべき情報だ。佐々木経由で公威に報告することもできるが、後で呼び出されるかもしれないという手間を考えれば、俺が直接彼に伝えたほうが何倍も話が早い。
︎︎そう考えて彩葉に尋ねたのだが、彼女も公威の所在を知らないらしい。俺は”うーん……”と小さく唸るしかなかった。
「……というか、今年に入ってからは多分あんたの方がお爺様と話しとると思うけど……」
「んなことないだろ」
「いやいや、お爺様に呼ばれてあんたが夜な夜な麻雀やっとんの知っとるからね。うちですらお爺様と遊んだことなんて、本当に小さい時くらいしかないのに。あんたならお爺様の予定くらい知っとるやろ」
「いや、全然知らん。そこら辺の話は閣下から全然聞かないし」
「じゃあ麻雀のときは何話してん?」
「“金を賭けてみるか?”とか、“前に億で買った馬の成績が最近良くない”とか、そんなんばっかだぜ。仕事の話になると凄い機嫌悪くなるから怖くて閣下の予定なんて聞けねぇわさ」
「一体何を言うてんのお爺様……」
︎︎明らかに困惑した様子の彩葉に、俺は何も言えなかった。夜の麻雀会を通じて初めて知ったことなのだが、公威はかなりのギャンブル好きらしい。
︎︎とはいえ、外聞や世間体を気にして、実際にギャンブルに金を賭けたことはあまりないようだが──それでも毎回、麻雀の初めに「今回は金賭けるか」なんて平然と言うものだから、かつて想像していた西ノ宮公威の人物像とはすっかりかけ離れていた。神祇瑞光院の恐れる“闇将軍”が、実は賭博好きの爺さんだったと前世の妹が知ったら仰天するに違いないだろう。
︎︎俺の教育に悪いと判断したのか、同席の使用人らはいつも巧みな話術で彼の意識を逸らしているが、あれも時間の問題だろう。いつかは本当に金を賭けそうな感じがする。
「……お爺様って馬なんて買ってたっけ? 聞いたことないわ」
「まあ、馬主とはいえ別に屋敷の庭で飼い慣らす訳じゃないし。お前から聞いてみたらどうだ。つーか俺もちょっと気になるし……おし、代わりに頼んだぜ彩葉」
「うち動物嫌いやもん。馬主?っていうのにお爺様がなってようが興味無いし、どうでもええわ。そもそもギャンブルをするのもどうかと思う派やもん」
「動物嫌いって……馬はともかく、犬や猫も嫌いなんか?」
「臭いし汚いしうるさいし無理。だからもしそこら辺歩いとって野良猫とかが近付いてきたら、あんた絶対に追い払ってな」
「お前って多分平気で動物とか蹴れるタイプだろ」
「まあ否定はせんけど」
「そこは絶対に否定しろよ、倫理的にさ」
︎︎いや、流石に冗談やで?──真顔でそう言う彩葉に、俺は訝しげな視線を向けた。原作で実際に動物を蹴る場面があったわけではないが、高校三年生の彼女がそうしたとしても不思議ではない精神性を持ち合わせていたことはよく知っている。
︎︎まだ小学生ということで今は割と大人しめに見えるが、数年後はどうだろうか。そんな疑念を込めた視線を向けると、彩葉は不満げに頬を膨らませた。
︎︎とはいえ、正直に「お前、将来本当に動物を蹴るような性格になるぞ」と言うのはあまりに失礼すぎる。適当に話を濁しておこうと考えていたが、ちょうどその時、運転席の使用人がフロントから目を離さずに声をかけてきた。
「──閣下なら本日は屋敷に居られますよ。急用などで席を外していないのであれば、執務室で仕事をしているはずです」
「え? ああ、ありがとうございます」
︎︎思わぬタイミングで情報が入ってきたせいで、一瞬間の抜けた返事をしてしまった。とはいえ、これでわざわざ佐々木を経由する手間が省ける。俺が直接公威に話を通せるなら、そのほうが色々と手っ取り早い。
︎︎それについては彩葉も特に異論はないようで、「なら、さっさと行く?」と軽く問いかけてくる。俺も頷き、車が屋敷に到着するのを待ちながら、公威に話す内容を簡単に整理し始めた。
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「ほー……なるほどなぁ」
「はい。彼も詳しくは分かっておらず、単に疑問に思って私に質問しに来たのだと思いますが……」
︎︎屋敷に到着した俺は、彩葉と並んで手を洗った後、迷うことなくひとり公威の執務室へ向かった。
︎︎西ノ宮邸は外観こそ伝統的な日本屋敷だが、内部は大正モダンの趣を感じさせる和洋折衷の設計になっている。その中でも公威の執務室は、格別に西洋的な空間だった。
︎︎彼の趣向は伝統文化に重きを置いているはずなのに、この部屋だけは例外的に洗練されたアンティーク調の調度品が整然と配置されている。そのため、着物姿の老人が奥に腰を据えていても、むしろ場違いさを感じさせるどころか、圧倒的な権威と威厳を周囲に放つ空間となっていた。
︎︎そんな執務室で、俺は今日の出来事を公威に報告することになった。普段ほとんど足を踏み入れない部屋だったため、緊張しないわけではなかったが、佐々木に叩き込まれた礼儀作法が体に染みついているおかげで、自然と動作が整い、失礼のないように振る舞うことができた。
︎︎鳴宮少年の親が妖怪や西ノ宮家のことを知っていたらしいこと、そして、それを耳にした鳴宮少年が俺に妖怪の実在性や西ノ宮家について質問してきたこと。だが、俺はその場では何も答えず、適当に話を流して場を切り抜けたこと──俺はできるだけ簡潔に、だが重要な点は抜かさずに報告した。
︎︎公威は俺の話を静かに聞きながら、顎に手を添えて髭を撫でていた。怒るでもなく、驚くでもなく、ただ黙然と思案に耽っている。その厳めしい顔からは、彼が何を考えているのかまるで読み取れない。
「…………」
「…………」
︎︎沈黙が落ちる。カチ、コチ、カチ、コチ──古めかしい置時計の針が一定のリズムで時を刻む音だけが、広い執務室に響いていた。静寂が長引くほどに、その音は耳にこびりつくように際立ち、時間が異様に引き延ばされているような錯覚を覚える。
︎︎俺は意識的に背筋を伸ばした。こういう時、軽率に口を開くべきではない。公威が何を考えているのかを待つべきだと、本能的に理解していた。
︎︎それからどれほどの時間が経っただろうか。五分か、それとももっと短かったかもしれない。やがて公威はゆるりと視線を上げ、静かに口を開いた。
「将吾クン、その鳴宮とやらは他に何か言っていたか?」
「いえ、特に何も」
「ふむ……なるほど」
︎︎短く呟くと、公威は再び顎に手を添え、わずかに目を細める。
「錦戸、霧島、それ以外の家の者か──いや、しかし……」
︎︎誰に聞かせるでもなく、彼は独り言のように呟いた。その声は低く、含みを持たせたものだった。表情に大きな変化はないものの、わずかに指の動きが止まる。何かを考え込む時の癖だろうか。
︎︎執務室に漂う空気が、先ほどとは微妙に変わる。
︎︎公威は何かしらの兆候を感じ取っているのかもしれないが、それが何なのか、俺ごときに推し量れるものでもないだろう。彼が熟考する時間が長引けば長引くほど、俺の中の緊張感もじわじわと高まっていく。
︎︎正直、今日は割と疲れているし、桜庭も待たせている。さっさと自室に戻って一息つきたい気分だ。とはいえ、「じゃあ用は済んだのでさよならです」なんて軽々しく言えるはずもない。
︎︎ここで不用意に動けば、無言の圧を放つ公威の目が俺を射抜くだろう。
︎︎仕方なく、直立不動のまま彼の言葉を待つ。
︎︎緊張か、それとも別の理由か……乾いた唇を舌で湿らせるが、結局何も言わずにぐっと噤む。
「──うむ、あいわかった。報告おおきにな、将吾クン。とりあえずもう戻ってええよ」
︎︎唐突に放たれた解放の言葉に、一瞬気が抜けそうになるが、すぐに姿勢を正し直す。
「何かご指示があれば、そのように致しますが……」
「そうやなぁ……その男の子にまた何か聞かれたら、今日みたいに適当に誤魔化しといてくれればええで。将吾クンに頼みたいのはそれくらいやな」
「わかりました」
︎︎そう答えながらも、公威の視線の奥にはまだ何か引っかかるものがあるように思えた。
︎︎俺の報告を受けて、新たな疑念が芽生えたのか、それとも以前から抱いていた疑惑が強まったのか──どちらにせよ、俺が知るべきことではないし、知る必要もないことだ。
︎︎難しいことは大人に任せて、俺はいつものように彩葉の傍で彼女を守ればいい。公威が言外にそう伝えているのを感じ取り、俺は静かに一礼した。
「失礼しました」
──執務室の扉を静かに閉め、公威が俺の視界から消えた途端、強張っていた全身の筋肉が一気に弛緩する。
︎︎大きく息を吸い込み、疲れと緊張を共に吐き出した。胸元のボタンを外し、首元を緩める。ググッと腕を伸ばしながら、じんわりとした脱力感を噛み締める。
︎︎きっと今頃は、扉の向こうでは公威が色々と考え込んでいるはずだ。鳴宮両親への情報提供に誰が関与しているのか。その意図や目的を考察しているのだろう。その内容次第では、鳴宮少年の両親に西ノ宮の手が及ぶ可能性もある。
︎︎彩葉の襲撃事件の調査も大して進展していないにもかかわらず、こうしてまた新たな不穏な要素が舞い込んできた。
︎︎仮に俺が公威の立場だったら、間違いなく苛立ちを覚えるだろう──というか多分、公威もそういった気持ちになっている。ただ、それを俺には見せなかっただけだ。
︎︎俺は西ノ宮家に属していることになっているが、正式な人間ではなく、ただの付き人候補のガキに過ぎない。公威の血を継ぐ彩葉と違って権威もなければ発言権もない。指示があれば従い、命令があれば遂行するだけの存在だ。
︎︎だからこそ今回の件についても、公威の言う通り、鳴宮少年に再び接触されたら適当に誤魔化すしかないのだろう。
︎︎……とはいえ、それもそれで面倒くさい。
︎︎なぜなら、適当に誤魔化すといっても、適当というのは案外難しいものだからだ。
︎︎
︎︎下手に流そうとすれば逆に怪しまれるし、かといって深入りすれば余計な情報を漏らしかねない。絶妙な塩梅で話を逸らし、相手に「これ以上聞いても無駄だ」と思わせなければならないが、それには相応の気力と頭の回転が必要になる。
︎︎要するに、俺みたいな下っ端には地味に精神を削られる役割なのだ──とはいえ、今日の鳴宮少年の様子からして、しばらくは話しかけてこない気もする。
︎︎彼は意外と空気を読むタイプなのかもしれない。ああ見えて頭の回転は悪くないのだろう。成績は芳しくないようだが、世の中には学業以外の頭の良さというものもある。
「はぁ……」
重く息を吐き出すと、それだけで肩の力が幾分抜けた気がした。ようやく緊張から解放されたというのに、体の芯にはまだ妙な疲れが残っている。公威の執務室にいる間は気を張っていたせいか、今になってどっと疲労が押し寄せてくるのを感じる。
「どうやら、お疲れのようですね」
「!……なんだ、桜庭さんですか。ビックリさせないでくださいよ」
不意に背後から肩を叩かれ、驚いて振り返る。そこに立っていたのは桜庭だった。彼女は俺の過剰な反応が意外だったのか、キョトンとした顔で首を傾げている。
「どうしたんですか。まだ稽古の時間まで十分近くありますが」
「彩葉様は外にお見えになりましたが、君の姿が何処にもなかったものですから。彼女に聞いたところ閣下の所にいるということでしたので、もしや叱られているのでは、と心配していたのですが……その様子なら心配の必要はなかったようですね」
「はい。大丈夫です。報告しないといけないことがあっただけなんで、ありがとうございます」
「そうですか、なら良かった」
桜庭は安堵したように、ほっと息をつく。その仕草が妙に穏やかで、俺の疲れを見透かされているような気がした。
公威に叱られたわけでもないし、特に問題があったわけでもない。それでも、執務室の重苦しい空気の中で公威の言葉を待ち続けた時間は、それなりに神経をすり減らすものだったのだろう。桜庭の前に立っている今になって、自分が思っていた以上に気疲れしていたことに気づく。
とはいえ、それを素直に認めるのも何となく癪だった。
前世の推しであり、今世では師匠ともいえる桜庭に気にかけてもらえるのは有難い。こうしてわざわざ様子を見に来てくれることも、本来なら感謝すべきことだろう。しかし彼女の安堵したような表情を間近で見せられると、どうにも落ち着かない。
心配されるのは嫌ではない。むしろ嬉しくもある。だが、あまりにも自然にそうされると、こちらがどう反応すべきかわからなくなるのだ。ありがたく思うべきか、恥ずかしがるべきか、それとも気づかないふりをするべきか──迷った末に、結局どれも選べず、俺はただ微妙に視線を逸らすことしかできなかった。
気まずさを誤魔化すように、俺は無駄に喉を鳴らし、何でもない風を装いながら軽く肩を回した。
「今日は前回の続きですか?」
わざと平静を装いながら話題を変える。
「ええ、座学です……とはいえ、本日は彩葉様が道場を使われるようなので別の場所で行いましょう」
「別の場所?」
「君の部屋」
事も無げにそう言う桜庭に、俺はピシッと固まった。
……俺の部屋?
その言葉を咀嚼するのに数秒かかる。いや、聞き間違いではない。確かに彼女は「君の部屋」と言った。だが、何故わざわざそんな場所を選ぶのか。
道場が使えないなら、他にも空いている部屋はあるだろう。書斎や応接間、あるいは外の庭園だって座学には向いているはずだ。なのにわざわざ俺の部屋でやる必要がどこにある。
「あの……………………他の所にしませんか?」
なるべく平静を装いながら提案するが、桜庭はあくまで不思議そうな顔をする。
「? どうしてですか」
その問いに、一瞬返答に詰まる。理由は……ある。あるが、言葉にするのが妙に難しい。
俺の部屋は、俺だけのプライベート空間だ。そこに桜庭と二人きりというのは、どうにも落ち着かない。別にやましいものを隠しているわけではないが、普段とは違う状況になるだけで、変に意識してしまう。
彩葉なら別だ。あいつは勝手知ったる顔で机や布団を占有し、好き放題に振る舞う小さな侵略者。今さら意識することもないし、むしろ散らかすだけ散らかして帰るので、片付けてほしいという気持ちのほうが強い。
だが、桜庭が部屋に来るのは、何となく嫌だった。しかし、それを口にするのも失礼だ。俺はどう答えるべきか考えたが、結局、苦し紛れの言い訳しか思いつかなかった。
「恥ずかしい話、部屋が散らかってるんで……服とか本とか」
嘘ではない。毎日のように襲来するあの我儘怪獣が、あちこちに物を放置していくせいで、俺の部屋はいつも雑然としているのだ。その大半は彩葉の本だが、たまに制服のシャツやスカートまで置き去りにしていく。
俺は平日毎日、桜庭のもとで稽古をしている。一方、彩葉の習っている日本舞踊は週に三日程度。俺の稽古が彼女のオフの日に重なると、自室ではなく俺の部屋で寛ぐのが常だ。
毎日のように入り浸るだけならまだしも、舞踊の稽古がない日は、制服のスカートやシャツを脱いで着物に着替え、そのまま当然のように布団へダイブする。机の上には読みかけの本が積み上げられ、床には畳まれることのない彼女のインナー類や予備の制服が無造作に放置されている。
俺の部屋のはずなのに、なぜこんなに他人の所有物が散らかっているのか。もはや俺の私物の方が肩身が狭い気すらしてくる。確かに身の回りの世話をしろと最初に言われたが、脱いだ服を洗濯機に運ぶくらいは自分でやって欲しい。
そろそろ勘弁してほしいが、俺の物ではないにしろ、部屋が散らかっているのは確固たる事実。
︎︎もし桜庭にあの惨状を見られて何か言われでもしたら、冗談無しに一週間かそこらでは立ち直れない気がする。
「ああ、それくらいなら別に気にしませんが」
「俺が気にするんです……!」
必死の抵抗に、桜庭は珍しく常の無表情を崩し、ふっと微笑んで軽く肩をすくめた。
「ふ……君にも子供らしい一面があるのですね。わかりました、では屋敷の書斎を借りましょう。着替えもあるでしょうし、今から十五分後には書斎に来てくださいね」
︎︎彼女のその言葉に俺は深く安心すると共に、稽古が終わったら彩葉に部屋を片付けさせようと強く決心するのであった。
久々の更新でした。
色々と忙しかったのもあって執筆意欲が湧いてこず、少しつづ書いていたらいつの間にか月末になってました……。