乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
︎︎鳴宮旭にとって、西ノ宮彩葉という少女は、これまで出会ってきたどんな異性よりも美しく、そして強く見える──まさに憧れの象徴だった。その憧れは、同時に確かな恋慕でもある。
︎︎旭は初めて彼女と会った日のことを、今でも鮮明に覚えている。
︎︎忘れもしない、あの4月の春。満開の桜が一面に咲き誇り、雲ひとつない青空が広がっていた。
︎︎使用人の運転する黒塗りのリムジンで学校へ乗り付けた旭は、その華やかな天気のもと、自らが通うことになる名門小学校の入学式に臨んだ。
︎︎体育館に着席し周囲を見渡すと、幼い旭にも直感で分かるほど、品のある家庭に育ったであろう子どもたちが整然と並んでいる。わずかな疎外感を覚えつつも、式は滞りなく終わり、参観に来ていた両親の熱い視線を背に、彼はクラスメイトとともに一年生の教室へと戻った。
︎︎もともと人懐っこい性格の旭は、近くの席の子どもとすぐに打ち解け、笑顔を見せていた。
︎︎名門進学校とはいえ、初日の流れはどこも大差ない。担任の挨拶、自己紹介、時間割の説明、持ち物の確認、保護者記入のプリント配布──幼稚園から出たばかりの旭にとっては新鮮だったが、やはり退屈でもあった。
︎︎そうして、ぼんやりしたまま初日を終え、迎えの車へ向かおうと昇降口へ出たその時だ。 ︎
︎︎目の前を、彼女が通り過ぎたのは。
︎︎日本人形のように整った顔立ち。
︎︎そして、誰も寄せつけぬ冷ややかな空気。
︎︎その美しさと孤高さに、幼い心は一瞬で射抜かれた。
︎︎当の彩葉は、頬を赤らめ呆然と立ち尽くす旭など視界に入れぬまま、昇降口の外へ歩み去っていった。
︎︎その瞬間から、旭の目はいつも彼女を追うようになった。
︎︎片思いであることは分かっていた。
︎︎だが、芽生えてしまった想いは、簡単に消せるものではない。
︎︎人生初めての恋に浮かされ、小学四年生になってようやく同じクラスになったときなど、自室で飛び跳ねるほど喜び、騒ぎを聞きつけた母に叱られたほどだった。
︎︎旭にとって、彩葉はそういう存在だ。
︎︎四年生の春から、旭は自然と彼女にアプローチを重ねた。
︎︎付き合いたいとか結婚したいといった現実的な未来像は、幼い彼にはなかった。ただ、四年間抱き続けたこの気持ちを、どう扱えばいいか分からなかっただけだ。
︎︎しかし、どれほど高価な時計を身につけても、両親の地位や事業の話を誇っても、彩葉の心は微動だにしない。
︎︎他のクラスメイトと違い、彼女は決して靡かなかった。
︎︎その事実を知りながらも、旭は密かに抱く彼女への劣等感を悟られまいと、恋心と共に見栄を張り続けた。
──この劣等感は、彼の両親が抱いていたものと同質だった。違うのは、その矛先が「個人」か「集団」かというだけである。
︎︎旭は彩葉という個人に、その両親は「上流階級」という集団に劣等感を向けていた。
︎︎時の政権の努力もあり日本はリーマンショックの衝撃から立ち直りつつあったが、長引くバブル崩壊の影響は根深く残っていた。景気は横ばいで、持ちこたえているのは奇跡に近い。この頃、鳴宮家はすでに実業家として成功していたが、夫妻は決して埋まらぬ一つの穴──家格に対する劣等感を抱えていた。
︎︎日本の上流階級は、その多くが旧華族……武家や公家の流れを汲む。特に千年の都たる京を中心とする関西圏では、その傾向はより強い。
︎︎鳴宮家は資産規模では富裕層に属する。だが、真の意味での上流階級とは違っていた。その差は、日本の歴史と身分制度に由来する。戦後に華族制度は廃止されたものの、旧き名門はなお広大な人脈と権威を保ち、日本社会の最上層に居続けている。
︎︎金で買えぬものはほとんどないこの資本主義社会で、歴史と権威だけは別だ。大統領になることはあっても、国王にはなれない──それと同じ理屈である。
︎︎日本人は、権力以上に権威に弱い。
︎︎その権威を裏付けるのは歴史、すなわち時間だ。
︎︎時間を金で買えない以上、鳴宮家がいくら稼いでも名門と肩を並べることはできない。
︎︎たとえ成金と蔑まれようとも、夫妻は愛息子の将来と自らの事業拡大のため、旭を京都有数の名門小学校に入学させた。保護者としての立場から上流階級の人脈を得るのが二人の目的だった。
︎︎そして、実際に成果は現れる。その象徴が、京都駅前に建てられた「花洛インターナショナルホテル」であった。
︎︎元々この好立地を所有していたのは西ノ宮家だが、60年代に西ノ宮傘下の不動産会社に移されて以降は、古臭い雑居ビルが立ち並ぶ程度の場所である。
︎︎そして旭が最も仲良くしていた友人の親が、その会社の社長と懇意であり、偶然にも紹介を受けることができたのであった。
︎︎安全基準や耐震設計を守りつつも、極限まで工期を短縮して建てられた大きなホテルは、欧米を中心に旅行先としての日本、そして京都が徐々に注目を浴びるようになったのもあって、すぐに経営軌道に乗り始めた。
︎︎上流階級との付き合いがビジネスに繋がる。
︎︎それは確かに夫妻の目的にかなっていたが、えらく劣等感を刺激されることでもあった。
︎︎そんな折──旭が小学五年生に進級した春の日、夫妻はある人物と会食をすることになった。
「お久しぶりです、鳴宮さん」
︎︎長身で細身、品のある所作の薄い顔の男だった。鳴宮夫妻がホテル事業のために土地取引を行った際に関わった、不動産会社の役員である。この日の会食は京都の老舗料亭で、その代表取締役社長も同席していた。
︎︎障子越しに庭の灯籠がぼんやりと浮かぶ夜。
︎︎ホテル事業が軌道に乗り、メディアの取材も受けるようになった夫妻を祝う、そして今後も良きビジネスパートナーでいようという場だった。断る理由などなく、和やかに料理と会話が進む。
︎︎酒が三巡目を回ったころ、社長がふと歴史談義を始めた。
「いやぁ、あの土地はねぇ……昔は西ノ宮はんの持ちもんでしてなあ。まさかあんな立派なホテルが建つとは思わんかったですわ」
︎︎西ノ宮──京都でも知る人ぞ知る古刹の名が、まるで昔話のように零れ落ちる。夫妻は、その名を政財界の奥に潜む旧家のひとつとして耳にしたことがあった。
︎︎社長は笑みを浮かべて続ける。
「もっとも、あんまり外で言う話やあらしまへんけどな。今でもあの家の人脈は侮れまへん」
︎︎ただの世間話のように聞こえた。
︎︎しかし夫妻は、胸の奥で小さな火が灯るのを感じた。名家を知っている──その人物と同じ席にいる自分たちも“特別な輪”に足を踏み入れたのではないか、そんな錯覚だった。
︎︎後日、この話は息子の旭にも伝えられた。「うちが契約した土地、もともとは西ノ宮さんって名家の……」と、父は酒の勢いそのままに誇らしげに語る。旭は「ふうん」とだけ答えたが、その姓だけは心の奥に残った。初恋の相手と同じだったからだ。
──しかし、これは偶然耳にした話ではなかった。
︎︎その不動産会社は表向き西ノ宮家の傘下にあるが、内部には反西ノ宮の人間が深く潜り込んでいる。夫妻が会食に招かれ、その名が口にされたのはすべて計算のうち。
︎︎ほんの少しの真実と虚飾を混ぜ、虚栄心に火をつければ、人は勝手に話を広める。
︎︎
︎︎狙いは単純だった。
︎︎外部の一般人が機密に触れたという既成事実を作れば、西ノ宮家や潜影部は必ず動く。鳴宮夫妻がその動きを追う者たちの視界に入ったのは、ほんの偶然に見えて、実は計算の上だった。
︎︎だが夫妻も社長も、その舞台装置に乗せられていることに気づきはしない。土地取引を通じて築いた人間関係は、彼らに「仕組まれたはずがない」という安心感を与えていた。
──数か月後に再び同じ顔ぶれでの会食が設けられた。前回の“ここだけの話”が夫妻の記憶に鮮明だったこともあり、自然と期待は膨らむ。
︎︎酒が進むにつれ、社長の舌は滑らかになっていった。夫妻は笑顔を保ちつつ、さりげなく杯を満たし続ける。
「……妖怪、ですか?」
「ええ、ええ。こん国には昔っから、そういう化生がおりましてなあ。西ノ宮っちゅうのは、そいつらを駆除して回っとるんですわ」
「それは……中々信じ難いお話ですね」
「ははっ、せやろ?」
「社長、飲み過ぎですよ。そんな話を夫妻にしたと知られたら、首が飛ぶどころではすみません。大阪湾の底で魚と寝たいのであれば別ですが」
「!……は、ははっ。すいまへんな、鳴宮さん。今の話は忘れてください」
︎︎社長の隣に座っていた役員が、妙に冷静な口調で諫める。その声音には、笑いを交えたはずなのに、どこか鋭い刃のような響きがあった。社長は一瞬で顔色を失い、次いで無理やり口角を上げて誤魔化す。
︎︎夫妻は、そのやりとりを正面から見ていた。「妖怪」と「西ノ宮」という二つの単語が強く結びつき、現実味を帯びていく。
︎︎そしてあの日と同じように、無意識のうちに興味が芽生えていた。この話の奥には、もっと大きな何かがあるのではないかと。
︎︎その裏でほくそ笑む役員の真意など、誰も気づかなかった。
■■■
──西ノ宮家が所有する土地の一つ。上黒田貴船線沿線の貴船神社すぐ近くに、古びた一軒家が建っている。
︎︎ここは今は亡き西ノ宮公威の弟がかつて暮らした家で、組織から離れた彼が静かに余生を送っていた場所だ。家主が亡くなり、空き家となった今も、西ノ宮公威の数少ない血縁の記憶として管理され続けていた。
︎︎その家に、潜影部が保護した一家が連れ込まれた。
︎︎対象は鳴宮丈晴・富美子夫妻と、その息子・旭。公威の指示を受けた陸浦東吾が動き、機密情報を知った疑いがあるとして、事情聴取と軟禁が決まったのだ。
︎︎突然自宅に現れた黒ずくめの集団に、夫妻は反射的に警察へ通報しようとした。だがその前に、エージェントたちの無言の制圧が入る。携帯はすぐに奪われ、逃げ道は閉ざされた。
︎︎息子の手首にハンドカフが掛けられるのを見た瞬間、夫妻は抵抗をやめた。旭を守るには、従うしかないと悟ったのだ。
︎︎一家はそのまま貴船の古民家へ移送され、監視下での生活を余儀なくされる。何のために、なぜ自分たちが──夫妻には見当がつかなかった。自分たちはただの資産家、ただの実業家だ。広い人脈を通じて耳にするのは、せいぜい表に出ない事件の裏話や芸能スキャンダル程度。それ以上の世界には関わったこともない。
︎︎そして今日、ついに彼らの前にとある男が現れた。
︎︎スーツに身を包んだ、落ち着いた声の若い男だ。期待していたわけではないが、映画のヤクザのような人物を想像していた夫妻は、拍子抜けした。
「右から鳴宮丈晴、鳴宮富美子、鳴宮旭で間違いないな」
「は、はい……」
「まずは、このような形で保護したことを謝罪する。しかし理解してほしい。あのままでは、あなた方の身の安全が脅かされる可能性が高かった」
「身の安全……?」
「妖怪、そして西ノ宮という名で思い当たることがあるはずだ」
︎︎鳴宮夫妻の脳裏に、あの日の会食の光景が浮かんだ。気のいい社長が身を縮めて怯えるあの姿は、二人に強い印象を与えている。そしてその時の、大阪湾に沈められたいのか、という役員の注意も深く。
軟禁されて二日目、ようやく状況を理解した夫妻は、あの時の社長のように恐怖の色を浮かべた。日本の裏の事情の多少しか知らぬ身であったが──西ノ宮や組織をよく知る社長とは違い──一般人であるが故にその恐怖は強かった。
一方で彼らの隣に座る旭も、両親の深刻な表情を見て徐々に顔を強ばらせていった。夕食の場で両親が酒に酔っていたときに、口を滑らせた断片的な内容は知っているし、事実、その渦中に居るであろう陸浦将吾に訊ねたのは他ならぬ彼であった。
両親に釣られるように恐怖していた旭を他所に、父親は恐る恐る質問を投げかけた。
「あなた方は……西ノ宮から私たちを守るために?」
「否。正確には、西ノ宮に悪意を持ってあなた達一家を害する意図を持った勢力から、西ノ宮が守るための措置だ。行動は制限させていただくが、我々からあなた達に危害を加えることは断じてない」
「……」
信用は出来なかった。当然だ、このような見知らぬ場所に放り込まれて、しかも監視されている状況で、守るためと言われても信用など出来るはずもなかった。
だが男は続ける。
「鳴宮丈晴、貴方に聞きたい。現時点において、貴方が把握している我々に関する情報はどの程度であるか?」
「…………西ノ宮という旧家が、妖怪という化け物を退治して回っている組織の一員であるということ、それくらいです。他のことは本当に何も知りません」
「我々の認識と同じらしい。では、その情報は何処から得た?」
「わ、私が自分で調べました」
「調べるに至った経緯は?」
「……私が経営するホテルの土地を購入した際に、仲良くなった不動産会社の社長との会席の場でその話が出ました。ただの与太話かと思いましたが、その時の社長や役員さんの様子が不思議に思い、その後、様々なツテを使いまして……」
「……ふむ」
西ノ宮、妖怪。その二つの単語が脳裏に刻まれた鳴宮夫妻は、その後、名家との繋がりを得ようとするために、実業家仲間や親しい名士の力を借りて、最終的に神祇瑞光院へたどり着く。
組織の内情は深く知らない。
︎︎だが、組織や妖怪の存在、そして西ノ宮家が関与している事実は知った。実業家として財を成してから染み付いていた名家への劣等感は、無謀にも、日本の裏へ彼らを誘ったのである。
西ノ宮との繋がりを得ようとした結果、神祇瑞光院という巨大な秘密組織の存在を知ったときの夫妻は、自分たちが知ってはならぬことを知ったという事実に慄いた。手を出してはならないし、関わってもならない。そう考え、西ノ宮との繋がりは諦めて、全てを忘れて日々を過ごそうと決めていたのだ。
それが崩れたのが、先日のこと。
とある商談を成立させ機嫌の良かった鳴宮夫妻は、夕食の場であろうことか、それらを口に出してしまったのだ。彼らは、息子が西ノ宮の令嬢に恋心を抱いていることなど知らない。だが、旭からすれば好きな人のことは何でも知りたかったのだ。
そして、そのまま旭は彩葉──ではなく、彼女と共に登下校している将吾ならば何かを知っているのではないかと思い、最終的に一連の話が西ノ宮家へと伝わったわけだ。
「つまり、あなた達はあくまで興味から我々を調べた、ということか。……なるほど」
「……その、私たちは、これからどうなるのでしょうか……?」
「現在、調査中につき全ては答えられない。だが一つだけ確かに言えることがある。あなた達は今後、我々の監視下に置かれる──しかし然る後に解放し、日常生活へ戻れるようにすることを、この場で約束しよう」
︎︎男は、迷いを見せぬ眼差しで言い切った。
︎︎西ノ宮家当主・公威直々の命により潜影部に課せられた極秘任務は、あくまで鳴宮家の「保護」である。忠誠心の強い彼らが、その任務を逸脱して保護対象を害することはありえない。
︎︎もっとも、彼個人としては「これ以上面倒を増やす前に始末してしまえ」という衝動を押し殺していた。だが公威は、一家の解放を許す条件として「監視」を絶対とするよう厳命している。
︎︎この場合の“保護”は、単に身柄を拘束するだけでなく、敵対勢力の手が及んだ場合に生命と生活を守ることまで含まれていた。
︎︎敵が具体的に誰で、どこにいるのかも不明な現状。
︎︎西ノ宮や潜影部が動く前に一家が消され、真相が闇に葬られる事態だけは避けねばならなかった。
︎︎だからこそ、彼らは少々手荒な手段で鳴宮一家をこの古民家に移送し、落ち着いて状況説明と意思の確認を行う時間を作った。
「これより一週間後、あなた達を家に戻す。……仕事に関しては心配無用だ。我々が立てた代理の者が現在対応している。ご子息の通う学校についても、家庭の事情としてすでに連絡済みだ」
「ありがとうございます……」
︎︎丈晴の胸中は、後悔でいっぱいだった。
︎︎ただの興味から、ほんの少しの野心から──息子まで巻き込み、見知らぬ土地の家屋で軟禁されるなど、予想の外にある出来事だ。妻の富美子もまた、沈黙の奥に同じ悔恨を抱えていた。
︎︎男は、言うべきことは言い終えたという風に「おい」と扉の前の部下を呼び、一家を元の部屋へ戻させる。
︎︎この古民家は築年数こそ古いが、西ノ宮の資金力を惜しまず注ぎ込んで造られており、広さも造りも十分だった。壁の厚さも、元来の古民家にありがちな心許なさは感じさせない。
「……」
重苦しい沈黙が落ち、蛍光灯の低い唸りだけが耳に残る。男は口を開こうとせず、場の空気はますます硬くなっていった。
「班長、どうですか」
耐えかねたように、部屋に残った部下が声をかける。声量は抑えているが、そこに含まれる探りの色は隠せない。
「……西ノ宮閣下の懸念が正しいならば、今回の件には裏がある。だが夫妻の話を聞く限り、単に藪をつついた一般人にしか見えん。……厄介な案件だ」
班長と呼ばれた男は書類の束から目を離さずに答える。
︎︎視線は文字を追っているはずなのに、実際には何も読んでいないのが見て取れた。
「何者なんですかねぇ?」
部下はあぐらを掻いて壁にもたれ、視線を天井に泳がせる。安易な答えが出ないことは、二人とも理解していた。
「会食は府内の料亭だったそうだし、妖怪の線は薄いだろう。もっとも、妖怪の協力者というなら話は別だが……」
班長はようやく顔を上げたが、その目は曇ったままだ。机越しに向けられる視線が、言葉以上に重さを帯びていた。
「……錦戸派、という可能性は?」
間を置いて、部下が切り込むように口を開く。慎重さと好奇心が入り混じった声音だった。
「奴らが一般人相手に妖怪や組織の情報を漏らすよう仕組んで、何の利がある? 我々が動くのは目に見えている」
机上のボールペンを無意識に転がしながら、班長は淡々と言葉を返す。
「しかし、西ノ宮の経済基盤を揺るがすことはできますよね。閣下は経営に関与されておられませんが、情報を漏らした会社の社長は間違いなく切られるでしょう。その後に社内の反西ノ宮のスパイを社長に据え、錦戸に鞍替えさせる……というのは俺の妄想ですかね?」
「証拠も根拠もない。今のところは、憶測の域を出ん」
班長は短く吐息をつき、背もたれに体を預けた。その表情からは、わずかな苛立ちと、拭いきれぬ警戒心が読み取れた。
︎︎しかし彼は、部下の推測を全くの絵空事とは思わなかった。
︎︎西ノ宮派と錦戸派の対立は組織では周知の事実で、総会で殴り合いをしたという噂が流れても、誰も驚かなかったほどだ。
︎︎戦後の組織再興を主導し、更には豊富な資金力を以て関西、中京、東京との政財界の繋がりを強固なものとし、決して表には見えぬ経済的大帝国を築き上げた西ノ宮に対し、錦戸の影響力は畿内──特に京阪神地区に限られ、資金面でも劣っていた。
︎︎そのため勢力図は戦後、大きく傾いていた。それでも90年代末まで主導権を握れていたのは、遡ること源平合戦から数百年の時を経て江戸時代に復帰した西ノ宮やその一派を「外様」と見る風潮が、現代に至るまで組織内で根強かったからである。
︎︎しかし昨今の勢力図を考えれば、今回の件を総会での攻撃材料にして、なし崩しに西ノ宮の数多ある傘下企業のいくつかを簒奪するという筋書きも、十分にあり得る話だった。
「……内ゲバには巻き込まないで欲しいものだな。我々は政治ごっこに付き合ってられるほど暇じゃない」
班長は畳の上に置かれた座卓から少し身を引き、膝の上で腕を組んだ。吐き捨てるような声音には、長年こうした派閥争いに付き合わされてきた倦みが滲んでいる。
︎︎卓上の湯呑から立ちのぼる湯気がふわりと揺れ、乾いた空気の中に淡く消えていった。
「さて、これからどうされます?」
更に姿勢を崩しながら部下が問いかける。気楽そうな口ぶりだが、その目は班長の一挙手一投足を逃すまいとしていた。
「どうもこうも、彼らを解放するだけだ。鳴宮という餌に釣られた下手人共をとっ捕まえて、情報を吐き出させる。それくらいしか現状、やれることはないだろう」
班長は座卓越しに答える。
︎︎その声には迷いがなく、畳の上に置かれた拳に力がこもっているのが見て取れた。障子の向こうでは、そよ風が庭木を揺らすざわめきがしていた。
「この辺り何もないから暇なんですけどねぇ。俺はもう、シモの方が溜まって仕方がない」
部下は背を壁に預けて伸びをする。
︎︎畳が軽く軋み、古い木の香りがふっと鼻をかすめた。
「お前、もしもこんな所にデリヘル呼びやがったら鉄拳制裁してやるからな。盛った猿じゃあるまいし、一週間くらい我慢しろ」
班長は苦々しい表情を見せ、座卓の端を軽く叩いた。
︎︎叱責の言葉に混じって、わずかな苦笑が口元をかすめる。どのような意見を持てども、どのような情報を持っていようとも、所詮は組織の使いっ走り。
︎︎長い現場暮らしに、こうした軽口は避けられないものだった。