乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話   作:ヤナギ

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EP20〈プラン〉

 

 

 ︎︎退屈な授業を終え、休み時間に入った。

 ︎︎普段ならグラウンドでサッカーや鬼ごっこに興じる男子たちも、今日は生憎の雨で外に出られず、教室でだらだらと過ごしている。女子たちはというと、もともとあまり外で遊ばないため、いつも通り机を囲んで談笑していた。

 

 ︎︎ただ、男子たちの空気には、どこかぽっかりと穴が開いたような物足りなさがあった。それは、鳴宮旭という学年の中心人物の不在が響いているのだろう。

 

 

 ︎︎彼が“家庭の事情”で学校を休み始めて、今日で六日目。

 ︎︎俺が前世で通っていたような、ごく普通の公立小学校ならともかく、この学校は勉強の進みがかなり早い。組織絡みのアレコレを抜きにしても、名門の名に恥じない進学校だ。

 ︎︎それだけに、これほど休むと授業についていけなくなる恐れがある。だが、担任は理由を深く説明することなく、淡々と「家庭の事情です」とだけ告げていた。

 

 ︎︎最初は首をかしげていたクラスメイトたちも、日にちが経つにつれ、特に騒ぎ立てなくなっていた。

 

 

 ︎︎だが──俺と彩葉には、なんとなく見当がついていた。

 

 ︎︎きっと、西ノ宮が動いたのだ。

 ︎︎そうでもなければ、あの落ち着きのない彼が一週間近くも姿を見せないはずがない。俺の知る限り、これまでインフルエンザや風邪すらかかったことがない健康優良児である。まさか病気とは考えにくかったし、そうならば担任も”家庭の事情”なんて言い方はしないだろう。

 

 ︎︎彩葉は特に気にする素振りを見せなかったが、俺には妙な罪悪感が残っていた。

 

 ︎︎まさか命を落としているとは思わないが、西ノ宮家に何かをされているのではないか──そんな疑念が、ここ数日ずっと胸の奥で燻っている。

 

「んな気にせんと、うちの相手してやぁ」

 

 ︎︎隣から、彩葉が気の抜けた声を投げてくる。俺は視線を彩葉の向こうの、窓の外に広がる灰色の空に向けながら答えた。

 

「……といってもなあ。気になるだろうが」

「変に突っ込んだこと聞いてきたアイツが悪いわ」

 

 ︎︎彩葉は肩をすくめて、まるで他人事のように言い放つ。実際、彼女にとっては鳴宮少年がどうなろうと他人事だろう。

 ︎︎別に──彩葉や公威に話を伝えた俺の判断が間違っているとは微塵も思っていない。むしろ正しい行動だったとすら思う。

 

 ︎︎だがそれはそれとして、鳴宮少年へのわずかな心配は消えなかった。特別仲が良いわけでもないし、むしろ嫌われている節すらある。

 ︎︎それでも、前世から持ち越した感覚──精神的には彼よりずっと年上であるという自覚からすれば、俺にとって鳴宮少年はまだ子供だ。年下の子供を気にかけるくらい、自然なことだろう。

 

 ︎︎彩葉と鳴宮少年、どちらかを選べと言われれば迷わず前者だ。

 ︎︎それでも、蔑ろにしていい理由にはならない。

 ︎︎まるで告げ口のように公威へ報告した結果、それが彼の心に傷を残すことにならなければいいが……と、そんな取り留めのない思考を巡らせていると、突然、頬に鋭い痛みが走る。

 

「いたい」

 

 ︎︎彩葉がむっとした顔で、俺の頬をつねっていた。

 

「お爺様へ伝えた時点で、あんたにできることは終わっとる。今さら悩んでも何も変わらんよ。何も殺されたわけでもないんやし、そんな思い詰めんでもええやんか」

「叱ってんのか励ましてんのか、どっちだよ」

「んー、どっちも?」

 

 ︎︎彩葉は口角をわずかに上げ、また手を離した。

 

「あ、そ。……まあ、お前の言う通りか」

 

 ︎︎本音としては、やはり鳴宮少年のことなど本当にどうでもいいのだろう。ただ俺が彼の事ばかり考えて構ってやらないことに、幼子のように腹を立てているだけかもしれない。

 ︎︎それでも、机に頬杖をつき、のんびりとした顔を崩さない彼女を見ていると、こちらの拍子抜けが先に立ち、自然と肩の力が抜けた。

 

 ︎︎確かに彩葉の言う通りだった。

 ︎︎公威に報告した時点で、今回の件について俺にできることなど、もう何もないに等しい。

 ︎︎ならば、こうして悩み続ける時間も無駄だ──と、きっぱり切り捨てる彩葉の意見はきっと正しかった。

 

「なーなー、んな事より最近桜庭さんとはどうなん?」

 

 ︎︎彩葉が急に身を乗り出してくる。机の端を指先でとんとん叩きながら、じっとこちらを見据えている。

 

「あんた全然屋敷におらんから、何やってんのか気になるんやけど」

「最近は山を全力疾走しながら木刀振り回してる」

「二人で?」

「うん。当ててないし当てられもしないけど、当てるつもりで狙えって。まだ目立った怪我をしてないの奇跡だと思うぜ、マジ」

「気に入られてるようで何より。順当に次期戦略兵器になりそうやね、将吾くん」

「俺如きなチンチクリンが努力であんな生え抜きの怪物の域に達せるなら、今頃日本は五輪全競技で金メダル常連だろうよ」

 

 ︎︎口では冗談めかして言いながらも、内心では少し本気でそう思っている。日を追うごとに厳しさを増していく稽古の内容に、最近は「気絶しないだけマシ」と諦めの境地に入りつつあった。

 

 ︎︎もともと桜庭との山登りは初日からのメニューだった。だが、最近になって気づけばそれに並行して木刀で打ち合うという、訳の分からない追加メニューが加わっていたのだ。

 

 ︎︎恐らく、あの人は俺がまだ小学五年生だということを完全に忘れている。嫌になるほど丈夫な身体が、こんな時ばかりは恨めしい。健康な体に産んでくれてありがとうと、同時に母への感謝も忘れていないが。

 

 ︎︎とはいえ──今後のことを思えば、自分と彩葉の身を守れるだけの強さが必要な事は痛いほど分かっている。だからこそ、途中で投げ出すという選択肢は最初から頭に浮かばない。

 

 ︎︎全身はすでにガタガタだ。布団に入った瞬間、筋肉痛が一斉に主張を始め、寝返りを打つのすら億劫になる。疲労の質でいえば佐々木に柔道を教わっていた頃よりも、今の方がはるかに酷い。

 

 ︎︎息が上がるのも足が震えるのも、もはや当たり前になってしまったが、それでも翌日になれば、また桜庭と共に山に向かう自分がいるのだ。

 ︎︎それは基礎体力が付いてきたおかげかもしれないし、もはや思考を放棄した義務感かもしれない。気づけば足が勝手に動き、気づけば木刀を握っていた。

 

「あーあ、いいなあ。うちもお外に遊びに行きたいわぁ」

 

 ︎︎机に頬杖をついたまま、彩葉がつまらなそうに言う。教室のざわめきが少し遠くに感じるのは、彼女が放つ独特の間のせいだろう。

 

「別に遊んでるんじゃないんだぞ」

「分かっとるけど、部屋おってもつまらんもん」

「ゲームでも買えばいいだろ」

 

 ︎︎俺にとっては懐かしくも、まだ記憶の新しい時代。テレビの画面に映るのは、昔遊んだものと瓜二つのゲームやソフトだ。パッケージの絵柄やタイトルは少し違うが、中身はほとんど変わらない。正直、やってみたい気持ちはある。けれど、今の俺にはそんな暇など存在しなかった。

 

 ︎︎しかし彩葉は俺と違って余暇も小遣いも十分にある。だから、買おうと思えば買えるはずだ。そう口にすると、何故か彼女は眉間に皺を寄せて、微妙な顔をした。

 

「あんなピコピコの何がおもろいん? 頭悪くなるで?」

「昭和かよ」

「え、何が?」

「いや、別に……」

 

 ︎︎育った家がああも古風だと、価値観まで時代のほうへ引きずられるのだろうか。とてもデジタルネイティブ世代の子供とは思えない。既にインターネットやスマートフォンもある時代に生きているくせして、まるで年嵩の頭でっかちな婆さんのような物言いである

 

 ︎︎まあ、彩葉の時代錯誤な物言いは置いておくとして──彼女が「遊びに行きたい」と零すのは俺も理解できた。

 

 ︎︎下校途中にコンビニへ寄ることはあるが、買うのはせいぜいジュースや菓子程度で、それ以上の寄り道はない。あの襲撃事件から大分経つが、真相がまだよく分かっていないらしいため、公威は不要な外出をずっと禁じている。

 ︎︎学校と屋敷を往復するだけの毎日は、流石に退屈だろう。

 

 ︎︎元より彩葉はインドア派で、友人らしい友人も皆無。

 ︎︎いつも本を読んでいるのが、それは本当に本が好きなのか、単に他にやることがないからかは分からない。それでも、時には気分転換がしたくなるのも無理はない。

 ︎︎

 ︎︎確か、俺が京都に来る以前に佐々木がショッピングに連れて行ってくれた事があったとか言っていたが、今の状況ではそれも難しいだろう。というか最低限、襲撃事件の詳細が明らかになるまでは公威が嫌がるに違いない。

 

「将吾くん、ひま。うちと遊んでー」

「やだよ、持ってきた本でも読んでろ」

「もうこれ十回読破した」

「なんだその苦行」

 

 ︎︎……かといって、俺は人目を盗んで彩葉を街に連れ出すほど殊勝な人間じゃない。

 ︎︎また妖怪にでも襲われれば、今度こそ本当に死ぬかもしれないし、生き延びても連れ出した責任を問われるのは俺である。

 

 ︎︎俺は向こう見ずなガキじゃない。前世は社会人になる前に終わったが、それでも、自分の行動が周囲にどう影響するかくらいは考える頭はあるのだ。

 

「……なあ」

「んー……?」

「何処に遊びに行きたいんだ?」

 

 ︎︎ふと気になって投げかけた短い質問に、彩葉は少し黙った。

 ︎︎まさかインドア派な彼女がテーマパークや動物園などに行きたいとか言うはずもないだろうけど、普段、あの屋敷で慎ましく暮らしている彼女が、一体何をしたいのか気になった。

 

 何故なら記憶に残る原作の“西ノ宮彩葉”に、そういった描写はなかったからだ。朧気ながら、婚約者とデートをしていたようなシーンはあった気がするが、単なる遊びとは少し違う。

 「ん〜」と低く唸った彩葉は、眉を顰めながら顎に手をやって思案している。

 

「そんな深く考えるようなことか?」

「いや……ん……せやなぁ──水族館、とか?」

「へぇ、意外。生き物とか興味なさそうなのに」

「ガラス越しに見る分には好きやで。別に行ったことないけど、テレビ見てて良いなあとは思うし。チンアナゴとか、イルカとか……クラゲもぷかぷか浮いてるの可愛いやんね」

「ほー」

 

 ︎︎人間以外の動物を下等生物として見てそうな彩葉にも、どうやらそういう感情はあるらしい。生きている魚や海棲哺乳類など臭いの一言で済ませそうなのに。意外な一面である。

 

「何なん突然……もしかして連れてってくれはるん?」

「……」

 

 ︎︎意地の悪いやつだ、とこちらを揶揄うような彼女の表情を見て俺は思った。立場的にもイエスなんて言えるはずもないし、かといってノーと否定するのも何となく気まずい。それをわかっていて、こんなことを言っているのだ。

 

「ぷっ、くくくく……! 嘘嘘、そんな顔せんでええよ。別にお爺様の嫌がらせでこうなっとる訳やないしね。堪忍してーな」

「ふん」

 

 ︎︎ただ気になったことを口にしただけで、他意なんてこれっぽっちもない。にもかかわらず、わざわざ茶化されると、どうにも腹の底がむず痒くなる。

 ︎︎別に怒鳴るほどのことじゃないが、愛想笑いを返す気にもならず、鼻を鳴らして視線を逸らした。

 

 窓の外では、相変わらず細い雨脚がガラスに斜めの線を描いている。どこか湿っぽい空気が教室にまで入り込み、紙や木の匂いに混じって、じんわりと制服の繊維に染み込んでくるようだ。

 

 ︎︎鼻を鳴らし、彩葉から視線を外して前を向く。ちょうど教室の扉が開き、担任が教科書を抱えて入ってきた。それと同時に聞き慣れた予鈴の音が室内を反射し、子供たちの喧騒と混ざり合う。

 

 そんな時、彩葉の小さな呟きが雑談混じりの教室の空気をすり抜けて耳に届いた。

 

「とりあえず、あんたがご主人様想いのワンちゃんなのは分かったわ」

「誰がおまえのイヌじゃ……ああいや、イヌか。俺イヌだったわ」

 

 ︎︎反射的に突っ込みを入れたものの、口にした途端に、その表現が割と的を射ていると気づく。

 ︎︎付き人だ何だいっても、屋敷の使用人たちと変わらない。西ノ宮という家に仕え、そして彩葉という個人に付き従う。その有様は正しく首輪の繋がれたイヌである。だがペットはペットなりに、良好な扱いを受けるものだ。俺がお行儀よくしていれば、決して不都合はないだろう。

 

 ︎︎もうこの環境には慣れたし、この立場にも最早大した不満もないが、改めて自覚すると妙な情けなさが胸中に広がり、俺は思わず深いため息をこぼした。

 

 

 

 

■■■■

 

 

 

「──鳴宮……ああ、西ノ宮閣下が仰っていた例の一家ですか」

「はぁっ……はぁ……! おぇっ……」

 

 西ノ宮邸の裏山──その中腹にある、大きな岩がいくつも転がる開けた場所で、俺は肩で息をしながら桜庭と休憩していた。時刻は夕方でも、夏の空気はまだじっとりと肌にまとわりつく。

 ︎︎こちらは全身から汗を吹き出しているというのに、桜庭は平然と立ったまま息ひとつ乱れていない。

 

 ︎︎やっぱりこの人、何かおかしいんじゃないか。遺伝子改造されたデザイナーベビーと言われた方が納得がいく。とても同じ人間とは思えない。そんなことを考えていても、枯れた喉からは荒い呼吸しか出てこない。

 

 ︎︎桜庭が差し出してくれたスポーツドリンクをゆっくり流し込み、少しずつ心拍を落ち着かせた。

 

「っ……は、はい。桜庭さんは、鳴宮家がどうなったか知りませんか。あれから音沙汰もなくて、ちょっと気になって」

「おや……他のことに気を回せるなら、もう三十セット増やしますか? 時間はまだありますし、私は構いませんよ」

「嘘です、全然気になってません。鳴宮……誰のことですか」

「よく回る舌ですね。君、実は疲れたフリしてるだけでは?……まあ、私は君たちの登下校の護衛と、この稽古の時間以外は畿内を巡回してますので、そういう潜影部が受け持つような裏の案件は関わりがありません。……ですが閣下のお話では、鳴宮一家は西ノ宮家に保護されているそうですよ」

 

 このような苦行を三十セット追加とかいう、ぞっとする提案を即座に否定した直後。桜庭の口から出た「保護」という意外な単語に、俺は思わず目を見開いた。公威ならもっと過激に処理していてもおかしくない案件だと思っていたからだ。

 

 ︎︎だから彩葉も「殺された訳じゃない」と言っていたのだろうか。今日の彼女が確信を持って言い切った響きが印象に残っていた。公威から鳴宮家のことを直接聞いたわけではないだろうが、俺の疑念に対する否定材料が何となくあったのかもしれない。

 ︎︎彼女が何を考えているのかは、俺もよく分からないが。

 

「鳴宮にお友達でも?」

「嫌われてますよ、彩葉絡みで……息子の方が俺たちのクラスメイトなんです」

「ああ、なるほど……彩葉様は非常にお美しい方ですし、学校の男の子から好意を寄せられることも多いでしょうね。その分、あの御方の傍に居なくてはならない君はこれからも苦労するでしょう──私はそういうの、昔から疎いのでよく分かりませんけど」

 

 ︎︎でしょうね、とは流石に言わなかった。いくら桜庭が表情変化に乏しい“歩く戦略兵器”だとしても、女性にそんなデリカシーのないことは言えないだろう。

 

 桜庭は整った顔立ちに加えて、スタイルも抜群だ。低めの声も凛としていて、俺から見れば十分格好いい。

 ︎︎だが当の本人には、恋愛感情を理解する情緒はほとんど育っていない──というか、本当に存在するのかも怪しいくらいだ。

 

 ︎︎告白されても「私も(人間的に)好きだ」と答え、何人もの男女を勘違いさせた、という公式ファンブックに載っていたエピソードをふと思い出す。

 まるで典型的な鈍感系主人公のようだ。喉まで出かかったそんな言葉を飲み込み、俺は木刀を支えに立ち上がった。

 

「それで君は、彩葉様のことをどう思っているんですか?」

「……陸浦としてですか?」

「君個人として、です」

「ただの大人ぶってる我儘なちびっ子ですよ。学校じゃあそういう態度は見せませんけど、屋敷に帰るともう……たまに本気で腹ぁ立ちます。くだらんイタズラばっかしますしね」

「ご本人の耳に入ったら折檻されますね」

「告げ口でもしますか?」

「ふふ……いいえ。でも不思議です」

 

 桜庭が短く息を吐き、意外そうに首を傾げた。何がそんなに不思議なのか、正直理解できない。

 

「仲が良さそうに見えたので。従者とはいえ、君も年頃の男の子ですから。彩葉様へ少なからず好意を持っているのかと思っていましたが……その口ぶりだと、全くなさそうですね」

「桜庭さんも、佐々木さんと似たようなことを言うんですね。そんなに変ですか?」

 

 ずっと前、病室で佐々木と話した時のことを思い出す。

 ︎︎彩葉と同居していても、女性の使用人たちと接していても、年頃の男子らしい反応が見られなかったせいで、同性愛者と勘違いされていたことがあった。

 

 ︎︎前世で過ごしていた時代柄もあって、俺は別にそういうものに嫌悪感など全くないが、勝手にパーソナルな事柄を決めつけられるのはあまり気分がいいものではない。

 

 今にして思えば、あの時も彩葉への気持ちを探られていたのかもしれない。西ノ宮家筆頭使用人として、あるいは彩葉の兄的存在として……おそらく両方の立場からだろう。

 

 ︎︎もっとも、なぜかニッチな性癖を暴露される流れになったのは謎だが──しかし二度目ともなると、流石に少しうんざりする。

 

 ︎︎彩葉は確かに可愛いのだろう。原作の姿を思えば、もっと凄まじい美人に育つことも知っている。だが、俺からすれば現状は単なる幼い子供にしか見えないのだ。

 ︎︎仮に誰かに恋愛感情を抱くなら、俺の精神年齢的には桜庭相手の方がまだ幾分か健全だろう。別に彼女が推しだからではない、本当だ。

 

 ︎︎そんなことを考えていた俺に対して、桜庭は首を振った。

 

「別におかしくはありません。……ただ、以前まで聞いていた彩葉様のご様子と、今の彼女との違いに未だに驚いていまして」

「違い?」

「ええ。誰にも笑顔を見せず、誰にも興味がなさそうな──まるで生き人形のような御方だと伝え聞いていました。でも、今の彼女はまったく違うでしょう?」

「……あー、まあそうかもしれませんが」

 

 去年の夏に初めて会った頃の彩葉は、原作で見た姿をそのまま年齢だけ下げたような印象だった。実際その通りなのだが、鋭い目つきは公威そっくりで、話しかけるのも少し躊躇するほどの雰囲気をまとっていた。

 

 おそらくは、学校で男子に変な視線を向けられたり、よく知らぬオッサンから婚約を持ちかけられたりするような環境にうんざりしていただけだろう。

 ︎︎そこへ、なんの害もなさそうなガキが現れたので、都合よく利用しているのではないか──と、以前まではそう思っていた。

 

 けれど今は、俺の存在が多少なりとも良い方向に働いているのだろうと考えている。そうでもなければ、あの“西ノ宮彩葉”が毎日のように構ってほしげに絡んでくるはずがない。

 

 ︎︎俺の部屋で制服を脱ぎ散らかしたり、勝手に布団を使ったりするのも、信頼感あっての行動だろう。

 ︎︎兄のように慕う佐々木にはそんな真似をしないあたり、おそらく俺のことは、友人や意中の相手というよりも、単なる弟分のように扱っている節がある。

 

「彩葉様は、君といるときだけはとても楽しそうに過ごされています。気付いていないかもしれませんが、君もよく笑っていますよ」

「……」

「将吾くん。年上の女のお節介な言葉だと思うかもしれませんが、しっかり聞いてください──そういう相手は、とても貴重です。恋愛感情があろうがなかろうが、そのご縁はどうか大切に」

「……はい」

 

 休憩は終わりです──桜庭は木刀を握り直し、腕時計の針を確かめると、岩から軽やかに飛び降りた。

 その背を見送りながら、俺は考える。

 

 彩葉との関係は、あまりにも不安定だ。

 ︎︎西ノ宮家に役立たないと判断されたら、公威の一言で即座に切られる程度の縁。しかもこれより先、彩葉が中学二年になれば彼女は”ある少年”と婚約を交わす。

 

 俺という原作には存在しなかった異物がいる以上、原作通り、彼女がその婚約者に恋心を抱くかはわからない。だが婚約してしまえば、少なくとも今のように気さくに接することはなくなるだろう。

 その気がなくとも、互いに年齢も立場も変わっていく。西ノ宮も、神祇瑞光院も、子供が子供らしく振る舞うことを許さない環境だ。ましてや俺はただの付き人である。近い将来、御三家を引き継ぐ次期当主に婿入りするような男とは、立場も権力もそれこそ雲泥の差があるのだ。

 

 西ノ宮宗家周りの現状を鑑みるに、どこにでもいる訳ではないだろうが──ある程度は使い潰せるような犬と、意中の婚約者。この先の彼女がどちらを取るかなんて明白だ。

 ︎︎恋心があろうとなかろうと、御三家の直系は子を残す義務がある。ましてや今の西ノ宮には分家がないのだから、尚のこと。

 

 ︎︎やがて俺への興味は薄れ、会話も必要最低限になるだろう。運が良ければ、途中で付き人を解任されるかもしれない。

 ︎︎むしろそれはそれで僥倖かもしれなかった。

 裏切りを企てずとも、西ノ宮の方から解放してくれるなら願ったりだ。錦戸を頼る必要もなくなる。そして俺は名古屋に戻り、働いて金を稼ぎ、母に親孝行できる。万々歳ではないか。

 

 ︎︎……そう考えた矢先、さっきの桜庭の言葉が脳裏をよぎった。

 

 

──君も、よく笑っていますよ。

 

 

「……桜庭さん」

「どうしました? 早く続きましょう」

 

 思わず声を掛けていた。

 岩の下で首を傾げた桜庭は、木刀を片手で数度振る。小学生が木の枝を振り回して遊んでいるかのような無造作な動きなのに、その切っ先は見えず、周囲に烈風が巻き起こる。

 

 その風で舞った小石が、弾丸のように額に直撃した。

 

「あ痛っ!」

「あ、すみません」

 

 衝撃で尻もちをつく。桜庭の声には、微塵も悪びれた様子はない。血は出ていないがヒリヒリと痛む額を抑え、立ち上がった。

 

「それで……まだ何か? 鳴宮家のことなら、私も多くは知りませんよ」

「いや、確かにそっちも気になりますが……質問というよりも、一つ桜庭さんに頼みたいことがあるんです」

「? …………ああ、申し訳ありません。君のことは大変好ましく思っていますが、流石にエッチなことは恥ずかしいので、そういうのは西ノ宮邸の使用人に頼んでくださいね。あそこ、年下好きの女性ばかりなのでむしろ快くOK貰えますよ。以前、厠を借りた際に小耳に挟みましたが、将吾くんは真面目で可愛いので人気らしいです。良かったですね、その歳で童──」

「──違います!!」

 

 ︎︎聞きたくなかったような、でも妙に心が擽られるような話題。

 ︎男女問わず西ノ宮邸の使用人は顔面偏差値の高い者ばかり。特に女性方は料理や掃除の手伝いで関わることが多いのだが──佐々木以外の男性使用人は送迎や環境整備に当たっている──やたらスキンシップが多かったのは、もしかしてそういう意味だったのだろうか。

 

 ︎︎単に、屋敷に俺くらいの年頃の子供が彩葉以外居ないため、物珍しさからの行動と思っていたのだが……。しかし年下好きにも限度があるだろう。一応、俺はまだ小学五年生なのだ。年下好きというよりも、ショタコンの類ではないか。

 

 ︎︎というか、まさかあの綺麗な笑顔の裏で──ああ違う、別にこんな下世話なことを頼みたいわけじゃない。ソワソワする心を誤魔化すように、咳払いで気持ちを切り替える。

 

「……もうすぐ、彩葉の誕生日じゃないですか」

「ええ。確か、七月二七日でしたね」

「はい、そうです。去年、京都に移り住み始めてからはもう誕生日は過ぎてましたが、折角なので今年からは祝ってあげたいと思うわけです。同居人の、付き人候補として」

「おや、良いんじゃないですか。彩葉様もお喜びになられると思いますよ」

 

 ︎桜庭は稽古の再開を促すこともなく、ただその碧眼の双眸でこちらを射抜いている。

 

「そこで、ちょっと……桜庭さんに頼みがあるんですけど……」

「はい」

「その……あの……ああ、もちろん桜庭さんが無理だったら全然……いいんですけど……あ、いや、やっぱりいいです。さっさと稽古の続きを──」

「将吾くん」

「は、はい!」

 

 ︎︎いざ本題を離そうとすると、モゴモゴと要領を得ない言葉しか出てこない。途端に恥ずかしくなった俺は、首を左右に振って話を切り上げようとした。

 

 ︎︎瞬間、背筋が凍る。

 ︎︎桜庭の気配が一瞬で鋭さを増し、総身を貫いた。反射的に姿勢を正すと、桜庭は無表情のまま近付いてくる。彼女は俺の立つ岩の下にいるはずなのに、まるで巨大な仁王像がそこに鎮座していて、思わず跪きそうになるほどのプレッシャー。獅子に睨まれた小鹿の気分とは、まさにこの事だった。

 

「……」

「……」

 

 ︎︎沈黙。

 ︎︎近くでけたたましく鳴いていた蝉たちの声すら、自らの天敵を近くに、ひっそりと身を潜めているような気がするほど、辺りを不気味な沈黙が覆った。

 

 ︎︎何か、彼女を怒らせるような真似をしたか。

 ︎︎それとも、俺がいつまで経っても岩に立ったままなのが気に食わなかったのか。

 

 ︎︎桜庭の気配が一歩近づいただけで、また周囲の空気が変わる。

 喉が音を立てて動き、自然と呼吸が浅くなった。彩葉や佐々木とは違う。最強の女のその存在感は、目に見えない鎖となって俺を縛りつけてくる。

 

 そして桜庭は静かに足を止め、真っすぐに俺を見据えた。声をかけるでもなく、ただ黙って。

 その沈黙が、かえって俺の胸をざわつかせた。

 ︎︎巡るめく思考の渦の中、キュと目を閉じると──。

 

「……なにも、そこまで怖がらなくても」

 

 ︎︎桜庭の困惑した声が聞こえてきたのと同時に、辺りを支配していたプレッシャーが霧散した。ドっと吹き出す冷や汗が、服に染み付いて背中の肌に張り付く。

 

「べ、べべべ別に怖がってませんが?」

「ただ近付いただけでそんなに震えられるのは、流石の私も傷付きますよ。こう見えて繊細なんです」

「……」

 

 ︎︎必要とあらば、何の感傷も戸惑いもなく、人さえも殺せる桜庭が繊細なわけないだろう。発禁のスプラッタ映画ばりに妖怪を惨たらしく殺したその三十分後には、済ました顔でステーキを食えるような人物なのに。

 

「まあ、それはともかく……私が君に言いたいのは、そんなに私のことが信頼できませんか、ということです。君と出会って数ヶ月、ほぼ毎日汗水垂らして稽古に励んできたのに、弟子も同然の君の些細な頼み事一つ聞けない頑固者と思われているなら、かなりショックです」

「う…」

「いえ、はっきり言って傷付きました。見てください、私の顔。ほら、泣きそうでしょう。今にも目がうるうると」

「涙腺死んでるんですか?」

「なんて失礼な」

 

 ︎︎コツン、と脛を木刀で突かれる。痛っ、と屈んだ瞬間に頬を両手で挟まれた。

 

 ︎︎至近距離に、桜庭の顔がある。

 ︎︎驚いて身を引こうとするも、接着剤が付着しているかのように離れらない。カランコロンと、軽い音を立てて桜庭の握っていた木刀が転がるのが視界の端に見える。

 

 ︎︎一体なんなんだ、と不満を込めた視線をやると、彼女はため息をついた。

 

「今のデリカシーのない発言と合わせて、繊細な私は二回も心が傷付きました。よって、将吾くんには私の言うことをなんでも二回聞く義務があります」

「えぇ……そんな横暴な」

 

 ︎︎そもそも俺は、今までに一度たりとて彼女に逆らったことがない。不満混じりの疑問をぶつけることはあれど、これまで例外なく彼女の指示には従ってきたつもりだ。

 

 ︎︎というか顔が近い。流石に恥ずかしい。

 

「つまり二つ、私は君になんでも言うことを聞かせられる権利がある訳です。分かりましたか?」

「はい。分かったので、その手を離してくれると俺の精神衛生上非常に助かるんですが……」

「では、了承を得たということで。さっそく、今から一回使わせて頂きますね」

「な、なんですか」

 

 ︎︎まさか先程桜庭が言っていた、往復三十セットの追加とでも命令されるのだろうか。冗談じゃない。

 ︎︎山を全力疾走して上り下りするのすらキツイのに、木刀も交えた今の段階では、精々往復二十が俺の限界である。今日は既に十セット。これに追加三十だと、残りは合わせて五十となる。

 

 ︎︎今日が命日だったのだろうか?

 ︎︎もしかして原作に陸浦将吾が登場しなかったのは、桜庭の稽古に耐え切れず死んでしまったからなのだろうか。

 ︎︎恐る恐る桜庭に訊ねた俺だったが──しかし、それは予想していたものよりも呆気なく、そして意外な内容だった。

 

「私になんでも頼みなさい。一つだけ、どんなことでも叶えます──これが君に使う、”君になんでも聞かせられる権利”の内容です」

「……俺があなたの言うことを聞くんじゃなく、俺があなたに言うことを聞かせるって、それ矛盾してませんか」

 

 ︎︎言っている意味が分からなかった。しかし、桜庭はなんて事なさげに首を振る。

 

「いいえ、矛盾なんかしていませんよ。……どうやら私は君に信頼されていないようなので、こうでもしないと君は口を開かないでしょう」

「いや、あなたを信頼してない訳じゃ……!」

「──でもエッチなことは聞いてあげられません。……まあ、君が成人してからなら少しだけ考えても良いのですが、そっち方面は使用人の方に頼んで下さいね」

「だから! 俺は最初っからそーいうことを頼むつもりでは──え、今なんて?」

 

 ︎︎聞き捨てならない言葉が混ざった気がするが、深く思考するより先に促される。

 

「言ってください。先程の、言葉の続きを」

「っ……」

 

 ︎︎何も変わらない。

 ︎︎桜庭は、何の感情も顔に浮かべていない。

 ︎︎けれど、その内に秘めている感情は、真剣な眼差しに込められた感情は、間近に居た俺の心の障壁の一切合切を壊していく。

 

 ︎︎何かを言おうとして何も言えず、結局、話を切りあげた俺を見て、桜庭がわざわざお膳立てしてくれたのだと漸く気付き、今度こそ俺は、目の前の女性に適うはずかないと痛感した。

 

「──桜庭さん」

「はい」

「頼ってもいいですか。ちょっと、面倒なことなんですけど」

「私を誰だと思っているんですか。泣く子も黙る護國衆の隊長ですよ。この組織において私に出来ないことなんて、あんまりありません」

 

 真っすぐに言い切るその表情には冗談の色が一切なく、俺の胸の奥にしがみついていた迷いを溶かしていく。

 だからこそ、言えた。

 

 

「──────」

 

 

 胸の奥に溜め込んでいた重しが、ふっと軽くなる。

 桜庭はしばらく黙って俺を見ていたが、やがてその目元は、次第に柔らかなものに変わっていく。彼女にしては珍しい、温かさのある視線が妙に小っ恥ずかしくて、俺は顔を逸らした。

 

「えぇ、えぇ。それくらいなら私に任せてください。必要な根回しはこちらの方で」

「あ、ありがとうございます」

「では、もう一回分の権利は今後のために取っておきますね。……さて、君に何をさせましょうか」

「……お手柔らかにお願いします。俺、死にたくないので……」

「まさか。私が君を殺すわけないじゃないですか」

 

 ︎︎そう言って、桜庭は僅かに微笑んだ。

 

 ︎︎

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