乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
月1ペースなのを改善していきたいですッピ
︎︎同日、潜影部のエージェント数名が西ノ宮邸を訪れていた。目的は、一週間の休養から復帰した鳴宮旭をはじめとする鳴宮一家に関わる件について、経過報告を行うためである。
︎︎鳴宮夫妻が組織や妖怪の存在について知っている。
︎︎その事実は、神祇瑞光院という秘密結社にとって軽視できるものではなかった。普段の公威ならば否応なしに処分を下しただろうが、彩葉襲撃事件の全容が未だ明らかになっていない現在、公威は軽率に事案を切り捨てる選択を取りづらかった。再発防止に努めたい彼の姿勢が、方針決定を慎重にさせていたのである。
︎︎鳴宮一家の安否を気にしているわけではない。たとえ彼らが死んだとしても、西ノ宮側に取り込める人物を鳴宮夫妻の会社の経営陣に据えれば、成長著しい会社を傘下に収めることが可能だ。十分、旨みはある。
︎︎それでもあえて手を下さなかったのは、彩葉が襲われた事件の背後関係が未だ解明されていないからに他ならない。理由が判然としない相手を一方的に潰すのは、公威の面目にも関わる。
︎︎執務室の重い空気の中、公威は火のついた煙草を咥え、訪れたエージェントたちをじっと見据えた。
「で、どうなんや」
「現状判明していることについて、謹んで報告させていただきます。鳴宮一家拘束から今日に至るまで、我が部は主に二つのチームに分かれて当該事案に対処しました。私が率いるB班は、一家の警備と事情聴取に当たっていたA班からの情報を基に、鳴宮の家宅および会社内部の捜索に入りました」
︎︎報告は端的で、しかし隅々まで手が入っている印象を与えた。公威は煙草の灰を軽く落とし、淡い音を立ててから続けるように促す。
「まず、鳴宮夫妻が妖怪や我が院について知った経緯ですが、花洛インターナショナルホテルの土地取引に関与した、御家傘下の不動産会社──その社長と役員が同席した会食の場で話されたものだと判明しています。昨日、その社長の身柄は確保しましたが、混乱しているのか要領を得ない発言が目立ち、癒静院の先生方の協力を仰いでいる状況です」
︎︎短く鼻を鳴らして、公威は淡々と聞き流す。知っている男の名が挙がったからだ。あの不動産会社の社長は熊のような体格でありながら気弱な面がある人物だったが、バブル崩壊から低迷していた業績を回復させた手腕や経営の才は確かだった。故あって社長にさせてやったというのに、今回の事態はその恩を仇で返されたようにも見える。旧知の情は、とっくに消え失せていた。
︎︎エージェントは表情を引き締め、さらに報告を続ける。
「あの男の性格上、いくら酒の席とはいえハイリスクな発言は控えるはずです。最初、鳴宮夫妻も妄言か冗談と受け取っていましたようです。しかし夫妻から聞き出した会話の内容とタイミングから推測するに、もう一人の役員を我々は最大の容疑者と睨んでおります。その者は社長が拘束される直前に行方を晦ませており、現在複数のエージェントが捜索にあたっています──以上が現段階の報告になります」
「その役員……妖怪と関わりがあるんか?」
「恥ずかしながら、まだ判明しておりません」
︎︎苦しげに答える部下に、公威は苛立ちを抑えつつ短く「そうか」と漏らした。声を荒げたい気持ちがあることは隠せないが、この数日で得られた情報にしては確かな手柄だった。
︎︎公威はエージェントの額に短く礼を促すように言葉をかける。
「よおやった、多少は進んどるな。ご苦労や」
︎︎すると別の男が、慎重に切り出した。
「閣下。鳴宮について、今後はどのように致しますか?」
「その役員を捕まえるまでは監視に留める。息子の方は、平日の日中はこちらで監視する。あんたらは夫妻の方をよお見とき」
「はっ……御無礼ながら、御家の監視要員について教えて頂くことは可能でありますか」
︎︎公威は少しだけ含み笑いを浮かべ、淡々と答えた。
「最初に情報漏洩を報告した男の子がおるやろ。その陸浦の子が、鳴宮の息子と同じ学校に在籍しとる。んで、他にはうちから出しとる教員にも言っとくわ」
「陸浦……なるほど、御家にお仕えの方でありますね。かしこまりました。では、情報共有はご本人様と連携させていただく形でよろしいでしょうか」
「ああ。多分、今日の五時頃には帰ってくるやろ。屋敷の使用人に話は入れとくから、そこら辺は今日中に本人と詰めてくれ」
「ご厚意、感謝いたします」
︎︎頭を深く下げるエージェントたちを、公威は一瞥し、執務室を後にさせた。室内に残された重苦しい張り詰めは、やや和らいだように見える。深く溜息をつき、顎に手を当てて窓の外を見た。
︎︎鳴宮夫妻が悪意を持って情報を得たわけではないこと、聴取した会話内容から社長も同様に無自覚だったことは判明している。
︎︎怪しいのは行方不明の役員の方。もしその男が彩葉襲撃事件にも関与していると立証されれば、公威は容赦しない方針だ。役員の家族を含む関係者を徹底的に排斥し、関与した者すべてに組織としての制裁を加える──それは孫が襲われた事への報復というより、派閥の体面と御三家としての権威のための措置である。
︎︎西ノ宮彩葉襲撃事件は、外から見れば畿内守護を任される護國衆一番隊の失態に見える向きもある。だが多くの派閥幹部や総会員らは異なる見解を持っていた。
︎︎彼らの間では、襲撃は西ノ宮側に端緒があるのではないかという疑念が根強い。要するに、西ノ宮の強硬策が要らぬ恨みを買った結果だと見る者が少なくないのだ。
︎︎公威からすればその理屈は稚拙に映るが、そう思われている事実そのものを放置するわけにはいかない。
︎︎襲撃の全容を解明し、関係者を全て粛清することで「やれば返り討ちに遭う」と西ノ宮の実行力を内外に示す必要があった。舐められたら殺す──権謀術数蠢く敬天総会で生き残るには、そうした明確な態度が時には求められるのだ。
︎︎公威は煙草を消し、固定電話の子機を手に取った。指先は冷たく、受話器のプラスチックの感触がいつもより鮮明に感じられる。鳴宮夫妻の息子も監視対象にせねばならないのは確かだが、潜影部のエージェントを学校へ入れるには他派閥の目配せや事前工作が必要で、手間と時間を要する。あの小学校には錦戸家の令嬢ばかりでなく、各有力家の子弟子女も通っている。そこへ部外者が頻繁に出入りすれば、事情を知らぬ家々の好奇を招く。
︎︎ならば──と、公威は頭の中で筋道を立てる。
︎︎確実で、かつ目立たぬ方法。それこそが、同校に既に在籍する者を使うことだ。歳相応を超えた賢さ、西ノ宮へ向けられた従順さ、使用人たちとの円滑な関係構築ぶり。候補として最初から頭にあった名前が、冷静に妥当だと彼の中で確信へと変わる。
︎︎ボタンを押し、小学校に回線を繋ぐ。数度のコールの後、受話器越しに落ち着いた女性の声が返ってきた。顔見知りの教頭だった。
『はい、もしもし』
「西ノ宮や。ちょっと聞きたいことあるんやけど……」
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「お初にお目にかかります、彩葉様。私は潜影部に籍を置いております、大脇と申します。役職は班長でございます」
「あら、ご丁寧におおきに。潜影部の方がウチに来はるなんて珍しいわ。何かあったん?」
︎︎学校から戻り、屋敷に上がると出迎えに立っていたのは佐々木ではなかった。玄関正面に立つのは見慣れないスーツ姿の男。年の頃は四十代半ばほどだろうか。
︎︎顔立ちは際立って整っているわけでもなく、公威のような威圧感もない──むしろ、どこにでもいる会社員然として見えた。しかし、その平凡さが、遥かに歳下の彩葉へ向ける礼節正しい態度によって、却って異質に感じられる。
︎︎大脇と名乗ったその男は、彩葉に深く一礼すると、彼女の斜め後ろに立つ俺へ視線を向けた。わずかに目を細めるが、そこに敵意や露骨な疑いはない。まるで観察するような、静かな確かめの眼差しだった。俺は内心の困惑を悟られぬよう、平静を装ってその視線を受け止める。
「西ノ宮閣下からのご命令により、我が部は先日よりある妖怪関連の事案の対処を拝命しております。その件に関しまして、お二方と今後の情報共有を行う必要がございましたため、本日はお屋敷に上がらせていただきました」
「……」
「そちらにおられるのは、陸浦様でお間違いございませんか?」
「はい。西ノ宮家の陸浦将吾と申します」
︎︎俺が名乗ると大脇は軽く頷き、眼鏡の位置を直した。その仕草には任務に馴れた慎重さが滲む。
「彩葉様、暫し彼をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「んー……まあ、うちはええけど……将吾くん、今日は桜庭さんの稽古があるやんね?」
「あります」
︎︎短く、丁寧に答える。
︎︎屋敷の使用人や桜庭の前では普段通りに振る舞うが、面識のない組織関係者の前で態度を崩すわけにはいかない。気心知れた彩葉の前でさえ、多少の緊張は伴うのだと自分に言い聞かせる。
︎︎彩葉は顎に手を当て少し考えてから顔を上げ、大脇に告げた。
「ほな、大脇さん。十分ほど応接間で待ってくれはる?」
「はっ、かしこまりました」
︎︎再び最敬礼すると彼はゆっくり壁際へ退き、姿勢を整えてこちらを見送る体勢を取った。
︎︎脱いだ靴を並べて自室に続く廊下を進む。軽く後ろを振り返り、大脇の姿が消えたのを確かめると、俺は小声で彩葉に尋ねた。
「鳴宮の件か?」
「かもなあ」
︎︎曖昧な返答が返ってくる。彩葉自身も全容を把握しているわけではないのだろう。首を傾げつつ、自室に入り鞄を置いて制服を脱いだ。着物に着替え、古い固定電話に手を伸ばして桜庭の携帯へダイヤルする。
「もしもし」
『はい、桜庭』
「あ、桜庭さん。ちょっと今日の稽古についてご相談があるんですけど、いいですか?」
『おや、将吾くんでしたか。ええ、どうされました?』
「潜影部の方が屋敷にいらっしゃって。閣下のご命令らしく、俺と彩葉に話があるようなんです」
『潜影部……ふむ。なるほど。では、今日はお休みで構いませんよ。私は哨戒に戻りますので』
「すみません、ありがとうございます。では、また明日」
︎︎桜庭に稽古の延期をお願いした。
︎︎単に時間をずらす選択肢もあったものの、彼女の一日は忙殺されており、護国衆としての任務や彩葉の送迎警護、そして俺の稽古──今年、高校を卒業して護国衆の活動に専念するようになってからは特に、彼女の時間は限られている。ここは素直に延期するよう頼んだ方が良いだろう。
︎︎礼を言って電話を切り、部屋を出て彩葉の用意が終わるのを待つために廊下へ戻る。
「将吾くんー、あんたの部屋にうちの帯ない?」
「何本か落ちとる」
「ほなついでに全部ちょーだいな」
「いいけど、お前あとで他のもの片付けるの手伝えよな」
︎︎俺の部屋の入口に置かれた籠には、彩葉が使った帯が何本も雑多に積まれていた。それらをまとめて腕に抱え、彩葉に手渡す。布の擦れる微かな音が廊下に響いた。
︎︎間もなく、着替えを終えた彩葉が扉を開けて姿を現す。普段着の着物に着替えた彼女は、髪をざっと結い直しながら「行こか」と一言だけ言い、廊下に出た。
︎︎俺も後に続く。
︎︎磨かれた板張りの床を二人分の足音が静かに渡り、夏の光がガラス越しに廊下を淡く照らしている。その外からは絶え間なくセミの声が響き、彩葉は眉をわずかに寄せた。
「うっさいなぁ……」
︎︎そんな独り言のような呟きを背に、俺は応接間の前に立ち、軽く息を整える。ノック代わりに「失礼します」と声をかけ、襖を開いた。すでに大脇が待っている。
︎︎彼は俺たちの姿を見るやすぐに立ち上がり、丁寧に一礼した。
「お時間を頂き、恐れ入ります」
「ん」
︎︎彩葉が短く返事をし、上座に腰を下ろす。
︎︎俺は棚上に置かれた電気ポットのボタンを押し、湯を沸かした。手早く粉茶を溶かし、湯呑みに静かに注ぐ。そしてふたつの湯呑みを音を立てぬよう卓上に置き、彩葉と大脇、それぞれの前に差し出した。
「ありがとうございます」
「いえ」
︎︎短く頭を下げて応じ、俺はソファには座らず、彩葉の斜め後ろの定位置に控えた。部屋の空気が一瞬、静まり返る。その沈黙をまず先に破ったのは、彩葉だった。
「ほんで、どんな用件です?」
「はい。僭越ながらご説明させていただきます」
︎︎大脇は姿勢を正し、言葉を選ぶようにゆっくりと語り始める。
「先日、そちらの陸浦様からの情報提供を受け、西ノ宮閣下は潜影部に対し、資産家・鳴宮一家の調査を命じられました。今後、鳴宮夫妻については常時、我々が監視を行いますが──錦戸・霧島両派の動向を踏まえ、閣下は息子の鳴宮旭に関して、我々の潜入には否定的なご見解を示されております」
「せやねぇ……」
︎︎彩葉が小さく頷く。その表情には納得と、わずかな思案が入り混じっていた。
「そのため、閣下はそちらに居られる陸浦様に対して、通常の活動と並行して鳴宮旭の監視を任せられる、と申されました。此度は、その件に関する情報共有と、認識のすり合わせのためにお伺いした次第です」
「将吾くんに……?」
彩葉がこちらへ振り返って視線を向ける。俺は返答の言葉を探しながら、机上の湯呑みの縁に浮かぶ茶の泡をじっと見つめた。
監視、という言葉は耳に残る響きを持っていた。とはいえ、公威がそう決めたのであれば断る理由も権利もない。多少気は進まないが、命令である以上、やらねばならない。
いくらクラスメイトとはいえ、誰かの行動を逐一見張るなど、あまり気の乗る仕事ではない。だが面倒だとぼやいてもどうにもならない。俺は心の中で小さくため息を吐き、顔には出さずに頷いた。
「大脇さん、とお呼びしても?」
「ええ、お好きにどうぞ」
「鳴宮旭の監視については承知しましたが、具体的に私は何をすればよろしいのでしょうか?」
ひとえに監視といっても、やり方はいくらでもある。四六時中張り付いているわけにもいかないし、放っておいて良いとも言えない。教室での会話を逐一拾えというのか、昼食の間も傍にい居ろというのか。考えれば考えるほど、肩の凝る仕事に思えてくる。
それでも質問の声音はできるだけ平静を装った。
「鳴宮一家が有している情報は、あまり多くはありません。我が院にとって重要機密であることに変わりませんが、三名ともその知識量に差はない。そのため、陸浦様は登校から下校するまでの間、鳴宮旭が情報を他者に口外していないかの継続的な確認をお願い致します。私どもは夫妻の方を監視しますが、少数を学校の傍に常駐させますので、何かあればすぐに駆け付けられます」
「……承知しました」
短く答えて頷く。
頭の中では既に、その「面倒くさい日課」がどんな形になるのかを想像していた。授業の合間や休み時間──それらに気を配る必要がある。遊びの延長ならまだしも、今回は公威の命令だ。下手なことはできないが、しかし改めて考えれば、これまでと変わらないのではないかとも思う。
︎︎というのも、以前公威へ鳴宮少年のことを報告した際に、彼を見るよう言われていたからだ。そして何かあれば報告しろ、と。監視任務といいつも、やることはこれまでとさほどの変化はない。ただ、意識の比重を監視に傾けるだけだ。
「もし、情報漏洩が確認された場合は私か、他の潜影部の者へお知らせください。携帯電話はお持ちですか?」
「いえ、まだ」
「では、こちらの名刺に書かれた私の番号へ、固定電話等を用いてお掛けください」
差し出された名刺を受け取り、軽く一瞥する。細かい文字が印刷された紙片はやけに整然としていて、妙に事務的だった。
俺はそれを着物の裾にしまい込み、ひとまずの任務を頭の中で整理した──つまり明日からは面倒が一つ増える、ということだ。嫌なものである。
「大脇さん、他に何か用はあるん?」
「今年の三月に起きた、彩葉様への妖怪の襲撃に関しまして報告があります。不確定ではありますが、今回の鳴宮一家の件……襲撃事件と何らかの関連性があると我々は疑っております。ここ数ヶ月、府内に妖怪は現れておりませんが、我々の動きを察知し、事件関係者が動く可能性もありますので、身辺にはご注意ください」
「……ん、わかった」
神妙に頷く彩葉の背中を眺めながら、俺は軽く息を吐いた。言葉にしないだけで、彼女の心中には複雑な感情が渦巻いているのがわかる。かねてからの妖怪への敵愾心は消えず、しかし現実に命の危機を経験したことで、恐怖もまた消えない。
︎︎俺自身も同じように感じてはいるものの、彩葉の場合は文字通り自分を狙った事件だっただけに、その感情の度合いは俺の比ではないだろう。
「では、私はこれで失礼いたします」
目礼して立ち上がる大脇。彩葉は背後の俺に小さく目配せする。その意図を察し、俺は大脇に先んじて応接間の襖を開けた。彼は出て行く際も慇懃無礼なほど丁寧で、彩葉に向かって頭を下げる。その姿は、どこか律儀で、しかし面倒くささを感じさせるほどの過剰さもある。
軒先まで彼を見送りながら、正門まで送ろうかと思ったが、軽く頭を下げられ断られる。仕方なく、改めて鳴宮少年に関する情報共有の認識を示し、その場で別れた。
「……どうしよっかなあ」
誰もいなくなった玄関で、思わず独り言が漏れた。予想していたよりも大脇の用件が手短だったのは助かるが、その反面、ぽっかりと時間だけが余ってしまった。今のところ、特にやるべきことはない。
桜庭との稽古は今日はなし。彩葉はこれから佐々木と勉強会だ。交じろうと思えば交じれるが、最近の勉強内容は西ノ宮家の慣習や神祇瑞光院の伝統慣習、御三家の沿革など、ややこしい歴史と格式ばった話が中心である。以前のように普通の学科目も取り扱ってはいるものの、俺については学力面ではもう心配いらないと判断されたらしく、そちらの参加は自由になっている。
なので、今もこれからも院内政治に直接関与する立場ではない俺にとって、その勉強会は正直、あまり意味がなく思う。意味が無いことは無いだろうが、最近は佐々木から付き人としての作法を個別に教わっているので、そちらの方がまだ実用性がある。
つまり今日は本当に、久々の完全オフということだ。
「(部屋の片付けして、使用人さんの仕事ちょっと手伝って……それでも、晩飯まで時間余るな)」
壁の時計を見ると、午後十七時半。夕食はいつも十九時頃だ。普段なら稽古に行けばあっという間なのだが、今日は手持ち無沙汰感がひしひしと迫ってくる。
散々「休みたい」「サボりたい」と口にしてきたくせに、いざ本当に自由時間を渡されると落ち着かないのだから、人間はつくづく面倒な生き物だ。
とりあえず掃除でもするか、と決めて自室へ戻る途中、ふと応接間に目をやる。すでに彩葉の姿はなく、机の上に湯呑みが二つ取り残されていた。片付けついでに回収し、台所へ運ぶ。
台所では、もう夕食の仕込みが始まりつつあり、割烹着姿の使用人たちが手早く包丁を握っていた。廊下から様子を伺うと、こちらの視線に気づいたらしい使用人の女性が振り向く。
「あら、将吾くん。どうしたん?」
「先程までお客さんが来られたので……使った湯呑みを持ってきました」
「なるほどねぇ。うちが洗っとくから、そこ置いといてくれはる?」
「分かりましたー……あ、今日の献立は何ですか?」
言われた通り流しに湯呑みを置き、ついでに献立を尋ねると、彼女は包丁を動かした手を止め、にこやかな顔を向けた。
「今日はね〜……鱧落としと、鮎の塩焼きと、賀茂なすの田楽と〜……あと揚げ物と和え物と香の物をいくつか、やなあ?」
「鮎ですか。美味しそうすね」
「閣下のお知り合いから、ご厚意でええ鮎を頂いてね。せっかくやし、シンプルに塩焼きにしたろかと。将吾くん、お魚好きやったやろ?」
「ええ、はい。魚、好きです」
肉派か魚派かでいえば、俺は魚の方に軍配を上げる。大好物は今も昔も寿司だ。
︎︎彼女の足元のクーラーボックスを覗くと、鮮やかな色の鮎が数匹並んでおり、見ただけで飯が食えそうなほど新鮮に動いている。どうせなら骨までしゃぶりたいところだ。
「自分の部屋の掃除が終わったら、一旦暇なんですけど、何か手伝うことってありますか?」
「ん〜……今日はあんまりないかなあ? ねぇ、あんたー。何か将吾くん手伝えることある?」
彼女が声を張ると、奥で冷蔵庫を漁っていた料理長がのそりと顔を上げた。彼は袖を肘までまくり、やや疲れの滲む表情をしている。
「将吾くん? ……あー、もし手伝えるんなら、ご飯食べたあと厨房に来てくれるか? 昨日、ゴキブリを見つけてね。退治はもう済んだんやけど、折角やし、ちょっと大掃除しておきたいんやわ」
「良いですよ」
気乗りするような仕事ではない。だが、特に予定のない時間を持て余しているよりかは、ずいぶんとマシだ。どうせ部屋に戻っても、彩葉に暇つぶしの相手をさせられる可能性が高い。あれはあれで疲れるからだ。
「いやあ、ほんま将吾くんおって助かるわあ。君が付き人やなかったら、使用人になって欲しいくらいやで? うちの女共も、前より張り切って仕事しとるし」
「ちょっと、将吾くん居る前で変なこと言わんといて」
「別に前からやる気ありました〜」
「ほんまかあ?」
わざとらしく疑う料理長に、女性使用人たちは「ほんまやって!」と笑いながら言い返す。その場の空気に和やかさがある一方で、俺は半歩ほど後ろへ下がった。
︎︎そういえばこの屋敷の女性使用人たちにはショタコン疑惑があったのだった。桜庭の言葉を思い出し、妙に身体が震える。俺は苦笑いを浮かべながら後退り、「また来ます」とだけ言い残して台所を後にした。
︎︎改めて自室に戻る傍ら、公威からの命令について考える。
︎︎やることはこれまでと変わりなく、鳴宮少年に不審な言動がないかを注視するだけなのだが、しかしあまりその必要もなさそうに思う。
︎︎桜庭曰く、彼とその両親は西ノ宮に保護されていたというではないか。今日、大脇が来たということは実際に保護へ動いたのは潜影部なのだろうけど──鳴宮少年の俺に対するあの短いやり取りが、よく分からぬ集団に保護されるという事態を招いたことについて、少なからず深刻さは感じているだろう。
彼は軽薄なようで、根っから愚かなわけではない。陽気で調子に乗りやすいところはあるが、クラス全体で見ても頭の回る部類だ。深い付き合いはないにせよ、俺の目にはそう映っている。
今朝登校してきた時も、一見いつも通りの笑顔だったが全く気にしていないというわけでもないだろう。しばらくは、特に報告すべきこともなく穏便に済むと信じたい。
︎︎それに、彩葉の誕生日も近いのだ。
︎︎去年はタイミング的に祝えなかったが、今年は同居人として何かしてやろうという気まぐれは、桜庭の助けを得て、ようやく形になりつつある。金銭面は大人たちの力を借りることになるが、俺の小遣いでも、ちょっとした贈り物くらいは問題ない。
誕生日の段取りは、次の稽古の時に桜庭と再度詰めておこう。
そんなことを考えつつ、自室に戻った俺は、まず散らかった机の上から手をつけることにした。鞄から明らかに不要なプリントを分け、布団を軽く整え、本棚の隙間を埋め──明らかに俺の物では無い服やらなんやらを、綺麗にたたんで一箇所にまとめる。
もうしばらくすれば夕食、そしてその後は厨房の掃除。
︎︎そんな一日の締めくくりを思い浮かべながら、俺は黙々と掃除を進めていった。