乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
小学生編は日常と政治陰謀パートメインなので苦手な方いらっしゃるかもしれませんが、もうしばしお待ちを……
──今世では二度目となる夏休みに突入した俺だが、別に学校という七面倒なものが無くなったところで、日々の流れはさほど変わらない。
︎︎早朝に起きて屋敷の掃除に加わり、朝食の配膳を手伝い、それから未だ寝ている彩葉に外から声をかける。それでも起きない場合は、最近では佐々木を呼ぶのも面倒になり、直接部屋に入って呼びかけている。
︎︎これが夏休み中の、俺の朝の一連の流れだ。
︎︎今は小学生だからこの程度で済んでいるが、中学生になれば、さらに色々と任されるのだろう。そんな憂鬱なことを考えながら、部屋の外で彩葉の着替えを待つ。
「んー……おはよう、将吾くん」
「おはよ。メシ、もう出来てるぞ」
「あら、そう。今日のご飯はなんやろなぁ」
︎︎目を擦りながら綿紅梅の浴衣を着て出てきた彩葉を伴い、廊下を進む。
︎︎静謐な朝の空気が張り詰める茶の間には、今日の朝の御膳がひとつ整えられていた。庭に面した縁側の雨戸は開かれ、磨き上げられたガラス越しに柔らかな朝の光が差し込んでいる。彩葉が座る定位置に据えられた黒漆の銘々膳は、その光を鈍く反射し、端然と整えられていた。
︎︎やがて、衣擦れの音とともに彩葉が静かに腰を下ろす。畳の上では、運び終えたばかりの味噌汁が細く湯気を立てていた。真っ直ぐな木目が美しい吉野杉の箸を手に取り、「いただきます」と呟いた彩葉の斜め後ろで、俺は正座して控える。
︎︎屋敷において、俺が彩葉と食事を共にすることはない。学校では隣り合って昼食を取っているが、屋敷にいる時は基本的にこの形だ。適宜、彩葉に茶を注ぎ、彼女が食べ終えるまで控え続ける。そうして食後の膳を下げ、ようやく自分の朝食にありつく。
︎︎学校がある日は時間が限られるため、彩葉の世話は佐々木が担い、俺は別の場所で手早く食事を済ませている。
「そういや将吾くん、あんたの今日の予定は?」
「昼までは稽古。つっても、桜庭さんが任務で居ないから一人だけど」
「ほーん……ほな、午後は空いてるんや。うちの宿題、手伝ってちょうだいな」
「そう言って俺にやらせるつもりだろ」
︎︎本来、この屋敷において西ノ宮の人間と共に居る時は食事中の私語は慎むべきとされている。口を閉じ、手を膝に置き、座禅を組む僧のように静かに控える──佐々木からはそう教えられた。だが当の彩葉本人はさほど気にしていないらしく、こちらを向くこともなく話しかけてくる。
︎︎さすがに公威や佐々木が同席している場では、彼女も俺も会話は控えてはいるのだが、生憎と今日の茶の間には二人しかいない。俺も特に気負うことなく応じる。
「ええやんか、少しくらい。あんたはもう昨日で終わらせたんやろ」
「お前、俺より暇な時間あるのに何で終わらせてないんだよ」
「あーあー、そんなこと言うんや。読書感想文、あんた大して読みもせぇへんで適当に書いてたやろ。佐々木にチクるで?」
「ごめんなさい、手伝わせてください」
「よろしい」
︎︎姿勢は崩さぬまま、しかし気を張る間柄でもない。会話は軽く交わしつつも、俺は役目に徹し、空いた湯のみに茶を注ぐ。
「桜庭さん、最近忙しそうやねぇ……」
「詳しい話は聞いてないけど、らしいな」
「将吾くん的には寂しい?」
「お前は俺をなんだと思ってんだよ」
︎︎ここ二、三日、西ノ宮邸に姿を見せていない桜庭の名を出し、彩葉はくすりと小さく笑う。どうも彼女は、俺が桜庭に気があると思っているらしい。実際にはそんな感情は欠片もないのだが、そのぴんと伸びた背中を、やや恨めしく見やった。
︎︎桜庭について彩葉にどう思われていようと構わないが、それとは別に気がかりなこともある。
︎︎例の計画の実行日が、明日に迫っていることだ。
︎︎彩葉の誕生日祝いとして俺が立てたプラン。その実施には桜庭の協力が不可欠だが、当の本人はかなり忙しそうにしている。
︎︎なんでも大阪で事件があったらしく、その後処理に追われているのだという。電話越しにそう聞いたが、護國衆でもない俺に詳細を知る権利はない。
︎︎むしろ桜庭には本来の職務に専念してほしいとさえ思う。それが世のため人のためになるのだ。とはいえ、明日のプランがどうなるかは分からず、不安が残るのも事実だった。
︎︎明日は確かに特別な日ではあるが、一度きりというわけでもない。来年に回しても構わない──そう、任務で多忙な桜庭を気遣って口にしたのだが、逆に「予定通り、明日」と短く言い返されてしまった。電話越しに聞いた低い声は、余計に有無を言わせぬものだった。
「ごちそうさま」
︎︎箸を置き、彼女は手を合わせる。揃えた白い指先に視線を落とすように、すっと首を垂れた。背中越しに会話を交わしていても、食事の所作そのものは相変わらず上品だ。
︎︎その合図に合わせ、俺は膝行で畳を滑るようにして側へ進み出る。
「お下げ致します」
「おおきに。ほな、うちは部屋戻るから。稽古行くとき、また声かけてくれはる?」
「御意」
︎︎衣擦れの音を残し、しなやかに立ち上がった彩葉は、満足げに頷いて歩き出す。襖が閉じる音を背に、俺は小さく息を吐き、下げていた頭を上げて姿勢を解いた。
︎︎彩葉は、俺が他の使用人と同じように恭順な態度を取ることを好まない。もっとも、潜影部の大脇が訪れた時や、公威の前では例外だ。TPOを理解していないわけではない。
︎︎彼女が嫌うのは、その配慮が特に不要な場面でまで、俺にそうした態度を取られることだった。理由を尋ねた際、「あんたはうちの付き人であって、使用人やない」と、何でもないことのように言われた。
︎︎とはいえ、それでも西ノ宮の人間として最低限の礼儀は必要になる。強く嫌がっていた彩葉を俺が宥め、佐々木がうまく取りなした結果、今ではある程度の敬語や態度も受け入れるようになっている。
︎︎本音を言えば、俺自身も敬語や畏まった振る舞いには慣れない。どこかむず痒い感覚がある。それでも、今のうちから身体に馴染ませておくのは無駄ではないと、自分を納得させていた。
︎︎ただ、親戚付き合いのようなものが無いのは有難い。
︎︎戦火によって分家は断絶している。確か公威には兄弟が何人かいたはずだが、いずれも若くして亡くなり、その公威の子供も、今は亡き彩葉の父ただ一人だったという。結果として、直系は彩葉のみが残った。
︎︎かつての姿を取り戻そうとする西ノ宮家にとって、分家を興せない現状は痛手だろうが、息の詰まるような場が少ないに越したことはない。少なくとも俺にとっては、その方が気が楽だった。
「お疲れさまでーす」
「将吾くん、朝からお疲れ様。今日のご飯、彩葉様はどんな反応されはった?」
「相変わらず料理長のだし巻き玉子が好きそうで……他のも全部美味しそうに食べてましたよ」
「ああ、ほんなら良かったわぁ」
︎︎食事中の彩葉の反応を料理長に伝えるのも、俺の仕事のひとつだった。好き嫌いは当然把握されているが、どちらかといえば栄養バランスが優先される。アレルギーなどを除けば、嫌いなものでも食べるべきだというのが公威の方針らしい。幼少に戦後復興期を過ごした彼らしい考えである。
︎︎そして、それを美味しく食べられる形にするのが料理長の腕というわけだ。
︎︎とはいえ、料理の反応が気になるのは誰でも同じである。だからこそ、その反応の良し悪しに関わらず、俺はそのままを伝えるようにしている。
︎︎管理栄養士や調理師免許など、様々な資格を持つ彼は、俺の報告を欠かさず記録している。良ければ簡単な印を、悪ければ詳細に書き留める。誰かに食事を振る舞うことそのものに生きがいを見出している人物で、疲れた様子を誰にも見せることもない。
︎︎その感覚は正直よく分からない。それでも、自分には出来ないことをやっている人間は、素直に尊敬できた。だから俺も、彩葉の反応に加えて、自分の感想も伝えるようにしている。
「はい、これ将吾くんの分な」
「ありがとうございます」
︎︎彩葉とは異なる色の御膳を受け取り、礼を述べて、使用人たちが食事に使う部屋へ向かう。
︎︎西ノ宮家の使用人は、大きく二つに分かれる。
︎︎屋敷の警備を担う者と、家政や送迎、庭園や屋敷の管理を担う者だ。俺が主に関わるのは後者のグループで、理由はあえて聞かないようにしているが、有難いことに随分と可愛がられている。
︎︎屋敷は広く、使われていない部屋も多い。そのため、使用人たちの生活の場として使われている部屋もいくつかある。その一つが、今向かっている場所だった。
「失礼します」
「将吾くんやー、おはよ!」
「朝ごはん? ほんなら、こっち来て一緒に食べへん?」
「えー……うちん所おいでやー、ここここ! 膝の上でもええよ?」
「お、ぉ……うす、じゃあ間に失礼しますね」
︎︎襖を開けると、見慣れた女性たちの姿が目に入る。思い思いの場所で朝食を取っていたらしく、俺を見るなり笑顔で声をかけてきた。賑やかな様子の中、部屋の隅で黙々と食事をしている男性使用人たちに、わずかな同情を覚えつつ、俺は近くの畳に腰を下ろした。
︎︎普段は静かな西ノ宮邸の中で──時間帯にもよるが、この部屋だけは例外のように、常に明るい空気に包まれている。
︎︎周囲の使用人たちとの雑談に相槌を打ちながら、朝食に舌鼓を打つ。やはり、相変わらずあの人の作る飯は美味い。母親のいる名古屋へ早く帰りたいという気持ちは常にあるが、西ノ宮の屋敷で過ごす利点を挙げるなら、やはり腕の立つ料理人が高級な食材を惜しみなく使って作る食事を毎日食べられることだろう。
︎︎今日も例に漏れず満足度は高く、賑やかな空気の中で朝食を終えた。「ごちそうさま」と小さく呟くと、それを合図にしたかのように周囲も動き出す。壁時計に目をやれば、どうやら彼女たちにとっても頃合いの時間らしい。
「それ、うちらが片付けとくから置いといて〜」
「いや、そんないいですよ」
「お姉さんの言うことは聞くもんよー? ほら、ええからええから。将吾くんもやる事あるんやろ?」
︎︎あざます、と礼を述べ、素直にその厚意に甘えることにした。
︎︎言われた通りに膳をその場に残し、俺は一度自室へ戻る。軽く身支度を整えてから、屋敷の裏手へと足を向ける。桜庭は不在だが、与えられている稽古の内容はある。
︎︎使い込まれた木刀を麻縄で背に括り付け、裏山へと続く扉を開く。入念に準備運動をしながら、木々が生い茂る薄暗い道へ視線を向けた。蝉の鳴き声が、途切れることなく耳に届く。
「うしっ」
︎︎気合を入れるように両頬を軽く叩き、足に力を込める。
︎︎初めてこの山を登ったときは、途中で息が上がり、まともに動けなくなっていた。それが今では、落ち葉に足を取られ、岩や木の根が張り巡らされた斜面であっても、躓くことなく進めるようになっている。体幹も体力も、確実に鍛えられていた。
︎︎まだ小学生という未熟な身体ではあるが、酒や煙草、エナジードリンクに頼る生活をしていた前世の自分と比べれば、よほど健全で、身体もよく動く。
︎︎とはいえ、夏の日差しは容赦がない。今日は快晴で、雲一つない青空が頭上に広がっている。木々に覆われたこの場所は多少涼しいとはいえ、走り続ければ自然と汗が滲む。
︎︎桜庭と共に使う際の定番の休憩場所──山中に据えられた大きな岩。その陰にもたれかかり、一度呼吸を整えた。
︎︎身体に巻き付けていた麻縄を解き、木刀を手に取る。
︎︎握りはすでに手に馴染んでいた。足場の悪い斜面に立ち、バランスを取りながら構えを作る。
︎︎中段に構え、試しに一振り。
︎︎風を切る音だけが、静かに響く。
「(……しかし、どうやったらあんな力出せんのかねぇ)」
︎︎自然と、あの人の姿が脳裏に浮かんだ。
︎︎華奢な身体に似合わぬ膂力で、ただ振るだけで空気を揺らす。理屈ではなく、純粋な力でねじ伏せるようなあの動き。
︎︎仮に同じように振ったところで、俺の木刀はただのありふれた一振りに過ぎない。別にそれ自体を目標にしているわけではないが、こうして鍛えるようになってからは──前世のファンとしての視点とは別で──彼女の力の源泉が気になって仕方がない。
︎︎どうやったら、ああなる。どうすれば、そうなる。
︎︎そんな疑問に答えてくれる都合のいい存在は居ないし、そもそも当の本人に聞いても首を傾げられるだけだ。彼女からすれば、その余人を圧倒する強大な力は生まれつき持つものだからだ。加えて、努力も相応にしている。人間の限界まで極まった天賦の才を持つ者が人並み以上に努力すれば、そりゃ当然、桜庭のようにもなるだろう。
︎︎ふと、ある日のことを思い出す。
︎︎稽古中、集中を欠いていた俺に対して、桜庭が「手を出してください」と言ったことがあった。言われるままに差し出した手を、彼女は軽く握った。
︎︎その瞬間、走った痛みは尋常ではなかった。
︎︎本人曰く、ほんのわずかに力を込めただけらしい。だが俺には、手全体が四方から押し潰されるような圧力として伝わってきた。時間にして一秒にも満たない。だがそのほんの一瞬で、あの人の持つ“武”というものの一端を、確かに刻み込まれたような感覚が残った。
︎︎単なる体格差や年齢差だけで説明がつくものではない。あれは、そういう領域の体験ではなかったと、振り返る。
「(あの人には、一生勝てないだろうな)」
︎︎木刀を構え直しながら、ぼんやりと思う。
︎︎このまま何事もなく成長し、今の彼女と同じ年齢になったとしても、桜庭に勝てる光景など想像すらできなかった。
︎︎悔しさは、不思議と湧いてこない。
︎︎そうした感情は、この師弟関係には不要だと思っている。そもそも、俺のような人間が抱くには烏滸がましいし、目指している強さの方向性自体が、護國衆の隊長である桜庭とは根本的に異なっている。
︎︎護國衆に求められるのは妖怪の討滅。しかし俺が求められている付き人としての役割──その中核にあるのは、西ノ宮の子女である彩葉の護衛である。
︎︎彩葉を守ることが、そのまま自分の生存と、この先の安寧に直結する。そう考えれば、俺の中にあるのは焦りや劣等感ではなく、むしろ高揚と、巡り合わせの良さへの実感だった。
︎︎最強の存在に目をかけられ、その手で直々に鍛えられている。
︎︎それはゲームの中の出来事でも、どこかの空想の話でもない。心臓が確かに鼓動を刻んでいる、この現実の世界での出来事だ。
「……やるか」
︎︎小さく呟き、構えをわずかに深くする。
︎今日もまた、桜庭はどこかで妖怪を斬っているのだろう。人の世と、その秩序を守るために。本来であれば、そちらに向けるべき時間と力を割いてまで、俺の稽古に付き合っている。
︎︎その事実を思い返す。自分の立場を、意識的に見直す。
︎︎桜庭がいる時も、いない時も、稽古の前には必ずこれを頭の中で反芻するようにしていた。
︎︎そうでもしなければ、俺は簡単に緩む。
︎︎面倒だと感じれば、いくらでも理由をつけて手を抜くし、人目が無ければ、木刀を放り出して、そこらで平気で昼寝でも決め込むような人間なのだ。俺は自分の性格をよく理解している。
︎︎だからこそ、これは自分なりの戒めだった。強く気を引き締めるための、単純だが必要な手順。
︎︎明日のことも、いったん頭から切り離す。
︎︎そう決めて、ゆっくりと息を整える。視線を正面に据え、余計な思考を押し流すようにして──俺は再び、木刀を振るった。
■■■
「……桜庭、君はもう少し、遠慮というものがないのかい?」
「ん?」
︎︎小さな弟子が裏山で思いを巡らせていた頃──その師である桜庭は、護國衆本部の一室にあるソファをベッド代わりにして、無造作に横たわっていた。
︎︎一見すれば、体調を崩した者が休んでいるようにも見えるが、しかし彼女はここ十年、風邪ひとつ引いたことのない極めて頑健な体の持ち主である。
︎︎冷静沈着、あるいは凛然とした佇まい。
︎︎彼女を形容する言葉はいくつも思い浮かぶ。だが、今この場にある姿は、それらとはかけ離れていた。
︎︎礼節も体裁も投げ捨てたようなその様子に、対面に座る男は小さくため息をつき、露骨に白い目を向ける。
「なんだその目は。私はここ数日、一度も寝ずに関西を飛び回っていたんだぞ。さすがに疲れたんだ、少しくらい大目に見ろ」
「それでもね、一応私は君の上官なんだが……まあいい。任務が立て続けに入った件については詫びよう。紅茶でも飲むかい?」
「のむ」
︎︎日本全国の地方ごとに分散配置された各戦闘部隊。
︎︎加えて、この護國衆本部に置かれている”戦略調整局”や”人事総務部”といった各種部署。それらを統括し、神祇瑞光院本部にて定められた長期方針に従って人間社会の秩序維持の実務を担う──それが、護國衆本部局長という役職である。
「君、アッサムが好きだったろう。わざわざ英国から取り寄せた高級品だ。有難く飲むといい」
「高級品?……その似合っていないスーツといい、大層な腕時計といい、最近やけに羽振りがいいな。オマエのような男には分不相応だろう。沐猴にして冠すと笑われるぞ」
「減らず口を叩く気力があるなら、いい加減座りたまえ」
︎︎桜庭朱里という最強の女を筆頭に、癖の強い隊長たちが揃うこの世代。それらをまとめ上げる役目を上層部から押し付けられた、とある不運な男がいる。
︎︎神祇瑞光院において、概ねそのような同情的評価を受けている人物。それが、この──護國衆本部局長、
「オマエが私に気を遣うようなタチでもあるまい。わざわざ呼び出して、一体何の用だ」
「もちろんだとも。君は過労で倒れるような人間ではないからね。討ち死にするまで働いてもらうさ」
︎︎桜庭はようやく上体を起こし、姿勢を正す。
︎︎アッサムの香りを含んだ湯気が立ちのぼる紅茶を口元に運びながら、鋭い視線で対面の御手洗を射抜いた。眠気と疲労が重なり、今日の彼女は機嫌が良いとは言い難い。
︎︎その威圧は、常人であれば視線を合わせることすら躊躇うほどのものだ。妖怪であれば、強烈な死の気配に本能的な恐怖を覚えるだろう。
︎︎しかし、長年彼女と関わり、更に神祇瑞光院の陰湿な政治の場を渡り歩いてきた御手洗は、眉一つ動かさない。ただ、やれやれと首を横に振り、肩を竦めてみせた。
「彩葉様が襲撃された事件で、君が捕らえた妖怪がいたろう?」
「…………あぁ、あの蛆か。なんだ、まだ生きていたのか?」
「いや。君が相当痛めつけてしまったものだから、初音監獄に送還されて一週間と持たずに死んださ。まったく、芳田所長に余計な手間をかけるなと、前にも言ったはずなんだが」
「私がやらなくとも、工藤あたりがやっていただろうよ」
「まあ、過ぎたことを言っても仕方がない。今後は控えてほしいが……いや、いい。死んだこと自体は問題じゃない。ただ、この件に進展があってね」
「なに?」
︎︎今年三月に発生した、西ノ宮彩葉襲撃事件。“金剛金丹”を使用し狂気に陥った擬態型妖怪が、下校中の西ノ宮家令嬢を襲撃──神祇瑞光院に大きな衝撃を与えたあの事件である。
︎︎現場を収めた当人であり、更に近畿を預かる桜庭にとっても、その事件の名は軽く流せるものではなかった。
︎︎あの事件には、不自然な点が多い。
︎︎一番隊の監視を掻い潜って京都へ侵入したこともそうだが、何より不可解だったのは、彩葉の登下校ルートと時間帯を正確に把握していた点である。
︎︎現代において、インターネットと地図情報を利用すれば、ある程度の行動予測は可能だろう。だが、それだけで標的を絞り込むには情報が足りない。
︎︎問題は、彼女が乗っていた車種まで把握していたことだ。西ノ宮家が使用しているのは高級セダンとはいえ、一般にも流通しているモデルであり、特定の個体を狙い撃つのは容易ではない。
︎︎仮に学校や屋敷周辺で監視を行っていたとしても、その段階で一番隊や西ノ宮家の警備網に察知されるはずだ。となれば、事前に内部情報を得ていたと考えるのが自然だ。
︎︎そして、その出所を辿ろうとした時点で──この推測は、表に出せないものとなった。
︎︎何十年かぶりに発生した京都での妖怪事件を受けて、西ノ宮邸に緊急で集まった複数の隊長格は、若干の相互不信という火種を抱えながらも、西ノ宮公威の黙認のもと、報告書を偽造。捕縛した妖怪は桜庭がその場で処分したことにされ、御手洗や芳田といった、限られた信頼できる者のみに実情が共有された。
︎︎もしこれが明るみに出れば、ただでは済まない。
︎︎報告書の改竄は明確な規則違反であり、関係者も軽い立場ではない。桜庭をはじめとする隊長格、護國衆本部局長、初音監獄所長、そして西ノ宮家当主──これだけの面子が関与している以上、処分は極めて重いものになる。
︎︎よってこの事件の早期の解決は、詳細を外部に隠蔽した桜庭たちの腹を綺麗なままにしておくのに、非常に重要であった。
「君が捕らえた実行犯の妖怪なんだが、残念ながら名前や身元はいまだ特定できていない。だが、奴が所持していた携帯電話の連絡先を総ざらいした結果、ひとつ分かったことがある」
「なんだ」
「“スポンサー”だ」
「…………なるほど。芳田が電話で言っていたな。進展というのは、あの蛆も梅田の連中と同じ類だった、ということか」
︎︎御手洗は小さく頷いた。
︎︎つい先日、一番隊が梅田で捕縛した擬態型妖怪のテログループ。その背後に、“スポンサー”と呼ばれる正体不明の存在がいることは、すでに明らかになっている。
「まったく、骨が折れたよ。どこにスパイが紛れているか分からない状況でね。結局、私一人で洗い直すことになった。潜影部に勘付かれないように動くとなると、どうしても時間がかかる」
︎︎西ノ宮彩葉襲撃事件は、潜影部においても継続して調査が進められている案件である。
︎︎護國衆本部内部に内通者が存在し、実行犯へ情報が流された可能性を疑った熊岡ら複数の隊長たちも、平時はそれぞれの管轄地域で任務に就いている。桜庭は言うまでもなく戦闘能力において突出しているが、情報工作の分野には明るくない。
︎︎疑惑を共有している人員に限れば、残るは芳田と御手洗のみとなる。だが、芳田は初音監獄を離れること自体が稀であり、他の看守の目もある以上は、調査には大きな制約が伴う。
︎︎また、西ノ宮に近しい潜影部のエージェントに協力を仰ぐという選択肢もあるにはあった。だが、この事件を担当しているのが誰かは不明であり──そもそも潜影部の構成員情報は、一部の上級要員を除けば、局長である御手洗ですら把握していない。
︎︎故に結果として、裁量の広さと政治的手腕、そして裏の手配に長けた御手洗が、この件を潜影部とは別系統で独自に追う形となっていた。西ノ宮公威を通じて、西ノ宮寄りのエージェントには御手洗が調査を進めていること自体は伝わっているが、現時点で向こうからの接触はなかった。
「おい。この部屋は大丈夫なんだろうな」
「君を呼ぶ前に一通り確認した。問題ない」
「ふん……どうだか」
︎︎桜庭は訝しげな視線を向け、ゆっくりと室内を見渡す。
︎︎警戒すべきはなにも、正体の知れない内通者だけではない。潜影部そのものの動きも無視できなかった。仮に盗聴器の類が仕掛けられていれば、この会話がそのまま御三家や総会へ流れる可能性もある。
︎︎西ノ宮に近しいエージェントであれば問題はない。だが、部署全体が西ノ宮に忠誠を誓っているわけではない以上、判断次第では錦戸や霧島へ情報が渡ることもあり得る。そうなれば、単なる面倒事では済まない。
︎︎もっとも、御手洗は事前に部屋の隅々まで確認した上で問題なしと判断している。
︎︎とはいえ、すでに口にしている内容が内容だ。仮に誰かに聞かれているとすれば、もはや手遅れであることに変わりはなかった。
「で、そのスポンサーがどうした」
「容疑者を絞り込んだ」
︎︎そう言って、御手洗は机上のファイルを開き、桜庭へ差し出す。飲み干した紅茶のカップを脇へ退け、それを覗き込んだ彼女は、わずかに眉を上げた。
「ほう……」
︎︎短く息を漏らす。
「これはまた……お前の推察が当たっているなら、随分と面倒な相手だな。この男が件のスポンサーだとする根拠はあるのか」
「決定的な証拠はない。だが、彩葉様を襲った妖怪の携帯電話の解析結果、そして梅田のテログループの尋問から浮上した複数の容疑者の中では、最も疑わしい人物だ」
「しかし、前の民政党政権で大臣まで上り詰めたこの男が、なぜ彩葉様を狙う?」
︎︎資料から視線を上げ、桜庭は淡々と続けた。
「あの妖怪は彩葉様を殺害することで、我が院と共妖会の衝突を誘発しようとしていた。だが、それで政治家に何の利がある? 利権絡みにしても、我が院を知らぬ訳でもない。……相手が相手だ。単に怪しいというだけでは私も誰も動けんぞ」
「進展があった、とだけ言ったろう。別に確定したわけじゃない。私一人で調べた結果、最終的にこの男に行き着いた──それだけの話だ。正直なところ、私自身も半信半疑だからな」
︎︎御手洗はそう言って肩をすくめる。
「君はどう思う? 君の所感が聞きたい」
︎︎ファイルに目を落とし、御手洗がまとめた調査資料を一通り読み込んだ桜庭は、しばし黙考した。
「……確かに、怪しさという点では他の容疑者より頭ひとつ抜けている。資金力もあるし、関西での人脈も広い。前の民政党政権で大臣を務めていたなら、この国や我々の事情にも相応に通じているだろう。だが──肝心の動機が見えない」
「そこなんだよな……私も一番引っかかっているのはそこだ。彩葉様の殺害を企て、組織間の衝突を狙ったかと思えば、その失敗後は大阪での無差別テロを支援している。元大臣ともあろう人間の行動としては、あまりに筋が通らない」
「だがお前は、こいつを最有力と見ているんだろう」
「ああ」
「……なら、この調査結果は西ノ宮に直接持っていくべきだ。潜影部に回すべきではないな」
︎︎潜影部の特性については、桜庭も十分に理解している。
︎︎信頼に足るが、その全体を無条件に信用できる部署ではない。しかし公威が私的に抱える潜影部のエージェントを用い、彩葉襲撃事件や鳴宮家の件を独自に追っていることを知っている桜庭は、今回に限っては彼へ委ねる方が合理的であると判断した。
「最初から、そのつもりで君を呼んだんだ。西ノ宮家に出入りしていても、君なら不自然には見えないからね。頼めるかい?」
「了解」
︎︎短く応じ、桜庭は頷いた。
︎︎正直なところ、御手洗にできることはすでに限られている。
︎︎ここ数ヶ月、周囲に悟られぬよう、そして存在するかもしれない内通者に気取られぬよう、通常業務と並行して調査を進めてきた。だが、それもこのあたりが潮時だろう。
︎︎それでも、この情報は無駄にはならない。
︎︎公威であれば、必ずこれを活かす。事件以降、将吾の稽古の合間に幾度か言葉を交わした中で見せた、あの男の姿勢を思い返せば、その確信は揺らがなかった。
︎︎たとえ“スポンサー”が何者であろうと、その結末はある程度見えている。
︎︎触れてはならない存在の逆鱗に、すでに触れてしまっているのだ。千年の家の歴史を総身に背負う男の怒りが、穏当に収まるはずがない。
──明日は、例のプランの日だというのに。
︎︎ふと、現実へと思考が引き戻される。
︎︎予定通りに時間を確保できるのか。ここにきて、その見通しは怪しくなっていた。まだ残っている任務の処理に加え、西ノ宮邸へ赴き、公威に直接報告を行う必要が生じてしまった。
︎︎表情は変わらない。だがその内側では、弟子に対するわずかな負い目が静かに積もっていた。
「ああ、そうだ。西ノ宮といえば……君、例の男の子を随分と気にかけているようだな。らしくもない」
︎︎ひと通り話を終え、ふっと肩の力を抜いた御手洗は、失礼、と一言断ってから煙草を取り出した。
︎︎懐からライターを引き抜きながら、思い出したように桜庭へ視線を向ける。
「……らしくも何も、私は元々子供は嫌いではない。お前や総会のお歴々と違って、子供は余計なものを背負っていないからな」
「聞いた話では、君自ら鍛えているとか。部下にどうだい?」
「彩葉様の恨みを買いたいならば、お前がやればいい」
「はは、それは遠慮しておこう」
︎︎軽口を交わしながら、御手洗は煙草に火をつける。
︎︎紫煙がゆっくりと室内に溶けていく中で、張り詰めていた空気もわずかに緩んだ。