乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話   作:ヤナギ

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EP26〈サプライズは公園で〉

 

 

 

 

 ︎︎欠伸を噛み殺しながら、将吾の背を追って廊下を進む。

 ︎︎眠気で緩んだ眉を指先で擦り、いつものように朝食が用意されている茶の間へと向かう。何も知らぬまま足を運んだそんな彩葉を待ち受けていたのは、意外な人物だった。

 

「──おはようございます、彩葉様」

 

 ︎︎今日もまた、何を考えているのか読み取れない無表情のまま、桜庭はそう挨拶する。彩葉の姿を認めるや否や、畳に座したまま深々と頭を下げる。その様子に、彩葉はわずかに首を傾げた。

 

「あら、うちら学校もないのに。桜庭さんがこんな朝から来はるなんて、珍しいやないの」

 

 ︎︎数日ぶりに目にする桜庭の姿に、彩葉は驚きながらも、どこか嬉しげな表情を浮かべた。

 

 ︎︎彼女にとって桜庭は、妖怪の襲撃から間一髪で救ってくれた命の恩人であり、同時に護國衆の内では最も信頼を置いている人間でもある。

 

 ︎︎もっとも、その信頼は単なる恩義に留まるものではない。

 ︎︎襲撃事件の後、将吾と向き合う桜庭の姿を傍で見続けたことで、彼女の中で評価は確かなものへと変わっていった。

 

 ︎︎御三家の令嬢として育てられてきた彩葉であるからこそ、護國衆という組織が担う重責、そして桜庭朱里という個人が背負う役割の大きさを理解している。

 

 ︎︎時間は有限であり、その価値は持つ者によって大きく異なる──そして桜庭の時間は、誰と比べるまでもなく重い。彼女一人が動くだけで、何十、何百という人間の生活と命が守られる。

 

 ︎︎そんな貴重な時間を、襲撃事件を通じて偶然出会ったに過ぎない将吾に費やしている。稽古という形で、継続的に。さらには、学校のある日には登下校の護衛まで担っていたのだ。人を見る目に長けた彩葉は、それらを総合して判断している。

 ︎︎桜庭という存在を、自身の内側──信頼を置く領域へと迎え入れ、それを高い位置に据えていた。

 

「今日は将吾くんと稽古?」

「……もしかしてお前、今日が何の日か分かってない?」

「あれ、なんかあった? ……二十七日……大安?」

 

 ︎︎桜庭が姿勢を正す傍ら、いつもの定位置に座ることもなく、彩葉の横に控えていた将吾が小声で問いかける。

 

 ︎︎しかし彩葉は、きょとんとした顔で振り返るだけだった。

 ︎︎まさか、自分の誕生日すら失念しているのか。その予想外の反応に、将吾は思わず本音の困惑を漏らす。

 

「えぇ……?」

 

 ︎︎そんな普段通りのやり取りを眺めながら、桜庭はほんのわずかに口元を緩める。すぐに表情を引き締めると、その背筋を正し、静かに言葉を紡いだ。

 

「不肖桜庭、畏れながら彩葉様の御前にて寿詞を奏し奉ります。この桜庭めをはじめ、我ら護國衆一同、彩葉様のご誕生を慶び申し上げます。八百万の神々も、この佳き日を笑みのうちにみそなわしておることと存じます。瑞光遍く照らし出され、諸々の障りなく、清々しく光り輝く一年となりますよう、心より祈念いたします」

 

 ︎︎普段より遥かに硬質な口調と、厳格な儀礼めいた言葉。それを受けて、彩葉はようやく思い出したように目を瞬かせた。

 ︎︎そして、納得したように小さく頷く。

 

「……ああ、そういうこと」

 

 ︎︎ぽつりと呟くと、そのまま流れるように後ろの将吾を振り返った。

 

「うち、今日誕生日やって。将吾くん」

「なんで本人が気付いてないんだよ」

「ふつーに忘れとったわ」

 

 ︎︎軽く頭をかきながら言い、すぐに桜庭へ向き直る。

 

「ああ、桜庭さん。ご丁寧におおきに。あれ以来、ずっとお世話になりっぱなしやし、今度なにかお返しせんとあかんな」

「いえ。私は護國衆の者として当然のことをしているまでです。どうかお気になさらず」

 

 ︎︎淡々とした口調でそう返しながらも、桜庭の視線は一瞬だけ将吾へと向けられた。その意図を汲み取った将吾は、小さく頷くと、軽く手を打った。

 

 

「──さて、彩葉。今日はお前の誕生日なわけだが」

「せやね」

「朝食を済ませたら外に出るぞ」

「お外?……なんや、庭でなんかしはるん? クラッカーとかはやめてな、うちビックリするから」

「そんなんじゃねぇ。屋敷の外に行くんだよ」

「ほーん……まぁ、ええわ。何かしてくれるんや?」

 

 ︎︎将吾の言葉から、何かしら用意しているらしいことを察した彩葉は、深く追及することなく腰を下ろした。

 ︎︎いつもよりも幾分か豪勢な朝食を前に、静かに手を合わせる。

 

「いただきます」

 

 ︎︎しかし誕生日だと言われても、彩葉にはいまひとつ実感がなかった。祝われること自体は珍しくない。むしろ、御三家とはその立場にある。だが、その多くは電報や書面によるものであり、直接言葉を交わす形での祝意は限られていた。

 

 ︎︎面と向かって祝うのは、公威と屋敷の使用人たちくらいのものだ。これまで親しい友人もいなかった彼女にとって、桜庭や将吾のように、幼少期からの関係ではない相手に直接祝われるのは、初めての経験だった。

 

「将吾くん、少しよろしいですか?」

「あ、はい。どうしましたか?」

 

 ︎︎黙々と箸を進める彩葉を横目に、桜庭が将吾に声をかけた。そして二人は茶の間を出て縁側へと移動し、静かに襖が閉じる。廊下の方で何やら話し込んでいる様子ではあったが、内容までは聞こえない。

 

 ︎︎彩葉は不思議そうに小首を傾げたものの、やがて興味を失ったように茶を口に含んだ。

 

「(やっぱり将吾くんって、桜庭さんのこと好きなんかな)」

 

 ︎︎ふと、そんな考えが頭をよぎる。

 ︎︎将吾の異性の好みについて、これまで深く聞いたことはない。だが桜庭の在り方は、その対象としてさほど不自然ではないようにも思えた。確かに年齢差はあるが、桜庭の側も彼を気にかけている様子が見て取れる。相性が悪いようには見えない。

 

 ︎︎別に、二人の関係がどう転ぼうと構わない。良好であるなら、それで十分だと彩葉は思っている。

 

 ︎︎何がどうなろうと、将吾は自身の付き人であるのだ。現時点で他に適任がいない以上、その立場が揺らぐことはない。将来的に正式な形となることも、ほぼ既定路線と言ってよい。

 ︎︎ならば重要なのは、彼自身が誰に仕えているのかを正しく認識していることだけだ。

 ︎︎彼が誰に好意を抱くかまで縛るつもりは、毛頭なかった。

 

「恋愛かぁ……」

 

 ︎︎ぽつりと、独り言のように漏れる。

 ︎︎自由恋愛が一般的となったこの時代であっても、神祇瑞光院の御三家となれば事情は別だ。

 

 ︎︎基本は当主が選定した相手との見合い結婚。仮に彩葉が家督を継がないとしても、その枠組みから大きく外れることはない。神祇瑞光院全体がそうであるわけではないが、少なくとも、自分にとって恋愛は遠い話であると彩葉は理解していた。

 

 ︎︎将吾と出会う以前は、公威に挨拶に来たよく分からない大人から縁談を持ちかけられることもあった。半分は西ノ宮家との関係強化を狙ったもの。残り半分は、彩葉という存在そのものへの欲望。どちらも、幼いながらに嫌悪感を抱くには十分だった。

 

 ︎︎いずれ、自分にも婚約者が用意される──大物政治家の子息か、大企業の後継か、あるいは組織に属する名家の人間か。

 ︎︎彩葉は、極端に人格や容姿に問題がなければ、大人しく受け入れるつもりでいる。それが西ノ宮のため、ひいては組織のためであるならば、自身の人生を差し出す覚悟は、すでにできていた。

 

 ︎︎だからといって、その選択に将吾を巻き込むつもりはない。そもそも付き人という立場も、元を辿れば成人までの期限付きの役目に過ぎない。その後の人生まで縛る理由はどこにもない。

 

 ︎︎今の彼が、桜庭に特別な感情を抱いていようと、そうでなかろうと。願わくば、彼には自由で穏やかな人生を歩んでほしい。

 ︎︎そう思いながら、彩葉は茶の間へ戻ってきた将吾の顔を見つめ、改めてその考えを胸の内で確かめた。

 

「……なんだその仏さんみたいな顔。お陀仏にはまだ早いぜ」

「ふふ、おおきに。可愛い可愛いうちを放置して桜庭さんとどこか行くもんやから、先に極楽の席でも確保してあげようか思て、独りで拝んどったところやわ……ああ、もちろん、うちの隣やなくて、あんたは一番端っこの方ね?」

 

──そんなささやかな願いも本人は露知らず、部屋に戻ってくるなり開口一番によく分からない煽りをかましてくる。

 

 ︎︎イラッとした彩葉は、にこやかな笑みを浮かべたまま、さらりと毒を吐く。将吾は思わず小さな笑みを漏らした。

 

 ︎︎仮に極楽浄土などというものが実在するのだとしたら、自分はそもそもこの世界に立っていないはずだ。そんな考えが一瞬だけ脳裏をかすめる。だが、そのことを誰かに語るつもりはない。

 ︎︎何事もなかったかのように、将吾は彩葉の傍に腰を下ろし、彼女が食事を終えるのを静かに待つ。

 

「桜庭さんは?」

「外出る用意してる。車出してくれるってさ」

「あの人、免許持ってたんや」

「高校出てすぐ取ったらしいぞ。知ってるか、彩葉。まだ初心者マーク付いてんのに、あの人アメ車乗り回してるんだぜ」

「……それ、馬鹿にしとる?」

「んなわけあるか。単純に羨ましいって話だよ。金あるし、好きなもん乗れてさ」

 

 ︎︎そう言って、将吾は肩をすくめる。あくまで軽口の延長ではあるが、その声音には僅かに本音が滲んでいた。

 

「俺もアメ車、結構好きなんだよ。かっこよくね?」

 

 ︎︎付け足すようにそう言いながら、何気なく視線を外す。前世で好きだった車種の記憶が、ぼんやりと脳裏に浮かんでは消えた。いつかは買おうと思っていた矢先に小学生になってしまったものだから、全くどうしようもない。

 

 ︎︎彩葉はそんな彼の様子を横目に見やりながら、静かに箸を進める。彼女の顔に浮かぶのは、呆れとも、納得ともつかない曖昧な表情だった。

 

「ほんま、変なとこだけ子供っぽいなぁ……車なんて乗れれば何でもええやん」

「お前いま全国の車好きを敵に回したぞ」

 

 ︎︎

 

 

 

■■■

 

 

 

──車に揺られること数十分。後部座席に俺と彩葉を乗せた桜庭のマリブワゴンは、鞍馬街道の木陰を抜けて市街地へと入り、そのまま堀川通を南下していた。

 

 ︎︎小学生の俺たち二人にとって、この古く趣きのあるステーションワゴンの後部座席は、やや広かった。桜庭が好きだというカントリーミュージックが流れる車内で、彩葉は背筋を伸ばし、膝の上で丁寧に手を重ねて座っている。重ねたその左手には、愛用の扇子が閉じたまま収まっていた。

 

 ︎︎窓の外には、見慣れた京の街並みが流れていく。軒を連ねる古い家屋と、それらの合間に建つ近代的なビル。行き交う人々の姿も、彼女にとっては幼時から変わらぬ日常の一部であり、特別な関心を向ける様子はない。

 

 ︎︎行き先を一切告げないまま桜庭が車を走らせていることについても、彩葉は騒ぐでも問い詰めるでもなかった。ただ、ときおりこちらへ向けられる視線には、はんなりとした落ち着きの奥に、わずかな探るような色が混じっている。

 

 

 ︎︎やがて車は梅小路公園の広い駐車場へと滑り込んだ。

 ︎︎エンジンを止めて先に降りた桜庭が、外から彩葉の座る側のドアを開けると、車内の冷気と入れ替わるように、夏の湿った熱気が一気に流れ込む。

 ︎︎俺も続けて車を降りた瞬間、まとわりつくような熱気に身体が包まれた。アスファルトの照り返しに加えて、風の抜けが悪い。盆地特有の重たい空気が、逃げ場もなく身体に絡みついてくる。

 

 ︎︎駐車場の先には、そのまま公園の敷地が広がっていた。

 ︎︎建物に囲まれていた市街地とは違い、視界が一気に開ける。低く刈られた芝生と、まばらに立つ木々。その合間を縫うように遊歩道が伸び、家族連れや観光客が思い思いの速度で歩いている。

 ︎︎遠くからは、子供のはしゃぐ声と、途切れることのない蝉の鳴き声が重なって聞こえてきた。耳にまとわりつくようなその音は、容赦なく夏の盛りを実感させる。

 

 ︎︎彩葉は一度目を細めて空を仰ぎ、それから改めて前方へと視線を向けた。公園の奥、木立の向こうに、ガラス張りの大きな建物がその輪郭を覗かせている。

 ︎︎

「……ここは……?」

 

 ︎︎足を止めたまま、彩葉は当惑したように小さく声を漏らした。

 ︎︎かつて、自分が行ってみたいと口にした場所であることを思い出したのか。入口と俺の顔を交互に見比べ、いつもの落ち着いた表情をわずかに崩す。

 

「水族館」

「あら、まぁ。とんだサプライズだこと……水族館、水族館ね」

「なんだ、ここに来てまさか興味ないなんて言わないだろうな」

 

 ︎︎そんなことを言われたら、流石に精神的に堪える。

 ︎︎今回のために、こちらとしても相応に手間をかけてきたのだ。桜庭や佐々木の協力に頼る部分は大きかったが、任せきりにするわけにもいかず、学校や稽古、彩葉の世話の合間を縫って準備を進めてきた。

 

 ︎︎もちろん、これは俺が勝手にやっていることだ。たとえ気に入られなかったとしても、彩葉にどうこう言うつもりはない。

 ︎︎だが、それらすべてが空回りに終わるとなれば、少なからず……いや、正直に言えば、かなり残念ではある。

 

 ︎︎しかし、それこそ杞憂だと言わんばかりに、彩葉は閉じた扇子を軽く揺らしながら、俺の不安を否定した。

 

「ううん、嬉しいわ、ほんまに。水族館なんて人生で初めてやもん。……でも喜ぶ前に確認したいんやけど、ちゃんとお爺さまの許可は貰ってはる?」

「抜かりなく。閣下にはきちんと許しをもらってる」

「ふふ、ならええか」

 

 ︎︎今回、最も大きな障壁となっていたのは公威の存在だった。

 ︎︎彩葉襲撃事件が未解決である以上、彼女の安全は何よりも優先される。事件以降、京都への妖怪の侵入は確認されていないとはいえ、それで警戒を緩める理由にはならない。

 ︎︎実際、あの一件を境に、彩葉の外出は厳しく制限されていた。俺のように割と自由に動ける立場とは異なり、彼女は不要不急の外出は許されていない。

 

 ︎︎だからこそ、彼の説得において不可欠だったのは、安全の保証だった。付き人候補とはいえ、俺はまだ小学生に過ぎない。佐々木も後遺症による身体の不調で、戦闘に出られる状態ではない。かといって屋敷や公威の護衛を割くわけにもいかない。

 

 ︎︎どうしたものかと考えあぐねていたところで、あの日、桜庭から「包み隠さず頼め」と言われた。その言葉に従い、俺は計画の内容をそのまま桜庭に打ち明けたのだ。

 

 ︎︎公威をはじめとする総会の面々は、桜庭朱里という存在に対して絶対的な信頼を置いている。それに、公威にとっても、彼女は孫娘の命を救った恩人だ。あの人が、彼女の言葉を無下にすることはないだろうという確信が、俺にはあった。

 

「──ほんなら、将吾くん」

「なんだ」

 

 ︎︎公威の許可を得た上での外出であることを理解したらしい彩葉は、ふっと一度目を閉じてから、すぐにこちらへ歩み寄ってくる。その足取りには迷いがなく、まっすぐ俺の正面に立つと、躊躇うことなく両手をがしりと掴まれた。

 

「はよ行こ! 水族館! お魚さん、待ってるで!」

「お、おおぅ……?」

 

 ︎︎ブンブンと勢いよく振り回される俺の両手。彩葉はまるで年相応の子供そのものといった様子で目を輝かせており、その無邪気な高揚に引きずられる形で、こちらの頬がわずかに引き攣る。

 

 ︎︎別に、こういう反応を期待していなかったわけではない。だが、俺が想像していたのはもう少し落ち着いた──「可愛らしいどすえ」などと柔らかく笑いながら、水槽越しに静かに眺めるような姿だった。

 

 ︎︎目の前にいるのは、それとは真逆。抑えの利かない感情をそのまま表に出している、紛れもなく年相応の少女だった。

 

「もう行っても大丈夫ですか?」

「ええ、行きましょう。水族館へは既に連絡済みです。」

 

 ︎︎手を振られながら横を見ると、桜庭はどこか微笑ましそうな目でこちらを見ていた。相変わらず表情の起伏は薄いが、その目元だけは柔らかい。理由もなく居心地の悪さを覚え、俺は反射的に彩葉の手をぱっと離した。

 

「ほら、行くぞ彩葉。魚は別に逃げねぇから」

「いざやいざや、参らんや〜」

 

 ︎︎本当に同一人物なのかと疑いたくなるほどの満面の笑みを浮かべ、くるくるとその場で回る彩葉。その無邪気さを目の当たりにすると、どうにも胸の奥がむず痒くなる。

 

 ︎︎やがて彩葉は扇子を開き、ぱたぱたと風を送りながら、まるでこちらを先導するかのように足早に歩き出した。その小さな背中を桜庭と並んで見送り、俺は思わず苦笑を漏らす。

 

「……意外です、あれほど喜ばれるとは」

「夏の暑さで頭やられたんすかね」

「おや、照れているのですか? 良かったじゃないですか、あれほど喜んで頂けて」

「……ぐ、そ、そりゃまあ嬉しいは嬉しいですけど」

 

 ︎︎とはいえ、必要な連絡や資金面の手配は、ほとんど桜庭と佐々木が担っている。俺はプランを立てただけで、実際に動いていたのは彼女たちだ。素直に胸を張っていいのか、どこか引っかかるものが残る。

 

「君が頼んでくれなければ、私は何もしていませんよ……ああ、もちろん、それとは別に彩葉様を祝う気持ちはありますが、かといって私があの方をここへ連れてくることはなかったでしょう。それと、お金は気にしなくて結構です。閣下が気前よく出してくださったので、私はガソリン代くらいしか使っていません」

「そう、ですかね?」

「……まったく、素直に喜びなさい。自己肯定感が低いのは君の悪い癖ですよ。彩葉様が笑っている。そして君がその笑顔を引き出した。それで十分ではありませんか。私でも佐々木さんでも閣下でもない、君だから出来たことです。そこを履き違えないように」

 

 ︎︎ぽん、と肩に置かれた手に、ぐっと力が込められる。次の瞬間、尋常ではない圧力と痛みが左肩を襲った。

 

「あいたたたたたっ!」

「ほら、彩葉様が待っておられますよ。早く走ってエスコートなさい。これは命令です」

「わ、わかりましたぁ!!」

 

 ︎︎情けない声を上げながらも、俺は慌てて彩葉の背を追って駆け出す。

 

「何をノソノソ歩いてるん? はよ行こーや」

「分かったって」

 

 ︎︎短く返し、俺は足を速める。遊歩道を行き交う人影を縫うようにして進み、数歩でその背中に追いついた。隣に並ぶと、彩葉はちらりとこちらを見て、どこか満足げに口元を緩める。

 

 ︎︎ふと後ろを振り返れば、桜庭がすぐ後方を歩いていた。先ほどまでの柔らかな空気は影を潜め、その視線は鋭く周囲を射抜いている。不審な動きの一つでもあれば即座に反応するであろう、彼女特有の張り詰めた気配が、慣れた肌で分かる。

 

 

 

 ︎︎やがて水族館の正面へと差し掛かったところで、彩葉がふと足を止めた。

 

 ︎︎違和感に気づいたのだろう。

 ︎︎入口前に人影がない。公園全体はそれなりに賑わっているというのに、この一角だけが不自然なほど静まり返っている。列もなければ、足を止めて中を覗く者すらいない。

 

 ︎︎ただ一人、入口の脇に控えていた壮年の男が、こちらに気づくや否や、静かに頭を下げた。

 

「桜庭さん! こんにちは、先日ぶりですねぇ。今日も大変お日柄がよく……っと、そちらのお子様が例の?」

「ああ、そうだ」

「はっはっは。いやはや、これはとんだ無礼を。……初めまして、西ノ宮様。ワタクシ、当館の館長をやらせていただいております、鮫島です。何卒お見知り置きを」

 

 ︎︎どうやらこの男は単なるスタッフではなく、この水族館の館長らしい。桜庭とは面識があるようだが、その態度の矛先は明確に彩葉へ向けられている。俺は余計な口を挟まず、自然と一歩引いて彼女の傍らに控えた。

 

「初めまして、西ノ宮彩葉と申します。……桜庭さんとはお知り合いで?」

「知り合い、というには付き合いは浅いのですがね。まァ、外では大っぴらに話せんのですが、以前、命を助けてもらった事があるんです。そのご縁であなた方の事情は薄っぺらーく存じ上げております」

 

 ︎︎軽く肩を竦めて笑うその様子に、事情をどこまで理解しているのかは測りかねる。

 

「(なるほど……妖怪絡みね)」

 ︎︎

 ︎︎だが桜庭が何も言わないあたり、少なくとも大丈夫な人間なのだろう。彩葉もそれを感じたのか、特に深くは聞かずに相槌を打っていた。

 

「まあ話はさておき、どうぞお入りください。今日はあなた方の貸切ですのでね、存分に楽しんでくださいな」

「貸切なん?」

「ええ、閣下が手配を致しまして」

「いやぁ、音に聞こえしかの西ノ宮公に直接お電話を頂ける日が来るとは……天国の婆さんが知ったら仰天した勢いで生き返るかもしれませんわ」

 

──そう言って館長は朗らかに笑い、ささっ、と俺たちを中へ案内すした。

 ︎︎ドアが開くとまず、涼しい空気が頬を伝う汗を飛ばした。外の熱気が嘘のような、仄暗く静かな空間だ。

 

 ︎︎そしてまず目の前には京都の川を再現したという巨大な水槽が鎮座し、岩場の影には、この水族館の主とも言えるオオサンショウウオたちが、互いの体の上にのしかかるようにして静かに微睡んでいた。

 

「……岩かと思った」

 

 ︎︎彩葉が小さく零す。

 

「皆さんそう仰います。でも、よく見てください。たまに呼吸をしに、鼻先を水面にひょこっと出すんです」

 

 ︎︎水の流れる微かな音と、深い緑色を帯びた水槽の光が、静かに空間を満たしている。オオサンショウウオの水槽へと近寄った彩葉をちらりと見やれば、その口元は楽しげに緩み、瞳ははっきりと輝いていた。

 

「桜庭さん、こちら御人数分の館内の案内マップです。もう私は仕事があるんで戻りますが、何か用があれば近くのスタッフにお声かけしてくださいな。ああそれと、館内カフェの方なんですが、今日は奥の一店舗しか営業しておりませんのでね。お間違えないよう」

「助かる。……鮫島、他の者は控えさせてある。万が一の時は彼らの言うことに従え」

「ええ、ええ、分かってますよ。では、また」

 

 ︎︎背後でそんなやり取りが交わされる。足早に去っていく館長へ、桜庭と並んで軽く頭を下げると、向こうも気さくな笑みを返してきた。どこか飄々とした、だが悪意のない人間だ。素直に「気のいいおっさんだな」と思う。

 

「ねぇねえ、将吾くん。うち、オオサンショウウオ初めて見た。こんな大きいんやね」

 

 ︎︎彩葉の視線の先──薄暗い照明に照らされた岩組みの水槽の中では、何匹ものオオサンショウウオが折り重なるようにして沈んでいた。

 ︎︎ぱっと見は苔むした岩が無造作に積み上がっているだけにも見える。だが目を凝らせば、湿った濡羽色の肌がゆるやかに波打ち、小さな指を持つ前足が仲間の身体の上に無造作に投げ出されているのが分かる。

 

「な、写真でしか見たこと無かったけど」

 

 ︎︎前世で何度か見たことのある、まるでエイリアンの死骸のように無造作に転がるオオサンショウウオの写真。それと目の前の光景を重ねながら、俺は水槽の奥へと視線を向けた。

 

「生きてるんよね、この子ら?」

「そりゃ死体なんざ展示しないだろ」

 

 ︎︎水槽の脇に設置された説明文には、生息地や生態について簡潔に記されている。ここで初めて知ったが、こいつらは鴨川にも生息しているらしい。京都の川を再現したこのエリアには、確かにこれ以上ない展示対象だろう。

 

「将吾くん。あっちにオットセイが居るって。見に行こ!」

「あ、おい、引っ張るな……!」

 

 ︎︎桜庭から手渡された館内マップを見て、どうやら彩葉は次の目標を定めたらしい。やや高めのテンションのまま、彩葉は俺の着物の袖を掴んでぐいぐいと引っ張る。

 

 ︎︎そのまま薄暗いスロープを進んでいくと、先の方には明るい光が見えていた。遠くから、低く響く海獣の鳴き声が微かに届くと、俺の袖を掴む力が、さっきよりもわずかに強くなる。

 

 ︎︎一言くらい文句を言ってやろうかとも思ったが──隣で笑うその横顔が、あまりにも無邪気で、あまりにも楽しそうで。結局、俺の口は開かなかった。

 

「(まあ、いいか)」

 

 ︎︎今日くらいは、大人しく付き合ってやろう。

 ︎︎オオサンショウウオにしろ、これから見るであろう海獣にしろ、俺にとっても十分に珍しい光景ではあるし、そもそも、こんな調子の彩葉を見ること自体がそれら以上に珍しいことである。

 

 ︎︎小さく息を吐き出し、足取りを速める。

 ︎︎彩葉が勢い余って転ばないように、その歩幅に合わせながら、俺は隣を並んで進んだ。

 

 

 

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