乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話   作:ヤナギ

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EP27〈枷を外せば〉

 

 

 

 ︎︎エントランス、そしてオオサンショウウオなど京都の川を再現したエリアを抜けると、視界がふっと開けた。先ほどまでの薄暗さとは打って変わり、柔らかな光に満ちた空間が広がっている。さらに少し進むと、どこか隠れ家のような雰囲気を纏った装飾に囲まれた、コの字型の水槽が現れた。

 

 ︎︎その中を悠々と泳いでいるのはオットセイ。半屋外の構造になっているらしく、水槽の上部に張られたガラス越しに、明るい日差しが差し込んでいる。水面がきらきらと反射し、その光が壁面にゆらゆらと揺れていた。

 

「オットセイが泳いどるわ。きゃ〜、可愛らしいなあ」

 

 ︎︎普段はまず目にすることのない生き物を前にして、彩葉は無邪気に声を上げている。完全貸切だからこそ許されているが、もし一般客がいれば確実に視線を集めるだろう。それほどまでに、彼女は遠慮なく水槽へと身を寄せ、ガラスに張り付くようにして彼らの仕草を追っていた。

 

 ︎︎その隣で、俺はオットセイではなく彩葉の方を見ていた。

 

 ︎︎双眸は感情のままに輝き、目の前の光景を一つも取りこぼすまいとするかのように忙しなく動く。着物の裾がわずかに揺れるたびに、その肩も小さく上下し、全身で楽しさを表現しているのが分かる。そんな様子を眺めていると、自然と口元が緩んだ。

 

 ︎︎ここまで露骨に、しかも想像の外側で喜ばれるとは思っていなかった。

 ︎︎解釈違い、と切り捨てるほどではないが、少なくとも俺の頭の中にあった“上品に楽しむ彩葉”とは大きく異なる。

 

 ︎︎おそらく佐々木や公威ですら見たことがないであろう、完全に取り繕いのない姿。御三家の令嬢としての顔ではなく、ただ一人の少女として、目の前の光景を全力で楽しんでいる。

 

 ︎︎実際にこの場を整えたのは公威や桜庭たちだが、発案者としては、これ以上ない反応をもらっていると言っていい。誕生日祝いとしては、我ながら上出来だろう。

 

「ね、将吾くん将吾くん。水槽、上から見てみーひん?」

「おー、そうだな」

 

 ︎︎コの字型水槽の脇には階段が設けられており、上から内部を覗き込めるようになっている。彩葉は足取りも軽く、まるで踊るような調子でその階段を駆け上がっていく。その背中を追いながら、俺もゆっくりと後に続いた。

 

 ︎︎正直なところ、水族館そのものへの興味はそこまで強くない。だが、これだけ間近で楽しんでいる人間がいる中で、無粋な態度を取るほど子供でもない。

 

 ︎︎いや、正確に言えば──俺が見たいのは展示ではなく、彩葉の反応の方だった。

 

 ︎︎やけに高いテンションのままはしゃぐ彼女は、俺も同じようにオットセイを見て楽しんでいると思っているのだろう。だが実際には逆だ。俺にとっての見どころは、目の前の生き物ではなく、その生き物に心を動かしている彩葉の方にある。

 

「こっち見て〜!」

 

 ︎︎水槽を上から覗き込みながら、まるでアイドルに呼びかけるファンのような声を上げる。ぱたぱたと動かす扇子が、どこか応援うちわのように見えてくるのが妙に可笑しい。

 

「オットセイって食えんのかな」

「イヌイットの人が食べることもあるって、うち何かの本で見たことあるよ」

「へぇー」

 

 ︎︎真っ先に食の話をする辺り、自分でもどうかと思う。だが、そんな適当な一言にも、彩葉は嫌な顔ひとつせず、きちんとした知識で返してくる。我ながらロマンの欠片もないな、と内心で苦笑しつつ、ひとしきり見終えた彩葉が階段を降り始めたのを見て、再び後を追った。

 

 ︎︎コの字型水槽の下へ戻ると、すぐ隣には円柱型の水槽が設置されている。中では丸みを帯びた体躯のアザラシが、くるりと身を翻しながら軽やかに泳いでいた。

 

「アザラシってオットセイの色違いなだけじゃねぇの?」

「ちゃうよー? この子達、犬と猫くらい系統的には離れてるんよね。見た目が似てるだけやねん」

「詳しいなお前」

「ふふん」

 

 ︎︎どこか得意げに胸を張るその様子に、思わず笑ってしまう。知識を披露できるのが嬉しいのか、それとも単純に楽しいのか。どちらにせよ、その表情は変わらず明るかった。

 

「あ、こっち見とる」

 

 ︎︎アザラシがこちらに気付いたのか、ちょうど俺と彩葉の視線ほどの高さでぴたりと動きを止め、ガラスに顔を寄せていた。

 

「かわいい〜」

「……」

 

 ︎︎目が合う。アザラシの丸々とした黒い瞳からは何の感情も感じられない。しかし、その仕草には妙な愛嬌があった。ペチペチと腹を手で叩く様は、どこか間の抜けた中年男を思わせて、思わず見入ってしまう。

 

 ︎︎それが堪らなく可愛いのか、彩葉はガラスに直接触れない程度に距離を取りつつ、そっと手を重ねる仕草を見せた。

 

 ︎︎すると、アザラシもそれに応えるように、ガラス越しに手を重ねる。偶然にしては出来すぎた反応に、少しばかり感心しながらぼんやりと眺めていると、彩葉が興奮した様子で勢いよく振り返った。

 

「将吾くん将吾くん! うち、アザラシとハイタッチしちゃった!」

「ええなぁ」

 

 ︎︎適当にエセ京言葉で返すが、彼女は気にした素振りもなく、ただ嬉しそうに笑みを浮かべている。改めて、本当に楽しそうだと思う。

 

 ︎︎俺は手元のフロアマップに目を落とし、近くにある展示へと視線を走らせた。

 

「彩葉、あっちの方にはペンギンが居るってよ」

「ペンギン?」

「うん」

「ええね、行こか! ほなな〜、アザラシさん」

 

 ︎︎バイバイ、と彼女は水槽に向かって手を振る。それはもう満面の笑みで、であった。ここまで来ると、もはや茶々を入れる気にもならず、俺は黙ってその隣を歩く。

 

 ︎︎そんなアザラシたちのいた明るい半屋外の空間から一転、俺たちはペンギンの洞窟という名の暗い通路へと足を踏み入れた。ひんやりとした空気が肌を撫で、壁面のガラス水槽はそのまま天井へと滑らかに繋がっている。

 

 ︎︎頭上を弾丸のような速度で泳ぎ去っていくのは、壁のパネルによればケープペンギンという種類らしい。

 

 ︎︎そういえば前世だと、確かここの水族館には彼らの相関図のようなものがあったはずだが──と、泳ぐペンギンを目で追う彩葉の横顔を見ながら、ふと思い出す。

 

「(世界も違けりゃ、年代も違うとなりゃ、そりゃないもんか)」

 

 ︎︎しかし生憎と、辺りにそれらしい展示は見当たらない。少しばかり肩透かしを食らったような気分になる。京都の名所といえば清水寺や稲荷大社程度しか思い浮かばない自分にとって、この水族館は前世も含めて初見同然だ。

 

 ︎︎ただ、ネットで話題になっていた曖昧な記憶だけが残っている。だからこそ、無意識のうちに前世との繋がりを探していたのかもしれないが──相関図ひとつ無い程度で落胆するほどでもない、と意識を切り替えた。

 

「このペンギン水槽、二階まで繋がってるみたいやね」

「へぇー……んじゃ、上行くか? この先に大水槽ってのがあるみたいだけど」

「ううん、ゆっくり行こ。はしゃぎ疲れたわ」

 

 ︎︎流石に先程の海獣エリアではしゃぎ過ぎたのか、彩葉は落ち着いた様子でペンギンを眺めている。とはいえ、その赤い瞳はしっかりと彼らを追い続けていた。体力というよりは、気疲れしたのだろう。

 

「”きゃー、可愛ええ可愛ええ!”ってもう十数回は聞いたぜ。まだ入ってから一時間も経ってねぇのに、飛ばし過ぎだわ」

「でも、そう言っとるうちも可愛ええやろ? ほら、おひねり頂戴な」

「……ほらよ」

「毎度〜」

 

 ︎︎ニヤリと笑いながら差し出された手を、ぶっきらぼうに軽く叩く。金を払ったわけでもないのに、何故か損をしたような気分になるのが不思議だ。

 

「……」

「……」

 

 ︎︎二人並んでペンギンを見上げる。会話はなく、ただ静かな水の音と、仄暗い光の中で揺れる影だけがそこにあった。

 

「あ……」

 

 ︎︎ふと、彩葉が小さく呟く。

 ︎︎泳いでいたペンギンが、こちらを見ながら速度を落とし、俺たちの前を漂うように横切っていった。

 

 ︎︎先ほどのアザラシといい、もしや彼女は動物に好かれる体質なのかもしれない。本人は動物との直接の触れ合いは嫌いなくせして、変なこともあるものだ。

 ︎︎……もっとも、このペンギンやらに関してはただの気まぐれだろうが、それでも彩葉は嬉しそうにその姿を追っていた。

 

「……大水槽、行くか」

「うん」

 

 ︎︎暗がりに慣れた目で先へ進むと、やがて視界が一気に開ける。

 ︎︎一階から二階までを貫くという巨大な水槽が、正面に堂々と鎮座していた。

 

 ︎︎底の方ではエイが砂を舞い上げるようにゆっくりと滑り、サメが鋭い歯を覗かせながら横切る。群れを成すマイワシは、規則性のある不思議な動きで、水槽全体を一つの生き物のように見せていた。

 

「大きいね〜」

「なー」

 

 ︎︎可愛らしいというより、純粋な好奇心が勝っているらしい。彩葉はさらに近づき、水槽の奥を覗き込む。

 ︎︎静寂に包まれた空間に広がる、京都の海の再現。淡い光に照らされた彩葉の背を眺めながら、俺はふと周囲へ視線を巡らせた。

 

 ︎︎館内は貸切。客の姿は他になく、スタッフも見当たらない。柱の陰に一瞬見えた人影は、おそらく桜庭の部下だろう。

 

 ︎︎では当の本人はどこへ──そう思った瞬間、肩を軽く叩かれた。

 

「!……なんだ、ビックリさせないで下さいよ。ずっと後ろにいたんですか。てっきり、どこかへ行かれたのかと」

「いえ、ずっと後ろで様子を見ておりましたよ。そろそろ君も私の気配くらい読めるようになってください……まあ、それはさておき──」

 

 ︎︎無茶を言うな、と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。意図的に気配を消している桜庭など、もはや無機物と変わらない。人間の本能を刺激する様な妖気ほど分かりやすいならともかく、まさに明鏡止水な彼女なぞ、俺如きが察知できるはずもないだろう。

 

「──彩葉様、お楽しみ中のところ、御無礼致します」

「あら、桜庭さん。どうかしはったん?」

 

 ︎︎彩葉が振り返る。

 ︎︎扇子を軽く仰ぎながら、水槽からこちらへ歩み寄ってきた。

 

「ご報告がございます。つい今程、護國衆本部から私宛に連絡がありまして……どうやら私はここまでのようです。代わりに、事前に館内へ配置させている京都一班──私の部下が数名、彩葉様の警護に当たりますので、何卒ご容赦を」

 

 ︎︎膝をつき、桜庭は頭を垂れる。

 ︎︎俺たちのために無理を通して時間を作ったはずの彼女が、途中でこの場を離れる。つまるところ、桜庭を呼び寄せる必要に駆られるほどの緊急事態が、つい先ほど起きたということだ。

 

 ︎︎その事を察し、途端に不安に駆られる。しかし桜庭の様子はいつも通り変わりなく、むしろ長い日を共に過ごしてきたからこそ分かる、その微細な表情の変化からして──シンプルに面倒くさい、という感情がありありと伝わってくる。

 

 ︎︎であるならば、問題は無いのかもしれない。

 ︎︎桜庭が本気を出す程でも、焦るほどでもない案件。しかし護國衆本部からすると、そんな桜庭を必要とする類の、か。もしも本当に緊急事態ならば、彩葉への報告など事後や他の部下に任せて一目散に跳んでいるだろう。

 

「うちらはどうした方がええ? 佐々木……はあかんか、他の人屋敷から呼んで帰ろか?」

 

 ︎︎その推察は当たっていたようで、そんな彩葉の言葉に、桜庭は小さく首を横に振った。わずかな所作ではあるが、その動きには既に結論が含まれている。

 

「ご配慮痛み入ります。しかし、どうかこのままご満足頂けるまで館内にご滞在ください。京都府内に現在、妖怪は確認されておりませんので、そちらに関してはご安心を。私はこれより、滋賀へと征って参ります故」

「なら、ええか。……緊急の任務なんやろ? うちに気にせんと、はよぉ行ってくださいな」

「はっ」

 

 ︎︎音もなく、その場から消える。

 ︎︎俺が瞬きをした刹那の間に、彼女という存在は、空気のわずかな揺らぎだけを残して、どこかへ消え去っていた。館内に風は吹いていないのに、彼女が跳んだその風圧が突風となり、俺たちの着物を揺らしたのだ。

 

「……はっや」

 

 ︎︎思わず漏れた声は、半ば呆れ、半ば感嘆に近いものだった。

 ︎︎あの忍者のような動き、俺も一度でいいから体感してみたい。あれほどの速度で世界がどう見えるのか、純粋に興味が湧く。

 

 ︎︎そんな思いが形になって零れた言葉に、彩葉はくすりと笑みをこぼした。

 

「相変わらず、化け物じみた身体能力してはるわ。こっから滋賀まで、だいぶ距離あるけど……あの人なら数分でついても、もう驚かへんね。ほんま、思わず人間か疑ってまうわ」

「まあ、な。でもあの人が仮に妖怪だったら、とっくの昔に日本は妖怪の天下になってただろうよ」

 

 ︎桜庭朱里ほどの武に愛された人間が、仮に妖怪として生まれ落ちていたなら──間違いなく、日本という国家は統治の形を保てなくなる。現時点の彼女ですら、単独で市ヶ谷や霞ヶ関を瞬時に制圧しなねない力を持つ。それが妖怪という人外の枠に収まったならば、もはや災厄と呼ぶほかない。

 ︎︎

 ︎︎しかし、そんな仮定は捨ておくにしても、彼女が目的のために手段を選ばぬような悪人ではないことは、俺を含めた誰もが知っている。故に神祇瑞光院は、その隔絶した力に全幅の信頼を寄せているのである。

 

 ︎とはいえ、だ。

 ︎︎原作アンブロークン・リネージュ。

 ︎︎0と1の論理演算が積み上げられた虚構の箱庭であるはずの世界の中で、俺は物理的で確かな現実を生きている。

 ︎︎だからこそ余計に、彼女と接する時に感じる存在とプレッシャーだけは、前世のゲームクリエイター達が用意した”最強”という定義すら生ぬるく感じていた。

 ︎

 ︎︎閑話休題。

 ︎︎桜庭の瞬間移動さながらの離脱を目撃して、呆れ半分興味半分でその場を見続けていた彩葉は、気を取り戻したのか、こほん、と息をついた。

 

「……さて、桜庭さんは居なくなっちゃったけど……どうする?」

「なんだ彩葉、もう魚には飽きたのか?」

「いんや、まだ見たいのあるよ? 目の前のこれも、もう少し見てたいなぁ」

「じゃあ見ようぜ。せっかくの誕生日なんだ、今日くらいは自由に過ごしたって誰も咎めやしねぇさ」

 

 ︎︎桜庭の姿が消えてから、ほんの数拍遅れて、視界の端にスーツ姿の女性が映り込んだ。立ち位置はやや遠巻きだが、こちらを確実に捉えている。おそらく桜庭の部下だろう。

 ︎︎あえてこちらに認識できる位置に出てきたのは、距離を詰めたという合図に違いない。桜庭の言葉どおりなら、他にも数名が周囲に潜み、目に見えない網のように警戒線を張っているはずだ。

 

 ︎︎桜庭個人の強さばかりに意識が向きがちだが、一番隊という集団そのものもまた常軌を逸している。あそこに立っている彼女とて、俺など正面からやり合えば一瞬でねじ伏せられるだろう。

 ︎︎絶対的な武がひとつ消えたところで、守りの密度が落ちた感覚はない。むしろ数による均衡で、別種の安心感が保たれている。

 

「……フカヒレ食いたい」

「あら、情緒もへったくれもないこと。あんなに勇ましく泳いでる姿を見て、真っ先に献立が浮かぶなんて。将吾くんには、あの綺麗な水槽が大きな生け簀にでも見えてはるん?」

 

 ︎︎目の前を悠然と泳ぐサメ。その流線型の身体と鋭い眼差しを眺めているうちに、つい本音が口をついて出た。

 ︎︎それに対して、彩葉は呆れたように眉を下げつつも、どこか楽しげに扇子で口元を隠す。

 ︎︎”食いしん坊さんやねぇ”とでも言いたげな視線を向けられ、俺はわずかな気まずさに耐えきれず、ふいと視線を逸らした。

 

 

 

■■■

 

 

 ︎︎大水槽を一通り堪能し、その脇に設けられた外へ通じる扉を押し開けると、そこには二階フロアへと続く緩やかなスロープが伸びていた。

 ︎︎館内のひんやりとした空気とは打って変わって、7月末の熱気が容赦なく押し寄せてくる。肌にまとわりつく湿った空気が、着物の裏側にじわりと染み込み、背中にうっすらと汗をにじませた。

 

「うぇ、外あっついなぁ……おい彩葉、俺にもその扇子貸してくれよ」

 

 ︎胸元を軽くはだけるようにして風を送り込みながら、俺はスロープを上がっていく。隣を歩く彩葉は、そんな暑さの中でも表情を崩さず、扇子を優雅に仰いでいた。暑さを感じていないはずはないのに、その所作には余裕すら感じられる。

 ︎︎この前買った安物の団扇でも持ってくればよかったかと後悔しつつ、彩葉の手元を指差す。

 

「これ?……嫌や、あんた壊しそうやもん」

「なんだ、俺がお前のモノ壊すような人間に見えるってのか?」

「いんや、これ、煤竹の細工骨に一枚ずつ手漉きの和紙を充てた特注品やねん。あんたがガサツに仰いだら、繊細な中差しがポキッと折れてまうわ。将吾くんの小遣い何年分やろなぁ、修理代」

「うっす、ナマ言ってすいませんでした」

 

 ︎夏場に持ち出している普段使いの扇子が、そんな代物だとは思いもしなかった。即座に頭を下げ、話題を変えるように視線を前へと逃がす。

 

「あ、ペンギンの水槽、ここに繋がってんのな」

「ん、ほんまや……かわいい〜!」

 

 ︎︎スロープの脇に設けられたガラス越しに、先ほど洞窟エリアで見たのと同じケープペンギンが、岩場に立って羽を休めているのが見える。

 ︎︎水中とは異なり、重力に従ってどっしりと立つその姿に、彩葉は思わず身を乗り出しかけたが──どうやら今回は、可愛さよりも暑さが勝ったらしい。

 

 ︎︎名残惜しそうに軽く手を振るだけに留め、涼しげなペンギンたちを横目に、俺たちはスロープを上りきって二階へと入った。

 

 ︎︎二階に上がると、左手には吹き抜けの空間が広がり、先ほど一階から見上げていた大水槽の上部が視界いっぱいに現れる。

 ︎︎マイワシの群れが銀の渦を描き、エイが静かに滑るように水中を舞う。その光景を今度は俯瞰で眺める形になり、同じ水槽でありながら印象はまるで別物に感じられた。

 

 ︎︎さらに通路を進むと、柔らかな光に包まれた空間へと足を踏み入れる。どうやらこの一帯はクラゲを中心とした展示らしい。

 ︎︎半透明の傘がゆらゆらと漂う水槽が並び、淡い青や桃色の照明が壁や床に反射して、どこか現実感の薄い幻想的な景色を作り出していた。

 

「そういや、お前クラゲが好きとか言ってたな」

「……ああ、そんなんも話したっけ。よお覚えてはるなぁ、あんな何気ない会話」

「“ぷかぷか浮いてるの好きやねーん”って、な」

「馬鹿にしとる?……まあええわ。でも、実際見ると不思議やねぇ、足生えたキノコみたいなのが動いてるの。可愛いけど」

「でもこいつらに刺されるとクソ痛いぞ」

「なんや、刺されたことあるん?」

「……あー、昔な。ちょー昔」

 

 ︎︎クラゲを見て、不意に前世の記憶が蘇る。確か中学生の頃、校外学習で海辺の宿泊施設に泊まったときだったか。

 ︎︎友人たちと波打ち際ではしゃいでいる最中、小さなクラゲを踏みつけてしまい、絡みついた触手に焼けるような痛みを味わった──そんな断片的な記憶だ。

 ︎︎今となっては笑い話だが、その時の痛みだけは妙に鮮明に残っている。深く突っ込まれても困るため、話は適当に濁しておいた。

 

 ︎︎それはさておき、俺たちはひとつひとつの水槽を巡りながら、他愛もない会話を続ける。

 ︎︎以前、何気なく口にしていた「クラゲが好き」という言葉は、どうやら本心だったらしいが、ペンギンやアザラシほどのはしゃぎようはない。興味深げに観察しながら、時折「はー……」と感嘆の息を漏らしていた。好き、といっても知的好奇心の方が強いようだ。

 

 ︎そしてどうやらこのエリアはクラゲが主役のようだが、他にも小型の生き物たちが点在している。水槽もそれに合わせたこぢんまりとしたものが多かった。

 

 ︎︎彩葉と並んでそれらを眺めていると、不意に彼女が一つの水槽の前で足を止めた。また何か見つけたのか、と視線の先を追えば──なるほど、と自然に納得がいく。

 

 ︎︎砂の底から、ひょこりと顔を出す白い細長い生き物。魚というより、斑点のついた紐のような奇妙な姿だ。

 ︎︎円らな瞳と、わずかに開いた口。そのどこか間の抜けた表情と、無機質な砂地の中でゆらゆら揺れる様子が、妙に目を引く。

 

「あ、チンアナゴやん!」

「うっさ」

 

 ︎︎本日一番の音量だった。アザラシやオットセイのときとは比べ物にならないほどの反応である。

 ︎︎クラゲやイルカのときにはどちらかといえば観察寄りだった彩葉が、今は目に星でも浮かべたかのように、きらきらとした表情でチンアナゴに見入っている。

 

「……」

 

 ︎︎つられて俺も水槽を覗き込む。

 ︎︎何も考えていなさそうなその顔つきに、何故かほんの少しだけ苛立ちが湧いた。

 

「可愛い……」

「これのどこが好きなんだ? ……ああいや、別に煽ってる訳じゃなくて。シンプルに」

「顔」

 

 ︎︎即答だった。

 ︎︎正直、その感性にはいまいち共感できないが、本人が満足しているならそれでいいのだろう。

 

「チンアナゴが一番好きかもなあ」

「へぇ……クラゲとイルカは?」

「二番と三番」

「ほーん……」

 

 ︎︎順位付けまで済んでいるあたり、本気度が窺えた。

 ︎︎動物嫌いの彩葉といえど、ガラス一枚を隔てれば、生き物を愛でる気持ちくらいは芽生えるらしい。

 

「チンアナゴねぇ……」

 

 ︎︎着物の裾に手を突っ込み、腕を組む。

 ︎︎この、やけに腹立つ顔をした不思議な生き物に、何をそこまで惹かれているのかはいまいち理解し難い。だが、だからといって、誰かの好きなものをわざわざ否定して水を差すほど、デリカシーの無い人間でもなかった。

 

 ︎︎砂地からぴょこぴょこと顔を出すチンアナゴたちは、流れに合わせて身体を揺らしている。時折、隣同士でぶつかりそうになっては引っ込み、また恐る恐る顔を出す様子は、確かに妙な愛嬌があるような気もする。

 

 ︎︎彩葉はそんな彼らを飽きもせず眺めていたが、やがて満足したのか、小さく息を吐いて水槽から離れる。

 

「少し休憩するか。歩きっぱなしだし」

「ええけど……どこで?」

「あっちの方にイルカショーのスタジアムがあるっぽい。今日はショーはやらないらしいけど、近くの店は開いてるから、そこで飲み物買って、席に座って休憩しようぜ。暑いだろうけど、まあ冷えた飲み物ありゃ大丈夫だろ」

「なるほどね。ええよ、喉も渇いとるし」

 

 ︎︎貸切とはいえ、館内全体が完全稼働している訳ではない。水族館側にも都合があるのだろう。むしろ、一般客が居ないだけ有難いくらいだ。静かに展示を見て回れるし、彩葉が多少騒いでも人目を気にする必要もない。

 

 ︎︎せっかく水族館に来たのだから、イルカショーくらいは見てみたかった気持ちもある。だが、たった二人の小学生のためだけにショーを行うとなれば、流石に向こうも気乗りしないだろう。

 

 ︎︎とはいえ、前日に聞いた話では、観覧席そのものは開放されているらしい。外なので暑さはあるだろうが、日陰に入れば多少はマシなはずだ。

 

 ︎︎そうして俺たちはクラゲエリアを抜け、さらに通路を進んだ。

 

 ︎︎少し明るくなった空間には、色鮮やかな熱帯魚などの水槽が並んでいる。クマノミが岩陰を忙しなく泳ぎ回る姿を横目に、彩葉が「あの映画とそっくり」と無邪気に笑っていた。

 

 ︎︎やがて自動扉を抜けると、空気が僅かに変わる。館内の冷えた空気に、七月末特有の熱気が混じり始めた。通路の先がぱっと開け、視界が広がる。そこがスタジアムだった。

 

 ︎︎すり鉢状の観覧席が広がる開放的な空間。ステージ側の大きなプールでは、ハンドウイルカたちがゆったりと泳いでいる。

 

 ︎︎その向こう側には梅小路公園の緑が広がり、更に遥か奥には東寺の五重塔が、夏空を背負うようにくっきりと浮かび上がっていた。容赦なく照りつける陽射しは暑かったが、そのぶん開放感も強い。

 

「お、五重塔」

「こっから見えるんやねぇ……将吾くんはあそこ行ったことあったっけ?」

「さあ、行ったような行かなかったような?……まあでも、京都って感じの景色だなぁ」

「珍しくも何とも無いわ」

「そりゃ、お前にとっては見慣れてるだろうけどさ。俺はまだ全然、教科書以外でこの街のこと知らないんだぜ。なにせ、ずっと屋敷と学校を行き来してるだけだからな」

「別にそれでええやんか、うちの顔毎日見れるんやから」

「はいはい……で、何買う?」

 

 ︎︎近くの軽食スタンド──スタジアムカフェの方へ視線を移すと、夏らしい色鮮やかな冷たいドリンクがいくつも並んでいた。

 

 ︎︎青いソーダに白いアイスが浮かんだもの。フルーツシロップをたっぷり掛けたかき氷。シンプルに冷えたアイスコーヒー。どれも、いかにも夏休みのレジャー施設らしい見た目をしている。

 

「いらっしゃいませー!」

 

 ︎︎京訛りの店員のお姉さんが、笑顔で俺たちを出迎えた。

 ︎︎こんな、水族館を貸し切りにするような得体の知れない小学生相手によく普段通り接客できるな、と妙なところで感心しつつ、メニュー表を眺める。

 

「アイスコーヒーひとつ」

「かしこまりました!」

「お前は?」

「……んー、イチゴシロップのかき氷と、サイダーで」

「以上でよろしいですか?」

「はい、お願いします」

「では、少々お待ちください」

 

 ︎︎今朝、佐々木から飲食代にと渡されたクレジットカードで支払いを済ませる。カフェの壁に寄りかかりながら、店員のお姉さんがテキパキと動く様子をぼんやり眺める。

 

 ︎︎そういえば俺も、高校生の頃はこんな感じのバイトをしていたことがあったっけ──と、彼女を見て不意に懐かしくなった。

 ︎︎接客業に特別良い思い出がある訳ではない。理不尽な客も居たし、忙しい時間帯は地獄みたいだった。それでも、今となっては貴重な経験だったとは思う。

 

「そういや、お前ってなんかしたい事とかないのか」

「どしたん、藪から棒に」

「いや、ほら、もしもの話だよ。このままいきゃ、西ノ宮の当主サマになるのはお前だろうけどさ。もし普通に一般人やってたら、こういう仕事してみたいなー、とか。学校でもあったろ、将来の夢的な授業」

 

 ︎︎高校時代のバイト経験は、今となっては直接役立っている訳ではない。

 ︎︎飲食店での接客と、西ノ宮家で求められる振る舞いは、同じ“丁寧さ”でも中身がまるで違う。所作も言葉遣いも、比べものにならないほど面倒だ。

 

 ︎︎それでも、大学生になってからは、その経験を活かして色んなバイトをやった。そういう意味では決して無駄ではなかったのだろう。実際、卒業後に正社員にならないかと誘われたことだって何度かある。

 

 ︎︎そんな、もはや曖昧になりつつある前世の記憶を辿りながら、ふと気になったのは彩葉だった。

 

 ︎︎勉学に秀で、舞踊を嗜み、立ち居振る舞いも洗練されている。まさしく名家の令嬢、といった人間。だが、原作で描かれていた彼女は、そういう側面が驚くほど薄かった。

 

 ︎︎思い浮かぶのは、取り巻きに囲まれ、高飛車に振る舞う姿ばかりだ。井の中の蛙というか、猿山の大将というか。少なくとも“普通の少女”としての彩葉は、ほとんど描写されていなかった。

 

 ︎︎けれど、今こうして隣にいる彼女が、本当にあの原作と同じ存在なのだとしたら。もしも西ノ宮家なんてしがらみが無かったなら。もしも、普通の人生を歩めていたなら。

 

 ︎︎そんな“if”の未来に、彼女自身が何を夢見ていたのかを、少しだけ聞いてみたかったのだが──。

 

「あぁ……いや、考えたことないなぁ。そういう授業も適当に書いてたし。確か、沙耶香は真面目に答えてたけど」

「あいつはなんて?」

「ファッションデザイナー」

「意外って程でもねぇな」

 

 ︎︎そういうものが好きそうな女の子、というイメージがある。

 ︎︎もっとも、原作での彼女は清楚感のあるお淑やかな少女として描かれていたが、今はまだ小学生である。年相応に子供っぽい一面も強い。

 

 ︎︎以前、自由帳の端に色々な服のデザインを描いているのを、ちらりと見かけたこともあった。フリルだのリボンだの、女児向け雑誌に載っていそうな衣装が所狭しと並んでいて、なるほど確かに、そういう方面に興味があるのだろうと思った記憶がある。

 

 ︎︎だからこそ、ファッションデザイナーという夢には妙な納得感があった。

 

「で、彩葉は?」

「……お嫁さん?」

「ふっ」

「何処に笑う要素あんねん」

 

 ︎︎鼻で笑った瞬間、脛を軽く蹴られた。

 ︎︎地味に痛い。

 

「いや、だってお前、その辺の小学生みたいなこと言うから……」

「うち小学生やけど」

「それはそう」

 

 ︎︎ぐぅの音も出ない正論である。

 ︎︎というか、普段の彩葉が妙に達観したような物言いをするせいで忘れがちだが、こいつはまだ十歳そこそこの少女だった。そりゃ“お嫁さんになりたい”くらい言う年頃でもある。

 ︎︎まあ、よりにもよって西ノ宮家の令嬢が口にすると、現実味や重みが変な方向に増して聞こえるのだが。

 

「まあでも真面目に答えんなら、農家さんかなぁ」

「農家ぁ!? お前が!?」

「うん」

 

 ︎︎開いた口が塞がらない、とはまさにこの事だった。

 ︎︎あまりにも予想外すぎる答えに、俺は暫し唖然とする。

 

 ︎︎農家と西ノ宮彩葉。

 ︎︎その、あまりにも結び付きそうにない二つの単語が、頭の中で上手く噛み合わない。

 

 ︎︎田んぼに立つ彩葉を想像してみる。袖を捲り、土に汚れながら鍬を握る姿──いいや、無理だった。

 

 ︎︎絶対に似合わないという訳ではない。むしろ、普段の和装も相まって妙に絵にはなりそうだ。問題は、彼女の普段の言動や立場との落差が激しすぎることにある。

 

「……なんで農家?」

 

 ︎︎思わず、率直な疑問が口から零れた。

 

「自分が汗水流して作った野菜が、どこかの食卓に並ぶわけやろ? もう、そんだけで滅茶苦茶やり甲斐ありそうやん。ま、温室育ちのうちなんかには想像もつかへんくらい、大変で立派な仕事やし。天地がひっくり返っても、一生やる事ないやろうけどね」

「う、ぅっ……お前がまさかそんな立派な子だったなんて……お兄さん泣いちゃいそう」

「あんた同い歳やろ」

 

 ︎︎我儘なちびっ子怪獣の口から出たとは思えない言葉に、思わず目元を押さえて涙を堪える。

 

 ︎︎もしも子供がいたら、親というのはこんな気持ちになるのだろうか。彩葉とは既に一年近く一緒に暮らしてきたが、こんなにも“健やかに育ってくれて……”みたいな感情を抱いたのは初めてかもしれない。

 ︎︎普段は好き勝手に振り回されてばかりだというのに、不意打ちみたいにこういう価値観を見せられると、どうにも調子が狂う。

 

「あのー……」

 

 ︎︎不意に掛けられた声で、ハッと現実に引き戻された。

 

「あら、すんません。……ほら、将吾くん! あんたのコーヒー出来たで。やからいい加減、その腹立つ顔やめぇや」

「ありがとうございます! ……何してんだ彩葉、早く座るぞ」

 

 ︎︎苦笑いを浮かべた店員のお姉さんから、素早くアイスコーヒーを受け取る。このままだと完全に不審者を見る目になりそうだったので、踵を返しつつ、日陰になっている観覧席を指差して彩葉を急かした。

 

「えらい機敏に動きはるなあ……さっきの涙、もう乾いたん? あんたの感動って、随分とお手軽にできてんねんなぁ。付き人終わったら大根役者に転職したらどうや?」

 

 ︎︎背後から物騒な声色の言葉が聞こえたが、気のせいだということにして無視した。

 

 





超難産でした。というのも私自身、京都水族館にこれまで一度も行ったことない上、このシーン自体の年代が2015年なので、今とは若干内装が異なるらしく……。
2015年前後の個人ブログを読み漁りつつ、ようつべの現在の動画やホームページの情報と合わせて補完した形です。なので順路とか景色とかおかしかったりすると思いますが、暖かい目で見なかったことにしてください。

水族館回、次回で終わりますのでもう暫しお付き合いを……。
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