乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話   作:ヤナギ

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サブタイトル、途中から数字だけにしていたのですが。
「どんな感じだっけ?」と見返している時にどのエピソードなのか全然わからなかったので、元の形式に戻しました。

とはいえ、以前のサブタイトルがどんなのだったか殆ど忘れてしまったので、頑張って捻出して付けてます。なのでクオリティはお察し。




EP29〈始乱〉

 

 

 

 

 ︎︎天の香具山を背にした大和の地を離れ、天智天皇によってこの琵琶湖畔に築き上げられた大津京──現在は滋賀県の県庁所在地が置かれた大津市は、紛れもなく日本の古都の一つであり、国史の一頁を飾った重要な土地であった。

 

 ︎︎そんな街の郊外。人工的に造成された高台の上、琵琶湖を広く見渡せる一等地に、大きな洋館が建っていた。

 ︎︎敷地と道路を隔てる重厚な鉄門の向こうには、丁寧に刈り込まれた芝生と石畳のアプローチが広がり、その先に佇むのはスパニッシュ様式の豪奢な邸宅。

 ︎︎日本らしさは微塵も感じられないが、されどその建築美には、単なる成金趣味とは異なる悠然たる風格があった。

 

「──これは随分と、酷い有様だな」

 

 ︎︎その雅な邸宅へ踏み入った桜庭は、眼前に広がる光景を見て、思わずそう零した。

 

 ︎︎正面玄関口──本来ならば来客を出迎えるはずの広いホールは、豪奢なシャンデリアと色鮮やかなステンドグラスによって飾られている。しかし今、その空間を支配しているのは華美な装飾ではなく、濃密な死の気配だった。

 

 ︎︎赤い絨毯に染み込み、大理石の白い床へ飛び散った鮮血。目の光を失った五人の男が、折り重なるように倒れ伏している。誰もが微動だにせず、室内には血の臭いだけが重く漂っていた。

 

 ︎︎死体と、スプラッタ映画もかくやと言わんばかりの惨状。

 ︎︎だが、それを前にしても桜庭の表情は一切揺らがない。僅かに鼻を鳴らした彼女は、首元の無線機へ手を添えた。

 

「……到着した。が、潜入したエージェントは死んでいる。館内に妖気は感じられない。人の気配もないようだ」

『クソ、先を越されたか……! ヤツめ、妖怪の用心棒でも雇っていたのか?』

「推理は後にしろ。そもそも、どうなっている? なぜ潜影部が此処に居る」

 

 ︎︎無線の向こうに居るのは、局長の御手洗だった。

 ︎︎悔しさを滲ませる彼とは対照的に、桜庭の声音はどこまでも冷静である。ただ事実を確認し、必要な情報を引き出そうとしていた。

 

 ︎︎そもそも、桜庭は本来ここに居るはずではなかった。

 

 ︎︎今日は久方ぶりの休日。しかも彩葉の誕生日ということもあり、彼女は水族館で将吾と彩葉の警護を行う予定だった。楽しそうに歩き回る二人を、少し離れた位置から微笑ましく眺めていたところへ、京都班と共有している無線チャンネルに御手洗のやかましい声が割り込んできたのである。

 

 ︎︎この洋館の所在地、そして緊急性の高さ。

 ︎︎それだけを一方的に告げ、慌ただしく通信を切った御手洗に半ば呆れながらも、桜庭は京都の水族館から一気に滋賀まで跳んできた。

 ︎︎しかし現場へ到着してみれば、妖怪の姿はない。あるのは人間の死体だけ。しかも、先ほどようやく繋がった御手洗の説明によれば、死体は他ならぬ潜影部のエージェント達のものだという。

 ︎︎いよいよもって、状況が見えない。

 

『昨日、キミに言った私の考察は忘れたのか』

「ん? ……ああ、例の……」

『彩葉様の襲撃を画策し、梅田でのテロ計画を支援していたスポンサー。その容疑者の私邸が、今キミの居るところだよ、桜庭』

「ほう。やはり政治家一族ともなれば、これほどの邸宅くらいは持っていておかしくはないか」

『やはり私の考察は正しかったらしい。潜影部の連中も同様の結論に至ったのだろう。彼を容疑者として拘束する腹積もりだったようだが……結果は見ての通りさ』

 

 ︎︎疲れたような溜息が、無線越しに漏れ聞こえた。

 

「大人しく我々へ事前に要請していれば済んだものを」

『全くもってその通りだ。……通報をしたのは、その洋館の付近で待機していた別チームらしい。妖気を察知したのと、中へ入ったエージェント達との連絡が途絶えたものだから、慌てて逃げおおせたのだと』

 

 ︎︎久しく見なかった彼らの失態。御三家の駒として、あるいは組織の暗部として、護國衆による妖怪退治を円滑に進めるための土壌を整えてきた潜影部に対し、桜庭は一人の隊長として一定の感謝を抱いている。

 ︎︎だがその一方で、秘密主義が故の危険な独断専行には、以前から危惧も抱いていた。それが結局、こうした事態を招いている。

 

 ︎︎とはいえ、倒れた死体の有様を見る限り、まさか元大臣ともあろう人物の生家に妖怪が潜んでいるとは、彼らも予想していなかったのだろう。

 

 ︎︎抵抗する間もなく殺害されたことは、ホルスターに収まったままの拳銃を見れば明らかだった。

 ︎︎職務柄、妖怪との直接戦闘を行う機会こそ少ないが、対人戦闘に関しては護國衆の一般隊員にも劣らない技量を持つ彼らが、こうも無抵抗な死に顔を晒すとは思えない。

 

「……これでは、京都に戻るのはまだ先になりそうだな」

 

 ︎︎基本的に桜庭は公私混同をしないタイプだが、しかしそれでも、頭の片隅にちらつくのは将吾と彩葉のことだった。

 ︎︎彩葉の誕生日を祝おうとする将吾に協力し、渋る公威を説得したのは桜庭自身である。つい先程まで、水族館で楽しそうに過ごしていた二人の姿を見ていたからこそ、この凄惨な現場との落差が、余計に神経を逆撫でした。

 

 ︎︎余計なことをしやがって。

 ︎︎顔にも口にも出さないが、そんな苛立ちが胸中を占める。

 ︎︎無論、それは任務を遂行して殉職した彼らエージェント達へ向けたものではない。近畿を担当する一番隊へ連絡も寄越さず、独断で容疑者拘束に踏み切った潜影部自体への不満だった。

 

「それで?」

『遺体はそのまま潜影部に任せておけばいい。キミは容疑者の追跡だ。付近にエージェント達を殺害した妖怪が居る可能性もあるが、妖怪も重要な証拠だ。生かして捕らえろ。後の通信は調整局に移行する』

「この傷を見る限り、明らかに武器を使っているな。擬態型なのは間違いない、か……了解した」

 

 ため息ひとつ。桜庭は御手洗との通信を終えると、一番隊滋賀班に割り当てられたチャンネルへ声を飛ばした。

 

「桜庭だ。滋賀班各員に緊急任務を通達する。本日二十七日午前十一時二十三分。西ノ宮家及び梅田における一連の妖怪事件に関与していると思われる、民政党の加納正孝氏が私邸から逃亡。身柄拘束の為に潜入した潜影部エージェント五名が殺害されている。なお、本件については擬態型妖怪の存在が強く疑われる。警戒し、速やかに捜索しろ。対象は両名とも生け捕りだ」

 

 ”了解!”と、滋賀班の隊員たちから異口同音に返事が返ってくる。簡潔に命令を伝えると、桜庭は無線を閉じた。そしてしばしの間、転がる遺体を眺めながら呟く。

 

「にしても……面倒な相手だ」

 

 

 ︎︎西ノ宮彩葉襲撃事件、梅田テロ未遂事件。その裏に潜んでいるという“スポンサー”。

 ︎︎御手洗の推測と潜影部の捜査──別々の時期に始まった調査は、ほぼ同時に同じ名前へと辿り着いたらしい。

 

 

 加納正孝。

 ︎︎大衆的な人気がある訳では無いが、政界では知らぬ者はいない、日本民政党の大ベテランだ。

 

 ︎︎いわゆる世襲政治家であり、地元であるここ大津市での支持率は磐石。幾度もの当選経験を持つ。

 ︎︎初入閣時には法務副大臣を務め、五年前の政権交代時には二度目の入閣を果たし、その際には国家公安委員長と特命担当大臣を兼任した、同党きっての実力者である。

 

 そんな大物政治家の私邸に妖怪が潜み、さらにエージェントが殺害されたという事実。もはや御手洗の疑念は仮説の域を超え、現実として形を持ち始めていた。

 しかし桜庭としては、これから発生するであろう諸問題を思うと、億劫さしか感じなかった。

 

「(総会……特に錦戸はうるさいだろう)」

 

 敬天総会は組織の最高機関である。だが、その開催は不定期だ。年度初めに集まることは多いものの、それ以外の期間、総会員たちが何をしているのかと言えば──主にビジネスとコネ作りである。

 

 ビジネスは言うまでもない。彼ら自身の財政基盤を支え、その利益が最終的には組織全体の活動資金へと還元される。西ノ宮派の傘下企業群などは、その代表例だった。株主としての配当金、役員としての報酬。そうした利益が派閥への忠誠を固め、ひいては組織そのものを支えている。

 

 そして、もう一つが政治的コネクションの構築だ。特にこの分野に熱心なのが、西ノ宮と錦戸である。

 事実上の二大政党制が根付いて久しい日本政界において、大政党である国民党と民政党との関係維持は、組織保全と活動継続のため必要不可欠だった。

 故に、西ノ宮が国民党を、錦戸が民政党を担当する形で関係を築き上げている。選挙協力、多額の献金、そして多少の裏金と、天下り先の用意。そうした水面下の働きかけによって、神祇瑞光院への政治的介入を最小限に抑えている。

 

 桜庭が「面倒」と断じたのは、つまり加納のような民政党の重鎮を拘束することで、錦戸側が何か言ってくる可能性についてだった。

 ︎︎そもそも加納クラスの大物政治家が妖怪と結託し、事件を引き起こしていたなど前代未聞である。ここまで状況証拠が揃っていれば、加納拘束そのものへ異を唱えることはないだろう。

 

 だが、それはそれとして多少の文句は飛んでくる。

 桜庭はそう考えていたし、そう考える理由もあった。

 

「(……どうも最近は、私が親西ノ宮の人間だと見られているらしいしな)」

 

 そのことは桜庭も御手洗を通じて把握していた。

 

 確かに公威や彩葉のことは個人的に好ましく思っている。だが、だからといって護國衆の隊長に過ぎない自分が御三家へ与し、院内政治へ関与するつもりはない。ましてや、西ノ宮の駒になる気など毛頭なかったが、錦戸からそう見られているという事実は留意しなくてはならない。

 

 そもそも、そんな面倒事に首を突っ込むくらいなら、弟子である将吾を鍛えている方が遥かに有意義であるのだが。

 

「はぁ……行くか」

 

 既に部下たちは動き出している。桜庭もまた、何度目か分からないため息をすると、ようやく行動を開始した。

 

 玄関口から外へ出ると、軽くストレッチをするように脚を伸ばす。そして静かに重心を落とし、力を込める。

 ︎︎ドン!──と高台からの跳躍。その衝撃が芝生を揺らし、風を置き去りにする。

 

 

 ︎︎その超人的な彼女の様子を、一台のカメラがじっと捉えていた。

 

 

 

 

 

■■■

 

 

 

 

「これが、護國衆最強の隊長──桜庭朱里か」

 

 自動車の後部座席。スラッとした体型の男が、膝上のノートパソコンに映る監視カメラの映像を眺めていた。画質は荒く、音はない。しかし、その常人には有り得ぬ力はしっかりと映っている。だがそれに驚くこともなく、されど興味深そうに、その名を呟いた。

 

 そんな彼──加納に対して、ハンドルを握る若い青年はミラー越しに不敵な笑みを浮かべた。そのままアクセルを踏み、大津ICを通過する。交通量は平常通り。名神上り線への合流も恙無く、車は名古屋方面へ向けて滑り込んでいた。

 

「怖いか? オッサン」

「いいや。不思議に思ってね。この国の裏側を、現場の最前線で維持してきた人間はこういう者なのかと」

「はっはっは! 言っておくが、その女は例外中の例外だ。オレたち妖怪よりも化け物じみた人間だよ。ソイツを基準に考えるのはミステイクにも程があるぜ!」

 

 画面を閉じ、加納は狭い車内にふうと息を吐き出した。背もたれに頭を預けたまま、親指と人差し指で目頭の付け根を強くつまむ。サイドガラスの向こうの景色がぼやけて見えるのは、スピードのせいだけではなく、老眼のせいだった。

 

「……では、君の妖術でも敵わんか?」

「あー無理無理。その女に小細工は通用しねぇよ。つーか、真正面から戦っても絶対に無理だ。殺してェなら巡航ミサイルでも大量にぶち込むんだな! それでもソイツなら生きてそうだけど」

「君は随分とこの女性を恐れているようだね。君の肩が揺れているのは、恐怖か? それとも車の揺れか?」

「阿呆! 両方だ!」

 

 青年は笑っている。だが加納の指摘通り、震えてもいた。彼はそれを恥じることもなく認め、可能な限り高速で、万が一にも事故を起こさぬよう注意を払いながら、次々と車を追い越していく。

 

「あの桜庭朱里と言ったら、泣いた赤鬼も小便漏らすほどの真性の怪物だぜ?」

「その喩えはよく分からないが、とにかく君ですら怯えるほどの相手ということは分かったよ」

「加納のオッサンは肝が据わってんなぁ……いや、政治家ってのはみんなそうなのかね。とにかく今、オレたち割と大ピンチなんだぜ? そこんとこ分かってるよな?」

 

 いつ、どこから桜庭が現れるか分からない。いつ自分たちが見つかるか分からない。そんな焦りが混じった声が、狭い車内に響いた。

 

 スーツ姿の元大臣を乗せているとはまず思わないだろう、九十年代初頭の古臭いクーペ。リアガラスには違反にならない程度のスモーク。名神の上りを使う車は多く、たとえ覆面パトカーが居ても怪しまれない程度には、速度も運転も抑えている。

 

 普段ならば逃げ切れる。

 ︎︎だが問題は、青年が自分の意思とは無関係に外部へ発してしまう妖気だ。抑えようと思えば抑えられるが、完全な無には絶対に出来ない。これだけは妖怪の生態であるからして、彼にはどうしようもないことだった。

 

 ︎護國衆というのは総じて妖気に敏感だ。

ㅤ仮にここが京都ならば一瞬で発見されていただろうが、京都以外には妖怪が普通に居る。滋賀県内に潜む他の無関係な妖怪の気配が、青年が全力で抑えつけている微細な妖気を紛れさせていたおかげで、護國衆からの発見を遅らせていた。

 

 願わくば桜庭も惑わされて欲しいが……と青年は考え、直後に自ら否定した。

 

 一瞬も油断出来ない。妖気をコントロールしろ。最低でも名古屋に着くまでは追われているものと考えろ──そう自分に言い聞かせ、気を改める。

 

 口調は楽しげで、口元にも笑みを浮かべている。だがその内側では、焦りと恐怖がフツフツと湧き続けていた。

 ︎︎それを隠そうとはせず、むしろそんな肉体の本能的な反応すら、彼はどこか楽しんでいた。

 

「つーかよぉ、殺せって言うから殺したけどよ、あんたがクスリかなんかで殺したら良かったんじゃないのか。麻薬とかさ。オレが出てきたせいで、妖怪が居るのもすぐにバレちまっただろう? おかげで予定より大慌てで逃避行だ」

「君、私が麻薬なんて持っているような人間に見えるのかね」

「さーね? オレには、麻薬よりもっとヤバいことやろうとしてる人間に見えるぜ」

 

 笑いながらも冷や汗を流す青年に、加納は何も答えなかった。

 

「……しかし、オッサン。良いのかよ?」

「何がだ?」

「お付きの秘書やら何やら、街に置いてきちゃったぞ」

「構わないさ、金は渡してある」

「いや、そうじゃなくて。……オッサンが直で狙われたってことは、もうアンタの周りの連中も調査済みってことだろ? これからどうするんだ。政界引退してスポンサー続けんのか?」

 

 青年の疑問は、実のところ正しかった。

 

 潜影部による加納の拘束と護送。この任務が実施される今日までまでの数ヶ月──彼を最大の容疑者として定めた時点で、潜影部は徹底的な事前調査を行っていた。

 

 身体的な理由で、加納に子供は居ない。妻帯者ではあったが、その妻も既に病気で他界している。そして党の内外、地元大津市の有力者や政財界、プライベートな交友関係に至るまで、隅から隅まで洗い出されていた。

 

 それでも彼の生家に妖怪が潜んでいることを考慮しなかったのは、件のスポンサーが彼であるという明確な証拠だけが最後まで見つからなかったからでもある。だが、いずれにせよ青年の疑問は的を射ていた。

 

 しかし加納は、フッと静かに笑う。

 ︎︎その無感情な瞳の奥にあったのは、確かな嘲笑だった。

 

「私が引退したくないと思っても、執行部の連中は私の党籍を剥奪するだろうね。憲法違反だ何だと神祇瑞光院を批判したところで、私一人のために彼らを敵に回したくないだろうさ」

 

 脱税か裏金か。適当な理由をつけての除名処分が丸いところだと、加納は続ける。汚職なんぞ平時ならば隠蔽するだろうし、露見したとしても最低限の傷を負うようダメージコントロールを行うのが政党というものだ。だが今回は、事が事だ。

 

 神祇瑞光院が政界との癒着によって初めて、近代国家下での活動を()()()()()()のと同じように。

 政界──特に加納の属する民政党や国民党のような大政党もまた、神祇瑞光院との関係によって選挙に勝利し、少数政党の乱立を抑え、国家という船の安定的な舵取りを担っている。

 

 このゴルディアスの結び目を、アレクサンドロス大王の如く両断するような勇気ある政治家など、日本のどこにも居ない。そのことを、閣僚として政権の一助を担った加納はよく知っていた。

 

「そういうもんか」

「うむ、そういうものだ。さて前を向きたまえ、同志。まだまだ名古屋までは遠いぞ?」

 

 勝手に同志にするんじゃねぇ!──そう叫びながら、青年は車を走らせ続ける。

 そして、ふと背後を確認しようとサイドミラーを見た瞬間、青年の青白い不健康な肌が更に色を失った。

 

「おいおい!」

「……どうした?」

「嘘だろ! もう見つかったのかコンチクショウ!!」

 

 背後──いや、正確にはその上空。

 黒いヘリコプターが飛んでいるのを、青年は捉えていた。人間より遥かに優れた視力は、機体をはっきりと映し出している。

 

 そして動きからして高速道路を走る車両を確認していた。最悪なのがこの車を追走するかのように見えることだ。名古屋方面の上りを沿って飛行している。

 

「チッ! 加納のオッサン! 下手に動くなよ!」

「一体どうしたというのだね」

「ヘリだよ、ヘリ! ありゃ警邏隊の機体だ! 間違いない!」

「……下に隠れた方がいいかい?」

「ダメだ、動くな。あのヘリにゃサーマルカメラが仕込んである。下手に隠れる動きを見せたら、この車にアンタが乗ってることがバレる。多分、オレの妖気を追ってるんだろう。まだバレた訳じゃない」

「なるほど。君の判断に従おう」

 

 自分たちを追跡しているのは間違いなかった。だが青年は、加納の存在そのものが発覚したとは考えなかった。

 いつから上空に居たのかは定かではない。抑えきれない微細な妖気を察知し、気になって追跡してきたのだろうと推測する。

 

 護國衆の補助組織である警邏隊が近年導入したあの最新鋭ヘリは、妖怪たちの間でも一部では有名だった。

 ︎︎加納を通じて神祇瑞光院の情報に触れていた青年もまた、曖昧ながら知識だけは持っている。

 

「どうする?」

「カメラじゃ妖気までは分からねぇ。ありゃパイロットの肌感覚だ。自分じゃ分からないが、多分、妖気はほとんど抑えられてる。オレの場合は体温も人間と変わりねぇから……」

 

 加納の冷静な問いかけに答えながらも、青年はハンドルを握ったままブツブツと思案を巡らせる。

 

 加速も出来ない。不自然な減速も出来ない。

 

 青年の力であれば、あの程度の高度なら叩き落とすこと自体は可能だった。だが、それをした時点で桜庭を始めとする護國衆にマークされることは確定してしまう。故に出来ない。

 

 しかし、詰みではなかった。

 サーマルカメラそれ自体は妖気を観測しない。あのヘリは明らかにこの車を追っているが、パイロットか搭乗員が不審な妖気を察知し、情報収集のため追跡しているだけだろう。

 

 車内に二人いること自体は知られているはずだ。だがこの距離なら、どちらが妖気を発しているのか、あるいは映っている二人が共に妖怪なのかまでは判別出来ない。

 

「よし、このまま行くぞ」

「深くは聞かん。君のことだ、逃げられる算段はついているんだろう?」

「ははっ、オッサン! 誰に言ってるんだ!? オレは便利屋である前に運び屋だぜ!? 政治家崩れのオッサンひとりくらい、配達先まで安心安全に届けてやるさ」

 

ㅤ気を取り直すように、青年はアクセルを深く踏み込んだ。

ㅤ道路を滑るように走る車体が、低く唸り声を上げる。お天道様の暑い日差しがフロントガラスを断続的に照らし、そのたびに車内の陰影が鈍く揺れる。

 

ㅤ護國衆に狙われぬよう、身を潜め、息を殺して生きる妖怪は多い。人間社会の片隅で正体を隠し、波風を立てず、ただ静かに生を繋ぐ者。だが一方で、討伐される危険性を理解しながらも、それぞれの理由から犯罪へ手を染める妖怪も少なからず存在する。

 

ㅤ妖怪の青年──アラキは、紛れもなく後者だった。

ㅤではなぜ彼は、護國衆を恐れて潜むことを選ばず、よりにもよって犯罪という彼らの目につきやすい危険な道へ進んだのか。

 

ㅤ理由は単純だった。

ㅤただ、刺激が欲しかったのである。

 

ㅤ妖怪という存在は、個体差こそあれど、基本的に人間より遥かに長命だ。百年程度なら平然と生きる者も珍しくない。もっとも、その多くはそこまで生き延びる前に、護國衆によって討たれるのだが──アラキもまた、その軽薄そうな若々しい外見とは裏腹に、既に半世紀を生きている。

 

ㅤただ、妖怪と人間が決定的に違うのは、死の危険と恐怖が常に日常のすぐ傍らにあるということだ。

 

ㅤ護國衆──彼らがいつ、自分の脳天へ鉛玉を撃ち込み、あるいは首を刎ね飛ばしに来るか分からない。

ㅤ少なくとも日本に住む妖怪にとって、生とは、常に見えない死と隣り合わせの綱渡りであった。

 

ㅤ災害でも起こらない限り、自らの死を現実的なものとして意識する機会が殆ど存在しない現代日本人にとって、その感覚は理解し難いだろう。だがこの国の妖怪にとって、それは生まれた時から骨の髄まで染み付いた、本能に近い恐怖だった。

 

ㅤだが、アラキはその恐怖にすら慣れてしまっていた。

ㅤ死への怯えも、生への渇望も、とっくの昔に味わい尽くしている。だからこそ彼は、更なる刺激を欲していた。

 

ㅤもっと別種の、もっと異質な、魂を掻き乱す感情の奔流を!

ㅤそれが闘争であれ、殺人であれ、あるいはセックスであれ、飽くことのないその欲求は、未だ留まることを知らないのだ。

 

ㅤ故にアラキは、加納正孝という男に期待していた。

ㅤこの男ならば、自分の退屈を壊してくれるかもしれない。

ㅤこの男ならば、自分の欲望を満たすに足る混沌を見せてくれるかもしれない。

 

ㅤそんな予感が、確かにあった。

 

「この古臭い国を変えてやるんだろう!? あははは、良いじゃねぇか、最高だ! あんたの杜撰な計画に乗った時点で、オレの心は決まってんだ。オッサン、あんたはふんぞり返って座ってな!」

「杜撰なのは私も分かっている……わざわざ言わなくてもいいじゃないか」

「くく、杜撰だから良いんだよ。完全なんてつまらねぇ、不完全なものにこそ価値がある! 正直、オッサンのプランは穴だらけだが、だからこそ、成功した時の余韻は半端じゃねぇだろう!」

「車内で叫ぶのはやめろ。君のしゃがれた声でそれをやられると不愉快だ。うるさい」

 

ㅤ加納は露骨に鬱陶しそうな顔をして注意したが、それでもアラキは笑うのを止めなかった。喉の奥を掻き毟るようなしゃがれ声が、狭い車内に不快で不気味な余韻を残す。

ㅤそれでもなお、彼は楽しそうだった。まるで何かのスイッチを押したかのように、興奮していた。

 

「本気になった神祇瑞光院は怖いぜ、オッサン? 今なら牢屋で余生を過ごすくらいで済むかもしれねぇが、どうするよ?」

「私は、私の使命に殉ずる。たとえ計画が頓挫しようとも構わないさ」

「まったく、オレが女なら股開いてやっても良いって思うくらい、いい男だぜホント」

「気色の悪いことを言うな、殺すぞ」

「うん、オレも自分で言ってて気持ち悪いって思ったわ。すまん……まぁ、とにかく、アンタがマジなのは分かってるってことだよ。あと、オレも久々にマジなんだって事が言いたかったんだ」

 

ㅤアラキは軽薄そうな笑みを浮かべたままそう言ったが、その双眸だけは妙に真剣だった。

ㅤふざけた口調も、乱雑な態度も、今の彼にとっては表面を覆う薄皮に過ぎない。その奥底では、加納正孝という男の覚悟を、改めて冷静な眼差しで見極めていた。

 

ㅤ加納もまた、その視線の意味を理解していた。

 

ㅤ妖怪という種は、人間より遥かに本能に忠実だ。命の危険と隣り合わせで生きるからこそ、相手が本気か否かを嗅ぎ取ることに長けている。半端な覚悟や虚勢など、容易く見透かされる。

 

ㅤそしてアラキは今、加納の中にある狂気にも似た決意を、確かに認めていた。

ㅤそんな彼に対して、加納は僅かに口角を上げた。皮肉とも苦笑とも取れる、微かな笑みだった。

 

「君がもしも人間として生まれていたならば、私も友人として付き合えただろうな。まったく、残念なことだ。同志」

 

ㅤ金の繋がりしかない、所詮は雇っただけの相手。

ㅤ本来であれば、それ以上でもそれ以下でもない関係で終わるはずだった。加納にとってアラキとは、計画遂行のために必要な駒の一つに過ぎない。だが、それでもなお、この妖怪が自分の計画に賛同し、危険を承知で動いてくれていることに対しては、少なからぬ感謝を抱いている。

 

ㅤ加えて、アラキという妖怪が根本的にビジネスマン気質ではないことも、加納の心象を多少なりとも良くしていた。

ㅤむしろ正反対だ。

ㅤ激情的で、衝動的で、快不快に忠実。理屈よりも感覚で動く類の存在である。まるで気性の荒い競走馬のように、手綱を握ること自体は困難だが、一度乗りこなせば並外れた力を発揮する。

 

ㅤ加納には、アラキという妖怪がそういう存在に見えていた。

ㅤ妖怪でさえなければ。あるいは、自分が人間でさえなければ。もっと健全で、もっと穏当な関係を築けていたのではないか。

 

ㅤそんな考えが、不意に脳裏を過った。

ㅤ自分と彼の性格は、まるで噛み合っていない。思考回路も価値観も、生き方も正反対と言って差し支えない。だが不思議と、不快感は無かった。

ㅤむしろ妙に相性が良い。しかしそれが加納には少し癪だった。

 

「同志じゃねぇ、共犯者だ!」

「此度に限ってはどっちも似たようなものだろう? ……はあ、これからが思いやられる。先のためとはいえ、ここから長いこと君と共に逃亡生活を送らねばならんとは」

「そう陰気になるなよ、これでもオレはムードメーカーなんだぜ。さあ、楽しい楽しい逃避行の始まりだぁ!」

「騒音公害の間違いではないのかね」

 

ㅤ加納が心底うんざりしたように吐き捨てると、アラキはまた愉快そうに喉を鳴らして笑った。

 

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