乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
ㅤ護國衆本部・局長執務室。
ㅤイギリスかぶれな御手洗の趣味が反映された調度品で満たされた広々とした空間で、桜庭は手にしたバインダーへ視線を落とし、淡々と報告書を読み上げた。重厚な机の向こうでは御手洗が椅子に深く腰掛け、その報告に耳を傾けている。
「──報告は以上」
「ご苦労」
ㅤ加納事件──便宜上、そう呼ばれることになった今回の案件。西ノ宮彩葉襲撃事件、鳴宮事件、大阪梅田テロ未遂事件、そして潜影部エージェント殺害事件……一連の事件に関与しているとされる容疑者の加納正孝は、滋賀県大津市の私邸から逃亡したのち、その行方が途絶えていた。現在も有力な目撃情報はなく、足取りは完全に闇の中にある。
ㅤ加納が属していた日本民政党の執行部は、エージェント殺害事件の翌日に潜影部による事情聴取を受けたという。そこでどのようなやり取りがあったかまでは桜庭も知らされていないが、それから間もなくして、同党は公職選挙法違反の疑いで加納の党員資格を停止したと公式に発表している。加納を切り捨てる判断が早かったことには評価に値するが、これは、それだけ事態の深刻さを物語っているとも言えた。
ㅤ潜影部による身柄拘束作戦の失敗から、今日で二週間だ。仲間を殺された潜影部は本腰を入れて捜査を進めている──という情報を風の噂で耳にした桜庭だったが、かといって素直に彼らを応援する気にもなれなかった。
ㅤなにせ、一番隊の管轄区域内で勝手に動いた挙句、殉職者を出すという最悪の形で失敗しているのだ。殺害されたエージェントたちの死を悼む心は当然あったが、それとは話が別である。潜影部の独断専行によって一番隊の面子が潰された事実は変わらない。組織としての立場を考えれば、到底割り切れる話ではなかった。
ㅤ表情はいつも通り変わらないが、彼女が纏う雰囲気はいつもより幾分剣呑としている。その理由を察していた御手洗は、タバコを咥えながら桜庭を見やった。
「やはり気に食わないか?」
「……気に食わん、というよりも解せないな。潜影部の独断専行は今に始まった事じゃないが、それにしたって今回のは急すぎる。加納事件ほどの巨大案件に際して、一番隊へ何の事前通達がないというのは流石にな。せめて局長のお前には教えて然るべきだろうに」
「それに関しては私もあちらに抗議文を送ってあるが……まぁ、まともに取り合う気なんてないだろうね。難儀なことだが……ふむ」
「どうした」
ㅤ潜影部への愚痴を交わしていると、御手洗が途中で考え込むように唸った。何か引っ掛かるものでもあったのか、煙草を咥えたまま視線を宙へ向ける。
ㅤその様子に桜庭は僅かに首を傾げ、訝しげな目を向けた。御手洗はそんな彼女の視線に気付くと、小さく笑みを浮かべた。
「ははっ、いや……ね? 君の言う通り、事前通達がないことは珍しいことではないが、彩葉様の襲撃事件に関与している加納を捕まえるのに、君を頼らない理由が私にもよく分からなくてね……。自分のことをそう思っていない事を承知の上で聞くが、君は実質的に西ノ宮派みたいなものだろう? 公威閣下や彩葉様との親交もある。加納を捕まえるのは君であるべき、のようなことを閣下から言われてはいないかい?」
ㅤ桜庭が西ノ宮邸に足繁く通っていることは、少なくとも護國衆本部や神祇瑞光院本部では知られている話だった。そのキッカケが彩葉襲撃事件であることもだ。現在は小学校が夏休み中なのもあって中止しているが、彩葉の登下校を警護することを進言したのも桜庭だった。
ㅤそうした経緯もあり、本人の認識はともかくとして──御手洗の言う通り、桜庭が西ノ宮派に加わったのだと思っている者は院内に少なくなかった。少なくとも西ノ宮と一定以上の繋がりを持つ人間であることは、周囲も否定しようがなかった。
「いや、閣下からは特に何もないな。下手人を捕まえたらすぐに教えてくれとは言われたが、私が捕まえろとは一言も……」
「もしかしてそれか?」
ㅤ御手洗は、桜庭と西ノ宮の関係が今回の案件における潜影部の独断専行に関係しているのではないか、と推察した。
ㅤたとえば桜庭が先に加納を捕まえた場合、西ノ宮家による介入が発生する可能性を危惧したのかもしれない。加納から情報を引き出すよりも前に、西ノ宮の報復が行われることを嫌った──そう考えれば、一応の筋は通る。
ㅤ根拠としては弱い。だが、ありえない話でもなかった。
ㅤ彩葉襲撃事件後の緊急総会において、公威は多くの者が想像していたほど感情を表には出さなかった。しかしだからといって、彼が血縁を妖怪に襲われて黙っているような人物ではないこともまた、院内ではよく知られている。
ㅤそんな公威との親交があり、彩葉にも気に入られているという桜庭。もしも加納の身柄拘束という案件で桜庭を頼って成功したとても、その後の彼の身柄をどう扱うかで、桜庭及び西ノ宮家との間の摩擦が生じる可能性は十分にある。
ㅤ潜影部がそう考えた結果、最初から桜庭を遠ざけて独自に動いた──そういう流れだったとしても不思議ではなかった。
ㅤもっとも、その推察を聞かされた桜庭としては不本意でしかなかったが。
「西ノ宮に隷属した覚えはないぞ」
ㅤ吐き捨てるように桜庭は言った。
ㅤ彼女が護國衆隊長として優先するのは、あくまで護國衆本部の指揮系統内において下された任務であって、御三家からの個人的なお願いや命令の類はその二の次でしかないのだ。彩葉の送迎警護や将吾への稽古は、それらとは異なり自発的なものであるから例外である。
ㅤというよりも、これに関しては公威自身が桜庭の性格をよく理解していた。仮に加納を連れてこいと言われたところで、院内政治に興味のない彼女が唯々諾々と従うはずもないことを、公威は知っている。
ㅤ元より、桜庭は彩葉の命の恩人。西ノ宮公威は、そんな恩人相手に、御三家の権威を笠に着て彼女を従わせようとするような男ではない。
「私は、君と西ノ宮の関係があくまで個人的なものだということを知っている。君の部下たちだってそれは知っているだろう……とはいえだね、あの捻くれ者の巣窟の陰気な潜影部が素直にソレを信じると思うか? 私は思わないよ」
「チッ」
ㅤしかし、御手洗の言い分も正しかった。
ㅤスパイであり、暗殺者でもある。そんな彼らの矛先は決して組織外だけに向けられるものではない。必要とあれば御三家を含む組織内部へも向けられる。潜影部とはそういう部署だ。
ㅤ故に、桜庭と西ノ宮家の関係を疑うこと自体は彼らのロジックとしては一切間違っていない。むしろ職務に忠実であるが故の当然の反応と言えた。
ㅤ理解はできる。理解はできるのだが、それでも桜庭としては迷惑この上なかった。任務遂行のためならば私情を切り離すことくらい当然の話であり、そこを疑われること自体が不愉快だったのである。
「潜影部はなんと?」
「護國衆との協力体制強化に向けて、内部での検討を重ねる……とだけ」
「スパイごっこの次は政治家ごっこか、くだらん」
「そう言うな、桜庭。彼らも挽回しようと必死なのだろう。なにせ久方ぶりの大失態だ。総会のお歴々もお冠と伝え聞く」
ㅤ御手洗は肩を竦めながら言ったが、その口調には僅かな皮肉が混じっていた。
ㅤ加納正孝が妖怪を使って西ノ宮彩葉に危害を加えようとしたのは紛れもない事実だ。彩葉襲撃事件直後の緊急総会は報復論と慎重論で荒れたようだが──各々の思惑や本音はあれど、御三家の令嬢に手を出した不届き者を総会員が座して放置するはずもない。
ㅤ神祇瑞光院において御三家とは単なる旧家ではない。その権威は組織の根幹そのものと結び付いている。ゆえに彩葉襲撃事件は、西ノ宮家だけの問題ではなく、神祇瑞光院全体の威信に関わる問題として受け止められていたのだ。その後の対処で意見が分れただけで、根底となる共通認識は三大派閥にあった。
ㅤ近畿守護を仰せつかった一番隊の面子を潜影部に傷付けられた、と苛立っていた桜庭だったが、彩葉襲撃事件は神祇瑞光院そのものの面子に傷がついた出来事でもある。
ㅤその下手人である加納を捕まえるどころか、身柄拘束作戦は失敗し、エージェントが殺害された挙句、加納本人には悠々と逃げられたのだ。
ㅤ当然ながら、派閥や役職を問わず大半の総会員たちは潜影部に対する怒りや呆れを隠していない。潜影部という特殊な部署であるが故に表立った糾弾こそされていないものの、その失態が重く受け止められていることは誰の目にも明らかだった。
ㅤなお、急遽大津市へ向かっただけの桜庭に対しては何の叱責もなかった。
ㅤむしろ何も知らされていなかったにもかかわらず、現地へ急行して事態の収拾に動いたことは高く評価されていた。神祇瑞光院本部ですれ違った総会員たちから賞賛や激励の言葉を掛けられることも珍しくなかった。もちろん、それらを受けた当人は特に気にしていないのだが。
「三大派閥の動きはどうだ」
「西ノ宮派は静観、霧島派は憂慮、錦戸派は不満……といったところだね。三派一致して潜影部を非難してはいるが……私の感覚的には、本気で激怒していたのは西ノ宮派くらいだったね。いや、総じて潜影部の失態にはキレていたけど」
「霧島はいつも通り。錦戸は……民政党絡みか?」
「ああ。民政党に潜影部の捜査が入ることを嫌がっているんだろう。まあ、錦戸が何かを隠しているというよりも、単に捜査を通じて西ノ宮が介入してくることを嫌がっているようだが……悪手だな。錦戸の大婆サマもついに耄碌したか」
ㅤ御手洗は煙を吐きながら吐き捨てるように言った。
ㅤ錦戸家は民政党との結び付きが深い。ゆえに潜影部による大規模な捜査が行われれば、党内の人脈や政治的影響力にも少なからぬ波紋が広がるだろう。そもそも加納自体が、同党の重鎮である。党内の勢力図が変わるのは間違いない。
ㅤもっとも、御手洗の見る限り、錦戸家が加納と直接繋がっているわけではない。彼らが警戒しているのは、捜査そのものよりも、その過程で民政党への西ノ宮の影響力が拡大すること。
ㅤ古くから続く両家の確執を思えば理解できなくもないが、御手洗からすれば、この局面で優先すべきことを見誤っているようにも映っていた。
ㅤ優先すべきは加納の捕縛であって、西ノ宮への警戒ではなかろうに──と御手洗は悪態をつく。
「閣下に対して言葉が過ぎるぞ、口を慎め御手洗」
ㅤしかし即座に、そんな彼を桜庭が窘めた。
ㅤ彼女自身、院内の政治的な駆け引きには興味が薄い。しかしだからといって、組織の根幹を支える当主に対して無闇に不敬を口にすることを許容するつもりもなかった。
ㅤ御三家に盲目的な敬意を抱いているわけではないが、その立場に伴う責務の重さくらいは理解している。御手洗はそんな桜庭の反応に苦笑を浮かべ、降参するように肩を竦めた。
「変わったな、君。古い権威に素直に従うような人間ではなかっただろう」
「私だってもう18だぞ。そこら辺の折り合いはつけられる」
「君と接すると、まるで歳上の女性と話しているように錯覚してしまうが、まだそんなものか。ガキじゃないか」
ㅤジロ、と不気味な輝きを放つ桜庭の双眸が御手洗を貫く。その視線に含まれる圧力は決して大きなものではない。しかし表情の変化に乏しい彼女だからこそ、僅かな雰囲気の変化は妙な迫力を生み出していた。今度こそ参ったと言わんばかりに、彼は顔を逸らしつつ、吸い終わったタバコの火を消した。
「減らず口を叩く暇があるなら、さっさと加納の居場所を割り出せ。潜影部が何言おうとも、護國衆との共同で対処するべき案件だ。お前の強権で奴らを従わせろ」
「そんな権力は私にはないんだが……まあ、やるだけやるよ」
ㅤとは言いつつも、彼も内心では桜庭の言葉に同意していた。
ㅤ護國衆に潜影部ほどの調査網はない。潜影部に護國衆ほどの武力はない。加納の行方は未だに分からないが、そもそもどれだけの妖怪を抱え込んでいるのかすら判明していないのだ。
ㅤ単独の部署では処理が困難な案件である以上、両者の間で共同体制を構築すべきというのは至極合理的な考えだった。
ㅤしかし、非合理的な側面も強いのが神祇瑞光院という組織である。
ㅤ護國衆本部局長──名実ともに護國衆のトップに君臨する御手洗とはいえ、実態としては神祇瑞光院本部の隷下部隊を統括する責任者の一人に過ぎない。
ㅤ局長として相応の裁量と権力は有しているものの、組織図の上では護國衆と横並びである潜影部に対し、彼が強権を振るうことなど出来ないのである。結局のところ、説得し、根回しし、本部を通して働きかけるしかない。
ㅤやるべき事は盛りだくさんだった。
ㅤ加納事件への対応だけでも頭が痛いというのに、その上で部署間の調整まで求められる。これからやってくるであろう過労と睡眠不足のダブルパンチを思い浮かべ、御手洗は目頭を押さえながら深い溜め息をついた。
「……そういえば君は、これから巡回だったか?」
「いや、淡路島で擬態型グループの発見報告があってな。まだ悪さはしてないようだが、討伐せよとのお達しだ。早いところ終わらせて、今日も西ノ宮邸に行くつもりだが」
「そろそろ私にも会わせてくれよ、君の愛弟子。狂犬たる君が大層可愛がるくらいだし、よほど良い子に違いない」
「断固として断る。お前のような軽薄な男に会わせたら、彼の教育に悪いだろう。ロクな大人にならん。そうなれば私は彩葉様に顔向けできん」
「母親か君は」
ㅤ呆れた声だったが、当の本人は変わらず真顔のままだ。
──弟子に対する彼女の面倒見の良さは、一番隊の中でも特に京都班を中心によく知られている。
ㅤ本人は稽古を付けているだけのつもりなのだろうが、周囲から見ればそれ以上だった。
ㅤなにせ桜庭は、プライベートな場になると意外なほど弟子の話題を口にするのである。稽古の進捗や最近の様子、出来るようになったこと、失敗したこと。本人に自覚はないのだろうが、その内容はいずれも弟子への関心が滲み出るものばかりだった。
ㅤ隊長としての彼女しか知らない者たちにとって、それは意外な一面でもある。冷静沈着で厳格、必要以上の私情を挟まない鉄仮面。そんな桜庭が、弟子の話になると僅かながら雰囲気を和らげるのだ。
ㅤ明らかに可愛がっていると評するほかないその変化を、一番隊の部下たちは驚きながらも好意的に受け止めていた。
ㅤ同様の話を以前から耳にしていた御手洗もまた、そのことは把握していたが──成長を気に掛け、余計な人間関係に巻き込まないよう目を光らせる。その姿は師としての範疇をやや踏み越えており、もはや熱心な保護者に近かった。もっとも、桜庭自身にその辺りの自覚はないらしい。
ㅤ弟子を導き、守るのは師として当然の責務であると本気で考えているのだろう。だからこそ御手洗も苦笑するしかなかった。
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「おや、将吾くん。今日も稽古ですか?」
「お疲れ様です、佐々木さん。……えぇ、稽古といっても今日は座学ですが……」
ㅤ使用人達の手伝いをしつつ、彩葉の暇つぶしに付き合う。さほど変化もない基本的な一日の流れに身を任せていると、廊下の向こう側から歩いてきた佐々木と鉢合わせた。
ㅤ藍色の着流しに身を包んだ彼の格好はとても軽やかで、普段の多忙な様相とはかけ離れている。常日頃から書類や連絡に追われている姿ばかり見ているだけに、その姿にはどこか新鮮さすらあった。
ㅤ今日は非番ですか、と問えば、なんでも公威に無理やり休まされたのだと苦笑交じりに語る。
ㅤ襲撃事件の後遺症で以前よりも体力や気迫は衰えている。そんな状態なのに、西ノ宮家政を統括する立場には変わりなく、むしろ怪我する前よりも精力的に働いているようにさえ見えた。過労死ラインはとっくに越えていそうなのに、本人はそんな面影を欠片も見せない。
ㅤ根っからの仕事人間なのだろうが、傍から見ていると心配で仕方がない。いつ倒れるかも分からない男が傍に居るのも、公威とて嫌なのだろう。だからこその強制休暇なのかもしれないが、果たして彼が大人しく休んでいるのかは甚だ怪しいところだった。
ㅤ恥ずかしそうに頭を搔く佐々木に、俺はじっとりとした視線を送る。
「頼みますから、また入院なんてのはやめてくださいよ。また彩葉が騒がしくなるんで」
「ええ、ええ。善処します……ときに将吾くん、座学というのは? 君はもう高校生レベルの学力はあるでしょう。英語は壊滅的でしたが」
ㅤ前世では大学生だった俺の学力を高校生レベルとされるのは、なんだか不満だ。とはいえ、別に飛び抜けて頭が良かった訳でもないし、こちらに来てからその学力を維持していた訳でもない。そう考えると内心ですら反論しづらいのも事実だ。あと、俺の英語力には触れないでほしい。
「最近は地理を教えられてるんです」
「地理?」
「はい。正確には部隊運用の方ですが、どこで何が起きていて、何をするべきなのか。その判断の材料に必要な知識のひとつとしての地理、ということらしく。色んな地図と睨めっこして、仮定のシチュエーションでの状況報告の訓練をやらされてます」
ㅤ正直なところ、最初は地理と部隊運用がどう結び付くのかよく分からなかった。だが桜庭の説明を聞き、実際に訓練を始めてみると、地図一つ取っても考えるべきことが存外多い
ㅤしかし思い出すだけでも中々に骨が折れる内容だ。
ㅤ単に地名や地形を覚えるだけではなく、道路網や人口分布、主要施設の位置関係、さらには部隊が移動する際の経路や、組織の秘匿まで考慮しながら情報を整理しなければならない。
ㅤ桜庭曰く、現場で正しい判断を下すためには、そうした知識を無意識に引き出せるレベルまで叩き込む必要があるらしいのだが──正直なところ、剣を振るう訓練よりも頭を使う分だけ遥かに疲れる。
ㅤ今はまだ教えられるままに頭へ詰め込んでいる段階だが、その重要性だけは少しずつ理解できるようになってきている。
ㅤそんな最近の稽古の内容を掻い摘んで話すと、佐々木は露骨にドン引きしていた。
「いくらなんでも小学生にやらせるようなものではないでしょう……いえ、君が子供らしくない事は知っていますがね」
ㅤ呆れと困惑が入り混じったような声音だった。
ㅤ佐々木が俺の稽古を担当していた頃は、柔道と一般科目の勉強がメインだった。それが今ではこんな状況だ。彩葉に対してですら細かく稽古の内容を話したりはしないので、そういえばちゃんと桜庭の稽古について佐々木に話すのは初めてだったか、と今更ながら気付く。
ㅤもっとも、俺自身はそこまで大袈裟なものだとは思っていなかった。最初の頃こそ面食らったものの、人間というのは案外慣れる生き物である。
ㅤしかし──。
「今更ですか? 裏山を全力疾走しながら木刀で鍔迫り合いやり始めた辺りから、もう慣れましたよ、俺。護國衆で使っている無線機の使い方も覚えましたし」
「まさかウチから将吾くんを引き抜くつもりじゃないでしょうね、あの人」
ㅤ口を引き攣らせながら、佐々木はそう呟いた。
ㅤ……とはいえ、護國衆へ俺を引き抜くなんて桜庭は考えていないだろう。死なないでください、なんて直接頼まれたくらいだ。彼女が殉職率の高い護國衆に俺を入れるような人間ではないことは重々知っているし、そもそも彩葉が許さない。
ㅤあくまで正式に彩葉の付き人になった後──例の学園に派遣されてからの事を考えての稽古なのだろうと俺は考えている。
ㅤそれはそれとして、疲れるものは疲れる。可能な限り楽をしたいのには変わりないが。
「もしアレでしたら、私から口添えしますが?」
「いえ、気にせんでください。桜庭さんは厳しいですけど、割と優しいところもあるんです。この前だって、おやつに高級フルーツ持ってきたんですよ。糖分補給だー、って」
「私には倒れるまで動け、としか聞こえないんですが……」
「そんなつもりは……たぶん、ないと……思いますけど」
ㅤそこまで言われて、ふと思う。
ㅤもしかしてあれは優しさではなく、飴と鞭のようなものだったのだろうか。
ㅤ彩葉様には内緒ですよ、なんて言われたものだから、てっきり俺への褒美のようなものだと思っていたのだが。改めて考えてみると、稽古の合間に糖分を補給させるという行為そのものは、次の稽古へ向けて体力を回復させるためとも解釈できる。
ㅤいや、流石に考え過ぎだろうか。
ㅤだが目を細めながら高級フルーツを差し出してきた桜庭の姿を思い出すと、なんだか急に自信がなくなってくる。
ㅤ
「──将吾くん?」
「──っ、はいっっっ!!」
ㅤビクン!と俺の身体が全力で跳ねた。
ㅤ肩に添えられた手の感触に、反射的に背筋が伸びる。冷や汗を流しながら背後を振り返れば、心臓が嫌な音を立てた。
ㅤ桜庭だった。
ㅤ何を考えているのか全く分からない顔で、俺をじっと見ている。いつもと変わらず表情筋が死んでいる。
ㅤその怪しげな光を放つ双眸と視線が合った瞬間、吸い寄せられるような感覚を覚え、次いで慌てて姿勢を整えた。
ㅤいや、別に悪いことをしていた訳ではない。していた訳ではないのだが、なぜか見つかった瞬間に怒られる直前のような気分になった。
「集合時間、過ぎてます」
「は、はい! 申し訳ありません!!」
ㅤ指摘された瞬間、反射的に謝罪が口を突いて出た。
ㅤ実際に時計を確認するまでもない。道場で待っている筈の桜庭がわざわざ呼びに来たということは、本当に時間を過ぎているのだろう。
「桜庭隊長。私が彼を引き留めてしまったものですから、そう彼を怒らないでやってください。何卒、その叱責は私の方に」
「……別に叱責のつもりはなかったのだが……」
ㅤ俺と佐々木が揃って身構えていることに気付いたのだろう。困惑したように桜庭が僅かに眉を動かした。
「……その様子だとまた驚かせてしまったようですね、将吾くん。すいません」
ㅤそう言う桜庭の声音は普段と変わらず淡々としていた。
ㅤだが、少なくとも怒っている訳ではないらしい。ただ単に俺の姿を探していただけのようだ。その事実に気付いた途端、緊張していた肩から力が抜けた。
「時間が過ぎたことには怒ってませんので、安心してください。ただ見つけて声をかけただけです」
「はい……うん?」
ㅤ時間が過ぎたことには、……には?
ㅤその妙な言い回しが妙に引っ掛かった。
──やっぱり怒っているじゃないか!
ㅤ絶望だ。きっとまた無理難題を言われるのだろう。あるいは今日の稽古の内容が前回よりも厳しくなるのかもしれない。そう考えると、ようやく止まったはずの冷や汗が再び背中を伝っていった。
「佐々木、彼との話は終わったか?」
「えぇ、ただの世間話です。お気になさらず」
「そうか。……体の調子は?」
「リハビリも続けてますので、少しずつ動けるようには」
「把握した。だが、あまり無茶をして彩葉様や閣下に心配をかけるなよ」
「貴方にまでそう言われるとは思いませんでしたが、ええ、もちろんそのつもりです」
ㅤ後のことを考えて戦々恐々としていた俺だったが、佐々木を気遣う桜庭の様子を見て、ふと違和感を覚えた。
ㅤ彩葉や俺に対しては丁寧な口調なのに、佐々木に対しては厳格な言葉遣いだ。彩葉に対して敬意を払うのは当然としても、考えてみれば桜庭は俺に対しても丁寧だった。初めて会った頃からそうだった気がするし、弟子になった今もその態度はほとんど変わっていない。
ㅤ一方で、今の佐々木との会話はどこか隊長らしいというか、年長者らしいというか──実際は桜庭の方が歳下なのだが──普段の俺に向ける口調とは明らかに違っている。今まで特に気にしたことはなかったが、改めて目の当たりにすると少し不思議だった。
ㅤ彩葉はともかく、俺にまで丁寧な口調で接するのはどういうことなのだろうかと、今まであまり意識してこなかった疑問がふと頭をもたげた。
「行きましょう、将吾くん」
「あ、はい。……では佐々木さん、失礼します。ちゃんと休んでくださいね」
「分かってますよ、これから寝ます。座学、頑張って下さい」
ㅤ果たして本当に大人しく寝るのだろうか、この男。
ㅤそう思わずにはいられなかったが、本人は実に爽やかな笑顔を浮かべている。信用していいのか怪しいものだったが、だからといって俺にどうこう出来る話でもない。
ㅤ時間も惜しい。ニコニコと手を振る佐々木に軽く会釈を返し、その場を後にする。
ㅤ桜庭の後ろを歩きながら廊下を進み、角を一つ曲がる。
ㅤそして佐々木の姿が見えなくなったところで、俺は先ほどから引っ掛かっていた疑問を口にした。
「桜庭さん」
「はい? どうかしました?」
「桜庭さんって、なぜ俺に敬語使うんですか。佐々木さんには使ってなかったですよね」
「ああ……」
ㅤ敬語の程度で言えば、やはり彩葉に対するものの方が遥かに丁寧だ。格式張った古めかしい言い回しも、これまで何度か耳にしている。
ㅤだが、より砕けているとはいえ、俺に対しても基本的には敬語で接していることに変わりはない。
ㅤ弟子なのだから多少ぞんざいな扱いを受けてもおかしくないと思うのだが、桜庭は最初から一貫してこの調子だった。
ㅤだからこそ、その理由が少しだけ気になったのである。
ㅤしかし桜庭は、そんな疑問など抱く方がおかしいと言わんばかりに、当たり前のような口調で答えた。
「陸浦家は、西ノ宮家の譜代ですからね。総会席次を持たないとはいえ、長い歴史と家格もありますから。護國衆はあくまで神祇瑞光院の実働部隊に過ぎませんので、御三家たる西ノ宮の譜代ともなれば、私も相応の態度は取りますよ。佐々木の出自はそうではないので、使っていないだけです」
「なる……ほど?」
ㅤそういえば、陸浦家の立ち位置はそういうものだったな、と言われて改めて思い出した。
ㅤ陸浦を名乗りながらも、かしこまった場では彩葉の付き人候補として、西ノ宮家の人間として行動することがほとんどだ。普段の生活も西ノ宮邸が中心であり、自分が陸浦家の人間であることを強く意識する機会はあまりない。
ㅤというか、父親とは去年の夏以来全く顔を合わせていないし、母とも時おり電話で話すくらいである。自分の家について考える機会そのものが少なかった。ろくに説明もしてこなかったあの父親が悪いことにしておこう。そうしよう。
「君がお望みなら、口調を崩しますが?」
「いえ、そのままでお願いします」
ㅤ即座に断った。
ㅤかつて俺が好きになった桜庭といえば、どちらかというと佐々木に向けていたような口調だったのだが、いざ現実として師弟関係にある身になってみると話は別である。
ㅤあの話し方でこられると怖すぎて集中できない。
ㅤというか、もう敬語の桜庭に慣れ過ぎている。今更口調を変えられても、それはそれで妙な違和感があった。
ㅤ陸浦家の生まれだからといって、俺に桜庭ともあろう人から敬われる資格があるとは思えない。むしろ俺の方こそ敬意を払うべき相手だろう──本来なら、気を遣わなくていいと言うべきなのかもしれない。だが、今更態度を変えられても困るというのが正直な反応だった。
ㅤ桜庭はそんな答えが返ってくることを最初から分かっていたかのように、軽く俺の背中を叩いた。
「では、これからもこのままで──。今日は前回の続きです。より実践的にしようと思いますので、重りをつけた状態で道場を走りながら、前回のように私の仮定したシチュエーションでの無線を使用した報告と部隊指揮の演習を行いましょうか。ああ、その妨害として私がゴム弾で君を撃つので気をつけてくださいね。当てたり当てなかったりします」
ㅤ道場に到着する。
ㅤ中には既に、大きな日本地図をはじめとして様々なサイズと種類の地図が並べられていた。前回の座学で使ったものよりも数が多い気がする。どうやら準備だけは万端らしい。
ㅤしかし俺の視線はそんな地図ではなく、桜庭が今しがた口にした訓練内容の方へ釘付けになっていた。
ㅤ重りを付けて走る。
ㅤ無線で状況報告をする。
ㅤ部隊指揮の演習をする──そこまではまだいい。
ㅤ問題は、その最中に桜庭がゴム弾で撃ってくるという部分である。しかも当てたり当てなかったりするらしい。
ㅤ全く意味が分からない。いや、訓練としての意図はなんとなく理解できる。しかし納得できることは別問題だ。
ㅤ顔面から、さーっと血の気が引くのがわかった。
「……あの、やっぱり遅刻したの怒ってますよね」
「いえ、驚かれた挙句に怯えられたことに怒ってます。私の繊細な心が傷付いたのでその腹いせです」
「桜庭さんが繊細……? ただの私情じゃないですか! 横暴だ!」
「何か?」
ㅤすっと細められた双眸に、反射的に背筋が伸びる。
「…………いえ、何でもアリマセン」
ㅤ即座に前言を撤回した。少なくとも今の彼女を前にして、これ以上の抗議を続ける勇気は俺にはなかった。
超短い補足です。
神祇瑞光院本部=政府
護國衆本部=防衛省
護國衆=自衛隊
のイメージです。