乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話   作:ヤナギ

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EP31〈月下老人〉

 

 

 

 

「おう居た居た、将吾クン。ちょっとええか?」

「はい、何でしょうか」

 

ㅤ桜庭との地獄のような稽古を終え、疲労困憊のまま彩葉の夕食の配膳を済ませる。その後に風呂へ入り、自分の夕食もようやく食べ終えた。

 

ㅤさあ、あとは寝るだけだ。

ㅤそんな安堵を胸に自室へ向かっていたところで、廊下の向こうから歩いてきた公威に呼び止められた。

 

ㅤ粗相をした覚えはないが、一体何だろうと首を傾げながら足を止める。すると彼は、隠そうともしない疲れた顔のまま、クイクイと何かを飲むような仕草をしてみせた。

 

「疲れとる所悪いけど……ちょっと晩酌、付き合うてくれへん?」

「御意のままに。喜んでお供いたします」

 

ㅤ俺は即座に頭を下げる。

ㅤ正直なところ、めちゃくちゃ疲れているし面倒くさい。だが悲しいかな、衣食住を公威に握られている俺が、「疲れてるからまた今度です」などと馬鹿正直に断るはずもない。

 

ㅤもっとも、公威の晩酌に付き合うのは今回が初めてではなかった。小一時間ほど話し相手になれば解放されることは既に知っている。眠気も疲労も限界に近いが、それまでの辛抱だと自分に言い聞かせた。

 

「ほな、前と同じ場所に居るでな」

「すぐに参じます」

 

ㅤひらひらと後ろ手を振る彼の背中を見送り、俺は足早に厨房へ向かった。

 

 他の使用人たちは既に後片付けを終えたらしく姿は見えない。しかし料理長だけは明日の朝の仕込みをしているようで、厨房の明かりだけが薄暗い廊下へ漏れていた。

ㅤ軽くノックをして扉を開けると、料理長は大きな銀ボウルに何かを漬け込んでいる最中だった。

 

「あれ、どうしたん将吾くん? もう寝たかと思ってたわ」

「閣下から晩酌に付き合ってくれ、と」

「またあの方は……まったく、もうすぐ二十三時やろ? こんな時間に子供を酒に付き合わせるなんてなぁ。ほんま申し訳ないわ」

「いえ、まだ寝るつもりはなかったので……」

 

ㅤ本当は手洗いだけ済ませたら、そのまま布団へ倒れ込むつもりだった。だが、公威に声を掛けられてしまった以上は仕方がない。呆れたように眉を下げる料理長へ苦笑いを返すと、彼は小さくため息を吐き、銀ボウルを冷蔵庫へしまった。

 

「ツマミは?」

「いつもの、らしいです」

「ほなパパッと用意するもんで、酒出してくれる?」

「わかりました」

 

ㅤ厨房のさらに奥には、酒だけを保管する小部屋が設けられている。ウイスキー、ワイン、焼酎、日本酒──東西様々な酒が、それぞれ適した方法で管理されている空間だ。

 

ㅤ俺は日本酒が並ぶ棚の前まで歩き、既に半分ほど空になっている一本の瓶を手に取った。

 

 普段の公威はウイスキーを少しずつ舐めるように飲んでいるが、夕食や晩酌の席では決まってこの酒を口にする。

 

ㅤ福井の清流が育んだ、絹のように滑らかな一滴──公威曰く、その口当たりと香りが格別らしい。地元の言葉で「一張羅」を意味する名を冠した、やんごとなき方々も飲んだ事のあるという屈指の高級銘柄だという。

 

ㅤ生憎と前世でも日本酒はほとんど飲まなかったので、その味の良し悪しまでは分からない。それでも、栓を開けた時にふわりと立ち上る香りだけは、ド素人の俺にも心地よいものだと感じられる。

 

「ほい、出来たで将吾くん」

「っす、ありがとうございます」

 

ㅤ隅切盆に徳利とお猪口を揃え、料理長が横からすっと載せた万願寺唐辛子の素焼きを受け取る。熱でふわりと揺れる鰹節の香りが食欲をくすぐった。

ㅤだが、さすがにつまみ食いをするわけにもいかない。ぐっと誘惑を堪え、公威が待つ部屋へ向かう。

 

ㅤどうせなら、ついでに夜食でもお願いすればよかったかもしれない。そんなことをぼんやり考えているうちに、俺は公威の寝室の前へ辿り着いた。

 

「お寝所へ、恐れ入ります」

 

ㅤ廊下から襖越しに声を掛け、静かに中へ足を踏み入れる。

ㅤ薄暗い寝室を抜けると、穏やかな夜風と月明かりに照らされた縁側に、公威が腰を下ろしていた。

ㅤ俺は淀みない手つきで盆を運び、その前へ静かに置く。

 

「おう、おおきに」

 

ㅤ火のついた煙草を指に挟んだまま、公威はそう言って俺の頭を乱雑に撫でた。されるがまま頭を撫でられていると、やがてその大きな手がゆっくり離れる。

 

ㅤ公威は煙草を灰皿へ押し付け、顎で俺へ座るよう促した。どうやら最初から用意してくれていたらしい座布団を、彼より少し部屋側へ寄せるように敷き直し、俺もそこへ腰を下ろす。

 

「おー、素焼きか。将吾クンが焼いたんか?」

「いえ、料理長がまだ厨房にいらしたので作って頂きました」

「ははは、どうせアイツまた何か言っとったやろ。子供をこんな時間に付き合わせるなー、って」

 

 ケラケラと笑いながら、公威はお猪口を持ち上げた。

 俺は少し緊張しながら徳利を取り上げ、左手をその底に添える。手の甲が上にならないよう気をつけながら、まるで糸を垂らすようにお酒を注いだ。

 すっきりとした吟醸香が、風に乗ってふわりと鼻腔をくすぐった。お猪口の八分目まで満たしたところで、徳利の口をくるりと回して引き上げる。

 

「(危ね〜、くしゃみ出そうだった)」

 

ㅤそんな無礼を働いた時には、佐々木に叱責される程度では済まないだろう。公威本人は笑って許してくれるかもしれないが、それでも礼を失したことに変わりはない。ともかく、一滴たりとも零さずに済んだことに、俺は心の中で小さく安堵の息を吐いた。

 

 公威は満足そうに口元を緩めると、注がれたばかりの透明な酒をまずはひとくち、ゆっくりと喉へ流し込む。

 

「ふぅぅ……」

 

ㅤこういう格式ばった作法も、昔の俺なら理解することすらできなかっただろう。

ㅤ初めてお酌の作法など教わったときなど、「こんなのいつ使うんだ」としか思わなかった。それが今では、ごく自然に身体が動いているのだから不思議なものである。

 本当に佐々木様々だ。

 

ㅤまるで全身で酒を味わっているかのような公威の姿を眺めながら、俺も改めて居住まいを正した。

 

「この前の彩葉の誕生日祝い、おおきにな。あの子、えらい喜んどったやろ。桜庭が電話で言うてたで?」

「いえ、閣下のご協力あっての事です」

「そう謙遜すんな。ほんまキミは子供らしくないのぉ……」

「佐々木さんの教育の賜物です」

「そういう割には初めて会うた時から子供らしくなかったやんか。ほんまに将吾クンはあの男にゃ勿体ない。キミがうちに生まれとったらなぁ」

 

ㅤ徳利を手に酒を注ぎ足しながら、公威の言葉を聞く。

ㅤもし本当に西ノ宮家へ生まれていたら、彩葉と”きょうだい”になっていたのだろうか。まあ、想像しても悪い気はしない。……もっとも、彼女が姉であろうと妹であろうと、今とそこまで関係性が変わる気もしないが。

 

「時に将吾クン、あの男についてはどう思てはる?」

「あの男、といいますと……?」

「キミの父親のことや」

「あぁ……」

 

ㅤしばらく考えることすらなかった存在を、久方ぶりに思い返す。

 

ㅤ陸浦東吾──父の名前を知ったのですら、俺にとってはつい最近のことだった。

 

ㅤ前世の両親を思い出させるような雰囲気や態度。母親を放ったらかしにしているという事実。好きになれる要素は、少なくとも今の俺には見当たらない。

 

 もっとも後者については、潜影部でもそれなりに高い地位にあり、多忙を極めているらしいと桜庭から聞いている。事情があることは理解しているつもりだ。

 

ㅤそれでも、どこか割り切れないものが胸に残る。

ㅤ前世の記憶を思い出す以前の記憶がすっぽり抜け落ちている俺にとって、本当の意味で「親」と呼べる存在はいない。強いて言えば、感覚としては一か月余りしか共に過ごしていない名古屋の母くらいだろう。今でも定期的に電話をしているが、彼女の話題のほとんどは俺を気遣うものばかりである。

 

ㅤ対して父はどうだろう。

ㅤ京都へ半ば強引に連れて来られ、西ノ宮家で暮らすことが決まったと思えば、彼はどこかへ姿を消した。それ以来、会話どころか顔すら合わせていない。

 

ㅤここへ来た当初ならともかく、今は彼にも彼の事情や仕事があることくらいは理解している。だから子供じみた反発や嫌悪感はない。だが、名古屋の母へ抱いているような親子としての情愛が、彼に対して湧かないことだけは確かだった。

 

「正直に申し上げますと、好ましくは思っておりません」

「せやろな」

「好き嫌いというよりも、彼がどういう人なのか私にはよくわかりませんので……」

「はははっ、無関心か。難儀やな、キミもアイツも」

「適切な距離感だと愚考しておりますが……御無礼ながら、閣下はどうお考えですか」

「いんや、それが正しいで? 間違っとらん。キミがアイツと深く関わろうとするのはやめた方がええわ」

「と言うと……」

「将吾クンがアイツと仲悪いの、全部アイツのワガママやねん。キミは何も悪くない。悪いのは……まぁ、顔やろ」

「顔?……確かに私の顔は整ってはおりませんが」

「ちゃうちゃう、そういう次元の話やなくて。将吾クン、”アレ”と顔がよう似とるからな。アイツはそれが許せんのやろ。というかキミはカッコイイ顔しとるで? 自信持ちぃ」

「はぁ……」

 

ㅤアレとか、アイツとか。

ㅤ公威の話は抽象的な言葉が多く、肝心な部分がよく分からない。それでも、どうやら俺の顔の造形が父との確執に関係しているらしい、ということだけは理解できた。

 

「まぁ、そこら辺は将吾クンがもっと大人になってから話したるわ。どうせアイツは何も言わへんやろーし」

「まだ早い、と?」

「早いっちゅーか、色々と込み入った話やねん」

 

ㅤそう言って酒を口に運ぶ公威の横顔は、どこか苦いものを噛み締めているように見えた。普段の飄々とした笑みはそこになく、わずかに眉尻を下げた表情には、簡単には言葉にできない複雑な感情が滲んでいるようだった。

 

「ところで、将吾クン」

「はい」

「キミは好きな子とかおらへんの?」

「おりません」

 

ㅤ明らかに逸らされた話題だった。

 それを指摘することなく、俺はただ短く答える。

 

「なんや、錦戸の子と仲良うやっとるみたいなこと佐々木が言うとったが」

「あちらから来られるので……無下にしていないだけですよ」

 

ㅤ彩葉への警告から始まった沙耶香との関係も、今ではすっかり落ち着いている。そもそも当の彼女自身が彩葉への態度を軟化させている以上、俺としても今さら必要以上に距離を置く理由はなかった。

 

ㅤ将来、西ノ宮から逃亡するという裏切りを実行するにあたって、沙耶香との関係は俺にとって一種の生命保険でもある。もっとも、それを抜きにしても彼女へ向ける感情は単なるクラスメイト以上のものではなかった。

 

「なら彩葉はどうや? 佐々木以外にあれだけ懐く相手なんざ、キミしか居らへんで」

「彩葉様は私の主です」

「はっはっは! やっぱり、ほんまにキミが子供か疑うわ。近習、いや付き人としてはキミが正しいんやけどな」

 

ㅤ彩葉は彩葉で、やはりそういう目を向けるべき相手ではないことくらい、俺にも分かっている。次期当主と、その付き人。互いの立場と肩書きがそれを許さないし、最初から俺自身にもそのつもりはない。

ㅤもちろん、一人の人間として好ましく思ってはいる。だが、その感情は恋慕とは程遠く、どちらかといえば手の掛かる妹を相手にしているような気持ちの方が強かった。

 

ㅤというか、そもそも公威は、仮にここで俺が彩葉をそういう意味で好いていると言ったら、一体どうするつもりだったのだろうか。

ㅤ陸浦と西ノ宮がそういう関係になるのはけしからん!──なんて顔色変えて怒るだろうか。よくよく考えたらそうなった方が西ノ宮から離れられたのではとも思ったが、変に波風立てる必要も今は無いか。

 

「将吾クン。これからも彩葉のこと、しっかり頼むで。あの子、目離したら怖いことやりそうで心配やねん」

「はっ……怖いこと、と申しますと」

「倅によお似とる、悪いところがな」

 

 公威の言う倅とは、彩葉の父親のことだろう。だが俺は、その人物についてほとんど何も知らない。

 

 原作では敵側陣営に属しながらも主人公と一定の接点を持っていた沙耶香が、主人公との会話の中で「あの子は私と同じで親がいない」と短く触れた程度だった。

 現実でも、西ノ宮の屋敷でこうして暮らしている俺の前で、彩葉から公威以外の身内の話が出ることはほとんどない。内心では何を思っているのか分からないが、自分の両親について語る姿を見たこともなかった。

 

「ええか、将吾クン。付き人として、お友達として、あの子と仲良うするのはええ。けどほんまに根っこの部分まで彩葉と同じになったらあかんよ」

「……」

「キミが彩葉に盲目的に従うようなら、とっくの昔に名古屋に返しとる。彩葉の教育に悪いんやなくて、キミの教育に悪いからな。でもそうやあらへんから、あの子の傍に付けとる」

 

 高飛車で、傲慢で、我儘で、嫉妬深い──原作における西ノ宮彩葉とは、そういう人間だった。典型的な悪役令嬢と言って差し支えなく、しかも能力まで備えていたが故に、主人公たちにとっては目の上のたんこぶどころの存在ではなかった。

 

 だが、少なくとも一年は隣で過ごしてきた今となっては、俺の知る原作の彩葉と、現実の彩葉との違いは誰の目にも明らかだった。原作との年齢の違いもあるだろうが──ただ、これまで俺が見てきた彩葉という少女は、確かに我儘でプライドも高い。とはいえ、それはあくまで良家に育った子供としての範疇に収まるものであり、原作で描かれていた姿とは大きく隔たっている。

 

 それなのに、公威は今の彩葉を見てなお、そんな言葉を口にした。あるいは、俺が彩葉のすぐ傍にいるからこそ、普段は一定の距離を保って接している公威だから見えているものがあるのかもしれない。だが、彼の言葉には、孫娘を溺愛しているはずの祖父のものとは思えないほど、明確な警戒が滲んでいた。

 

 その瞬間、ふと、いつか沙耶香に言われた言葉が脳裏をよぎる──。

 

「ま、不安はあるが……キミなら大丈夫や、とも思う。キミなら彩葉の悪い影響は受けん。だって将吾クン、あんまり人を信じんタイプやろ?」

「そのような事は」

「別に責めとる訳やない。むしろ褒めとる。ウチらのことも、彩葉のことも全部は信じとらんやろ? それでええ、そのままでええわ。疑心暗鬼にならない程度なら、全部を疑うのは悪いことやない。ましてやこの組織におるなら尚のことな」

「……」

「桜庭くらいやろ? キミが根っこから信じとるの」

 

 否定の言葉は口から出てこなかった。

 確かに俺は、西ノ宮の全てを信じているわけではない。衣食住を保障してくれているという点では信頼している。公威のことも、彩葉のことも、佐々木のことも、他の使用人たちのことも、それぞれに理由があり、それぞれの尺度で信頼を寄せている。

 

 だが、その一方で、俺の持つ原作知識がそこに待ったをかけるのだ。いずれ破滅へ向かうことを知っている家の、何もかもを信じ切れるはずがない、と。

 

 正確に言えば、俺が西ノ宮を全面的に信用できない理由は、将来的な破滅という結果そのものではなく、そこへ至る過程で行われる物事の方だ。あるいは、西ノ宮ならそうなっても不思議ではないと、別の意味で信用してしまっていると言うべきなのかもしれない。

 

 対して、俺が桜庭を信用できている理由は、彼女が陰謀や政治的な駆け引きとは無縁の、純粋武力の体現者だからだ。どれほど誰かが策を巡らせようと、どれほど悪意を積み重ねようと、桜庭はただ刀を振るい、それらを力で断ち切ることが出来る。その在り方は、原作を知る俺にとっても一貫していた。

 

 原作で彼女が妖怪勢力との全面戦争に身を投じたのは、西ノ宮のラディカルな反妖主義に感化されたからではない。

 神祇瑞光院が敗北すれば、日本という国家の安定そのものが揺らぐ。その現実を理解し、護るべきものを護るために戦った。それだけだった。

 

 つまり、桜庭は最も動きが"分かりやすい"人間なのだ。

 

 行動原理が政治ではなく理念にある。

 国家の安定、社会秩序の維持──誰の目にも分かりやすい、国の形を護るという目的のために彼女は刀を振るう。反妖そのものが目的へと変質してしまった原作終盤の西ノ宮独裁体制下の組織においても、桜庭は最期まで護國衆であり続けた。

 

 だからこそ、俺は桜庭を信用しているのだ。

 しかし、いずれにせよ、公威のその言葉を否定できるだけの材料を、俺は持ち合わせていなかった。

 

「案外、キミが桜庭とくっついてくれたら色々と楽なんやけど。ほら、西ノ宮的に……な」

「お言葉ですが、閣下。私が師と仰ぐ桜庭隊長は、私のような餓鬼相手にそのような感情を抱くようなお方ではありません」

「今はそうかもしれへんけど、キミがもっと大人になったら分からんやろ。七歳の差なんて愛の力で越えていくもんや!」

「あの……閣下……御無礼ながら申し上げますと、とても酒臭いです……」

 

 ガシッ、と肩を引き寄せられる。

 至近距離から漂ってくる濃いアルコールの匂いと、ほんのり赤く染まった頬を見れば、公威がすっかり出来上がっていることは一目瞭然だった。

 

「(佐々木さーん! 彩葉ぁ! 助けて!!)」

 

 もしや、俺が来る前から既に飲んでいたな。

 でなければ、おかしい。

 公威は酒に極端に強いわけでも弱いわけでもない。一般的な酒豪でもなければ下戸でもなく、普段の晩酌でこの程度まで酔う人ではない。

 

 そう思って何気なく背後の寝室へ目を向けると、床には空になった一升瓶が一本転がっていた。銘柄までは見えなかったが、栓が抜かれ、中身が空になっていることだけはすぐに分かる。

 

 すぐに心の中で必死に助けを求める。

 せっかくの満月が庭を照らし、夜風も心地よいというのに、この晩酌には風情も何もあったものではない。さっきまで襲っていた眠気など、とっくの昔に吹き飛んでしまっていた。

 

「ごぉぉぉ……」

「ね、寝やがった……」

 

 失礼のない程度に寄せられた肩から逃れようともがいていると、耳元で低いイビキが聞こえてきた。

 嫌な予感がしてバッと公威を見ると、とても気持ち良さそうな顔で眠っているではないか。

 

 この酔っ払いジジイがコノヤロウ──と一瞬イラッとしたが、まさかこのままの体勢で居続ける訳にもいかない。ゆっくりと腕を外し、公威の身体を支えながら背後へ目を向ける。

 彼の布団は既に敷かれていた。この時間なら、おそらく佐々木あたりが用意していったのだろう。

 

 公威の背後へ回り込み、脇へ手を差し入れて力を込める。

 彼は身長も高く、体格もしっかりしている。小学生の身体で持ち上げるには骨が折れる相手だったが、眠りはそれほど深くないのか、身体を引き起こすと、ふらつきながらも素直に立ち上がってくれた。

 

 そのまま倒れさせないよう身体を支え、後ろ向きのまま少しずつ寝室へ下がっていく。布団の前まで来ると、掛け布団を足先で脇へ払い除けた。行儀が悪いことくらい分かっているが、この体勢では他にやりようがない。

 

 震える足でどうにか踏ん張りながら膝をつき、慎重に公威の身体を布団へ横たえる。

 本人はそんな苦労など知る由もなく、実に気持ち良さそうな顔で眠ったままだった。

 

「……はぁ、ったく……」

 

 小さく溜め息を吐き、腹元まで掛け布団を丁寧に掛け直す。俺は彩葉の付き人であって、公威の介護士ではないのだが──と内心で悪態をつく。

 縁側へ戻り、灰皿と酒器を片付けようと立ち上がったところで、大きな欠伸が口から漏れた。

 

「……あ”ー……つかれた」

 

 お盆に灰皿もついでに載せ、転がっていた空になった一升瓶も拾い上げる。縁側の襖を静かに閉め、公威のイビキが響く寝室を後にした。

 

 薄暗い廊下を歩きながら、壁に掛けられた時計へ目をやると、時刻はちょうど午前零時を指していた。結局、彼の晩酌には一時間近くは付き合わされたことになる。

 

 重い足取りのまま厨房へ戻ると、既に料理長の姿はなかった。酒器も洗っていこうかと思ったが、猛烈な眠気が押し寄せてくる。申し訳ないと思いつつも、お盆をそのまま洗い場へ置かせてもらった。

 

 そして瞼を擦りながら自室へ向かった。

 

 やはり、夜は危険だ。

 公威に遭遇すると、どうしても寝る時間が遅くなる。夜更かしばかりしていた前世なら何とも思わなかっただろうが、今は規則正しい生活が身についている。もう次からは極力、公威と鉢合わせないようにしよう。

 

 そんなことを心に決めながら歩いていると、通り過ぎた部屋の襖が開いた。不意に視界の外から聞こえた開閉音に、ビクッと身体が跳ねる。

 

「──あれ、将吾くん。もう寝たんやなかったん?」

 

 不意に掛けられた声に、反射的に肩が跳ねる。

 今日はもう何度驚かされたことか。公威に続いて今度は彩葉である。視界の端からひょこりと姿を現した少女を認めた瞬間、張り詰めていた緊張が一気に抜けていった。

 

「……なんだ彩葉か、驚かすなよ。俺は今から寝るところだ」

 

 思わず恨みがましい声になる。

 公威との晩酌に付き合わされ、先程ようやく解放されたばかりなのだ。今の俺には誰かと雑談をする元気すら残っていない。とにかく部屋へ戻って布団へ飛び込みたい、その一心だった。

 

 そんな俺の様子など気にも留めず、彩葉は一歩近寄ると、ふいに鼻をひくつかせた。

 

「む……ヤニ臭いけど、あんたもしかして吸ったん? いつからそんな不良少年になったんや……およよ」

 

 わざとらしく口元へ手を当て、大袈裟に目を丸くしてみせる。

 どうやら煙草の臭いが相当染み付いているらしい。

 そういえば、公威の隣に一時間近く座っていたのだ。縁側は風通しが良かったとはいえ、あれだけ煙を浴びれば服にも髪にも臭いくらい残るだろう。

 

 俺は自分の袖を軽く持ち上げて嗅いでみた。

 ……確かに臭い。

 

「アホ。閣下の晩酌に付き合ってたんだよ。一時間も隣に居りゃ臭いくらい付くだろ」

 

 ため息交じりに答えると、彩葉は「あぁ」と納得したように頷いた。

 

「お爺様の? ……はぁ、そりゃ災難やったね。うちからキツく言うといたるわ。酔っ払うと面倒やろ、あの人」

 

 妙に実感のこもった口ぶりだった。

 どうやら俺だけが振り回されている訳ではないらしい。

 西ノ宮公威という人物は、普段こそ豪放磊落で頼れる当主だが、酒が入ると急に距離感がおかしくなる。先ほどだって肩を抱かれたまま寝落ちされるという被害を受けたばかりだ。

 

 思い返しただけで、どっと疲労感が押し寄せてくる。彩葉も何度か似たような目に遭っているのだろう。呆れたように肩を竦める様子には、俺への同情が滲んでいた。

 

「てか、お前は?」

 

 この時間に廊下を歩いている理由が気になって尋ねる。日付は既に変わっている。彩葉も普段ならとっくに眠っている時間だった。

 

「喉渇いたから、お水取ってこようか思たの」

 

 実に単純な理由だったが、襲いかかってくる眠気のせいで、頭がほとんど回らなかった。そんな俺の様子を見て察したのか、彩葉も珍しく軽口を控えめにしている。

 

 やがて彼女は呆れたように小さく溜め息をつくと、廊下の照明を点けた。

 

「んなフラフラ歩いとったら、お化けと間違えられるわ。ほら、はよ寝ぇ。布団は敷いとる?」

「ん、敷いた」

「ならええね」

 

 呆れ半分、心配半分といった声音だった。

 自分では普通に歩いているつもりだったが、彩葉から見れば相当危なっかしく映っていたらしい。言われてみれば、頭はぼんやりしているし、足元もどこか覚束ない。壁にぶつかっても不思議ではないくらいには眠気と疲労が限界まで来ていた。

 そんな俺の様子を見兼ねたのか、彩葉は小さく息を吐くと、当然のように俺の腕を掴んだ。

 

「ほら」

 

 ぐい、と引っ張られる。

 引っ張ると言っても子供同士の細い腕だ。力任せではない。それでも、今の俺にはその僅かな力に身を任せるだけで十分だった。

 言われるがまま歩き出す。

 

 廊下に差し込む月明かりが板張りの床を淡く照らしていた。昼間なら使用人たちが忙しなく行き交うこの廊下も、深夜ともなれば驚くほど静かで、響くのは俺たちの足音だけだ。

 

 彩葉は俺の歩幅に合わせるようにゆっくり歩き、そのまま自分の部屋の斜め向かいにある俺の部屋まで連れて行き、襖を静かに開けてくれた。

 

 布団へ倒れ込むように身体を預ける。

 全身から力が抜ける。畳の匂いと布団の感触が心地よく、身体がそのまま沈み込んでいくようだった。

 

 すると、その直後にふわりと布団が背中へ掛けられた。

 まるで下へ引っ張られているように重い瞼を何とか持ち上げると、彩葉が何とも言えない表情で俺を見下ろしている。

 眠気で視界が滲み、その表情まではよく分からない。だが、その手つきだけは妙に優しかった気がした。

 

「ほな今度こそおやすみ、将吾くん……ったく、お爺様ったら。佐々木に叱って貰わなかんな」

 

 おやすみ、と返したつもりだった。

 けれど、眠気でふにゃけた声になっていたせいで、きっと何を言ったのか伝わってはいないだろう。彩葉は小さく笑うと、部屋の明かりを消した。

 

 襖の閉まる音を最後に、意識はゆっくりと眠りへ沈んでいく。

 考え事をする余力すらなく、俺の意識は眠気に呑み込まれていった。

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