乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話   作:ヤナギ

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EP32〈Les quatre〉

 

 

 

──夏休みが終わり、新学期が始まった。

 

 さりとて、前世の如く遊び呆けていた訳ではない。宿題は早々に片付け、残る毎日は桜庭との稽古と彩葉の世話、それに使用人の手伝いを繰り返していた。振り返ってみれば休暇らしい休暇などほとんどなく、気付けば二ヶ月が過ぎ去っていたという感覚である。

 

 故に、学校が始まったことを嫌がる気持ちよりも、それらの時間が学業によって削られることへの嬉しさの方が勝るのは、俺が西ノ宮での生活にどっぷり浸かっているからなのだろう。

 

 少なくとも、何時間も木刀を振り続けたり、重りを付けて走り回ったりするよりは、教室で授業を受けている方が遥かに身体的には楽なのだ。精神的に楽かと言われたら、やはり小学校なんて面倒この上ないのだけれども。

 

「眠たい……」

「シャキッとしろよ、寝坊助」

 

 隣では彩葉が机に突っ伏し、大きな欠伸を噛み殺していた。夏休み明け初日だというのに、教室の賑やかな空気などまるで耳に入っていないらしい。

 

 もっとも、それは俺も人のことを言えない。

 昨日は桜庭に木刀で滅多打ちにされた。当然、彼女ほどに全力で叩かれたら、木刀とはいえ俺の命は瞬く間に消えるだろう。翌日が久々の登校日ということもあって普段より手加減はして貰えたが、しかしそれでも全身がくまなく痛く、まともに寝付けなかったせいで寝不足になった。

 

 俺はヒリヒリと痛む腕を撫でながら彩葉から視線を外し、周囲のクラスメイトと談笑している鳴宮少年へ目を向ける。

 

 彼の監視任務は継続している。

 夏休み中は潜影部が引き継いでいたが、学校が始まった今日からは再び俺がその役割を担うことになっていた。

 

 正直なところ、彼の様子を見る限りでは、もはや情報漏洩を心配する必要はないようにも思える。

 以前の一件以来、組織に関する話題には全く踏み込まなくなったし、警戒心も十分に身についている。大脇からも、夏休み中に問題があったとは聞いていない。

 

 それでも念には念をということなのだろう。鳴宮少年の監視が解かれるのは、少なくとも年内のことではないはずだ。

 

「陸浦くん、西ノ宮さん、久しぶり! 夏休みはどうだった?」

「んあ?」

「夏休み明けやっちゅうのに、よおそんな元気でおられるなぁ……」

 

 そんなことを考えながら、提出する宿題を鞄から取り出して確認していると、横から明るい声が飛んできた。顔を上げれば、二ヶ月前と変わらぬ笑顔を浮かべた沙耶香が立っている。

 

 俺も彩葉も出校日は休んでいたこともあり、こうして直接顔を合わせるのは久しぶりだった。以前と変わらぬ調子で話しかけてくる様子を見る限り、彼女にとってもこの二ヶ月は特別な変化のない時間だったのだろう。

 

「なんで? 久々の学校じゃない、楽しいに決まってるよ」

「どういう思考回路してはるの、あんた」

「おはー」

「うん、おはよう陸浦くん。ああ、あと西ノ宮さん誕生日おめでとう! 錦戸から電報は送ったけど、改めて私からも」

「ん、おおきに」

 

 俺はもう、彩葉と沙耶香の関係を必要以上に気にしないことにしていた。

 良好ならそれに越したことはないし、仮に今後また悪化するようなことがあれば、その時に改めて考えればいい。そう割り切るようになってからは、原作知識との食い違いに一喜一憂することも少なくなった。

 

 もっとも、俺にではなく彩葉へ満面の笑みを向けている沙耶香の姿を見ていると、以前抱いていた警戒心そのものが馬鹿らしく思えてくるのもあったのだが。

 

 ともかく、二ヶ月という期間を空けても、彼女たちの関係は変わっていないようである。

 

「そうだ。二人にこれ、お土産」

「あん? ……なにこれ」

「彫刻のクリスタル! 私、夏休みはずっと奈良の別邸に居たから、ついでに買ってきたの。大仏さまと鹿の二種類あるよ」

「へぇ、じゃあ俺は仏さんの方貰うわ。ありがとうな」

「鹿さん……」

 

 手乗りサイズの箱に入ったクリスタルの置物を受け取る。

 掌に収まる程度の大きさで、制服のポケットにも十分入るくらい小さい。透明な結晶の中に大仏が彫り込まれており、窓から差し込む朝日を受けてきらりと光を反射していた。

 

 中身が俺にはあまり関心のない大仏であることを除けば、部屋へ飾っておいても邪魔にはならないだろう。殺風景な俺の部屋も、少しくらいは彩りが増えるかもしれない。

 

 一方の彩葉も欠伸をしながら身体を起こし、箱から取り出した鹿のクリスタルを指先でくるくると回し、興味深そうに綺麗な彫刻を眺めていた。

 

「悪いな、こっちは渡せそうなもんねぇや」

「あはは、いいのいいの。別にお返しが欲しくて渡したわけじゃないんだもの。……ところで二人とも、例の話は聞いた?」

 

 沙耶香は急に声量を落とし、囁くように尋ねてきた。

 先ほどまでの朗らかな雰囲気は消え、表情もどこか真剣味を帯びている。俺と彩葉は思わず顔を見合わせ、そのまま訝しげに彼女を見返した。

 

「なんの事だよ」

「あれ、西ノ宮の方では何もないの?」

「待ちぃや沙耶香。それ、ここで話していいことなん?」

「あっ」

「お前さぁ……」

 

 内容までは分からない。だが、その口ぶりからして組織か家に関わる話なのだろうということだけは察した。

 

 彩葉は好奇心よりも先に彼女を制した。

 沙耶香は慌てて口を押さえたが、止められなければ普通に話し始めていたのだろう。教室にはクラスメイトが大勢いる。こんな場所で機密かもしれない話を平然と始めようとするあたり、危機感が薄いにも程がある。

 

 思わずため息が漏れた。一度痛い目を見て以降、組織の話題には必要以上に踏み込まなくなった鳴宮少年よりも、今では沙耶香の方がよほど危なっかしく思えた。

 

「ご、ごめーん……」

「家かあっちか、どっちの話だ?」

「後者かな」

「なら余計にあかんやん」

「うっ」

 

 彩葉が呆れたような白い目を向けながら、容赦なくツッコミを入れる。

 どうせ夏休み明けで気が緩んでいたのだろう。そう思った俺は、それ以上口を挟むことはしなかった。

 

「ま、まぁ、この話は追々ね。二人にも物凄く関係のある話だし……」

「ほーん……」

「早よあんたも席座りぃや、委員長。先生来たで」

「あっ、ほんとだ! じゃあまた後でね!」

 

 慌ただしく自分の席へ戻っていく沙耶香の背中を見送る。その足取りはいつも通り軽く、さっきまで機密事項らしき話を切り出していた本人とは思えないほどだった。

 

 入れ替わるように担任が教壇へ立ち、教室の空気が少しずつ落ち着いていく。席へ着いていなかったクラスメイトたちも慌てて椅子を引き、ざわついていた教室は朝のホームルームらしい静けさへと変わり始めた。

 

 その一方で、彩葉はまだ眠気が抜け切っていないらしい。何度目かも分からない欠伸を漏らすと、そのまま机へ突っ伏してしまう。始業式の日くらいは少しはシャキッとしろ、と言いたくなるが、夏休み中も何だかんだ忙しくしていたのは俺も同じだ。人のことは言えない。

 

 しかし俺は、そんな彩葉の様子よりも、先ほど沙耶香が口にした言葉の方が気になって仕方がなかった。

 

──二人にも無関係な話じゃない。

 

 それだけなら、ただの世間話で済むかもしれない。だが、あいつはわざわざ声を潜め、周囲を気にしながら話しかけてきた。そして神祇瑞光院に関わる話題だとも言ったが、しかしあの様子だと本当に噂話をするような雰囲気でもあった。まるで井戸端会議をする主婦のような、そんな印象を受けていたのもあり、その真面目さの度合いを俺は測りかねていたのである。

 

 もちろん、沙耶香は機密と雑談の区別がつかない人間ではない。……いや、さっき教室で話そうとしていた辺り、かなり怪しい部分はあるのだが、それでも彼女なりに何か理由があって切り出したのだろうとは思う。少なくとも、無関係じゃないと断言した以上、組織に何らかの動きがあったことだけは間違いないはずだ。

 

 とはいえ──今ここであれこれ考えても答えが出る話ではない。俺の想像だけで結論を出すのは無意味だった。

 

「(まぁ、後で聞けばいいか)」

 

 どうせ後で聞ける話だし、そもそも彼女を静止したのは自分たちの方だ。少なくとも、教室でするような話ではないことは確かで、周りの目を気にせずに話せるタイミングは放課後くらいしかないのである。

 

 幸いにも、新学期初日ということもあって時間割はとても短い。これから始業式に出て、宿題を提出して、新学期の係決めを済ませれば今日の予定は終わりだ。

 気になることは気になるが、あと数時間も待てば聞ける話なのだから、今この場で考え込む必要はない。

 

 そう自分に言い聞かせながら一度思考を脇へ追いやり、俺は教壇へ視線を戻した。担任は既に出欠簿を開き、新学期最初のホームルームを始めようとしていた。

 

 

 

■■■

 

 

 

「それで、例の話ってのは?」

 

 

 放課後──迎えの使用人には連絡して待機してもらい、俺と彩葉と沙耶香は、机や雑具が積み上がった空き教室で落ち合わせた。途中で教頭と鉢合わせたが、彩葉と沙耶香の二人が並んでいるのを見て何となく事情を察したらしく、特に何も言わず教室の鍵を開けてくれた。

 

 既に多くの生徒は下校していて、校内に残っているのは教員や一部の生徒だけ。そしてこの空き教室は、職員室などがある本校舎最上階の一番端に位置しており、普段から人の出入りはほとんどない。同じ階にあるのもパソコン室や理科室、資料室といった特別教室ばかりで、授業時間でもなければ人影は疎らだ。廊下も静まり返っていて、誰かが近付けば足音ですぐ分かる。内緒話をするにはこれ以上ない場所だった。

 

 窓から差し込む陽光が、積み上げられた机や椅子を長く照らしている。使われなくなった教室特有の少し乾いた匂いの中、俺は教壇へ腰掛け、彩葉は窓際の席へ腰を下ろした。

 そして沙耶香は俺たちの前へ立つと、小さく周囲を見回してからようやく口を開いた。

 

「この前、錦戸派のお偉いさんとお祖母様がうちで話していたのを盗み聞いたんだけどー……今、結構ピリピリしてるでしょ? 色んなところ」

「七月の件か」

「そ、潜影部が独断専行して任務に失敗しちゃったってやつ。西ノ宮さんの事件にも関わっている相手を取り逃したーってのは前々から聞いてはいたんだけど……」

 

 その話なら、俺の耳にも入ってきていた。

 先々月──俺が彩葉を誕生日祝いとして水族館へ連れて行った、あの日のことだ。途中で桜庭が緊急任務を理由に離脱したのが気になり、後日それとなく事情を尋ねたところ、「潜影部の失態に巻き込まれた」と珍しく愚痴を零していたのである。

 更に、その一件を受けて総会の長老たちが潜影部を厳しく叱責したらしいという話も、屋敷の使用人たちの噂話から耳にしていた。表立って各所に通達されるような話ではないが、それだけ院内でも波紋を広げた出来事だったのだろう。

 

「お祖母様と話してたその錦戸派のお偉いさんっていうのがね、潜影部と結構関わっている人で。色々と情報が入ってくるんだって。盗み聞いてたのバレちゃって怒られた後に、注意されたことがあるの」

「注意されたこと?」

「うん。その潜影部が取り逃した人……加納だったっけ? その人が妖怪と協力関係にあるのは、エージェントたちが殉職しちゃった事で分かってるんだけど、その加納が私たちを狙ってるかもしれない、って」

「なに?」

 

 思わず腰を浮かせ、眉を顰める。

 俺の原作知識の中に、加納という人物は存在しない。そもそも三月の襲撃事件そのものが、本来の流れには無かった出来事だ。その裏で動いている人物の情報など、知る由もない。

 

 事件から数か月が経ち、護國衆の警戒態勢も以前とは比べ物にならないほど強化されている。だからこそ、どこかで「もう同じことは起きないだろう」と考えていた部分があった。

 だが、その認識は甘かった。

 護國衆が警戒していることと、相手が諦めることはまるで別の話だ。相手がまだ動いているというのなら、こちらが安心していい理由にはならない。

 

「……彩葉、大丈夫か?」

 

 そう言って隣を見る。

 この教室へ入ってからというもの、彩葉はほとんど口を開いていなかった。直接命を狙われた本人にとって、襲撃事件の黒幕の話題など地雷以外の何物でもない。

 

 あの事件の時、彼女は妖怪への憎悪よりも先に恐怖を抱いていた。それだけは今でもよく覚えている。事件後、お互いにその日の出来事へ深く触れることは避けてきたため、今の彼女がどう受け止めているのかまでは分からない。

 だが、自分を襲わせた相手が再び動いているかもしれないと聞かされれば、平静でいられるはずもないだろう。

 

「……ん、平気」

 

 短く返ってきた声は普段と変わらない。だからこそ、その一言だけで済ませたことが、かえって俺には引っ掛かった。表情もいつもと大差はない。気丈に振る舞っているだけなのか、それとも本当に吹っ切れているのか。事件の後、彩葉自身があの日のことを自分から口にしたことは一度もなかった。その胸の内を俺は知らない。

 

 それに気付いたのか、沙耶香がハッとしたように彩葉を見た。

 

「ご、ごめん西ノ宮さん」

「平気や言うとるやろ? というか、その話がホントならあんたも当事者やん。うちに要らん気遣いする前に、自分の心配するべきや」

「それは……そう、かもしれないけどさ」

 

 沙耶香は困ったように視線を伏せ、小さく肩をすくめた。彩葉の言うことは正しい。だからこそ、返す言葉が見つからないのだろう。

 

「なあ……お前らを狙っているかもしれないってのは分かったが、しかしどうやってだ? 今の一番隊はかなり厳戒に府内を巡回してるぞ。桜庭さ……桜庭隊長だって、今は京都への滞在時間の方が長いんだ。どうこう出来るとは考え辛いだろ」

「前みたいに下校中には襲えへんって? まあ、桜庭さんともあろうお人が同じ轍を踏むとはうちも思わんさかい……やけど、錦戸派の人がそう言うってことは、ある程度の根拠があっての事やろ。潜影部と繋がってはるんなら、余計に」

 

 潜影部という部署は、護國衆とは異なり御三家との結び付きが色濃い組織だ。そのため部内にも自然と、それぞれの家と近しい人間関係が出来上がっている。派閥と呼ぶほど明確ではないにせよ、誰がどの家に近いかという空気は確かに存在し、情報の流れにも少なからず影響を及ぼしている。

 

 つまり今回の話も、彼女の話を聞くに、錦戸に近い潜影部の人間から錦戸派へ情報が伝わり、それが沙耶香の耳にまで届いた流れである。

 

 親西ノ宮、親錦戸、親霧島──それぞれ忠誠や帰属意識の向く先は違えど、御三家ほど露骨に派閥争いへ身を投じている訳ではない。だからこそ、そんな人間たちが何の根拠もなく「彩葉と沙耶香が狙われる」と口にするとも思えなかった。

 

 憶測だけで家の子女へ警戒を促せば、それだけで余計な混乱を招く。まして潜影部は、情報の正確性がそのまま人命に直結する部署だ。多少話が尾ひれを付けて伝わることはあっても、火種すらない噂話を持ち込むほど軽い組織ではない。

 

 彩葉の推察には十分な説得力があり、俺も思わず唸る。

 そこでふと、彼女たちのとある共通点が頭に浮かび、一つの疑問が口をついて出た。

 

「なら、霧島家は? お前ら二人に子供であること以外の共通点があるなら、それは御三家の次期当主って肩書きだろ? 霧島の次期当主は決まってないらしいが、候補ならいるだろう」

 

 御三家という括りで考えるなら、西ノ宮と錦戸だけが狙われるというのは少し不自然だ。加納が神祇瑞光院を揺さぶるつもりなら、その標的は一つや二つでは済まないはずである。少なくとも、院内の立場や肩書きだけを見れば、霧島もまた同じ御三家であり、次代を担う候補者を抱えている家だ。

 だからこそ、俺はその存在が気になった。

 

「霧島は……どうなんだろ、何にも言われてないや。ただ私や西ノ宮さんが狙われるかも、としか……」

 

 沙耶香は小さく首を傾げながら答える。その様子を見る限り、彼女には霧島家に関する情報は伝わっていないらしい。単に伏せられているだけなのか、それとも本当に対象から外れているのか。その判断がつくほどの材料は、今は無かった。

 すると、それまで腕を組んで静かに話を聞いていた彩葉が、呆れたように息を吐く。

 

「いや……あそこはなぁ、当主息子の兄弟仲悪すぎて逆に狙われる可能性は低いと思うわ」

 

 その口ぶりには迷いがない。御三家同士だからこそ知っている内情なのだろう。俺も霧島について知識はあるにはあるが、それは西ノ宮へ来てから耳にした断片的な話ばかりで、彩葉のように断言できるほどのものではなかった。

 

「なんで?」

 

 沙耶香が素直に聞き返す。彼女は御三家それぞれの内部事情にまで詳しい訳ではないらしい。

 むしろ、彩葉の方が当然のように答えようとしているあたり、単にコイツが詳しいだけなのだろうが。

 

「互いを蹴落とそうとしとるんやで、あそこ。加納がそれを利用しようにも、兄弟の互いの警戒心もあってガードが硬すぎる。おまけに京都からも滅多に出えへんし。襲おうにも、相手の刺客やと思われて逆に尻尾掴まれるのがオチや」

 

 思っていた以上に物騒な話だった。

 原作ではそもそも神祇瑞光院の描写は少なく、御三家でさえ、西ノ宮と錦戸ばかりに視点が当てられていた。霧島は、御三家の中で最も描写が少なかった一族だった。

 

 だからこそ、俺が知っている霧島家とは、この世界で実際に見聞きした断片的な情報ばかりだ。西ノ宮で暮らすようになって耳にした噂や、使用人たちの世間話、佐々木や彩葉が何気なく口にした程度の知識しか持ち合わせていない。

 

 しかし兄弟が反目しあっているとは──。

 家督継承を争っているのか。同じ御三家といっても、西ノ宮や錦戸とは随分と空気が違うようだ。

 

 ただまあ、敵からすれば、守りが堅い相手へ無理に手を伸ばすより、隙のある標的を狙う方が合理的だ。彩葉の説明を聞けば、その理屈自体には納得せざるを得ない。

 

「加納がそこまで把握してるかね?」

「内部に居るうちらほど詳しく知っとるとは思えへんけど、二十そこらの霧島の兄弟よりも、小学生でしかない沙耶香やうちの方が狙いやすいってのは明らかやろ」

 

 彩葉の言う通りだった。

 体格も経験も判断力も、大人と子供では決定的な開きがある。敵が本当に御三家を害することで神祇瑞光院を揺さぶろうとするならば、より手を出しやすい標的へ向かうという発想自体は、決して不自然ではない。

 

「ま、まぁ、二人とも。議論はそこまでにしてくれると……本題は別にあるの」

 

 俺と彩葉が互いの推測を重ねていると、沙耶香が申し訳なさそうに割って入った。いつの間にか話の中心は霧島家へ移ってしまっていた。本来、この場を設けたのは彼女だ。話を脱線させたのはこちらなのだから、止めに入られるのも当然である。

 俺は小さく咳払いをして頭を切り替えた。

 

「別? まだなんかあるのか?」

 

 ここまでの話だけでも十分に重い。

 加納が彩葉と沙耶香を狙っているかもしれない。その警告を受けたからこそ、彼女は俺たちを人気のない空き教室へ呼び出したのだと思っていた。

 

 だからこそ、「本題は別にある」と言われたことに、少なからず意外さを覚える。

 

「つまるところ、実際に私たちが狙われたらどうしよう、っていう話がしたかったの。私は」

 

 沙耶香はそう言って視線を伏せ、両手の指先を落ち着かなげに絡めた。

 

 なるほど、と内心で納得する。

 自身が受けた警告を彩葉と俺に伝えること自体が目的なら、こんな風に呼び出す必要はない。西ノ宮邸に電話をかければ済む話だ。

 つまり彼女が欲しかったのは情報交換ではなく、同じ立場にいる俺たちと、この不安を共有することだったのだろう。

 

「……そうならないように、錦戸は色々と考えてるんじゃないのか。お前にその話が回ってくるなら、西ノ宮も既に把握している情報ではあるだろうし」

 

 俺がそう返したのは、自分に言い聞かせる意味もあった。

 少なくとも、組織の大人たちが何もせず手をこまねいているとは思えない。

 潜影部から錦戸派へ情報が流れ、その先で沙耶香にまで話が届いている。それだけ情報が広がっているのなら、警備体制の見直しくらいは既に始まっているはずだ。

 

 西ノ宮に至ってはなおさらだ。公威が何も知らないとは考えにくいし、佐々木や桜庭が平然としている以上、既に必要な手は打たれていると考える方が自然だった。

 

「せやねぇ。万が一の時にちゃんと即応してくれるよう、桜庭さんに頼むくらいしか出来ひんわ」

 

 彩葉は肩を竦めながら苦笑する。

 その言葉は半ば冗談めいていたが、実際のところ、それが最善なのだろう。桜庭の京都への滞在が以前よりも増えている今ほど安全な時期もそうない。俺も異論はなかった。

 

「う、そうだよね……」

 

 沙耶香は力なく頷く。それ以上、誰も言葉を続けなかった。

 空き教室に静かな沈黙が落ちた。外から聞こえてくるのは、道路を走る車やバイクの排気音くらいだ。

 

 彩葉は椅子の背にもたれながら顎へ手を添え、窓の外へ視線を向けている。沙耶香の話を受けて何か考え込んでいるのか、それとも情報を整理しているのか、その表情からは読み取れない。

 沙耶香もまた俯き加減のまま、自分の膝へ視線を落としていた。少しは肩の荷が下りてくれたならば良いが、逆に家でされた警告が現実味を帯びてしまったかもしれない。彼女の様子は、どちらともつかなかった。

 

 俺自身も頭の中では、先ほどまでの話を反芻している。

 加納という存在。潜影部から流れてきた警告。そして彩葉と沙耶香が狙われるかもしれないという話。

 どれも軽く流せる内容ではない。だが、今ここで考え続けたところで答えが出る訳でもなし。実際に襲撃があれば、付き人として彩葉を護る以外の選択肢はないのだから。

 

「っ」

 

 そんな事を考えていると、不意に下腹部へ違和感が走った。

 どうやら尿意らしい。

 今日は朝から暑く、学校へ来てからも何度か水筒の水を飲んでいる。夏休みが終わったとはいえ、残暑はまだまだ厳しい。熱中症を避けるためにも水分補給を意識していた結果が、こんなところで返ってきたようだ。

 

 俺は小さく息を吐いて教壇から腰を上げる。長時間腰掛けていたせいで制服のズボンへ付いた埃を、軽く手で払った。

 

「すまん、ちょっとお手洗い」

「あ、うん、わかった。……時間も時間だし、将吾くんが戻ってきたら帰ろっか」

「ん」

 

 二人へ一言断り、教室の扉へ向かう。

 

 ガラリ、と静かに扉を開けると、廊下もまた静寂に包まれている。夏休み明けの始業式──それも既に下校時刻を過ぎている時間帯だ。この区画に誰もいないのも当然である。

 

 廊下へ出て、後ろ手で静かに扉を閉めた。

 

「はぁ……」

 

 思っていた以上に重い話だった。

 頭の中では、加納のことや沙耶香の不安、彩葉のメンタル……これから先に起こり得ることが次々と浮かんでくる。しかし、今ここで一人考え込んだところで答えが出る訳でもない。どうせ教室へ戻れば話の続きだ。その時に改めて整理すればいい。

 

 まずは用を足そう。

 そう気持ちを切り替え、一歩踏み出そうとした──その次の瞬間だった。

 

「あ、やべ」

「あん?」

 

 すぐ足元の方から聞こえてきた声に、思わず動きを止める。

 

 反射的に視線を落とした。

 そこには、綺麗に刈り揃えられたスポーツ刈りの短髪と、制服の袖から覗く小麦色に焼けた腕が見えた。廊下へしゃがみ込み、壁際へ身体を寄せるような格好のまま、丸い目をこれでもかというほど見開いている。

 

 そして、その顔には「見つかった」という焦りが、これ以上ないほど分かりやすく浮かんでいた。

 

「…………」

「…………」

 

 彼と目が合う。

 ほんの数秒にも満たない沈黙だったはずなのに、妙に長く感じられた。

 

 相手の額からは、見ているこちらが引くほどの冷や汗が流れている。誤魔化そうという気配すらなく、完全に現行犯だった。

 

 その様子を見た瞬間、俺の頬がぴくりと引き攣る。

 嫌な予感しかしない……というより、この状況で良い予感を抱けという方が無理な話だった。

 

「……お前、何やってんだ」

「ぐ……」

 

 つい先ほどまで、神祇瑞光院に関わる重要な話をしていた空き教室。その扉の真横で息を潜めていた人影の正体を理解した瞬間、俺は思わず頭を抱えたくなった。

 

 よりにもよって、お前か。

 聞かれて困るからわざわざ場所まで選んだというのに、そのすぐ外で聞き耳を立てられていたのでは何の意味もない。

 

 しかも、この様子を見る限り、偶然通りかかったという言い訳も到底受け入れ難い。どう考えても最初から最後まで聞いていた顔だ。俺を見てこれだけ慌てふためいている時点で、問い質すまでもなく答えは出ていた。

 

 問題は、どこまで彼の耳に入っていたかだった。

 もし全部だとしたら洒落では済まない。そうでなくとも、俺の面倒事が増えることは間違いない。せめて何も聞かなかったことにして、何も言わずに家に帰って欲しいと心の底から願う。

 

 しかし現実はそうならないらしかった。

 まるで悪戯を親に見つかった子供のように身体を強張らせ、気まずそうに視線を泳がせる少年。

 

 

──鳴宮旭が、そこにいた。

 

 

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