乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
俺は、彼のことを嫌ってはいない。
自慢げに金持ちアピールをするのも、まあ裕福な餓鬼なんてそんなものだろうとしか思わなかったし、彩葉への分かりやすい好意は見ていて微笑ましくさえあった。
組織や妖怪の情報が漏れていると西ノ宮へ報告したのは、俺の立場を考えれば当然の行いだったと自負しているが、かといって一週間近く姿を消した彼を心配しなかった訳でもない。
つまるところ俺にとって鳴宮旭とは、監視対象である前に──友人と呼ぶほど親しい間柄ではないにせよ──少なくとも同じ教室で過ごすクラスメイトとしては悪くない奴だと思っていた訳だ。
「ち、ちがっ……」
「──」
何かを言おうとした彼の口を咄嗟に塞ぎ、その腕を掴んで歩き出す。教室の中にいる二人へ気付かれないよう足早に廊下を進み、そのまま近くの男子トイレへ押し込んだ。
人気のない時間帯だったこともあり、中には誰もいない。入口を確認してから乱暴に手を離すと、鳴宮少年は体勢を崩し、そのまま床へ尻餅をついた。
俺を見上げる顔には困惑と恐怖が入り混じっている。
まあ、そうだろう。
突然腕を掴まれ、有無を言わさず連れて来られたのだ。加えて今の俺は、自分でも分かるくらい頭に血が上っている。どんな表情をしているのかは鏡でも見なければ分からないが、少なくとも笑ってはいないだろう。
「おい。お前、自分の立場分かってんのか」
鳴宮少年は答えない。
ただ、唇を固く結んだまま俺を見つめ返している。
まずは話を聞こう、と心を落ち着かせる。
ここ数ヶ月の彼を見てきた限り、例の一件以降は明らかに態度が変わっていた。西ノ宮に関する話題へ自分から触れようとすることもなくなったし、夏休み中の様子についても大脇から問題は無かったと聞いている。
だからこそ、まさかまた自分から首を突っ込むような真似をするとは思っていなかった。余計に理解が出来ない。
どうしてあそこに居たのか。そんな疑問と苛立ちが入り混じり、自分でも驚くほど低い声になっていた。
「知っての通り、お前は監視されている。四六時中、誰かが常に見ている。例の件のあと、お前ら一家がどういう状態に置かれていたかも俺は聞いた──その上で、なんであそこに居た。お前、そこまで馬鹿でもないだろ」
「……俺を、消すか?」
右足を押さえながら、震えた声で彼は呟いた。
その一言に、思わず眉を寄せる。
西ノ宮への恐怖は、まだ消えていないらしい。いや、当然か。どうやら公威が有する別の家に軟禁されたらしい、というのは俺も最近知ったことだが、小学生の彼が経験するにはあまりに突飛な出来事であったのとは想像に難くない。その反応は当然と言えた。
「質問に先に答えろ」
「……信じないだろ。俺が、何を言ったって」
「信じる信じないはこっちが決めることだ。だからまず、お前の言い分を聞いてやるって言ってんだよ。はよ言え」
しばらく俯いたまま黙り込んでいた鳴宮少年だったが、やがて諦めたように小さく息を吐き、ぽつりぽつりと事情を話し始めた。
「……夏休みの宿題、理科のやつで分からないのがあって。教えてやるから理科室に来るようにって、理科の先生に言われたんだ」
「おん」
「それで理科室で教えてもらって帰ろうとしたら、誰もいないはずの教室から話し声が聞こえて……誰がいるんだろうって思って、少しだけ覗いた。そしたら、お前らが居て」
そこで一度言葉を切り、鳴宮少年は苦々しく眉を寄せる。
「やばいと思って、すぐ帰ろうとしたんだ」
「それで?」
「……足、つった」
「…………」
思わず黙り込む。怒鳴ればいいのか、呆れればいいのか、自分でも判断が付かなかった。
しかし右足を押さえたまま顔をしかめる様子を見る限り、少なくとも嘘を吐いているようには見えない。
そういえば教室を出た時も、こいつは壁際へしゃがみ込んだまま冷や汗を流していた。あの狼狽ぶりも、俺に見つかった焦りだけではなく、逃げたくても身体が動かなかった事情まで含めれば、一応筋は通る。
……もっとも、覗いた時点で十分にアウトなのだが。
「はぁぁぁ……」
自然と肩から力が抜けた。
一発くらいは殴ってやろうと握っていた拳の行き場が、あまりにも締まらない理由のせいで一瞬にして消え失せてしまったのである。
さて、どうしたものか。
俺たちの話の内容までは聞いていない。右足を押さえている様子からして、その場で動けなくなったという話にもおそらく嘘はないだろう。だが、それで何も無かったことに出来るほど簡単な話でもない。
放課後、人の寄り付かない空き教室で俺と彩葉、それに沙耶香が集まっていた。その事実だけは見られてしまっている。内容こそ知らなくとも、「普通ではない何か」を話していたことくらいは察したはずだ。西ノ宮が普通の家ではないことは、先の一件で嫌というほど思い知らされている。そんな連中が、下校時間を過ぎた別棟の空き教室で密談していたのだ。まともな話ではないと考える方が自然だった。
だから本来なら、報告する。
鳴宮少年は監視対象であり、組織へ繋がる情報へ再び接触した以上、上へ伝える理由としては十分だった。俺へ与えられている任務は監視であり、「大したことではないと思ったので黙っていました」などという勝手な判断は、本来許されない。
──だが今回ばかりは、その結論へどうしても踏み切れなかった。
まず、鳴宮少年は盗み聞きをしようとした訳ではない。
偶然俺たちを見つけ、まずいと思ってその場を離れようとし、その瞬間に足をつって逃げ遅れただけ。
組織の新しい情報を得た訳でも、誰かへ漏らした訳でもない。沙耶香が関係者であることまで察した可能性は否定出来ないが、それだけを理由に一家を再び危険へ晒すのは、どうにも後味が悪かった。
あの事件以来、鳴宮一家はようやく元の生活を取り戻し始めている。両親は一時的な保護という名目で自由を制限され、鳴宮少年自身も監視対象となった。
夏休み前までは、俺も学校ではずっと監視役としてこいつを見続けてきた。その一家が、「たまたま見かけてしまった」という、笑い話にもならない理由だけで再び疑われる。下手をすれば、今度こそ一家まとめて切り捨てられるかもしれない。
……その切っ掛けが、足をつったという間抜け極まりない顛末だというのだから、なおさら割り切れなかったのである。
そもそも、責任が全て鳴宮少年にあるとも言えなかった。
西ノ宮と錦戸の関係を考えれば直接会える機会が学校くらいしかないのだが、それでも俺達には電話で密談するという手段もあった。わざわざ放課後に落ち合い、人払い出来る教室を選んだとはいえ、校舎内で話していた以上、誰かに見つかる可能性は最初からゼロではない。
そして、その「誰か」がたまたま鳴宮少年だった──ただ、それだけの話でもあった。
長く息を吐く。
任務を優先するべきなのは理解している。それでも今回の件まで機械的に報告することだけは、どうしても出来なかった。
「…………とりあえず、今日は帰れ」
散々考えた末に、ようやくそれだけを口にする。
学校の周囲には潜影部の人間が待機している。もっとも、あれは不測の事態へ即応するための保険であって、校内での俺たちの一挙手一投足まで監視している訳ではない。
この場で起きたことを知っているのは俺と鳴宮だけだ。
そう自分へ言い聞かせる。
「鳴宮、お前次はないぞ」
しゃがみ込んだままの彼を見下ろす。
「こんな馬鹿げた理由で家ごと消されたくなかったら、自分の身の振り方くらい考えろ。好奇心も興味も、俺たちには二度と向けるな。分かったか」
「……ごめん」
謝罪を聞いても気分は晴れなかった。
報告するべきか、見逃すべきか。その答えは最後まで出ないままだったが、それでも今この場で鳴宮を突き放すことだけは出来なかったのである。
「ったく……」
彩葉と沙耶香が狙われているかもしれないという話だけでも胃が重いというのに、今度は鳴宮少年だ。木刀を振るうより頭を使う方が疲れるなど、前世では思いもしなかった。
「おい、鳴宮」
トイレを出ようとする彼を呼び止める。
「俺が先に戻る。お前は十分くらいここで待ってから帰れ。耳閉じて個室にでも籠もってろ」
「……わかった」
足を引きずりながら鳴宮少年は素直に頷いた。
俺が無理やり引っ張ったせいで痛みが残っているのだろうが、同情する気にはなれない。面倒事を持ち込んだのはこいつ自身なのだから。
──俺へ命じられているのは、彼を監視し、情報の漏洩を防ぐことだ。
しかしそれは彼の日常を逐一報告することでも、偶発的な出来事を何もかも上へ上げることでもない。今回の件は俺の目の届く範囲で収まり、情報が外へ漏れた形跡もない。
ならば、ここで終わらせる。少なくとも今は、それが与えられた裁量の範囲内なのだと、自分自身へ言い聞かせた。
■■■
「まだヤツは見つからないのか」
愛知県名古屋市中区──久屋大通公園から程近い雑居ビル。その一室に設けられた会議室では、古びたブラインドが西日を遮り、白々しい蛍光灯の光だけが室内を照らしていた。
折り畳み机を囲む男たちの表情は、一様に険しい。
「大津のエージェント殺害事件の際、一番隊滋賀班の捜索へ警邏隊も投入された。その時、警邏機のカメラが捉えたこのクーペ……間違いなく加納が乗っている」
机へ置かれた写真を指差し、一人の男が低く告げる。
その画像には、高速道路を走る一台のクーペがはっきり映し出されていた。また二枚目には、サーモグラフィーもある。後部座席に一人、運転席に一人。パイロットの報告では、そのどちらかから妖気を感じ取ったという。
「進行方向からして、名古屋に来たのは間違いない。だが、それ以降の足取りがまるで掴めん」
「──たーけ。その車が見つからんじゃ、どーにもならんがね」
加納事件。滋賀県大津市でのエージェント殺害を経て、行方が分からなくなった加納の身柄を今度こそ拘束するために集まった彼らであったが、突如、場違いなほど気の抜けた声が飛んだ。
会議室の隅では、一人の壮年の男がパイプ椅子を二脚並べて寝転び、競馬新聞を広げたまま欠伸を噛み殺している。
「毛受ッ! 貴様、何を呑気に寛いでいる!」
怒号が飛ぶ。
しかし怒鳴られた本人はどこ吹く風で、鼻をほじりながら新聞を一枚めくった。
日本全国へ網の目のように情報網を張り巡らせる潜影部には、護國衆や警邏隊のような明確な担当区域は存在しない。北海道の稚内から沖縄の与那国まで、必要とあれば全国どこへでもエージェントは派遣される。
もっとも、各地に置かれた活動拠点へ常駐する人員は、その土地の出身者で固められていることが少なくなかった。土地勘があり、人脈があり、街の空気を知っている──そうした人間の方が、情報収集には都合が良いからだ。
そして、新聞を読みながら欠伸を漏らしているこの男も、その典型だった。
愛知に点在する潜影部の活動拠点を束ね、そして東海地区全域の情報を集約して京都本部へ上げる責任者の一人──言ってしまえば、潜影部における中間管理職である。
その肩書きだけを聞けば歴戦の敏腕指揮官を想像する者も多いだろう。だが現実は、会議中にも拘らず鼻をほじりながら新聞を読み耽る始末である。
この光景に名古屋のエージェントたちは今さら何も言わない。いつものことだ、とでも言いたげに淡々と受け流していた。しかし、本部から応援として派遣されてきたエージェントたちは違った。何人かは額へ青筋を浮かべ、今にも机を叩きそうな勢いで毛受を睨み付けていた。
「だいたい、なんで俺らが京都ん奴らの尻拭いせなかんのだて。お前ら大人しく八ツ橋でも食っとりゃええがね。余計なことしよってからに。はぁ、嫌だ嫌だ」
「なんだとっ……!」
吐き捨てるような物言いに、ついに一人が堪忍袋の緒を切らした。椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がり、そのまま毛受へ掴みかかろうとする。
「ま、まぁまぁ! 落ち着いてください! この人、いつもこんなんなんです! 本部の人だから喧嘩売っとるとか、そういう訳じゃないんで! ね? 毛受さん! ……ほら、毛受さんも何か言ってくださいよぉ!」
間一髪で二人の間へ割って入った若いエージェントが、汗を流しながら必死に宥める。毛受の部下なのだろう。怒鳴る京都組へ頭を下げては毛受を振り返り、また頭を下げる。その慣れ切った動きだけで、普段からどれだけ胃を痛めているのかが容易に想像出来た。
もっとも、その苦労人ぶりを当の本人が気にする様子は、一欠片もない。
毛受は寝転んだ姿勢を崩すことなく新聞を捲り、片耳へ差し込んだイヤホンから流れる競馬中継へ耳を傾けている。周囲で怒号が飛び交っているというのに、まるで自分とは無関係な出来事だと言わんばかりだった。
「はぁ……」
煙草の煙を細く吐き出しながら、一人の男が肩を竦めた。
彼──帯刀一朗もまた、本部から派遣されてきた古株のエージェントだった。しかし毛受とは長い付き合いがある。彼のこの程度の暴言は今さら聞き慣れているのか、怒るどころか苦笑すら浮かべていた。
「せやけど毛受、名古屋のことはお前さんの方が俺らより知っとるやろ。大津の件がうちらの不手際やったんは否定せぇへん。実際そうやしな」
そう言って一度言葉を切ると、煙草の灰を灰皿へ落とす。
「ただな、うちらも総会で大目玉食ろうた後なんや。このまま何も成果なしやと、今度こそ首が飛ぶ。ダチの好で頼むわ。力、貸してくれへんか」
その言葉が落ちると同時に、先ほどまで怒号の飛び交っていた会議室は、水を打ったように静まり返った。
競馬中継だけが、毛受が耳に付けていない方のイヤホンから小さく流れている。誰も口を開かない。全員が、寝転がったまま新聞を読んでいる毛受の返答を待っていた。
「…………ちっ」
しばらくして、毛受はようやく新聞を畳み、心底面倒臭そうに舌打ちを漏らした。
「ほんなら今度、京都のええ料亭連れてけ。帯刀」
その一言に、帯刀は思わず苦笑する。
「かまへんよ。お前がちゃんと手ぇ貸してくれんならな」
「ちゃんと舞妓さんと遊べるとこだぞ。しょーもない店はいかんぞ」
「任しとき。別嬪さんがおる店、ちゃんと押さえたるわ」
「ふん……なら、しゃあねぇ」
毛受は鼻を鳴らしながら新聞を脇へ放り投げ、ようやく椅子から腰を上げた。
「……車ぁ見つからん以上、加納と妖怪はまだこの辺うろついとる可能性が高ぇ。そのまんま高速乗っとりゃ、とっくに関東の連中が掴んどる。名古屋で消えたんなら、ここで探した方が早ぇ」
面倒臭そうに頭を掻きながらホワイトボードの前まで歩き、地図を指先で叩く。
「まあ、とりあえず一個言っとく」
「……何だ」
「俺は無駄足踏むんは大っ嫌いなんだわ。京都本部のエリート様だろうが関係ねぇ。お前ら全員俺の指示に従え。余計なことしたらそん時ゃ知らん。勝手に死に腐れ」
ぶっきらぼうな物言いだった。
それでも、部屋の空気は先程までとは明らかに変わる。
東海地方全域の”情報”を束ねる男が、ようやく本腰を入れて仕事を始める──その一言だけで十分だった。
「……まず、情報を整理しましょうか」
会議室の一角でノートパソコンを操作していた若いエージェントが口を開く。
大型モニターへ時系列と日本地図が映し出されると、それまで好き勝手に意見を交わしていた面々も自然と口を閉じた。雑多だった視線が一斉にスクリーンへ集まり、先ほどまでの険悪な空気とは別種の緊張が室内を支配する。
「今年の三月十日、京都府左京区・市原交差点付近で彩葉様が妖怪に襲撃される事件が発生。同七月二十五日には大阪・梅田駅近郊の雑居ビルで一番隊大阪班が複数名死傷。そして七月二十七日、滋賀県大津市の加納邸において、本部付エージェント五名が殉職しました」
事件が一つ読み上げられるごとに画面の地図へ赤い印が追加されていく。
京都、大阪、滋賀。
近畿一帯を結ぶように並ぶ三つの地点は、それぞれ独立した事件でありながら、一つの線として繋がって見えた。
「これら一連の妖怪事件の背後にいるのは、日本民政党所属の国会議員・加納晴彦氏で間違いないと見ています。ここ数ヶ月、反人間派の妖怪たちの間で急速に広まっている"スポンサー"も、おそらく同一人物でしょう」
「ほんで、大津の一件のあとや」
帯刀が煙草を咥えたまま前へ歩み出る。
レーザーポインターの赤い点が、滋賀県から名阪高速道路をなぞるように南西へ動いた。
「加納はクーペに乗って名阪高速を名古屋方面へ逃走。一宮インターを降りたところまでは確認できとる。問題は、その先」
画面が切り替わる。
一宮市から名古屋市内へ至る道路網が航空写真へ重ねられ、その上へ逃走経路が赤線で描かれていた。
「一宮を降りてから先の足取りが、ぷっつり途絶えとる。防犯カメラにも、高速の監視映像にも残っとらん。まるで最初から存在せんかったみたいにな」
その一文だけで、会議室の空気が重くなる。
妖怪が関与している以上、人間の常識だけでは測れない。
全員が分かっている事実だからこそ、その"消えた"という結果が余計に不気味だった。
「けったいな妖術使う奴がおるもんやの」
誰かが苦々しく呟く。
「車一台消すだけでも十分厄介だってぇのに、監視カメラまで誤魔化されちゃ追いようがねぇが……」
毛受は椅子へ深く腰掛けたまま腕を組み、しばらく天井を眺めていた。焦っている様子はない。だが、それは楽観しているからではない。この男は考える時ほど口数が減る。
やがて腕を解き、ゆっくり身体を起こした。
「都合よく車隠せる場所なんざ腐るほどある。工場、倉庫、港、それこそ得体の知れん解体屋や車のバイヤーまで入れりゃあ数え切れん。問題は、その中のどこへ潜り込んだかだな」
その一言で、再び会議室が静まり返る。
工場地帯、臨海部、物流倉庫、中古車ヤード。
頭の中で候補地を思い浮かべているのは毛受だけではない。東海組の何人かも地図を睨みながら、それぞれ経験則や土地勘に照らして可能性を絞り込もうとしていた。
「市内の妖怪グループは?」
京都組の一人が尋ねる。毛受は即答しなかった。
壁へ貼られた名古屋市内の地図へ目をやる。
赤いピン、青いピン、黄色いピン。
この地の潜影部が長年かけて積み上げてきた情報が、そこにはびっしりと詰まっていた。
「名古屋の妖怪は、どいつもこいつも地元のヤクザだの海外マフィアだのと組んで商売しとる。金にならん喧嘩は好かん連中ばっかだで、人間を利用することはあっても、反人間テロなんぞ起こすような馬鹿ぁおらん」
東海組にとっては今さら説明するまでもない話だった。
この土地の妖怪コミュニティを動かしているのは思想ではなく利益だ。徹底した拝金主義といってもいい。だからヤクザとも付き合うし、マフィアも引き込む。反人間的な妖怪なら彼らにも好戦的だが、ここの連中はそうではない。関東関西とは異なる特徴だ。性質としては九州の妖怪とも近しいだろう。
「だから、金さえ積まれりゃ匿うくらいは平気でやるだろうな。連中にとっちゃ思想なんざどうでもええ。儲かるか儲からんか、それだけだ」
「それなら、妖怪グループを洗った方が早いのでは?」
「いえ、それは違います」
モニターを操作していた若いエージェントが、間髪入れずに否定した。
手元のキーボードを叩く音だけが静かな会議室へ響く。
「数が多すぎます。規模の大小まで含めれば、我々でも全容は把握し切れていません。関西は桜庭隊長がかなりの勢力を短期で潰したそうですが、東海は事情が違います。一つ一つ当たっていては、時間が掛かり過ぎます」
画面が切り替わり、スクリーンには逃走経路と黒いクーペの写真が大きく映し出された。
部屋中の視線が、一斉にその車へ集まる。
「対して追うべき車は一台だけです。車種、色、特徴も判明している。完全に姿を消したように見えても、どこかで必ず痕跡は残ります」
「せやな」
帯刀は腕を組んだまま、小さく頷いた。
「妖怪は嘘吐けても、車は嘘吐かへん。どっかで必ず足が付く」
その一言に、室内へ僅かな納得の空気が流れる。
車は物だ。
妖術で人目やカメラを欺けても、燃料を補給し、どこかへ保管される以上、社会の痕跡から完全に切り離すことは難しい。たとえ加納たちが既に車を乗り捨てていようが、それも重要な証拠品である。回収しない選択肢はなかった。
毛受もようやく鼻を鳴らす。
「ま、そういうこった。痕跡は薄くとも必ず残る。まず追うべきは、このクーペだ」
「その車が見つからないとどうしようもないと言ったのは、お前だろうが……」
呆れたように京都組の男がぼやく。
すると毛受は面倒臭そうに頭を掻き、鼻で笑った。
「見つからん見つからん言っとっても始まらんがや。だもんで、その見つけ方を今考えとるんだろ」
「ちっ、やはり貴様とは反りが合わん」
「そこまでにしときや」
帯刀は苦笑混じりに二人を制すると、壁へ貼られた名古屋市内の地図へ視線を向けた。
「……毛受、まずは配置を分けよう」
「ああ」
毛受は煙草を一本取り出し、ライターで火を点けた。
紫煙をゆっくり吐き出しながら、壁一面へ貼られた名古屋市内の地図を黙って眺める。
港湾部、工業地帯、幹線道路、物流拠点──赤や青のマーカーで幾重にも書き込まれた情報を一通り目で追うと、迷いなく四か所へ指先を置いた。
「見つからんかったら三河まで範囲広げなかんが……まずは名古屋だ。俺らは南区と港区。お前らは熱田区と中川区を当たれ」
「……その四つなのは何故だ?」
京都組の一人が怪訝そうに眉を寄せる。
質問を予想していたのか、毛受は表情一つ変えない。彼は地図の上で指先を滑らせながら、それぞれの区を順に叩いていく。
「車隠せる場所が多いから。港区は名港抱えとるし、コンテナも倉庫も掃いて捨てるほどある。南区は工場と整備工場、中川区は物流屋や中古車屋、それに資材置場も多ぇ。熱田なら都心にも港にも出やすい」
指先は港から南区へ、中川区を経て熱田区へと流れる。
どれも車が日常的に出入りする街ばかりだ。大型トラックが絶えず往来している他、そもそも車社会ゆえに、たとえ何処かに一台車が放置された程度では誰も気にも留めないのである。
「どこも車があって当たり前の場所だもんで、一台二台増えたところで目立たん」
東海組の面々は無言で頷いた。
一方、京都から派遣されたエージェントたちは地図を見比べながら位置関係を頭へ叩き込んでいく。土地勘がある者と無い者では、同じ地図でも見えている景色がまるで違った。
「それに加納は名古屋の人間じゃねぇ」
毛受は地図から手を離さない。
指先は市街地の中心部を避けるように、港湾部から工業地帯をなぞっていく。
「土地勘のねぇ奴は、結局"誰が見ても隠しやすそうな場所"を選ぶ。地元しか知らんような穴場なんざ使えん。まずはそういう分かりやすい場所を潰す。それで居らなんだら、次を考えりゃええ」
経験から導き出した結論だった。
人の思考を読むより、知らない土地へ逃げ込んだ人が取り得る選択肢を一つずつ削っていく。その方が遥かに確実だと、毛受は長年の経験で知っていた。
「最初から全部探すんやなく、順番に潰していくっちゅう訳か」
帯刀が感心したように呟く。
「そういうこと」
毛受は短く返した。
「最初っから市内全部に人ばら撒いたら、人手が足りん。まずは"初見の逃亡犯が選びそうな場所"を四つに絞る。それで外れたら、その時に範囲広げりゃええ」
理屈としては単純だった。
限られた人数で最大の成果を得るには、最初から全てを追うのではなく、可能性を削りながら範囲を広げていくしかない。
「しかし毛受さん」
若いエージェントが地図を眺めたまま口を開く。
「加納がわざわざ港区まで行きますかね。車を捨てるにしても、匿われるにしても少し遠回りな気がしますが」
会議室の視線が再び毛受へ集まる。
毛受は煙草を灰皿へ押し付けると、小さく肩を竦めた。
「良い車乗っとるし、鍋田埠頭にでも行ったか」
誰かが軽口を叩く。東海組に小さな笑いが漏れるが、毛受はすぐさま切り捨てた。
「滋賀の金持ち国会議員が鍋田なんぞ知っとる訳ないがや、たーけ。だいたい、このクーペは加納が乗っとるってだけで、コイツが運転しとる訳じゃねぇだろ」
毛受は呆れたように肩を竦めると、再び壁へ貼られた地図へ視線を戻した。指先は名古屋港一帯をなぞったあと、そのまま南区、中川区へと滑っていく。
「まあ、俺も港区に居るとは思っとらん。けどな、『どうせ居らん』で切り捨てた場所に後から見つかるなんざ、一番みっともねぇ。だから最初に潰す。そんだけの話だ」
経験則に裏打ちされたその判断へ、異を唱える者はいなかった。地図や統計資料だけでは分からない土地の癖を知っているからこそ、彼は東海方面の取りまとめ役を任されている。その言葉には、机上の分析とは別種の重みがあった。
「では、その方針で進めましょう」
若いエージェントはすぐさまノートパソコンを操作し、プリンタから吐き出された資料をまとめて帯刀へ差し出す。
「帯刀さん。熱田区と中川区の捜索資料です」
「おう、おおきに」
帯刀は受け取った資料へ軽く目を通した。
綴じられた数枚の紙には衛星写真を重ねた道路地図をはじめ、工場や物流倉庫、中古車販売店、整備工場、解体業者、資材置場の所在地が細かく書き込まれている。
さらに妖怪勢力の縄張りや暴力団・海外マフィアの活動区域、主要企業の敷地配置、過去に盗難車両が発見された地点まで色分けされており、一目で"車を隠すならどこか"を洗い出せるよう整理されていた。妖怪云々は機密なのでともかく、その他の精度や密度は警察も欲しがるレベルだろうと帯刀は感心する。
「相変わらず、此処の資料はよう出来とるな」
「何十年も積み上げてきた情報です」
港区と南区を担当する毛受たちの手元にも、当然ながら同じ資料が配られていた。
もっとも、彼ら東海方面のエージェントにとって名古屋は庭のようなものだ。道路一本、工場一つ、倉庫街の配置に至るまで、長年の活動で身体へ染み付いている。普段なら地図を開く必要すらない。
だが、今回の相手は違う。
追うのは妖怪でも組織でもなく、一台の黒いクーペ。
人間社会へ紛れ込んだ車両を探し出す任務は、彼らにとっても決して得意分野ではなかった。だからこそ、経験だけに頼ることはしない。蓄積された情報を一つずつ照らし合わせ、可能性を潰していくしかない。
会議室には資料をめくる音だけが静かに響く。
地図を頭へ叩き込み、それぞれが担当区域と役割を確認する。誰もが無駄口を叩くことはなく、先ほどまで言い争っていた京都組と東海組の間にも、今は奇妙な一体感が生まれていた。
やがて帯刀は資料を閉じると、小さく息を吐いた。
「……ほな、始めるか」
その一言を合図に、会議室の空気が一変する。
椅子が引かれ、資料が鞄へ収められ、無線機の電源が次々と入れられていく。
加納晴彦を追うための、本格的な捜索が始まろうとしていた。
もっと妖怪側視点書きたいよぉ