乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
「将吾くん、あなたなぜ自分の誕生日を言わないのです」
「はい?」
鳴宮少年を半信半疑のまま見逃した翌日のこと──新学期が始まり、桜庭との稽古も夏休み中のように頻繁にではなく、不定期へ切り替わることが決まっている。
いつも通りの稽古を終え、一息ついて木刀を肩へ担いだところで、不意に彼女の口から飛び出した言葉に、俺は意味が分からず間の抜けた声を漏らしてしまう。
「……というと」
「先ほど、使用人の方がお話しているのを偶然耳にしました。『そういえば将吾くんのお誕生日をお祝いしていませんでしたね』と、そのようなお話です」
「あー……」
あまりにも脈絡のない話題だったため、一瞬だけ思考が追い付かなかった。しかし何について言われているのかを理解すると、小さく頭を掻く。
「もう終わっているとは思いませんでした。そのような素振りもありませんでしたし」
「すいません、普通に忘れてました」
ちなみに俺の誕生日は八月一日である。しかし転生を自覚した小学四年生の夏以前の記憶が、この世界で生まれてからのものも含めて綺麗さっぱり失われている俺にとって、その日付は「自分の誕生日」という実感をほとんど伴わない。
人格の連続性だけを考えるなら、今の俺は前世の俺と地続きだ。だが、その間には、この世界で生まれてから小学四年生になるまでという大きな空白が横たわっている。
例えるなら、一冊の日記そのものは残っているのに、途中のページだけ綺麗に破り取られてしまったようなものだ。そこに何が書かれていたのかは分からず、読み返すことも出来ない。
だから八月一日と聞けば、それが陸浦将吾という人間の誕生日なのだとは理解している。しかし、それが俺自身の誕生日なのだという実感だけは、どうにも湧いてこなかった。去年も気付けば何事もなく過ぎ去り、今年もまた同じように忘れていたのである。
しかし、そんな俺の事情など知る由もない桜庭は、どこか納得していない様子だった。
相変わらず表情そのものは殆ど変わらないが、僅かな間の取り方や声色からは、不満とも呆れともつかない感情が滲み出ている。付き合いも長くなった今では、その程度の機微なら俺にも何となく読み取れるようになっていた。
「まぁ、俺の誕生日なんてどうでも良いでしょう。祝いの言葉は母や彩葉たちから貰っていますし、今さらの話です」
「私は今日知ったばかりなのですが」
「……そうみたいですね?」
誕生日当日、最初に声を掛けてきたのは彩葉だった。
いつもの笑みで祝いの言葉を口にし、そのまま「はい、プレゼント」と差し出してきたのは、葛飾北斎の”凱風快晴”──いわゆる赤富士が描かれた扇子だ。
水族館へ出掛けた際、暑さに耐えかねて何度も彼女の扇子を借りようとしたのを覚えていたのだろう。それだけではない。以前、日本画の話になった時、「北斎くらいしか知らねぇ」と何気なく口にしたことまで覚えていたらしく、わざわざその絵柄を選んできたらしい。
その次は母から電話が掛かってきて、「誕生日くらい贅沢しなさい」と小遣いが送金された。更に佐々木からそれを受け取り、公威からは新しい着物まで贈られた。
……つまり、自分では誕生日だという実感がまるで無かっただけで、普通に周囲からは祝われているのである。不思議な事があるものだ。
「常々思っていましたが、将吾くんは、自分のことにあまり関心がないのですか? まったく、私にも教えてくだされば良いのに」
関心がない訳ではない。もし本当にそうなら、俺は西ノ宮から逃げ出そうなどとは考えないだろう。
「今度、プレゼントでも持ってきますよ。何か欲しいものはありますか」
「え、いや、良いですよ別に。いつもお世話になってますし」
「いえ、持っていきます」
「あ、はい」
有無を言わさぬ口調だった。どうやら誕生日プレゼントを贈ることは、桜庭の中ではすでに決定事項らしい。
とはいえ、欲しい物と言われても本当に思い浮かばなかった。強いて挙げるならスマートフォンくらいだが、流石に一応はまだ未成年の桜庭へねだるような代物ではない。端末代だけでなく通信費も掛かる。それについては、いずれ佐々木へ相談するつもりではある。
もっとも、一度こうと決めた桜庭が引き下がる姿は想像できなかった。何を持ってきてくれるつもりなのかは分からないが、変に遠慮を重ねても、結局は押し切られる未来しか見えないのである。
そんなことを考えていると、桜庭のポケットから電子音が鳴り響いた。
稽古時間の終了を知らせるストップウォッチだった。
今日は比較的軽めの内容だったこともあり、身体にはまだ余力が残っている。息もすっかり整い、腕や脚に鉛のような重さもない。自主練を追加しても問題はなさそうだが、生憎と今日は部屋の片付けを手伝えと彩葉に言われているので、そんな時間はない。
二人で木刀を手に、そのまま裏山を下っていく。
屋敷の裏口から続くこの雑木林は、俺たち以外の人間が出入りすることはない。ゆえに、獣道のような土の上を歩くたび、乾いた落ち葉や小枝が控えめな音を立てる。
九月へ入ったとはいえ、京都の残暑は厳しい。木々が強い日差しを遮ってくれている分だけ幾分過ごしやすいものの、稽古で滲んだ汗は簡単には引かなかった。それでも、ときおり林の中を吹き抜ける風だけは火照った身体へ心地よく、額に張り付いた前髪を静かに揺らしていく。
他愛もない雑談を交わしながら歩き、やがて西ノ宮邸の裏口へ辿り着く。塀に設けられた木戸の前まで来たところで、桜庭はふと思い出したように足を止めた。
「そういえば、将吾くん。伝え忘れておりました。今週と来週の稽古ですが、お休みにしても宜しいですか」
「任務ですか?」
「ええ。少し東京の方まで」
桜庭は静かに頷く。
「今朝、本部から応援派遣の命令がありまして。急なのはいつものことですが……来週に予定されている国際会議で、妖怪によるテロが発生する可能性があるそうです。四番隊の対テロ警戒任務へ参加するよう命じられました」
各国から多数の要人が来日する国際会議ともなれば、警備体制が最大級へ引き上げられるのは当然。警察に限らずとも、南関東を管轄する四番隊も、都県ごとの各班を含めて総力を挙げて警戒へ当たるはず──それでもなお、護國衆本部がわざわざ桜庭へ派遣命令を出したということは、少しでも戦力を厚くしておきたい事情があるのかもしれない。
たとえば、テロの可能性が極めて高いから、とか。
もっとも、俺はその先を深く尋ねるつもりはなかった。いくら個人的に師弟のような関係があるとはいえ、俺は今の自分がただの子供であることを忘れてはいない。護國衆の任務に関わる詳細な内情を知る立場にはないし、そも桜庭も、話して差し支えないこと以上を自分から口にする人ではなかった。
「もちろん、護國衆としての任務をご優先してください。以前頂いたメニューがありますし、その間も自主練はしっかりやっておきます」
「申し訳ありませんね。代わりにお土産でも買ってきますよ。いなごの佃煮で良いですか」
「俺が虫を好きじゃないってこと知ってて言ってるの、ほんと貴方らしいですよ」
ちょくちょく挟んでくる小ボケにも、とっくの昔に慣れてしまった。全くの真顔で冗談を口にするところまで含めて、桜庭という人間である。彼女は意外と気さくなのだ。
そんなやり取りを交わしたあと、俺は巡回へ向かう桜庭を西ノ宮邸の正門で見送った。門を出た彼女の背中はいつも通り勇ましく、歩みには一切の迷いがなかった。具体的な日程は聞いていないが、先程の口振りだと、近いうちに東京へ出立するのだろう彼女は、やはり気負った様子など微塵も見せず、ただ当然のように持ち場へ向かっていく。
いつも大変だな、と素直に思う。桜庭だからではなく単純にああいう人間は尊敬に値する。だが、その姿を見てもなお、自分も護國衆になりたいとは欠片も思わない。前世では敵ながら格好いいななんて思ったりもしたが、今は遠い記憶だ。
そもそも国を守るだの、人を救うだの、そんな大義を背負えるほど、俺は出来た人間ではないのである。付き人として主である彩葉を護らなくては、という俺の責任感は、言ってしまえば自己保身。彼女たちのような国家や社会のために命を懸ける覚悟とは全く別なのだ。
そんなことをぼんやり考えながら廊下を歩き、屋敷の中へ戻る。思考はそこで自然と途切れ、俺はいつもの日常へ意識を切り替えた。
──自分の部屋へ戻ると、案の定というべきか、彩葉が俺の座椅子を我が物顔で占領していた。
今日はたしか日本舞踊の稽古が久々にあったはずだが、どうやら既に終えて帰ってきていたらしい。座椅子へ深々ともたれ、机へ頬杖をつきながら、のんびりと小説を眺めている。
「あ、おかえり〜将吾くん。今日もお疲れさん」
「おう」
俺の姿を見ても立ち上がる気配は一切ない。今さら「そこは俺のだ」などと言う気も起きなかった。木刀を部屋の隅へ立て掛け、押し入れから着替えを引っ張り出す。稽古終わりで汗もかいているし、裾には土汚れも付いていた。何をするにも、まずは風呂へ入って汗を流したかった。
「風呂入ってくるわ。お前の部屋片付けるの、飯食ったあとでもいいか?」
「あー……いや、今日はええよ。なんか佐々木がやってくれはったから」
「お前、あんまあの人を動かすんじゃないよ。ぶっ倒れたらどうする」
眉を顰めながら小さく息をつく。
長いリハビリを経て日常生活へ戻っているとはいえ、佐々木の身体はまだ万全には程遠い。本人は以前と変わらぬ調子で動いているつもりなのだろうが、傍から見ていれば、無理を押していることくらいすぐ分かる。だからこそ、彩葉の我儘にまで付き合わせてほしくはない、というのが俺の本音だった。
しかし、当の彩葉は不満そうに頬を膨らませる。
「別にうちが頼んだ訳やあらへんよ。お爺さまにまた執務室を追い出されて暇やったから、って……ニコニコ笑いながら掃除機かけてたわ」
「なんだ、またか」
「またや」
互いに顔を見合わせ、揃って溜息をつく。
あの人のワーカーホリックは、襲撃事件で負った怪我なんかより、よほど根が深い。俺も彩葉も公威も、屋敷の使用人たちも、口を揃えて無理せず休めと言い続けている。本人もその度に「分かりました」と苦笑してみせるのだが、その舌の根も乾かぬうちに、気付けば何かしら仕事を見つけて動き回っている。
もはや性分なのだろう。働いていなければ落ち着かない人間というのは、出来ることなら何もせずだらだらしていたい俺とは、根本からして生き物が違う。他人だったら出来れば近付きたくもないが、曲がりなりにも同じ屋根の下で暮らす人である。普通に心配しかなかった。
「あの人はほんと、何時になったら大人しくするんだ」
「ほんまにね。そろそろ手錠と縄でもかけたろか。そこらの柱に括り付けときゃ、幾分か大人しなるやろ」
「……手錠、持ってんの?」
「……いや?」
彩葉は一拍置くと、わざとらしく視線を横へ逸らした。
その妙な間が引っ掛かり、俺は思わず半歩だけ後ずさる。
「おいなんだその間は。返答によっちゃ、お前との距離を改めさせて貰うぞ」
「冗談に決まっとるやんか。あんた、変なところで真に受けるなあ」
堪えきれないといった様子で肩を揺らし、彩葉はくすくすと笑う。その顔には悪戯が成功した子供のような満足げな色が浮かんでいた。
「ほうら、さっさと風呂行ってきーや。ほんのり汗臭いで?」
「今度お前の部屋片付けた時、危険物が無いか絶対に物色してやる」
「やん、えっち」
俺をからかって、その反応を見て笑う。
こいつはそういう人間だ。
まともに相手をしたところで、面白がられるだけなのは分かっている。それでも結局、毎回こうして言い返してしまうのだから、調子を握られているのは案外こちらの方なのだろう。
俺はこれ以上付き合う気もなく、話を切り上げると、着替えを抱えて彩葉に背を向けた。
背後では、してやったりと言わんばかりの小さな笑い声が聞こえてくる。振り返るのも癪だったので、そのまま脱衣所へ向かいながら、小さく肩を竦めた。
服を脱ぎ始めたところで、ふと思う。
……やっぱり、本当にあいつの部屋を漁ってみるか。
別に手錠だの縄だのを本気で持っているとは思っていない。思ってはいないのだが、あの妙な間を見せられると、妙に引っ掛かるのである。
少なくとも、彩葉の私物には少しばかり警戒しておいた方が良さそうだった。
■■■
──桜庭が東京へ発ったことで、放課後の時間には少しばかり余裕が生まれた。
とはいえ、その分だけ暇になる訳ではない。夏休み中に渡された自主練用のメニューはそのまま残っており、彼女が不在だからといって鍛錬まで休みになることはなかった。
現在の自主練は、木刀による素振りが中心である。
以前、桜庭の座学で聞いた話では、護國衆──とりわけ桜庭のように刀を主武器とする者たちが修める剣術は、かの京八流を源流としながら、長い歴史の中で独自に発展してきたものらしい。数百年にわたり妖怪との戦いを積み重ねる中で磨き上げられ、今では京八流そのものとは異なる、一つの技術体系として受け継がれているという。
もっとも、その肝心の型や技を、俺はまだ教わっていない。そも真剣に触れたことすら無い身だ。今の段階で振っている木刀も、剣術そのものを学ぶためというより、体幹や足腰を鍛え、正しい身体の使い方を身につけるための土台作りに過ぎない。
極めて地味で単調な鍛錬である。ただ、その単調さを苦に思わなくなったあたり、自分でも随分変わったものだと思う。
桜庭が任務で来られない日にこの自主練を行っている俺だが、稽古の予定がない日であっても、最低一時間の素振りだけは欠かさない。最初の頃はサボりが桜庭にバレたら怖いというだけで木刀を握っていたはずなのに、今では一日振らないだけで妙に身体の据わりが悪い。気付けば、それが生活の一部として身体へ染み付いていた。
かつての俺なら、まず考えられなかった習慣である。
「(七百八十九、七百九十、七百九十一……)」
一定の呼吸を刻みながら、木刀を振る。
自主練で課されている回数は八百本。初めてメニューを渡された時は彼女の正気を疑った。小学五年生に毎日ではなくとも八百本も木刀を振らせる人間が、この世に居るのかと呆然としたものだ。
だが、それを毎日積み重ねるうちに考えも変わった。今では、この八百本という数字は、気合いと集中力を最後まで切らさずに振り抜けば何とか届く、俺にとって絶妙な上限だと身をもって理解している。
恐らく桜庭も、その辺りを見越して決めたのだろう。これ以上増やせば生活にも支障が出るし、逆に少なければ鍛錬として(桜庭が)物足りない。その境界線を、最初から見抜いていたのかもしれない。
もちろん、最初から振れた訳ではない。掌には何度も豆が潰れて血が滲み、翌日は筋肉痛で箸を持つのも億劫になる始末だった。それでも休まず続けているうちに身体は少しずつ順応し、振れる本数も、崩れない姿勢も、以前とは比べものにならないほど身に付いていった。
だからこそ、今ではメニュー通り八百本を最後まで振り切れるようになっている。
……とはいえ、楽になった訳ではない。最後の数十本ともなれば腕は鉛のように重くなり、肩は焼け付くように熱を帯びる。振り終えれば息は自然と荒くなり、額から流れ落ちる汗が顎先を伝って地面へぽたりと落ちた。
「(これで、八百……っ)」
最後の一本だからといって、必要以上に力を込めたりはしない。素振りで大切なのは、本数ではなく一本一本へ意識を向けること──耳に胼胝ができるほど桜庭から言い聞かされてきた。
ゆっくりと木刀を振り切り、寸分違わぬ軌道で静かに止める。そこでようやく一息つき、大きく息を吐いた。
俺が妖怪と刃を交える機会など、少なくとも原作が始まるまでは殆ど無いはずだった。
だが、その前提は既に一度崩れている。原作知識にはなかった彩葉襲撃事件。そして、ほんの数日前には沙耶香から、再び彩葉たちが狙われる可能性があると知らされたばかりだ。
世界の未来を知っているという優位は、決して絶対ではない。知識の外側で何が起こるか分からない以上、もはや「大丈夫だろう」という楽観ほど当てにならないものもない。
だからこそ、鍛錬を疎かにする気にはなれなかった。
なに。怠けようと思えば、いくらでも時間はある。部屋で寝転ぶことも、本を読むことも、彩葉に付き合って暇を潰すこともできる。だが日に一、二時間くらいは、自分を鍛えるためだけに使っても罰は当たらないだろう。
むしろ最近は、その程度の時間すら惜しんでいては、西ノ宮を裏切って逃げ出すなど夢のまた夢で、本当に自分の命が危うくなるのだと、以前にも増して強く思うようになっていた。
逃げるにしても、ただ屋敷を飛び出せば済む話ではない。神祇瑞光院も妖怪も存在するこの世界で、誰にも頼らず身を隠し、生き延びられるだけの力がなければ、自由どころか明日を迎えることすら覚束ないだろう。
俺は、「努力」という言葉をあまり口にしたくない。
努力とは、自分で言うものではなく、他人が評価して初めて成立する言葉だ──そんな少々捻くれた考えを持っているからだ。
だからこそ、桜庭や彩葉が、日々の稽古や自主練そのものを当たり前のように認め、時折褒めてくれることは、少しだけ嬉しかった。自分の将来的な目的とそれらの言葉をやる気に、俺は今日も自主練を終えた。
「……ん?」
息を整えるため、手頃な岩に腰掛けた時だった。不意に、視界の端で何かが引っ掛かった。思わず、近くに立てかけた木刀を手繰り寄せる。
西ノ宮邸の裏山に広がる雑木林。その合間にあるこの岩場は、もう半年近く自主練で使い続けている場所だ。西ノ宮邸を見下ろす方向を正面に据え、山を背にして木刀を振るのも、すっかり身体へ染み付いた習慣になっている。
だからこそ、毎日のように見ている景色に僅かな変化が生じれば、意識していなくとも目が拾ってしまう。
その違和感は、左手側の林の縁から感じていた。
「(……ハンカチと、ライター?)」
目を凝らす。
一本の木の根元。落ち葉と土に半ば埋もれるようにして、正方形のハンカチと、百円ショップやコンビニでも見掛けるような使い捨てライターが落ちていた。
「(……)」
胸の奥に、小さな引っ掛かりが残る。
少しだけ逡巡したあと、俺は木刀を握り直したまま、足音を殺してそちらへ近付いていく。
周囲へ視線を巡らせる。人影はない。夏風に揺れる木々の葉擦れ以外、物音らしい物音も聞こえなかった。それでも警戒は解かず、ゆっくり腰を落とす。
手を伸ばす前に、まず二つの落とし物を目だけで観察する。
このハンカチもライターも、昨日までは無かった。無論、俺が見落としていただけという可能性はある。
だが俺はこの場所周辺の木の根の位置も、転がる岩も、地面に張り出した枝も、無意識のうちに覚えている。傾斜も障害物もあるこの場所は、桜庭との稽古でよく使っているからだ。
そんな場所だからこそ生まれた僅かな違和感だった──そして俺の直感は、昨日までここには存在しなかったと、静かに、しかし強く告げている。
「(誰かがいた? それも、今日……)」
ありえない、と即座に否定する。
西ノ宮邸は、鞍馬街道を進んで少ししたところから山側へ入った先にある。街道沿いに屋敷が建っているわけではない。西ノ宮家が所有する広大な土地が山中まで続いており、その一角を抜けたさらに奥に屋敷があるのだ。
当然、屋敷へ向かう人間ならば正面から敷地へ入る。使用人や業者ならともかく、関係者以外がわざわざ山の中へ入り込む理由はない。
まして、ここは屋敷の裏手に当たる場所だ。普段から人の出入りがあるような場所でもなければ、散歩道として整備されているわけでもない。雑木林の中を適当に分け入った先にある、ただの山の一角である。
そんな場所に、真新しいハンカチとライターが落ちている。
「(……誰かが、ここまで入ってきた?)」
そう考えると、さっきまで何でもない落とし物にしか見えなかった二つの品が、急に不気味なものに思えてきた。
「……」
妖怪ではない、と思う。
俺が妖怪と直接遭遇したのは、彩葉と共に襲撃を受けたあの一件だけだ。生まれて初めて、人間とは明らかに違う存在がこの世界にはいるのだと実感したのも、あの時だった。
佐々木などから聞かされていた妖気というものを、初めて自分の肌で感じたのも同じである。姿を見ただけではない。そこにいるだけで、空気そのものが違って感じられるような、言葉では説明しにくい異質な感覚だった。
だが、今はそれがない。
周囲へ意識を向けてみても、聞こえてくるのは木々の葉擦れと、遠くから僅かに届く街道の音くらいだ。空気も、匂いも、肌に触れる風も、普段と何も変わらない。
おかしいのは、このハンカチとライターだけだった。
俺は気配を探る類の鍛錬が得意なわけではない。桜庭から教わったことはあるものの、その方面については、どうにも上達が遅かった。妖怪や悪意のある人間の存在を察知するという意味では、俺より優れた人間など屋敷にはいくらでもいる。
それでも、あの時に感じたような妖気を見落とすほど俺は鈍感でもないのである。
そもそも、もしこの雑木林のどこかに妖怪が潜んでいるのであれば、俺より先に屋敷側が気付く可能性の方が高かった。西ノ宮邸で働いている人間は、表向きには給仕や庭仕事、資金管理などを担当しているが、全員がただの使用人というわけではない。
組織に属し、必要な訓練を受けた者も少なくない。普段から妖怪の存在を警戒している彼らが、この屋敷のすぐ裏手に妖怪が入り込んでいることに気付かないとは考えにくかった。
少なくとも、今この場に妖気を感じない以上、妖怪が潜んでいる可能性は低い。
ならば、人間だ。そう考えるしかない。
だが、人間だとしても問題は何一つ解決しない。むしろ、人間だからこそ別の意味で厄介だった。
俺と桜庭以外は誰も立ち寄らない西ノ宮邸の裏山。偶然落としただけ、と考えるには場所が悪すぎるのだ。
「……さて」
木刀を握ったまま、俺はもう一度、雑木林の奥へ目を向ける。
誰かがここにいた──それだけは確かだ。
問題は、その「誰か」が何のためにここへ来たのか。そして、まだこの近くにいるのかどうか。落ちている二つの品を拾うべきか、それとも触れずに屋敷へ戻って知らせるべきか。
放置して屋敷へ戻るという選択肢もある。だが、それでは誰かがここにいたという痕跡を、そのまま残しておくことになる。これらの持ち主が戻ってくる可能性もあるし、逆に、既にこの場を離れているのなら、次にいつ誰かがここへ来るかも分からない。
少なくとも、俺が異変に気付いた以上、何もせずに戻るというのは気が進まなかった。
触れたことで何かを見落とす可能性もある。それでも、屋敷へ持ち帰って事情を説明する方がいい。俺一人で考え続けたところで、この二つが何なのか分かるわけでもない。だったら、判断できる人間のところへ持っていくべきだ。
「(拾って、すぐに戻るべきだな)」
改めて周囲を見渡す。
人影はない。木々の間にも動くものはなく、聞こえてくるのは葉擦れの音ばかりだった。
ならば、ここでいつまでも立ち止まっている理由はない。
俺は木刀を片手に持ち替えると、もう片方の手でハンカチとライターを素早く拾い上げた。二つとも落とさないよう握り込み、そのまま踵を返す。
岩場から雑木林を抜け、山を下る。
普段なら休憩がてらゆっくりと降りるところだが、今はそんな悠長なことをしている場合ではなかった。木の根を跨ぎ、斜面を蹴り、身体の勢いを殺さないようにして一気に駆け下りていく。
俺の杞憂なら、それでいい。
だが、ほんの数日前には沙耶香から、加納が彩葉や彼女を狙っている可能性があると聞かされたばかりだった。ここは屋敷からそう離れていない。そんな状況で、誰が置いたのか分からない物が山の中に落ちているのを見つけた以上、何もなかったことにする方がどうかしている。
まずは公威や佐々木たち使用人に警戒を促す。
それから、この二つが何なのか調べてもらえばいいだろう。
──走りながら、頭の中ですべきことを整理する。
彩葉は、おそらく自分の部屋にいるだろう。気紛れに暇潰しでも始めて屋敷の中を歩き回っていなければ、勉強か読書でもしているはずだ。
また、少なくとも俺が裏山へ入る前に見た限りでは、屋敷の周囲に妙な様子はなかった。岩場から見下ろした際にも、目立った異変はない。
だからといって、安心していい理由にはならない。
「(まずは彩葉だ)」
それだけを決めて、俺はさらに足を速めた。
手の中のハンカチとライターが、走るたびに僅かに揺れる。その二つが何者の持ち物なのかまだ分からないが、頼むから面倒事はやめてくれと心の中で強く願うしかなかった。