乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
「──彩葉!」
バン、と勢いよく扉を開ける。
普段ならばノックをして、扉越しに声を掛けてから入る。勝手に部屋へ踏み込むなど、それこそ彩葉相手であっても滅多にしない。だが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
息を切らせたまま室内を見渡す。
「なんやの、そんな血相変えて……やあね、将吾くん。乙女のお部屋にノックもなしに入るなんて、不躾やで?」
「何もないな?」
「んん? ……うん、何もないけど……」
お巫山戯に付き合っていられる状態ではない。
ただ、怪訝そうに首を傾げる彩葉の姿を見たことで、ようやく俺の中にあった焦燥が途切れた。
ふう、と息を整えるために深く吸い込む。
高鳴っていた心臓の鼓動を感じながら、その場で腰を落とした。山を駆け下りてきたことで乱れた呼吸をゆっくりと整えていく。身体を動かしている最中には気にも留めなかった疲労が、立ち止まった途端に一気に意識へ戻ってきた。
「何もねぇなら、いい」
それだけ確認できれば十分だった。
「……悪いが、閣下のところまで付いてきてくれ。とりあえず近くにいてくれると助かる」
「……よお分からへんけど、わかった」
不審物の発見。
しかも、それが見つかったのは屋敷のすぐ側だった。
だからこそ、彩葉の安否を確かめるために足早に駆け戻った。結果だけを見れば、それは杞憂に終わったことになる。だが、だからといって「何もありませんでした」で安心して寛ぐには、まだ早い。
俺が見つけた二つの物が何なのか、それすらまだ分かっていないのだから。
俺は彩葉を連れ立って、急ぎ公威の執務室へ向かった。
「失礼します。陸浦です」
扉を二度ほど叩き、返事を待ってから中へ入る。
後ろには彩葉が続いている。
二人揃って公威の執務室へ入るのは、考えてみればこれが初めてだった。普段ならば俺が用事を伝えるにしても、彩葉は別の場所にいることが多い。そもそも、ここは西ノ宮家の当主である公威が仕事をするための部屋だ。彩葉や俺が気軽に出入りするような場所でもなかった。
室内では、公威がノートパソコンを前に仕事をしていたらしい。こちらへ顔を向けた彼は、珍しい組み合わせに僅かに目を見開いたものの、すぐに表情を戻した。
「おう。どうしはったん、んな慌てて」
そう言って、彼は気さくに手を振る。
「執務中の御無礼、お許しください。裏山にて不審物を発見しました。周囲の状況から非常に真新しいものだったので、稽古を切り上げて即時帰ってきた次第です」
「不審物?」
「こちらです」
俺は握りしめていたハンカチとライターを取り出し、机の上へ置いた。土や落ち葉が僅かに付着した二つの品を、公威がじっと見つめる。
「……ほーん、なるほど。裏山にこれが」
「自分が普段、桜庭隊長との稽古や素振りの自主練等に使用している場所が、屋敷の裏山にあります。その木の下に落ちていました。昨日は山へ入っておりませんが、少なくとも一昨日までには無かったものです」
公威はすぐには答えなかった。
ハンカチとライターを見比べ、それから僅かに視線を上げる。
「妖気は?」
「自分の拙い感覚ではありますが、周辺一帯に妖気は感じられませんでした」
「……」
短い沈黙が落ちる。
たかがハンカチとライターだ、と一蹴するような人ではない。まして屋敷とその周辺についてなら、俺よりも公威の方が遥かに詳しい。どこに誰が出入りするのか、どこまでが西ノ宮家の敷地なのか。俺がまだ一年ほどしか知らないこの場所を、公威はそれこそ生まれてからの長い年月で熟知している。
だからこそ、彼がどう判断するのかを黙って待った。
「人間、にしてはけったいな場所まで来たもんやな」
「遭難者の線も考えましたが、発見した場所は開けていて勾配もありますので、屋敷を見下ろせる位置です。諸々の状況を鑑み、報告すべき事案と判断しました」
「よお分かった」
公威はそう言って頷くと、机の上の二つの品へもう一度目を向けた。
「すぐに警備の者と一番隊に連絡しておくわ。この二つの物も、こっちで調べとく」
「はっ」
俺は頭を下げる。
これで、ひとまず自分がやるべきことは終わった。
彩葉が無事であること。そして、屋敷そのものにも目立った異変がないこと──この二点を確認できた時点で、さっきまで身体を突き動かしていた緊急性はかなり薄れている。
公威も同じなのだろう。
少なくとも、今すぐ屋敷中をひっくり返して捜索しなければならないような事態だとは判断していないらしい。
張り詰めていた肩から、僅かに力が抜ける。
ひとまず、息はつけそうだった。
「彩葉、お前はおかしな事はないか」
「あらへんよ。うちがお爺様に聞きたい所やわ」
「なら良し」
公威はそれだけ言ってから、少し考えるように彩葉を見る。
「まあ、今日は将吾くんから離れんようにな。とりあえず寝るのも佐々木辺りと一緒にしぃや」
「えぇ、佐々木とー? あいつイビキうっさいやん。ほんなら将吾くんの方がいいわ」
「お前が構わんならええわ。好きにせぇ」
「うん」
「(ん……?)」
裏山から猛ダッシュで屋敷まで駆け抜けてきた疲労を落ち着かせようと、俺はその場でゆっくりと呼吸を整えていた。
だからこそ、今の会話が妙に耳へ残った。
何か、とんでもないことを言われたような気がする。
「ああ、せやった。将吾くん、時間空いたらまたここに来てくれはる?」
話が一段落したところで、公威が思い出したようにこちらへ視線を向けた。
「彩葉は誰かに任せたらええで」
「は、はい。かしこまりました」
突然の申し出に、俺は一瞬だけ背筋を正した。
先ほどの不審物の件とは別の話らしい。わざわざ時間を空けて呼ぶということは、何か聞きたいことでもあるのだろうか。
「なんや、お爺様。また将吾くんに酒付き合わせる気? あかんで。うちの目が黒い内は、もう晩酌なんかに行かせへんよ」
横から彩葉が口を挟む。
「阿呆。それじゃ俺が死ぬまで呼べへんやないか」
「それでええやないの」
「よくないわ」
公威は呆れたように返し、それから軽く肩を竦めた。
「だいたい、今日は休肝日や。仕事の話するだけやから、すぐ返すわ」
「ほんま?」
「ほんまや」
「……ならええけど」
彩葉はまだ少し疑わしげだったが、それ以上は何も言わなかった。不審物を見つけた直後だというのに、いつの間にか話題は酒と晩酌の話へ移っている。あまりにも普段通りの調子なので、さっきまで自分が裏山を駆け下りてきたことすら、どこか遠い出来事のように感じられた。
とはいえ、問題が解決したわけではない。
あのハンカチとライターが何者の物なのかも、どうしてあそこに落ちていたのかも、まだ何一つ分かっていない。警備と一番隊へ連絡するという公威の判断に任せるしかない以上、今の俺にできることはもうなかった。
ひとまず彩葉の無事を確認し、公威に報告できたことを良しとして、俺は彼女とともに執務室を後にした。
その際、念を押すように彩葉と一緒にいるよう命じられたため、俺は彼女と連れ立って自室へ向かうことにした。読書や勉強をするにしても、今日は俺の部屋でやればいいということだろう。公威からすれば、少なくとも警備の者たちが状況を確認するまでは、彩葉を一人にしておく理由もない。
廊下を歩いていると、隣を歩いていた彩葉が、ツンツンと俺の背中を指先で突いてきた。
「どう思う?」
「なにが……って、ああ。沙耶香の件か?」
「そう」
わざわざ聞かれるまでもない。頭の中では、さっきから裏山で見つけた二つの品と、数日前に沙耶香から聞かされた話が何度も結びついている。
「屋敷のすぐ側で、よく分からん物が落ちとったんだから、まさか無関係じゃないだろうさ。何もなかったら、ただの心配性だったって後で笑えばいい」
「心配はしてくれるんや」
「あん? そりゃそうだろ」
思わず足を止めそうになった。
何を当たり前のことを聞いているのかと思う。
彩葉に何かあれば、自動的に俺にも関係する。ただ単に名古屋へ帰されるだけならまだいい。だが、先日の沙耶香の話を聞く限り、彩葉を狙う人間がいる可能性は十分にある。その場合、付き人である俺まで巻き込まれることは避けられないだろう。
もちろん、それだけが理由というわけでもない。
既に一年は共に過ごしているのだ。流石に、彼女本人に何かあれば嫌だとは確かに思っている。それは間違いない。ただ、わざわざ素直に口にするほど俺は殊勝な性格でもなかった。
「ほーん……」
「なんだよ、その目」
「別にぃ」
彩葉は意味ありげにこちらを見上げたものの、それ以上は追及しなかった。
そして、ほんの少し歩いたところで、何かを思いついたように声を上げる。
「あ、どうせ一緒に寝るんやったら、花札でもしようや」
「一緒に寝るって話、それ結局マジなのかよ」
公威はそれでいいのか、と小一時間問い詰めたくなるが、当の彩葉と公威で決まってしまった事だ。佐々木に押し付けてやろうという考えがチラついて仕方がない。
「将吾くんは、うちと寝るの嫌?」
「嫌だね。別にお前だからって訳じゃなくて、俺、誰かいると寝れないタイプなの」
「えー……じゃあ、もしうちが真夜中に暴漢に襲われたら、あんたどうしはるつもり?」
「そりゃお前、墓前で万歳三唱してやるよ」
「ふん」
彩葉が、露骨に頬を膨らませる。
「いってぇな、冗談だって」
慌てて言い直す俺を見て、彩葉は不満そうな顔をしたまま、どこか楽しそうに笑った。ついさっきまで不審物のことで張り詰めていたというのに、こうして馬鹿な話をしていると、少なくとも今この瞬間だけは何事も起きていないのだという実感が湧いてくる。小さく息を吐き、再び歩き出す。
彩葉の部屋に寄りつつ、自室に戻ると、彼女は俺の座椅子に腰を落とし、机に肘をついた。袖が落ちて露出したその前腕は、外に出ることの多い俺とは対照的に白い。
「ほな、花札やろか〜」
「ルールよく分からん。佐々木さん呼んで麻雀やろうぜ」
「やだ」
「ちっ……」
結局、彩葉に付き合うことになった。
そうして教えられたのは、十二か月それぞれ四枚ずつ、計四十八枚の札を使い、場に出された札と同じ月の札を取っていくという、花札の基本的なルールだった。手札と場の札を順番に出し、取った札の組み合わせによって「役」が成立すれば点になる。猪鹿蝶や赤短、青短など、役にもいくつか種類があるらしい。
もっとも、最初から全部を覚えろというわけでもないらしく、ひとまず遊べる程度に覚えればいいということで、俺は彩葉の説明を聞きながら札を一枚ずつ眺めていた。
──それから小一時間もすれば、最初は何が何やら分からず首を傾げてばかりだった俺も、流石にゲームの仕組みくらいは理解してきた。
つまるところ、カード版の簡単な麻雀だ。
そう考えると、そこまで難しいものでもない。札の種類と、それぞれがどの月に属するのかを覚え、いくつかの役を頭に入れてしまえば、勝負として成立する程度には遊べる。麻雀ほど複雑な役を覚える必要もないので、思っていたよりも取っ付きやすかった。
そして何より、こういう類のゲームには妙な勘が働く。自分でも意外だったが、場に残っている札と相手の手札をある程度予想しながら札を選ぶのは、なかなか面白い。
そんなことを考えながら手札を切っていると、彩葉がバッと身を乗り出した。
「こいこいっ」
「あん?」
”こいこい”とは、役ができた時点で勝負を終わらせず、さらに札を取り続けることで得点を倍にできるらしい。その代わり、続けている間に相手が先に役を作れば、こちらの得点は水の泡になる。
要するに、得点を増やせる代わりに負ける危険も大きくなる、ハイリスクハイリターンのギャンブルということだ。
「ほい、勝負。赤短と猪鹿蝶や」
こいこいから数巡。札を取り終えた彩葉は、得意げに完成させた役を見せびらかした。
「だっー!」
手札を畳に叩き捨てる。これで俺の一勝三敗だ。
「将吾くん、弱いなあ」
「初めてやったんだから仕方ないだろ」
「でも三回も負けとるで?」
「お前がやり慣れてるだけだ」
悔し紛れに札を集め直す。そんな俺を見て、彩葉はくすくすと笑っていた。
そうしているうちに、裏山で見つけた不審物のことも、頭の片隅へ追いやられていった。
既に公威へ報告は済ませているし、警備の者や一番隊にも連絡が行くことになっている。俺がここで気を揉んだところで、やることは特に何もなし。彩葉は目の前にいるから、いざとなれば俺が逃がすだけである。
結局その後もしばらく、俺たちは花札を続けた。
■■■
二学期が始まって、この代わり映えのない学校生活に変化があるとするなら──体育を担当している女性の先生が夏休み中に交通事故に遭い、休職したことだろう。
九月頭、新学期になって代わりの非常勤教師としてうちの学校へやってきたのが、これまた随分と恰幅のいい男だった。
“佐藤一郎”なんて珍しくもなんともない普通すぎる名前の割には、一目見ただけで体育会系と分かる雰囲気を漂わせている。白い歯を光らせ、常に笑顔で、大声で挨拶をする。廊下を歩いているだけでも妙に目立つ男だった。
むさ苦しい熱気が嫌いな俺とは、まあ、あまり相性が良くない。ただ鳴宮を始め、うちのクラスは割と元気な男子が多いので、まだ来て間もないというのに、すぐに人気になっていた。
「せんせー! 筋肉見せて!」
「おう! いいぞー! フンッ!」
掛け声とともに腕へ力を込める佐藤に、周囲から歓声が上がる。キャーキャーと姦しい女子の姿を見れば分かる通り、女子生徒からも人気がある。顔立ちは整っていて、明るく元気な性格ともなれば、その人気にも頷ける。
とはいえ、沙耶香や彩葉はそんな集団から一歩引いたところで、興味の欠片もなさそうに何やら話していた。
「『オズの魔法使い』かあ。何だかんだ、まだ見たことあらへん」
「面白いよ。私はトトが好き。貸してあげようか」
「おおきに。ほな、うちは『羅生門』貸したる。『人間失格』でもええよ」
「チョイス……」
俺は保健体育の教科書を机の中から取り出しながら、隣で繰り広げられる二人の会話に耳を傾けていた。
今日は生憎の雨である。窓に打ち付ける雨音は途切れることなく、外には朝から鈍色の雲が広がっていた。風も強く、時折、窓ガラスが僅かに震えている。
台風の影響だろう。まだ上陸こそしていないものの、太平洋側をゆったりと進んでいるらしく、その影響が京都にも届いているようだった。
本来なら今日は外でサッカーをやるらしかったのだが、これではグラウンドで体育など出来る天気でもない。体育館も別学年が使っているとのことで、急遽、保健の授業に変更された。
そんなわけで、普段なら体操服に着替えて身体を動かしている時間に、俺たちは机へ向かって教科書を開いている訳だ。
「授業始めるぞー、みんな席についてくれ!」
黒板を背に声を張り上げる佐藤を、欠伸を噛み殺しながら眺める。
──ここ数日は、あまり眠れていなかった。
原因は先日、西ノ宮邸の裏山で発見した不審物の件が、未だに解決していないことにある。
屋敷の警備担当者は、あれ以降、裏山方面へ向けて赤外線カメラをいくつか増設したらしい。一番隊京都班も、しばらくの間は西ノ宮邸周辺の巡回を増やすとの通知があった。警備そのものは、以前より明らかに厳重になっている。
それでも中々眠れないのは、単純に、あれから彩葉が俺の部屋で寝ているという理由もある。……まあ、それについては別の意味で落ち着かないだけなのだが。
それ以上に大きいのは、俺にとって最も安心と信頼の置ける存在である桜庭が、未だ東京にいるという事実だった。
国際会議に際して妖怪によるテロが発生する可能性がある。その警戒のため、現地部隊への応援に向かった彼女は、まだ京都へ戻ってきていない。
それが、どうにも不安を掻き立てて仕方がなかったのだ。
そもそも当の国際会議自体が、まだ行われていない。予定通りなら、桜庭が帰ってくるのは来週辺りになるだろう。
だが、もし、その間に何かがあったら──布団へ入って目を閉じる度に、そんな考えが頭の片隅をちらつく。
もちろん、いざとなれば学校の近くで控えている潜影部や、府内を巡回している一番隊京都班が駆けつけてくるだろう。屋敷の警備だって強化されている。何かあれば、俺だけで対処するわけではない。
それでも懸念してしまうのは、いかにかの桜庭朱里といえど、東京から京都までの距離を瞬間移動できるわけではないと分かっているからだ。
つまり、神祇瑞光院最強の人間が、いつでも駆けつけられる場所にいない。その事実が、沙耶香から聞かされた二度目の彩葉襲撃の可能性や、先日発見された不審物によって膨らみ始めた俺の不安を、さらに増幅させていたのである。桜庭は全く悪くないが、おかげで俺は睡眠不足だった。
「怪我が起きるのには必ず理由がある。周りを見ずに走り回ったり、寝不足で注意力が落ちたり。俺たち大人もそうだ。ちょっとしたことが、大きな怪我に繋がってしまうからね。もうすぐ運動会の練習も始まるし、今日は怪我の防止について、みんなで考えていこう」
保健の授業は楽でいい。
配られたプリントに、教科書で強調されている単語を書き込んでいけば、大抵のところは終わる。流石に小学生の授業内容で頭を捻るほど馬鹿ではないし、既に知っているような内容も多い。
それでも、板書を写したり、問題を解いたり、挙句の果てにテストまで受けたりするのは面倒だった。
その点、こうして話を聞きながらプリントを埋めていくだけなら、随分と気楽である。
まだ佐藤の保健の授業を受けるのは今日で何度目かという程度だが、今のところ授業そのものも体育と似たような調子だった。大声で話すことはあっても、細かく指名して答えさせたり、積極的な発言を求めたりするようなことはない。
俺としては、そのくらいの方がありがたい。
まさか授業中に机へ肘をつくわけにもいかないので、眠気を誤魔化しながら教科書へ目を落とす。窓の外では相変わらず雨が降り続いていて、それがまた眠気を加速させるが、その度に隣の彩葉が足を踏んづけてくるので、寝落ちすることはなかった。
その後も授業は特に変わったことなく進んだ。
最初の説明通り、怪我をしないための注意点や、運動前の準備運動について教科書の図を交えて丁寧に説明し、時折、男子から飛んでくる茶々にも笑いながら佐藤は応じていた。二学期から来たばかりだというのに、彼は既にクラスの空気にすっかり馴染んでいる。きっと他のクラスも似たようなものだろう。
昼休みになれば、そのまま教室で給食を食べることにしたらしい佐藤のところへ男子たちが集まり、何やら話していた。俺はそんな様子を横目に見ながら彩葉といつも通り昼食を取った。
鳴宮少年もあれから大人しくしている。俺が無理に引っ張って痛めたらしい足には湿布が貼られていたが、問題なく歩けている。不審な行動もない。
昨日までと同じような一日が、今日も淡々と過ぎていくのだろう。そんなことを考えていると、ふと、何時だったか桜庭に言われた言葉が脳裏に浮かぶ──”安心こそ、最大の敵です”。
放課後。
帰り支度を始めた俺たちのところへ、佐藤がやってきた。その手には何枚かのプリントがあり、教卓の片付けをしていた担任に何度か会釈をしながら、こちらへ足早に近付いてくる。
「西ノ宮さんと錦戸さん、ちょっといいか?」
「? はい、どうされました?」
沙耶香とは、放課後になると近況報告をしている。といっても、以前のように空き教室を使って話すわけではない。各々の迎えが待つ駐車場へ向かう道中に、簡単に何もないことを確認し合う程度だ。一昨日には例の不審物について伝えたばかりだった。
屋敷から車の迎えがあるので、帰り支度はそれほど急ぐ必要もない。彩葉と沙耶香が雑談を交わすのを傍で聞きながら、時折こちらから口を挟む。それが最近の帰り際の流れだった。
だからこそ、いざ帰ろうと立ち上がったところで呼び止められた俺たちは、揃って首を傾げた。
「来週の体育でやる予定のバスケットボールなんだけど……二人に確認したいことがあるから、ちょっと職員室まで来てくれる? 女子のチーム分けなんだけど、気になる話を聞いてさ」
「は、はぁ……分かりました」
「……」
かったるい学校がようやく終わった矢先に呼び止められたことで、彩葉の機嫌は目に見えて急降下していた。表面上こそ普通の顔をしているものの、隣にいる俺には、その雰囲気の悪さがはっきりと伝わってくる。
沙耶香もそれを察したらしく、さりげなく佐藤の視線を遮るように身体を動かし、俺へ目配せを送ってきた。
「ああ、陸浦は……そういえば、西ノ宮さんと一緒に帰ってるんだっけ?」
「っす」
「悪いが、待っててくれるか。すぐ終わる用事だ。そんなに時間は取らせない」
「……」
その言い分に、俺は僅かに目を細めた。
この学校は、神祇瑞光院に関わる家の子息子女が多く通っている。彩葉や沙耶香の他にも、別のクラスや学年には組織関係者の子供が少なくない。聞いた話では、教師の大半も神祇瑞光院側の事情をある程度は把握しているらしい。
だからこそ、俺が彩葉の傍を離れないことに口を出してくる教師はいない。
そもそも西ノ宮という名前自体、旧華族ということもあって、府内では一定の世代の人間や歴史に詳しいヤツなら知っているらしい。仮に何も知らない教師がいたとしても、俺が転校してきた当初の鳴宮少年のように、組織とは無縁の一般人くらいだろう。
まあ、佐藤は来たばかりの非常勤講師だ。事情を知らなくても無理はない。それでも、わざわざ俺に「待っていてくれ」と言うのは、少しばかり引っかかった。
彩葉と俺が一緒に帰ることを知っているのであれば、すぐに終わるという用事のために、俺だけを離す理由が分からない。
それが女子だけに関係するような話なら、まだ分からなくもない。だが、佐藤は養護教諭でもなければ、女子生徒の相談を専門に受け持つような立場でもない。ましてや、いい大人の男だ。何の用もないとはいえ、俺を外してまで二人だけを呼び出す理由としては、どうにも釈然としなかった。
若干の警戒心を胸に秘め、俺は大人しく頷いた。
「なら、昇降口で待ってます」
「うし、じゃあ行くか、二人とも」
「はーい……」
「将吾くん、先に行くん?」
沙耶香と彩葉の二人から、言外に「どういうつもりなのか」と問いかけるような視線が送られてきた。
沙耶香は単純に、俺が付き人として彩葉の傍を離れていいのかという疑問だろう。そして彩葉は、おそらく俺と同じような違和感を佐藤に覚えたからこその疑問だ。
ただ、俺も何の考えもなしに従っているわけではない。
二人は小学生ながら既に非常に整った顔立ちをしている。佐藤がそっち方面の嗜好を持っている可能性だって、万が一にもないとは言い切れない。もし妙な真似でもしようものなら、完膚なきまでに痛めつけてやろう。
そう考えれば、俺を彩葉から引き離そうとしたのも、そういう理由なのかもしれない。
ならば、素直に昇降口で待っている道理はない。
最初から、二人に気付かれないよう後をつけるつもりだった。
「じゃあな、陸浦。気をつけて帰れよ」
「うーっす、先生もさよなら」
心配するなという意味を込めて二人へ視線を送ると、すぐに意図を察したらしい。彩葉も沙耶香も何食わぬ顔へ切り替え、教室を出ていく佐藤の後ろへ続いた。
こういう時の切り替えの早さは流石だ。信頼されているのか、呆れられているのかは分からないが、ともあれ今は二人が妙なことに巻き込まれないよう監視するのが先だ。
「(さて、と……)」
俺は彩葉の付き人である。
彩葉の身を守ることが、俺に与えられた役目だ。沙耶香はその対象ではない。だが、彩葉と同じ御三家の令嬢である以前に、仲良くしてもらっている友人でもある。
ましてや、ニュースで見るような変質者かもしれない男の前に、見捨てて放っておく理由などなかった。
彼女たちが廊下の角へ差し掛かったところで、俺も少し遅れて教室を出た。
距離を開けすぎれば見失うし、近付きすぎれば気付かれる。幸い、放課後の校舎にはまだ生徒の姿が残っている。俺はその中に紛れるように歩きながら、前方を行く三人の姿を視界の端へ捉え続けた。
佐藤は特に急いでいる様子もなく、二人へ何か話しかけながら歩いている。彩葉も沙耶香も、今のところ表立って警戒している様子はなく、主に沙耶香が普通に彼の会話に応じているようだ。彩葉は仏頂面でその半歩後ろをゆっくりと歩いている。
そんな彼女たちの姿を確かめながら後をつける──しかし、少し進んだところで、俺は眉を顰めた。
「(……職員室、そっちじゃねぇだろ)」
佐藤が向かっていたのは、職員室とは反対側の廊下だった。
もちろん、忘れ物などを取るために別の場所へ寄るだけかもしれない。それだけで何かがおかしいと決めつけるには早い。
それでも、胸の奥に引っ掛かった小さな違和感は、どうにも消えてくれなかった。
まだ、偶然だと考えられる範囲ではある。
俺は歩調を変えず、三人の後を追った。