乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
「(あの野郎、ぶっ飛ばしてやろうか)」
職員室とは別の方向へ進み始めた佐藤が、馴れ馴れしく彩葉へ話しかけているのを見て、真っ先に湧いてきたのはそんな怒りだった。
この小学生を狙う変態め。
曲がりなりにも身内である彩葉と、クラスメイトの中では一番仲のいい沙耶香。その二人が、そんな変態野郎の毒牙にかかる可能性が高まっている。前を行く三人が一歩進むたび、その事実を突き付けられているような気がした。
後をつけたのは正解だった。
そもそも今になって思い返せば、二学期に入って最初の体育の授業から、妙なところはあった。
グラウンドに整列し、非常勤講師として赴任した経緯や簡単な自己紹介をしていたとき。佐藤の視線が時折、女子生徒の方へ向いていた。特に彩葉や沙耶香へ視線を送ることが多かったようにも思う。
あのときは、単にクラス全体を見渡しているだけだと思っていた。
だが、今こうして疑いの目を向けてみれば、あれも最初から狙いを定めていたのではないかと思えてくる。
俺は自分の道徳も倫理観も、一般大衆からそう外れているつもりはない。だからこそ、子供へ劣情を向けるような輩には心の底から軽蔑する。まして、その対象が彩葉や沙耶香ともなれば、流石の俺でも不快感しか湧いてこなかった。
「先生、何か忘れ物ですか?」
「ん、ああ。六年生の体育をやってる山中さんが、体育館にバインダーを忘れたらしくてな。悪いけど、ちょっと寄り道させてくれ」
「……」
一度そういう目で見てしまうと、もはや佐藤の発言の一つ一つが怪しく聞こえてくる。
もちろん、本当にバインダーを取りに行くだけなのかもしれない。もし本当にそうだったのであれば、今後は佐藤に対して心から丁寧に接するつもりだった。
だが、そうでない可能性が僅かでもある以上、最悪を考えておくべきだ。
最悪とは、つまるところ、彼が彩葉たちに手を出すこと。
仮にそんな事態になった日には、俺はもう安眠なんてできやしないだろう。何せ、怒髪天を衝いた西ノ宮公威に、物理的に首を跳ねられてもおかしくないのだから。
憤怒した公威の顔を想像した途端に全身を走った震えは、きっと悪寒だろう。
三人はそのまま体育館へ入っていった。
俺は彼らが使った出入口へは向かわず、屋外と繋がっている男子トイレの外扉から、音を立てないよう慎重に中へ入り込む。幸いにも、外扉の鍵はまだ掛けられていなかった。
ただし、トイレから出ることはしない。体育館側からこちらが見えない位置まで進み、壁際に身を寄せる。顔だけを僅かに覗かせれば、広い体育館の中を見渡すことができた。
幸い、他に人の姿はない。三人の足音と話し声だけが、広い空間の中で妙に大きく反響している。
「あれ、おかしいな。舞台に置きっぱなしだって言ってたのに。……ちょっと待っててくれ、袖を見てくる」
「はーい」
「……」
沙耶香の気の抜けた返事に対し、彩葉は何も答えない。
佐藤の足音が、舞台の方へ遠ざかっていく。
「(……)」
俺は息を潜めたまま、舞台前に残された二人の背中を確認する。あの様子だと、彩葉はかなり警戒しているらしい。ただでさえ帰れなくて不機嫌なのに、そこに佐藤への警戒心が重なっていて、かなり剣呑な雰囲気を放っていた。
とりあえず、念のために何か武器になりそうなものを見繕っておこう。そう考えてトイレ側へ視線を移し、周囲を見回す。
何か使えるものがあればいいのだが──。
そう思いながら視線を巡らせていると、不意に佐藤の声が体育館へ響いた。
「おーい」
舞台袖から二人を呼んでいた。
「錦戸さん、西ノ宮さん、ごめん。探すの手伝ってくれないー? 暗くてよく見えなくてさ」
その瞬間、俺の警戒度はほとんど限界まで跳ね上がった。
放課後の、誰もいない体育館。その上、わざわざ女子二人を呼び寄せようとしているのは、薄暗い舞台袖だ。シチュエーションだけを切り取れば、これで怪しまない方がおかしい。
舞台前に残されていた彩葉と沙耶香も、互いに顔を見合わせていた。元より、二人とも同級生の中では抜群に頭が回る。俺が聞き取れなかった会話や、まだ確認しきれていないこれまでの佐藤の様子まで含めれば、何かがおかしいとまでは断定できなくとも、少なくとも違和感くらいは覚えているはずだ。
二人はすぐには動かなかった。俺もまた、トイレの陰からその様子を見守る。
「(……さて、どうする?)」
面倒なことに、俺が隠れているトイレと舞台は真正面に相対している。バレないように近付くのは難しい。夏休み中にワックスがけでもしたのだろう、床は照明の光をキラキラと反射している。上靴を脱ぐにしても、いざという時に動きづらくなるのは困るし、かといって、どれだけ気を遣っても足音はどうしても出てしまう。
もし動くなら、三人が完全に舞台袖へ入ったタイミングしかない。佐藤が俺の想像する類の変態野郎なら、二人に手を出されるリスクはある。だが、他に思いつく手もない以上、そこはもう仕方がない。
顔を見合わせていた彩葉と沙耶香は、僅かに見える横顔と口の動きから、小声で何かを短く話しているようだった。やがて、沙耶香が先に歩き出し、彩葉もその後に続く。
舞台袖へ続く扉が閉じられたのを確認すると、俺は周囲に注意を払いながら、ゆっくりとトイレから出た。まさに、抜き足差し足忍び足。今度、音を立てずに動く稽古でも桜庭につけてもらうか──そんなことを考えながら、さながら古いスパイ映画の一場面のように壁へぴったりと身を寄せ、ピタリと扉へ耳を当てる。
一分、二分、三分。
まだ中では普通の会話と物音が続いている。
「(……んー?)」
やはり、気の所為だったのかもしれない。ただ怪しく見えただけで、佐藤は言葉通りに同僚の忘れ物を探しに来ただけなのかもしれない。そう思い始めた直後だった。
ひと際大きな物音と共に、沙耶香の驚いたような声が扉越しに聞こえてきた。
「佐藤先生!? 何のつもりですか!」
「……(これは、そういうことか?)」
まあ、いい。もし俺の勘違いだったとしても、後で怒られるのは俺だけだ。むしろ、御三家令嬢である彩葉と沙耶香に何かあってからの方が遥かに怖い。文字通り、首が飛んでもおかしくないのだから。
ふう、と息を吐き、俺はキャットウォークへ続く梯子に手を掛けた。埃の被ったキャットウォークは、舞台袖の奥まで伸びている。腰を落とし、足元に注意しながら進んでいく。できるだけ物音を立てないように扉を開け、その隙間から中へ身体を滑り込ませた。
窓ガラスと分厚いカーテンの隙間に身を寄せ、そこから舞台袖を見下ろす。見えたのは、何かを手にした佐藤の背中。その向こう側には、佐藤を睨みつける沙耶香。そして、その隣には──恐ろしいほど冷めた目で佐藤を見据える彩葉がいた。
「(やっぱり狙おうとしてんじゃねぇか、変態野郎)」
なぜこんな状況になったのか、経緯まではよく分からない。だが今ここで割り込んだとしても、流石にお咎めはないだろう。しかも、よく目を凝らしてみれば、佐藤はその手にナイフまで握っている。
やはりこいつは、女子小学生を狙う変態だったのだ!
「佐藤先生! あなた、自分が何をしているのか分かっているんですか」
「分かっているよ。分かっていないはずがない。悪いなあ、二人とも。これも仕事でね」
「仕事……? まさか、先生あなた……!」
「やはり君も優秀だ。この短い会話で、そこまで推察できるか。その様子だと、西ノ宮さんは最初から気付いていたようだが……おお、怖い」
「ふん……大方、んな事やろと思っとったわ。下手すぎんねん、誘導」
「それに、あえて乗っかったのは何か策があるからか? 俺は大人の男で、お前らはただのガキ。腕っ節で勝てるとでも思ったのか? 錦戸はともかく西ノ宮は体育の成績、あんまり良くないしなぁ」
カーテンの隙間から視線を巡らせると、キャットウォークの端に清掃用具がまとめて置かれていた。あまり使われていないのか、どれも埃を被っている。
モップや箒。その中に一本だけ、柄の長いものがあった。
俺は気付かれないようにそちらへ近付き、その柄の長いモップを握りしめた。
彼らの会話はあまり聞いていなかったが、つまるところ、こいつは暴漢なのだろう。
俺はモップを握ったまま、すぐ側に置かれていた錆びたバケツを踏み台にし、安全柵へ足を掛けた。流石にその動きには気付いたらしく、沙耶香と彩葉がこちら見上げる。俺は珍しく瞠目している彼女たちを視界に捉え、そして真下に居た男へと意識を向ける。
「な──」
振り返った佐藤と、空中で目が合った。
笑顔が消えていた。
いつも子供たちに向けている、あの人の良さそうな笑顔が、綺麗さっぱり消えている。残っていたのは、突然目の前に落ちてこようとする俺を理解できず、目を見開いている一人の男の顔だけだった。
なるほど。笑顔というものは、案外よくできた仮面らしい。剥がしてしまえば、その下にいるのは、驚いているただの人間だ。その顔が妙に可笑しくて、俺は思わず笑いそうになった。
だが、今はそんなことを考えている場合ではない。
落下の勢いに身を任せながら、モップを両手で握り直す。
このまま折れてしまうのではないかと思うほど強く柄を握りしめ、そのまま佐藤の顔面へ向けて、力の限り振り下ろした。
「天誅──!」
「ご───っ!?」
何かを言おうと口を開いた彼は、言葉にならない声を漏らした。顔面をまともに殴られたのだから、当然といえば当然だ。
そのまま床に崩れ落ちた彼を確認する間もなく、俺も着地の衝撃を受け流すために身体を丸め、そのまま床を転がった。
「っっってぇ!」
「陸浦くん!?」
「あんたアホか! どこの誰がそんな高さから飛び降りんねん!」
主に背中の痛みに悶えていると、慌てた二人が駆け寄ってきた。
どうやらモップは折れてしまったらしい。おそらく佐藤の血であろう赤いものが付着した柄が、真っ二つになって床に転がっている。
彩葉が今まで見たことのないような顔色で声を荒らげ、俺を怒鳴りつけている。沙耶香が差し伸べた手を握って立ち上がった俺は、そーっと彼女から目を逸らした。
「怪我したらどうすんの! このスカポンタン!」
「いや……淫行未遂を取り締まろうと……痛ってぇ」
「淫行?……何を勘違いしてんの、あんた。あいつ、うちらを狙ってた加納の手先やで」
「あえ?」
痛む背中を撫でながら埃を払っていた俺は、きょとんと彩葉を見た。
加納の手先。
その言葉を聞いた瞬間、俺は自分がとんでもない思い違いをしていたことを悟った。
「なんだと」
「このアホ……どう考えてもそうやろ」
「……ま、まあ、それならそれでいい。良くはねぇが……とにかく、二人とも逃げろ。電話でも何でも借りて、一番隊に──」
「あ…ぁ”ぁ”ぁ”ぁ”! このクソガキがぁッ!!」
突如として響き渡った怒号に、俺はバッと振り返った。
佐藤が、ゆっくりと立ち上がっていた。
鼻は折れたのか、明らかに不自然な方向へ曲がっている。顔面を押さえていた手の隙間からは血が滴り落ち、薄暗い舞台袖の床へ赤い雫を落としていた。
それでも、倒れてはいない。
むしろ、普段の人の良さそうな笑顔など跡形もなく消え失せ、血走った目でこちらを睨みつけている。
「……っ」
俺は近くに転がっていた、折れたモップの柄を拾い上げた。
スチール製のパイプは途中から歪に折れ曲がり、断面には鋭く尖った部分まである。普段扱っている木刀よりも軽く、長さもある。だが、重心が妙なところにあるせいで、振るたびに手元が持っていかれそうだった。
何より、これは稽古ではない。桜庭との訓練でもただの自主練でもない。目の前にいる人間が、本気で俺たちを傷付けようとしている。
その事実を理解した瞬間、身体の奥が一気に冷えた。
拳銃と折れたモップ。武器は違っても、あの時と同じだ。
彩葉共々妖怪に襲われた、あの日──あの時に感じた緊張が今になって鮮明に蘇ってくる。
「時間を稼ぐ。二人とも、早く行け!」
「畜生、テメェのせいで鼻が折れたじゃねぇか! 絶対殺してやる! 舐めんじゃねぇぞ、ガキ!」
佐藤が吠えた。
次の瞬間、床を蹴る音が響いた。巨体が一気に迫ってくる。
「っ!」
振り下ろされたナイフが、頭上から真っ直ぐ落ちてきた。
俺は身体を横へ滑らせながら、折れたモップの柄を斜めに差し込む。金属同士がぶつかり、甲高い音が舞台袖に響いた。
刃の軌道が逸れる。その隙を逃さず、俺は佐藤の懐へ踏み込んだ。
狙うなら、ここだ。腰を捻り、右足を思い切り蹴り上げる。
「ぐっ!」
だが、手応えが浅い。
佐藤が身体を引いたせいで、狙った場所を僅かに外した。
その次の瞬間、蹴りに伸ばした俺の右足首を、大きな手が掴んだ。
「なっ──」
引かれる。身体が浮いた。
抵抗する暇もなく、佐藤の拳が迫ってくる。
「っ!」
右頬に衝撃が走った。
視界が一瞬だけ白く弾け、身体が横へ持っていかれる。それでも、俺は折れた柄を離さなかった。
床に倒れ込む寸前、左手をついて身体を捻る。
その勢いのまま立ち上がりざまに柄を振り抜いた。
「オラァ!」
今度は手応えがあった。スチールパイプが佐藤の側頭部を捉え、鈍い音が響く。佐藤の身体がぐらりと揺れた。
「将吾くん!」
「早く、行けって!!」
背後から彩葉の声が飛んでくる。
正直、後ろの二人を気にしている余裕など、もうほとんど残っていなかった。
早いところ、誰かを呼んでほしい。
桜庭は──ああ、あの人はまだ東京か。こんなところで怪我をしたら怒られるかな、なんて場違いな考えが一瞬だけ頭をよぎった。
「西ノ宮さん! 行こ!」
「……っっっ! あー! もう! 怪我したら承知しいひんで!」
彩葉に怒られるのは別に怖くはない。ただ、ああいう顔をした彩葉を見るのは嫌だった。普段の余裕は完全に消え、明らかに俺を心配している。その顔を背中に感じながら、俺は折れたモップを握り直した。
佐藤の視線が、俺から外れる。俺の背後へ向かっている。
「どこ見とんじゃコラァ!」
反射的に叫ぶ。
「待て! てめえら、そこから動くんじゃ──」
佐藤が彩葉と沙耶香に向けて怒鳴る。その一瞬を、俺は逃さなかった。
「がっ!?」
踏み込み、手にした柄をほとんど突っ込むような勢いで前へと伸ばす。狙ったのは彼の折れた鼻だった。歪んだスチールパイプの先端が、そのまま傷口へ食い込む。
「ぐ、ぁ……!」
手のひらへ、嫌な感触が伝わってきた。
硬いものに当たった感触ではない。もっと柔らかく、しかし妙に引っ掛かるような感触だった。
俺自身、思わず顔をしかめる。
けれど、手を止めるわけにはいかなかった。
「加納の手先っていうから警戒してみりゃ、なんだ、俺みたいな小五のガキ相手にボロボロじゃねぇか。なぁ、オッサン!」
口ではそう吐き捨てたが、本当のところは違う。こんなものはただの虚勢でしかない。
俺もさっさと逃げたかった。
ナイフを持った暴漢を相手に、こんな薄暗い場所で戦い続けたいわけがないだろう。俺はただ、めっぽう強い人に気にかけて貰っているだけの、ただのガキなのだ。
足は震えているし、右頬はまだ熱を持って痛んでいる。自業自得とはいえ、さっき飛び降りたせいで背中も痛い。手の中のモップだって、まともな武器とは到底言えない。
それでも、俺は逃げられなかった。ここで俺まで背を向けたら、あいつは彩葉たちを追う。
それだけは、駄目だった。怖くとも、俺がここに残らなければ──俺の生活も人生も全てがおじゃんである。何より、同居人としての情を向けている彩葉や、クラスメイトとして親しくしている沙耶香が死体になっているところなど見たくもない。
「黙れ! お前も、西ノ宮も、錦戸も、全員殺す!」
もはや原型を留めていない鼻を押さえながら、佐藤が怒鳴った。その声には、もう教師としての面影など欠片もない。
俺はモップを構え直す。
「殺す殺すって、そればっかだなあ、ボギャ貧が!」
強がりでも何でもいい。挑発でもなんでもしてやろう。
とにかく、こいつの足をここに釘付けにしてやるのが、今この瞬間の俺の役目である。
「もう一発だオラァ!」
■■■
走る。走る。走る。
胸の奥で膨れ上がっていく焦燥が、心臓の鼓動を否応なしに速めていく。肺が苦しい。喉が焼けるように熱い。それでも、彩葉は自らの手を引く沙耶香に食らいつくようにして、必死に足を動かしていた。
普段の体育では、なるべく力を抜いて適当にやり過ごしている。走ることだって好きではない。だから、自分がこれほど必死になって走れることを、彩葉自身が知らなかった。
漏れる息。額を伝う汗。踏みしめる上履きの音──けれど、そんなものを気にしている余裕はない。
彩葉の頭にあるのは、ただ一つ。
将吾は無事なのか、それだけだった。
「一番隊! 西ノ宮さん、一番隊の連絡先、知らへん!?」
「知らん! 桜庭さんなら知っとる! けど、いま東京!」
「せやったぁ!! あの人、東京か!」
沙耶香も余裕がないのだろう。普段は意識して使わないようにしていた、素の京言葉がそのまま口から飛び出している。傾いた眼鏡を直すことさえせず、必死に叫ぶ彼女の姿は、いつもの冷静な沙耶香とは別人のようだった。
そして、桜庭はまだ東京から帰ってきていなかった。
いま連絡したところで、いくら彼女とて瞬時に帰ってこられるわけではない。そして頼みの一番隊京都班にしても、二人はその連絡先を知らなかった。そもそも、学校から直接連絡を取るための手段すら持っていない。
焦燥は、ますます強くなる。彩葉は最悪を予期していた。
その最悪とは、すなわち将吾が死ぬことだ。
考えたくもない。それでも、一度その可能性が頭に浮かんでしまえば、もう追い払うことができなかった。
彩葉にとって、将吾は大きな存在だ。まともに友人を作ることもなく、屋敷の中ですら佐々木以外とは滅多に話さない。そんな彼女に、初めて友情というものを教えてくれた存在。
そして、いま隣を走っている沙耶香との関係さえ、かつての険悪なものから変えてくれた、そのきっかけになった人。
そんな彼が、死ぬ。
その光景だけは、どうしても想像したくなかった。
けれど、焦りと疲労で普段よりも回らない頭は、そんな嫌な想像ばかりを勝手に掻き立てる。
「はぁ、はぁ……っ、! 鳴宮くん!?」
「おう、錦戸。何してんだ……っ、と、西ノ宮さん?」
「鳴宮……?」
体育館を飛び出し、外廊下を駆け抜け、本校舎へと繋がる道へ差しかかったところで、二人は曲がり角から突然現れた鳴宮と鉢合わせた。
息を切らして駆けてくる二人を見て、鳴宮は目を丸くする。
特に、顔色を変えた彩葉の姿に戸惑ったのか、彼は僅かに後退った。
「ちょうど良かった! あんた携帯持っとらん!?」
「お、おう。一応、隠し持ってきてるけど……」
「貸して!」
標準語さえ崩れた沙耶香に詰め寄られ、鳴宮は困惑しながらも訝しげに頷いた。
「遅い! 早く!」
「な、なんだよ……そんなに怒るなよ。ほら」
「ありがと!」
半ば奪い取るようにして鳴宮のスマートフォンを受け取った沙耶香は、震える指で画面を操作する。錦戸邸へと繋がる番号を叩き込み、迷うことなく呼び出しをかける。
こんなことなら、護國衆辺りの電話番号くらい覚えておくべきだった。そんな後悔が一瞬だけ頭を過る。しかし、いまさら悔やんでも仕方がない。
沙耶香はスマートフォンを耳に当てた。呼出音が一度、二度、三度。その音が、妙に長く感じられる。
「あの、西ノ宮さん……これは?」
「……」
肘に手をやり、荒い息を整えていた彩葉は、頭上から聞こえてきた鳴宮の声に答えなかった。
いや、答えられなかった。
鳴宮──彼と、その両親が西ノ宮家や妖怪に関する情報を怪しげなルートから得ていた、例の一件。
当然、それについては将吾から報告を受けている。その後に行われた軟禁についても、詳しい事情までは知らないものの、佐々木から曖昧に聞かされていた。
だからこそ、目の前の彼に何を話していいのか迷った。
話していいのか、それとも話すべきなのか。そんな逡巡が頭の中を駆け巡る──けれど、いまの彩葉には、秘密を守ることよりも優先すべきものがあった。
「将吾くん、が……はぁ、っ、はあっ……うちらが、佐藤先生にナイフで襲われて……」
途切れ途切れの息の合間から、彩葉はどうにか言葉を紡いだ。
「将吾くんが、助けてくれて……」
「佐藤先生に?」
「それで、今、将吾くんが……うちらを逃がしてくれて……!」
そこまで聞いた瞬間、鳴宮の表情が変わった。
さっきまで浮かんでいた困惑が消え、目が大きく見開かれる。状況を理解しようとするより先に、その中で一人だけ取り残されている人間の存在に気付いたようだった。
「なんだと?……じゃあ、あいつは!?」
「そう……っ」
鳴宮の顔にも焦りが滲む。
そもそも、佐藤が彩葉と沙耶香をナイフで襲ったという時点で、ただ事ではないことは分かる。だが、まだ現場には将吾が残っている。その事実が、鳴宮の胸を強く締め付けた。
子供なんて、色んな大人に守られている。
以前、妖怪や西ノ宮家について訊ねた際、将吾が自分に告げた言葉が脳裏を過ぎる。”お前も西ノ宮さんと同じで子供だろう。全く守られていないじゃないか!”──と、あのとき感じた苛立ちが、今度は別の形で蘇ってくる。
どうして、あいつが一人で残っているのか。考えるまでもない。彩葉と沙耶香を逃がすため。
同時に、将吾がそうしたように、目の前にいる二人をどうにかすることが先だとも鳴宮は理解していた。彩葉と沙耶香を危険な場所へ戻すわけにはいかない。それは、将吾とは異なる論理による考え。単純に、好意を抱いている異性とクラスメイトを危ない目に遭わせたくないというだけのもの。
「西ノ宮さん、いま家に連絡した! すぐに一番隊が来るよ」
「……けほっ、そう。なら早く──」
将吾をすぐに呼びに行こう、早く三人で逃げよう。
そう言いかけた彩葉を、鳴宮が手で制した。
「いや、二人は逃げるべきだ」
「は?」
ドスの効いた低い声が、息を切らしていたはずの彩葉から発せられた。同時に、その赤い瞳が鋭く細められる。将吾を見捨てて逃げろというのか。言葉にこそされていないが、そんな感情がありありと浮かんでいた。
そのおどろおどろしささえ感じさせる鈍い眼光に貫かれた鳴宮は、僅かに怯んだ。けれど、それでも彼は退かなかった。
「そもそも、お前たちにも迎えがいるんだろ。早く駐車場まで逃げて、大人のところに行くべきだ」
「でも──」
「陸浦は俺が見に行く」
否定の言葉を重ねようとする彩葉を遮り、鳴宮は、先ほど二人が走ってきた体育館の方へと視線を向けた。
「あんまり突っ込んだことは聞かねぇけど……誰か来るんだな? なら、俺がアイツを連れてきてやる」
「……」
「西ノ宮さん。君が戻ったら、アイツが逃がした意味がなくなるだろ」
その一言に、ようやく彩葉が黙った。
「鳴宮くん、あんた……」
その一方で、鳴宮と彩葉のやり取りを黙って眺めていた沙耶香は、思わず目を見開いていた。
普段の彼といえば、品のない会話で盛り上がっては周囲の注目を集める、やかましい男子である。そのくせ妙に人気があって、いつも周囲に人が絶えない。学級委員長である沙耶香にとっては、せいぜいその程度の認識でしかなかった。それだけに、今の鳴宮の言葉は意外だった。
「さあ行け。ちゃんとアイツを連れてきて、佐藤先生からも一緒に逃げてくるからよ」
鳴宮は肩を回し、不敵な笑みを浮かべる。
他の大人を呼ぶ──というのは、おそらく彼女たちがあまり深く聞かれたくないことなのだろう。鳴宮はそう察していた。
つい先日、空き教室で話していた三人組。将吾に、彩葉に、沙耶香。まさか沙耶香まで例の組織に関係する人物だとは思ってもいなかったが、今はそんなことを考えている場合ではない。佐藤が何者なのか、彼女たちが何に巻き込まれているのか。それを問い質すよりも先に、まだ体育館に残っている将吾をどうにかする必要がある。
鳴宮は二人に背を向けると、そのまま体育館の方へ駆け出した。鞄は沙耶香に預け、何も持たずに思い切り走った。
体育の佐藤先生が、将吾をナイフで襲っている。
その異常事態を、鳴宮はしっかりと理解していた。同時に、自分がいくら他の生徒より運動神経に恵まれていたとしても、相手は大人、それもナイフを持った人間だ。ただ力任せに突っ込んだところで、勝てるはずがない。それも分かっている。
それでも、彼の足は止まらなかった。
自分が好きになった女の子が、一番大切にしている存在を助けに行く。その事実を思えば、胸の奥が軋むように痛んだ。
彩葉にとって、将吾がどれほど大切な人間なのか。彼女の顔を見て、それを知ってしまった鳴宮の胸中には複雑な感情が込み上げていた。
けれど、それ以上に強かったのは、すぐ近くで今起きていることへの怒りと、まだ体育館に残されているクラスメイトへの不安だった。
将吾が、危ない。
それだけは、どうしても見過ごせなかった。
更新が遅くなり申し訳ございません。
まさに筆が進まないというような状態だったので、かなり時間が掛かりました。
次話は早めに出せたらいいなぁ、と思ってます。頑張ります。
55万UAまであと少し……!!