乙女ゲー世界に転生したらラスボス系悪役令嬢(ガチ)の付き人になった話 作:ヤナギ
「──こんにちはァ、お迎えに上がりましたよ、西ノ宮のご令嬢!アハ、アハハハハハ!!!」
「彩葉!」
︎︎割れた車のフロントから顔だけを覗かせる、異様な男。長く垂れ下がった髪といい、表情と言い、俺の視界にはタチの悪いホラー映画のような光景が拡がっている。
︎︎そしてこの肌がザワつくような感覚は気の所為などではなく、十中八九彼の発する妖気によるものだろう。目の前の妖怪の、その甲高い笑い声で我を取り戻した俺は、恐怖で固まってしまっていた彩葉の手を強く握った。
︎
「あ……し、将吾くん」
「あんなの見なくていい、目を閉じていろ!」
「おやァ、嬲り甲斐のありそうな元気な男の子ですねェ……君のお名前は何と?アハハハハハ!!食べる前に覚えておかなくては! 教えていただけませんか!? 命に感謝して! 人を食べたいのがポリシーですので!!」
︎︎狂っている、そう思う他ない。
︎︎こいつは明らかに理性というのが飛んでいた。キッ、と睨みつけるも妖怪は意に介した素振りもなく、昔ネットで見かけた精神病患者の描いたどす黒い絵のようにただ気味悪く笑っている。
︎︎バイクから車に飛び乗るという身体能力の高さの持ち主だ。
︎︎たかが小学生の俺ごときが立ち向かったところで歯牙にもかけないだろうが──恐怖に染まって竦む彩葉が居る以上、大人しく怯え続ける訳にもいかなかった。
︎︎大人ではなかったけれども、子供と呼ばれるような歳でもない。彩葉に今は会えぬ妹を重ね合わせ、そして呼び起こされたそんな不安定な前世の精神が俺の意思を固めてしまった。
︎︎西ノ宮から逃げる。
︎︎全てを捨てて、俺は俺の命と人生のために逃げる。西ノ宮の破滅も彩葉の死も知っていながら、だ。
──そう心に決めていたのに、俺の手は彩葉を掴んで離せなかった。どうでもいいと割り切っていた。
︎︎けれど目の前で幼い子供が攫われるのを黙って見ていられるほど、俺は人の道を外れたつもりはない。
「妖怪如きに名乗る名前なんてねぇよ、失せろ人外」
「ホー……威勢がいいですねェ、けどそれもまたイイ……♪」
︎︎妖怪の口ぶりからして、目的は彩葉の拉致だろう。
︎︎妖怪勢力全体の意思か、あるいは一個体の暴走か。後者ならともかく、前者なら他にも妖怪がいる可能性がある。だが悲しいかな、俺に出来ることはないに等しく、ただ手を出されないようにとシートベルトを外して、彼女を背に庇う体勢をとるしかない。
「く……っ! 消えなさい!!」
「おっと、危ない危ない。嫌ですねェ、いきなり撃って来るなんて……!」
︎︎妖怪が現れても尚アクセルをベタ踏みしていた佐々木がハンドルから片手を離し、その懐から取り出した銀色の回転式拳銃を妖怪の顔目掛けて発砲した。パン、パンと続けて二発。耳を劈き、爆ぜるような銃声が俺の鼓膜を震わせる。
︎︎超至近距離で放たれた鉛の玉は、しかしてこの妖怪に当たることはなかった。まるで見えない壁があるように弾が不可視のナニカに弾かれたのだ。カランコロンとひしゃげた弾丸がボンネットの上を転がり、地面に落ちていったのが見えた。
︎︎何らかの方法で防いだのだろうが、まさかの銃も効かないとなると完全にお手上げ状態である。佐々木が銃を携帯しているとは知らなかったのでそちらの音にビビってしまったが、まあそれはどうでもいい。
︎佐々木は運転していて、両手を離せない。おそらく彼が今持つ唯一の武器であろう拳銃も効果がないことも今証明してしまったし、後部座席には無力な小学生二人。
︎︎こんなにも心臓の鼓動を早く感じた経験などこれまでなかった。原作主人公グループの妖怪たちのように対話の通じる相手では無いことは分かりきっているし、かといってこの頭の狂った妖怪を退ける手段も方法も俺たちにはない。
︎︎
「そろそろお邪魔しますねェ」
「なっ──!?」
︎︎スルリ、と這い寄るように妖怪が車内に入ってくる。まるで蜘蛛と蛇を足して割ったかのような気色の悪い動きに、彩葉は完全に萎縮してしまっているようだった。か細い手で力強く俺の腕を掴んで、妖怪と目が合わないように必死に顔を逸らしていた。
︎︎そうしてダッシュボードに腰掛けた妖怪は、運転席に座る佐々木を容赦なく蹴り飛ばした。頭の側面を勢いよく蹴られた佐々木は、その勢いのまま運転席側の窓を粉砕して呻き声を漏らす──外に飛び出なかったのはシートベルトのおかげだろうが、意識は完全には落ちていないようだ。
︎︎しかしハンドルから佐々木の手が離されたことで、車は暴走し始めた。時速七十キロでアクセルは踏まれたまま。しかも蹴られた勢いで佐々木が握っていたハンドルが右に急回転して、反対車線に突っ込みはじめた。
「うぉぉぉぉぉ!!?」
︎︎その瞬間、俺は咄嗟に背後の彩葉の頭を片手で抱き寄せた。もう片方の手は彩葉のシートベルトをくるりと巻き付けて、自分の身が外に投げ出されないよう踏ん張る。
︎︎情けない叫び声が俺の口から飛び出た途端、車は速度を保ったまま反対車線へと移り、そして道路をはみ出て一本の木に衝突した。
︎︎身体全体を揺らす凄まじい衝撃、飛ばないようにと掴んだシートベルトがくい込む片手と、そして体勢的に俺の胸元にあった彩葉の頭がゴツンと胸部にぶつかった痛みを感じた時には、完全に車が停車していた。
「いっったぁ……! もう、何やねん!?」
「テメェ殺す気かボケェ!」
︎
︎︎危なかった。シートベルトを掴んでなかったら間違いなく今の衝撃で吹き飛んでいた。自らの判断に内心で自画自賛すると同時に、こんな事を仕掛けた妖怪への怒りを叫ぶ。というかシートベルトを掴んでいた方の手がクソ痛い。骨にヒビが入ったような気がするほどズキズキしている。
︎︎幸いにも彩葉の方に怪我はないようだが、彼女は何が起こったか分かっていないようで、俺から離れると困惑したようにキョロキョロと辺りを見渡していた。
︎︎そういえば佐々木はどうなった。あんな状態で衝突事故が起きたのだ。重い怪我をしても不思議では無い。パッと運転席の側を振り返ると──その惨状に、俺と彩葉は共に言葉を失った。
︎︎カーナビやセンターコンソールがある車の中心を抉るように、木がめり込んでいる。太い木の幹があと数センチという眼前に迫っていたという事実に、背筋が凍る。
︎︎死んでいないのが不思議なほどの光景に、数秒ほど呆然とする。そして次いで外から聞こえてきた呻き声に我に返った。
「佐々木!」
「ぐ……ぁ」
︎︎外に佐々木がぐったりと倒れているのが見える。ひしゃげたドアはどこかが歪んでいるのか開かなかったので、割れて風通りの良くなってしまった窓から体を乗り出し、慌てて外に出る。破片に気をつけながら地面に降り立つと、先に外に出た彩葉が佐々木の方へ駆け寄った。
︎︎俺も二人の傍に寄って、力の抜けた佐々木の身体を確認する。目立った外傷はないが、地面に身体を打ち付けたのか背中を触ると痛そうに跳ねた。脈拍も呼吸もしっかりしていたが、頭を打っているかもしれないので安心はできない。
︎︎そもそも、この惨状を引き起こした張本人がまだすぐ側に居るのだ。
「運の良い人ですねェ、まさか自分から飛び降りるとは……あのまま運転席に居たら一瞬で死ねたのに、ああ可哀想なお方!」
「テメェ……」
︎︎平然とした顔で降り立った妖怪は、演劇チックな大袈裟なジェスチャーで俺たちを眺めていた。人を人と思わない、道端に転がる石ころのような──いや、そこらの石をひっくり返したら数匹のダンゴムシが居た程度の、そんなひどく見下げた態度には最早恐怖よりも苛立ちが勝る。
「おっと、怖い怖い。その冷静な態度、とても子供とは思えませんねェ。アナタもしかして実は姿を変えている”同類”だったりします?……それにしては妖気も感じられませんし、私の勘違いでしょうか? あはははは」
「将吾くん……!」
「おい彩葉、こっから屋敷まであとどれくらいだ」
「っ、あ、歩きなら十分くらいやけど……」
「チッ」
︎︎動けない佐々木と敵の目標である彩葉を逃がすには、俺がこの妖怪を足止めしなくてはならない。けれど俺如きが稼げる時間などたかが知れているだろう。せめてもう少し屋敷との距離が近ければ助けを求められるのだが……電話をかけれるような状況ではないし、彩葉も気を失いかけている大人の男を担いで逃げれるほどの力はない。
︎︎どうする、どうする──どうすればこの場を切り抜けられる。
「……」
︎︎ゆっくりと近付いてくる妖怪に、彩葉の顔が引き攣る。そんな彼女を庇うように前に立つと、俺は何か固いものを踏んだ。チラ、と見ればそこには佐々木が持っていた拳銃が転がっていた。
︎︎この拳銃に込めれる弾の数はパッと見で六発。先ほど佐々木が撃ったのは二回で、まだ弾は残っているはず。銃なんて使ったことなかったが──使えそうな武器はこれしかない。
「さてさてさて、お遊びはこの辺でおしまいに致しましょう。西ノ宮彩葉、貴女には私と共に来てもらいます。……ああ勿論、そこのお二人には死んで頂きますがね」
「……彩葉をどうするつもりだ」
「ん〜! ノーコメント!」
︎︎そう宣った妖怪の顔目掛けて銃口を向け、俺は引き金を引いた。
︎︎しかしその反動で銃が俺の手元から吹っ飛ぶ。放たれた弾丸も、妖怪に当たることはなく彼の背後の木に当たった。手のひらがジンジンと痛み、眉間に皺が寄った。
︎単なる小学生でしかない、俺の体格と筋力では銃弾を当てることも、満足に撃つことも出来ない。分かりきっていたことだが──しかし”今”はそれで良いのだろう。
︎︎これが、この状況で俺に出来る最大の抵抗だ。
「今の笑い所ですかねェ? というかダメじゃないですかァ、子供がそんなの持った──らっぁつ!?」
「──ああ、駄目だよな。彩葉様に手を出すのは」
︎︎頭上からそんな毅然とした声が聞こえた……次の瞬間だった。
︎︎妖怪が、今まさに俺と佐々木に手をかけようと腕を伸ばしてきたこの不気味な男の身体から血飛沫が舞った。切り飛ばされた腕がこちらに転がり、俺と彩葉は後退る。
︎︎ああ、やはり来てくれた。胸中に安心感が広がり、途端に力が抜けてくる。妖怪の背後にチラリと見えた人影が何者なのかを察し、銃撃で意識をこちらに向ける。
︎︎妖怪が居ないはずの京都で、妖怪が現れたらどうなるか。俺は確かにかつて、ゲームでその一端を知っている。
︎
「ぐぢ、ぎゃっああああ!?」
「喧しい」
︎︎この場において圧倒的な強者であったはずの妖怪が、あっという間に弱者へと転ずる。阿鼻叫喚の声を上げて芋虫のようにのたうち回る妖怪を、しかして”彼女”は文字通り切って捨てた。
︎︎刀を振ってまだ妖怪に残されていた右腕と両足を断ち、完全に肉達磨と化した男の背を踏みつける。ものの数秒で行われたその一連の動作に俺は目を奪われた。
︎︎彼女は西ノ宮の人間ではない。
︎︎今まで会ったことも話したこともない初対面の女性だ。けれど俺は、目の前の彼女の名前も顔もよく知っていた。
「──西ノ宮閣下からの緊急要請により、遅ばせながら馳せ参じました。お怪我はございませんか、彩葉様」
︎︎スーツの懐から取り出した拭紙で、刀身に付着した血を拭き取ると、彼女は妖怪を踏みつけたまま俺たちに──否、彩葉に向けて深く頭を下げる。
︎︎彼女が敬意を向けるべき相手は俺でも佐々木でもない。故に俺は少し横に動いて、彩葉と彼女が目を合わせられるように下がった。
︎︎彩葉は突然現れた謎の人物に妖怪が倒されたことに戸惑いながらも、頭を上げた彼女の胸元に貼り付けられたワッペンを見て状況を飲み込んだ。
︎︎”鳥居を背に両翼を広げる八咫烏”というその妖怪退治組織のシンボルマークを、西ノ宮の令嬢たる彩葉が知らぬはずも無い。
︎︎彼女こそ、原作において主人公たちに立ちはだかった最強の敵──黒幕であった西ノ宮公威本人には大した強さがなかったことを思えば、戦闘能力という点においては間違いなく人間勢力の頂点に立つであろう──数多のプレイヤーたちを絶望させたバッドエンドの申し子である。
︎︎まだ原作が始まる前ということもあり、俺の知る姿よりも幼さを残す顔立ちだが、現在進行形で彼女から出されている威圧感も存在感も半端なものではなかった。佐々木がキレた時の比ではない。
︎︎この場を流れる静謐な空気とは対象的な、その猛禽の如き鋭い視線に貫かれていた俺は、そこで気を失っている妖怪の存在などとうに頭から消えてしまっていた。
︎
「……失礼、ご挨拶が遅れました。お初にお目にかかります、私は神祇瑞光院”護國衆”一番隊隊長、
■■■
──
︎︎それが原作において俗に人間勢力と呼ばれている組織の名であり、平安時代に西ノ宮家や錦戸家がその創設に携わった、千年の歴史を持つ妖怪退治のプロフェッショナル集団だ。
︎︎その最高意思決定機関である”敬天総会”には西ノ宮公威を始めとする組織の重鎮たちが居り、定期的に開催される総会では老人らが互いの派閥同士で喧々諤々の議論を交わしている。そして過半数の賛成を得た場合、その多くは総会隷下の実働部隊である”護國衆”に命令を下すことになる。
︎︎護國衆は一番隊から十番隊からなる戦闘集団であり、総会からの命令に基づいて日本全国津々浦々で妖怪退治を行っている。彼らは全員が全員、人外じみた身体能力を有しており、原作では主人公グループを前に強敵として立ちはだかった。
︎多種多様なキャラデザや個性豊かな性格もあって、敵陣営ながらファンからの人気も高く──、
「では彩葉様、私はこの妖怪を尋問して参ります。西ノ宮邸の地下牢をお借りしても宜しいでしょうか?」
「勿論。おおきにな、桜庭さん。おかげで助かったわ」
「いえ、それが私の義務ですので」
︎︎特に、この桜庭 朱里というキャラクターの人気は非常に高く、ファンアートや同人誌の数も原作主人公に勝るとも劣らなかった。というのも中性的ながらもかっこいい容姿や言動、原作キャラ最強格に名を連ねる凄まじい戦闘能力の高さから、男性のみならず女性からも強い支持を受けていたからである。
︎︎黒いスーツに日本刀という出で立ちで街を出歩けば一発で職質案件だが、彼女のおかげで俺たちは西ノ宮邸まで無事に辿り着くことが出来たので、その心配はせずとも良いだろう。
︎︎先程の事故現場には西ノ宮の者が俺たちと入れ替わるように向かっていて、通報を受けて駆け付けてきた警察や消防などに事情説明などの後処理をしてくれている。気を失っていた佐々木に関しては「もうすぐ救急車が来ます」という桜庭の言葉もありその場に置いていった。
︎︎そしてその後は後ろ髪を引かれる思いを抱きながらも、徒歩で屋敷に向かった。彩葉だけなら桜庭が抱えて西ノ宮邸まで連れて行ったのだろうが、俺や達磨状態の妖怪も居たので歩くことになった。警官に色々突っ込まれる前にさっさとあの場を離れたかったらしい。各都道府県の警察や消防の上層部は神祇瑞光院の存在も妖怪退治の活動も認知しているが、情報統制の観点から現場の下っ端には知らされていないので対処が面倒くさかったようだ。
︎︎そんな府警への連絡などを西ノ宮に任せたその当の本人はどうやってここに来たのかと問えば、二軒茶屋駅の辺りから走ってきたとの事だった。全く意味が分からない。あそこからここまで一体どれだけの距離があると思っているのか。「京産大に通っている先輩に会いに来たら、西ノ宮閣下に呼ばれたので」と事も無げに答えた桜庭に、俺と彩葉はドン引きしていた。
︎︎とはいえ、俺はあまり彼女と話せなかった。
︎︎とても雑談に興じるような状況ではなかったし──というかそもそも、前世で俺が一番好きだったキャラクターが何を隠そうこの桜庭朱里であるからだ。緊張とか色々あって言葉が出てこなかった。半年以上も過ごしている彩葉たちはともかく、彼女たち以外の原作キャラとの邂逅には慣れそうになかった。
︎︎疲れていたのもあって大した話は出来なかったが、もしも次彼女と会う機会があれば色々話してみるつもりだ。
「……ねぇ、将吾くん」
「んあ?」
︎︎帰宅するなり公威が俺たちを出迎え、彩葉は彼の腕の中にすっぽりと収まっていた。唯一の孫娘である彼女が妖怪に襲われたとなれば、後の闇将軍も心配で仕方がなかったのだろう。
︎︎照れくさそうに笑っていた彩葉の姿に、俺も安堵した。
︎︎京都は神祇瑞光院の本拠地である。
︎︎護國衆によってこの府から妖怪が完全に駆逐されたのは60年代のことで、それ以降は仮に妖怪が入り込んでも、その尋常ならざる感覚で妖気を感知した護國衆が即座に殺していた──それ故に今回の襲撃は誰にとっても寝耳に水であった。
︎︎つまるところ、人間勢力の誰にも察知されずに襲いかかってきたあの妖怪は、やはり強力な個体であったのだろう。桜庭朱里ならば絶対に来る。そんな確信があったからこそ、俺は拳銃を手に取ったが、もしも間に合わなかったらと思うと肝が冷える。
︎︎相手が悪かったから仕方がないのだ。今頃西ノ宮の地下牢で桜庭による苛烈な拷問を受けているであろう彼を憐れもう。
︎︎通常通りなら今日も柔道の稽古があったのだが、佐々木は救急車で近くの病院に搬送され、西ノ宮家自体も妖怪の襲撃への対処でごたついている。
︎︎そのため俺も彩葉も早々に風呂に入ってそれぞれの自室で休んでいたのだが、時計の針が11時を回った頃、寝間着姿の彩葉がおずおずとしながら俺の部屋に入ってきた。
︎
「もしかして怖くて眠れないのか?」
「そうや……って言ったらどうする?」
「笑う」
「はっ倒すであんた」
︎︎やたら怯えていたので少し心配だったが、既に軽口を叩けるくらいには落ち着いているようだった。俺のお気に入りの座椅子を我が物顔で占領する彩葉の横に胡座をかいて座り、彼女に要件を訊ねる。
︎︎正直とても眠たいのでさっさと布団に横になりたいのだが、まさか本当に怖くて眠れないという訳でもなさそうだ。風呂上がりに持ってきたコップの水を飲みながら、彼女の言葉を待つ。
「その……将吾くんにお礼言ってなかったと思って」
「お礼?」
「──うん。アレに襲われた時、手を握ったり声を掛けてくれたやろ? うち久々に妖怪を見て凄く不安やったから将吾くんのおかげで落ち着けれた。桜庭が来るまでの時間を稼いでくれた──だから、ありがとう」
︎︎彼女は姿勢を正し、俺に向かってそう言いながら頭を下げた。半年前に初めて会った時よりも長く伸びた髪が、ふわりと前に流れ出す。シャンプーかヘアオイルだろうか。フルーティーな甘い香りが鼻をかすめた。
「……そりゃ、俺はそういう役目なんだから当然だろ。というからしくなぇな、我儘怪獣はどこ行ったんだよ」
「通すべき筋を通さんと呑気に寝てしまったら、うちはもう御天道様の下歩けんやないの。お爺様もあんたのこと褒めとったし、何の礼も無しや西ノ宮の名が廃るさかい」
「んなの気にしなくて良いのに……律儀な奴だな」
「まあ西ノ宮云々は建前やけど、あんたのおかげで安心したのはホント。庇ってくれておおきにな」
「……」
︎︎どうしよう。やけに素直というか、こうも率直に感謝を伝える彩葉の姿に違和感しかなくて言葉が出てこない。しかしそれについて何を言っても角が立ちそうな気がしたので、彼女の目から逸らしながら誤魔化すように唸る。
︎︎今のは危なかった。ほぼ反射的に「お前ほんとに彩葉か?」と言いそうになってしまった。こんな真面目な態度で、律儀に感謝を伝えに来てくれた相手に対しての言葉ではないだろう。俺はそこまでデリカシーのないKY野郎では無いのだ。
︎︎しかし彩葉は、そんな俺の気も知らずに”へぇ”と楽しそうに口角を上げた。逸らした俺の顔を覗き込んで、寝巻きの袖で口元を隠しながらクスクスと笑う。
︎︎人の顔を見て笑うとは失礼なやつだ。
︎︎何なんだと眉を顰めれば、彩葉はごめんごめんと謝りながら俺の布団に転がった。別に潔癖症ではないけれどぐちゃぐちゃにするのはやめて欲しい。そう注意をしようと口を開きかけた瞬間、こいつは全く的外れなことを口走りやがった。
「いや……ふふ、あんたの照れた顔初めて見たなって。案外可愛ええとこあるんやね」
「──は? 照れてないが?」
︎︎一体何を言うかと思えばただの意味不明な妄言だった。しかし俺の沽券に関わるのでキッパリと否定する。心做しか額に血管が浮かび上がったような気がするがおそらく気のせいだ。俺は精神的には大人。こんな餓鬼相手に本気でキレたりはしないのだ。
「嘘やんー、絶対照れてたって!」
「照れてないわアホ。別のこと考えとったんだわ」
「鏡見てこやーよ、将吾くんのほっぺた赤いで」
「風呂上がりじゃボケ」
「帰ってきてすぐ入ったやんか」
「シャラップ!」
「
「語学力で差を見せつけるのやめてくれない? お前俺が壊滅的に英語が苦手なの知ってんだろ」
︎︎ダメだ本気で手が出そう。
︎︎だが俺の理性が、寸でのところでピクピクと震える腕を抑える。彩葉がその幼さに見合わずアホみたいに強いことを知っている。こと武術に関してはセンスの塊なのだ、こいつは。
︎公威の方針で女の子らしく普段は日本舞踊を習っているが、たまに佐々木との稽古中にやってきては「暇やから遊ぼうや」と笑いながら俺を簡単に畳の上へ転がしてきやがる。受身を覚えてなかったら怪我していたに違いない。それを見た佐々木がおおと感嘆符をこぼすのは日常茶飯事だ。
「つーか俺もう眠たいんだけど」
「一緒に寝たろうか?」
「それお前が誰かと寝たいだけじゃないのか」
「ははっ、寝言は寝てから言ぃ」
「ったく……」
︎︎頭を搔く。彩葉の軽口は今に始まったことではない。一々付き合っていたらこっちが疲れる。ため息をついて布団に転がった。日差しをたっぷり浴びた干したばかりの布団からは、暖かな香りがする。
︎︎彩葉は立ち上がると、楽しそうに笑いながら部屋を出て行く。
「おやすみ、将吾くん。今日はありがとな」
「ん、おやすみ」
︎︎互いに手をヒラヒラと振る。
︎︎サーッと閉められた襖の音と共に、俺は気を失うように夢の世界へと入った。
書き溜めてたデータが虚空に消えていったので萎えてました。思い出しながら書いてたので更新遅くなりましたが、頑張って続けます。