カリカリ、とシャープペンシルの芯が紙をひっかく音以外、ほとんど音がしなかった。
周と真昼が、今月末にある学年末考査のために勉強をしているのである。
二人とも、別に今更慌てて勉強を詰め込む必要があるわけではない。
ただ、こういうのは毎日少しずつの積み重ねが大事だ、ということを理解しているので、お互い特に何も言うわけでもなく、夕食後に勉強に勤しんでいた。
時刻はそろそろ二十時半。
そろそろ一区切りして帰宅しようか、と真昼が手を止めると、周はまだ集中しているようだ。
(勉強は元々真面目だったみたいですが、それが家事になると全然だったのは不思議ですね)
勉強も家事も、毎日やることが大事だ、と真昼は思っているが、周は少なくとも真昼に会うまでは、部屋の状態がとんでもないことになっていたのだ。
しかしそれも今やすっかり改善されている。
最初に大掃除をやったのは、もう三カ月ほど前。
その後、年末にもう一度大掃除をしているが、あの時は最初の時よりずっと楽だった。
ちゃんと毎日掃除しているらしい。
要は習慣化さえすれば、彼はきっちりこなせるのだろう。
周は勉強に集中しているようで、まだペンを動かしている。
が――時折、前髪をどける仕草をしているのに気付いた。
(あれ、もしかして……)
またやっている。
前髪が邪魔なのだろう。
「……真昼?」
じっと見られているのに気付いたのか、周がペンを止めて顔を上げる。
その顔を正面から見て、やはり、と真昼は思った。
「周くん、前髪、少し切りましょう」
「は!?」
「いえ、ですから前髪。いくら何でも、ちょっと長すぎませんか?」
「う……」
どうやら自覚はあったらしい。
「じゃあ明日切りに行くよ」
「明日って定休日では?」
周が再び言葉に詰まる。
あの手の理髪店は、地域によってたいてい休みが同じ曜日だ。
つまり、明日はこの辺り一帯の理髪店はいずれも休み、ということになる。
年中無休の高速カットの店もあるが、残念ながらそういう店は家とは逆側で、かなり遠い。
「じゃあ明後日……」
「もちろん、ちゃんと切ってもらうのはプロにお任せした方がいいですが、前髪ちょっと切るだけなら、私がやりますよ?」
「へ? 真昼が?」
「……男性って自分で切らないんですか?」
「切らないな。普通店でやる……と思う」
「まあ、女性も誰もがやるとは言いませんけどね。でも、私は前髪とかはちょっとくらいなら自分でカットしますから、慣れてますよ」
「いや、でももう遅いし……」
「そんな時間かかりませんよ」
「ハサミなんて台所用と工作用しかないし……」
「私が持ってますから、持ってきますよ」
実のところ、こうすれば堂々と周の髪をもふれる、というとても個人的な欲求に結びついているのを、真昼も自覚していた。
先日、真昼が風邪で寝込んでしまった際に、看病してくれていた周が横で眠っていたことがあった。
その時、少し触らせてもらったが、あの時は起こさない様に軽く触れるような触り方しかできていない。
今回目的は違うが、ちゃんともふることができる、という狙いがあるのは、否定しない。
もちろん周には言わないが。
「別に、目立つくらい切るわけじゃありませんから」
ややあざといかとは思ったが、「ダメですか?」と小さく首を傾げる。
「……わかりました、お願いします」
周が折れた。
やや棒読みだったのは、諦めもあったのかもしれない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「じゃあ、動かないでくださいね」
周が立ったままでは、当然真昼では頭に届かないので、周には椅子に座ってもらい、下にはビニールを敷く。
さらに穴をあけたポリ袋を被ってもらった。
普通の撥水素材のコートはあるが、この方が後始末も楽だ。
切る前に、ブラシで周の髪を整えていく。
思った通りだが、周の髪は柔らかく癖がない。
髪質が良いのがよくわかる。
今回は前髪だけ、ということになってるが、それでもブラッシングは頭全体に行った。
とりあえず十分にもふれたので、いったん満足して櫛に持ち変える。
そして櫛で前髪を梳いていくと、特に絡まりもせず、すっと抜けていった。
「全然絡まないですね、やっぱり」
「そりゃあ短いからな」
櫛を通して前髪を伸ばすと、唇のあたりまであった。
邪魔なはずだ。
多少横に流したとしても、この長さではすぐ前に来てしまうだろう。
……と、集中していたら、周と至近距離で目が合った。
考えてみれば、前髪をカットしようとするのだから、お互いの顔が至近距離になるのは当然だ。
「あの、できれば、目を閉じていてもらえますか」
「す、すまん、わかった」
周も動揺しているらしい。
自分だけが照れてるわけではない、と思うと、ちょっと安心した。
周が目を閉じたのを確認し、作業を再開する。
「じゃあ、少しだけ切りますね」
まずは通常のハサミで、前髪をある程度切る。
あまり切りすぎないよう、と注意深くハサミを入れた。
ザク、ザクという音だけが静かな部屋に響く。
続けて、梳きバサミで前髪を少しだけ梳いていく。
「はい、このくらいでしょうか。どうですか?」
カット自体はものの五分ほどで終わっていた。
最後にもう一度髪を梳いて、切り残しを落としていく。
準備を含めても、トータル二十分もかかっていないだろう。
「ああ……うん、確かに悪くない。ありがとう、真昼」
「どういたしまして」
周にかけてあったビニールと床に敷いたビニールをまとめて畳み込み、ゴミ箱に入れる。
床に髪が落ちてないか、と観察したが、大丈夫そうだ。
元々大して切っていない。
「前髪が目に入って、目を傷つけることだってありますからね。その、前髪を上げるスタイルにしろ、とは言いませんが、あまり邪魔にならないくらいにはお手入れするよう、心がけた方がいいですよ」
というか、あのスタイルはあまり人に見せてほしくない。
あんな状態を常日頃からされると、他の女子も彼に注目してしまう。
それは、真昼にとっては面白くない、と思えてしまうのが否定できない。
「そうするよ。しかしすごいな。髪も切れるなんて」
真昼の気持ちを知ってか知らずか、周は別のところに感心していた。
「女の子は自分でカットする人も多いですよ。いつも美容院に行っていたら、お金大変ですし」
髪をちゃんと手入れしようと思ったら、わずか十分で千円カット、などというのに行くわけにはいかないのだ。
「まあ、前髪をちょっとしか切ってませんから、後日ちゃんとお店に行ってくださいね。おかしくはないと思うんですが」
「了解。まあ、考査前に気分転換にもなるし、行ってくるさ」
そうしてください、と言って、真昼は道具を片付けた。
見れば、時間はもう二十一時を過ぎている。
「じゃあ、今日は帰ります。おやすみなさい、周くん」
「ああ、お休み」
周に見送られて、部屋に戻る。
戻ってからも、どこか心が浮かれているのに、真昼はむしろ心地よさすら感じていた。
なお、翌日。
周の髪がほんの少しだけ変わっているのに目聡く気付いた樹がからかっていたが、別クラスの真昼がそれに気づくことはなかった。
思い付きで差し込んだエピソードです。
作中では散髪に行く場面とかないけど、実際はどうなんでしょうかね。
周くんはあまりマメにカットしてはいない気がしますが(笑)