「いいよ、別に、俺が勝手にやったことだし。じゃ、お大事に」
周の言葉に、それでも真昼は改めて深々と頭を下げた。
顔を上げる前に、周は自分の部屋に戻っていく。
それを見届けて、真昼は右手を壁に添えて体を支えつつ、扉を閉じた。
「……びっくりした……」
公園の樹上で立ち往生していた猫を助けたところまではよかったが、うっかり足をひねってしまった。
歩くのは不可能とはいかなくても、その痛みに耐えられるかといえばかなり厳しい状態だったのを助けてくれたのが周だった。
いきなり「タイツ脱げ」と言われた時は何の冗談かと思ったが、彼は非常に適切に、そしてとても紳士的に真昼の怪我の手当てをしてくれて、さらに背中におぶってマンションまで送ってくれた。
男性におぶってもらったのは、初めてだ。
普通の子供なら幼少期に父親におんぶされたこともあるのだろうが、真昼に限ってその記憶はない。
だから、そもそも男性にあれだけ長く接触していたことすら初めてのことだったが、不快ではなかった。
周が隣人としての義理や、最近渡すようになった食事のお礼のつもりでやってくれたことは分かっている。
ただ、これまで真昼に近付く男性は、何かしらそこにそれ以上の下心をにおわせていたが、彼にはそれが全くなかった。
面と向かって『可愛げがない』と言われたのもあって、彼が自分に下心を向けたりすることはないだろう、という確信めいたものもある。
非常に愛想が悪いように見えるが、そのくせ倫理観や自制心といったものは、他者に対しては強いようだ。人との付き合いそれ自体が苦手、という気もするが。
何より、女性の扱いもとても紳士的だ。
今まで会ってきた人たちと何か違う人。
だからこそ、あるいは食事を提供したり掃除する、ということをやる気になったのかもしれない。
まあ、明らかに不摂生しているのが気になったし、隣が汚部屋というのは真昼の精神的にも嫌だったのも事実だが。
「藤宮周くん、か……」
改めて名前を呟く。
どちらにしても、今後、少なくともあと二年半ほどは、隣人であり続けるのは確実だ。
全く接触しないのは難しいし、あの危なっかしい生活を見てると、放置するのは真昼的に寝覚めが悪い。
あるいは、生活が怠惰でなくしっかりしていても、自分にアプローチしてくるような男性だったら、むしろ非常に困っただろうことを考えれば、彼は好ましい隣人と言えた。
少なくとも余計なちょっかいをかけてくることはないし、ついでに料理には素直に称賛をくれるのもちょっとだけ嬉しい。
自分の料理がまずくはないのは自信があったが、素直な称賛を受け取ることは今まで――小雪さんに褒められた以外は――なかったし、中学後半からつい数日前までは、他人に振舞うことなど皆無だったのだ。
最初にあの情けない姿を見られたからか、彼に対しては学校での『天使様』と呼ばれる取り繕った自分を最初から見せていない。
そもそもあの、彼が風邪をひいて帰宅した際に見た、あの凄まじい部屋のあまりの状況に、素で反応してしまっているので、もはや『天使様』のガワを被ることにも意味がないだろう。
どうせ学校では無関係なのだ。
その気安さに心地よさを感じていることを、この時の真昼は自覚していなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「……たまには出来立て食べてみたいよなあ」
先日のお礼に、とパーカーとジャージを返すついでに――今日、彼が短パンだったのは自分に貸したせいだろうという申し訳なさも含めて――少しだけ豪華なおかずを詰めたタッパーを渡した際の彼の一言は、真昼にとっては予想外のものだった。
やはり彼も、そういう下心があったのか、と少しだけ残念にすら思ってる自分に、やや意外さを感じつつ、それは表情にも出さずに彼を睨む様に見上げる。
「家に入れろと?」
「んな事言ってねえよ、流石に分けてもらってる身でおこがましすぎるわ」
即座の否定。本当にそんなことは考えてなかった、という感じだ。
それに、ちょっとだけ安心すると――ふと、先の提案について考慮してみる。
料理は好きだ。そして『美味しい』と言ってもらえるのがとても嬉しい、ということをここ数日で自覚した。
となれば、出来立てを食べてもらえれば、周なら素直な感想をくれるのではないか、という期待がある。
それは、自分自身のモチベーションにもつながる。
その考えは悪くない。
ただ、そのために家に入れるのは論外だ。いくら何でも、同年代の男性を家に入れるなど、全く考えられない。
自宅で作ってから持っていく、というのもあるが、鍋ごと渡せるのであればともかく、料理というのはよそって配膳まで含めて料理だ、と思っている真昼にとっては、料理の評価をしてほしい、という要望が満たせず、あまり今と変わりがない。
やはり食べる場所と同じ場所で作り、さらに一緒に食べる方が現実的だ。
先日大掃除をした際の彼の家を思い出す。
ほぼ真昼の家と間取りは同じだった。
違う点といえば、角部屋である彼の家は窓が少し多かったくらいだろう。
つまり、キッチンの設備も全く同じということだ。
トースターやオーブンレンジ、炊飯器等、使った形跡はほとんどなかったようだが、置いてあったので問題はない。
設備面での問題はなさそうだ。
そうすると、もう一つの問題はコスト。
一人暮らしというのは食費的には存外効率が悪い。
実のところ惣菜類は、一人分なら出来合いの物を買う方が安いことが多いのが事実だ。
ただ、真昼としては好みの味付けにしたいし、栄養バランスや添加物なども気を付けたいため、基本的にすべて作る。
生活費は出来るだけ節約したいので、できるだけ安いものを買うようにしていて、ファミリーパック、などとされた大きなものは、量に対する単価が安くてほしくなるが、冷凍の作り置きをするとしても明らかに過剰なので手を出していなかった。
だが、二人分、それも食べ盛りの高校生男子の分を作る、となればそれも緩和される。それは真昼にとっても大きなメリットがあった。
最後の問題は、周が真昼に手を出す可能性だが――先日の掃除の際も彼は何もしてきてないし、そもそも自分に全く興味がないようだった。
周の性格からして、そのあとに想定されるリスクを絶対に回避しようとする気がする。
なので、そこは全く心配していない……事実にある意味あきれるような気分にもなるが、真昼にとってはありがたい。
最悪、物理的に制裁を加えるだけだ。
「……折半」
「ん?」
「食費折半で、あなたの家で作るなら、考えます」
周の顔が唖然としたものになる。その顔が面白くて、危うく噴き出すところだった。
相当に予想外の提案だったのだろうし、真昼も、これが彼以外なら絶対に提案しないだろう、という自覚もある。
ただこの時、この会話が後の自分につながる決定的な一歩であったことを、当時の真昼はもちろん知る由もなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時々、真昼はあの時の会話を思い出す。
色気もなにもない彼のあの一言がなければ、きっと今のこの幸せはなかった、というのは確実で。
それと同時に、あの時交わされた会話からは、今の状況はとても信じられないものだった。
当時の自分に、今のことを聞かせたらどう思うだろう、と考えるが――絶対に信じなかっただろうな、と思う。
あの時、あの一言を言ってくれた周には感謝しかないし、打算的とはいえそれを受け入れて実行した当時の自分には、喝采を送りたい。
「……どうした、真昼。なんか嬉しそうだけど」
コーヒーを入れたカップを二つ、リビングテーブルの上に置いた周を、真昼は見上げた。
「何でもないです。きっかけって、本当に些細な事なんだなあって思っていただけで」
「??」
周の頭の上に疑問符が浮かんでいるのが見えるようで、思わず真昼は微笑んだ。
「私が周くんを大好きだってことです」
立ち上がって、彼を抱きしめる。
周もまた、突然のことに戸惑いつつも、それに応えてくれるのだった。
最後はつけたし。ぶっちゃけすでに結婚してるとかでもいいと思います。
実際、あの周のなんてことない一言が、あの二人の始まりだったのは確かだと思います。