「……じゃあ、頼んだぞ。俺は今から母親の相手をするから……」
そういって、部屋の扉が閉じられた。
あとに残るのは、閉じられた扉の前に立ちすくむ真昼だけ。
「……どうしましょう……」
周の田舎から、果物が送られてくる、ということで、それをおすそ分けしてもらうお礼として、普段とは異なり、土曜日の昼から周の家に上がり込んでいたのだ。
荷物は昼過ぎ、ということだったから、昼食を一緒に食べて荷物が来るのを待っていたのが、ついさっき。
ところが来たのは、荷物を運ぶ宅配会社の人ではなく、なんと彼の母親だったらしい。
ちょっとだけ、あの周の母親というのがどんな人だろう、という興味はなくもないが、それでもこの状況で見つかるのはまずいだろう、というのは真昼にもわかる。
なので、この彼の寝室に隠れて、彼が何とか母親を外に連れ出した後に、家を出て鍵をかけて自分の家に戻る、という計画だ。
外ではなにやらやり取りが聞こえるが、このマンションは全体的に防音性が非常に高く、リビングで話しているであろう声はほとんど聞こえない。
悪いとは思いつつ、寝室を見渡す。
最初に周が風邪をひいた時と、あとは大掃除をした時に入ったっきりだ。
最初は足の踏み場に困るほどのだった部屋だが、今はきれいに片付いている。
普段リビングとキッチンしか入らず、そこはちゃんと片付いているから大丈夫だと思っていたが、どうやら部屋も常日頃からちゃんと片付けと掃除をしているだろう、というのは、部屋の状況を見ればわかった。
ちゃんと生活が改善されているようで何よりだ。
耳を澄ますと、まだリビングで話をしているのがわずかに聞こえる。
この状況でこっそり抜け出すのも不可能ではないかもしれないが、もし見つかった場合の面倒さを考えると、そのリスクを冒すわけにはいかないだろう。
なんとか周が母親を外に連れ出すのを待つしかない。
(暇……ですね)
ここに踏み込まれることは……多分ない、というか周が頑張って阻止してくれるだろうし、高校生ともなれば、一般的な親ならば寝室に入るのを拒否されたら入ってこないだろう、という気がするので、あまり心配はしていない。
なので、安心――と考えたところで、小さく欠伸が出た。
今日は陽射しが暖かく、周の寝室は大きな窓があるため、その陽射しが十分に降り注いでいる。
また、このマンションは埋め込み型の空調で、部屋全体の温度を自動的に管理してくれている――つまりとても暖かい。
くわえて、昼食が終わってまだ三十分も経っていない。
この状況では眠気を感じるのも仕方ないだろう。
とはいえ眠るわけにはいかないが――ふと、ベッドの横にあるクッションが目に入った。
男性のベッドに乗るのはさすがに抵抗があるが、クッションくらいは、と思って手に取る。
思ったより手触りがいい。
思わず抱え込む様にクッションを抱きしめると、眠気がさらに増加した。
(あ……このにおい……)
わずかに覚えがある。
あの、怪我をした時におぶってもらった時のにおいだ。
男性のにおいなど、嫌悪感しかない、と思っていたのだが、少なくとも周のにおいがわずかにする、このクッションにその嫌悪感はない。
むしろ、心地いいくらいだ。
(なんか……安心する……)
遠くで、まだ何かやり取りしている声が聞こえる気がするが、真昼はすでにクッションを抱えたまま、訪れる睡魔に抗う力は残っていなかった。
ふらついた足を支えるのをあきらめ、床にそのまま座ってしまう。
足が床に当たった際に、わずかに音がした気がするが、もうそれもどうでもいいと思えた。
そのまま、背にあるベッドに上体を預けると、真昼は睡魔にすべてを委ねていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「すごい……お母様だったな……」
結局あの後、居眠りしてしまった真昼は周の母、志保子に見つかり、ひと悶着あった。
かなり誤解されていたし、その誤解は完全に解けてない気がする。
ただ、本当に周のことを大切に思っているのはよくわかった。
あれが、普通の母親、なのだろう。
まあ、周に言わせると過干渉気味だということだが、真昼にはその基準が分からない。
自分の母親のことを考えると、あまりにも違い過ぎて程度というものが分からないのだ。
それでも、やはり真昼にとっては羨ましく思える。
それに。
「周くん、か……」
もう一度、先ほど呼び合った名を口に出してみる。
気恥ずかしさがないとは言わないが、それでもなぜか、とてもしっくりきた。
うっかり、外で呼ばない様に気を付けないと、とすら思えるほどに。
勘違いは置いておくとしても、周の家族に会えたことは、真昼にとっては嬉しく思えた。
彼のあの分かりにくいように見える優しさは、きっとあの母親からの愛情によっても育まれたものだろう。
こうなると、父親もどんな人だろう、と興味が出るが、さすがにそれを聞くのはためらわれる。
でもきっと、いいお父さんなんだろうな、と思うと、やはり羨ましい。
ただ、その暖かい家族の場に、少しでも入れてもらえただけでも、真昼にとっては嬉しかった。
そして「真昼」と呼んだ彼の声。
親愛を込めて名前で呼ばれたのは、小雪以来。
これからは、少なくとも家ではいつも呼んでくれるつもりらしい、と思うと、それだけでなぜか心が浮き立つのを自覚した。
こんな暖かい気持ちになるのは、いつ以来だろう。
(彼はいつも、私からもらってばかりって言ってますけど、本当は私の方がたくさんもらってますよね……)
彼と過ごす時間は、それだけ心地よいものになっていることを、すでに自覚していた。
そしてそれは、多分これからもっと気持ちよくなっていくのだろう、という予感がある。
それが何に起因するのかは分からない。
ただ、一緒にいる時間が安心できて、心地よい。
春の陽だまりの中で、微睡むような気持ちよさがある。
そこまで考えて、今日、ついうっかり寝てしまった時のことを思い出した。
あの時は、彼のにおいに安心して――。
「わー、違います、違います、断じて違いますっ!!」
誰もいないのに、思わず大声で否定してしまった。
慌てて、誰かに聞こえてないかと心配したが、このマンションの防音性能なら、他の家に聞こえた可能性はない。
しかし、自分でもはっきりわかるほどに顔が紅潮しているのは自覚できる。
顔をぶんぶん、と振って、熱を冷ます。
大きく深呼吸をすると、ようやく落ち着いた――時、ポケットの中でわずかに金属音がした。
「あ、鍵……」
志保子が来た時に、何とか家を抜け出した後、戸締りするために渡された周の家の鍵だ。
返し忘れていた。
今ならば、まだ起きているだろうから、返しに行くこともできる――が。
自分の頬に手を当てると、まだ熱い。
この状態で、彼に名前を呼ばれたら、何か間違えた反応をしそうだ。
「……あ、明日返しましょう。もしかしたら、お風呂に入っているかもしれませんし」
誰に言うでもない言い訳を、一人呟く。
結局、人の家の鍵を持ったままである、ということも真昼の心には引っかかって、返しに行く際にはとても申し訳ない気持ちになるのだが、それは後の話。
1巻の『母親、襲来』で真昼がうっかり寝てしまった下りと、鍵を返し忘れたお話。
この辺りでそれなりに好意を持ってるよね、という感じですよね。