Kは意識強固で、真面目なやつでありました。
彼は私の同郷の幼なじみで、同じ大学で学ぶ“友”であります。
Kは真宗の寺の子でありましたが、次男であったため、医者の家に養子へやられており、養家は、彼を医者にするつもりで東京へと送り出しました。
ですがKは勝手に別の学科へと進み、それを大学に進む前に養家に事実を告白したものですから、離縁され、実家からも勘当されてしまったのです。
しかしそこは勉強家なK。
彼は大学に通いながらも、夜学の教師をして、学費を稼ごうとします。
でもその生活では無理があるというもの、Kは過労から神経衰弱になりました。
こんな状況の彼を哀れに思った私は、同郷の念から、Kを私の下宿先に引き取り、自室の次の間に住まわせると、経済的な負担を和らげてやったのです。
Kは孤独で口下手なやつですので、そんな彼の心をほぐすために、私は奥さんとお嬢さんに、彼に話しかけてやるようお願いをしました。
これは功を奏しましたが、しかし次の問題に、Kとお嬢さんが親しくなるに連れて、私の心はきゅっと締め付けられるように、Kへの嫉妬にいなまされるようになったのです。
そういうわけで、夏休みにKと房州へと旅行した際に、私はお嬢さんへの懸想の念を彼に伝えようとしましたが……結局できず、そのまま年が暮れて春になってしまいました。
そしてついに、“事“が、起きました。
――――Kが、女の子になってしまったのです。
ξ
ある日奥さんが、Kにかるたをやるから誰か友人を連れてこないかと言いました。
するとKはすぐに「友達など……誰もいない」と答えました。
私の頭の中は混乱でいっぱいです。
そのまま、これが夢であれば、ああなるほどと手を叩いて笑ったことでしょう。
しかしこれは現実、現実なのです。
奥さんは次に私に向かって、それじゃ自分の知った者でも呼んできたらと言い直しましたが、もっと他に言う事があると、追求すべき事案があると、私はその時、思いました。
そういうわけで私もあいにく、そんな陽気な遊びをする気にはなれなかったので、いいかげんな生返事をして、その場を凌ぎました。
私の頭の中は、Kがどうして女性になってしまったのかでいっぱいなのです。
また、その事を奥さんもお嬢さんも指摘しないのですから、もっと困惑させるのです。
ところが夕方になって、私たちはとうとうお嬢さんに引っ張り出されました。
内々の少人数で行われる、静かなかるたです。
Kは、その艶やかな黒髪をおとなしく、まるで雛人形のように動じません。
彼……彼女は、私たちの様子を眺めるままです。
「Kは、その。百人一首は知っているのかね」
「よく知らない」
「そ、そうか。は、ははは……」
私はどこかおかしくなってしまったように感じて、ふと笑いました。
一連のやり取りを聞いたお嬢さんは、おおかた私がKを軽蔑するとでもいったように映ったのでしょう。
それから目にたつようにKの加勢をしだし、しまいには……姉妹ではありませんが、二人がほとんど組になって、私の当たるという形になってきました。
私は相手しだいでは一つや二つの文句を言って喧嘩を始めたかもしれません。
しかし、目の前にいるKにどこも得意げな様子を見つけなかった私は、無事にその場を切り上げることができました……。
「Kはその、いつから女の子になつてしまったのか?」
「……どういうことだ?」
……前言撤回。できたのでしょうか?
ξ
それから二、三日たった後のことです。
奥さんとお嬢さんは朝から、市ヶ谷にいる親類のところへ行くと言って外出しました。
Kも私もまだ学校の始まらない頃でしたから、居留守同様、二人きりです。
絶好の機会が到来した……と言いたいところですが、私は自分からK……女性の部屋に向かって声をかけるのも、何かやましい心があるのかと思われるのも嫌だったので、だらだら漠然と火鉢の緑に肘をのせてじっとあごを支えたまま考えていました。
あんなに綺麗な女性を、私は見た事がありませんでした。
それは決して、お嬢さんに勝るというわけではなく、ただ純粋に、そう思うのです。
隣の部屋にいるはずのKもいっこうに音を立てません。
双方ともいるかいないか分からない部屋に、私の心の音だけが響いていた気がします。
もっともこういうことは、二人の間柄、めずらしくありませんから、私は別段、気にしない風を装って心を落ち着けさせました。
十時頃になって、“事”が再び動き出します。
――さっ。
Kは不意に仕切りの襖を開けると、私と顔を見合わせました。
彼女は敷居の上に立ったまま、私の方をじっと見つめます。
「今、君は何を考えている?」
そのふとした質問に、私は「何も考えていない」との言葉を絞り出しました。
その心は嘘偽りに塗れています。
本当に考えているのは、どうしてKが女性になっているのかということばかりです。
お嬢さんとKの関係について、当初はもやもやしていましたが、今となってはその問題は吹き飛ばされてしまい、Kの女体化問題が、私の頭の中をぐるぐると回ります。
「…………」
今までおぼろげながら彼を一種の邪魔者がごとく意識していながら、今は女性としての君を考えているなどとは言えなかったのです。
Kは依然として私の顔を見たまま黙っていました。
すると、彼女の方からつかつかと私の座敷に入ってきて、私のあたっている火鉢の前にすっと流れるように座りました。
私は驚く心を抑えて、すぐ火鉢をKの方へと押しやるように近づけました。
「二人はどこに行ったのだと思う?」
Kはいつになく似合わない話を始めました。
私はおおかた叔母さんのところだろうと答えました。
「そうか、なら都合がいい」
何が都合の良いのだろうか、私が考えていると……。
Kはふと微笑み、私の方を真剣に見て話し始めました。
「先日、君は私に問うた。『いつから女の子になつてしまったのか』と」
「う……うむ」
それはあらん限りの振り絞られた声だったに違いありません。
私は、Kの方からこの異常な事態について語られるとは思ってもいなかったのです。
「君が望むなら、私はそれに答えよう」
私は困惑よりも不思議の感に打たれました。
以前、私の方からKの問題に対して話しかけた時の彼女を思い出すと、今の状況はあの時の答えと矛盾しており、私はどうしても彼女の調子が変わっているところに、気づかずにはいられなかったのです。
「私がこの身体になったのはちょうど春頃、かるたの前あたり。私は男から女の身へとなってしまったのだ。しかし同時に、誰も私のそれを指摘してこない。初めは君もその一人だと思っていた。男である私を皆が忘れてしまったのだとばかり考えていた。二人も何も言ってこない。その上に、むしろ私の身体を労ってくれるようになった。これはこの身に関係することだが……ともかく、私は誰も知らぬ間に女の子となってしまったのだ」
困惑しました。
納得しました。
困惑しました。
私はとうとうなぜ今日に限ってこのことを言い出したのかを尋ねました。
「君が、君だけが私の変化に気づいてくれたからだ」
その時、彼女は突然黙りました。
しかし私はKの口元の肉が震えるように動いているのを注視しました。
Kは元来無口な男で、こんなにも饒舌に語る性質ではありませんでした。
昔から何かを言おうとするときは、口をもぐもぐさせてから話す癖がありました。
ですが、今の唇の震えはそうではないように見えます。
それはまるで生まれたばかりの子鹿が初めての外の世界に震えているようで……。
――その小さくなってしまったKの様子に、私はつい見惚れてしまいました。
しかし、女性へと生まれ変わり、前の男だったときとは比べて饒舌になった、Kの口がなかなか開かないとは、相当な意志が彼女自身に反抗しているのでしょう。
彼女の言葉には重みが籠っていて、いったん口から声が破って出るとなると、人の倍以上の力がありました。
もぐもぐと口を動かし、何とか言葉を紡ごうとしている女性の姿。
彼女の口もとをちょっと眺めた時、私はまた何か出てくるなとすぐ勘付いたのですが、それがまさかのことであったのですから、驚いたのです。
「どうやら、私は君のことを“好き”になってしまったようだ」
皆さん。
彼女の、私に対する切ない恋を打ち明けられた時の、私自身の姿を想像してください。
まるで魔法の瞳を眺めてしまったため、一度に石化されたようなものです。
その時の私は恐ろしさの塊というか、嬉しさの塊というか、または苦しみの塊といいましょうか、何しろ一つの大きな感情の塊でした。
呼吸が止まるような気持ちに襲われ、感情は喜びへと傾き、しかし理性は均衡力を働かせようとしてくるのです。
元が男であったKから、彼女となったKの恋慕に、私はとうとうついていけません。
Kはその間、いつものとおり重い口を開いては、ぽつりぽつりと自分の心を打ち明けていきます。
「私に声をかけてきたのも、助けてくれたのも、認めてくれたのも……全部。君一人だ」
――そしてふと、真剣な美しい表情で私にこう問うてくるのです。
「君はどう思う? 私の、この想いを」
ξ
「……どうした?」
Kの告白が響いた室内は、まるで時間が止まったように静寂に包まれていました。
私の胸の中は、今まさに嵐のように揺れていました。
Kが、あのKが、私を「好き」だと言ったのです。
しかも、今は女性として、まるで別の存在のようになってしまったKが。
そんな言葉を口にするなんて、想像すらしていなかったのです。
私の目の前にいるKは、かつての無口で、冷静で、理知的な彼とは違うことを、この時間は私に深くはっきりと刻みつけてきました。
「……君は、今、何を考えている?」
Kは再び私に問いました。
彼女の声は震えていて、しかし、その瞳は真剣そのものです。
「……何を考えているか?」 私はその言葉を絞り出すので精一杯でした。
本当のところ、頭の中は混乱でいっぱいなのです。
どう答えればいいのか、今まで色恋沙汰に全く関係のなかった私にとっては、この状況は急展開であり、全く何をなんと言えばよかったのか分からなかったのです。
Kが私を好きだと言ったその意味を、どう受け取るべきかもわかりません。
ですが、その一方で、私の心の中には、奇妙な感情が沸き起こっていました。
それは……歓喜とも、罪悪感とも呼べる感情でした。
「K、君が……その、私を好きだということは……」
私が言葉を続けようとすると、Kが私の方をじっと見つめたまま、口を開きます。
「そうだ、私は君を“好き”になってしまったのだ。それはきっと、女になってからの話ではない。私は男であった頃から、ずっと君に惹かれていたのだと思う」
その言葉に、私はさらに困惑しました。
Kが私に対して特別な感情を抱いていたことなど、今まで気づきもしませんでした。
幼馴染であり、同じ大学で学ぶ仲間、そして友だと、私はそう思っていました。
ですが、Kにとっての私とは、それ以上の存在だったというのです。
「でも、君はお嬢さんが好きだ」
Kは言葉を続けます。
彼女の瞳には、微かに涙が浮かんでいるように見えました。
これこそが、私の中の心にある罪悪感の原因でした。
私は、お嬢さんを好きでありながらも、女性となってしまったKに、私自身も心惹かれてしまうという、二重の状態を抱えていたのです。
私は何も言えないでいました。
確かに、お嬢さんに対して好意を抱いていたのは事実です。
ですが、今目の前にいるKの存在が、私の心の中でそれを覆そうとしているのです。
この女性としてのKが、私にとって何を意味するか、まだはっきりとは分かりません。
しかし、彼女が私に抱いている想いの重さには、今まさにひしひしと感じられます。
「君にこのことを打ち明けるべきかどうか、ずっと迷っていた」
「でも、君だけは、世界が変わっても私の変化に気づいてくれた」
「だから……君にだけは、私の本当の気持ちを知ってほしかった」
Kの言葉は静かでしたが、その背後には強い感情が込められているのが分りました。
私はそれに対してどう応えるべきかを考えますが、なかなか言葉が出てきません。
ただ、目の前のKをじっと見つめることしかできませんでした。
「……K。君が私に対してそう思っていたとは、全く知らなかった。だが私はただ、君のことを友人としてしか見ていない……。いいやでも、そう思い込んでいるのは私自身なのかもしれない……。しかし、今は……っ⁉︎」
――Kが、私の手をそっと握り締める。
私が言葉を探している間に、彼女はさっと立ち上がり、私の前に近づいていたのです。
その手は、暖かくて、少し震えています。
「お願いだ、君の気持ちを聞かせてほしい」
「私は……君を困らせるつもりはない。ただ、君がどう思っているのかを知りたいのだ」
私は深く息を吸い込みました。
今、Kに何かを言わなければならないのです。
しかし、その言葉が私の中にまとまりません。
お嬢さんへの恋慕と、今ここにいるKへの新たな感情がぶつかり合っています。
「K、私は……」
言葉を紡ぎ出そう、その瞬間。
不意に襖の向こうから足音が聞こえてきました。
慌てて振り返ると、奥さんとお嬢さんが戻ってきたことに気がつきます。
「ただいま帰りましたよ」
奥さんの声が聞こえ、私たちは急いで手を離しました。
Kは再び無言になり、いつものような静かな表情に戻っています。
ご飯の準備をしますね、とお嬢さんが言いましたが、私はそれどころではありません。
心の中に生じた感情の嵐が、私の思考を混乱させ続けているのです。
――その嵐は、まだしばらく私の心から離れることはなかったのでした。
ξ
奥さんとお嬢さんの二人は、遅くなると私たちにすまないということで、飯の支度に間に合うように、早く帰ってきたのだそうです。
しかし私たちにとって、その親切は無効もいいところでした。
私たちは食卓に座りながら、そっけのない返答ばかりしていました。
Kは私よりも静かに佇んでいます。
奥さんたちは親子連れで外出した女二人の気分が、またいつもより晴れ晴れとしていましたので、私たちの態度はなおのこと目につきます。
奥さんは私にどうかしたのか聞いてきましたので、心持ちが悪いとだけ答えます。
実際、先の件で私の気分は色々と悪かったのです。
自身の情けなさに、むしょうに嫌な気持ちになってきます。
すると今度はお嬢さんがKにどうしたのかを聞きます。
しかしKは沈黙で応えるばかりであり、お嬢さんは困ったようです。
奥さんが何かあったのかと問うても、これまた静かです。
私は意を決して重いまぶたを上げてKを見ると、彼女の唇が震えていました。
それを見た私は、Kがなんと答えるだろうかと、謎の不安ながらも好奇心にかられたのです。
しかし結局Kは答えることはありませんでした。
また何か難しいことでも考えているのだろうと、お嬢さんがそう言いました。
Kの顔は、心なしか暗くなりました。
私はその表情を見て、胸の奥にひやりとしたものを感じました。
Kが何を考えているのか、私には到底理解できませんでしたが、あの静かな佇まいの背後に、激しい感情が渦巻いていることだけは感じ取れました。
「Kさん、大丈夫ですか?」
お嬢さんが優しく声をかけましたが、Kはほんの少しだけ顔を上げ、軽くうなずいただけで何も言いませんでした。
お嬢さんは困ったように私の方を見つめます。
私はその視線を受け止めながらも、言葉が出てきません。
食事の時間がただ静かに過ぎていく中で、私の心は次第に重くなっていきました。
Kの告白を受けてから、私自身の心も揺れていることは確かです。
つまりお嬢さんへの気持ちと、Kへの新たな感情、その狭間で、私は身動きが取れなくなっていたのです。
その晩、布団に入っても、私は眠ることができませんでした。
Kがあの時、私の手を握りしめた感覚が、まだ残っているような気がして、胸がざわつきます。
あの手の温かさが、どうしても忘れられないのです。
「どうすればいいのか……」
一人呟く声は、虚しく部屋の中に消えていきました。
明日から、どうKと向き合えばよいのかわかりません。
まどろみの中、私は「おやすみ」というような声が聞こえた気がしたのです。
――そして、翌朝。
私は重い気持ちを抱えたまま起き出し、下宿の居間に向かいました。いつもなら先にKがいるはずですが、今日に限って彼女の姿はありません。
胸騒ぎがして、Kの部屋へと向かいました。襖をそっと開けると、中はもぬけの殻です。
私はこの時、冷静さを欠いていました。
私の部屋の隣がKの部屋なのだから、居間に向かった時点で彼がいないのは確かだったのに、です。
慌てて家中を探しましたが、Kの姿はどこにも見当たりません。
奥さんやお嬢さんに聞いても、誰もKがどこに行ったのか知りませんでした。
胸がざわつくのを抑えられず、私は外に飛び出しました。
「K! K!」
どこへ行ったのか――Kの行き先を考える間もなく、私はただ町中を走り回りました。
彼女がこのまま姿を消してしまうのではという恐れが、私を突き動かしていました。
しかし、どれだけ探しても、Kは見つかりませんでした。
それからしばらくして、ようやく帰宅した私は、すっかり疲れ果てていました。
Kはどこに行ったのか、彼女の告白が原因で、私が何か彼女を追い詰めてしまったのだろうか――そんな考えが、頭から離れませんでした。
その夜、再びKの部屋の前に立った私は、扉をゆっくり開けてみました。
すると、そこには――戻ってきたKが、静かに座っていました。
「K……君は、一体どこに……」
言葉が詰まりました。
Kは私の方を見ず、ただ小さく呟きました。
「……すまない、君に迷惑をかけた」
その声はどこか遠く、かすかに震えていました。
私はKに近づき、彼女の隣に腰を下ろしました。
そして私は思いのままKに自身の気持ちを伝えます。
「君が消えてしまうのではないかと、心配したんだ」
ですがKは私の言葉を聞いても、表情を変えることはありませんでした。
ただ静かに、そして小さくこう言ったのです。
「私も、君のそばにいられなくなるかもしれないと、思ったのだ」
そのただ一言が、私の胸の奥に深く刺さりました。
ξ
その一言は、私にとって思いがけないほど重く響きました。
Kがこれまでに見せたことのない、深い感情の表れだったからです。
私はKに対して、どう答えればいいのか分からず、しかし何かを言わなければならないという焦燥感に駆られました。
Kの隣に座ったまま、私は深い息をついて、覚悟を決めました。
「君がいなくなるなんて……」
――そんなこと、考えたくない。
口から出た言葉は自分でも驚くほど自然でした。
今までどれだけKの存在が私にとって重要だったか、そんなことに気づいていなかった自分を愚かだと思いました。
「君がいてくれることが、どれだけ大事か、今まで気づいていなかったのかもしれない。でも、今は分かる。君がいなくなったら、私は……私はどうしていいか分からない」
Kは私の言葉を聞き、静かに目を閉じました。
彼女の姿は、まるで長い旅路の果てにたどり着いた人のように、疲れ果てたように見えました。
そして、彼女の口から、ぽつりと声が漏れました。
「私は、もう君と一緒にはいられないかもしれない」
Kのその言葉は、まるで別れを告げるかのように冷たく感じられました。
「どうして? なぜそんなことを言うんだ?」
私は混乱しながらKの顔を見つめましたが、彼女は目を逸らし視線を私に合わせません。
「君に迷惑をかけたくないのだ。それに……私が私のままでいいのか、自分でもよく分からない」
Kの声はかすかに震え、その言葉の裏には、彼女自身が抱える深い葛藤が隠れていることが分かりました。
「そんなこと、考えなくていい。君のままでいい」
私はKの手を取ろうとしましたが、彼女はそっとその手を避けました。
彼女が変わってしまったことが、彼女自身にとってどれだけ大きな負担となっているかが、痛いほど伝わってきました。
「K、君は変わったかもしれないが、それでも君は君だ。私は、君がどうであろうと、昔から君のことを大事に思っているんだ」
その言葉にKはようやく私の方を向き、涙を浮かべながら微笑みました。
しかしその笑顔は、どこか悲しげで、私の心を締めつけます。
「君は本当に、優しいな」
Kは私の言葉を聞いて、しばらくの間、何も言わずにじっと私を見つめていました。
そして、彼女の瞳から涙が一筋こぼれ落ち、彼女は静かに笑いました。
「でも、私にはそれが、かえって辛いのだ。君がそう言ってくれることで、私はますます君から離れられなくなる。でも、それが私にとっての道なのか、私には分からない。――だって君は、お嬢さんが好きだろう?」
Kの言葉は鋭く私の心に刺さりました。
お嬢さんへの想いは確かにあったはずです。
しかし、Kと向き合っている今。
私は心の中で何かが変わりつつあることを感じていました。
――――男として、引けない線があると、そう信じて。
「K……君の言うとおり、私はお嬢さんを好きだった」
Kは悲しげな顔を浮かべそうになりましたが、必死にそれを堪えているようでした。
「けれども、今、君を見ていると、それがすべてではないことに気づいたんだ」
Kは私の言葉に驚いた表情を浮かべました。
しかしすぐにそれを抑え、じっと私を見つめています。
「私が本当に大事に思っているのは、君だ。昔から、君が私にとって特別な存在だったことに、今になって気づいたんだ」
Kの瞳に再び涙が浮かびました。
その涙は、感謝の気持ちか、それとも困惑の表れか、私には分かりません。
ですが、Kは静かに首を横に振ったのです。
「私はもう、君のそばにはいられない。君の優しさが、私には辛いのだ。君が何を言おうとも、私は自分の存在に悩み続けるだろう。そして、君といることで、私はますますその悩みから逃れられなくなる」
Kの言葉は私を動揺させ、また彼女の苦しみがどれほど深いものかを感じさせました。
彼女は私のことを思いながらも、自分自身との葛藤に悩み続けていたのです。
しかし私は諦めません。
ここで引いてしまったら、彼女のことで一生の後悔をすると確信していたからです。
「でも、私は君にいてほしいんだ。君がどう感じようとも、私にとっては君が必要だ」
Kはその言葉に反応せず、ただ静かに座っていました。
私の言葉が彼女にどれほど届いているのかは分かりませんが、少なくとも彼女が何かを感じているのは明らかだったのです。
「私たちは、昔から一緒にいた。君が変わってしまっても、私にとっては変わらない。君がどんな姿であろうと、私は君を大切に思っている」
Kはゆっくりと顔を上げ、私の目を見つめました。
その瞳には、苦しみと感謝の入り混じった感情が浮かんでいました。
そして、彼女は震える声でこう言ったのです。
「……ありがとう。でも、私はもう少し時間が欲しい。君の気持ちは嬉しいが、私自身がどうすればいいのか、まだ答えが出せないのだ」
Kの言葉に、私は頷くしかありませんでした。
彼女が今、どんなに苦しんでいるかを考えると、無理に求めることはできません。
Kが自分自身と向き合う時間を与えるべきだと感じました。
「分かった。君が決断を下すまで、私は待っている」
Kは小さく頷きました。
そして、静かに立ち上がり、自分の部屋へと戻っていったのです。
――それから数日間、Kとの会話は途絶えがちになってしまいました。
彼女はますます自分の殻に閉じこもり、私との距離を感じるようになったのです。
しかし、私はその沈黙が、Kが自分自身と向き合っている証拠だと信じていました。
彼女が自分の答えを見つけるまで、私は必ずやKのそばにいようと決めたのです。
お嬢さんへの恋心? そんなものはとうの昔に過ぎ去りました。
今の私は、Kを幸せにすることを心に決めたのです。
彼女が答えを見つけるまで、私は何があっても彼女のそばにいるつもりでした。
そしていつか、彼女が私を選んでくれることを信じて――。
ξ
私はKが部屋に戻る姿を見送りながら、心の中で新たな決意を固めました。
お嬢さんへの恋心がどうであろうと、Kが今や私にとって最も大切な存在であることは、もう揺るぎない事実です。
Kは自分の殻に閉じこもってしまいましたが、それは彼女が自分自身と向き合うための大切な時間だと、私は信じていました。
そして、彼女が再び心を開き、私と向き合ってくれる日が来るのを待つつもりです。
お嬢さんへの気持ちは消え去り、Kが今や私の全てとなりつつあります。
彼女がどんな答えを出すとしても、私はKを支え続けよう。
Kが本当の自分を見つけるまで、私はずっと彼女のそばにいると心に決めました。
それは、自己犠牲的な愛ではなく、もっと純粋で自然な感情。
――――好きだから。
―END―
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・
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『私はその人を常にお父さんと呼んでいた。
だから此処でもただお父さんと書くだけで本名は打ち明けない。
これは世間をはばかる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである』