……解釈違いが怖いです。
適当に偽造した身分証明書で借りた古い、安い、うるさく詮索してこないの三拍子揃った仮住まいのアパートを出て、どこか暗い曇り空の下を歩くこと15分。まだ馬車が往来を走っていたころに整備され、ゴム製タイヤのガソリン自動車が主流であるこの時代の今という期間でもなお再開発の手から逃れ生きている石畳が敷き詰められた道をのんびり歩いていると、ようやく目当ての場所に出た。この一帯では比較的大通りといえる、多少なりとも人の往来がある三叉路沿いの小さなオープンカフェ。だがいくつか並んだ小綺麗な丸いテーブルと椅子には客はおらず、この街全体を薄く広く包むどこかのどかな……あるいは気怠い空気が、こんなところにも表れているようだった。
長身で目つきの悪いその男は禁煙を示すピクトグラム付きの張り紙を視界に収めてため息をひとつつき、自らの青みがかってくすんだ銀髪をがしがしと掻くと、銀の鎖に繋がれた懐中時計を引っ張り出して親指で蓋を跳ね上げた。どこか近寄りがたい鋭い眼光で無情な針の流れに目をやると、朝食の時間はとうに過ぎているものの昼食時にはわずかに早い。客もいない隙間の時間を指定してきたのは先方の嫌がらせか、はたまた気遣いのつもりだろうか。
どちらにせよ、選択肢はなかった。
「今、いいか?」
また懐中時計をしまい込むと店の奥に声をかけ、人が動く気配を察知して手近な席に腰を下ろす。標準サイズのそれは長身で足も長い男にとってはやや持て余す代物だったが、彼にとってはよくあることで慣れているので気にしない。足を組んでまばらな人の流れに目をやっていると、メニューと冷水入りのコップを手にしたウェイターが隣までやってきた。
「注文お決まりでしたら、声をかけてくださればぁ」
「あー……いや。ここは初めてなんだが、何か自慢の物はあるか?」
恰幅もいいが愛想もいい、人畜無害なおかみさんを絵に描いたようなその中年女性をちらりと見て、メニュー表を受け取りながら男が問いかける。あまり人を寄せ付けない雰囲気の客が自分から話しかけてきたことにやや驚いた様子を見せながらも、すぐに彼女もにっこりと微笑んで自信の見え隠れする表情で返す。
「そうですねえ。うちは何でもおいしいですけど、お客さん早めのお昼ですかぁ?しっかり食べたいのでしたら、サーモンのいいやつを仕入れたんですよぉ。カルパッチョのサンドイッチなんてどうですぅ?」
「じゃあ、それ頼むわ。それとコーヒー、砂糖もミルクも抜きのブラックで」
「かしこまりましたぁ。お客さん、期待しててくださいねぇ。主人の料理はこの国一番なんですよぉ」
訛りなのかそういう癖なのか、妙に間延びした声でそう言い残して注文のメモを手に店の奥へ戻っていくウェイター。あの口ぶりからして、ここの店主の妻だろうか?それにしても国一番とは、大きく出たんだか微妙にスケールが小さいんだか。相変わらず往来の様子には目を光らせながら、そんな埒もないことを考え水入りのコップを口元で傾ける。気温はさほど高くもないがなんとなくスカッとしない空模様の下でほぼ無風の中を歩いてきた体に、氷入りのさっぱりと冷えた水分は有難かった。舌に残る仄かだが確かな清涼感は、あらかじめミントの葉でも入れてあったのだろうか。
もう一度その冷水を口に含んでわずかに喉が動きそれを飲み干すと、男はふと気まぐれでも起こしたかのようにコップの中に指を突っ込んだ。完全に水面の上に出ていた氷の塊をひとつ摘み上げ、椅子の背もたれに体重を預けリラックスした姿勢のまま、まるでその中に何か入っているかのように目つきの悪い目で覗き込み……おもむろに、摘んでいた二本の指でその氷を弾き飛ばした。自分の背後、真後ろに向けて。
「その辺にしとけよ、鬱陶しい」
「っ!?」
まさか自分の存在に気付かれているとは思ってもみなかったのか、背後からは明らかに動揺した気配と懸命に押し殺した声。先ほどから意図的に視線を向けないでおいてやれば、周りをうろうろちょろちょろと。尾行の練度も甘いが、アドリブも落第点―――――今の状況なら、開き直って何も知らない、たまたまそこに居合わせた一般人になりきる方がまだ目がある。無理に平静を装うのは、自分に後ろ暗い所があり堅気じゃないと自白しているようなものだ。それでも反射神経だけは及第点程度に身についているのか、辛うじて躱されたらしい氷が推力を失い地面に落ちるわずかな軽い硬質音。それを合図にしたかのように、男がずっと自分についてきていた乱入者の顔でも見てやろうと振り返ろうとする。
だがそれより先にその首に、ひやりとした硬質の感触が付きつけられた。奥の方に確かな重みを感じる、円筒状の金属柱……商売柄馴染みのある、人を殺すための武器の感触。
「……白昼堂々往来でいきなり早抜き、たぁ随分派手な開き直り方だな。ちょっとだけ気に入ったぜ」
指一本、数センチ。たったそれだけの動作で、容易く人が死ぬ位置と距離。だが男は生殺与奪の権を握られながらもなお気楽に、むしろある種の上機嫌さすらも漂わせて相手を刺激しないよう、ゆっくりと両腕を上に上げていく。5本の指を全て伸ばし、手の平は肩より上に。姿だけ見れば典型的な
「……!」
そんなちぐはぐな言動からこの局面に至ってもまるで自分が相手にされていないことを察したのか、思い通りに事が進まない苛立ちや男の舐めた態度への怒気といったわずかな心の乱れが付きつけられた銃口の微妙なブレとなってダイレクトに伝わる。
早抜きの手慣れ具合や銃を突きつける位置、ここに至るまでなお言葉だけは一言も発さずこちらに情報を与えない……総じて筋自体は悪くないが、いかんせん場数が足りてねえな?どこで鍛えたかは知らねえが、おそらく訓練じゃ同期で一番だったクチだろう。スペックは高いのだから、なんだかんだで伸びるタイプだ。もっともそれも生き延びて経験さえ積むことができれば、の話だが。
ますます笑みを深め、さらに駄目押しの言葉を口に出す。
「それ、引いてみるか?俺は別に構わないが」
「舐めるな……っ!?」
そして挑発にも乗りやすく、引き金も軽い、と。というよりも、まだ実際に人を撃ったことがないのだろう。命の重みを知ったうえでなお引き金の軽い
そしてようやく聞こえたその声も、予想通りにまだまだ若い。しかしここでひとつだけ、男にとって予想外のことがあった。
「……女だったか」
「く、なんだ、指が、動か……!」
男は別に男女差別主義者ではないし前時代的な固定観念の持ち合わせもなかったが、時代背景を考えれば少々意外ではあった。この時代はまだ女性の社会的地位は低く、まして舐められたら終いの裏稼業に若い女が出張ることなどそうはなかったはずだが。
銃を突き付けられた男が単純な興味から呟く一方で、背後の女は焦っていた。ある稼業において文字通りに時代を股に掛けて有名である目の前の男、とある分野における生きる伝説。そんな男への渡りをどうにか付けることに成功した女は、男の見立て通りまだ素人上がりもいい所である。いくら文武ともに優秀な成績を収め続けていても実戦経験はなく、それだけであからさまに軽んじられ見下される感覚を肌で感じ続け、女は焦りと苛立ちを感じていた。
最初は、ほんの興味だった。自分の習い覚えた尾行の腕は、この男にも通用するのだろうか、と。実際、それはうまくいっていたはずだった。ずっと尾行されているとも知らず能天気に街をぶらつき、指定のカフェで寛ぐ男を見た時には、こんなものかと幻滅する気持ちもあった。
だから最後の仕上げとして後ろを取って声をかけてみせ、自分の方が上であることを明確にしてから圧倒的に有利な交渉の席に着く。本当に弾丸を撃つつもりはなかった……何もかもが急に上手くいかなくなった焦りと、あからさまな挑発で頭に血が上るまでは。しかし、どうだ。まるで最初から自分の存在が分かっていたかのように不意打ちを受けたのはこちらの方で、思わず引いてしまうはずだった引き金にかけた指はまるでその一本だけが
「お待たせしましたぁ、サーモンカルパッチョのサンドイッチにコーヒーですぅ……あら、お連れ様ですかぁ?」
「んー?ああ、そんなところだな。追加で悪いがこっちの彼女にも同じもん、頼めるか?」
「はぁい、かしこまりましたぁ」
分厚く重そうな黒パンに挟まれたたっぷりのサンドイッチの乗った皿と湯気の立つコーヒー、そして伝票をテーブルに乗せた先ほどのウェイターが、急な追加注文にも気を悪くした風なく鼻歌でも歌いそうな調子で店の奥へと再び引っ込んでいく。ほんのわずかにそれに気を取られた隙に、口では気安く注文を頼みながらまるでその腕だけが別の生き物であるかのように有無を言わさぬ早業で、至近距離にいたウェイターにすら気取られることなく奪い取られた彼女の銃はすでに男の懐へと放り込まれていた。
「悪いが、物騒な玩具はいったん片付けの時間だ。仕事の話の前に、まずはお互い自己紹介といこうぜ」
人相の悪い顔の端でにやりと笑みを浮かべた男が、サンドイッチに手をかける。
「アンタの方は知ってるだろうが、一応初見さん相手だからな。俺はリューズ……
「う……」
この時点で、女はすでに気圧されていた。完膚なきまでに見せつけられた、この差は埋まらないと嫌でも理解できるほどの実力差。いともたやすく奪われた、暴力の象徴であり心の拠り所でもある銃。この堂々とした態度ひとつをとってしても、年季の差がひしひしと伝わってくる。この男……リューズは、自分のことなどこの場で瞬きするほどの時間もかけずに始末できるだろう。ただ、それをしていないだけだ。
抵抗しようという気力も根こそぎ奪い取られ、ふらふらと歩いてリューズの向かいの席に力なく座る。ようやく見えた『お連れ様』の人相を、リューズは素早く頭に叩き込んだ。ウェーブがかった金髪に、コバルトブルーの瞳。白のブラウスにすらりと伸びた足のラインがくっきりと出るジーンズというラフな格好はその幼めの顔立ちに若々しい肌も相まって、まだ未成年だと言っても十分に通用するだろう。肩から下げた鞄がわずかに開いているのは、そこから先ほどの銃を取り出したからか。奪い取る際にちらりと視界の端に収めたその形は、やはり使い込まれてもいないこの時代の最新モデルだった。
「……」
「……」
いまだ放心したままでなかなか口を開こうとしない女に少し今のは劇薬過ぎたかと後悔が胸をよぎり、かといって舐めた真似されたまま仕事するわけにはいかねえよなとすぐに思い直す。生物学上は同じく女であるうちの研究者なら、こういう時にはなんと言うだろうか。放って置けと一蹴しそうな気もするし、やりすぎだとこちらを非難するような気もする。なにせジェットコースターも身長で弾かれて乗れないほどの幼女から押しも押されぬ世界的権威に至るまでを飛び飛びで見てきた仲だ、例え同じ話題を振ったとしてもその時の相手の年代によって言うことはまるで違ってくる。あのサバサバした研究バカですらそうなのだから、女心とはつくづくややこしい。
仕方はなしに喋る気になるまでもう少し時間を潰そうと、手にしたままのサンドイッチに視線を落とす。思いのほか中身が詰まって重量のあるそれにかぶりつくと、みっちりとしたパンの食感の次にシンプルだが爽やかなドレッシングの風味が口内に広がった。シャキシャキとした野菜は玉ネギ、レタス、ミニトマト、それに薄く切ったレモンの欠片だろうか。
しばらく無言で口を動かしていると、目の前の女にもようやく気力が戻ってきたらしい。勝ち気な瞳に再びの光が宿り、何か喋ろうと口を開き。
「お待たせしましたぁ、こちらご注文のサンドイッチとコーヒーですよぉ」
「へっ?……あ、ありがとうございます……」
折よくのしのしとやってきたウェイターに出鼻を挫かれ、その場でがっくりと肩を落とす。それでもほぼ反射的に礼の言葉が出るあたり、育ちはいいのだろう。リューズの人生経験からいって、礼儀作法がきちんと仕込まれた人間の実家はおおむね太い。無論清貧を地でいくような家庭もあれば、その逆で金にだけは好かれるくせに品性には欠けた輩も世の中には数多い。だが、少なくともおおよその指標にはなる。依頼の内容がどんなものにせよ、ある程度は吹っ掛けても大丈夫そうだと腹の中で素早く皮算用を執り行いながら、またサンドイッチに噛り付く。
ようやく話が始まった時には、すでにリューズの側のサンドイッチは、最後の一口を残しその大部分が彼の胃の中に消えていた。
「私は、マイ。マイ・グリーンフィールド」
たっぷりと時間を置いたことは、どうやら正解だったらしい。散々に出鼻を挫かれ続けたことでもう色々と吹っ切れたのか、自棄になったらしく涙目でかぶりついたサンドイッチがお気に召して少し元気が出てきたのか。いずれにせよその全体的に小動物めいた動きは比較的幼い見た目とマッチして、普段からさぞ男の目を惹いていることだろう。名前の響きからして、血縁のどこかに日系人の血でも混じっているのだろうか?これが偽名でなければ、の話だが。
そんな分析をされているとは露知らず、最初よりも随分さっぱりとした顔でサングラスの奥のリューズの目を真っ向から見つめて名乗りを上げた。
「それで?そのマイの嬢ちゃんは、一体俺らにどうしてほしいんだ?」
最後の一口を口の中に押し込み、受け止めた視線は一切逸らさずにその先を促す。小さく頷いたマイはさっと周囲を見渡しウェイターも含め可聴範囲に誰もいないことを確認すると(最もそれはリューズの側でもずっと行っていたのだが)、それでも声を潜めて口を開いた。
「単刀直入に言うわ。この街外れにある『スノーダスト・スワロー宅急便』の社長の家から、おもちゃのラジコン戦車を盗んでほしいの」
「……はぁ!?」
食後のコーヒーを吹き出しそうになり、辛うじて持ちこたえる。百戦錬磨のリューズといえど聞いたことのないあまりに不釣り合いな単語の組み合わせに、この日初めての困惑の声が出て。それでもなおクスリとも笑わず真剣そのものな、どこか切羽詰まったものすらも感じるマイの顔を見て、ようやく彼女が大真面目なことを読み取った。少なくともつい最近まで一般人だったであろう少女が裏社会から
それと同時に、ある予感が彼の胸をよぎる。これはどうやら、一筋縄ではいかない依頼になりそうだ、と。